小川町和紙漉き総合4日間体験


埼玉県比企郡小川町、鎌倉街道の要衝の地であり、古来から和紙作りが有名な町。
この町で2007年に行われた第15回小川和紙マラソン大会で、私は女子10キロの部の9位に入った。
http://runnet.jp/sokuhou/detail.php?_num=40
心臓が破裂しそうなほど必死で走った47分56秒。
「おめでとうございます。」
の言葉とともに手渡された手漉き和紙の賞状と和紙の折紙に感激したことは、今も鮮明に心に残っている。



時々折紙をして和紙に触れている身として、和紙の作り方を学ぶことには興味があった。インターネット検索をしてみると、小川町和紙学習センターで楮の皮むきから始める本格的な4日間の総合体験を行っているという。早速電話申込をして、2011年5月14日、都会に住む人間の淡い自然回顧主義、知的好奇心、そして小川和紙マラソン大会への思い出を抱いて、東武東上線へと乗り込んだ。

約1時間揺られて着いた小川町の駅前は、かわいらしいロータリーと観光案内所があった。駅前通りには数メートルごとに、万葉集の歌のパネルが街路樹とともに立っている。この町は、鎌倉時代の仙覚律師が晩年に万葉の歌を集めてわかりやすく訳した地だという。


1日目
小川町和紙学習センターの建物は、戦前から1990年まで製紙試験場として使われていた平屋の木造家屋で、板張りの廊下は歩くとぎしぎしと音を立てる。



日が差し込む構造で中は明るい。





風に揺れる和紙の作品。



今回第41回目となる和紙講習会の参加人数は7人。
折り紙好きで和紙に興味がある私
美大在学中で卒業制作に和紙を使うことを考えている学生さん
全国の和紙漉き体験工房を行脚している方
小川町勤務で自分でも和紙漉きを体験してみようと思い立った方
、、と様々である。


初夏の日射しさす中庭で、学習センターのスタッフの人たちと挨拶を交わし、和紙作りの行程を説明してもらう。

1 原料となる楮の木の皮を剥く(かず引き)
2 ソーダ灰と共に煮込み繊維を柔らかくする 
3 繊維を水槽の中で洗う(塵取り)
4 繊維を叩いて柔らかくする
5 舟の中にネリ(トロロアオイの根から採取)と共に溶かす
6 簾げたで漉く
7 漉いた紙を圧縮して脱水
8 温熱板に刷毛で貼り付けて乾かす


「皆さんがよくテレビとかでご覧になるのは簾げたで漉く所だと思うんですけど、その前後の行程も時間がかかって大変な作業です。これらの行程を4日間で学んでいきます。」

作業場の中には、漉くのに使う舟と簾とゲタ、乾かすための温熱板、圧縮機、繊維を柔らかくするためのビーター、冷蔵庫などがあった。外には、製紙工場時代に使われていた機械があり、その向こうの敷地からはお囃子の笛と太鼓の音が響いてきた。
「誰かが練習しているんですか?」
「たぶん、七夕のためだと思いますよ。7月23,24日に小川町で七夕祭りがあるんですけど、和紙のお飾りもたくさんついてとても賑やかなんですよ。興味があったら来てみてください。」
スタッフの人は冷蔵庫から、楮の繊維とトロロアオイの根を取り出しながら言った。



楮の繊維





トロロアオイの根(これを漉してネリを取る)





楮の繊維を舟の中に溶かす





水に浸した簾とゲタ





ここから、漉きが始まる。



まず始めは、化粧水といって軽くすくってパッと捨てる。その後の本すくいは多めにすくって、縦に何回か揺する。げたの上に溜まった、白い楮の繊維を含む溶液が、ちゃぽん、ちゃぽん、ちゃぽんと心地よい音を立てる。ねりのおかげで溶液はゆっくりと簾の合間から落ち、その間に楮の繊維が絡み合って紙となっていく。
この本すくいを何回かくり返した後、最後に捨て水といって溶液を簾げたの向こう側にぱしゃっと捨てる。
漉いた紙を下にして台に重ね、簾だけを上手く取り外し、再びげたに簾をはめる。



息を止めてそっと簀だけを外す



私達生徒は、慣れない手つきで1枚漉いたら次の人と交代していたが、職人さんは、これらの作業を寸分の狂いもない的確さでこなし、一日で200〜300枚漉くこともあるという。

あっという間に午前中は過ぎ、お昼は皆で歓談しながらお弁当。

午後は、大きな容器の中に浸された楮の皮むきの作業となった。
「かず引きっていいます。小川町の辺りでは楮のことをかずっていうんですよ。」
台の上に幅5〜10センチ、長さ1メートル強の楮の皮をおいて、小刀で外側の緑色っぽい甘皮、内側の白い白皮とに分けていく。皆でしゃべりながら、手は動かして皮をむいてゆく。剥いたものは、水槽の中で軽く水洗いする。



乾燥させた状態の甘皮



午後3時30分過ぎ、剥いた皮は乾燥させるために網の上におき、舟に溶かした楮の繊維は集めて中を洗い、簾やげたから小さな繊維を取り除いてきれいにし、ネリを作ったトロロアオイの根は冷蔵庫にしまった。今日の作業は全て完了。漉いた和紙は、圧縮機にかけて明日鉄板に貼り付けて乾かす作業を行うという。

2日目
次の日も快晴に恵まれて、昨日の続きである楮のかず引きが始まった。全部で百本以上の皮があっただろうか、なんとか終えることができたが、一人では到底こなせない量である。
「この状態だとまだ繊維は堅過ぎて紙は漉けないです。だからこれからソーダ灰と一緒にこの鍋で2〜3時間煮込みます。」
スタッフの人は、作業場の隅にある、給食を作るときに使うような大きさの金属鍋を指した。
「昔はソーダ灰の代わりに何を使っていたんですか。」
「木の灰です。昔の人は経験的に灰のアルカリが繊維を柔らかくすることを知っていたんですね。」



煮る前はまるでカンピョウ!



煮る行程は、手間と時間のかかるあく抜きに似ている。自然のものから何かを得ようとするときは、その下準備に膨大な時間がかかる。スーパーに通う日常生活では忘れている事実である。
楮を煮込む間、昨日漉いて圧縮した和紙を温熱板に貼り付けて乾かす作業を習った。漉いた和紙は何重にも重ねられているが、端から一枚だけをめくり、刷毛で対角線に沿って引っ張ると和紙は見事に一枚だけ剥がれる。



この不思議な作用は、トロロアオイのネリの作用による。





それをシワがよらないように、丁寧にかつ素早く温熱板に貼り付ける。



10分もすると和紙はきれいに乾いて、温熱板から剥がすと一枚の和紙の完成。やわらかい象牙のような色、日に透かすとわずかに見える楮の繊維、均一ではない表面に手作りの温かさが宿る。
「今日完成した和紙はもともとあった楮を使って作りましたが、来週は皆さんにかず引きをしてもらって今日煮た楮を使って漉きます。もっといい紙が漉けると思いますよ。」
手には自分が漉いた和紙を持ち、来週に期待して帰東。

3日目
好転に恵まれた5月21日午前中の作業は、先週煮て柔らかくした楮の塵取りであった。大きな水槽の中に浮かべられた楮を、一本ずつ手で掬い上げて小さい樹皮などを丁寧に取り除く。屋外なので皆帽子を被り、近所から響いてくるお囃子を聴きながらの作業である。
約8キロの楮の塵取りを終えて、車で向かったのは小川町で親子三代にわたって紙漉業を営んでいる 久保昌太郎さんの工房。

楮畑、職人さんが漉いている作業場、土佐から仕入れている楮置き場、板干しするための板などを見せてもらい、槻川の豊かな流れが古来から小川の和紙作りを支えてきたこと、戦後の生活スタイルの変化の中で和紙産業は急速に衰退していること、問屋を通さずに直接商品を市場に出す販売ルートを開拓しようしていることなどを聞く。
帰りに工房のおみやげ屋さんによった。美しい和紙の数々に見とれ、便せんを買おうかと思ったが、以前購入した和紙の便せんがまだ残っていることを思い出した。最近人と連絡を取る時はメールか携帯いずれかである。そう言えば、最後に和紙を使って人に手紙を書いたのは、いつだっただろう。


昼食を取った後は、塵取りをした楮をビーターという機械にかけて、水に溶けやすくした。



機械は早い!



これは叩解と呼ばれる作業であり、機械を使わない場合はトンカチでひたすら根気よく繊維を叩く。この作業は、昔は、夕方から始まり翌朝までかかることもあった。繊維を叩きほぐす音、それは紙漉の里に住む人々にとって慣れ親しんだ音であった。




甘皮(楮の外側の緑色の皮)の叩解は、皆で手作業。



これらの材料を使って、午後は白皮の和紙を5枚、甘皮の和紙を5枚づつ漉いた。 甘皮は、塵取りをしていないので黒い樹皮が多く混ざっており、表面がぼこぼこの漉き上がりになる。それはそれでまた別の味がある。
「甘皮で漉いた紙は、板干しにして乾かします。貼り付けるのはこの板です。」
スタッフの人が最初の一枚をゆっくりと剥がして、刷毛で板に貼り付ける。
「白皮と違って、ちょっと湿らせてしっかり付けた方がいいです。そうしないと板から剥がれちゃうことがあるので。」




霧吹きを使いながら、貼り付ける。



次々に貼られていく淡緑色の紙を見て、小さい頃実家の近くの河川敷で海苔を乾かしていたのを思い出した。両方とも板に貼り付けて干すという原理は同じである。
板干しは、流漉きを発明した日本独特のものである。西欧では溜漉きで漉かれた厚い和紙は網に干したり、内部に火を点した煉瓦に張りつけて乾かしたという。繊維質に富んだ植物、豊富な川の水、人の手仕事、そして大陽の恵みを受けて、和紙はできあがる。

4日目
板干しにして和紙を乾かす小川の町には、ぴっかり千両という言葉があり、好天はとても喜ばれる。
「昨日漉いた甘皮の和紙、もう乾いているのではがしましょう。」
その和紙は分厚くて丈夫であり、白皮の和紙が宮廷の女御なら、こちらは峠の茶屋の看板娘といった感じである。両者とも、両者なりの良さが在る。
今日は昨日漉いた和紙をまず乾かし、2槽の舟を使って再び和紙を5枚漉き、圧縮脱水して午後温熱板で乾かすという作業だった。
楮とネリを溶かし、簾げたを準備して、化粧水、本すくいをして、そして板の上に重ねる。




紙漉、少しは慣れてきたか?



一連の作業、体得したような気になるが、1人でやると曖昧な所も多い。小川町和紙学習センターでは、4日間の和紙体験講習を終えた人に、有料でこの作業場を貸してくれる。しかし1人で楮の皮むきからするのは労力と時間がかかりすぎるので、叩解を終えた楮を買うこともでき、各種機械を使うときはスタッフの方がついてくださる。

温熱板に紙を貼り付けるのは、緊張する作業である。今日漉いた和紙は半日しか脱水していないので、先週のものに比べてやや扱いづらく、貼り付けた瞬間から湯気を出して乾き始める和紙に対峙して、皺が寄らないようにと大急ぎで刷毛を動かす。それでも皺がついてしまった場合は、その皺を逆に生かして何かランプシェードでも作るために使おうと思い直す。

無事に今日の行程を終えたのは、午後3時。
作業場にベンチを並べ、4日間の講習会の修了式が始まった。小川町和紙協会の会長より一人一人に修了証が手渡される。もちろん一枚一枚手漉きの和紙で、絵柄になっている植物は楮。

今度は輪になってみんなで座り、お茶お菓子をいただきながら歓談する。 4日間の感想、漉いた和紙を何に使いますか、今後またここに紙漉に来ますか?
  夏には楮畑で雑草取りの作業、冬にはかしきという楮の刈り取りの作業がある。
「体力に自信のある人は是非来てくださいね。ランナーの人も是非。」
と声をかけられるが、炎天下での中腰の作業、自信がない。しかし、参加しようと思う。修了証はいただいても、楮の収穫をせずして和紙作り講習は完了しないような気がする。

この日の帰りは、駅前の地ビール屋さん (麦雑穀工房マイクロブリューワリー)で他の生徒さんと一緒に祝杯をあげた。自ビール造りが高じてお店を開いたというこのお店では、ピルスナー、ブラックなど数種類が楽しめ、地元産の野菜やウインナーのおつまみにもこだわりがある。
「4日間の和紙漉き体験をやってきたんです。」
「そうですか。それは素晴らしい体験でしたね。」
カウンター越しに、マスターが笑顔で返事をしてくれる。

東京に帰って、白皮の和紙を使って和綴じの冊子を作った。何か特別なことを書きためる一冊にしたいと想い、友人知人に座右の銘を書いてもらうことにした。

「柔よく剛を制す」
「登高明望四海」
「自分の人生、自分が主役」
「独生独死独去独来」
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
「志あらば道は必ず拓ける」
「いつも笑顔で楽しく」
「人間万事塞翁が馬」
「Love & Happiness」
それらの言葉は、漉いた和紙に入魂される。


和紙漉きの技術は、西暦610年推古天皇の時代、高麗の高僧曇徴によって伝授されたとも、越前国においては西暦530年代、水波能売命という神によって伝えられたともいわれる。初期には麻を主原料として漉かれた和紙は、強靱な繊細を持つ楮や雁皮を使うようになり、仏教の伝来、万巻の経典の写経が国家事業として行われると共に、その技術は美濃、出雲、武蔵、土佐を始め、全国に広まっていった。

正倉院文書によると、奈良時代に植物の天然色素を使って染めた五色紙、蘇芳紙、紫紙、白薄紙、藍色紙、黄褐紙、深刈安紙、といった名称の様々な色紙があったことが記録されている。また色紙や上質紙を漉くためには強靱な繊維を持つ雁皮を一定の割合で混ぜることが規格とされた。世界最古の印刷物として知られる百万塔陀羅尼、その梵文の呪文が書かれたのは黄檗で染められた和紙であった。聖徳太子自筆の法華義疏は、現存する日本最古の書物である。

平安初期、紙漉職人達は長年の試行錯誤を経て、トロロアオイの根から取れる高粘性のノリを繊維と共に水に溶かす、日本独自の「流漉き」を発明した。ノリの作用によって繊維が均一に分散し、従来の「溜漉き」よりも、薄く、丈夫で、表面が滑らかな和紙を効率的に漉くことが可能となった。

京都、紙屋川のほとりに紙屋院と呼ばれる官立の製紙所が設立され、年に2万枚もの紙が漉かれると共に、故人の筆跡のある反故を原料にして薄墨紙を漉きそれに写経をして冥福を祈ることも行われた。また女流文学や詩歌の勃興とともに、詠草料紙、檀紙、雁皮紙、懐紙などより芸術性の高い和紙が漉かれるようになっていった。

厚くて丈夫な美濃紙に柿渋をぬり柔らかくした和紙を使って作られた紙衣は、親鸞や性空、俳人などが愛用したという。奈良東大寺の二月堂の修二会の儀式は、絹、毛などの動物性のものを避ける考えから、現在でも高僧が紙衣を着て執り行われる。

室町時代に確立した書院造りの建物は、明り障子や襖で部屋の空間を仕切り、そのための障子紙、下張りが盛んに漉かれるようになった。また大名が家臣への命令を書くための奉書紙なども必要となり、厚くて丈夫な美濃和紙は美濃判として障子紙の規格となった。

楮、雁皮と共に三椏が、紙漉に使われるようになったのは、伊豆が発祥の地と言われる。この平滑で緻密な和紙を見た武田信玄は非常に喜び、三椏の生産を奨励した。駿河半紙の歴史はここに始まるという。また江戸時代に入り、因州和紙、土佐紙、越前奉書、陸奥白石、播磨杉原など地方名を冠した和紙が国内に流通するようになった。

江戸時代に使われた傘は和紙に柿渋や亜麻仁油をぬった番傘や蛇の目傘であり、半生を旅に生きた松尾芭蕉は、自分で和紙を重ねて張った張り笠を愛用した。行灯、提灯、ぼんぼりは和紙を通した柔らかい明かりで闇夜を照らし、明り障子は日中の強い日射しを和らげて縁側に届けた。
江戸後期には、浮世絵、かるた、折り紙、張り子、読本などの和紙を使った庶民文化が花開き、輸出用の磁気、陶器を包むのに使われた浮世絵の古紙は、ヨーロッパに渡ってヴァンゴッホに衝撃を与えた。




実家に父が趣味で集めた番傘がありました。

江戸時代に流通した藩札から始まり、明治時代丸網抄紙機が機械漉きを可能にするまで、日本の紙幣は手漉き和紙であった。
小川町においては、戦時中は風船爆弾の開発製作のために気球用紙が漉かれたという経緯があり、昭和初期までは障子紙、下張り、温床紙と共に蚕卵原紙が盛んに漉かれていた。

日本人の文化と生活は常に和紙と共にあった。明治以降、その需要と供給は大幅に減り、昨今の日常生活で目にする紙は大半が洋紙である。
しかし、丁寧に漉かれた和紙の風合いに心惹かれない日本人はいない。

神社仏閣では、古代から現代まで、注連縄や榊に楮の繊維から作ったゆう(木綿)を結んで、神を迎えて、神を宿した。
神と紙の語源は同じだと言われる。

日本において仏教信仰の伝搬とともに広まった和紙。神の言葉が紙に宿っていた時代、その事実を想い、改めて紙に向き合ってみたい。


2011年8月15日


参考文献

和紙散歩 町田誠之
武州和紙業について 佐藤久志
紙の発生から普及まで 伊藤通弘
和紙のことども 吉田桂介
和紙のすばらしさ Dard Hunter 久米康生訳
Wikipedia


Special thanks to
小川町和紙学習センター
王子紙の博物館