桜咲く吉野へ

 

桜咲く吉野へ誘ってくれたのは、会社の友人、みよこさんだった。彼女は派遣の仕事の傍ら、写真を撮る仕事もしている。生花インターナショナルという雑誌の見開き記事にみよこさんが撮った花の写真が載ることになり、その時に彼女は吉野の桜の素晴らしさを熱心に語ってくれた。一度行って見たいと呟くと、彼女は
「本当? 行きたい? それなら4月の第2週がいいと思うんだけど、、」
嬉々として旅の詳細を話し始めた。

2012年4月14日
6時30分、夜行バスでJR奈良駅に到着し、三条通を歩いて近鉄奈良駅に向かった。予定の電車の時刻まで近くの興福寺の境内を散策していると、三重塔の桜の下で三匹もの鹿が若草をついばんでいるところに遭遇する。

近鉄奈良から西大寺、橿原神宮で乗り換えて吉野駅へ。
今日の朝新幹線で東京を出てきたみよこさんと合流し、吉野山の参道を歩き始める。右も左も、見上げても、谷を1つ越えた向こう側の山裾も山肌も一面の桜色。噂にたがわぬ、美しさである。吉野が5回目というみよこさんも毎回この感動は新鮮らしく、嬉しそうにデジタル一眼で桜を撮りながら歩く。そして歩き始めて約15分、休憩所兼展望台の前で葛餅を買った。
「吉野の葛はもちろん、この吉野の山域でとりますよ。たくさん取れる場所があるんです。」
鉢巻を締めたお店のお兄ちゃんがそういいながら黒蜜をかけてくれる。





黒門から、銅製鳥居の発心門、国宝の蔵王堂を越え、勝手神社周辺までが吉野の中心部となり、両側には吉野葛、漬物、桜羊羹、吉野杉細工、日本酒を売る土産物屋、旅館、甘味処などが賑やかに並ぶ。みよこさんによると、小雨の今日は観光客が少ないが、例年だと人で動けない程だと言う。
店先に並ぶ様々な商品に目移りしながら「花より団子」いやいや「やっぱり桜もきれい」という心持ちで、発心門に到着。ここから先が1300年前に開山された奥駈修験道ととなる。役行者が初めて歩いたときは熊野神社から吉野への順峯だったが、平安時代に聖宝大師が吉野から熊野への逆峯を歩きそれが一般的となった。門のすぐ先には、行列のできる有名な柿の葉寿司のお店があり、向いの旅館の二階からは仲居さんたちが道を行く観光客の様子を眺めている。その場面をみよこさんはカメラに収め、私達は先に進んだ。

金峯山寺の本堂である蔵王堂に到着。仁王門と蔵王堂の正面は吉野ではなく熊野のほうを向いており、それは役行者が歩いた奥駈の順峯の方向に一致している。その役行者が修行中に感得した蔵王権現が本堂の中に祀られている。蔵王といえば山形と宮城の県境にあるスキーで有名な山の名前でもあるが、それはここ金峯山寺の蔵王権現を向こうに勧請したためである。

正面に回って私たちがぎょっとしたのは、長蛇の列と1000円という拝観料。なので権現様は夕方に回し、私とみよこさんは境内でお昼を食べ始めた。隣のベンチに座っていたおばちゃん2人が
「いいなー、お弁当?」(関西弁)
「はい。そうです。」(東京弁)
「あ、どこから来たん?」
「東京です。」
「まー、遠いところから偉いなあ。そういえばリンゴあるんやけど、よかったら食べへん?」
と、かばんの中からビニールに入ったそれを取り出した。
「本当? よろしいんですか?」
「もろうてくれたら、荷物軽なってうれしいわあ。食べたら食べた分、体が重なってかなわへんわ。」
2人のおばちゃんは声をたてて笑う。いかにも関西のおばちゃんらしい。

境内を降りたところにあるビジターセンターでは吉野の写真展が開催されており、そこでボランティアのおじさんに、何故山上ヶ岳が女人禁制であるかについて尋ねる。昔は奥駈を歩くものの中にも聖紛いの人や仁侠崩れの荒くれ者が多く、山道も急峻で非常に厳しいために安全面を考えて女人禁制になった、と彼は言う。
「でもそれ以外にも、女性は汚らわしいとか、修行の妨げになるといった考え方があったはずですよね?」
「いやいやいや、それはない。昔も今もそういった考え方はないですよ。」
懸命に彼は否定しにかかった。よほどフェミニズムに関する議論になることを恐れたのであろうか。しかし逆にそれは、私の疑問が真実であることを裏付けているように思えた。

勝手神社を越えて急坂を登り始めたところにある手作りのお豆腐さんでは豆乳を飲み、おからをお土産にもらう。さらに進み、上千本に差しかかると近鉄吉野駅や蔵王堂は大分小さくなり、桜色の吉野の峰々が眼下に広がるようになった。



みよこさん、撮ってくれてありがとう!




一面桜色。しかし、、


しかしその中にもスギ・ヒノキの濃緑色の植林地が点在する。
吉野では役行者が感得した蔵王権現を桜の木に彫ったことに因んでその木が御神木とされ、奈良王朝時代から江戸期に至るまで、桜の木を切ることは許されず大切に守られてきた。60〜70年代に植林が行われる前は、今よりもさらに圧巻だったのだろう。
「私、ここでちょっと頑張って撮るよ。良かったら先に水分(みくまり)神社辺りまで行ってて!」
三脚を取り出しながらそう言うみよこさんと一旦別れて、私は花矢倉展望台まで進んだ。ここは佐藤忠信が体を張って義経を守った場所して知られ、浪曲や歌舞伎義経千本桜の名場面の舞台でもある。今は有料の展望台であり、柵の後ろ側からなんとか展望を得ようとする観光客の対応に茶屋の人が四苦八苦しているがなんとも残念である。

さらに緩やかな道を登ると、吉野山の分水嶺に建立された水分(みくまり)神社に到着。雨乞いの神であり、かつ、みくまり→みまもりに通じることから子守りの神様としても信仰が厚い。豊臣秀吉も水分神社に祈願して待望の秀頼を授かったという経緯があり、親子共にこの神社への信仰は深かった。社殿は秀頼の創建であり、秀頼寄進の梵鐘もある。しかし1614年の夏の陣にて豊臣家は滅亡、その悲運に思いを馳せながら苔むした境内の中を散策する。

写真を撮っていたみよこさんと合流して今度はゆっくり下り始める。4時30分までにつけば蔵王権現のご開帳に間に合うと急いだのだが、ぎりぎりで間に合わなかったので、普通に蔵王堂を参拝した後、2人は吉水神社へと足を伸ばした。

この歴史ある神社は、源義経と静御前が今生の別れをする前に過ごした場所(1185年)であり、後醍醐天皇が潜幸し南朝の皇居となり(1336年)、また豊臣秀吉が家臣500人を連れて花見に来た時の本陣場所(1594年)としても有名である。宮尾登美子著「義経」を読んで思いを膨らませていた私にとって、吉水神社の色々な展示は大変興味深かった。義経、静が過ごした部屋、その隣にある弁慶思案の間、義経が身につけていた鎧、花見の本陣となった時に使われた金屏風、そして秀吉寄進の壷。



真偽はさておき、思いは秀吉が天下を治めた時代に飛ぶ。


縁側から降りた庭には、後醍醐天皇が京都の都を思って反旗を翻さんと誓った場所があり、今は日本有数のパワースポットとなっている。
私より早めに庭に出ていたみよこさんは、ここで青い装束を着た住職が政治家と思われる人たちのために邪気払いを兼ねたお祈りをしている所を見たという。



吉水院の庭より蔵王堂を望む。


吉野のお店は閉まるのが早い。大型観光バスが中千本の駐車場を出発する4時〜5時の間に多くのお店がシャッターを下ろしてしまう。みよこさんと私は蔵王堂近くにある「やっこ」というお店に最後の客として駆け込み、早めの夕飯を食べることにした。注文したのは柿の葉寿司とうどんの定食。
「みよこさん、今日はいい写真撮れた?」
「うーん、曇りだったからなー。曇りだと桜のピンク色はきれいなんだけど、私はやっぱり背景は青い空が好きなんだよね。」
と彼女なりのこだわりがある。

7時過ぎ吉野駅発、吉野口でJR和歌山線に乗り換えて五条駅へ。今日泊まる場所は農泊の宿、久庵。農泊とは、農家の人たちが経営している宿で、素泊まり、二食付きなども選べ、希望があれば農作業体験もさせてくれる。一晩一組のお客さんのみという形を取ることが多く、その農家の人とコミュニケーションを楽しめることが多い。
五条駅の改札を抜けると既に久庵のお母さんが迎えに来てくれており、みよこさんと私は
「遅くなってすみません。」
と挨拶して早速車に乗り込んだ。宿までは車で20分ほどだと言う。途中、明日の食料を買うためにオークラというスーパーに立ち寄ってもらい、さらに15分ほど進む。五条の中心部から離れて徐々に上り坂になり、ある柿畑の角を右折して未舗装の道を最後まで行った所が久庵だった。

「お疲れでしょう。お父さんが待ってるんですよ。どうぞ中へお入りください。」
私達は丁寧に手入れされた庭石の上を進み、広い玄関の中に入った。
するとそこには青い半纏を着たお父さんが笑顔で立っており、
「よういらっしゃいました。まあ荷物をおいて一息したら、お茶でも一緒に飲みましょう。」
お父さんもお母さんも私達2人が到着するのを心待ちにしていたらしい。

久庵の家はとても広く、私達は六畳間の1つを寝室に、もう1つには炬燵があるのでくつろぐのに使ってくださいと案内された。廊下を挟んだ別の二部屋には、立派な掛け軸が飾られた床の間と囲炉裏がある。それとは別にお父さん、お母さんが寝るためのはなれがあり、そこには立派な茶器や花鳥が描かれた屏風、お琴と二胡がおいてあり、私達は目を丸くするばかり。
「これは狩野派でしょうか?」
とか気の利いた質問ができればいいのだが、そんな知識を持っていないのが悲しい。
「道楽で色々集めていましてね。でもお琴は大分長いことやっていて、私、師範として教えているんですよ。」
と聞いてさらにびっくり。
「一曲聴いていただければよかったんですが、もう夜遅いですから。今度また、ゆっくりと久庵に遊びに来てください。」
「はい! 是非そうします。」
「じゃあ、母屋のほうでお茶をしましょう。お二人に手ほどきしますよ。」
「?」
その意味がわからず、私達は首をかしげた。

実は、お父さんはお琴のみならず、お茶もたしなむ方で、床の間のある部屋では茶会ができるようになっていたのである。



囲炉裏と茶道具 (taken by Miyoko Fukushima)


「お二人はお茶の作法を学ばれたことがありますか?」
「いいえ、真似事を何回かぐらいです。」
茶釜から静かに湯気が立つ中、お父さんは袱紗を手で整える。裏千家では茶名以上の人が「宗」のつく名前をもらうことができ、お父さんは宗篤という名を持つ。
「その時に、その人とお茶をするというのは、本当に一期一会なんですね。今日お二人とこうしてお茶をするのもそうなんです。」



お父さんのお手前 (taken by Miyoko Fukushima)


2人は、教わったとおりに畳のふちから16マス離れた位置に正座して、かしこまってその話を聞く。お父さんはお濃茶を入れてくださり、正客、末客の振る舞いを教えてくれ、私達はそれに従って茶碗を受け取り、左手の上で2回まわし、静かにお茶を口にした。
「じゃあ今度はお二人にお茶を入れていただきましょうか。」
まだまだお父さんのお茶会は続く。
「それでは、内田さん、こちらにいらしてください。」
と呼ばれ、私は、正座で痺れた足に最大限の気を使いながら、ゆっくりと立ち上がった。
茶杓で茶碗にお抹茶を入れ、柄杓で茶釜から汲んだお湯を注ぐ。茶せんを一度茶碗のふちに当てて音を出した後、茶せんを小刻みに動かしてお茶を立てる。そしてそれを客であるみよこさんの前に差し出す。
同様にみよこさんもお父さんの指導の下、お茶を立て、これにてお茶会は一通り終了。足を崩して座れることに2人は心から安堵のため息をついた。

お父さんとお母さんは
「今は暗いからよくわからんやろうけど、離れの後ろに畑があるんよ。」
「何か旬のものがあればおみやげに持って帰ってもらえるんだけど。水菜はもう花が咲き始めてて、ちょっと遅いわねえ。」
と話し始めた。
「しいたけはどうや。雨が降った直後だからよく出ているんじゃないか。」
「でも今は真っ暗よ。」
「懐中電灯持てば大丈夫やろ。」
とお父さんは立ち上がった。
「しいたけってクヌギの木に育ててるってことですよね? 私も行きたいです。」
「私も! カメラ取ってきていいですか。」
「じゃあ、みんなで行く? 濡れるから長靴準備するわね。」
時刻は12時近かったにも関わらず、急遽4人でしいたけ狩りに行くことになった。

4つの懐中電灯が暗闇の中を歩いていく。そして家から50メートルほど離れた道の脇にクヌギの幹が何本も立てかけてあった。
「あった。ここだ、ここだ。」
お父さんがかけてあるネットを取った。ライトを当ててみるとそこには大中小のシイタケが幹からいくつも育っている。
「雨の後だからよく生えてきとる。なるべく大きいのをとってくれや。」
「すごい。しいたけってこんな風になるんですね。」
「こんな大きいのを見たことない!」
「それにしても、こんな夜中にしいたけ取りなんて初めてですよ。」
4人がそれぞれに手を伸ばして収穫し、あっという間に籠の中は一杯になった。私とみよこさんは初めての体験に感動し、さらにビニール袋一杯のしいたけをお土産にといただいたのである。



大中小、ずらり (taken by Miyoko Fukushima)




夜中のしいたけ狩り (taken by Miyoko Fukushima)



家に戻った後もコーヒーを飲みながら談笑。この五条という土地には、継母から捨てられた中将姫が無常を感じて籠った当麻寺がある。お父さん、お母さんともに歴史好きでもっとお話を聞いていたかったが、明日の出発は早い。次回はお茶やお琴の演奏を聴くのを楽しみにもっとゆっくりと久庵を訪ねたい。

4月15日
朝靄が五条の山野を美しく包む中、私とみよこさんはお母さんに五条駅まで送ってもらった。
7時過ぎに到着した吉野は、昨日とは打って変わり気持ちのいい快晴だった。
「筋肉痛だけど、今日は頑張って青空に映えた桜を撮る。」
というみよこさんとは分かれて、私は青根が峰目指して昨日の参道を登り始めた。水分神社まで約1時間、そしてそこから先はほとんど人が見られなくなった。しばらく行くと、待賢門院への恋に破れた西行が人里離れて2年を過ごしたという西行庵に到着。古い写真で見たうら寂れた庵ではなく、新しいモルタル作りの建物に変わっていたのが残念だったが、往時は下界とは完全に隔離された、さぞかし静寂な人恋しくなる場所だったのだろうと思う。
桜保護活動の一環だろうか、ここに面した山の斜面一体では杉が切られ、その後に桜の若木が育っていた。今でも吉野町の小学生は入学と同時に桜の苗を育て卒業時に植樹する活動を行い、吉野桜の景観を守っているという。

そこから15分ほど登ると青根が峰の山頂だった。岡崎を朝4時に出発して日帰りで来たというご夫婦に出会う。ここから私は、青根が峰の東山麓にある蜻蛉の滝に向かって下り始めた。
さて、「蜻蛉」をなんと読まれたであろうか。
私は出発する前に東京から奈良交通に電話をかけ、「かげろうの滝から大和上市へのバスの時刻を教えて下さい。」と尋ねたのだが、どうも話が通じない。それもそのはず、蜻蛉は「せいれい」と読む。つまり蜻蛉は「とんぼ」とも「かげろう」とも「せいれい」とも読むことになる。日本語って難しい。

その滝へ下って行く途中、高齢のおじさんおばさんたち、引率の先生と生徒達、50人以上のツアー登山の人々、と何組ものパーティーに行き交った。桜咲く時期、青根が峰ー吉野山の日帰り山行は地元民の定番ハイキングとなる。

お昼過ぎに到着した蜻蛉の滝は、桜の庭を兼ね備えたちょっとした観光地となっており、不動尊が祀られている落差50メートル近くある名滝。水の流れが左右に広がらず一直線に落ち込んでおり、まるで細長い棒で砂に穴を穿ったような滝壺ができている。
ここでお土産のおかきを買い、運よくヒッチハイクさせてもらって、吉野歴史博物館へ。ここは壬申の乱の時に天武天皇側の本拠地かつ、持統天皇に続く時代の吉野宮が置かれた場所であり、その発掘遺跡や弥生式土器などの展示がありとても面白い。しかし、古来からの歴史を集積している奈良は考古学者にとって興味は尽きないが、地元の人にとっては発掘調査のたびに様々な不便が課せられ大変だという。

ここから宮滝・万葉コースを歩いて再度吉野方面へと向かう。義経が頼朝の討手から逃げ切り、思わず目を閉じて休んだといううたたね橋。象(きさ)の小川にひっそりとたたずむ桜木神社。松尾芭蕉も訪れたという高滝。道は杉木立の中をゆっくりと標高を稼ぎ、稚児松地蔵堂を経て、吉野山の山腹にある如意輪寺へ。
この寺は、楠木正成の息子、正行が対足利尊氏との四条畷の決戦に向かうに当たり、鏃でお堂の扉に辞世の句を書き残したことで有名。
「かえらじと かねておもえば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」
楠木正成と正行は天皇への絶対的忠誠を近い、その権力を奪い室町幕府を作り出した足利尊氏を末代までの朝敵とみなした。その生死をもいとわぬ忠誠心はどこから生まれたのだろう。600年前の尊氏の考え方は先鋭的だったのか、廃退していたか。信長の石山本願寺や比叡山の焼き討ちは背信的だったのか、それとも近代的な政教分離をもたらしたのか。イデオロギーの変遷。絶え間なく変化する価値観。

如意輪寺の庭には、角界の著名人から送られた桜の木が植えられ、それらの桜色とさらに谷を1つ越えた遠方の山桜の色とが混ざりあい、この世のものとは思えないほど美しかった。



眺めていて飽きることがない。


この後、蔵王堂と勝手神社の中間地点で待ち合わせしたみよこさんと私は、甘味処に入った。私は吉野名物の葛きり、みよこさんはコーヒーを注文。あんこの載った葛きりは、今日一日山歩きをした身にはとてもおいしかった。

2日目の吉野に再度夕闇が訪れる。2人はもう一度蔵王堂の境内を歩いたり、土産物屋をのぞいたりしながら、ゆっくりと吉野駅へと下り、電車に乗った。みよこさんは奈良に住む親戚の家へもう一泊して、明日東京に帰るという。私は、今回吉野に連れてきてもらったお礼を言って、みよこさんと別れ、奈良へ。そして夜行バスに乗って東京へと帰った。