Mother Tongue

医者と共通の言語がしゃべれるというのは、’恵まれている’ことなのだ。

日本からSepilokに帰ってきた時、Anisの家には私の知らない人が4人滞在していた。若い男の子、赤ちゃんを産んだばかりの若い女の子、そして、老婦。4人はAnisの親戚で、お産のために、バスで8時間かかる田舎からSandakanに来ているんだと、Anisは教えてくれた。普段でさえ2DKの家に11人住んでいるところへ、さらに4人の人と荷物が増えた家は満杯で、歩くのも大変であった。



1つの部屋に10人が寝ることに。



赤ちゃんを産んだばかりの女の子は、無口であった。時々目が合うとにっこり笑うものの、ほとんど話すことがなかった。夕飯の時に、老婦と若い女の子は、申し訳なさそうにご飯を食べる。その横で、Juliaが遠慮しないで食べなさいと勧めるのであった。

ある日私は、Anisに尋ねた。’赤ちゃんのオトウサンは、誰?’すると、Anisは声を低くしていった。’若い男の子がいるでしょう。彼が一応お父さんかな、、、。でも、本当は、、。’Anisの話は、こうだった。若い女の子は、とあるお酒の場で、3人の男の子と寝てしまった。最後に寝たのが今いる若い男の子なのだが、彼はした後にそのまま眠ってしまい、父親としての責任をおっているのだという。若い女の子は、小さい頃お金がなくて学校に行けなかったのか、マレー語はできず、Dusun語(マレーシア、サバ州のDusun族の言葉)しか話すことができない。そのため、病院にはDusun語とマレー語の両方できるJuliaが付き添って行った。’だから、無口だったんだ、、。’私は、驚いてつぶやいた。

そんな毎日が1週間ほど続いたある日、Juliaが私の元へ、お金を借りたいと言ってきた。’もうお産後2週間以上いるのよ。毎日ご飯を食べさせるのも経済的に大変だし、田舎へ帰ってもらいたいんだけど、バス代がないの。’私は、40RM(1300円)を貸した。その次の日から、老婦と若い女の子は、荷物をまとめはじめ、雨の降っていない日の早朝に田舎に帰っていった。とても静かな出発だった。

Dusun語しかしゃべれないお母さんの元で、あの赤ちゃんはどうなるんだろう、と時々私は考える。そして、日本が言語的にとても恵まれた環境であると、改めて思う。ほぼ100%の日本人が日本語の読み書きができて、日本語で読める本は膨大にあり、日本語で書かれている外国語を勉強するための本も非常に多い。その裏には、日本の経済的豊かさと、出版業界の厚みと、日本人の知識欲があることは、確かである。しかし、日本では英会話教室が24時間営業を開始する中で、ここサバでは、8時間のバス旅の後Dusun語とマレー語両方できる人をお願いして初めて、医者に見てもらえる人がいる。

ふと外を見ると、珍しく、霧雨が降っていた。




若い男の子は今、お産の料金70RM(2400円)やその他を払うために、日給10RM (300円)のインスタントラーメン工場で働いている。

16/02/2004