Anisの家族と3ヶ月生活して見えてくること。

お正月を日本で過ごした後、フィールドワークのために私はセピロクに戻った。そして、アバデーンに戻る4月の中旬までAnisの家族と3ヶ月すごしたのである。Anisは、フィールドアシスタントの1人で、かつ一番の理解者であった。というのは、私のマレー語の理解が浅かった頃、側に立って一番根気良く教えてくれたのが彼だったのである。

日本に帰る前にも時々Anisの家で夕飯をご馳走になっていたのだが、完全に一緒に生活するようになったのは正月明けであった。3ヶ月という短い期間ではあるが、この時期に私はセピロクの人々がどう生活しているのかを肌で感じることができた。



鶏の声と子供の声と。
太陽が昇ると気温が一気に35度を越してしまうセピロクでは、早朝の、明るいがまだ気温はそれほどでもないという時間帯がとても重要である。街に用事のある人たち、2部制の朝の部の学校に出かける子供達は、6時半のバスに乗るべく支度を始め、その合間で鶏がせわしなく朝の到来を鳴いている。いや、さもすると、おかずにされるのを逃れるために逃げ回っている鳴き声かも知れない。立て付けの悪い窓ガラスからは、それらの声と朝の光が部屋に差し込み、私の目を覚ますのであった。



セピロク、早朝。

朝8時、私とAnisが家を出発すると、近所のJencyも森に行く格好をして歩いている。’Masuk hutan?' 'Yeah, untuk cari sayur.'とJency。野菜探しのために森に行くそうだ。彼は、背にリュックサック、そして手にはParang(大型の鉈)を持っていた。実は、セピロクの人達にとって野菜を取るために森に入ることはごく普通であって、主にキャッサバの葉、芋、たけのこ、わらびなどをとってくる。またそれ以外にもキノコや、イグアナ、野豚、川魚を取ることも良くある。動物を捕らえるためには、それなりの狩の技を身につけている必要があり、そのさばきかたも知っている。森の恵みとその享受法を良く知っている彼らである。
もちろん狩猟を趣味として森に入る人も多いが、森からの野菜や動物の肉なしでは家計が成り立たないというのも事実であった。セピロクには、Forest Research Center(以下FRC)とその職員の社員住宅があり、約300世帯が住んでいる。Anisの両親もFRCで働いており、その給料は二人合わせて一月1000RM(3万円)前後である。しかし、色んなローン、個人的な借金があり、それらがカットされると200RMほどになってしまう。Anisの家には私を含めて11人が住んでおり、毎月中旬にはこの200RMは跡形もなく消えてしまう。そのため、月末にはキャッサバの炒め物と川魚の割合がどんどん増えるのだった。しかし、これらの方がイギリスで’名物’として売られているフィッシュアンドチップスよりもおいしいのだ。



キャッサバの葉っぱを料理用に準備するJulia。

オランウータンの保護
セピロクのオランウータンリハビリテーションセンターは、世界的に有名で年間6万人が訪れる。6万人の入場料からオランウータンセンターの活動費が捻出される。オランウータンを一年間面倒見るのにかかる費用は、1頭5000RM(約15万)。これは基本費用であって、病気にかかったりするとさらに2000、3000RMかかるという。オランウータンは、10−15年前からマレーシアで大規模に始まったオイルパームプランテーションのために、住み場所を失い、多くが路上で事故にあったり、親を失ったオランウータンが続出するようになった。そうして保護されたオランウータンが、セピロクリハビリテーションセンターに送られてくる。ここでは、リハビリテーション活動(主に、親を失った子オランウータンに森で生活できる能力を再度芽生えさせる)を中心に、研究活動や啓蒙活動も盛んに行っている。
しかし、セピロクの人々の中でオランウータンセンターを見学した人は非常に少ない。また啓蒙活動のVTRもマレー語ではなく英語版である。さらに、オランウータンが年間1頭5000RM必要なのに対し、セピロクのオラン(マレー語で人)は年間1人1000RMでぎりぎりの生活をしている。そして、多くのオランウータンセンター訪問者は、セピロクのオランが年間1000RMで生活していることを知らず、多くのセピロクの人は、オランウータンが年間5000RMをかけてリハビリに励んでいることを知らない。私はこの話をAnisとしたときに、’オランウータンじゃなくて、オランの面倒もみてほしいね。’といって笑いあった。

水道代、電気代。
Anisの家に暮らし始めて2ヶ月。彼のうちでは、電気と水道をお金を払うことなく使用していることを、私は知った。’なんで払ってないの?’とAnisに聞くと、セピロクの半数の世帯がそうしているとのこと。また、一回供給を切られてしまうと再接続するのはとても高く(2000−3000RM)、まかなえるものではないらしい。しかし盗む方法は予想以上に簡単で、地面から出ている水道管にホースを接続する、切られた電気ワイヤーを接続するだけでできてしまう。そして、近所の公共料金を払っている世帯は、そのことに対して文句を言わないのかと聞くと、20年来の付き合いだから、困ったときはお互い様でそのようなことは少ない、とAnis。セピロクにおける半数の世帯がそうしている、といわれると、それが普通で特別に問題のあることとも思えない。私は、今はすでにAnisの家の一員として過ごしている身として、内部事情を知ったのだった。



水は、ホースを水道管につなげば簡単に盗れるのだった。

失業手当。
’ヨーロッパの方の国では、仕事がないと政府からお金がもらえるって本当?’
近所の人達からそう尋ねられて、失業手当のことだと思った。たしかにそういう制度がある、というと、なぜそういう仕組みなのかわからないという。私は、’税金がそういうことに使われる。’と説明しようとして税金と言う言葉がマレー語で出てこなかった。考えてみると、私のフィールドワークアシスタントや短期間の土木作業現場で働いているセピロクの多くの男の子達は日給x働いた日数のお金を直接もらっているし、税金と日常生活のリンクが非常に薄いと思われた。とにかくつたないマレー語を使って,’働いている人が国に払うお金が、病院や学校を建てるため、道路を作るため、そして仕事がない人を援助するために使われる’ということを説明した。すると
’いいなあ、そんな制度がある国に住みたい。’
と冗談交じりで近所の人はいう。
’でも、ヨーロッパのほうの国では、収入がゼロだと本当に生活ができなくなることがあるから、こういう制度があるんだと思うよ。ここみたいにKipasや動物を森に取りにいけるわけじゃないし、水道や電気もそんなに簡単には盗めないし、ね。’というと、’確かに!’という笑いが返ってきた。

マラリア
2月の上旬に、私は奇妙な風邪にかかった。夏風邪が治りにくいのはマレーシアでも同じらしく、私は一週間ほどベッドから出られなかった。高熱(といっても体温計がないので何度かわからないのだが)が出たり出なかったりして一週間が過ぎ、山場は越したかと思われる頃洗面所で私は気を失い倒れた。誰かが大声で叫ぶ声で、私の記憶はゆっくりとこちらの世界に引っ張られる感じがして、気が付くと寝ている私の横でAnisのお姉さんが気付け薬を塗っていてくれ、Anisの両親は涙が出そうなほど心配そうな顔で私の顔を見つめ、近所の子供達とそのお母さん達20人ほどが私の周りを囲んでいた。幸いなことにこの日は日曜だった。
’熱が出たり出なかったりが繰り返すのはマラリアの症状じゃないかしら。’
と話し合う近所の母親たち、
’あゆ、大丈夫?’’病気なの?’
といって手を擦ってくれる子供達。返答をしようにも声が出ず、私は再度目をつぶった。Anisの両親は、親戚に車の手配をしてもらって片道一時間かかる病院に二人で付き添ってくれた。バックシートでずっとAnisのお母さんに膝枕をさせてもらったこと、病院での血液検査とX線検査の間、ぼんやりとした意識の私を笑顔で気遣いながら待っていてくれたこと、大変ありがたかった。
その後、さらに私は一週間ベッドから出れなかったのだが、その間もAnisやAnisの両親は私の面倒を見てくれた。特にAnisは、私が寝ている間もずっと側にいてくれて、目を覚ましたときに水でもご飯でもティッシュでも薬でも本でも何でも必要なものを持ってきてくれた。看病の真髄を私は感じずにはいられなかった。この後、メールでマラリアの症状を示す風邪にかかったことをアバデーンの教官に伝えたとき、非常に的確なそして親切な答えが返ってきた。メールは
’マレーシアの病院の血液検査やX線検査では、マラリアが検出できないことがあります。もし、症状が再発した場合シンガポールに飛んでください。シンガポールには優秀なマラリア専門の病院があり、紹介状も必要ならば書いて送ることができるので。’
という内容だった。確かに、マレーシアの病院が日本やイギリスの病院に較べて信頼性にかけるかもしれないというのは、脳裏にあったことだが、このことばかりはセピロクの人に相談しづらい。幸いなことに、症状は再発しなかった。その後は無理はしないようにして、フィールドワークに励むようにしている。

FRCの給料格差。
FRCの中には、PhD(博士課程)を修めた研究者から、清掃に従事する人まで、給料の面でいくつかのランクに分けられる人々が働いている。PhDを持っている研究者は、一月5000−6000RM。一番下のランクに属する人は、Anisの両親などはそうなのだが、一月500−600RMと、約10倍の差が存在する。さらに、一般社会にまで伸ばして考えると、レストランでウェートレスとして働いている女の子の月給は200−250RMと格差は20-30倍に達する。このように高い学歴が高収入につながるというルートがはっきりしている社会の中で、近年では大学への進学希望者、それに付随する競争が激しくなりつつある。セピロクでも子供に高い教育を受けさせたいという希望を持っている親は多く、子供の数を夫婦間で1人ないし2人までと制限していたりする。しかし、その一方で子供は、将来自分を養ってくれる、将来働き手になるという考え方もセピロクの家族の中にはいまだ強い(多産であるのは、妊娠した際に中絶するのは宗教上認められていなかったり、またコンドームなどの避妊用具が給料に対して非常に高価であることも原因である。)。
この差は、サバの経済の大部分を占める中華系マレー人の環境と較べると明らかである。彼らは、生まれながらにして、中国語、マレー語、そして多くの場合英語が身につけられる状況にあり、小さい頃から学校以外の学習塾なるところで教育を受けることもできる。また言語が理解できることで読める書物の量が桁違いに多くなり、その結果大学への進学も比較的簡単になる。両親が店の経営者である場合は、将来の働き場所は確実に保障されている。この働き口が保障されているという点は、セピロクの多くの人達にとって羨望のまなざしだろう。
しかし、多くの兄弟と近所の同年齢の友達たちと、両親、祖父母、親戚に囲まれて育つセピロクの子供達と、一人っ子で多くの教育を与えられて育つ中華系の子が身に付ける感受性は大きく異なる。そして、その彼らが20,30年後のマレーシアを担っていくのである。日本も70、80年代に高学歴、大手会社就職、高収入という神話にあこがれ、セピロク風から中華系風に移行した。それに伴い国家全体として経済発展を成し遂げた。しかし、その一方で子供、若者の顔から失われてしまったものがある。マレーシアはこれから日本と同様の道を歩むのか、それとも、、。 時代という止めることのできないうねりが、長年の間に大きな変化を生み出していく。

英語のクラス
セピロクにある商店のお手伝いをしているMurianahから、英語を教えてほしいと頼まれた。彼女に英語を教え始めてから約4ヶ月。最初は、英語の発音を恥ずかしがっていた彼女も、外人から道を尋ねたら答えられるぐらいになった。また、彼女の友達の何人かも時々英語クラスに顔を出したりしている。また、日本語を教えてくれという人も出始めた。彼らは、授業料としてお金を払うことを申し出てくれる。しかし、私はお断りしている。セピロクには、オランウータンセンターを訪れる多くの観光客、そしてB&Bやリゾートホテルがある。英語や日本語ができることは、ここで働くために有利になるのだ。Anisのお姉さんは、3歳と1歳の娘達のお母さんで、英語クラスに熱心に顔を出している。’来年からホテルで働きたい。長女が保育園に行くから。’と彼女は言う。少しでもその訳に立てればと、私も熱心に教えている。



熱心に毎週英語を勉強しにくる。

セピロクでとても大切な時間をすごしている身として、何らかの形でお返しをしたいと思っていた。そして、それは英語を教えるという形で実現するようになった。このような草の根活動ができる状況をありがたく思う。そして、私のことを本当の家族として扱ってくれるAnisの一家に心からの感謝をしてやまない。

2004/05/31