百を越える、八百屋の店先



いつも立ち寄る八百屋の店先は、今日も元気に忙しい。



いつもお世話になっている戸越の八百屋



「あ、お姉さーん、待ってたよ。今日は何がいい?」
と声をかけられ、夕飯に必要な野菜と、季節の果物を購入。いつも通りの買い物である。しかし、改めて見渡してみると店先に並ぶ野菜、果物のバリエーションのなんと多いことだろうか。 常時並んでいるもの、季節物と色々あるが、、

トマト
きゅうり
人参
玉ねぎ
じゃがいも
さつまいも
紫芋
サトイモ
長芋(ヤマトイモ)
ヤマノイモ(自然薯)
大根
ごぼう
ネギ
レタス
キャベツ
ケール
ブロッコリー
カリフラワー
白菜
ターサイ
小松菜
野沢菜
青梗菜
カブ
みずな
セリ
紫蘇
ほうれん草
アスパラガス
インゲンマメ
モロッコインゲン
エンドウ
サヤエンドウ
スナップエンドウ
グリーンピース
なす
ピーマン
パプリカ
シシトウ
おくら
にんにく
ニンニクの芽
しょうが
葉しょうが
唐辛子
パセリ
とうもろこし
ズッキーニ
島らっきょう
ニラ
かぼちゃ
三つ葉
蓮根
タケノコ
ソラマメ
枝豆
セロリ
菜の花
食用菊
ミョウガ
アイスプラント(シオーナ)
クワイ
カイワレダイコン
冬瓜
サラダ菜
クレソン(オランダガラシ)
モロヘイヤ
ワラビ
ゼンマイ
コゴミ
きゃらぶき
フキノトウ
ウド
明日葉
ツルムラサキ
ナバナ
サンチュ
コリアンダー(生葉をパクチー(タイ語))
エシャロット
銀杏
落花生
ベビーリーフ
もやし
ワサビ
ジュンサイ
あかみず
白瓜
ゴーヤ
シメジ(ブナシメジ)
えのき
しいたけ
なめこ
エリンギ
キクラゲ
マッシュルーム
マイタケ
松茸
タモギタケ
みかん
バナナ
アボカド
マンゴー
りんご
レモン
オレンジ
パパイヤ
ぶどう
石榴
スイカ

干し柿
スダチ
カボス
枇杷
ブルーベリー
さくらんぼ
パイナップル
キウイ
ココナッツ
カンクン 空心菜


総じて124種類。
八百とはいかないが「百」を越える品々が八百屋の店頭には四季を通じて並ぶのである。

全ての野菜には、ふるさと、つまり原産地がある。原産地とは、その野菜の原種となる植物が生息している地域のことで、例えば、ケヤキ(ニレ科 Zelkova serrata)という樹種が、日本、韓国、中国東部、台湾に自生しているように、野菜の原産地も、中央アジア、中南米、地中海沿岸といった広大な地域を指すことが多い。

人間の歴史が始まると同時に、野菜の原種に人の手が加わり、栽培化が始まったと言われる。考古学の遺跡から炭化した野菜の痕跡や種が発見されたり、また壁画に描かれていれば、その時代には既に栽培化され重要な食物であったことが推測される。さらに古代の文献における記述がある。古代エジプト、ギリシャ、ローマ時代に残された書物からは、当時の人々の食生活が浮かび上がってくる。

そして人の移動と共にその栽培方法は広まっていくが、16世紀の大航海時代に起こった新旧大陸間における野菜の伝播は、世界中に多大な影響を及ぼした。今では各国で食べられているトマトやジャガイモは、元はアンデス山脈の高地でしか採れなかったし、中南米原産の唐辛子が旧大陸にもたらされる前は、インドのカレーや韓国のキムチは辛くなかったのである。野菜の歴史を紐解くと、そこには古今東西をまたにかけたドラマがあった。


・ケルト人のカブへの想い
・戦犯を生む原因ともなったゴボウの名誉回復
・大海原とさつまいも

野菜ギャラリー
野菜いろいろ覚書






ケルト人のカブへの想い

ケルトと聞いて何が思い浮かぶだろうか。今もその血を引く人々が多く住むスコットランドやアイルランド、至極難解なウェールズ語、独特な文様が彫られたケルト十字、ケルト神話の神々や妖精、蛍の光やダニー・ボーイのケルト由来の音楽、エンヤやコアーズに代表される透明感のある女性ボーカルを思う人もいるかもしれない。

中央アジアに端を発し紀元前7〜8世紀に中央ヨーロッパに移住してきたケルト人は、数百年をかけてヨーロッパ全土に住むようになった。古代ローマ帝国の支配下に入ったケルトの部族は徐々にローマ化し、大陸北西部に到達したケルトの部族はガリア人と融合した。そして、アイルランドやスコットランド等の北端の地に渡った者達は、ケルト民族独自の言語や文化、宗教を受け継ぐことになった。

古代ケルト人は、太陽神ルーを始め自然界の中に神々を見出し、死は新たな生命への生まれ変わりとして輪廻転生を信じた。彼らにとって、冬の到来である11月1日は1年の始まりであり、その前夜には異界と現世の扉が開いて、祖先の霊に混ざって悪霊や邪気が訪れると信じた。それを追い払うために、ケルトの民は、生贄を捧げて篝火を焚き、悪魔祓いの飾り物を作った。ケルト諸語の1つであるゲール語で「サムハイン」と呼ばれるこの祭りが、ハロウィーンの起源だと言われる。

ケルト社会では、ドルイド僧と呼ばれる聖職者達がサムハインを始めとする宗教儀礼を担っていた。また文字を持たなかった故に、ケルトの神々の歴史や英雄譚はドルイド僧によって詩に詠まれ、代々口伝されていった。それらの物語の量は膨大で、全てを諳んじるためには10年近くかかったという。

そんな多神教アニミズムが信奉されていたケルト社会に、キリスト教がもたらされたのは西暦432年、聖パトリックによってであった。イギリスのウェールズで生まれ育った彼は、幼少の時にアイルランドに奴隷として連れ去られたが、脱出して母国に帰還後、神の声を聞いた。彼は大陸ヨーロッパに渡り7年間神学を専攻、再度アイルランドに渡り人々にカトリックを伝えた。カトリックは一神教であるが、その布教過程でケルトの民が古来から信仰していた神々の存在は否定されることなく、緩やかにキリスト教と習合していったという。

その結果生じたのが、ケルトの民が祭儀場に建立した石柱と十字架が合わさったケルト十字や、キリスト教化したサムハインの祭りであった。



ケルト十字 横棒の長さがとても短いのは、石柱に十字架が合わさったためと言われる。



サムハインとはゲール語で「死者」を意味し、異界から死者の霊が訪れるその祭りの日は、いつかしAll Hallow's Eve(英語で、全ての死者のための前夜、の意味)と呼ばれるようになった。それが訛ってハロウィーンという言葉になったのは18世紀頃と言われる。

さて、10月31日のハロウィーンに欠かせないのがカボチャである。晩秋にちょうど収穫期を迎えるカボチャは、くりぬいてジャック・オー・ハロウィーンという悪魔祓いの飾り物になり、パーティーにはパンプキンタルトやリンゴ飴が並ぶ。またハロウィーンの日には肉食を避けるという風習もあり、アイルランドではポテト・パンケーキ、キャベツとジャガイモを牛乳で煮込んだコルカノンなども食卓を飾る。



アイルランドのハロウィーン料理、こんなかな〜。左から、コルカノン、ポテトパンケーキ、かぼちゃプリン。



ところがカボチャの原産地は北アメリカである。ちなみにジャガイモも南米アンデスの原産である。コロンブスが新大陸を発見するまで、ヨーロッパ人の誰もカボチャやジャガイモを知らなかった。それ以前は、ハロウィーンのための悪魔祓いの飾り物は、北ヨーロッパ原産のカブが使われていたのである。



カブ



日本で売られている白くて丸いカブからは、ジャック・オー・ハロウィーンを作ることはなかなか想像しづらいイが、北ヨーロッパには、Rutabaga、TurnipもしくはSwede(アブラナ科 Brassica napobrassica)と呼ばれるとても大きなカブがある。日本の桜島大根並みのカブなのである。



カブで作られたジャック・オー・ハロウィーン 怖い! これは魔除けになる!  Wikipedia



「大きなカブ」というロシア民話がある。おじいさん、おばあさん、孫娘、犬、猫、ねずみが力をあわせてようやく引っこ抜くことができた巨大カブのお話である。これは、おそらくケルト人が長きに渡ってジャック・オー・ハロウィーンを作るのに使ったカブのことではないだろうか。このケルト人のハロウィーンの風習は、19世紀にある大災害をきっかけとしてアメリカに伝わることとなった。

1492年コロンブスによる新大陸発見後、ヨーロッパの人たちは未知の大地に探検隊を送り始めた。イギリス、フランス、イタリアの3ヵ国が次々に入植し、1776年にはイギリスの支配下にあった東部の13州がアメリカ合衆国としての独立を宣言。その後もインディアンとの攻防や南北戦争を経て、ゴールドラッシュを伴う西部開拓の時代になる。

この時代にアメリカへの移住の大きな一派となったのがアイルランド人であり、そのきっかけ は、1845〜1849年に起こったジャガイモ飢饉であった。当時アイルランドで栽培されていた単一品種のジャガイモが疫病にかかり収量が激減、さらに宗主国であったイングランド政府の救済策が皆無だったために、100万人近い人が命を落とし、同数が移民として祖国を離れたといわれる未曾有の大災害である。

ジャガイモは南米アンデスが原産地であり、現在のペルー、ボリビア、エクアドルにおいて13〜15世紀に栄えたインカ帝国の基盤をなした食料だった。標高3000メートル以上の急斜面にある段々畑でもジャガイモはよく育ち、当時既に数百に及ぶ品種があった。また冬季にはジャガイモを何度も乾燥、凍結させてチューニョという保存食が作られた。



チューニョ 乾燥凍結させる作り方は、凍み豆腐(高野豆腐)と同じ。Wikipedia



そのジャガイモは、大航海時代にスペイン人の手によってヨーロッパに渡った。しかし輸送途中にジャガイモの芽を食べて船員に中毒者が出たり、地下に実をつけるという奇妙な形態が聖書に記載されていなかったことから最初は受け入れられなかった。

ところが、16~17世のヨーロッパは小氷期によって従来の穀物栽培が困難になっており、ジャガイモは植えてみると寒冷地においてもよく育ち、単位面積あたりの収量は小麦を遥かに上回った。

フランスの農学者パルマンティエがジャガイモの栽培、栄養に関する詳細な研究を行い、さらにマリー・アントワネットがジャガイモの花の飾り物をつけて舞踏会に参加するなど、ジャガイモは社会的に広く認識されるようになり、瞬く間に主食として小麦粉に並ぶ地位を持つようになった。

特に北方に位置するアイルランドでは、小麦は宗主国であるイングランドへの輸出用という側面があり、農民の間で主食は小麦からジャガイモに取って代わった。この当時アイルランドで育てられていたジャガイモは、ほとんどがLumperという品種だった。

ジャガイモが西欧人によって栽培され始めて以来、病気によるジャガイモの不作は度々報告されていた。ところが、1844年、北米にそれまでに知られていない謎のジャガイモの疫病が流行った。Blightと呼ばれたその病気は翌年渡欧し、北ヨーロッパ全体に渡って大打撃を及ぼし始めた。特に、農民の主食がほぼジャガイモでありその依存度が高かったアイルランドでは被害は甚大だった。Lumperという単一のジャガイモの収量は、1845年には例年の3分の1から2分の1に激減。1846年の秋は4分の3が収穫不可能となり、1847年には種芋もほとんど存在しない状態となった。

この謎の疫病が、メキシコ原産のPhytophthora infestansという疫病菌であり、まずは北米に、その後ヨーロッパにブレイクアウトしたということが科学的にわかるには、1867年のアントン・ド・バリーの研究を待たなければならなかった。

ジャガイモの疫病が流行し始めた5年後の1849年には、アイルランドで100万人が餓死するに至り、そしてほぼ同数の人々が、生き延びるためにアメリカに移住した。この中にはJ.F.ケネディ大統領の4代前の祖先がいたことが知られる。


祖国を離れたアイルランド人は、アメリカでこの上なく望郷の念を募らせた。アイルランドの詩や歌や踊り、カトリックを基盤とする生活洋式。もちろん、ハロウィーンの祭りも彼らがアメリカで祖国を思いながら大切に行ったものの1つだった。彼らが身近に手に入れることのできた北米原産のカボチャはカブよりも大きくて、かつ細工しやすい軟らかさを持っており、いつしかジャック・オー・ハロウィーンは、カボチャで作られるようになった。



日本でもすっかり定着したハロウィーン。(大田区にあるお店)



しかし、アイルランドやスコットランドの人々にとって、古来から食べられていたカブは、今でも昔ながらの郷土料理に使われる重要な食材である。羊肉、カブ、玉ねぎ、パセリを長時間煮込んだアイリッシュシチュー、豆、サイコロ状に刻んだ人参、カブ、羊肉や牛肉を煮込んだスコッチ・ブロス。また、ジャガイモが伝わる前は、マッシュトポテトならぬ、マッシュトカブが肉類の定番の付け合せであった。

スコットランドでは、1759年にアロウェーで生まれたロバート・バーンズが国民的詩人として知られている。貧しい農家の長男として生まれたバーンズは、英語とスコットランド語の両方で、農村の生活やスコットランドの自然、社会風刺やロマン主義が内包された多くの作品を作った。現代でもスコットランドでは彼の歌が愛唱され、誕生日である1月25日の夜には、バーンズ・サパーという夕食を取りながらその功績を祝う。スコットランド特有のハギスというソーセージを切り分け、バーンズ作の「Address to Haggis」(ハギスに込めて)という詩を朗読し、ウィスキーで乾杯する。このハギスの付けあわせには、必ずマッシュトカブがつく。



バーンズ・ディナー オレンジ色のつけあわせがマッシュトカブ。白はマッシュトポテト。茶色はハギス。Wikipedia。



ジャガイモの伝来以前、農民が日々食していたカブの料理。その素朴さな味と姿に、ケルト民族の魂は今も歌い継がれている。




戦犯を生む原因ともなったゴボウの名誉回復

はだしのゲン(6巻 222ページ)に、昭和23年の夏、出版社のおやじさんがゲンに語りかける場面がある。
「戦争中アメリカ兵が日本の捕虜になってのう。くわせる食糧がなくてアメリカ兵はやせて病気で苦しんでいたんじゃ。かわいそうで見かねた衛生兵は、必死で山奥からゴボウを探し出してきて、いろいろ食べやすいように料理をつくってやって食べさせ、たすけてやったんじゃ。
ところが、戦後になって日本の戦争責任者を裁く極東軍事裁判がはじまると、捕虜のアメリカ兵は助けてくれた衛生兵に木の根を食わされてひどい目にあったと言って、衛生兵は重労働三十年の刑にされたんじゃ。(中略) アメリカと日本の風俗習慣の違いからまちがった裁判がおこなわれているんじゃ。それと極東裁判所が犯人をデッチ上げるためろくにしらべないで強引にきめつけとると言うとった。かなしいことよのう戦争は、、。まちがっていても負けた国は文句が言えんのんよ。」

第二次世界大戦後の戦争裁判がいかに不条理なものであったかを語る逸話である。

牛蒡を食べさせられたことを虐待だとして訴えた捕虜が収容されていたのは事実であり、それは新潟県の直江津捕虜収容所(正式名称:東京俘虜収容所第四分所)であった。所長が書いた部下の助命嘆願書に、そのことに関する記述がある。
「捕虜達は起訴状の中で、直江津捕虜収容所は人間の住む場所ではなかったと言っているが、何を根拠にそういうのか。(中略)木の根を食べさせたと訴えているのは牛蒡のことで、これは日本では立派な野菜であり高価なものだ。」

1929年にジュネーブで締結され、1931年から施行された「俘虜の待遇に関する条約(Convention relative to the Treatment of Prisoners of War)には、100項目近くに渡って、人道的観点から捕虜に対する様々な待遇が定められている。

「捕虜収容所は、戦闘地域から離れた安全な地域にあり、そこでの衣食住は、自国の兵士と同等の物が与えられること」
「捕虜は、その身分や称号を剥奪されることはないこと」
「捕虜は、宗教、趣味、運動の嗜好性、必要性が認められること」
「捕虜が従事する労働は、体力とランクに応じた、戦闘とは関係ない安全なものであること」

日本は、太平洋戦争開戦後の昭和16年12月、アメリカからジュネーブ条約を遵守する意向があるかどうか尋ねられた。そして翌年1月に、適当なる変更を加えて、同条約に依るの意思あるとの声明を発表したが、軍部の反対にあい、批准には至らなかった。

直江津捕虜収容所は日本国内に130箇所あった収容所の1つで、1942年12月7日の開設から1945年9月の閉鎖までに1000人を越える連合軍の捕虜が収容された。ここで働いていたのは、日本人の軍人や、負傷して戦闘が不可能となった軍属であり、特に軍属にとっては、捕虜収容所は安定した収入の得られる勤め先であった。捕虜側に怪我や病人が出た時、またなんらかの改善要求を求める時には、連合軍の将校が収容所側との交渉に立った。

昭和17年1月に日本はシンガポールを占領し、同年12月10日、捕虜となった約300名のオーストラリア兵が直江津に送られてきた。常夏から豪雪地帯に移動してきた彼等は、飢えや虐待、また昭和18年から19年にかけて上越地方がまれにみる大寒波だったこともあり、300人中60人が死亡した。

昭和20年8月15日の終戦を受けて、直江津捕虜収容所にいたオーストラリア人捕虜は、虐待を罪状として収容所に勤務していた2人の軍人と6人の軍属を起訴した。裁判の結果8人全員が死刑判決を受けたが、これは捕虜収容所の中では尋常ならぬ数であった。

ノンフィクション作家の上坂冬子が、直江津捕虜収容所を題材として書いた「貝になった男」には、処刑された戦犯の遺族やオーストラリア捕虜への聞き取り、また公式の裁判記録をもとに、当時の捕虜収容所の現状、裁判の真実を検証している。

収容所時代、捕虜らは自分達に対して虐待を行った勤務者たちのことを密かに、歯ぎしり、魚顔をいったあだ名で呼んでいた。敗戦後、直江津捕虜収容所の勤務者は連合軍によって、正面と横からの顔写真を撮影され、その2枚の写真から当該のあだ名で呼ばれていた勤務者達が特定された。それをもとに、オーストラリア人捕虜は、勤務者達を起訴した。

またこの裁判では、法廷で宣誓した上で述べられる証言のみならず、代理人を介した証言、メモや日記、さらには故人の口述も証言として認められた。

下記に、オーストラリア側の証言と、対する日本側の抗弁の一部を記す。

オーストラリア側の戦史公式記録より
「収容所は木造2階建てのバラックで、蚤と虱と南京虫の巣であった。極寒の頃も衣料は十分に与えられず、(中略)収容所内は、−20度にもなったが、火の気はなく起き上がれない病人のために、ほんのわずかな暖房があるのみだった。」

オーストラリア側証言
「私は現在73キロあるが、直江津にいた頃は45キロを切っていた。栄養失調のため、おなかはふくれているのに、胸はあばら骨が数えられるほどあらわになっていた。」

日本側所長の証言記録
「食糧についていうなら、新潟は米どころだが、野菜不足の土地である。収容所としては農家はもとより、一般家庭の野菜畑まで巡回して集めていた。肉や魚は確かに少量しか入手できなかったが、それでも日本人の家庭より多かったのではないか。」

オーストラリア人捕虜証言
「日本人軍属は、直径2インチ、長さ4フィートほどの犬殺し棒を持っていた。ある日彼はひどく殴打されて収容所に戻りやがて死亡した。それからまもなく溶鉱炉に鉱石を入れる作業に従事していて暑さのために失神した捕虜があった。別の捕虜が抱きおこし、身代わりになって働こうとしたところ、歯ぎしりが失神した捕虜を殴りつけた。」

オーストラリア人捕虜証言
「誰もが絶望的な目をして弱りきっており、ちょっとしたきっかけですぐ転んだ。それをすかさず、歯ぎしりと魚顔が棒で打ちまくり、まもなくお前も小箱に入って終わりさ(end up in a small box)と繰り返した。銀歯の特異な制裁は、捕虜同士殴り合いをさせるというもので、手加減すると怒り狂って自分が手本を示した。彼はサディストだと思う。」

起訴された日本人勤務者の証言
「私は日中戦争で左腕に傷を負って以来、左腕ではものが握れなくなっているのだ。農業に従事するのも不便な体となったため、直江津捕虜収容所開設と同時に採用されて閉鎖まで勤めたのである。たしかに捕虜を殴ったことは認める。しかし戦争中は人が人を殴るのは日常茶飯事で、私達日本人だって上官からどれほど殴られたことか。」

オーストラリア人捕虜証言
「長靴の磨きかたが気に入らないといって捕虜にその靴を嘗めさせたうえ、長靴で顔を殴打し、はては口の中へ押しこもうとした。収容所の便所は数が少なかったため、いつも床や戸のあたりが便で汚れていた。そこを歩いた靴を嘗めさせられたのである。ある夏大腸カタルが蔓延した。多数の捕虜が下痢症状を呈したが、これに関して銀歯には大きな責任があるだろう。」

起訴された日本人勤務者の証言
「起訴状には、私が捕虜に罰として長靴を嘗めさせたのが原因で疫痢が蔓延したという記述が何度も出てくるが、靴を嘗めさせるのは日本軍の罰として常道であった。もっとも捕虜にその罰を加えたのは私ではない。私は工場現場にはいかず、もっぱら収容所で被服管理者として働いていたから、通勤途上や現場で何があったかは全く知らない。」

日本側所長の証言
「捕虜が「鬼畜」という見方をされていた当時の日本において、収容所は捕虜達にとって一番「安全で豊かな場所」であった。起訴状に述べてあるような狂気のごとき虐待などありうるはずなく、ましてや随所に出てくる「虐待行為により死亡に寄与した」などという表現は、とんでもない誤解である。」

双方の言い分は、不協和音のように交錯し、真実が見えてこない。

戦争裁判は一審制で控訴は認められず、昭和23年1月5日、8人の死刑判決が言い渡された。そして23年11月6日から24年9月3日にかけて、刑は順次執行された。

1973年まで白豪主義をとっていたオーストラリアでは、1945年当時、アジア人や黒人に対するすさまじい差別・卑下意識があり、その風潮によって、捕虜達が収容所時代のありとあらゆる事を罪状として語った可能性もある。

直江津捕虜収容所で死刑判決を受けた8人は、40代1名、残り7名30代という若さであった。彼等は、老いた両親や妻子に対して遺書を残し、処刑台に向かった。名誉の戦死を遂げた父親とは異なり、戦犯を父に持つ子供は、戦後も、就職、結婚時などに差別を受けることがあったという。

「世紀の遺書」という本がある。戦犯の遺族らが編纂・発行した700ページ以上に及ぶ書物で、直江津捕虜収容所の8人を含め、戦犯として判決を受けた日本人1068名の刑務所での日記、遺書等がまとめられている。

「最愛なる妻よ。君との生活も三年十ヶ月のわずかな短い間でありました。今日からは君の待つ夫は浄土の国から見て居る。君は再婚するなり又未亡人として一生を過ごすなりよくよく考え、私の母と、きみの母と三人で相談の上進むべき道をあやまらぬ様にしてくれ。」

「子供たちよ、私もおまえたちと別れるのであります。上の人は下の人をいつくしみ手をとりあって互いに勉強し、学校の先生のいうことをよくききわけて良い人間になってください。おまえたちが毎日営んでいる生活と勉強と仕事そのものが仏教であるから、ようく心の眼を開いてものごとを学びなさい。」

「お母様、私は思ひもよらぬ不幸な人間でありました。私は無実の罪によって昭和24年8月20日午前1時に東京巣鴨拘置所にて此の世を去ります。アミダ様のところに行きます。何卒親不孝だった私を幾重にもお許し下さい。」

「私は一名も殴打して其場にて死亡さしたことは有りません。又怪我をさして収容所に連れてきたこともありません。作業に邁進させたことがいけないと言われても、此れは上司の命令です。(中略)彼等は偽善者です。一方では平和、一方では原爆とて平和はとうてい訪れませんことは如実にわかることと思われます。」

判決を受けた1068名を年代別に見ると、30歳以下214名、31〜40歳が261名、平均年齢は38.7歳という若さであった。

かくして、ゴボウには戦争裁判にまつわる痛ましい印象が付随することとなった。



日本が批准しなかったジュネーブ条約を締結していたオーストラリアでは、捕虜の待遇はどうだったのだろうか。また、仮に日本がジュネーブ条約に批准していたとしても、敗戦国と戦勝国の捕虜収容所では、その環境に雲泥の差があったのではないだろうか。

1944年8月5日、オーストラリアのカウラ捕虜収容所で日本兵の大量脱走事件が起きた。そして、その捕縛の過程で235人の死者(日本人231名、オーストラリア人4名)が出た。このカウラ事件から、当時の収容所での生活環境、さらに日本兵の捕虜というものに対する考え方をうかがい知ることができる。

ニューサウズウェールズ州の南西部に位置するカウラには、第二次世界大戦中、イタリア兵や日本兵を収容する捕虜収容所があった。ここに収容された日本兵は、南方戦線で生死をさまよい、無人島等に漂着して連合軍に発見された人々であった。

当時の日本兵は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」という戦陣訓を骨の髄まで叩き込まれており、捕虜となって尋問されたときに、多くが「Kill me!(殺してくれ!)」と叫んだという。また、自分が捕虜となったことが本国に知られた場合、自分の家族は村八分になるかもしれないと危惧し、多くは階級や名前を偽って答えた。

しかし、日本兵が危惧していたこととは異なり、オーストラリア軍はジュネーブ条約に基づき捕虜達を人道的に扱った。入所とともに、制服、ズボン、ウール地の靴下、衣類、外套、軍靴、せっけん、髭剃り、毛布が5枚与えられ、食事もふんだんに出た。また余暇や運動のための時間も十分にあり、週に1度の映画鑑賞も行われた。

イタリア人捕虜の考え方は日本人と対照的であり、彼等は本国の家族に「自分は捕虜となってオーストラリアにいるから無事である。安心せよ。早く戦争が終わって会えることを楽しみにしている。」と手紙を書いた。また、夜になると手作りのバンジョーやギターを持ち出し、祖国の歌を合唱した。近くの農家の中には、夜イタリア人捕虜の歌声を聞きに行く人もいたという。

日本人捕虜らも、徐々にイタリア人捕虜と交流するようになり、手製の楽器や花札を作ったりして、祖国に想いを寄せた。この日本人捕虜による「手作りの花札」は、今もキャンベラのオーストラリア戦争記念館に保存されている。

しかし日本人捕虜は常に、祖国が負ければ連合軍に殺される、勝てば帰国しても捕虜の汚辱を着せられるという苛立った想いがあった。南方戦線からの捕虜の数は日を追って増加し、カウラ収容所での日本人捕虜の数は千人を1000人を越えた。戦局が危ういことは手に取るようにわかった。

1944年8月4日、増加する捕虜の数に対応するために、下仕官と兵を分離して、日本兵700人をカウラからヘイ収容所へと移動する命令が下った。ヘイ収容所は、カウラから約400キロ内陸に位置する。異国の地において下仕官と兵を別れさせるという仕打ちに、日本兵は大反対した。しかしその意見は受け入れられず、これを機に、暴動を起こして収容所から脱走するべきという案が浮上した。

それは、成功の如何に関わらず、日本兵としての誇りを持ってオーストラリア軍に立ち向い、捕虜の汚名をそそぐというものであった。多くの日本人捕虜は、なんら不自由のない収容所での暮らしが長くなり、心のうちでは生き延びたいという希望を持つようになっていた。しかし
「このまま敵の言いなりになるのか。」
「それでも、日本帝国軍人の一員か。」
という強硬論者の言葉の前には、誰も表立って本心を言うことができなかった。

紙に○と×を書く投票が行われた。
当時、カウラ収容所から脱走し生き残った日本人の回想によると、自分は賛成を投じるが、自分以外の人は脱走に反対と票を投じるだろう。まさか脱走賛成が過半数を超えることはないだろう、と思ったという。

日本人に典型的な、集団の意見に反対できず、他人の目を意識するという思考が、皆に働いた。開票してみると、8割方が賛成に票を投じていたのである。

1944年8月5日、脱走決行。しかし日本人捕虜が持っていた武器は、ナイフ、フォーク、バットやグローブといったものばかりで、銃を装備したオーストラリアの監視兵の前には、無力も同然だった。その日の夜のうちに、231名が銃弾に倒れ、脱走した者も近郊で捕縛された。カウラ捕虜収容所には、血に染まった凄惨な光景が広がった。

自分の生死に関わる一票を投じる時に、帝国軍人という言葉は本心を出すことを許さなかった。そして231人の日本人捕虜らを自ずから死に至らしめる結果となった。



東京裁判、横浜裁判で裁かれた戦犯が収容され刑が執行された巣鴨拘置所。戦争裁判終了後、昭和27年にGHQから日本に移管され、昭和33年には閉鎖された。その跡地には、昭和53年にサンシャインシティーという商業施設がオープンする。ちょうど高度経済成長期を迎えていたこの時期に、ゴボウも全く別な側面から脚光を浴びることになった。


キク科 ゴボウ属 Arctium lappa L. 
ゴボウの学名である。原産地はユーラシア大陸であり、日本には平安時代に中国から薬用として伝わった。食用となったのは江戸時代以降と言われ、独特の風味は魚などの臭みを消すために用いられた。泥鰌とゴボウを醤油味で煮込み卵とじにした柳川丼は、江戸時代から現代まで日本人に愛されている。

ゴボウは、良質の食物繊維、ビタミン、ミネラルを豊富に含み、かつ低カロリーであり、1970年代以降マクロビオティックという食事療法の食材として有名になった。マクロビオティックとは、玄米や全粒粉などの穀物を主食として、中国の陰陽五行に基づき、旬の食材を陰陽のバランスよく取る健康食事療法である。ゴボウは、秋の食材であり、胃腸やリンパ腺の調子を整える作用がある。

マクロビオティックという言葉で食事療法の概念を提唱したのは、ドイツのクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(1762-1836)が最初であり、その後、日本人の石塚左玄や桜沢如一によって陰陽論や東洋思想なども含まれた形として確立した。これがアメリカに紹介された1960〜70年代は、食生活に起因する生活習慣病が大きな社会問題になっており、マクロビオティックは日本食、そして日本の食材とともに、健康志向を持った西欧人に広く受け入れられていく。

余談であるが、マクロビオティックの波及と同時に日本食が脚光を浴びるようになったのは、大豆が欧米に紹介されたことも大きい。中国北東部が原産とされる大豆は、中国では紀元前から栽培されており、日本でも縄文時代の土器に大豆の炭化圧痕があるほど古い栽培食物であるが、ヨーロッパ、アメリカに伝わったのは17〜18世紀と新しい。しかも長い期間、飼料用、製油用として栽培され、食用として注目され始めたのは1920年代以降であった。

西欧人にとって、大豆は衝撃的であった。牛肉とほぼ同価のたんぱく質があり、単位面積あたりのたんぱく質収穫量は最大、さらに共生する硝酸還元菌で土壌を肥沃にする効果もある。

こんな優れた豆が、陸続きの国に何千年も前から存在していたとは!

日本人と大豆の深い結びつきは、もやし、枝豆、味噌、醤油、納豆、豆乳、豆腐を見れば一目瞭然。ちなみに、1691年から2年間長崎の出島に医師として滞在したエンゲルベルト・ケンペルが、廻国奇観という書物の中で大豆のことを「醤油の原料となる豆」(Shoyu Bean)としてヨーロッパに紹介し、後に訛ってSoy Beanとなった。

近代デジタルライブラリー
赤廻国奇観
837ページ、838ページ。大豆は、Daidfuと記載があり。

話しは戻り、マクロビオティックで有名なレシピがゴボウの梅煮。出汁を加えずに、洗ったゴボウに梅干を加えてことこと煮込むと、梅の塩味と旨みがゴボウの中に染み込む絶品となる。



冷めても温かくてもいいおかず!



ゴボウは、豚汁、お鍋、牛蒡の昆布巻き、柳川丼、かき揚げ、ゴボウサラダ、と日本人の食卓には欠かせない。

その中でも、牛蒡料理の頂点といえば、きんぴらごぼうであろう。この名称は、大江山で酒呑童子を倒し、源頼光(みなもとの よりみつ)に仕えたことで有名な坂田金時(さかた きんとき、幼少名:金太郎)の息子、坂田金平(さかた きんぴら)に由来する。といっても実在の人物ではない。江戸時代の浄瑠璃作家であった和泉太夫は、息子の坂田金平も剛強無双な家臣であり、渡辺竹綱、碓氷定景、卜部季春とともに小四天王として源頼義(みなもとの よりよし)に仕えたという武勇伝を創作した。

この浄瑠璃は大変な人気を博し、一番人気があった坂田金平にあやかって、「強靭で長持ちする」ものに金平と冠するのが流行った。男勝りの女を「金平女」。破れにくい足袋を「金平足袋」。持ちがいい糊を「金平糊」。同様に名付けられたのが、牛蒡と人参を甘辛く煮詰めた歯ごたえのあるおかず、金平牛蒡である。

宮武外骨(みやたけ がいこつ)編の日本擬人名辞典には、
「金平牛蒡 堅く煮し牛蒡を云ふ、坂田金時の子に金平といへる強力のものありしと浄瑠璃に作りて大に流行せし際此名起る」と記載がある。

日本食やマクロビオティックの普及とともに牛蒡のイメージが刷新し、その名誉回復がなされたことに、日本人としては心から安堵を覚える。もし外国の友人と金平牛蒡を食べる機会があったら、私は胸を張って説明したい。
「This Gobo meal, so-called Kimpira, refers to an Japanese legendary strong hero called Kimpira. Believe me, it's good for you. 」




金平牛蒡



付記:
オーストラリア人捕虜と日本人捕虜に痛ましい事件が起こった直江津(現、上越市)とカウラ市は、当時を知る軍人、遺族の人々、豪州カウラ会、上越日豪協会等の力によって、平和協定を結んだ。1978年にはカウラに日本庭園が造られ、1995年に直江津捕虜収容所跡は平和公園として生まれ変わった。今でも、人的交流を通して、相互理解と平和への活動が続けられている。





・大海原とさつまいも

旧大陸由来の野菜と新大陸由来の野菜は、大航海時代を経て初めて世界中に広がっていった。 アンデス原産のトマトがイタリアでパスタソースのベースになったのも、中南米生まれのトウガラシがインドに紹介されてカレーが辛くなったのも16世紀以降だった。

しかしこの歴史的経緯に当てはまらない野菜があった。サツマイモ(ヒルガオ科 Ipomoea batatas)である。



さつまいも



中南米原産のサツマイモは、紀元前8000年には既に栽培されていた古い野菜であるが、太平洋のほぼ真ん中に位置するポリネシアの島々でも大航海時代前から栽培されていた。

ポリネシアとは、ハワイ諸島、ニュージーランド、イースター島を結んだ三角形の海洋域を指し、ほとんどが隣の島々と1000キロは隔離され、南米からは7000キロ以上離れている。大航海時代に初めて西欧人がポリネシアに上陸したときには、既にこれらの島々には人が住み、素朴な牧畜と農耕生活を営んでいた。そして、その中には南米原産のサツマイモも含まれていたのである。

大海原で数千キロも隔てられたポリネシアの島々に、サツマイモを伝えたのは誰なのか。サツマイモを栽培し始めた人々は、これらの島に初めて到達した人たちだったのだろうか。1970年代、人類学者の間ではポリネシア人の起源が大きな論争の的となっていた。

仮説は2つあった。ポリネシア人の祖先はアジアから渡ってきたとするアジア起源説、または南米から渡ってきたとする南米起源説である。

アジア側からは、インドネシア半島、ソロモン諸島、フィジー、サモア、クック諸島と島々が連綿と点在している。そして最東端のツアモツ初頭から南米までは、途中に島が1つもない大海原となる。しかし太平洋には、常に東から西に向かって(つまり南米からポリネシアにむかって)偏西風が吹く。

アジア起源説では、古代のアジア人は卓越した航海術を用いて島間の移動を繰り返し、東にある未知の島を目指したと考えた。一方、南米起源説では、南米の人々は偏西風に乗って海を渡ったと考えた。


紀元前から多くのサツマイモの品種が育てられていた南米のペルー、ボリビア、エクアドルの地域には、13〜14世紀にマチュピチュ等の巨石建造物で有名なインカ文明が栄えた。そのインカ帝国には古くから人々が信じ、口伝されている創世神話がある。

インカ帝国が成立する前、この地域には肌の白い男が住んでいた。彼はアンデスの人々に、作物の栽培、家畜の飼育方法、巨石を使った建築、法律や秩序、慈愛や親愛を教えた。彼らは、それらの知識を元に帝国の基盤を築いていき、肌の白い男をコン・ティキと呼んで、神として崇めた。ところが神と崇められた肌の白い男は、ある日突然、海岸から海のかなたへ向かって姿を消してしまった。

コン・ティキと呼ばれた肌の白い男は、海のかなたのどこに行ってしまったのだろうか。

1722年に初めてポリネシアのイースター島に到達したヤーコプ・ロッヘフェーンの記録によると、島に住んでいる人々の中には、肌の白い人々も多くいたという。

ノルウェーの人類学者かつ海洋冒険家であったトール・ヘイエルダール(1914-2002)は、上記の伝説、さらにはポリネシアと南米の巨石文化の類似点等から、南米起源説を強く提唱した。そして彼はその仮説を実証するために、南米原産の材料のみを用いて筏を作り太平洋を渡るという、無謀としか思えない計画を立てた。時は第二次世界大戦直後、ヘイエルダールは、死を恐れない冒険心、探検心に溢れた5人の仲間を得て、ペルー軍隊の協力の元、まずバルサの木を探しに森林に入った。これは、南米原産のアオイ目パンヤ科の木で、密度は140kg/cm3と通常の木材の3分の1程度と非常に軽い。そしてバルサの丸太とつる植物の縄を用いてプレ・インカ時代と同様のな筏を作り、1947年4月28日、ポリネシアを目指して海上の人となった。



ペルーからポリネシアへ! 太平洋横断、島がない!

彼等は太平洋横断の間、何度も嵐に巻き込まれた。しかしバルサ材の筏は、船と異なり水が溜まることがなく、転覆を免れ航海を続けることができた。また、毎日好きなだけ食すことのできるトビウオの大群、ジンベエザメや人食いザメの群れ、さらにクロタチカマス(Gempylidae sp.)という、今まで骨でしか存在が知られていなかった魚を生きた状態で発見した。

彼等は天体観測を行い、偏西風によって筏が常に西に向かっていることを知り、また唯一積み込んだ文明機器である無線機を使って陸上の人々と定期的に交信することができた。

そして航海101日目に、西経140度、南緯15度のフランス領ポリネシア、ツアモツ諸島の無人島に到着した。ラロイア暗礁に座礁したコン・ティキ号を見て、ポリネシアの人々は「パエ・パエだ!(ポリネシア語で筏)」と叫び、彼らの祖先はパエ・パエで海の向こうから渡ってきたのだ、とハイエルダールらに語った。

しかし、学会の見解は厳しかった。ハイエルダールの太平洋筏横断は、南米起源説を証明するものとしては受け入れられなかったのである。そしてその後も人類学者の間で論争は続く。

1990〜2000年代には、遺伝子解析の研究結果に基づきアジア起源説が有力となった。しかし、2011年に発表されたエリック・トースビー教授の研究によると、イースター島の人々の中には、南米ゆかりの遺伝子も混ざっていたことが明らかになった。これらのことから、ポリネシア人の先祖は、南米人、アジア人両方に由来する可能性が示唆されるようになった。

ということは、サツマイモの伝播経路も二者択一ではなく、南米からポリネシアへの渡航、もしくはポリネシアから南米を往復という航海の両方によって、ポリネシアに根付いたのかも知れない。

ハイエルダールが存命の間は、南米起源説は学界では大きく受け入れられなかったが、それとは独立して、彼の航海は世界的に有名になり、コン・ティキ号航海記は70ヶ国語に翻訳され、そのドキュメンタリー映画は1951年にアカデミー賞を受賞した。彼が101日間、7900キロに渡って繰ったコンティキ号は、現在も母国ノルウェーのコン・ティキ博物館に展示されている。



さて、日本へのサツマイモの伝播経路に話しを移す。
サツマイモ、別名、蕃藷(ハンス)が日本に伝わったのは1597年である。蕃藷(ハンス)の蕃とはフィリピンのことで、これはフィリピンから、中国を経由して日本に伝わったことに因む。幸か不幸か、蕃藷の伝来は、遭難・漂流という出来事によってだった。

宮古島の役人であった長真氏旨屋(ちょうしんじ・しおく)が琉球王朝の首里に行った帰途、船が漂流して、1594年、福建省の福州に到達した。長真氏旨屋はそこで3年ほど滞在する間に、地元の人が、蕃藷という芋を食べていることを知り、1597年に宮古島に持ち帰った。貧しい土壌でも旺盛に育つサツマイモは、島民の人たちが積極的に育てるようになった。



宮古島から福州は約600キロ

江戸時代初期に、外交顧問として徳川家康に仕えたウィリアム・アダムスこと三浦按針。1614年、三浦一行が長崎平戸から乗船した南方貿易船は、琉球近辺の海上で難破し、その修理のための那覇に40日ほど立ち寄った。その時に三浦は蕃藷という芋を知り、その苗を長崎に持ち帰って1615年に長崎平戸の初代イギリス商館長、リチャード・コックスに試作をさせた。

これとは別に、1605年、琉球王朝の進貢船船員であった野国総官(のぐに そうかん)が中国から蕃藷の苗を持ち帰り試作に成功する。この後、琉球政府の高官であった儀間真常(ぎま しんじょう)は琉球各地の農民に蕃藷の栽培方法と保存方法を丹念に教え、その普及に全力を費やした。毎年、長雨や台風で被害を受ける琉球の土地にもよく育ち、蕃藷は琉球において重要な作物として根付き始める。

ところが1609年、琉球王国を不幸な事件が襲う。徳川幕府の勅命を受けた島津藩によって侵攻が始まったのである。3月4日、銃火器で装備した3000人の薩摩兵士が70隻の船に乗り込み、指宿の山川港を出立。口永良部島、奄美大島を経由し、16日は徳之島、25日は沖縄本島北部の今帰仁に上陸。果敢に戦った島民もいたが、最新型の銃兵器の前には無力で、4月1日首里は落城した。

この後、尚寧王(しょうねいおう)は徳川幕府に恭順を誓うために江戸に向かうが、その随行者の一人として選ばれたのが、蕃藷の普及に努めていた儀間真常(ぎま しんじょう)であった。1609年に出立した彼が、再度琉球に戻ったのは1611年であり、その間、蕃藷の普及は停滞せざるを得なかった。

島津藩に組み入れられた琉球王国は、米、琉球上布、棕櫚縄、牛皮等多大な年貢を課せられることとなる。しかし、この時には既に琉球にて重要な救荒作物となっていたはずの蕃藷は、何故か朝貢品の中に入ることは全くなかった。島津藩は、降伏した国の庶民が食べている見慣れない芋には興味がなかったのだろうか、、。

上記の理由は明らかではないが、琉球に蕃藷が伝わって100年経った1697年、ようやく蕃藷の苗は琉球の尚貞王(しょうていおう)から種子島久基に送られ、西乃表市で試作が行われた。そしてその7年後の1705年に、指宿の漁師であった前田利右衛門によって薩摩藩に蕃藷が伝わったといわれている。琉球と同様に、蕃藷は優れた救荒作物であることがすぐにわかり、薩摩藩内に広まっていった。

ところが、薩摩藩はさつまいもを藩外に持ち出すことを堅く禁じた。滋養も収量もある優れた芋を自藩内のみに留めた。この背景には、現代のような経済物流システムがなかったことも原因だが、江戸開府から100年近く経ったこの時代でなお、藩間の交流は薄く、敵対心、対抗心みたいなものが強く存在していた。

この時代に、持ち出し禁止のさつまいもの苗を、決死の思いで持ち帰り、自国で広めた人物がいる。

瀬戸内海の伊予国大三島に下見吉十郎という男がいた。彼は4人の子供を持ったが、皆幼くして亡くなってしまい、僧になって諸国行脚の旅に出る。南九州を行脚中に、薩摩藩の伊集院村の農家でさつまいもを振舞われ、優れた救荒作物であることを知った。譲ってくれるよう頼むが、さつまいもは藩外持ち出し禁止のため、主は首を振らない。秘密裏に手に入れたその苗を、下見吉十郎は仏像の中に穴を開けて隠し持ち、薩摩藩から大三島へ持ち帰った。

九州北部と韓国の間に横たわる対馬も、その地形の急峻さゆえに水田が少なく古くから食糧難に苦しむ土地であった。上県町久原の農家の生まれである原田三郎右衛門は、対馬からイノシシを駆除したことで有名な農業功労者である陶山鈍翁(すやま どんおう)の薫陶を受け、1715年に薩摩藩に潜入。藩外持ち出し禁止であったさつまいもの苗を苦労して持ち帰り、対馬全土に広めた。この芋は、親に苦労をかけずに済むということから、孝行芋と呼ばれ、この呼び名と苗が韓国に伝わり、ハングルでのさつまいもの呼称「コグマ」になったと言われている。

1732年(享保17年)冷夏と害虫により西日本を中心に大飢饉が起こる。この年は、西国にあった46藩の総石高の収量は、例年の3割にも満たず、徳川実記によると90万人もの餓死者が出た。これは当時の日本の推定人口2500万人の4パーセントにもなる。しかしさつまいもが普及していた薩摩、大隅、日向地域では餓死者は1人も出なかった。また、下見吉十郎によってさつまいもが伝えられた伊予国の大三島では、餓死者が出なかったことに加えて、余剰米700俵を松山藩に献上する余裕があった。

現島根県にあたる石見国では、さつまいもの普及に大きな貢献を果たした人物として、井戸正明(いど まさあきら)が知られる。幕臣として表火番、鑑定奉行を歴任した井戸正明は、還暦を迎えた1731年、大岡忠相の推挙により石見国大森の代官に任命された。享保の大飢饉の年(1732年)の4月に大森の栄泉寺を訪ね、ここで諸国を行脚していた僧から、やせた土地でもよく取れるさつまいもの存在を聞いた。彼は、即江戸にさつまいもを石見に移植する許しをもらうための書状をしたため、6月に幕府からその許可を得た。石見国の北岸浜田港から、日向国の本庄川の河口まで行く船が仕立てられ、さつまいもの苗60キロが石見国に運び込まれた。1732年の夏にもたらされたこれらの苗は、植え付け時期が遅かったためにこの年には多くは実らなかったが、翌年以降は実を結び石見国での重要な救荒作物となる。

また、井戸正明は享保の飢饉の時には、飢える農民達に対して、幕府に納めるべき年貢米の倉を開き、さらには農民へ年貢の免除を申し渡して彼らを窮地から救った。後、幕府から咎を問われて謹慎の身となるが、その罪科は全て黙認された。義代官、井戸正明は「芋代官」「芋殿様」と慕われ、石見地方を中心に彼を讃える碑が幾つも建てられている。

上述の井戸正明の功績と享保の飢饉の惨状は、江戸幕府に報告され、時の将軍徳川吉宗にも知られることとなった。享保の大飢饉の2年後の1734年、幕府は薩摩藩からさつまいもの苗181個を取り寄せ、小石川薬園と小石川養生所にて試作、同年秋には5651個の芋を収穫することができた。この試験栽培結果は、当時幕府書物の閲覧方であった青木昆陽によって1735年に蕃藷考という名でまとめられる。

国立国会図書館デジタルコレクション
蕃藷考


全42ページのうち12ページ目からが、昆陽直筆の報告部分となります。この時昆陽さん37歳!

このことによって青木昆陽は薩摩芋御用係に任命され、翌1736年には下総国馬加村(現千葉県幕張)と上総国不動堂村(現千葉県九十九里町)でも試作が開始された。

この当時、さつまいもの呼称は混在していたらしく、それは、昆陽がまとめた試験栽培成績書は「蕃藷考」、拝命した役職は「薩摩芋御用係」、小石川薬園に作られたのは「甘藷試験場」という名称であったことからも推察される。

ちなみに、青木昆陽を幕府書物の閲覧方として取り立てたのも、江戸正明を石見国の代官として任命したのも、名奉行として名高い大岡忠相(大岡越前)であった。先見の明を持つ家臣が幕府にいたことはさつまいもの普及において幸運だった。

さらに、さつまいもは天明の飢饉(1782〜1788年)や天保の飢饉(1833〜1839年)にも多くの人々を救い、栽培法と貯蔵法の確立によって1811年には川村幸八によって仙台へ移植、1856年には奥山長左衛門によって酒田市浜中へと、東北地方にも広められていった。

こうしてさつまいもは琉球、薩摩、長崎、大三島、石見国、江戸そして東北と、150年以上の月日をかけて、日本に定着したのであった。その歴史的経緯を反映し、日本各地にはさつまいもに関する史跡が驚くほど多い。

・芋ヌ主御獄(ン ヌ シュウ ウタキ) 中国から宮古島に唐芋を伝えた長真氏旨屋を祀る 宮古島市西仲宗根
・世持神社 沖縄に蕃藷を伝えた野國總管、儀間眞常を祀る 那覇市奥武山公園内
・徳光神社(からいも神社) 琉球から薩摩藩に蕃藷を伝えた前田利右衛門を祀る 鹿児島県指宿市
・日本甘藷栽培初地之碑 種子島久基が蕃藷を試作したことを記念する 種子島、西之表市下石寺
・向雲寺 甘薯地蔵 大三島にさつまいもを伝えた下見吉十郎を祀る 愛媛県今治市 大三島 
・井戸正明の死後、石見地方を中心に頌徳碑(芋塚)
・島利兵衛の墓 流罪先の琉球から京都に蕃藷を伝えた島利兵衛の墓  京都府城陽市、大蓮寺
・甘藷翁 原田三郎右衛門の碑  薩摩から秘密裏にさつまいもを持ち帰り対馬に広めた原田三郎右衛門を讃える 長崎県対馬市上県町久原
・昆陽神社 青木昆陽によってさつまいもの試作が行われたことにより建立 千葉県千葉市花見川区幕張町
・関東地方甘藷栽培発祥の地 青木昆陽によってさつまいもの試作が行われたことにより建立 千葉県山武郡九十九里町 豊海小学校近く 
・目黒不動尊 青木昆陽の墓碑
・甘藷記念碑 宝泉寺 仙台にさつまいもを始めて栽培した川村幸八を讃える  宮城県仙台市太白区中田

さつまいもの普及において大きな功績を残した青木昆陽は、晩年目黒に住み、遺言によって目黒不動尊に埋葬された。毎年10月28日には、10月12日の青木昆陽の命日を追慕して「甘藷祭り」が行われる。境内には、焼き芋、干し芋、有機栽培のさつまいも、さつまいもを使ったスイーツ等を売る屋台等が並び、さつまいもと日本人の関わりが改めて実感されるお祭りである。



古木が両脇に立つ甘藷先生の墓碑(目黒不動尊)



日本におけるさつまいも伝播の歴史を長々と見てきたが、 さつまいもといえば、何が頭に浮かぶだろうか。焼き芋、干し芋、栗きんとん、芋焼酎、大学芋、、、。これらお菓子やお酒にも、それぞれおいしい謂れがあった。

・焼き芋
焼き芋屋が京都に現れたのは宝永(1704〜1710)の頃といわれ、店先には「栗(九里)には及ばないが美味しい」という意味で「八里半」という暖簾が掲げられた。その焼き芋が江戸に伝わったのは、享保(1732年)、天保の大飢饉(1782〜1788)後の、寛政時代(1789〜1801)。江戸っ子は「栗(九里)より(四里)上手い十三里(9里+4里)」と洒落て呼び、焼き芋ブームが訪れる。江戸周辺の村々がこぞってさつまいもを栽培し江戸に売りこもうとした中で、一歩秀でて名を馳せたのが川越藩。

川越藩は、重量がありかさばるさつまいもを新河岸川(荒川水系の1つ)による水運で、江戸まで運ぶことができた。また川越生まれの赤沢仁兵衛(あかざわ にへえ 1837〜1920)は、さつまいもの育て方を丹念に研究し、収量が2倍になる方法を確立した。その赤沢式栽培法とは、種芋に屑芋を使わない、うねを高くする、堆肥を多投し苗は釣り針のように曲げて挿す等で、現代でも継承されている。彼が晩年に著した「赤沢仁兵衛実験甘藷栽培法」は、23ページ の中に、挿苗の準備、整地及追肥、挿植、収穫、貯蔵法、、と項目別に簡潔にまとめられている。

近代デジタルライブラリー
赤沢仁兵衛実験甘藷栽培法


パソコンのない時代の書物、書き手の情熱が伝わってきます!

・干し芋
貯蔵するために切ったサツマイモを乾燥させる方法は、琉球王国にもあった。しかし現在のように蒸かしてから乾かし、白い砂糖の結晶がついた甘い干し芋の発祥地は、静岡県の御前崎といわれる。1766年、遠州灘にて一隻の薩摩船が難破した時に、その乗組員24人を助けたのが当地の組頭、大澤権右衛門であった。彼は感謝の印にさつまいもの苗と栽培法を伝授され、これが遠州におけるさつまいも栽培の始まりとなった。

このさつまいもを煮てから干して、白切り干し(干し芋の原型)という形で売ることを考え出したのが、1795年生まれの栗林正蔵。後、明治時代の中頃に大庭林蔵と稲垣甚七が、煮るから蒸すという方法を編み出し大量生産を可能にした。

干し芋は、秋に収穫して加工販売を行うため農閑期の収入源となった。また空っ風がよく吹く海の近くは、干し芋を作るのに最適だった。この2つの条件を兼ね備え、現在では日本一の干し芋生産を誇るのが、茨城県のひたちなか市。奇しくも、明治時代にひたちなか市阿字ヶ浦の照沼勘太郎が遠州灘で遭難したことがそのきっかけだった。この時に干し芋を知り、自分の生まれ故郷で作ったのが茨城県における干し芋の始まりと言われる。

御前崎もひたちなか市も、さつまいもと干し芋の歴史を誇りに思い、関連イベントを行っている。ひたちなか市で行われるマラソン大会では、参加者全員に「完走(乾燥)いも」が配られるという。

・栗きんとん
お正月料理として欠かせない栗きんとん。現在はさつまいもを主原料として餡を作り、栗と砂糖を加えて色鮮やかに仕上げるのが一般的であるが、さつまいも伝来以前は名前の通り、栗のみで作られていた。それは、美濃八百津町で有名な栗金飩、もしくは小布施名産の栗鹿の子のようなものであったと思われる。

栗は、日本人が縄文時代から既に食べていた古い果実であるが、その採取と皮むきには多くの手間がかかり、栗金飩や栗鹿の子は今でも高級和菓子の1つである。それが、さつまいもの普及によって、栗きんとんは庶民の手が届くお節料理となったのだ。

・芋焼酎
江戸時代から南九州で広く栽培されているさつまいもを原料とした焼酎。その中には、蕃薯考、利右衛門、青木昆陽など、さつまいも伝播の歴史に思いを馳せた銘柄もある。

・大学芋
大学芋の名前の由来は、昭和始めに帝国大学の学生が学費を捻出するために作って売っていた、とも、東京帝国大学赤門の前の三河屋という蒸かし芋屋が売り始めたとも、早稲田大学のある高田馬場近辺が発祥の地だとも言う。

いずれにしても、多くの日本人は大学芋に、庶民の胃袋を満たす幸せなおやつというイメージを抱いているのではないだろうか。

大学芋の元となった料理は、中国の蜜濺紅芋といわれ、その作り方は1912年に刊行された「実用家庭支那料理法」(奥村繁次郎 盛林堂 1912年)という本の中で紹介された。

近代デジタルライブラリー
実用家庭支那料理法


68,69ページ目にその詳細を見ることができる。

材料は、甘藷五百匁、砂糖百二十匁、ラード百匁とある。1匁は3.75グラムなので、甘藷1.875キロ、砂糖450グラム、ラード375グラムと、なかなかボリュームのある分量での記載となっている。

今も都内には大学芋の専門店が何軒もある。その中の1つ、大田区馬込の甘藷生駒は、昭和5年にさつまいもの卸し問屋として開業し、後、大学芋の販売を手がけるようになった。3代続く家族経営で、地元への貢献をモットーに大学芋を作り続けているこのお店は、さつまいもの真髄を体現しているではないだろうか。



甘藷生駒の大学芋。蜂蜜も濃厚でとてもおいしかったです!



江戸時代の飢饉の時のみならず、戦中戦後の食糧難の時代にも多くの人々を救ったさつまいもは、常に庶民の傍らにあり、庶民の味方だったのである。



野菜ギャラリー







野菜いろいろ覚書

名前(カタカナ) 科名 学名 原産地 覚書
トマト ナス科 Solanum lycopersicum アンデス山脈高原地帯 紀元前500年には栽培されていた。トマトとは、メキシコのアステカ帝国で話されていたナワトル語での呼び名。1521年にアステカ帝国のテノチティトラン城を陥落させたコルテスが初めてヨーロッパに持ち帰ったという。最初に文献に記載されたのは1595年で、赤色のナスのようなと野菜と記載あり。最初トマトはヨーロッパでは観賞用だったが、1593年にオランダのトドエンスがトマトを煮込んで料理を試みた。1692年にはナポリで刊行された料理本にトマトのレシピが載った。イラン、中東には18世紀頃に持ち込まれる。
キュウリ ウリ科 Cucumis sativus L. インド北部、ヒマラヤ山麓原産。 紀元前4000年にメソポタミアで栽培。古代ローマ、ギリシャ人によってヨーロッパにもたらされた。聖書にもイスラエル人が食べたとして記載あり。ローマのチベリスス帝が好きだったといわれる。胡瓜の胡はシルクロードを渡ってきたという意味。日本では平安時代から栽培されたが、江戸の幕末までは熟れた黄色い胡瓜が食べられており、まずくて不人気だった。
ニンジン セリ科 Daucus carota subsp. Sativus アフガニスタン原産 アフガニスタンからヨーロッパに伝わって品種改良された西洋系、アジアに伝わった東洋系に分けられる。紀元前は根よりも葉と種のために栽培された。ムーア人によって10世紀頃ヨーロッパに紹介される。12〜13世紀のアラブの書物に、赤、紫色の人参の記載がある。オレンジ色の人参が生まれたのは17世紀、オランダにて。東洋系人参は江戸初期に日本に伝わったが、現在市場にあるのは明治に伝わってきた西洋系がほとんど。キャロットの語源は、角・ホーン。朝鮮人参は、ウコギ科で全く別の植物。
タマネギ ヒガンバナ科 Allium cepa 中央アジア? 7000年以上の栽培の歴史があり、古代エジプトでは王の埋葬にも使われた神聖な野菜。ピラミッドを作る労働者にニンニクとともに供与された。古代ローマの剣闘士は筋肉を強くするために玉ねぎを体に刷り込んだ。また、女性の不妊症、風邪薬、湿布、通貨として使われたことも。新大陸にも持ち込まれ、開拓した土地に一番最初に埋める野菜だった。日本に最初に伝わったのは、江戸時代だがその時は観賞用。栽培は、明治時代に札幌農学校が初めて行った。
ジャガイモ ナス科 Solanum tuberosum L. ペルー南部チチカカ湖 インカ帝国の食を支えた。アダムスミスの国富論で小麦の3倍の生産量があると評価され、四大穀物としての地位を得る。南米では、冷凍したじゃがいもを踏み潰して体積水分を減らした保存食、チューニョが重要な食料。イングランドでは最初茎や葉を食べる旨の料理本が出版され中毒者が出た。フランスでは農学者パルマンティエが研究を進めてジャガイモを広めた。
サツマイモ ヒルガオ科 Ipomoea batatas 中南米 日本には1597年に宮古島に伝わったのが最初。1732年、享保大飢饉でも、さつまいもを育てていた瀬戸内海大三島では飢餓者が出なかったため、関東でも注目を浴びる。1734年に青木昆陽が薩摩藩から苗木を取り寄せた。西暦700年にはポリネシアで栽培していた記録がある。パプア・ニューギニアでは1人年間200キロのサツマイモを消費する。日本は7キロ。
ムラサキイモ ヒルガオ科 Ipomoea batatas サツマイモの一品種。アントシアニン、ビタミンCを豊富に含み、眼の健康や美容効果がある。
サトイモ サトイモ科 Colocasia esculenta, マレーシア原産? タロイモ類のうち最北で栽培されるもの。日本には縄文時代に渡来。日本にあるヤマイモに対して里で育てられたからサトイモ。芋煮会の主役
ナガイモ(ヤマトイモ) ヤマノイモ科 Dioscorea batatas 中国原産 日本には17世紀前に渡来。ヤム類の中では、生食できる珍しい種。
ヤマノイモ(ジネンジョ) ヤマノイモ科 Dioscorea japonica 日本原産。 長芋に較べて粘性が非常に高い。東海道五十三次の鞠子宿のとろろ汁は有名。梅若菜 まりこの宿の とろろ汁
ダイコン(すずしろ、蘿蔔、涼白) アブラナ科 Raphanus sativus var. longipinnatus 地中海地方や中東 紀元前2200年のエジプトで、二十日大根のようなものがピラミッド建設労働者に供与されていたのが最古の記録。日本には平安時代に渡来し、江戸時代には練馬大根始め多くの品種があった。沢庵宗彭(1573年-1646年)が考案した大根の漬物を、家光が気に入り沢庵漬けの名がついたと言われる。大根の葉っぱであるスズシロは、春の七草。落語「長屋の花見」では、玉子焼き、かまぼこの変わりに、沢庵と大根の漬物を皆でつつく。
ゴボウ キク科 Arctium lappa L. アジア大陸原産 日本には縄文、平安時代に渡来。東アジアの国々で食用。第二次世界大戦中、捕虜が植物の根を食べさせたことを罪状として起訴。1970年代よりなりマクロビオティックで評判になる。
ネギ ユリ科 Allium fistulosum' 中国西部、中央アジア 根深ネギは生長に伴い土をかけて日を当てずに白くなるよう育てる。葉ネギはワケギ、アサツキなど。ヨーロッパではチャイブ(Allium schoenoprasum)、リーキ(下仁田ネギに似てる。ウェールズの国花)などが食用。鮮やかな緑黄色を萌葱(もえぎ)色と呼び、平安時代に着物の色として愛された。意外にも、ジャマイカ料理によく使われる。
レタス キク科 Lactuca sativa 地中海沿岸、西アジア、古代エジプトで栽培 古代イランのアケメネス朝(紀元前5世紀)時代に栽培の記録あり。生殖の神ミンの象徴。古代ローマのColumellaという農学者によって数種のレタスが記載されている。レタスだけで作ったサラダをハネムーンサラダ(Let us aloneがLettuceの発音に似ている)という。
キャベツ アブラナ科 Brassica oleracea var. capitata 地中海沿岸の原産 古来からイベリア人、ケルト人が食べていた。フランス語のcaboche(頭)が語源。大航海時代、壊血病を予防するために塩漬けキャベツ(ザワークラウト)が重宝された。1850年代に日本に渡来。トンカツに生キャベツを添えたのは、銀座煉瓦亭の木田元次郎。以来、日本で生野菜を食べることが普及。
ケール アブラナ科 Brassica oleracea var. acephala 地中海原産 リョクヨウカンラン(緑葉甘藍)、ハゴロモカンラン(羽衣甘藍)とも呼ばれる。中世までは、ケールはヨーロッパで一番重要な菜物だった。冬凍らせると甘みが増す。マッシュポテトとあわせてよく食べる。アフリカでも食べられる。スコットランドの昔の生活を描いた小説にケールの記載がある。
ブロッコリー アブラナ科 Brassica oleracea var. italica 地中海沿岸の原産 6世紀に、花を食用とするキャベツの一種が地中海で品種改良されたとされる。古代ローマ時代には、重要な野菜の1つだった。語源は、イタリア語でキャベツの花頭。
カリフラワー アブラナ科 Brassica oleracea ブロッコリーの変種。12〜13世紀のアラブ人の化学者の手記に記述がある。
ハクサイ アブラナ科 Brassica rapa var. pekinensis 中国 原産地の中国では大白菜と小白菜に分けられる。今のような白菜が日本で食べられるようになったのは20世紀以降。江戸時代に入ってきたが、交雑性が強く品種を保持できなかった。
ターサイ アブラナ科 Brassica chinensis var.rosularis 中国原産 白菜の仲間。
コマツナ(小松菜) アブラナ科 Brassica rapa var. perviridis 江戸川区小松川付近 鷹狩に訪れていた吉宗が食し、地名を取って小松菜と名付けた。『大和本草』には「葛西菘とあるが、糞尿を運ぶ葛西船と重なるので改称したらしい。江戸川区の香取神社に小松菜塚がある。
ノザワナ(野沢菜) アブラナ科 Brassica rapa L. var. hakabura カブの一品種。野沢菜漬けは、野沢温泉の特産。
チンゲンサイ(青梗菜) アブラナ科 Brassica rapa var. chinensis 中国華南地方 1970年代の日中国交回復の時に日本に入ってきた。
カブ(すずな、鈴菜) アブラナ科 Brassica rapa subsp. Rapa アフガニスタン、中近東〜地中海 紀元前から、地中海、古代中国で栽培されていた記録がある。古代ローマの博物学者、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、カブを麦、豆類に次ぐ重要な野菜として賞賛している。カブは古代に紋章の図案として用いられた。
カブ@ヨーロッパ(Turnip、Swede、Rutabaga) アブラナ科 Brassica rapa subsp. Rapa 西アジア、ヨーロッパ ローマ時代のガイウス・プリニウス・セクンドゥスはTurnipを穀物、マメ類に次いで価値ある野菜と証した。Samhainというケルトのお祭り(10月31日の夜から11月1日にかけて行われる冬の到来を祀る、ハローウィンの原型)ではTurnipを細工して蝋燭をつけた。じゃがいも伝来前のヨーロッパ、中東、カシミールにおいて重要な作物だった。
ミズナ アブラナ科 Brassica rapa var. nipposinica アブラナやカブと同種。近畿地方では昔からある葉野菜。
セリ セリ科 Oenanthe javanica 日本原産 競り合うように群生している様子から命名。
シソ シソ科 Perilla frutescens var. crispa ヒマラヤ、中国、ビルマ 5世紀頃に書かれた名医??という書物が最古の記録。日本には8~9世紀頃到来。紫蘇という漢字は、死にそうな紫色の人を蘇らす薬効があるため。
ホウレンソウ ヒユ科 Spinacia oleracea 中央アジア、西アジア ペルシアから中国に伝わったのは7世紀頃。漢字では波斯菜。11〜12世紀のアラブ人によって地中海に紹介された。日本には江戸時代初期到来。第一次世界大戦のときには、出血多量のフランス兵士に、ホウレンソウで薄めたワインが与えられた。
アスパラガス ユリ科 Asparagus spp. 地中海原産。 古代エジプト、ローマで食べられていた。利尿剤の作用在り。ローマの料理本Apiciusにその料理法が記載。ローマ帝国滅亡後はあまり注目を浴びず、14世紀頃になって北部ヨーロッパで食べられるように。
インゲンマメ マメ科 Phaseolus vulgaris 中南米原産。 17世紀に唐からの帰化僧、隠元隆gによって日本にもたらされた。かぼちゃ、とうもろこしと共に北米では重要な野菜。インゲンは根粒菌で土壌を肥沃にし、とうもろこしはインゲンが登る支柱となり、かぼちゃは地面に葉を伸ばし土壌の乾燥を防ぐ。
モロッコインゲン マメ科 平莢(ひらさや)インゲンのこと。タキイ種苗が出した種の名前がこれ。ポルトガル周辺の国々では、この平莢インゲンが作られている。
エンドウ マメ科 Pisum sativum L. 古代オリエント、地中海地方 エンドウの成熟前の青豆がグリーンピース。エンドウの軟莢種がサヤエンドウ。発芽した苗が豆苗。紀元前4~5世紀には古代エジプトやギリシャで栽培されており、豆スープは古代アナテイのアリストパネスの記録にもある。Pease porridge hot,Pease porridge cold,Pease porridge in the pot Nine days old.というわらべ歌(せっせっせーのよいよいよい、みたいな)がある。ヨーロッパではじゃがいもが主食となる前の重要な食物
サヤエンドウ マメ科 Pisum sativum L.   エンドウの軟莢種。主に莢を食べることを目的とする。
スナップエンドウ マメ科 Pisum sativum var. macrocarpon   アメリカから導入されたエンドウの品種。莢が平らじゃなくて丸っこい。莢、豆の両方を食べることができる。
グリーンピース マメ科 Pisum sativum L.   エンドウの成熟前の青豆。
ナス ナス科 Solanum melongena インドの東部が有力 最古の記録は、544年に完成した中国の農業書齊民要術。日本には平安時代に、奈須比として伝わる。アラブ人のイブン・アルアッワームが12世紀に著した農業書に記録がある。ローマ、ギリシャ時代の書物には記載がないことから、ヨーロッパに伝わったのは中世(5~15世紀)。インドのガンジス川付近に育つ品種には、1つ1キロ近い巨大なものあり。
トウガラシ ナス科 Capsicum annuum L. 中南米原産 コロンブスが中南米で発見し、後世界中に広まった。コショウ(スペイン語でピメンタ)に対応する辛味をもつということで、ピメントと命名。これがピーマンの語源となる。
ピーマン ナス科 Capsicum annuum L. var. 'grossum' 中南米原産 Capsicum(トウガラシと同じ属)の仲間でありながら唯一カプサイシンを作らない。
パプリカ ナス科 Capsicum annuum L. 中南米原産 語源はピーマンと同じ。
シシトウ ナス科 Capsicum annuum L. 中南米原産 トウガラシの甘味種。ピーマン、パプリカ、シシトウ、トウガラシは同種。
オクラ アオイ科 Abelmoschus esculentus 南インド、エチオピア、西アフリカか? オクラの語源は、ガーナで話されるトウィ語の nkrama から。日本に入ってきたのは明治初期で、トロロアオイの近縁種であることから昔はネリと呼ばれた。黒人奴隷によってアフリカから西インド諸島に持ち込まれた経緯があり、ルイジアナ州のGumboという煮込み料理にオクラが使われる。
ニンニク ヒガンバナ科 Allium sativum 中央アジア 人が使って7000年の歴史がある。紀元前3200年ごろには古代エジプトで利用されていた。現存する最古の医学書『エーベルス・パピルス』にも記載がある。仏教では五辛として(ネギ、ラッキョウ、ニンニク、たまねぎ、ニラ)は禁食。ヒンズー教にもこの考え方はある。ギザのピラミッドを立てるとき労働者に、玉ねぎとともに与えられた。古代ローマ、ギリシャでも重要な野菜。ドラキュラ、狼男避けとしても利用され、20世紀初頭には結核を治すのに食べられた。
ニンニクの芽 ヒガンバナ科 Allium sativum
ショウガ ショウガ科 Zingiber officinale 熱帯アジア原産 インド、中国で紀元前500年には栽培。日本では中国から2〜3世紀に伝わり奈良時代には栽培が始まる。世界中で飲料、食べ物に使用される(ジンジャービール、西欧、東南アジアではスウィーツ、日本では薬味として)。コンゴではショウガとマンゴーを混ぜたジュースが万能薬。風邪とかのどの痛みとして世界中で利用される。
葉ショウガ ショウガ科 Zingiber officinale 根茎が小指程度の大きさに成長したときに葉をつけたまま収穫したもの。谷中ショウガが有名。
パセリ セリ科 Petroselinum crispum 地中海沿岸 古代ローマ時代より料理に使われた。中央、東ヨーロッパではパセリの根をスナックとして食べる。イタリアには、Persilladeというパセリをメインとしたソースがある。
トウモロコシ イネ科 Zea mays メキシコのテワカン谷で栽培化された? 紀元前2500年前にはアメリカ中で育てられていた。原種はコーンの大きさが数センチで、一つの植物に1つしかコーンが付かなかった。北イタリアでは、とうもろこし粉をお湯で煮込んでとろみをつけたポレンタが主食。
ズッキーニ ウリ科 Cucurbita pepo メキシコの巨大カボチャが祖先? かぼちゃと近縁。元々は中南米原産だが、今出回っている品種はイタリアで1950年代以降に作られた。イタリア語でZuccaがカボチャ、iniがLittle。つまり小さいカボチャの意味。ズッキーニの花を揚げたものをfiori di zuccaという。トルコでは細かく切ったズッキーニを粉と混ぜてパンケーキにする。ブルガリアでは揚げたズッキーニにヨーグルトソースをつけて食べる。南フランスのラタトゥイユには欠かせない。
島ラッキョウ ユリ科 Allium chinense ラッキョウは中国、ヒマラヤ地方が原産。 鱗茎を食用とする。酢漬け、しょうゆ漬けなどにして食べる。西洋ではあまり食べられない。
ニラ ユリ科 Allium tuberosum 中国西部が原産 『古事記』では加美良(かみら)、『万葉集』では久々美良(くくみら)、『正倉院文書』には彌良(みら)として記載がある。キムチ、チジミの具材として使われる。
カボチャ ウリ科 Cucurbita pepo Cucurbita属はアンデスの原産。北米とも? ギリシャ語の大きいメロン、Peponという言葉が語源。世界最大のかぼちゃは1500ポンド、約600キロ。シンデレラの魔法の馬車はかぼちゃから、魔女によってかぼちゃに姿を変えられてしまうなど、不思議なイメージと重なり合っている。東洋カボチャは天文10年(1542年)に日本(豊後国)にポルトガル人がカンボジアから持ち込んだ。カンボジアがかぼちゃの語源とも言う。冬至にかぼちゃを食べるのは明治以降の風習。
ミツバ(三つ葉) セリ科 Cryptotaenia canadensis subsp. japonica 日本各地、韓国、中国、千島列島 江戸時代から栽培されていた日本のハーブ
レンコン(蓮根) ハス科 Nelumbo nucifera インド ハスの地下茎が肥大したもの。インド、スリランカでは茎を塩づけにしたものをサラダやカレーにする。中国ではハスの種からペーストを作って月餅の材料に。
タケノコ イネ科 モウソウチクは中国原産。ハチク、マダケ、ネマガリタケ、カンチクからもタケノコを取る。ハチクは中国原産。マダケは中国もしくは日本原産。ネマガリタケは北海道、千島列島に生える竹で姫タケノコとも呼ばれる。カンチクは日本原産。ネパールには発酵させたタケノコ、Tamaがある。インドにおいてはカレーを始め様々な料理に使われる。
ソラマメ マメ科 Vicia faba 地中海、西南アジアが原産。 古代エジプト、ギリシャ、ローマで重要な食料であり、レンズマメ、エンドウ(グリーンピース)、ヒヨコマメと共に最古の栽培植物の一つ。花の黒い点が死を連想させ、葬式に使われた。中東のファラフェル(豆のコロッケ)の材料。中国では豆板醤の材料。ソラマメを揚げて塩かけたのは中南米でも人気にスナック。エジプトのFul medames(ソラマメをつぶしてクミンで味付け)は国民的料理。エチオピアではShiroという粉をソラマメから作り、エチオピア正教会の断食中にはShiroで作った料理がお供えされる。ペルーでもソラマメを使った料理は多く、パチャマンカという石焼料理の材料の1つ。
エダマメ(枝豆、(大豆)) マメ科 Glycine max 中国東北部からシベリアが原産? ツルマメが原種? 中国では紀元前5000年に栽培されていた。古代中国の神農が大豆、米、麦、大麦、キビを聖なる穀物としている。日本の縄文遺跡からも原種より大きい大豆が発見されている。豆乳は紀元前82、豆腐は220年に作られたという記載あり。日蓮が寄進を受けた信徒に宛てた礼状「松野殿女房御返事」には「、枝大豆・ゑびね、旁の物給び候ひぬ」とある。ケンペルが長崎からドイツに帰国し、1712年に出版した廻国奇観(ペルシャを中心とした当時のアジア探訪記)に醤油の原料として大豆が記載されている。1737年に出版されたリンネのプランタナムの1stEditionには大豆の記載あり。西欧で栽培が始まったのは1929年。
セロリ セリ科 Apium graveolens var. dulce ヨーロッパ、中近東の冷涼な高原? ツタンカーメンの墓の花飾りにセロリの絵が書かれている。古代ギリシャの遺跡からセロリの種が発見されている。古代ギリシャのイストミア大祭ではセロリで優勝者への花輪が作られている。アウルス・コルネリウス・ケルススという古代ローマの学者によってセロリの種の鎮痛作用が説かれている。ホメーロスのイーリアスに馬がセロリの葉を食んでいたという記述がある。日本では、加藤清正が韓国から持って帰ってきたとも言われ、別名清正人参。
ナノハナ(菜の花、アブラナ) アブラナ科 Brassica rapa L. var. nippo-oleifera 西アジアから北ヨーロッパの大麦畑に生えていた雑草 日本では弥生時代から栽培。延喜式にも書かれている。
食用菊 キク科 古代から延命長寿の鼻として菊酒などが飲まれていた。苦味が少なく花弁を大きくした品種。紫の延命楽という品種は奈良時代に中国から伝わった。
ミョウガ ショウガ科 Zingiber mioga 東アジアの温帯原産 大陸からショウガとともに持ち込まれた際、香りの強いほうを「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだことから、これがのちにショウガ・ミョウガに転訛した。早稲田から名代のあたりでよく作られていた。韓国の南のほうでも食べられる。
アイスプラント(シオーナ) ハマミズナ科 Mesembryanthemum crystallinum ヨーロッパ、西アジア、アフリカ原産。耐塩性が高い。塩味のする新野菜として注目
クワイ オモダカ科 Sagittaria trifolia var. edulis アジア、ヨーロッパ、アメリカの熱帯~寒帯 塊茎が大きくなり、芽が出るのでお正月の縁起物。オモダカの栽培変種。
カイワレダイコン アブラナ科 Raphanus sativus var. longipinnatus ダイコンの発芽直後の胚軸と子葉。和名抄の菜羹類に黄菜として記載有
トウガン(冬瓜) ウリ科 Benincasa hispida インド、東南アジア 夏の野菜だが、冷暗所においておけば冬まで保存がきくというのが語源。広東料理では大きいまま、中をくりぬいて刻んだ魚介類、中国ハム、シイタケなどの具とスープを入れ、全体を蒸した「冬瓜?(トンクワチョン)」を作る。
サラダ菜 キク科 Lactuca sativa レタスのことであるが,一般には葉の色が緑色で余りかたく結球しない玉レタスをいう
クレソン(オランダガラシ) アブラナ科 Nasturtium officinale ヨーロッパ、中央アジアの原産 袖水植物、もしくは沈水植物。世界最古の薬用野菜。ヒポクラテスがその効能を説いた。
モロヘイヤ(シマツナソ、ジュート) シナノキ科 Corchorus olitorius 北アフリカ原産 世界的に繊維として重要なジュートのこと。エジプトの方言で粘性のある野菜煮込み料理をモロヘイヤという。インドや地中海沿岸では昔から食べられていた。ナイジェリアやウガンダでもスープなどにして食べられる。アラビア語、中東文化専門家の飯森嘉助が1980年代以降から日本で普及に努めた。Ain-i-Akbariという1590年に書かれた書物に繊維やロープ材料としてジュートが重要であるという記載がある。イギリス帝国支配下のインドではジュート輸出は大きな産業。オイルを塗ることで機械で編めるようになった。
ワラビ コバノイシカグマ科 Pteridium aquilinum 南北半球の温帯、亜熱帯に分布。 山菜の中であく抜きが必要。Eagle Fernといわれる。1753年にリンネが記載したSpecies Plantarumに記載があるが、プタキロサイドという発ガン物質を含むため、一生懸命食べるのは日本人ぐらい。
ゼンマイ ゼンマイ科 Osmunda japonica 北海道から沖縄まで、国外では樺太、朝鮮、中国からヒマラヤまで分布する せんまき(千巻き)に由来?
コゴミ(クサソテツのこと) イワデンダ科 Matteuccia struthiopteris 日本各地、北米大陸の北東部 北米東北部の人たちも、茹でたり蒸してバターと酢をかけて食べる。園芸植物のシダとしての評価も高い。英語名は、頭部がバイオリンの形をしていることからFiddle Headと呼ばれる。
キャラブキ キク科 Petasites japonicus 日本原産 伽羅蕗と書く。伽羅は最も珍重された香木の一つ(ジンチョウゲ科Aquilaria agallochaのこと)。油分が多く色の濃い香木をサンスクリット語でカーラーグルといい、伽羅の語源とも。
フキノトウ キク科 Petasites japonicus 日本原産 アキタブキは2メートル、北海道のラワンブキは3メートルにもなる。韓国ではゆでてナムルにもする。
ウド ウコギ科 Aralia cordata 日本、韓国、中国に自生 英語だとMountain asparagusと呼ばれている。韓国では乾燥させたものを炎症、熱、痛み止めとして使う。アメリカにも輸出されたが、人気にはならなかった。
アシタバ(明日葉) セリ科 Angelica keiskei 房総半島から紀伊半島と伊豆諸島の太平洋岸 伊豆諸島ではスーパーで通年販売されている。粉をアイス、パン、そばなどにいれて地場特産品を作るのにも使われる。夕べに葉を摘んでも明日には芽が出るため明日葉の名前がついた。天然痘の治療にきくとされた。貝原益軒の大和草本にも記載有。八丈島の人たちの長生きの秘密。 関が原の戦いの後、八丈島に流された宇喜多秀家(83歳まで生きた長命の武将)の好物だったとか。
ツルムササキ ツルムラサキ科 Basella alba インド〜東南アジア原産。 独特のぬめりがある吊る植物。日本では主に沖縄で栽培。ホウレンソウに似るがそれよりも栄養価が高い。インドでは様々なカレーに使われる。中国では炒め物、ベトナムではスープなど。
ナバナ アブラナ科 Brassica napus セイヨウアブラナを三重県がブランド化した。セイヨウアブラナは明治以降に油をとる目的のために日本に移入された。
サンチュ キク科 Lactuca sativa レタスの一種で掻き萵苣と呼ばれる。7世紀頃日本に導入された最も古いレタス。韓国では焼肉を包んで食べる。日本ではここ近年流通量が増えている
コリアンダー(パクチー(タイ語)) セリ科 Coriandrum sativum L. 地中海東部原産 別名カメムシソウ。日本には鎖国前にポルトガルから紹介された。東南アジア、中央アジア、メキシコ、ポルトガル料理では風味付けとしてよく使われる。インドでは、コリアンダーの種も使う。
エシャロット ユリ科 Allium oschanini 中東原産 本物のエシャロットは、十字軍がヨーロッパに持ち帰り、西洋〜中東で香味野菜として使われる。日本でエシャロットして出回っているのは、玉ねぎを軟白栽培したもの。名称が同じなのでややこしい。
ギンナン(銀杏) イチョウ科 Ginkgo biloba 中国安徽省原産? 日本にはおそらく鎌倉時代〜室町時代に渡来。いちょうは葉の形から中国では鴨脚と書かれる。その宋音ヤーチャオがイチョウの語源か。
ラッカセイ(落花生) マメ科 Arachis hypogaea 南アメリカ(パラグアイかボリビア?)原産 日本には東アジア経由で1706年にラッカセイが伝来し、南京豆と呼ばれた。1930年代までは主に家畜用に栽培された。
ベビーリーフ 発芽後10-30日程度の若い葉菜。ミズナ、ホウレンソウ、テーブルビート、レタス(ロロロッサ、デトロイト等)、カラシナ(マスタードリーフ)、エンダイブ、ルッコラなど
モヤシ マメ科 東アジアで昔から食べられていた。大豆、緑豆、ケツルアズキを暗所で発芽させたもので一般的には緑豆もやしのこと。暗所でも育つので潜水艦の中でも育てた。萌やすが語源。昭和40年代以降、中華料理の普及とともに一般的になった。
ワサビ アブラナ科 Wasabia japonica Matsum. 日本原産。 918年の『本草和名』で、「山葵」の和名を和佐比と記している。同じく平安時代の『和名類聚抄』にも和佐比と記されている。静岡県葵区有東木で栽培されたワサビは家康に献上された。
ジュンサイ スイレン科 Brasenia schreberi 東南アジア〜インド、アフリカ、オーストラリア、アメリカ等 水生植物の1種。若芽に独特のヌメリがあり、吸い物、スープなどに利用される。食用としているのは日本と中国。
アカミズ(ウワバミソウ) イラクサ科ウワバミソウ属 Elatostema umbellatum var. majus Wedd. Elatostema属は、旧大陸に広く分布 ウワバミソウは、日本の山地によく見られる。知る人ぞ知る、大蛇が食べ物の消化吸収を促すために食べる葉っぱらしい、、?→落語そば清
シロウリ(白瓜) ウリ科 マクワウリの変種。マクワウリはインド原産
ゴーヤ ウリ科 Momordica charantia L. var. pavel Crantz 熱帯アジア ツルレイシとも。中国語の苦瓜(クーグア)、涼瓜(リァングア)がゴーヤの語源?沖縄ではゴーヤチャンプルー、ゴーヤスライス、ゴーヤチップス、ゴーヤ茶など色々な料理に使われる。
カンクン(空心菜) ヒルガオ科 Ipomoea aquatica 東南アジア原産 湿地帯でよく育ち、水耕栽培も可能。簡単に育つことから、第二次世界大戦の時にフィリピンでは塹壕の中でも育てられたとか。英語ではWater-spinach
シメジ(ブナシメジ) キシメジ科シロタモギタケ属 Hypsizygus marmoreus ブナシメジは木材不朽菌のため栽培が容易。本シメジは生きた木に生息する菌根菌のため栽培が難しい。
エノキ キシメジ科 Flammulina velutipes(Curt.:Fr.)Sing. 一般に出回っているものは暗所栽培で白くしたもの。英語ではその形から、Lily mushroomと呼ぶ。日のあたるところでは、茶褐色で背の低い形に育つ。
シイタケ キシメジ科 Lentinula edodes 東アジア、東南アジア高山帯、ニュージーランドにも分布 中国では紀元前4000~5000年頃より栽培。南宋時代には、香椎と栽培法が記載されている。日本には9世紀頃に伝わる。1223年に宋を訪れた道元が、干し椎茸を求めにやってきた老僧の典座と話しをする逸話が有名。江戸時代に椎茸の人工栽培が始まった。
ナメコ モエギタケ科スギタケ属 Pholiota microspora ブナやナラなどの切り株に生える。中国語で滑子?。ロシアでもo-pyo-nokと呼ばれ広く食べられる。
エリンギ ヒラタケ科ヒラタケ属 Pleurotus eryngii 地中海、ロシア南部、中央アジア原産 フランス、イタリア料理の定番。エリンギは種小名
キクラゲ キクラゲ科キクラゲ属 Auricularia auricula-judae 広葉樹のニワトコ、ケヤキなどの倒木や枯枝に発生する。ユダが首を吊った木から生えたといわれ、種小名はユダの耳。中国、東アジアでは食用だが、他国では薬用に使われることが多い。湿布、咳止め、止血剤、黄疸に効くとも
マッシュルーム ハラタケ科 Agaricus bisporus ヨーロッパの平原、北米原産 古代ローマでも食べられていた。1707年にフランスの植物学者、ジョゼフ・ピトン・トゥルヌフォールによって菌糸を埋めればキノコが栽培できることが発見される。パスツール研究所で無菌の菌糸を作成・生産することに成功したのは1893年。
マイタケ トンビマイタケ科 Grifola frondosa Fries 日本北部〜北米の落葉広葉樹林帯 見つけた人々が舞い上がるように喜んだためマイタケ。食用として最もよく使うのは日本人。英語ではSheep's Head。中国、日本では古来から、生薬。ガン細胞をなくす効果有?
マツタケ(松茸) キシメジ科 Tricholoma matsutake 昭和20年前後にはアカマツ林でごく普通に取れたが、その減少とともに収量が激減。万葉集、古今和歌集に松茸の歌が詠まれている。高松の この峰も狭(せ)に笠立てて 満ち盛りたる 秋の香のよさ
タモギタケ ヒラタケ科ヒラタケ属 Pleurotus cornucopiae(Paulet) Rolland var. citrinopileatus(Sing.) Ohira ロシア東部、中国北部、日本。楡の木によく生える。 中国語では金頂?、???。英語ではGolden Oyster mushroom。ロシアでは人気の高い食用キノコの1つ。
ミカン(温州ミカン) ミカン科 Citrus unshiu 日本の不知火海沿岸 中国から伝わった柑橘が八代海沿岸で突然変異を起こして生まれた。八代には樹齢300年といわれるウンシュウミカンの古木があった。落語の千両蜜柑。
ミカン(紀州ミカン) ミカン科 Citrus kinokuni 中国浙江省? 温州ミカンより以前に日本で栽培されていたミカン。朝鮮から熊本八代に伝わり、江戸時代には和歌山に伝わった。
バナナ バショウ科 Musa acuminata, Musa balbisiana 熱帯アジア、マレーシア原産。 市場に出回る大半を占めるキャベンディッシュという品種は3倍体であるため、種を作らず。東アフリカには発酵させたバナナを搾って作るバナナビールがある。
アボカド クスノキ科 Persea americana Mill. メキシコ、中央アメリカ原産。 "アボカドの詳しいことは、下記のエッセイを見てください! http://ayuho.yu-yake.com/Gambar/Avocado/Avocado.html "
マンゴー ウルシ科 Mangifera indica L. インド、インドシナ半島原産 インドでは4000年以上前から栽培されていた聖なる果実。経典にも記載がある。4~5世紀に活躍したサンスクリットの詩人、カーリサーダーの劇作中にも記載がある。
リンゴ バラ科 Malus pumila Mill. カザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン 紀元前6000年の炭化したリンゴが発見されている。日本にはまず中国から和リンゴが伝わり、幕末に西洋リンゴが伝わった。旧約聖書に出てくる禁断の果実として有名だが、エデンの園があったと言われるペルシャ湾沿岸では暑くて育たなかったという異説もあり。
レモン ミカン科 Citrus limon インド北部、ヒマラヤ 古代ローマで栽培され、7世紀頃にはイラン、エジプト等で庭木として愛される。アメリカにレモンの種を持ち込んだのは、コロンブスと言われる。
オレンジ ミカン科 Citrus spp. 柑橘の原種は3000万年前にインドのアッサム地方にあった。 ミカン科ミカン属の果実の総称。オレンジという言葉はサンスクリットでオレンジの木という意味。
パパイヤ パパイヤ科 Carica papaya 中南米原産。 東南アジアの国々では青パパイアが野菜としてよく使われる。初めて実を見たスペイン人はパパイアを女性の乳の形と見立てた。そのためスペイン語では、ママオという。
ブドウ ブドウ科 Vitis spp. Vitis属は世界の温帯に分布。 主にヨーロッパブドウ(Vitis vinifera)はワイン用、北米ブドウ(Vitis labrusca)は食用。黒海沿岸のジョージアでは8000年前の陶器からワインの残留物が発見。古代エジプト、ローマ、ギリシャでもブドウを育ててワインを作っていた。鎌倉時代に中国から伝わったものブドウが、甲州で栽培されて有名に。勝沼や 馬子も葡萄を 食いながら(芭蕉)
ザクロ(石榴) ザクロ科 Punica granatum イラン原産。 炭化した石榴の実が青銅器時代(紀元前3500年〜1500年)の器から発見された。アフガニスタンのカンダハールは石榴の名産地。
スイカ ウリ科 Citrullus lanatus アフリカ南部が原産。 アフリカのサン族の間ではあまり甘くない品種があり、水代わりに使われる。tsamma という品種はカラハラ砂漠でも育つ。日本には中国経由で平安後期に伝わったとされる。
カキ カキノキ科 Diospyros kaki 東アジアの固有種とされる。 日本では弥生時代より栽培。昔は全て渋柿だったが、鎌倉時代に川崎区の王禅寺で甘柿が発見された。禅寺丸柿と命名。タンニンを含む渋柿は耐水性があり平安時代から様々に利用された。葉は生薬や柿の葉寿司に、材も家具などに利用。
ホシガキ(干し柿) カキノキ科 Diospyros kaki 中国では籠に並べて押して平らにした干し柿を作る。韓国には干し柿、ショウガ、肉桂を煮込んだスジョングァという飲み物がある。日本では延喜式に祭礼用のお菓子として記述がある。
スダチ ミカン科 Citrus sudachi 徳島県特産。 焼き魚、豆腐、そば等に香り付けとして絞ってかける。「酢橘」が語源。
カボス ミカン科 Citrus sphaerocarpa 大分県特産。 スダチよりは大分大きく、1つ100g以上。
ビワ(枇杷) バラ科 Eriobotrya japonica 中国南西部原産。 李白の詩にも詠まれている。日本には古来に伝来した。実は食用、葉は枇杷茶に。イスラエル、エジプト、パキスタンまた地中海沿岸でも広く栽培される。イタリアには、ビワの種から作ったネスポリーノというリキュールがある。
ブルーベリー ツツジ科 Vaccinium spp. 北アメリカ原産。 いわゆるブルーベリーと呼ばれる野生種は北米に20種以上ある。ブルーベリーはカナダから一番多く輸出されている果物。今でもデリケートな品種は手積みである。
サクランボ バラ科 Prunus spp. 実桜の果実。
パイナップル パイナップル科 Ananas comosus 熱帯アメリカ、ブラジル南部とパラグアイ周辺 コロンブスが南米に到達した1493年には既に各地で栽培されていた。学名のAnanasは、ブラジル奥地の先住民族のトゥピ語で「素晴らしい果物」の意味。1513年にスペインに紹介され、16世紀にはフィリピン、インドネシアで栽培が始まる。英語名は松ぼっくりに形が似ていることから。日本には江戸末期に渡来。沖縄では仏壇に供えることも。
キウイ マタタビ科 Actinidia deliciosa 中国北部原産 20世紀前半にNZで初めて商業栽培が始まる。最初はChinese Gooseberryと呼ばれたが、NZをイメージしてキウイと命名。現在はイタリア、NZ、チリが表生産国。アメリカ大陸に住むWhite-tailed deer(中型の鹿)は、夏の期間、熟して落ちたキウイを食べる。
ココナッツ ヤシ科 Cocos nucifera 原産地は、南米かインドかわかっていない。 6世紀に活躍したエジプトのコスマス・インディコプレウステースという地理学者による記述が最も古い。アラビアンナイトに、シンドバッドがココナッツを売り買いしたという記述もある。スペイン、ポルトガルには、ココという名のお化けの伝承があり、ココナッツが不気味に笑う顔(頭)に見えることからついた名前。ココナッツジュース、ココナッツミルクは食用、油をとり繊維をとり、葉っぱは屋根を葺くのに使われる。






参考文献

ケルトを旅する52章―イギリス・アイルランド― 永田 喜文
アンデス 食の旅 食の旅―高度差5000mの恵みを味わう 高野潤 平凡社新書

はだしのゲン 中沢啓治
貝になった男 直江津捕虜収容所事件 上坂冬子 文藝春秋
カウラの風 土屋康夫 KTC中央出版 真珠湾からの帰還 〜軍神と捕虜第一号〜 NHK土曜ドラマスペシャル マクロビオティックの梅しごと梅づくし-梅干し、梅酒、四季の梅料理と手当て法 大久保千和子

にんじん・ごぼう: おいしく食べる知恵 奥村彪生 農山漁村文化協会 コン・ティキ号探検記 トール・ヘイエルダール 水口志計夫訳 河出文庫
映画 コン・ティキ(Kon-Tiki)ヨアヒム・ローニング/エスペン・サンドベリ監督
沖縄 甘藷ものがたり 「サツマイモ」の伝来と普及のいきさつ 金城鉄男 農山漁村文化協会
ほしいも百科事典 http://hoshiimojiten.com/history/hoshiimo02.html
戦国の食術ー勝つための食の極意 永山久夫 学研新書
大奥の食卓 緋宮 栞那 講談社プラスアルファ新書
図解 食の歴史 高平鳴海 愛甲えめたろう 銅大 草根胡丹 天宮華蓮 新紀元社
世界の野菜を旅する 玉村豊男 講談社現代新書2055
着想江戸時代の大ハヤリ食(食卓のなぜ学ストーリー) 田井友季子 農山漁村文化協会
物語 食の文化 - 美味い話、味な知識 北岡正三郎 中公新書
神々の食 池澤夏樹 文藝春秋
くいもの 食の語源と博物誌 小林祥次郎 勉誠出版
土を喰う日々ーわが精進十二ヵ月ー 水上勉  新潮文庫
食べたいほど愛しいイタリア アレッサンドロ・ジョヴァンニ・ジェレヴィ 新潮文庫
そだててあそぼうシリーズ 農山漁村文化協会



Special Thanks to
クックパッド