2014年3月 富山に山スキー
22日僧ヶ岳、23日人形山


去年の秋、猿倉から親不知を2日間で走破した時にご一緒した富山在住のTさんは、よく山スキーにも行くという。今考えると、自分の山スキーの技術を全く省みずに、参加希望してしまった、、。
私にとっては、息も絶え絶え、冷や汗止まらず、四苦八苦する山行だった。Tさんには本当にお世話になりっぱなしでどうお礼したらいいかわからない。

3月21日
この日は友人の空手道選手権の日だった。その応援が終わった後、私は家に戻り、スキーとテントを担いで出発。上野発の上越新幹線で越後湯沢、そこから特急はくたかで魚津。富山鉄道に乗り換えて雪のちらつく宇奈月温泉駅についたのは23時30分。

新幹線と特急を乗り継げば、夕方に上野を出てその日中に宇奈月温泉に到達できることに感動して駅を出ると、Tさんが迎えに来てくれていた。ここから山スキーをはいて標高400メートルにある宇奈月温泉のスキーハウスまで標高差100メートル程を登る。テントが入ったザックは重くハウスに着くまでに私は汗びっしょりになってしまった。この建物の玄関脇にテントを立てて12時過ぎに就寝。思ったより寒さが厳しい。やはりここは北陸であった。

3月22日 僧ヶ岳
Tさんが山レコに書いてくれた記録。

朝4時に起床した時は、星と月が冷却された空気の中に輝いていた。朝食をとって朝5時、まだ暗い中ヘッドランプをつけて出発。



スキーハウスを出発する



スキーリフトの横を登りきると、そこには平和の像(宇奈月町出身の作家さんの作品)があり、前方には雪が積もった林道が見えた。
「よかった。前回2月に来た時はもっと多くの雪が斜めに積もっていて雪崩が怖くて歩けなかったんですよ。今日は林道が歩けますね。」
とTさん。林道の歩行が不可能の時は、右側の稜線上を歩かなければならない。夏場は林道の終点まで車で入ることができ、僧ヶ岳は黒部の人たちの日帰りハイキングコースだという。



これから林道へ進んでいく



だんだんと日が昇り、私は休憩がてらサングラスをつけて日焼け止めをぬった。林道の途中までスキーで歩き、そこから急斜面を登り稜線に向かう。と言葉で書くのは簡単だが、この急斜面が困難の始まりだった。Tさんは板で雪を上手く踏みつけ、切り替えして登っていくが、私はどうしてもそれができない。
「はあはあ、ダメだ、、。すみません。スキー板外して登りますね。」
はずすと足はズボーっと沈む。雪面接地面積と重量の関係を感じる瞬間であるが、そんなことに感慨を寄せている暇はなく、私は板を両手で持ってツボ足でキックステップをしながら、なんとかまたスキーがはけると思われる斜面まで登った。Tさん、きっと「今日はお荷物を連れてきてしまった。」とお思いだろう、、、。

この後はやや幅広の緩やかな稜線を登った。たなびく雲が太陽光を遮っているが、空全体は青く、向かう雪面には誰の足跡もない。下には、宇奈月ダムの湖面が朝日に光って見え、その向こうには後立山の稜線。去年Tさんと一緒に歩いた白馬から北へ向かう稜線もわずかに見える。

1043メートル地点に出て、私達は休憩した。私は自作のみかんケーキ、Tさんも自作のパワーバー。そしてTさんはコップにとった雪にコンデンスミルクをかけてカキ氷を食べる。誰も歩いていない雪面のカキ氷は、何かちょっと特別である。



600メートル登ってやっと休憩〜。



前方には巨大な山塊がそびえている。あれが僧ヶ岳?と思いきや、Tさん曰く
「今目の前に見えているのがまた難所です。僧ヶ岳は、その先、、今ちょこっと見えているのがそうかな、、。」
私はちょっと愕然とした。「まだまだ遥か先やんかー! しかもその前がまた難所?!」

Tさんが右側に進路を取った稜線は、徐々にナイフリッジになった。こういう場所を歩くのに慣れていない私はどうしてもへっぴり腰になり、体が不安定になるのでさらに恐怖心が募る。一箇所など右側が深さ10センチほどのところでサーッと崩れる弱層で、左側は小さな雪庇。一体どっちを行けばいいんだ!という感じだったが、Tさんが雪を踏み固めて安定させてくれた跡を綱渡りのような心持でそろそろと歩きなんとか突破。

ナイフリッジを無事に越えたところで私は尋ねた。
「あの、、下りはどうするんですか。今のナイフリッジを滑るんですか。」
「僕だったらそのまま滑っちゃいますが、う〜ん、内田さんの腕次第ですね。降りてきた時に考えましょう。」
どう考えてもナイフリッジを私が滑れるはずがない。どうか上手く迂回できる斜面がありますように! 私は心の中で懇願した。

幅広の稜線に出ると、その目の前には1431メートルのピークが立ちはだかり、ここから先は急に雪の状態がアイスバーンになった。
「クトーつけましょう」
と言われ、私は急いで装着した。しかし、私は今までクトーを使ったことがほとんどない。つけて歩き始めてみたものの、クトーの歯は上手く食い込まず、シールも効かないので、怖くて進むことができない。

「Tさん、ダメです! 怖いです! うう、、。ツボ足で行きますね、、。」
私がスキーをぬぐと足がズボッと雪に埋まったのが、この方が滑らないのでずっと安心である。私は両手にスキーを持って、ツボ足で一歩一歩登って行った。Tさんはやや前方を進んでいる。

天気はよく、北には宇奈月温泉の町並み、遠方には日本海が見える。もう景色はここで十二分に美しい。でもTさんはやっぱり頂上まで行くつもりなのかしら〜!
と思ったときに、足元の感覚が緩んだ。ズボッと雪に穴が開いて私は落ちた。「ええ? うおお。」と思ったときには、私は大きな穴の中にすっぽりと埋まっていた。けっこう深く、肘から上ぐらいしか穴の外には出ない。穴の中には多くの枝があり、それを足場として外に出ようとしたが、何度やっても足が滑る。
「Tさん! どうしよう! 助けてください!!! 私、穴に落ちました!」
私は絶叫した。幸い彼はすぐ前を歩いていて、私の声を聞いてくれた。ザックがあると重くて動きにくいので、外して穴の外に押し上げようとしたときに、Tさんが戻ってきてくれた。
「Tさん、やばいです! このザック、安定したところにおいてもらえますか。」
それを外に出すのを手伝ってもらい、上半身を引っ張りあげてもらう形で私はなんとか穴から這い上がることができた。
「ああ、うう、。ありがとうございます。」
「こんなに大きな穴があるとは、大分もう雪が融けているんだね。板をはいていれば滅多に落ちることはないんだけれども、、。もう降りましょうか、、。」
待っていました! その言葉!! 私は一も二もなく頷いた。しかし自分ひとりだったらどうしよう、もっと大きな穴だったらどうしただろう。背筋が凍る思いがした。

また穴に落ちては大変と、スキー板を履き、Tさんの後ろをそろそろと滑り出す。彼は優雅に滑っていくが、必ず眼の届く範囲内で止まって私が降りてくるのを待っていてくれた。

幅の広い緩斜面ならば、なんとかそこそこ滑れるが、問題は木々が多く茂る急斜面。何回も転び、その度にえいやっと立ち上がり、しかし立ち上がった体勢が不安定だと、その直後にまたすぐ転び、しばし雪に埋もれて放心状態となる。

問題のナイフリッジのところは、TさんがGPSを見ながら左に巻く斜面を進んでくれた。と言ってもこの斜面も急である。一度転んで頭が真下になって足が枝に引っかかり、アウターの手袋は外れて落ちて行ってしまった。Tさんに手伝ってもらって、なんとか体勢を立て直し、斜面をトラバースしきった。

ここからはしばらく幅広の斜面。ちょっと雪景色を見る余裕も生まれ、滑りを楽しむ。山スキー、あと何回練習すれば上手くなるのだろうかと思う。

また樹林帯になるとトラブルの連続。特に、滑っている右の板と左の板が、ちょうど木の幹をはさんでしまった場合には最悪中の最悪で、股を開いて木に抱きついた状態から元に戻るのは、空前絶後の根気を要する。
「もうやだ〜〜! なんで取れないの! くっそ〜、どうにかしてよー!!」
と叫びながら、ばたばたと足を動かし、体を海老のように何回も曲げ起こし、雪に埋もれた板を少しずつ引っ張りあげて、なんとか脱出。ぜーぜーと息をつきながら、板を履きなおして体勢を整え、早く行かなきゃと思い振り向くと、そこには登り返してきたTさんがいた。私の不屈の孤高の奮闘振りは、見ていて相当おかしかったと思うのだが、
「大丈夫ですか?」
と、Tさんどこまでも紳士である。

一番最初に私がてこづった斜面の上部に戻ってきた。雪は表面がクラストしたザラメ雪で、私の場合全く板に力を伝えることができない。無理に曲がろうとしてこけると、立ち上がるのにまた体力を消耗するので、細かくスキー板を切り返して進む。そしてなんとか林道まで滑り降りる。
「Tさん、お待たせしてすみません、、。本当。」
「ここが、苦難のスタートでしたね。」
私は大きく頷いた。しかしここまでくれば、もう下界は近い。上りも下りも苦労したが、天候は安定し風もほぼなかったのが不幸中の幸いだった。

林道を歩いて平和の像までたどり着くと、Tさんが
「あ、ボードの人が来たみたいだな。」
滑った跡があった。私達より後に登り始めてスキー場の上の方まで登り、既に降りていった様子。ということは今日僧ヶ岳に今日登ったのは、Tさんと私の2人だけだったらしい。僧ヶ岳は1500メートルアップ、1500メートルダウンの山スキーとしてはかなりボリュームのある山で、日帰りで来る人はほとんどいないという。

平和の像から下は普通のスキー場のコースなのだが、足に疲労がたまっていた私は踏ん張ることができず、何回か転んだ。でも無事にスキーハウスの横に到着し、登ってきた峰峰を振り返ると、達成感と無事帰還したという安心感がじわじわと心の中に沸きあがってきた。



後にある上手なシュプールはTさんのだと思います。



明日登る予定の人形山は、今日実際に登った1000メートルぐらいの標高差で、ルートは今日ほど難しくはないという。体力勝負だけなら、なんとかなるかも!と私は思った。

二人ともテント・シュラフが入った荷物は20キロ近くあり、これを背負って宇奈月温泉駅の近くまでスキーで滑って降りる。ここで再度荷物の整理をしつつ、明日人形山に同行予定のWさんに電話を入れると、残念なことに仕事が予定通りに終わらず参加できない。でもTさんから預かった荷物があるので富山駅に迎えに行きますとのこと。

駅構内に荷物を置き、駅前の宇奈月温泉会館へ向かった。お湯に浸かると滝のように疲れがあふれ出て、私は湯船の中で幸せに転寝した。はっと気付くと湯船や洗い場にいる客層が変わっているということを4、5回繰り返してしまった。

先にお風呂を出てビールを一杯飲んでいたTさんと駅で合流し、1732分発の富山行きの電車に乗った。宇奈月から魚津までまっすぐ海に向かって標高が下がるに従い、ある所で急に雪がなくなった。辺りはまだ田植えが始まっていない田んぼが広がり、散在する農家さんの家は立派なものが多い。

持ち家率、持ち家延べ面積が全国1位の富山県は、寒くて長い冬を乗り切るために、防寒・防湿対策にしっかりとお金をかけて大きくて立派な家を建てることがステータスであるという。
「富山県はそうなんですね。でも最近は、子供達が家を離れてしまうから、高齢になって大きな家にご老人1人ってことにはならないんですか?」
私は、首都圏の独居老人の多さを思って尋ねた。
「そういうケースもないことはないですけど、多くの人が一旦は離れるけど、まだ戻ってきて地元で仕事につく場合が多いですね。僕もそうですし。」
金沢生まれのTさんは、東京の大学で働いていたがJターンして今は富山大学で働いている。そういえば小千谷生まれの友人も、可能なら実家に帰りたい、東京は息苦しいと言っていた。田舎の人たちのごく自然な地元への愛着心。私は船橋で生まれ育ったが、父は愛知生まれで母も千葉とは縁がなく、船橋に帰って住みたいというまでの愛着は沸かない。なので逆にそれが羨ましい。

ちなみに今Tさんは、富山市内にある大学所有の公務員宿舎に住む。Tさんのご家族は東京在住なので単身用の部屋でいいと言ったが、家族用の部屋が割り当てられた。そのためスペースには余裕があり、空き部屋には山道具などを拡げ、リビングルームはすっかり同じ宿舎に住む先生達との飲み会場所になっているという。

日はいつの間にか西方に沈み、すっかり暗くなった19時過ぎに富山駅に到着。来年の4月に新幹線の開通を控えた富山駅前は、大規模改修工事の真っ只中で活況を呈している。高架橋下の駐車場には、明日の山行に参加できなくなってしまったWさんが迎えに来てくれていた。Wさんは、Tさんと同じ富山大学に勤める流体工学の専門家。よく笑う頼れるお兄さんという感じで、私達の荷物を車の中に入れてくれるとTさんの公務員宿舎まで車を運転してくれた。

Wさんの出身は宮城県の古川市。富山に来る前は広島在住で、県北のスキー場によく通っていたという。
「広島の北部はけっこう豪雪地帯なんですよ。広島市内から2~3時間でいけるし、けっこうスキーができる環境なんですよ。あ、これ今日の夜よかったら飲んでください。」
と手渡されたのは、富山の日本酒。Wさんは明日の夜の打上げには参加してくださるという。

Tさんと私はその日本酒を手土産に、人形山の登山口となる大勘場へ出発した。途中食料買出しのために、アルビスという地元のスーパーマーケットに立ち寄る。

地方都市に来た時のスーパーでの買い物ほど心わくわくするものはない。くるり一周してみるとその地方独特の商品がけっこう見つかるのである。まず私が発見したのは、昆布パンであった。Tさん曰く富山県は1人当りの昆布消費量が全国一位で、何にでも昆布を入れる。昆布パンも普通に売られているという。見た目は白パンに塩昆布が入ったような感じ。

お惣菜コーナーには、サス(富山でのカジキマグロの呼び名)の昆布〆、山菜の昆布〆など数種類がおいてあった。また今が採れどきというホタルイカ、イカ墨、フクラギ(富山でのブリの呼び名、ツバイソ → コズクラ → フクラギ → ガンド → ガンドブリ → ブリ)等の日本海の幸が、お魚コーナーを彩る。

お豆腐コーナーの一角には、ステーキ揚げと名の付いた超巨大な厚揚げがあった。さすが日本酒の産地、酒粕も何種類かある中、なんと茶色の米ぬかのような酒粕もあった(後日調べたところによると、茶色いのは白い板粕を再発酵・熟成させたもの。脂質・たんぱく質・灰分が多くなるので茶色くなる)。夕飯用にお惣菜をいくつか買って、スーパー探索は終了。

神通川沿いに車は進み、34号線に入ると辺りはすっかりさみしくなった。八尾のおわら風の盆や、???の盆踊りの話をしているうちに、私はうとうととしてしまい、小一時間経ってTさんが急に車を止めたので目が覚めた。目の前には、小規模な雪崩が起きて道路を完全にふさいでいる。大勘場までは後1キロの地点だったので、今日はここでテントを張り明日はここから歩くことにした。

夕飯はスーパーで購入したマス寿司、おからの煮物、ポテトサラダ、餃子のスープ。Tさんと同じ講座の教授は、富山出身で源流部でのイワナ釣りをよくやり、年に2,3度はTさんの部屋でイワナ宴会があるという。

源流イワナ釣り師の教授。プロ級の山スキーの腕前を持つTさん、Tさんと山スキーによく繰り出すWさん、このお三方の存在を思うと、富山大学の先生達は仕事も趣味も半端ないツワモノぞろいに思えてしまう。北大にはそんな教授陣はいただろうか? 

11時過ぎに就寝。ここ大勘場の標高は700メートルと昨日の宇奈月温泉よりも高い。首と腰の後ろにつけたホッカイロのおかげで、今夜は快適に寝ることができた。

23日 人形山
Tさんが山レコに書いてくれた記録。

朝、除雪車が大きなエンジン音を立てて通り過ぎる音で目が覚めた。時刻は4時半。2人とも寝坊である。でも除雪車が雪崩の箇所を除去してくれるのであればそれを待ってからにしようということで、お湯を沸かしてゆっくりと朝ごはんを食べ、結局スキーを大勘場を出発したのは615。

前方には、一歩一歩ラッセルをしながら進んでいく釣り師の姿。追いついたので何を狙っているのかと声をかけると
「イワナですよ。でも今日は水が少ない、、。ダメだなこりゃあ。」
と肩をすくめながら言う。しかしそれは恐らく彼の本心ではない。釣り師は「今日は(ここは)釣れるよ。」とは絶対言わない。釣れる確信がなければ、こんな奥地までわざわざ積雪期に来ないだろう。と私は思った。

そんなイワナ釣り師を横目に、Tさんは林道を進み私はその後を付いていく。30分ぐらい進むと沢地形の手前に大きなミズナラの木。これが目印で、ここから稜線に向かって登っていくという。キックターンで斜面を上り始めるとすぐに汗だくになったが、風もなく天気もよくて、足がすくむようなナイフリッジでもない。
「ここら辺のブナにはヤドリギがよく付くんですよ。」
「あ、本当だ。かわいらしいですね〜。」
と平和な会話を交わしながら、1200メートル付近まで到達すると目の前に目指す人形山とそこから右側に弧を描くように連なる稜線が見えた。

この後に、今までさくさくとトップを行っていたTさんのシールに雪が付くようになり、
「すみません、ちょっと雪を落としますね。」
板を外して、ストックの先で雪を落とした。私はトップを交代することを申し出て、しばらく先頭を歩いたが、それでも私のシールには雪が付かずTさんのシールには雪が付く。私が使っている水色のシールは、若干滑りやすいのだが、逆に雪も付きづらいという性質もあるのだろうか?

1500メートルの地点まで来ると、後はいくつかのピークを巻いて越えながらの稜線歩きとなる。Tさんがまた先頭を進み、私はその後を行く。

私はのどが渇いたので、雪を手にとってできるだけ固く丸めて食べた。以前、雪を食べるとのどが余計に渇くから食べてはいけないと聞いたことがある。確かに最初雪を食べるとまたもう少し食べたくなるが、さすがに5、6個の雪のお団子を食べると喉の渇きはなくなって落ち着く。エンドレスに「もう1個食べたくなる」ということはないので、喉の渇きを潤すために雪のお団子を食べるのは問題ないのではないだろうか。ただし食べるならさらさらの雪ではなく、固めた状態もしくは枝についている海老の尻尾などアイス状に近いもののほうがいいとは思った。

ピークを巻くときに、昨日の僧ヶ岳の上部と同じようなアイスバーンのような斜面が出てきた。Tさんはエッジを斜面に効かせて上手く登っていくが、私は少しでも板がずるっと滑ると怖くなってしまい、安全策をとって板を脱いでツボ足で通過。

1601メートルのピークを巻くと、人形山は目の前に荘厳に聳え立ち、さながら雑誌に出てきそうな有名な山の1つ。とても1700メートルの山とは思えない。
「鞍部からの登りがちょっと難所なんですよね。」
とTさんがいう。その場所が眼前に近づいてくると、思っていたより急勾配で、かつ斜面の一部はアイスバーンっぽいことがわかった。風も少し出てきている。

Tさんがキックターンで登っていくが、私はその斜度が怖くてたまらず
「ああ、もうここでいい。十分登った。」
と心の中で思い始めた。と、Tさんが止まって上を眺め
「ここから先は固くて登れなさそうです。」
「あ! じゃあ引き返しますか?」
私は喜々として返事をし、方向転換して歩き始めた。

登ってきた斜度をそのまま降りるのは怖かったので、緩やかな斜度を選んで歩いていくと、突然足元の雪がズボッと抜けた。「あれ? うわあ。」と思ったのもつかの間、私は今日もまた雪の穴に落ちてしまったのである。しかもスキーを履いていたのに。しかし今日の穴は、まだ私の胸辺りまでで済んだ。Tさんが穴の外に安定した場所を作ってくれたのでザックと板をそこに出して、自分で這い上がることができた。

そこから鞍部のほうに進んでいくと、雪の状態は変化してやわらなくなり、Tさん曰く
「ここなら登れるんじゃないですかね。」
私は上を見た。確かにさっきの斜面ほど急ではない。私は頷いて、Tさんの後に付いていった。

登りやすい斜面を選ぶというのは、とても重要だと実感した。予想以上に簡単に難所を越えて稜線に出ることができ、後は緩やかな稜線歩き。と言っても所々アイスっぽいところや雪庇があって
「もう少しもう少し、気を抜くな。危ないぞ。」
と自分を鼓舞して歩き続け、ようやく人形山山頂に到着。
「GPSだと向こうのほうが山頂みたいですね。ちょっと行ってきたいんですが、、。」
「は〜い、行ってらっしゃい。私はここで待ってます〜。」
と、100メートル先まで歩くのも遠慮してしまうほど、私は疲労困憊していた。

戻ってきたTさんが見える山々を説明してくれる。富山県と岐阜県の県境に位置する人形山からは、遠く南側には威風堂々と白山がそびえ、近傍には三ヶ辻山、金剛堂山が見える。
「あそこにスキー場があるのが見えますか。」
金剛堂山の近くの山を指してTさんが言った。
「あ! あの山肌の木々が削られているところですね。」
「昔は、利賀スキー場っていうのがあったんですよ。でも数年前にクローズしてしまって。その近くに天竺温泉っていうのがあるんですけど、スキー場が閉まった後は利用客が激減して。」
残念な話である。昨今、スキー場の閉鎖や休業は全国至るところで聞く。

Tさんは山頂でシールをとったが、私はアイスバーンっぽいところが怖かったのでそこはツボ足で歩き、三ヶ辻山との分岐である鞍部まで戻った。ここからは岩長谷への滑走となる。ブナの大樹の間に輝く雪面はとても美しいが、斜度は相当急である。Tさんは、斜滑降していき端のほうでくるりと上手にターンするが、私にとってはこの傾斜かつ表面がクラストしている雪上ではターンなんて百年早いという感じで、根気よく切り返しを続けて下る。

もう春を感じさせる重たい湿雪で、切り返しの時に板を持ち上げるのもよいしょ、よいしょという感じ。しかし1200メートルぐらいまで下ると傾斜も緩やかになり、5回に1回ぐらい運がよければターンが決まるようになってきた。Tさんは、ターンするときに板が雪に取られないように軽くジャンプして回っている。なんだかとてもかっこいい。いつか私もあんな滑りができるようになるのだろうか。

徐々に沢音が大きくなり、所々にある雪穴には水が流れるのが見えるようになった。すると前を滑っていたTさんと私の間を、まだ子供と思われるカモシカが上のほうから駆け下りてきた。そのカモシカはたぶん水が飲みたかったのだと思う。流れのある穴のわきに入ったが思ったよりその位置が水面より高く、首を伸ばして足元の雪が崩れちょっとバランスを崩した。
「へー、カモシカでも雪の上でこけそうになるんだ。」
と親近感が感じられてうれしい。Tさんもとてもうれしそうにカメラで何枚も写真を撮っている。

時刻は15時前。GPSを見てTさんが場所を確認する。
「ここから林道までは後600メートルです。」
「あ、じゃあ暗くなる前に戻れそうですね。」
ゴール目指して滑り始める。しばらく進むと堰堤なども見え林道が近いと感じられたその時に、ほとんど融けかけのスノーブリッジが現れた。今にも崩れそうであったが、Tさんがそろりそろりと板を滑らせ上手く渡る。私もその後を
「どうか今だけ体重が軽くなってください。」
と念じながら進み、無事に渡り終えた。

この後は、ベンディングのヒールが上がるようにして、ひたすら林道を滑る。今日の取り付きとなったミズナラの木のところに戻り、Tさんのパワーバーと私のみかんケーキでちょっと休憩。この山はきっと春の芽吹きと秋の紅葉の季節も素晴らしいだろうと思う。

そこから15分ほどでイワナ釣り師が降りて行った堰堤の箇所を通過した。もちろん釣り師は既に引き上げていたが今日は釣れたのだろうか。

無事に大勘場の駐車場に戻ったのは1615で、約10時間の行動であった。除雪車のエンジン音で目覚め、歩き始めてミズナラの木のところから取り付き、長大な稜線を歩いて頂上到着、その後苦労して滑った岩長谷。長かった一日を反芻しながら、Tさんに無事に行って来られたことを感謝する。ブーツを脱ぐと足には、血が駆け巡る感じがしてほっとした。ここから向かったのは、Tさんが頂上で話していた天竺温泉。

利賀スキー場のクローズとともに利用者が激減したという天竺温泉は、20ヶ所以上の洗い場に、サウナ、内湯、露天風呂という素晴らしい施設だった。しかしその大きなスペースに、私は終始1人で、ちょうど出る時に入れ違いに入って行ったのが地元の人と思われるおばちゃん2人。脱衣所の壁には、今年の夏に行われる利賀トレイルランのポスターが貼られていたが、1回のイベントで呼び込める客数とワンシーズンのスキー客では大違いだろう。客が多すぎれば「混雑している」といわれ、少なすぎれば「閑散としている」と敬遠される。観光地の健全な長期経営は本当に難しいだろうと思う。

富山へ戻る車の中で、Tさんが五箇山のことを話してくれた。白川郷と同様に合掌造りで有名な五箇山は、素朴な良き観光地。ここで一時、永住してくれる人を募集というキャンペーンがあった。富山市内まで1時間。つく仕事は農業もしくは観光業だろうか。若い女性が永住したら、必ずや引く手数多だろう。

今日の夜私が乗る東京行きの夜行バスにはスキーを載せることができないので、途中スキーを発送するためにセブンイレブンによってもらった。値段が変わらないならばと、スキーの袋に寝袋などもぎゅうぎゅうと詰めて発送。ちなみにコンビニでの留め置きができるのは100サイズまでで、120のスキーはそれができないことがわかった。

すっかり夜になった神通川沿いを走って市内へ向かう。自動車のライトが川面を飛ぶように映って美しい。昨日のアルビスというスーパーに再度立ち寄り、今日の夜の宴会用にお鍋の具材とホタルイカ、そして私はおみやげを買い、Tさんの家へと向かう。

有沢橋を渡って少し進んだところで、カーナビの画面に「西田地方」という地名が出た。
「ここが僕の住んでいる宿舎のある地名です。なんて読むかわかりますか?」
Tさんがわざわざそう尋ねるということは、「にしだちほう」ではないのだろう。
「ヒントは西と東があります。」
ということは、田地方の読み方が何かということだ。でもわからない。答えは「ニシデンジガタ」だという。何か肩をいからしたような感じの呼び名である。

8時に宿舎に帰ったときには、既にWさんが待っていてくれ、荷物を降ろすのを手伝ってくれた。今日の宴会にはWさんも参加である。公務員宿舎の建物は築30年近くは経っている古い作りであったが、Tさんがいっていた様に中は広かった。

玄関わきに荷物を置かせてもらい、食卓とガスストーブのある居間にお邪魔する。するとそこにはTさん愛用のレーサーがあった。壁には今までTさんが参加した自転車レースのゼッケンが20枚近く張られ、立山連邦の写真、ピッケル、わかんも飾られている。工学部の先生という雰囲気は一寸もなく、趣味一直線の部屋だった。私は「教授」という肩書きのある人の部屋に入るのは初めてであるが、Tさんの部屋は平均的な教授の部屋ではないだろう。

私は今日夜行バスに乗って東京に帰る予定なので、Tさんがその時間にあわせてタクシーを頼んでくれた。Tさん、そして幾度もここで飲み会に参加しているWさんが、手早くグラスやガスコンロの準備をしてくださる。今日買ったホタルイカ、Tさんが作った青梗菜と厚揚げ(?)の炒めもの、魚の素揚げの南蛮漬けを肴に、私の自ビールで乾杯。鶏肉とねぎとみそ鍋の元を入れて鍋に火をかける。

昨夜Tさんから聞いた話では、Wさんは流体工学の専門(流体とは気体、液体のこと。固体は含まず)。わかりやすい例を挙げるならば、トンネルを通るときに受ける衝撃を緩和するための新幹線の頭部の形状の研究などが流体工学だという。私はWさんに何の研究をしているのかを尋ねた。

流体工学のシミュレーションだという。私がシミュレーションと言われてすぐに思い浮かぶのは天気予報しかない。
「天気予報のシミュレーションは、網目の細かさが精度と関わってくるんです。気温や湿度などを定点観測しているんですけど、その網目が粗いので数日後までの予報しかできないんですね。網目を細かくすれば、長期スパンでの予報ができると言われているんですけど。」
それは地震の研究をしている友人からも聞いたことがある。網目、つまり定点の場所を増やせば予測精度(地震ならがいつ地震が起き得るか)は上がるが、そのための予算がないのである。

「新幹線の先端部の形とかも、流体工学の1つなんですよね?」
「そうですね。あれはトンネルに突入した時に生じる衝撃波を和らげるためなんですよ。トンネルに入るときに圧縮された空気が抵抗になるんですが、それを和らげるために新幹線は先端部を細くしているんですよ。」
とWさんが説明してくれる。
「でも、それだけだと新幹線の先端部が、二段階にわたって高さが変化していることへの説明にはならないと思うんだよね。」
とTさん。確かにはやぶさ等の新型新幹線は、先端部が二段階に細くなっている。2人の間で何やら話は難しくなった。ところが私は彼らの会話に出てくる単語の意味がよくわからない。
「すいません。衝撃波って何ですか?」
と質問してみた。
「衝撃波っていうのは、何か高速のものが移動するときにその周りに音速に近い(以上?)の速さで空気中を伝播する波のことなんですよ。」
とWさんが説明してくれ、
「そう、音速のことをマッハというんだけど、それ以上の速さでものを動かそうとすると、それまで以上のエンジン出力が必要になるんだよ。」
とTさんが補足してくれる。そういえば、音速の壁とか聞いたことがある。
「あの、、なんで音速を超えようとすると出力が多く必要になるんですか?」
との私の質問に2人は笑った。

基礎知識もないのに興味深々と質問だけはする様子がおかしかったらしい。
Wさん曰く
「音速以下のスピードで動いている時は、空気の壁に当たってもそれが跳ね返って、再度当たるまでに若干間があるんですよ。でも音速以上になると常にその壁を押しのけている状態になるんで大きなエンジン出力が必要になるんです。」
なるほど、、。なんとなく想像できる。Wさんは学生には数式なども交えた説明をするのだろうが、私には今のがとてもわかりやすく、イメージ的には理解したと言うことで満足した。また衝撃波はトンネルを抜けるときに大きな音(空気中を伝播する波が人間の耳には音として認識される)となる。それを低減させることも、新幹線先端部の形状の研究の目的らしい。

新幹線に関しては、日本の精鋭な工学専門家の頭脳、技術もさることながら、世界一と称される日本人の勤勉さ、几帳面さも大きく寄与しているに違いない。それが時速300キロ近い新幹線を、東海道線に至っては10分に1本という信じがたい頻度で走行させることを可能にしている。

ちなみに世界最速、時速320キロを誇るフランスのTGV(Train a Grande Vitesse)は、主要路線の1つであるパリー南フランス間が一日に5本内外という頻度である。

あっという間に2時間半が経ち、Tさんはうとうととし始めた。Wさん曰く、山帰りの飲み会の時はいつもこんな感じだという。あまりによく寝ているので起こすのが悪いくらいだったが、
「Tさん、すみません。タクシーが来たのでそろそろ、、。」
と肩をたたくと起きてくれ、私は2日間のお礼を言って、2人とお別れした。

富山駅まではタクシーで10分ほどだった。今回の山行ではとんでもなく迷惑をかけてしまったが、またご一緒できますように!と願いながら、私は高速バスに乗り込んだ。


24日 月曜日

予定通り朝6時に新宿到着。一度家に帰ってザックをおいてすぐ会社に向かったが、午後になると猛烈な眠気と疲れと筋肉痛が体を襲って来た。しかしその苦痛に耐えている間に、うれしいことがあった。

私は富山のスーパーで買った昆布パンがけっこう気に入りその味が忘れられずにいたのだが、なんとクックパドにレシピがあるではないか! 
昆布パン

早速やってみようと、強力粉と塩昆布を購入。富山の味、再現なるか。