−インドの聖牛−

インドで牛は神様と考えられ、その肉は食されることはない。インドの街中には牛が寝転がっているが、インド人の運転手はその牛が通りすぎるまで待つ。ムンバイには数え切れないストリートチルドレンがいる一方で、インド全土には、老いた牛、病気になった牛の面倒を見るゴーシャラという施設が3000もある。一体それはなぜだろう。インド人にとって牛とは、どんな存在なのか。


道端に寝そべる牛

紀元前1000−1500年に編纂されたインド最古の教典、リグヴェーダには、世界を干ばつから救ったインドラ神の話がある。その昔、悪魔は天上に世界中の川の水をせき止め、世界を無秩序なる干ばつに陥れていた。その悪魔を、インドラ神は剣で切り裂いて退治する。それと同時に天上の水は解き放たれ、牛の大群とともに一気に流れ出した。それらの牛は全て身ごもっており、そこから太陽、大地、植物、動物など宇宙の全ての要素が秩序を持った形で生れたという。インドで、牛が全ての根源と考えられる由来である。
この世の秩序を生み出した牛は、宇宙として見なされる。その牛の4本の足は、それぞれ宇宙の四隅に立っており、宇宙空間全体を包み込んでいる。この状態の時は、宇宙は秩序ある状態で機能しているが、時間が経つにつれ、牛の足は1本ずつ宙に曲げられ、4本目の順番になると宇宙の秩序は全て崩壊してしまう。その後宇宙は再生を始め、牛は再度その四隅に足をおくという。つまり、ヒンズー教徒にとって、時間と空間と秩序の認識の仕方は、宇宙と同一視される牛と深い関係がある。

'牛が全てのものを与えてくれる'というのは、現在でもインドの農村地帯においては、明確に当てはまる。インドの農民の生活は、牛が与えてくれる5つの聖なるものと強く結びついている。その聖なる物とは、
1.ミルク
2.ギー
3.カード
4.牛糞
5.尿
である。

ミルク

牛のミルクは、農村地帯に住むインド人にとって重要な食物である。ミルクからヨーグルト、ギー、カードなどが作られるのみならず、牛のミルクを飲む者は頭が聡明になり、体は俊敏に動くようになり、感情は安定し、穏やかな性格の持ち主になると言われる。また、牛のミルクを讃える感謝の歌がある。私は、よく行く市ヶ谷のインドカレーレストランに行って店員にそのことを尋ねてみた。
'インドには、牛のミルクを讃える歌があると聞いたのですが、、。'
'あー、アルネ。知ってるヨ。'
と言う。
'本当ですか? 是非聞かせてもらいたいのですが!'
'んー、でも真面目なの違うヨ。コメディアンが歌ってる。'
私は、なんじゃそれはと思いつつも、頼んで歌詞を教えてもらった。それは、
"バルラムさん、牛を持っていて幸運だ。
ミルクを売ってお金をつくることができる。
ミルクを薄めてごまかして売っても、まだお金を作ることができる。"
というものであった!


教えてもらった歌詞


ギー

ギーは、通常のバターからさらに水分を飛ばして作る飽和脂肪酸のみを含有するインドの澄ましバターである。冷蔵庫にいれなくても長期保存が可能なため、インドでは太古の昔から料理には欠かせなかった。アーユルヴェーダの薬を取る時も、ギーを用いると有効成分が油脂に溶けて、体内への吸収効率がよくなる。また、ディワリのお祭りに使われるろうそくはギーが原材料であり、火の神アグニへはギーをお供えする。またヒンズー教徒としての洗礼を赤ちゃんに施すときにもギーを用いる。つまり、ギーは食卓にも、治療にも、信仰にも欠かせない牛からの贈り物なのである。


ディワリに使われるギーのろうそく


インドで市販されているギー


カード

インドでは、カードはヨーグルトのことである。ミルクに乳酸菌が作用して作られるヨーグルトは、インドの飲み物であるバターミルクとラッシーには欠かすことが出来ない。バターミルクとは、クリームからバターを取った後の残り成分、あるいはヨーグルトを水で薄めたもので、南インドでは食後に1-2杯のバターミルクを飲んで胃を落ち着かせるという。またバターミルクとごはんを軽く混ぜ合わせたものを食すこともある。北部インド、パンジャーブ地方由来のラッシーには、様々な種類がある。ローズウォーター、レモン、いちご、砂糖などで味を付けたスウィートラッシー、バターを混ぜたマクハニアラッシー、クミンと塩だけで味付けしたチャースラッシー。毎年春に行われるヒンズー教のホーリー祭には、マリファナの成分が含まれたバンラッシーが飲まれる。


牛糞

2億頭の牛を擁するインドでは、日本の年間米生産量の約10倍である8億トンもの牛糞が毎年生じる。そしてこれは、ゴミではなく牛から与えられる聖なる物の1つである。牛糞には殺菌作用があり、牛糞と粘土を混ぜて作った土壁の家には、虫やは虫類が入ってこない。そのため牛糞を外側に塗った土製の容器に穀物を保存することがある。また牛糞は団子状に手で丸めて燃料として用いる。この牛糞団子は、一定の温度でゆっくりと燃え続けるため、煮込み物などを作るには最適の燃料なのだ。牛糞団子からは燃えるときに、独特の薄紫色の煙が出る。この煙は、国際線パイロットには発着時の視界を妨げると悪評されているが、インドの初代大統領ネルーは、その薄紫色の煙が民家の煙突から立ちのぼる風景をガンジス川越しに見て、'我が祖国の平和な姿これにあり'と感涙せずにはいられなかったという。牛糞が燃えた後の灰には、さらに火の力が宿るため非常に尊ばれる。ヒンズー教の修行者は、この灰を体に塗ってシヴァ神と同一化するために祈る。


薄紫色の煙で悪評高いデリー国際空港


尿

ヒンズー教徒にとって、ガンジス川は何よりも神聖で尊い。ガンジス川で、身を清め、死んだときには自身をガンジスに流してもらうことを望む。そこには、上流の集落からの生活排水、糞尿、動物や人の死骸などありとあらゆる物が流れてくるため、世界一コレラ菌濃度が高いとも言われるが、ヒンズー教徒にとっては絶対的に清らかな川なのだ。ガンジス川の水を汲み取った物をガンガジャールと呼び、信徒はこれを村に持ち帰り、様々な神事に使う。そして、牛の尿にはガンガジャールの成分が含まれていると考えられているため、尿も井戸を清めるといった儀式に用いられる。


聖なる川、ガンジス


パンチャガーブヤ

上記の5つの聖なる物にはそれぞれ薬効や清浄化作用があるので、これら全てを混ぜ合わせたパンチャガーブヤはさらなる力を持つとされる。配合比率は、尿50ml、牛糞50mgを混ぜて布で漉した後、20mlのミルク、20mlのカード、15mlのギーと合わせるのが良いとされ、慢性疾患の改善のためには、パンチャガーブヤを飲むことがアーユルヴェーダにも勧められている。また最近の科学分野において、パンチャガーブヤの薬効が分析化学的側面から実証されつつある。
この話を聞いて、普通の日本人なら'そんな馬鹿な、'と一笑に付するだろう。しかし、視点を変えて見ると、納豆にダイエット効果があるというのは、外国人には'そんな馬鹿な、'と笑われることなのではないだろうか? 2007年1月あるテレビ番組で納豆のダイエット効果が報道され、多くのスーパーで納豆の売り切れが相次いだ。過剰報道だったこともあり混乱の波はすぐに収まったが、この事件は'ハイテク国民の間に存在する腐敗大豆への執着心!〜スーパーから消えるNATTO〜'という見出しで、Japan Times等に記事として書かれても不思議ではないのかもしれない。


外国人には理解しがたい納豆


聖牛のお祭り

インドでは、聖牛カマドゥヌと牛の守り神であるクリシュナ神を祝う祭がある。クリシュナは、七日間の大洪水が起こったときに、牛飼い女と牛たちを守り通した偉神であり、またカマドゥヌは、全てを叶えることができるヒンズー教の神秘の牛である。祭りの日には、クリシュナの化身をカマドゥヌの像から出るミルクで清め、双方の神に祈りを捧げる。また、インド各地のゴーシャラでは、人々は牛たちに食べ物を与え神からのご加護があることを願う。


クリシュナ神の化身と、飾られたカマデゥヌ



聖牛批判?

西欧の経済学者は、様々な試算をして「インドの聖牛」に関して批判を行う。パンジャーブ地方では、年間400-500万頭の牛が肉や皮として有用に使われることなく死んでいる。牛肉を食べるようになればインド人の栄養状態は大幅に改善される。牛肉を貿易輸出品として扱えば、年間7億ドルの外貨獲得につながる、、等々。
インド政府も、これらの助言を受けて、特に牛肉輸出の可能性については考えない訳ではなかった。しかし、ヒンズー教徒の、牛を殺すことへの絶対的罪悪感、嫌悪感、反対感情から、これらの計画は雲散霧消してしまうのだ。もし、この聖牛信仰を変えることが可能なら、イギリスがインドを植民地にしていた400年の間に変えられたはずである。
経済理論では説明できない信仰の深さと不可思議さがここにある。そして、牛を殺さないことに象徴される不殺生への深い帰依、輪廻転生が身の回りに存在する日常生活、そんな彼らが住む神の国インドに、世界中の旅人が魅せられてきたのではないだろうか。信じるということの中にのみ、その人にとっての真実が存在する。


牛とともに


丑年である2009年が、皆様にとってすばらしい年になるようお祈り申しあげます!


参考文献
・Questions in the Sacred-Cow Controversy, Current Anthropology, F. J. Simoons ・Sacred Cow, Robin Winter
・Holy Cow! The apotheosis of Zebu, or why the cow in sacred in Hinduism, Asian Folklore Studies, F. J. Korom
・肉食タブーの世界史、フレデリック シムーンズ
・Wikipedia
・Special thanks to Curry restaurant Assam