フィリピン人と携帯電話。

Latipとの出会いは、よく考えれば、Mr.Chinを通してだったのだ。Mr.Chinがフィリピン人の住んでいる地区からLatipを含む3人の男の人を、私のフィールドアシスタントとして連れてこなければ、Latipを知ることはなかったのだ。

そのとき私は、自分の研究のためのフィールドワークのために人手を必要としていて、セピロクにて大規模果樹園を営むMr.Chinと夕方のビールを片手に話していた。
’人手が必要なの?何とかして準備してあげるよ。’と、Mr.Chin。
その好意を素直に受け入れることにし、翌々日から3人の男の人たちが、フィールドワークを手伝うべく私のところに出向いてくれるようになった。

すでに私と働いてくれているセピロクの男の人3人と合わせて6人。彼らはフィリピン人で、名前を、Latip、Grandi、Jefferyといった。フィールドワークでやっていたのは、実験用のPVCチューブを地面に埋めるという作業。まず、この作業専用に作ったスコップで穴を掘り、その後PVCをハンマーを用いてたたきながら埋め込むということを480個分やらなければいけない。実験者本人がうんざりする作業であるにも関わらず、6人は気持ちよく一生懸命働いてくれた。森の中で、朝から晩まで、スコップとハンマーをたたきつける音が2週間続き、無事すべてを終わらすことができた。そして、彼らの給料を払うときに、私は再度Mr.Chinのところを訪れたのだった。セピロクの3人と同じ一日25リンギット、2週間、3人分を払い、お礼を言って帰ってきた。

翌日の夜、フィリピンの3人が私のところに来て、給料が一日12リンギットしか払われなかったという。彼らは私が払った給料の半分も得ていない。Mr.Chinのところに説明を求めていくと、彼らはフィリピンの不法滞在者で、彼らに労働許可を取ってやるために1人2000リンギットかかるからだという。ところが、3人の聞くところによると、3人は合法滞在者で正式な労働許可も持っているという。3人の中でMr.Chinに対し一番怒っていたLatip, セピロクの3人と私で再度交渉しに行った。しかし、このときLatipは労働許可書を自分の家においていて、すぐ見せれる状態にはなかったのである。Mr.Chinはまず、労働者であるLatipが自分に向かって給料について文句を言うことに激怒し始めた。さらに、許可書が手元にないことをネタに、
’警察を呼ぶぞ!フィリピンに強制送還されたいのか!!’
とまで言い放ったのである。私たちはすっかり言葉を失い、Mr.Chinの言葉に深く傷つけられたLatipを慰めながら、家に戻ってきた。交渉どころではなかった。

その後フィリピンの3人はしばらく考えていた。というのは、Mr.Chinが果樹園で彼らを雇うことを申し出たからである。給料は一日12リンギット、しかし私のフィールドワークと違って長期間の雇用である。JefferyとGrandiは、果樹園で働くことに決めた。しかし、Latipは、私のフィールドワークを手伝いたいといった。
’フィールドワークがあるときだけしか雇えないよ、それでもいい?’
’もちろん、あゆと働きたい。’
そうLatipがいってくれて、私はうれしかった。そして、Latipは自分の家から洋服が入ったかばん一つを抱え、うちで共同生活することになった。このとき家に住んでいたのは、ポスドクのColin、私と同じく博士課程を勉強しているDaisy、Colinのフィールドワークを手伝っているGbi、私。Latipは、すぐ私たちの輪に慣れ、そして、頼むとおいしいご飯を作ってくれるようになった。

Latipは、フィリピン人であるが、生まれも育ちもマレーシア、サバ州サンダカン。というのは両親が彼が生まれる前にこちらに移民してきたからである。兄弟は、彼自身を含めて9人。しかし、父親は故郷であるミンダナオ島で起こったキリスト教徒とイスラム教徒間の暴動に巻き込まれて死んでいる。そのときLatipはまだ小さい子供、サンダカンにいながらそのことを知っただけで、亡骸を見ることもできず、泣くしかなかった。今までの人生の中で、一ヶ月間学校に行ったことがある。勉強したのはタガログ語。後の時間は、小さい頃から何か仕事があれば働くということを繰り返してきた。日本の一般的な子供とは、あまりに違う境遇に驚く。中でもLatipを見ていて印象的だったのは、彼は言語の天才だということだった。マレー語、タガログ語、彼の故郷の言葉であるBatusopolohbonom語、その他のフィリピンの地方語、そして片言のスペイン語と、彼は6、7の言語をしゃべることができたのだ。日本人の私には、あいた口がふさがらないほど驚きだった。

一度、セピロクとサンダカン市街のちょうど間にすんでいるLatipの親戚のうちを訪ねさせてもらった。彼の家族に負けないほど子沢山。最初はみんな恥ずかしがっていたけれど、私がデジカメで写真を取り出すと大喜びし始めた。そしてLatipは、私にフィリピンのダンスを教えてくれて、私もみんなに混ざって踊る。とても温かい時間だった。彼らが住んでいるのは、マレーシアの人が住んでいる地区とは、大きな広場を境に分かれていて、バラック小屋のような建物である。本当に雨風をかろうじてしのげるような建物である。この建物が、2ヵ月後に、政府の移民対策のもとにブルドーザーで倒されることになるとは、想いもしなかった。


Latipの親戚の人々。素敵な家族である。


Latipは、実はとても踊り好きなのである。

Musim tangkap。Musimは季節、tangkapは捕らえる。マレーシア政府が、フィリピン、インドネシアからの移民がすんでいる地区を一掃し、かつ不法移民がいれば捕まえるという季節のことである。今年これがあったのは、5月下旬。ちょうど私が日本に一時帰国しているときで、セピロクに帰ったときに、
’あゆと遊びに行った家が、もう今壊されてないんだ。’
とLatip。話を聞いて私は、Latipの親戚は強制送還されたのかと心配したが、Musim tangkapの情報というのは事前に人々の耳に入っていて、ほとんどの人は、実際に建物解体がある前に親戚筋を頼って別のフィリピン人地区に移動するのだという。
’今は、もう少しセピロクに近い側に住んでいるよ。’
と聞いて私は安心した。私の目から見ると、いつ来るかわからない政府の移民対策を気にしながら移動生活をするなど想像できないが、彼らにとってはそれは普通なのかも知れない。運ぶものは、洋服と日用品が入ったかばん一つ二つ、そしてここ近年は携帯電話が普及してきたから、突然住む場所を変えることになっても、簡単にお互いに連絡が取れるようになったという。たくましい限りである。彼らにとっては、携帯電話は必需品だ。何しろ、彼らの生活スタイル自体が’モバイル’なのだから。

2001,2002年にサバ州で非常に大がかりな移民対策がとられた。サンダカン市街に近い所にある巨大な移民地区が解体されたのである。それと同時にフィリピン、インドネシアに帰国する人が増え、サンダカン市街にたむろするホームレスの人が減った。街全体の治安も相当よくなった。しかしその一方で、マレーシアの主要輸出品目であるオイルパームのプランテーションは、一日8-10リンギットという低賃金の移民者による労働から成り立っている。マレーシア政府は移民者摘発に翻弄する一方で、それがすべて成功してしまうと、国家が経済的に成り立たないという矛盾を抱えている。勉強不足の私は、マレーシア政府の移民対策に関して全く知識がないのだが、おそらく地域ごとに移民のもたらす利点と欠点の折り合いをつけながら対策が採られるべきなのだろう。しかし、フィリピンやマレーシアを、問題色のめがねをかけてみると、その楽しさが色あせてしまう。

私は、Latipともっと時間をすごして一緒に楽しみたい。フィリピンの食べ物のことや踊りのことや音楽のことや、どんな海岸があるかとか教えてもらって、いつかセピロクの3人も一緒にフィリピンに遊びに行きたい。地面に足をつけながら、小さい視点でフィリピンやマレーシアを知りたいのである。Mr.Chinを通してという奇異な出会いだったけれども、これこそめぐり合いではないだろうか。このめぐり合いを通して、私がフィリピンのことを好きになるように、そしてLatipとセピロクの3人が日本に興味を持ってくれるように、そして色々楽しいことが起こりますようにと願う、今日この頃である。


カメラに向かってふざけるLatipと土壌サンプルと著者うしろ姿。

2003/06/30