あなどれない山陰。大山、松江、出雲、探訪。

 

たかだか1700メートルと思ってはいけない。それが大山である。山と高原地図を見ればわかるが、大山の最高峰は弥山(1702メートル)で東に三鈷峰、剣が峰というピークがある。この間を結ぶ稜線の両側は、等高線ではなく崖線で表されており、山頂付近には危険マークが13コもある(山と高原地図2010年度版)。2002年の地震により崩壊場所はさらに増えたと説明にはある。この中国地方の最高峰に単独で登りに行くのは大丈夫だろうか?

そんな心配とは裏腹に、金曜夜に乗り込んだ20時20分新宿発のWillerの高速バスは、リクライニングがとてもよくきき、フットレストと顔を隠すためのキャノピーつきで、明朝6時米子に到着するまで私は快適に眠ることができた。

5月18日

大神山神社8:30〜三鈷峰10:00〜ユートピア小屋出発10:30〜砂走り経由大堰堤11:45〜山頂手前分岐13:00〜山頂出発13:30〜大山寺15:00

空は快晴。水曜日の時点では週末の天気は曇りのち雨だったが、幸いなことに天気予報は当らなかった。米子7時4分発の電車に乗り7時21分大山口到着。無人の駅前にはかわいらしいロータリーがあり、35分発のバスに乗って8時5分に標高700メートルの大山寺に到着。1300年前の創建で、最盛期には宿坊が軒を連ねたという参詣道を歩いてそのお寺に参拝。さらにその奥にある大神山神社の裏から、山道は始まる。

今日私が予定しているのは、ユートピア小屋経由で三鈷峰を登り、砂走りという下るのはいいが登るのは禁止というルートを降り、谷本小屋から弥山へ登り返すというコース。800メートルアップ、500メートルダウン、700メートルアップという高低差になる。

社寺の境内から続く豊かなブナの自然林は、滾々と湧き出る水のように途切れることなく山肌を覆っている。林床にはエンレイソウ、サンカヨウがあり、大山が日本海的な雪の多い地域であることを物語っている。その急峻な谷を登っていくと30分ほどで稜線に出て、ツツジやオオカメノキが咲く中を尾根伝いに歩くようになった。しばらく行くと林の向こうに突如、白亜の岸壁が見えた。崩落箇所である。それは想像以上に広域で荒々しくて、時々岩塊が音を立てて崩れていくがわかった。斜度がきついために植物は何一つ育たず、一見するととてつもなく標高が高い山域に見える。



大規模な崩落箇所




アルプスのような、鋭角な切れ落ちた稜線


「この下が、確か砂走りのルートだよね、、。」
私は下を覗き込んだが、道は明確ではない。歩き始めてしばらくすると、また岩が崩れる音が響く。

大山は日本海から突出している独立峰で、振り返ると青空の元に米子の町と日本海が見える。何人かの単独行の人と行きかい、三鈷峰に10時到着。三鈷とは密教の修行に使われる道具の一つで、剣が峰という名前とともに古来から大山が修験道と深いかかわりを持っていたことが伺える。ユートピア小屋の前で、今朝姫路から日帰りで大山を登りに来たというお兄さんとおしゃべりしながら休憩。彼は何度も大山を登っており今から砂走りを通って大山寺に下るというので同行させてもらうことにした。

登ってきた尾根を少し戻ると、砂走りへ降りる分岐に出る。その先に突如現れたのは、ザイルを使った約20メートルの急下降。いきなりルートはバリエーションになった。

降りたところは見事なガレ場で、お兄さん曰く、トラバースするのではなくこのまま谷底に向かってずっと下っていくという。一歩踏み出すとそのまま足は砂利とともに30センチぐらい進む。それを繰り返していると、いつしか砂利は自分を乗せたサーフボードのようにザーッと音を立てて滑り出す。富士山の須走りのようなルートであるが、それよりも傾斜は遥かに急で、岸壁の上のほうでは相変わらず岩塊が崩れて落ちてくる音が響く。
お兄さん)「こんなに崩壊が激しいと、10年後の大山はどうなるんだろうって言われているんですよ。」
私)「本当ですね。ずっと昔は大山はもっとふっくらした山だったんでしょうか。」

西日本を貫く大山火山帯に属する成層火山で、180万前〜50万年前に古期大山のカルデラの上に、5万年〜1万年前に巨大な溶岩ドームが作られた。約2万年前の噴火で弥山、三鈷峰、烏ヶ山の溶岩ドームが作られ、その北面は爆裂火口となっている。



降りてきたガレ場を振り返る。


驚いたのは、この砂走りのルートを登っていくおじさんがいたことである。
「大丈夫ですか? 相当きついですよ、この道!」
と声をかけたが、もう何度も登ったことがありますから、笑顔でと答える。地元の山岳会の人だろうか、どこにでも強者はいるものだなと思う。

20分ほどで砂走りの核心部を超えて、道はようやくなだらかになった。ひときわ大きい崩壊音が響いたのは、この時である。谷の上部で大規模に岩が崩れ、それが砂煙を立てながらガランガランと堕ちてくる。その一部の岩片は自分達の足元にまで転がってくる!と錯覚しそうな勢いで、私たちは思わず身を伏せた。インディジョーンズの撮影現場かここは!という感じである。



砂煙わかりますか?


11時45分に大山寺と弥山への分岐点である大堰堤に到着。ここからは雄大な大山の北壁を望むことができ、一番レフを持ったハイカーが何人も足を止めている雰囲気は谷川岳の一ノ倉。ここでお兄さんとはお別れである。彼がいなければ、砂走りを下るのに相当苦労したのだろう。私はそのことを深くお礼した。

谷本小屋の横を通り、今度は弥山へ向けて登り返す。非常階段のような急傾斜が続き、夏道と合流する稜線に出て一段落かと思いきや、斜度は全くゆるくならない。6号目の非難小屋を過ぎブナの森林帯を抜けると、左前方に崩壊箇所とユートピア小屋が見え、綱渡りのような稜線をはさんで向かうべき弥山の山頂が見えた。

東西40キロ、南北35キロに広がる大山の山体は大きい。弥山の山頂は広い台地上となっており、ダイセンビャクシンが繁茂する中に、大正時代に建てられた参拝登山する人たちのための石室があった。石造りの壁の上には、ビャクシンで作られた屋根枠があり、中の3畳ほどの空間には小さな祠が祭られていた。



石室


13時15分、山頂到着。そこは家族連れやカップルで賑わっており、なんと犬を連れているおじさんもいた。近くに座ったので声をかけてみると、境港在住だという。
「水木しげるの生まれた町ですね。観光で有名になる前は、境港ってどんな町だったんですか?」
「静かな港町ですよ。時々こだわって関西のほうから魚を買いに来る人もいました。今は水木しげるロードのほう有名になっちゃいましたけど、、。」
愛犬にパンのかけらを与えながらおじさんは答える。山頂からは、その境港を突端に持つ弓ヶ浜と島根半島が、うっすらと見えた。

13時30分に下山を開始し、きれいなブナ林の中を歩いて行き、阿弥陀堂に着いた。「ご開帳毎月18日」と書いてあり、運良くそれは今日であることに気付く。お堂の奥には、立派な阿弥陀如来座像があり、脇待には勢至菩薩と観世音菩薩が立つ。
「どうぞ。よかったら参拝されてください。」
在家と思われる住職が声をかけてくださる。私は帽子をとって登山靴の紐を外し、木段を登って畳の上に座した。前に座る女性が祈りを終えて立ち上がった後、私は改めて阿弥陀像の前に進んで対峙した。
心安らぐ像だった。その前に、たった一人で座っているという空間もよかった。手を合わせて参拝し終え、住職さんに話を聞くと、この像は大仏師良圓によって栃の木から彫られた。しかし彼が無名だったために重要文化財に留まっており、本来なら国宝級のものだという。
「でも、ここが静かで訪れる人が少ないから好きだって言う人もいます。京都みたいに大勢の観光客と一緒に見る国宝よりもね。」
「そうですね。無名の彫師に感謝です。」
その後、無事大山寺に下山。

大山寺15時発の米子行きのバスにぎりぎり乗ことができた。今日はこの後松江に移動して、ヤングイン松江という安宿で宿泊の予定。バスの中でうとうとして気付くと既に米子駅に到着しており、大慌てで15時50分初の出雲行きの電車に乗り、16時20分に松江に到着。

松江の駅前は適度に栄えており、城下町らしく幾つものお寺がある街中を歩き、私は松江大橋の近くにあるホテルに向かった。
「宍道湖で夕陽が見たいんですが、どこからがいいですか?」
「それなら美術館の辺りまで歩くといいですよ。嫁が島もよく見えます。」
私は部屋に荷物をおいて身軽になり、登山靴から愛用の草履に履き替えて、外に出かけた。

宍道湖は、北部が腕にように延びた島根半島によって覆われている汽水湖である。この東端には松江があり、西端には出雲が位置する。遊歩道として整備された湖岸を歩き、島根県立美術館に着いたときには、ちょうど西の空の巻雲の合間に太陽が傾き始めていた。この美術館は宍道湖に面した壁面が総ガラス張りとなっており、一年を通じて夕陽の30分後まで開館している。私は美術館の前の芝生に寝転がり、地球が自転するのを待った。海のように広がる宍道湖の湖面に沈んでいく夕陽は、本当に美しかった。



巻雲たなびく


この後私は30分ほど歩いて宍道湖温泉まで足を伸ばし、あるホテルに夕飯と入浴がセットで1600円というプランがあったので、そこに入った。帰りは松江城の近くまで歩いた。その大手門と内堀の大きさに驚き、明朝もう一度来ようと思いながら宿に帰った。

5月19日 

  朝6時前に目が覚め、チェックアウトして松江城の散策に向かった。城下町である松江には、当時の外堀がほぼ原型を保ったまま残されており、昨夜歩いたのはほんの一部だった。

松江城は1611年射落成。江戸時代を通して、堀尾氏、京極氏、松平氏が城主となった。
全盛期には世界の3分の1の銅を産出した石見銀山、日本古来のたたら製鉄、北前舟の交易によって、松江は財政的にとても豊かな藩だった。また江戸時代を通じて親藩であり、明治維新後も廃城令の例外として天守の保存がなされ、第二次世界単戦中に被害をほとんど被ることのなかったという幸運は、この立派な城郭を現代にまで残すことを可能にした。松平不昧の茶室である明々庵、旧武家屋敷の風情を留める塩見縄手、明治24年に英語教師として松江に滞在し当時の日本の風習や生活様式、民間伝承を克明に書きとめた小泉八雲旧邸を訪ね、松江城の本丸と二の丸を散策した。静寂と風格を兼ね備えた松江の城下町に、私は惚れた。

7時20分、松江宍道湖温泉駅発の一畑電鉄に乗って、出雲大社へと向かう。
出雲大社とは、スサノオの6代目の子孫であるオオクニヌシが出雲の国を平和に治めていたとき、天照大神が「その国を譲ってください」と頼み、その代償に作られた社殿、と古事記にはある。ところが出雲風土記には、ヤツカミズオミツネウミコトが国引きをして今の島根半島を作り、その祝いとして立てられた社殿とあり、神話時代のことでありながらその創建の経緯が大きく異なる。

国譲りには、様々な解釈がある。オオクニヌシが平和に国を治めていたならば、なぜ天照大神は「譲ってください」と頼む必要があったのか。「ください。」でははく「譲れ」という武力行使を伴う侵略だったのはないか。出雲系と天孫系の異民族間には激しい争いが起こり、大社は代償などではなく、反乱の後捕らえられたオオクニヌシを入れるための牢獄だったという異説もある。しかし数千年以上前の出来事の真偽を実証するのは不可能に近い。

今出雲大社は、多くの女神と子を設けたオオクニヌシを縁結びの神様として祀り、若い女性が参拝するようになっている。二両編成の一畑電車は宍道湖の北岸を走り、1時間で出雲大社駅に到着。私はここから稲佐の浜まで20分ほど歩き、路線バスに乗って日御碕神社に向かった。とてつもなく創建の古い神社である。半島の先端から見える経島に祭られていた天照大神を、現在の社殿に移し変えたのが2000年前といわれ、今の住職は87代目である。不思議なことに、伊勢神宮、奈良の三輪神社、日御碕神社は地図上で一直線に並ぶ。東にある伊勢が昼を守るのに対し、西にある日御碕は夜を守るといわれている。

あまりに古い神話の世界に戸惑いを感じながら社殿をお参りし、その後日御碕灯台を見学しに行った。灯台は明治以降に海防という概念の定着とともに、外国人技師の指導の下各地に建設されるようになった。この灯台は1903年に作られた63.3メートルの日本一高さのある灯台で、耐震性を考慮して内側はレンガ、外側は石材を使用した特殊な二重構造を持ち、100年以上経った今もカンテラ光が海上を照らす。という説明版を読んで納得した後、螺旋階段をぐるぐると6回回って灯台のてっぺんへ。小雨のためほとんど展望はなかったが、そこは苦労して登った山の頂上にどこか少し似ていた。

ウミネコの繁殖地となっている経島を双眼鏡で見てその数に驚いた。優に1000匹を越すウミネコが岩上に所狭しと並んで羽をばたつかせて鳴いている。



経島


止む気配のない小雨の中をバス停まで戻り、その横にある土産屋でわかめのせんべいと小あじのみりん干しを買った。

出雲大社まで戻り、本殿におまいりする前に旧大社駅を見学しに行った。明治45年から平成2年まで開業していた出雲大社への玄関であり、その建物は国の重要文化財として指定されている。雨の中頑張って足を伸ばした甲斐があった。駅舎は間口20間はある立派な黒瓦と黒壁の純和風の外装。



大社駅、外観。




今は使われていない。


しかし建物の中には大正期を髣髴とさせる意匠があり、天井にはシャンデリア、待合室にはベロア張りのソファーがある。



シャンデリアが人々の心を掴んだ古き良き時代。


ほとんど人がいないガランとしたその空間は妙に天井が高く感じられたが、眼をつむると往時の賑やかさが脳裏に浮かぶ気がした。



大社駅の説明板。惜しまれて廃線になったことがわかる。


お昼は大社駅前の本家大梶という蕎麦屋に入った。出雲蕎麦は、蕎麦の殻も一緒に挽くため色が黒くそれに紅葉おろしを添えて甘目の醤油だれで食べる。

ここから表参道を歩いて、宇迦橋の大鳥居、勢溜の大鳥居、松の参堂の鳥居、銅の鳥居と4つの門をくぐり、出雲大社の本殿に到着。今年は遷宮といって、60年に一度大社の建物が新しく建て変えられ、オオクニヌシの宮遷しの儀式が行われる。そのため観光客は非常に多く、皆二礼四拍手一礼で、本殿に向かって手を合わせている。本殿の建物は2〜3階の高さがあり、その周縁の三方は長い回廊によって囲われている。古い杉木立に覆われた回廊の外側を歩きながら思う。この荘厳な建物は、宮殿だったのか牢獄だったのか。

よく出雲大社のパンフレットに出てくる巨大な注連縄は、本殿ではなく隣の神楽殿という場所にあった。写真にたがわずやはり大きい。しかし出雲大社や島根県では、注連縄のよじる方向が一般では逆であることが知られる。注連縄は、天照大神が天岩戸から出てきた時に二度と入れないように注連縄で戸を塞いだのが起源といわれる。もし悪しき物を封じ込める意味が注連縄にあるのならば、やはりオオクニヌシは天孫系との戦いの末に捕らえられたのではないか、という想いが頭をめぐる。

旅行会社の旗をもった添乗員の説明が聞こえてくる。この注連縄は重さが4トン、けっこう劣化が早く数年に一度取り替えるという。

境内から少し外れた都稲荷社、社家通りにある真名井の清水、命主社にある樹齢千年のムクノキを見て歩いた。少し外れると、出雲大社の鎮守の森の麓に、昔ながらの静かな住まいがあることがわかる。

この後訪れた島根県立古代出雲博物館は、大変興味深かった。出雲風土記に基づく古代人の生活の様子、大量に出土した神事に使われたと考えられる青銅器や銅剣、古代の出雲大社の模型、たたら製鉄と石見銀山についてのわかりやすい説明と展示が続く。たたら製鉄とは製鉄反応に必要な空気を送り込む方法で、日本には弥生時代に大陸から伝わったとされる。その空気送りの作業は非常な体力を要する仕事で、番子と呼ばれる人たちが交代して行った。変わりばんこという言葉はここから生まれたという。

この後、東神苑の特設ステージにて奉納行事として演じられているヤマタノオロチの石見神楽を見に行った。毎年大暴れして農地を荒らす頭が7つある大蛇をスサノオが退治する物語。酒を飲んで泥酔した大蛇をスサノオが次々と剣で倒していく。私にとって初めての神楽だったが、演者の華麗さと身軽さ、後ろで鳴り響く太鼓の音など、とても印象的だった。神楽の演者は、幾つぐらいの年齢から稽古を始めるのだろうか。

神楽が終わると既に日は暮れかかっており、観光客で溢れていた大社にも静寂な時間が訪れつつあった。私は一畑電鉄に乗ってJR出雲市駅へ、そこで乗り換えて米子へ向かった。既に駅前のロータリーには新宿行きの高速バスが止まっており、私は二日間を過ごした山陰地方に頭を下げた。