マレーシアの独立記念日。

Eddieと出会ったのは、Kota KinabaluからSandakanに向かう長距離バスの中であった。白人の旅行者、年はだいぶ年配、一人旅。
’Hello, are you going to Sandakan?’と声をかけてみた。

彼も、’Yeah, I am on the way to Sandakan.'と返事をくれた。
’マレーシアは初めて?’と聞くと、
’実は2回目だ。私は、50年前に半島マレーシアで、戦っていた。’
と、微笑みながらいう。窓の外を眺めながら、
’マレーシアもだいぶ変わったね。道路も良く整備されている。50年前の半島は、広大なジャングルしかなかった。’
バスの窓からは、遠くまでうねるように続いている緑色の山脈と、青空と入道雲がまぶしい。

50年前のマレーシア、私は想像してみた。まだ、森林の大規模伐採、オイルパームプランテーション、Kuala Lumpurの都市開発も始まっていない。ジャングルの中に身をおいて戦うことは、熱帯雨林に生息する多くの昆虫、ヒルや細菌に冒されることを意味した。マラリヤや破傷風の薬も十分には、なかった。
’イポーのジャングルで3年間戦っていた。17、18才のまだ若い頃さ。’
そういって、Eddieは当時の白黒の写真を見せてくれた。迷彩色の軍服を着て、肩に銃をかけて、木々の間から前方の様子を伺っている若きEddieが、その写真の中には写っていた。

ふと、私は気付く。50年前ならば、第二次世界大戦は終わっている。マレーシアは、イギリスからの植民地独立を目指して戦っていた頃だ。ということは、Eddieはイギリスの軍人として、マレーシアの独立派を押さえるべく戦っていた、ということ? 彼は説明してくれた。
’マレーシアの独立派の中にも大きな勢力が2つあった。1つが、独立後に主導権を握ったマレーシア人のグループ。もう1つは、華僑の一部の人を中心とする中国共産党のグループだった。彼らは、独立後にマレーシアを社会主義国家として治めようとしていたのさ。イギリスの植民地が、独立した後に社会主義国家に陥るわけにはいけない。そのため、ジャングルに逃げ残った中国共産党の残党と戦うことが、我々の仕事だったんだ。’

今までマレーシアの独立に関して、’宗主国イギリス’対’マレーシア独立派’という図式で私は単純理解していた。実際は、’宗主国イギリスが後押しするマレーシア独立派’と’社会主義国家を目指す中国共産党派’の対立だった。
’もし共産党派が勝っていたら、マレーシアは社会主義国家に陥る可能性があったんだ。3年も戦っていたということは、共産党の勢力はだいぶ強かった、、、?’と私は、尋ねた。
’ジャングルの中に潜んでいるからね、どこにいるかも、人数の規模だって把握するのが難しい。ただ、一番難しかったのは、ジャングルの中での戦闘で、戦う意義を心に刻み続けることだったよ。’とEddieはいった。
結果として、マレーシアは共産党の手に落ちずに、独立を得た。宗主国と比較的いい関係を保ちながら、独立にたどり着いたマレーシアは、政治、教育の面で多くをイギリスから取り入れた。イギリスに様々なことを学びにいった留学生も、独立後多くいた。この事実は、マレーシアが独立後、東南アジア諸国の中でシンガポール、ブルネイに次ぐ経済発展を遂げたことに大きく寄与している。

’でも、経済発展がマレーシア人を幸せにしていくかは、難しい問題だね。’
Eddieは、私に意見を求める。私は、経済発展によってマレーシアが得つつあるものと、失いつつあるものを考えてみた。バスは、ちょうど広大なオイルパームプランテーションを両側に見ながら走っていた。約20年前から始まったオイルパームプランテーションは、サバ中の森林とそれを住処とする生物をあっというまに激減させてしまった。これは失ってしまったものの1つ。その一方で、今走っているアスファルト舗装された道路、サバの奥地まで行き届くようになりつつある公共水道、ガス、病院などは、得たものの1つ。これらの設備が整うことによって、公共衛生は大幅に改善され、熱帯病で死亡する人の数も減った。
’経済発展によって、得るものと同時に失うものも大きいから、本当にわからない。でも、イギリスや日本は失ったものが何かを体験しているから、マレーシアや他の東南アジアの国に、失ってしまったものの大切さを伝えられればいいと思うんだけど、、。’
’そうだね、それが可能なら。’Eddieは、笑顔を作った。

そして私達は、4,5時間のバス旅の後、Sepilokに到着した。私は、Eddieを村のほうに連れて行って、Anisの家族や近所の子供達に紹介したりした。50年前にはなかった、マレーシア人との初めての握手と会話。50年前のことは一片も知らない、Sepilokの子供達から向けられる好奇心に満ちた視線と笑顔。彼は、子供の頭をなでながら、とてもうれしそうにしている。そんなEddieを見ていて、私はぐっと涙があふれてきた。戦争にまつわる辛い記憶。それが、長い時間と、地元の人との些細なふれあいで、解きほぐされる瞬間。Eddieにとって2回目のマレーシア訪問は、50年前に戦っていた意義を再度見つけ出す旅だったのかも知れない。



マレーシアの国花、Bunga Raya。この花は、50年前もマレーシアの大地で時が来れば咲いていた。


Eddieと会ってから2週間後が8月31日、マレーシアの独立記念日であった。1957年8月31日、マレーシアは独立を果たす。300年にわたる、ポルトガル、イギリス、そして日本に渡る支配。それからの解放、そして手に入れた自国の独立への喜びは、大変大きなものであった。その裏には、Eddieのような共産党の残党と戦い続けたイギリス兵士、マハティールはじめ独立後のマレーシアを担った理想にあふれた政治家たち、その他無数の人々の努力と血があった。その喜びを歌う’マレーシア独立の歌’がある。
毎年8月に入ると、ラジオ、テレビから日に何度もこの曲は流れる。子供達は、学校でマレーシアの国旗をもらい、大喜びでこの歌を歌う。歌詞はとても単純だけれども、その軽快なリズムからは、率直に独立への喜びとマレーシアへの愛国心が感じられる。



マレーシアの国旗を握って、独立の歌を歌う。


今年の8月31日は47回目の独立記念日であった。これからのマレーシアが、自国の持つ良き点を残しつつ、先進国としての道を歩んでいくためには、人口問題、雇用創出、民族の文化の継承、自然保護など難題が多くある。しかし、’独立の歌’を歌う子供達の元気な歌声には、これらの問題を乗り越えていける力があふれている。

これからのマレーシアを担っていく彼らに、心からのエールを送りたい。
頑張れ!! マレーシア!!

しばらくしてEddieから、葉書が届いた。’Sepilokの人達は、元気ですか。時間を作って、来年もマレーシアを訪れようと思っています。’Eddieにとって過去の戦場は、愛する旅先に変わっていた。

12/09/2004