光秀公と読み方考 

かれこれ15年も前になる。2006年6月、若狭あじさいマラソンを走りに行った。

夜行バスで敦賀まで行き、小浜線に乗って若狭町まで。地元の小学校が会場となるローカルな大会で、好天の中21キロを走ってゴールイン。そして汗を冷ましながら、会場に出店している色々なブースを見て回っている時に「光秀まんじゅう」なるお土産が売られているのを見て驚いた。
光秀って信長を殺したあの光秀よね、、?
ブースにいる方に聞いてみると、
「確かに裏切り者と言われていますが、若狭の辺りや、お城のある福知山のほうでは、光秀を敬っていますよ。歴史の授業でも、本能寺の変は光秀ではなかったという異説を教えたりしていますし。」
意外であった。またブース脇には「明智光秀を大河ドラマに!」という幟が掲げられている。
「地元の人たちの念願ですよ。」
その言葉は、マラソンを走り終えた爽快感とともに私の胸に深く刻み込まれた。


最近折り紙大好きです



それからあっという間に時が過ぎ、2020年「麒麟が来る」という明智光秀主役の大河ドラマが放映されることとなった。微力ながら光秀大河を応援していた自身にとってもとても楽しみで、2020年初頭から2021年2月まで、家族3人で麒麟が来るを楽しんで見た。


うちにはテレビをおいていないので、一起さんのスマホのワンセグで見る。画面は小さいけど楽しむには十分。テレビ裏のコード類にほこりがたまることもないし、かずちゃんが勝手にテレビをつけるということもないし、いい感じです。



話は変わるが、今年の初めごろからかずちゃんは車のナンバープレートに興味を持ち始めた。私たちが住んでいるのは品川なので目にするナンバープレートの8割方は品川なのだが、それ以外のものを見かけるとかずちゃんは「ママー! 品川じゃないのがあったーー!」と宝物でも見つけたかのように興奮する。
止まっている車なら引き返して確認。走っている車ならあわてて目で追って確認。
「練馬だったね。お馬さんだよ。」
「足立ナンバーだね。足立ナンバーはトラックが多いね。」
「川口だ! 今日は所沢も見たから、埼玉ナンバー2つ見たね。」
等と日々やっているうちに、大田、川崎、世田谷、横浜などの近隣ナンバーはあっという間に覚えてしまい、まれに高崎、浜松などをみかけて読み方を教えてあげると、
「川崎の崎と同じ!」
「横浜の浜と同じ!」
と、同じ漢字であることを認識するようにもなった。4歳児の記憶力を鑑みれば普通なのかもしれないが、馬鹿親としては我が子の才能に感激し、ほめちぎってしまう。

かずちゃんと一緒にナンバープレートをよく見るようになって、ふと疑問が沸いた。
「すぐ近くなのに、なんで目黒区や渋谷区や港区のナンバーは見ないんだろう?」
皆無なのである。それもそのはず、東京都内にはナンバープレートは10個しかないのであった。(品川、練馬、足立、世田谷、杉並、八王子、多摩、江東、葛飾、板橋)
意外と少ない、、。

普通は運輸支局または自動車検査登録事務所のある地名がナンバープレートになるが、例外も多い。例えば栃木県では、佐野市に検査登録事務所があったがナンバープレートが「佐野」になることに関して周辺自治体が猛反対した。協議の末、折衷案として「とちぎ」が採用されたという。
平成30年から、ご当地ナンバーこと図柄入りナンバープレートが登場し、俄然人々の注目を集めるようになった。ナンバープレートは日本全国を走ってくれる無償の広告塔になりうる。佐野市と周辺自治体で争奪戦になったというのも頷ける。

さて、かずちゃんがナンバープレートに興味を持つのであればと思い、やってみたのが手作り漢字表である。


手作り漢字表



身近な名詞、動詞の漢字を書いて壁にはり、読み方を教えてあげる。ママが薄く書いた感じをなぞって書く練習をする。ちょうど保育園でお手紙ごっこが流行っていたこともあり、かずちゃんのひらがな・漢字への興味は上々であった。


熱心にひらがなを練習中




自分のクラスのももぐみを書く。みは難しいのでカタカナ(ミ)とのこと。



しかし文字が読めるようになった子供が街中で目にする看板の多くが注意事項や禁止事項というのはなんとも残念な限りである。


公園の看板




公園でアスレチックに挑戦!



例外が、商店街などが子供の日やハロウィンの時に行ってくれるクイズラリーであった。あちこちに隠されたクイズを探して解けばプレゼントがもらえる。それは子供にとって無上の喜びであろう。しかしコロナ禍でそういったイベントがことごとく中止になって久しい。


ママが折ってあげる花コマも大好き



漢字の読みは往々にして日本人も間違える。外国人にとっては想像を絶する困難さを伴うものであるに違いない。

以前、イギリス人の友人が日本の高校で英語を教えるというJET(Japan English Teaching)プログラムに応募して、日本に数年間滞在することになった。彼はこれを機に日本語をマスターする!と意気込み、ひらがな・カタカナの読み書きを覚えて、漢字にも着手し、音読み・訓読みのルールも覚え始めた。

訓読みは単独で読んで意味が通じる読み方。
音読みは他の漢字と組み合わせた時の読み方。

という規則を覚えて彼なりに意気揚々としていた頃、一緒に都内へ出かけた時のことだった。電車が秋葉原を過ぎ御徒町に止まった時に、駅名を見て
「Oh! I can read that. Something ちょう, isn't it?」
一瞬何のことかと思ったが、御徒町の町のことだ、と気づき、
「ああ、おかちまち。」
と私は言った。
「What? まち?! Isn't it read as ちょう?」
なんで音読みじゃないのか、という疑問を彼は投げかけてきた。
「あれはね~、、おかちまちなんだよ。町っていう漢字は、特に地名だと例外だらけで、組み合わせでも「ちょう」と読まない場合が多いんだよ。」
と説明した。
「How many towns in Japan? Oh, gosh,,」
その時の彼の愕然とした表情は今でも忘れられない。

ちなみに日本の町の数は平成30年時点で743である。そして非常に興味深いことに、まちと読むか、ちょうと読むかは、都道府県によって顕著な傾向がある。例えば関東・東北地方はまちという読みが圧倒的に多いが、中部以西は、ちょう読みが優勢なのである。しかしそれらの読み分けにどういう歴史的背景や規則性があるのかはわかっていない。

地名の正しい読み方に関しては、私もイギリス人の友人のことを笑ってはいられない。そもそも山手線の駅名でなければ御徒町を「おかちまち」と読めたか怪しいし、今住んでいる品川区の荏原も住む前は「にんばら」かな?と思っていた(正しくは「えばら」)。ちなみに、近くに東急線の荏原中延という駅がある。「えばらなかのぶ」と読む。荏原と中延という町名の境目に位置するのでこの駅名になったが、難読駅名の1つであるらしい。

また近所に目黒区の碑文谷(ひもんや)という地名がある。東急線の学芸大学駅があり、大型イーオンや、体育館、池や馬場のある公園もありファミリー世帯が多く住む。ここにある碑小学校という学校の名前を、私は「ひしょうがっこう」だと思っていたが(言いづらいとも思っていた)、門前を通った時に「いしぶみしょうがこっこう」であることを知った。漢字の読みは難しい、、、。


切り紙も興味津々



そこで、私の故郷千葉県と、一起さんの故郷鹿児島県の市町村が読めるかどうかをお互いにテストしてみた。町と村に関しては、「まち」「ちょう」、「むら」「そん」の正しい読みはここでは問題としないことにする。

千葉県には全部で以下の54市町村。全国レベルで知られている地名もあるが、難読地名もけっこう多い。

千葉市(ちばし)
銚子市(ちょうしし)
市川市(いちかわし)
船橋市(ふなばしし)
館山市(たてやまし)
木更津市(きさらづし)
松戸市(まつどし)
野田市(のだし)
茂原市(もばらし)
成田市(なりたし)
佐倉市(さくらし)
東金市(とうがねし)
旭市(あさひし)
習志野市(ならしのし)
柏市(かしわし)
勝浦市(かつうらし)
市原市(いちはらし)
流山市(ながれやまし)
八千代市(やちよし)
我孫子市(あびこし)
鴨川市(かもがわし)
鎌ヶ谷市(かまがやし)
君津市(きみつし)
富津市(ふっつし)
浦安市(うらやすし)
四街道市(よつかいどうし)
袖ヶ浦市(そでがうらし)
八街市(やちまたし)
印西市(いんざいし)
白井市(しろいし)
富里市(とみさとし)
南房総市(みなみぼうそうし)
匝瑳市(そうさし)
香取市(かとりし)
山武市(さんむし)
いすみ市(いすみし)
大網白里市(おおあみしらさとし)
酒々井町(しすいし)
栄町(さかえまち)
神崎町(こうざきまち)
多古町(たこまち)
東庄町(とうのしょうまち)
九十九里町(くじゅうくりまち)
芝山町(しばやままち)
横芝光町(よこしばひかりまち)
一宮町(いちのみやまち)
睦沢町(むつみさわまち)
長生村(ちょうせいむら)
白子町(しらこまち)
長柄町(ながらまち)
長南町(ちょうなんまち)
大多喜町(おおたきまち)
御宿町(おんじゅくまち)
鋸南町(きょなんまち)

答え合わせをしてみると
私の正答率は49/54で、酒々井(しすい)、神崎(こうざき)、東庄(とうのしょう)、睦沢(むつみさわ)、長柄(ながら)の5つが、正しく読めなかった。千葉県生まれとして至らない限りである。一起さんの正答率は、35/54。やはり馴染みのない土地の地名は難しい。

千葉県の中で特に、匝瑳市(そうさし)と八街市(やちまたし)は難読ではないだろうか。

匝瑳市は九十九里の北東に位置し、続日本後記(平安時代)に物部小事が朝廷からいただいた地という記録がある。匝はめぐる、瑳はあざやかという意味である。

八街は、生産量日本一を誇る落花生の産地である。南米アンデス原産のこのマメ科植物は、明治以降、奨励作物として日本で栽培されるようになった。この時、千葉県では開墾する順番に従って、
初富 はつとみ(鎌ヶ谷市)
二和・三咲 ふたわ・みさき(船橋市)
豊四季 とよしき(柏市)
五香・六実 ごこう・むつみ(松戸市)
七栄 ななえ(富里市)
八街 やちまた
九美上 くみあげ(香取市旧:佐原市)
十倉 とくら(富里市)
十余一 とよいち(白井市)
十余二 とよふた(柏市)
十余三 とよみ(成田市)
と命名し、新たな村ができたという。当時の開墾省によるなかなか洒落たネーミングである。

続いて鹿児島県。

鹿児島市(かごしまし)
鹿屋市(かのやし)
枕崎市(まくらざきし)
阿久根市(あくねし)
出水市(いずみし)
指宿市(いぶすきし)
西之表市(にしのおもてし)
垂水市(たるみずし)
薩摩川内市(さつませんだいし)
日置市(ひおきし)
曽於市(そおし)
霧島市(きりしまし)
いちき串木野市(いちきくしきのし)
南さつま市(みなみさつまし)
志布志市(しぶしし)
奄美市(あまみし)
南九州市(みなみきゅうしゅうし)
伊佐市(いさし)
姶良市(あいらし)
三島村(みしまむら)
十島村(としまむら)
薩摩郡(さつまぐん)
さつま町(さつまちょう)
出水郡(いずみぐん)
長島町(ながしまちょう)
姶良郡(あいらぐん)
湧水町(ゆうすいちょう)
曽於郡(そおぐん)
大崎町(おおさきちょう)
肝属郡(きもつきぐん)
東串良町(ひがしくしらちょう)
錦江町(きんこうちょう)
南大隅町(みなみおおすみちょう)
肝付町(きもつきちょう)
熊毛郡(くまげぐん)
中種子町(なかたねちょう)
南種子町(みなみたねちょう)
屋久島町(やくしまちょう)
大島郡(おおしまぐん)
大和村(やまとそん)
宇検村(うけんそん)
瀬戸内町(せとうちちょう)
龍郷町(たつごうちょう)
喜界町(きかいちょう)
徳之島町(とくのしまちょう)
天城町(あまぎちょう)
伊仙町(いせんちょう)
和泊町(わどまりちょう)
知名町(ちなちょう)
与論町(よろんちょう)

一起さんは、湧水をゆみず(正しくはゆうすい)と読んだが、あとは正解。私は、中種子、南種子を、なかしゅし、みなみしゅしと間違えて読んだ。正しくはなかたね、みなみたねである。「種子島の読みと同じだよ。」と一起さんに言われて、あぁそう言われればと気づいた。


コロナ禍でも時々山登りに行っていました



一人で黙読している時に間違いに気づくのはさほど問題ではないが、大勢を前にして間違えるのは恥ずかしい。

二年ほど前だろうか、かずちゃんと一緒に都主催のファミリーイベントに出かけた。会場には優に2000人は収容できる大きなメインステージがあり、プログラムに沿って様々な出し物が行われている。私はプログラムを見て
「へ~、語り部の会っていうのがあるよ。なんかお話しでも聞けるのかなあ。」
とかずちゃんに言った。
そしてその語り部の会の順番がやってきた。マイクを持った女性のアナウンサーが団体の紹介をする。
「日本に昔から伝わる民話や伝承を語り継ぐことを目的に、地域の学校や保育園、幼稚園等で活動されております、語り部(かたりぶ)の会の皆さんです!それではどうぞ!」
えっ!?と思った人は少なくなかった、、と思う。語り部は、どう考えても「かたりべ」であって「かたりぶ」ではない。しかし一瞬の出来事だったので、そのままプログラムは進行していった、、。

去年の暮れから新しい仕事に就き、医学薬学論文に多く触れるようになった。新しく知ることばかりで、日々色々調べながらなんとか仕事をこなしているが、その中にも読めない単語は多い。例えば、

惹起
捻転
双胎
咳嗽
褥瘡
腱鞘
等である。

正しい読み方は、
じゃっき
ねんてん
そうたい
がいそう
じょくそう
けんしょう
である。

捻転などは、捻挫の捻ということに気づけば読めるはずだし、腱鞘も腱鞘炎となっていれば読めたと思われる。ところが馴染みのない漢字の組み合わせだと、情けないことに突如読めなくなってしまう。しかし、なまじっか個々の漢字の意味はわかるので、そこから類推して、読みはスルーしてしまうことが多い。

惹起 → 何かが起こる
捻転 → ねじれること
双胎 → ふたご
咳嗽 → せき
褥瘡 → ベッドに長く寝ているとできる傷
腱鞘 → アキレス腱みたいな部位

ある時読んだ論文に、脳梗塞の後遺症である「感情失禁」という単語が出てきた。私はその漢字から「感情が高ぶると尿漏れしてしまう病態」なのかと思った。しかし論文の内容に尿に関する記述がない、、。念のために調べてみると、感情失禁とは「感情がうまくコントロールできず、漏れ出てしまう(突然泣いたり、怒ったりする)」ことであった。尿失禁=失禁という意味で多用されているので、私は失禁の元来の意味(漏れる)を知らなかったのである。知ったかぶりでスルーしなくてよかった、、と思った瞬間である。


コロナ禍でもなんとかオリンピックが開催。ご近所で応援メッセージを書く機会がありました。



医学文献の音読もなかなか難しいが、これが歴史関係となるとますます難しくなる。

だいぶ前といっても30代の頃だが、友達と一緒に忠臣蔵の話題で盛り上がったことがあった。自分が住んでいる品川区から泉岳寺は近いので何回か参拝したことがあると言って、
「最後には、みんな自刃(じば)してね、、。」
しんみりしながら私は言った。この時友人が
「じば? じじんのこと?」
と指摘してくれ、私はその時初めて「自刃」の正しい読み方を知ったのである。

それまで、白刃はしらは、諸刃はもろは、自刃はじば、と信じて疑わなかった。身の回りで自刃にまつわる会話がそれほどある訳でもないし、じじんと読み仮名がふっていある歴史小説に出会わなかった。勉強不足と言われればそれまでであるが、、。


こういうふり仮名がふってある歴史小説をよく読んでいれば、、。(国盗り物語)



麒麟が来るを見て以来、光秀関連の小説や歴史学の本を読み始めその面白さに改めて感動している。と同時に、読めない単語多すぎる、、日本人としてこれでいいのか、、と思い知らされているところでもある。

インターネットで光秀のことを検索していて「麒麟が来る推進協議会」なるものがあることを知った。光秀にゆかりのある兵庫県、福井県、京都府の11の市町が大河ドラマにあわせて立ち上げたもので、観光促進や知名度向上に一役買っていたようだ。

麒麟が来る推進協議会参加の町々

兵庫県
・丹波市
・丹波篠山市

福井県
・若狭町

京都府 
・京丹後市
・宮津市
・舞鶴市
・福知山市
・綾部市
・亀岡市
・長岡京市
・大山崎町

これらは主に、光秀が信長の家臣となって躍進していき、本能寺の変を経て、最後秀吉に敗れるまでの間にゆかりのあった場所である。


麒麟が来る推進協議会の町々



永禄十三年(1570年)光秀は、信長の越前朝倉家攻めの先遣隊として鯖街道の熊川宿(福井県若狭町)に入ったと伝わる。この時は浅井長政の裏切りにより、織田軍は一旦京都への退却を余儀なくされるが、天正元年(1573年)一乗谷城は陥落し朝倉氏は滅亡。その後光秀は、信長に丹波(現兵庫県東部、京都府西部)平定を命じられ、五年をかけて次々に城を落としていく。その中でも、黒井城(丹波市)には赤鬼と呼ばれた赤井直正との二度にわたる激戦、八上城(丹波篠山市)には光秀の母が人質に取られたというエピソードが伝わる。

平定後、光秀は福知山や亀山(亀岡市)を居城として善政を敷いた。それに敬意を払って今日でも、光秀を奉る福知山の御霊神社や亀岡の谷性寺には人々が参拝する。

こうして信長の右腕として昇竜のごとく軍功を挙げていった光秀は、天正十年6月2日京都本能寺にて主君信長を討つ。そしてその11日後の6月13日、山陽道を駆け上ってきた秀吉と山崎の地(大山崎町、長岡京市)にて対決して敗北を喫する。

兵庫県の北端にある京丹後市には、光秀の娘で細川忠興に嫁いだ細川ガラシャが、本能寺の変後に逆賊の娘として幽閉された味土野の地がある。また、舞鶴市、宮津市には、光秀の盟友でありながら、本能寺の変後は光秀に加担しなかった細川藤孝にゆかりの石辺城、宮津城がある。

若狭町以外は、歩いたことがない町である。コロナがなければ家族で麒麟が来る探訪の旅に行きたかったと思う。

光秀といえば本能寺の変のイメージが強いが、それ以前は信長の無二のブレーンだった。信長が将軍義昭を奉じて上洛し三好三人衆らに抗戦していた頃は、二人の目的は共通して足利幕府の再興であった。ところが信長と義昭の不和を始めとして安定した幕府体制の構築には様々な困難が伴い、信長と光秀の間には不協和音が生じるようになったのだろう。

一説には、天正十年(1582年)安土城で行われた徳川家康の饗応の膳の不備を信長に厳しく叱責されたことが光秀謀反のきっかけになったと言われる。この怨恨説の真偽はさておき、インターネットにこの饗応の膳を再現したという記事があった。それによると、饗宴は家康ら一行が到着した日の夜から三日間行われ、計五回の膳が出されている。それぞれの膳が、本膳から五膳さらには甘味まであり、内容は三鳥五魚と当時珍重された食材が並ぶ。調度品に関しても、金を施した串や金箔、飾り花が用いられ、見た目の美しさにもこだわりがあった。この饗応の膳は、当時の格ある式法に沿ったものであったと考えられている。
饗応役となった光秀は、これらの献立の立案や食材の手配、調理の采配等を行った。戦国武将であり、かつ一流の料理の式法に関する教養も光秀は備えていたのである。

またその前年には、正親町天皇を前にして京で行われた馬揃えに関して、光秀が采配・演出の統括者に任命された。信長公記によると、馬揃えのために八町の馬場や行宮(天皇の観覧席)が新造され、贅を尽くした装束をまとった信長家臣団の乗る数百頭の馬が次々に登場。馬は、日本各地の大名から進呈された鬼蘆毛、小鹿毛、小雲雀といった名馬が揃い、唐織物や金襴を使った馬具が付けられている。中でも信長は、金紗の布袴に唐冠をまとい、さながら住吉明神の姿かと感じられたという。こうした絢爛豪華な騎馬隊が辰の刻(午前8時)から未の下刻(午後3時)まで見事な走りを見せたという。

饗応役や馬揃えなど幕府や朝廷のしきたりに深い造詣が必要とされる儀式を一任された武将明智光秀。他の織田家中の武将たちとは一線を画す。

司馬遼太郎氏の国盗り物語や、大河ドラマの麒麟が来るの中では、明智光秀は美濃の土岐源氏の末裔として描かれ、斎藤道山没後は落ち武者となって越前へ流れ朝倉家へ奉仕し、そこで細川藤孝と出会い足利将軍の奉公衆として仕えるようになったとしている。歴史小説などでは、この不遇の前半生の間に、光秀は密かに研鑽を積んだと描かれることが多い。
しかし時は戦国時代である。武将に仕えていても待遇が悪ければ食べるにも事欠く時代であり、そんな中、格ある料理の式法や馬揃えといった宮廷作法をどうやって習得したのであろうか。当時は、書物がふんだんにあったわけでもなく、技術や知識は、門外不出であり一子相伝や直伝、秘伝ということも多かったのではないだろうか。

このような軍事策略や行政統治とはかけ離れた、有職故実の知識を要する行事を任せられる光秀という人物像が、私にはとても不思議だった。そんな漠然とした思いを抱えていた時に、図書館で手に取ったのが小林正信著「明智光秀の乱」であった。

この本は「織田・徳川同盟と王権~明智光秀の乱をめぐって~」というテーマで執筆された小林氏の博士論文が基となっており、明智光秀の出生や本能寺の変に至る経緯についても検証している。

戦国時代、主君による家臣の改姓改名はしばしば行われたが、それを政治的策略のために乱用した武将が織田信長であったと小林氏は言う。例えば信長は、朝倉義景討伐後に受け入れた家臣団に朝倉家とは全く関係のない姓を与えたり、九州を平定していないにも関わらず丹羽長秀に惟住、明智光秀に惟任といった九州名家の官名を与えている。氏は明智光秀という有能な奉公衆が突如雲のように現れた理由として、信長による改姓改名があったに違いないと推測する。では、改姓改名によって明智光秀となった人物とは誰だったのだろうか?

足利義輝(在職:1546年(天文15年)-1565年(永禄8年))及び義昭(在職:1568年(永禄11年)- 1588年(天正16年))政権下における奉公衆の人々の名前が記された「永禄六年諸役人付」という資料がある。明智光秀の存在が信憑性の高い資料で確認できるのは、永禄十年(1568年)山城上賀茂惣中宛村井貞勝、明智光秀連署状である。京都所司代である村井貞勝との連署状を出していることからして、既に有力奉公衆の1人だったと思われるが、「永禄六年諸役人付」には、不自然なことに明智光秀の名前がないのである。つまり、永禄六年諸役人付が記されてから永禄十年の連署状が書かれた数年の間に、奉公衆の誰かが改姓改名を受けて明智光秀になった可能性が高い。

氏は、永禄六年諸役人付に記載がある奉公衆の中から、光秀と同格の能力と資質を持ちかつ明智光秀登場後は、動向が不明となっている人物を丹念に探った。その結果、進士知法師なる人物が浮かび上がってきたのである。当時進士氏は、足利将軍世継ぎの教育を担っていた伊勢氏と同等の権勢を誇る奉公衆の家柄であった。また進士氏は、武家故実を伝承している家でもあり、将軍の御成の際の御膳奉行を代々担ってもいた。

また「明智氏一族宮城家相伝系図書」という光秀の出自を記す資料に、光秀が進士家の次男という記載がある。この資料の信憑性は必ずしも高くないが、見過ごせない一文であると氏は言う。進士知法師→明智光秀という改姓改名の記録がないため立証はできないがもし二人が同一人物であれば、馬揃えや饗応役をこなし、当時一級の文化人であった細川藤孝や里村紹巴らと親交があり連歌会を頻繁に行っていたという光秀像に説得力が生まれる。

また近年の奉公衆研究の集積により、信長による将軍義昭追放後も、室町幕府の政治的基盤や体制は弱まってはいたものの、今だ機能していたと考えられている。そして奉公衆の大部分は、戦国期にも足利幕府の再興を目指しており、それは時代錯誤でも荒唐無稽でもなかった。暗殺された将軍義輝には遺児がおり、その遺児を奉じての政権奪回を目論んでいたという説もある。有力奉公衆であった光秀も、室町幕府の再興を一貫して掲げ、その方向性から大きく外れつつあった信長を討つべくして討ったのではないだろうか。

ちょうどこの頃、知り合いも明智光秀にはまっており「信長を殺した男」という漫画を貸してくださった。原案は明智光秀の血筋を引くと言われる明智憲三郎氏、絵は藤堂裕氏による。この作品の中では、明智光秀は美濃源氏土岐氏の末裔で立身出世して信長に取り立てられ、後に信長による長宗我部討伐と唐入り(明国出兵)の阻止するために本能寺の変に至ったという風に描かれていた。信長の飽くなき領土拡大路線を止めて国内の安寧を重視したという点では、室町幕府再興説とも共通点があるように思える。どちらにせよ、光秀は私的怨恨から主君を殺すようなスケールの男ではなかったのである。

もし光秀が天王山の戦いに勝利し天下を取っていたら、江戸時代と匹敵するような長きにわたる太平の世が作られただろうか。
もしくは、
信長の様にキリスト教に寛容で南蛮との交易に目を向けた武将がいたからこそ、スペイン・ポルトガルは日本を植民地化しなかったのではないだろうか、、。

等々、戦国時代に想いを馳せてみるが、ふと本に目を落とせば相変わらず読めない単語だらけである。

殿軍 → しんがり
中間 → ちゅうげん
中務 → なかつかさ
左馬頭 → さまのかみ
大輔 → たいふ
少輔 → しょう
諡号 → しごう
信長公記 → しんちょうこうき
帷子 → かたびら

電子辞書とパソコンで調べてみる。でもすぐ忘れてしまうので「この読み方この間調べた、、。」という場合も多い。少年老い易く学成り難しである。四十にして惑わず、には程遠い心境である。


5歳になりワンピースを着るとすっかり女の子です



それはさておき。
光秀のことを思うと15年前のマラソン大会が思い出される。若狭の空は今日も晴れているだろうか。



参考文献

明智光秀 小説集 菊池寛 作品社
戦国倭人伝第一部 本能寺奇伝 世川行介 彩雲出版
歴史捜査 明智光秀と織田信長 明智憲三郎 宝島社
光秀の選択 鈴木輝一郎 毎日新聞出版
光秀の定理 垣根涼介 角川文庫
私の先祖 明智光秀 細川珠代 宝島社
「本能寺の変」はなぜ起こったか 信長暗殺の真実 津本陽 角川文庫
明智光秀 残虐と謀略 一級資料で読み解く 橋場日月 祥伝社新書
信長空白の百三十日 木下昌輝 文集新書 
国盗り物語 斎藤道三(全編) 織田信長(後編)司馬遼太郎 新潮社
明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊 小林正信 里文出版
訳注 信長公記 太田牛一著 坂口善保訳注 武蔵野書院
歴史REAL 明智光秀 洋泉社MOOK
信長を殺した男 原案:明智憲三郎 絵:藤堂裕