2019年はイノシシ年である。
私とイノシシの縁は、大阪で浪人時代を送っていた1995年に遡る。ちょうどこの頃、六甲山では野生イノシシの増加や町への出没が顕著になってきており、灘区に住んでいた友人は、帰宅途中にイノシシが買い物の匂いを嗅ぎつけて後をついてくること、イノシシは信号を守ること、餌がないと抗議するかのように母イノシシとウリ坊が近所を歩き回ること等を話してくれた。
大学入学後、実際に六甲山に登りに行き、野生のイノシシを見た。ウリ坊の愛らしさは今でも鮮明に記憶に残っている。
イノシシは一度に4、5頭の赤ちゃんを出産する。その授乳には相当お腹がすくらしく、授乳期の母イノシシは採食を邪魔されると自分の子供でも蹴倒すような荒々しさを見せる。そんなエピソードから、ふと、イノシシや他の十二支の乳房の数は幾つだろうと思った。
種々の文献を当たってみたところ、以下のようになった。
子(鼠) ドブネズミ12個、クマネズミ10個、ハツカネズミ8個
丑(牛) 4個
寅(虎) 8個
卯(兎) 8-10個
辰(竜) 哺乳類にあらず
巳(蛇) 哺乳類にあらず
午(馬) 2個
未(羊) 2個
申(猿) 2個
酉(鳥) 哺乳類にあらず
戌(犬) 6-10個
亥(猪) 10-12個 (豚は14個)
驚くことに、ネズミや犬のように乳頭の数が一定していない動物種も多い。これは、生まれた子供の数によって乳頭数が変化したり、形態的には乳腺組織であっても乳を出すものと出さないものがあったり、家畜化や愛玩動物となる過程で乳頭数が変化したことによる。
しかしながら、それらの要因を鑑みても、イノシシは十二支の中で一番乳房の数が多そうだ。2019年亥年はそのことに因んで哺乳育児に関する悲喜こもごもを語ってみようと思う。
2016年6月16日午後2時19分、帝王切開で誕生した娘が初めてママのおっぱいを吸ったのは、その日の夜の8時だった。
おっぱいを吸う赤ちゃんの本能に感動しながら、色んな事を語り掛けたのを記憶している。
産院である都立広尾病院では3時間おきの授乳をするようになっており、退院するまでの10日間、基本的には直接母乳又は搾乳したものを与えた。しかし、私は出産翌日の17日に産後貧血(帝王切開での出血量が3L近かった)で立てなくなったこともあり、何回か母乳を与えるのを断念して、看護師さんからミルクを与えてもらっている。6月24日無事に退院し、その後は母乳の出も順調になった。
かずちゃんが口にするものはママの体内で作られる母乳だけである。赤ちゃんはほとんど動くことがないが、それを考慮しても母乳だけですくすく大きくなっていくのを目の当たりにするのは、感動と驚きを伴う。ある夜、おっぱいが張ってコップに搾乳したものを思い切って飲んでみた。甘い。味的には、コンデンスミルクを薄めたような感じである。これが血液から作られるのである。糖分だけではなく、ビタミンや免疫グロブリンや赤ちゃんにとっての必須栄養素がすべて含まれている。
私は母親として、授乳というメカニズムのすごさと尊さをつぶさに体験した。
ところが、この充実した授乳ライフに暗雲が立ち込める。授乳時に感じていた右のおっぱいの「なんとなく痛い」という感覚が、確実に「痛い!やばい!」に変わったのは、2017年4月8日、かずちゃんが10か月でかわいい歯が生え始めてしばらくした時のことであった。かずちゃんが満足そうに乳首を口からはずした後に見てみると、いつも歯が当たると思われる位置に傷ができており、よく見ると血までにじんでいる。授乳傷である。うわーー! これは痛いはずだ、、と私は愕然とした。
しかもこの授乳傷は、日々痛みを増した。というのは、血がにじんでいる場所にかずちゃんの歯が食い込むからである。ある夜、私は余りの痛さにかずちゃんを投げ出して一起さんに渡し、そのまま30分近く台所でうずくまってしまった。かずちゃんは一起さんの腕の中で泣き続けてついには疲れて寝てしまい、私はなんてダメなママなんだろうと自責の念に駆られた。
授乳を完全にやめてしまうのが一番治りがいいのは確実なのだが、そういう訳にはいかない。数時間たつと、かずちゃんはお腹をすかせてワーワー泣き始める。哺乳瓶をトライしてみる。今まで完全母乳でやってきているのでまるっきり受け付けない。痛い右の代わりに左のおっぱいをあげると喜んで吸う。でも左ばかりあげていて、左にも傷ができて激痛が走るようになったらどうしよう。右も左も哺乳瓶もダメ、となったら一体全体どうすればいいのであろうか! この悩みは、相当のプレッシャーとなって母親に迫ってくる。
インターネットからだっただろうか、授乳傷にはキズパワーパッドという絆創膏が効くということを知った。普通の絆創膏とは異なり、貼ると傷口に密着して傷口から出る体液を用いて傷を治すというものである。以前別の切り傷に使ったことがあるが、お風呂に入っても1週間ぐらい全く剥がれなかった。確かにこれなら授乳傷に効きそうである。やってみると、見事にかずちゃんの歯は傷口に当たらないようになり、痛みは遥かに軽減した。でも赤ちゃんのおっぱいを吸う力はとても強いので、2日ぐらいすると剥がれてきたが、そうしたらまた新しいのを付けた。その間に、歯が当たらないように別の抱っこの仕方(横抱きではなく、立て抱き、フットボール抱き等)を習得し、なんとか傷の回復と授乳を両立させることができたのである、、、。
(実は、キズパワーパッドは赤ちゃんが誤飲する危険性があるため授乳傷には使わないでください、と添付文書にあることを後で知りました。)
それにしても、キズパワーパッドには助けられた。家からすぐの薬局は夜10時までやっているし、近隣には母乳外来をやっている産婦人科もある。万が一赤ちゃんに何かあった時に助けを求めることができる救急車や大学病院の存在も心強い。このような利便性や医療体制がなかった時代、母親たちはどのように授乳に関するトラブルに対応していたのだろうか。
歴史学者の沢山美果子は「江戸の乳と子ども」「江戸の捨て子達」という著作の中で、武士の書いた日記、藩の通達文書、井原西鶴の作品等を読み解き、当時の赤子とお乳の関係について考察している。
江戸期にも授乳傷による悩みは存在した。また乳汁が溜まることで発症する乳腺炎も認識されており、平安時代の書物には妬乳という名で記載があった。しかし、出産や病気による母親の死亡、また疫病や飢饉による慢性的な栄養失調が現代より遥かに多かった江戸時代、授乳に関する悩みと言えば、圧倒的に乳不足であった。乳不足は赤子の命と直結しており、その状態で赤子を育てるには大変な困難が伴った。
乳がないまたは少ないという場合、家が豊かであればお金を付けて養子に出したり、乳母を雇うことができた。しかしそのような経済力がない場合は、貰い乳といって近隣の授乳中の女性に乳を分けてもらった。しかし貰い乳にも幾ばくかのお礼が必要であり、特に夜間は気を遣う。砕いた米に水と甘味を加えた摺粉という乳の代用品もあったが、乳汁とは比べ物にならない。貰い乳や摺粉だけで長期的に赤子を育てていくことは不可能であり、万策尽きた末には、大きな商家の門前や寺社仏閣の境内などに赤子を捨てていくことが多々あったのである。
1686年(貞享4年)の生類憐みの令制定以降、各地で捨て子禁止令が施行された。捨て子が発見された場合、藩に届け出ることが義務付けられ、その養育や貰い手探しは発見場所の村や藩の責任に帰することとなった。捨て子の年齢は0〜3歳といった乳幼児が圧倒的多数であり、親からの書付、へその緒や髪の毛、また被差別部落の子ではない証明として氏子の証文が添えられることがあったという。
養子・捨て子の貰い手や乳母を探すときに重要となったのが、口入屋という情報ネットワーク稼業の存在である。口入屋は、同町内や近隣の村々における養子・捨て子、そして乳が出る女性(出産したが死産だった等)の情報を一手に集め、双方を娶わせる役割を担っていた。母乳は赤子が吸わなければすぐに量が減りそのうち出なくなってしまうことを考えると、口入屋はかなりの頻度で情報収集していたと考えられ、貰い手や乳母が決まった時の藩からの謝礼は少なくはなかった。
またお乳が赤子の命綱だった時代、乳母として働く乳持ち奉公は破格の待遇を得られる仕事であった。給料は下女働きより数倍高く、さらに赤子に直接触れるということから着物等も支給された。しかし、乳が出れば誰でも良かったかというとそうではない。特に裕福な家に奉公するためには、乳の質及び量はもちろん、健康状態、病気歴、出自、人品、性格、気立て等、厳しい調べを受けた。乳が出なくなれば解雇されることや、給与の値上げ等を要求しないこと等に関して口入屋と誓約を交わした上での奉公であった。
ちなみに哺乳瓶が日本で初めて販売されたのは明治4年(1871年)であるが、その時の名称は煩わしい乳母選びから解放されるという意味を込めて「乳母いらず」であった。
江戸時代にはこうした乳不足の赤子の命を救う社会的仕組みが存在したが、乳幼児死亡率は現代よりも遥かに高く一説によると、5歳までに約半数の子供が死亡したと言われる。しかしながらそんな中にも、養子・捨て子を我が子同様に育て上げ家業を継がせる、実の娘と縁組させて家督を継がせるという例があった。乳幼児死亡率が高かったゆえに、養子や捨て子に対する需要もまた高かったのである。
私はなんとか授乳傷を克服し、その後はしばし幸せな授乳ライフを送っていたが、またトラブルに出くわした。今度はあげることに関してではなく、授乳を止める、つまり断乳に関してである。保育園の先生や周囲の年配の方から「断乳しないとね」「断乳まだなの?」と度々言われるようになったのである。
断乳とは、赤ちゃんが大好きかつ大きな心の拠り所であるおっぱいを、ある日を境に一切やめることである。夜延々と泣きわめくことが何日も続くとか、昔の人は辛子やワサビをおっぱいに塗って止めさせたというエピソードをしばしば聞く、あれである。
「断」という字の響きは重い。断薬、断酒、断食という言葉に表されるように、断乳も、断腸の思いで決断して決行し、万が一失敗し断念せざるを得ない場合、両手両膝ついて頭を垂れて我を顧みなければいけない、、そんなイメージが浮かんでくる。
昨今は断乳よりも、子供の意思を尊重し自己肯定感を育てるために、卒乳をしようという考え方が主流になってきている。しかし、年配でかつ何百人もの乳幼児を見てきた周囲の人たちの意見は、面と向かって言われると重いものがある。
「かずちゃんも、断乳してもっと離乳食食べて大きくならないとね。」
「断乳しないと、虫歯が心配ですよ。」
との言葉に、私の想いはグラグラと揺らいだ。というのは、かずちゃんの離乳食の量は同月齢の子に比べて量が少なくかつ小柄であったし、1歳半検診(2018年1月16日)で「あ〜、だいぶ汚れがついていますね。頑張って磨いてあげてください。」と言われていたからだ。
検診から1か月半経った2月28日に近くの歯科医を訪問して、かずちゃんの歯の状態を見てもらったところ、「生え始めの奥歯が既に虫歯です」と言われた。私は目まいがしそうな程ショックを受けた。コンビニの数よりも歯医者さんがあり、口腔ケアのレベルが非常に高くなっている昨今、2歳前に虫歯になってしまうとは!! よっぽど母親としての虫歯管理能力がないのではなかろうか。それとは別に、パパもママも歯の状態は悪いということも関係しているかもしれない。パパは腕力、ママは脚力には少々の自信があるが、歯に関しては2人とも治療の手が入っていない歯はないほどダメダメなのである。こうした遺伝的要素もあってか、かずちゃんは1歳9か月の時点で奥歯が虫歯になり、3月7日にかつてないほど大泣きして奥歯を削りプラスチックを入れてもらったのである。
「起きている時は唾液が出るのでおっぱい飲んでも大丈夫ですが、寝ると唾液の分泌は止まってしまうので、寝る前には必ず磨いてあげてくださいね。」
と歯医者さんはアドバイスをくれた。実はこれまでも寝る前に歯磨き&仕上げ磨きは行っている。しかし、仕上げ磨きはこの世で一番嫌なことらしく、終わるとワーワー泣きながら「おっばいーーー。」と猛烈な勢いで抱きついてきて、おっぱいを飲まないことには泣き続ける。なので、おっぱいねんねした後、歯をガーゼで拭くということもやっていた。成功する時もあったが、たいがいは違和感と不快感ゆえに起きてしまい、泣きながらまた「おっぱいーー。」となってしまうのである。
パパだろうが、ママだろうが、歯磨きは大嫌い!!
そんな毎晩を送っていた2018年5月15日、かずちゃんは夕方から吐き始めた。食欲はなく吐いた後は、辛そうにおっぱいを飲む。そして寝たかと思うと、また吐いて虚ろな目をして起きる。脱水症状が心配になって、12時過ぎに救急車を呼び病院に連れて行ってもらった。ここで点滴を受けながら、X線・血液検査を行い、脱水の心配はないことが判明したが、
「何か飲むとまた吐くの繰り返しになってしまうので、朝までは水分はあげないで我慢してください」とお医者さんに言われたのであった。
帰宅したのは3時近くで、かずちゃんはお布団に入ると当然おっぱいを欲しがったが、
「明日の朝までダメだよ。飲むとオエーッて吐いちゃってピーポーで病院に行って、怖くて痛い針チクリだよ!」
と何度も言い聞かし、かずちゃんはやっと寝てくれた。
大好きな救急車。まさかお世話になろうとは、、!!
この翌日が歯医者であった。この日の治療はフッ素塗布だけだったが、かずちゃんは相変わらず泣いた。しかしご褒美のシールをもらうと喜んで先生に手を振っていた。この晩、私は、
「今日は歯磨いたら、もうおっぱいは飲めないよ。昨日も朝まで我慢したもんね。」と諭した。
片言の言葉しかしゃべれなくても、おっぱい→虫歯→恐怖の歯の治療、という関係性はわかったようで、歯磨きの後ママに促されてお布団に行きすっと就寝。ところが次の日の夜は真夜中に起きて足をバタバタさせて大泣き。そのまた次の日はおっぱいが恋しくて恋しくてしょうがなくなったらしく、捨てられた犬がすがるような声で「おっぱい、おっぱい、おっぱい、、、」と連呼する。しかしママは反応してくれない。それならばと今度は「チッチ、チッチ」というので一緒におトイレに付き合う。本当におしっこが出るのではない。トイレは明かりがついて、壁に貼ってあるあいうえおポスターや日本地図ポスターを見ながら遊べるからである。「富士山だねー、あひるさんだよー。」といってしばし遊び、お布団に帰るとやっぱりまた「おっぱい、おっぱい、、」そのうち「チッチ、チッチ」で再びトイレへ。この過程を5,6回繰り返し、私はフラフラになった。しかしこの時期を境に、夜寝る時のおっぱいは卒業することができたのであった。
かずちゃんの場合、おっぱいねんねが虫歯の原因であったことは確実である。というのは、プラスチックを入れた治療の後、毎月1度歯医者にいって様子を見てもらっているが、虫歯の進行は止まりなんとか現状を維持しているからである。また、いつしか食事もよく食べるようになり、年齢に応じた成長を遂げて小柄だと感じることもなくなった。
さて断乳についてであるが、これはいつ頃からある言葉なのだろうか。断乳という言葉が初出する文献を探すために、国会図書館のデータベースを検索してみた。すると明治時代から現代にかけて、100を越える文献が見つかった。このうち、畜産関係の文献は除外し、初出(明治8年)から昭和30年までの42文献を当たってみることにした。偶然にも、断乳に関する文献を探している時期(2018年秋)に溜池山王に勤務しており、国会議事堂は徒歩15分の距離にあった。そのため毎昼休み、国会議事堂前の銀杏並木を通って国会図書館に通い文献を閲覧しに行ったのである。
これらの断乳に関する文献を繰り返し読んで浮かび上がってきたのは、
・母乳は、乳児にとって生後一定期間は、天理に叶った最良の滋養物であるとされる
・江戸時代までは、4〜5歳まで授乳することがごく普通に行われていた。
・断乳に関する章の前後には、ほぼ必ず牛乳に関する章がある。
・断乳の理由は、子供の栄養面と発育の向上、母体からの病気の伝染防止、母体の衰弱阻止及び健康回復である
・断乳のために、辛子等を塗る手法を推奨している文献はない。
である。また明治初期から昭和30年にかけて、文体が昔風から近代的に変化しておりこれも大変興味深い。
それでは、実際に文献を引用しながら、往時の断乳という概念に迫ってみよう(括弧内の数字は引用文献)(カタカナ表記はひらがなに修正)。
断乳という言葉が初出するのは、明治8年に出版されたクレンケ・ハルトマン著の母親の心得(1)である。「乳を止めて他の食養に慣れしむるの法」という項で「その期日は生まれてより九箇月の後なり、故に七八箇月に至れば乳を飲ませずとも他の飲食にて生活し得べき」と書かれている。
明治11年、18年にも外国人著者による育児書が出版されており、それらには断乳について「そのことたるや小児が大約十二カ月長じたる時になさん」(2)、「通例は、母子ともに健なれば、九カ月より(これは大切な時限なり)早く、十二カ月より遅く断乳せざるを法とす(→6カ月より早く12カ月より遅くなってはならない)」と記載がある。
これは当時の母親たちにとっては、驚くほど早い時期だったのではないだろうか。というのは明治より前は、4,5歳までの長期授乳がごく普通だったからである。それは、「ややもすれば子女を愛するのあまり、二、三年を過ぐるも乳汁のみにて養ひ他の食物を食せしめざる習慣あり」(8)、「本邦従来の風習として久しく乳を与ふるほど子は強壮なるものと思い誤り甚だしきは生後四五年に至るまでも乳養を続くるものあり」(9)、「我国は古来授乳すること長く慈母また離乳を欲せざる弊習あり」(10)、「我が日本の如きは随分断乳時期の永いほうであります」(12)、「中には生後十二カ月にして断乳させる国もあるが我国の如きは随分断乳期の遅い風習であります」(13)、「授乳全廃は一半以上三年、稀には五年に亘るものあり」(26)、「我が国古来の習慣では、ただ漫然と飲むまで飲ませる、次子ができるまで、乳をやることにしてあります」(30)、「離乳と申しますと、しばしば次の様な非難が小児科医に向けられます。「昔はみな五つまでも六つまでも、母親の乳を吸って子供たちはみな元気で育ったのに、最近の小児科医は、、、」(39)という記述からもわかる。伝統的に非乳文化圏では授乳期間が長かったと言われるが、明治の文明開化と共に西欧的スタンダードが日本に流入し始めたのである。
断乳の理由としては、時期が来れば母乳には滋養分が少なくなり、歯の成長と共に食べ物を食べられるようになるためとされる。しかしその時期は、「二歯及至四歯を生ずるに当たり即ち生後第七、八か月」(3)、「ある人は歯十六個を生ずる迄は離乳せしむべからずと伝える程なり」(8)、「生後二カ年の終りに前乳歯発生し終わるものならば遅くとも其時期までに断乳し終わるを要す」(21)、「一年から三年までの間に断乳をさせねばなりませぬ」(23)と幅があり、母体の健康状態や小児の発育、季節を考慮すべきとされる。
また、断乳を遅らせるとと母子ともに健康に害が出るという。トーマス・ブール著の母親の教(4)には、授乳を長期継続している母親に関して「至極早く起る病の徴は、乳を児に吸わせ居るときに、先背の引っ張らるる様なる心地ありて其の後には胃窩の推しすくめられて空になる如きを覚え、それより程なく食欲なくなりて、大便結し、また左の脇腹痛むなり、又或いは頭に幾らかの患ありて、時としては烈しく疼々し、耳鳴り、多くは眩暈して、精神疲れ、それにつれて、胸痛み、呼吸促しくなりいて
乾咳出でて、少しにでも労力ることあれば、心臓の動悸高ぶり、其の一層甚しくなるときには顔色蒼白となりて、肉落ち、夜中多量に寝汗出て、衰弱し、脚又は瞼晴れ、遂に神経症起るなり。更に甚だしきに至りては、眼の網膜極めて衰えて、一時盲目となることあるなり」と驚くような病状が列記してある。
小児に関しては「断乳せざれば小児は貧血症に陥り薄弱となること屡々ある」(21)、「乳離れの仕方を誤りますと小児が衰弱したり甚だしきは死亡をしたりする」(23)、「満一年及至其以上母乳のみをもって養わるる小児は外観上栄養佳良なるが実は顔面蒼白、筋肉弛緩し、またくる病の兆候あり」(26)「一年及至其以上専ら母乳のみを以て栄養せらるる小児は皮膚蒼白、筋肉弛緩、運動倦怠又急に進行するくる病を起こすこと稀ならず」(32)、「母乳ばかりを誕生を過ぎても、なおながくやっていますと、第一に血色が乏しく、蒼くなって知らぬ間にいままでの林檎の赤いホッペタが色あせてきます。第二に、いままでガッチリ太っていた手足がやわらなくなり、股の肉をつまんでみますと、フワフワに柔らかくなってき、また知らぬ間に体重の増え方が止まってしまいます。第三に、離乳の遅れた子は、むやみに癪が強くなってキイキイいらだってき、お母さんの乳房を噛んだり、今までせっかくすすめてきた離乳期の食物も急に食べなくなって、始終怒りっぽい手のつかぬ子になりやすいのです。これらの変化は、徐々に来ますから、一人一人の赤ちゃんを家でみていますとついそれと気が付きませんが、毎年催される健康乳児審査会などで、離乳期前後の赤ちゃんをたくさん一堂にあつめてみますと、このことがじつにハッキリ現れています」(39)
とある。子供が1、2歳を過ぎてもまだまだおっぱいが好きで、、という母親にしてみれば全身が震え上がるような記述ではないだろうか。しかし、26、32、39の文献の「乳のみ」という部分に注目したい。母乳は時と共に栄養分が減少する。そのため母乳のみで小児の栄養をずっと補うことは不可能で、例えば1,2歳を過ぎても乳のみだった場合は、栄養不良になる可能性が高い。そのことが、上記文献には恐怖を煽る表現で書かれているのではないだろうか。また、飽食の現代では稀と思われるが、明治、大正時代には長期授乳によって母体が衰弱するということは、珍しくはなかったのではないだろうか。
こうした背景を受けて、「(乳汁のみにて養うは)愛に溺れて真の愛を知らざる愚の極みというべし」(8)、「断乳の時期に達せば子の可愛さに引かるる事なく其乳を奪いて他の栄養物に取り代ゆべし」(10)、「一体断乳は小児ため、また母親のため、双方のためであるから其時期に至ったら姑息の愛に溺れず断然実行するように致されたい」(13)と厳しい言葉で断乳の必要性が説かれている。
驚くのは、多くの文献(18、19、25、28)に記載のある断乳すべき母親の病気である。「貧血、ヒステリー症、精神病、脚気、結核病、腎臓病、心臓病、産褥熱、伝染病、持久性熱病等」(25)、「著しき貧血症又は全身病、心臓病、腎臓病、血友病等にかかるかまたは肺労、梅毒、痛風、骨病等あるか或いは熱性伝染病、腸チフス、産褥熱、丹毒等」(28)と驚くほどその病名は多い。産道や子宮腔内の細菌感染によって起こる産褥熱、腸チフス等、母親の生命にかかわる病気の場合、授乳よりもまず治療である。また、飛沫感染する結核や、母乳に出る可能性のある薬が処方された場合は心臓病や腎臓病なども、授乳を避けるべきであろう。ヒステリー症、精神病などはどうだろうか。母親の精神面が母乳の出に影響を及ぼすことは多々あるが、現代ではその病気によって授乳を禁止されることはない。しかし、江戸時代でも乳母選びにおいて性格や気立てが重視されたように、当時は気質が母乳を通して移ると信じられていたのかもしれない。
これらの病名の中で確実に誤っているのは脚気である。脚気はヴィタミンB不足が原因の疾患であり、母乳感染はしないからである。白米を食べる人の中で多発したことから贅沢病とも呼ばれた脚気は、長い間国亡病と恐れられた。これがヴィタミンB不足と関連していることは、明治17年(1884年)に高木兼弘博士が海軍兵の食事に麦食を導入して、脚気発生率を激減させたことで示された。しかし、その後も長きにわたって脚気ヴィタミン論争は続き、乳児脚気は母乳感染するものであり、その予防は断乳しかないと信じられていたのである。大正5年「脚気については考えものであります。重症い時は無論断乳せねばなりませんけれとも、母が脚気にかかったからといって其乳汁を飲んだ児は毎常かっけを起こすと決まったものではありませぬ」(25)と異を唱える文献が現れ、大正13年に「母親に産前より又は産後に脚気にかかりたりするも産後直ちに断乳の必要はない。若し乳児脚気に疑わしき症状を呈するときは半分母乳を減じ牛乳を以て補う」(31)と母乳牛乳半分ずつの方法がよいとされ、ようやく昭和に入って「乳児脚気の主因がヴィタミンB欠乏症であることは最早疑う余地がありません。それにも拘わらず伝統的に母乳中に毒素ありと誤信いたしまして」(34)、「母体に脚気があっても母乳を廃止してはいけない。母子とも適当なヴィタミンB剤を与えることによって多くは母乳栄養を継続しうる」(36)と言われるようになった。
断乳の仕方については、「決して急激に行うべからず」(9)、「生後一年か一年半ぐらいの間に巧みに食物に移すのは母親の仕向け方の巧拙如何による」(15)、「アア、何時の間に乳離れになったろうという様に工風を廻らす事が肝要である」(14)とされる。また「乳汁に補う滋養物は牛乳が一番良いようです」(23)とあり、成長に応じて与える量や希釈率、外来品と国内品の優劣の比較(10)、また哺乳瓶の消毒方法や扱い方についても詳細な記載がある。
開国と共に西欧人の体格の良さを目の当たりにし、それは牛肉と乳製品の摂取にあると確信した明治政府は、これらの普及・推進を図る。ところが牛の産物は日本の一般庶民にとっては異質で違和感を感じるものであった。そのイメージを払しょくするためになされたのが、明治4年の天皇が毎日牛乳を飲むとの新聞報道であった。そして同年の新聞に載ったのが、明治4年に日本で初めて販売されたアメリカ製の哺乳瓶の広告である。販売名称は「乳母要らず」であり、その宣伝文句は「世間の乳汁に乏しい婦人はこの乳母要らずを牛乳を子に与える時に人乳同様に飲み得て、乳母を抱えて多分の給料を出しまたその人の疾病、あるいは性質の賢愚を選ぶ浪費を省くのみならず成長の後も自然無病で強壮になる。西洋では生後3月を過ぎれば、たとえ実の親の乳があっても、これを休んで牛乳を与える」であった。ところが、乳母いらずの値段は、1円(当時の公務員の初任給が4円であった)とべらぼうに高いものであった。
明治初期には都内に複数の牛乳搾取業者が登場し、明治11年には一般家庭向けの牛乳配達が始まったが、牛乳の値段は1合(180mL)で日本酒1升に相当する値段であったという。乳母いらずも牛乳も、とても庶民には手の届かない品物であった。
乳母いらずの販売から20年経った明治24年、ようやく育児談(6)という育児書に哺乳瓶の扱い方を含む詳細な牛乳の章が登場する。その内容は、煮沸による瓶の消毒方法から始まり、牛乳は一度煮沸してから用いることといった取り扱い法、牛乳の良否(餌、季節によって牛乳の質は変化すること、交尾期の牛乳は避けること等)、成長に応じた希釈率、練乳についてと16ページにも亘って書かれている。明治34年刊行の普通育児法(8)には、煮沸後の牛乳の保存法として「井戸の中に釣り下げるか又は穴蔵中に入れるべし、。氷室なれば一際宜し」とある。冷蔵庫がなかった時代これが最善の方法だったのだろうが、例えば盛夏であれば簡単に腐敗したであろうことは想像がつく。また飲食物取り締まりに関する法律ができる明治33年以前は、偽装牛乳が大変多く出回っており、注意喚起を促す文章が多くの育児書に見られる。「販売取次人が不正の商人で牛乳の中に水を入れたり白水を混合したりすることもあります。又、奸商によりますと病牛の乳を販売することがあります」(20)、「変敗に近い牛乳を肉眼では一切鑑定ができませんが、この場合に当たって奸商は防腐する為に撤里失児酸(→サリチル酸?)を加えます。かくの如き疑念が起こった場合には一応試験してから用いなければなりません」(15)。この状況下ではどんなに細心の注意を払っても、牛乳の腐敗や、時として不良牛乳の混入は避けられなかっただろう。事実、牛乳で育てられた乳児は母乳哺育児に比べて圧倒的に胃腸炎による死亡率が高かったのである。
それでは、乳不足もしくは病気等で授乳できない状態の時に乳母を雇うのはどうだったのであろう。乳母は、乳は出るが自分の赤ちゃんには授乳が必要ない人、つまり死産だった人が大半だった。そのような人がタイミングよく見つかること自体が難しいのだが、その上に、気質、年齢、健康状態、病気歴、分娩の時期(2か月以上ずれないを良とする)、子育て経験豊富、多産婦を可とする、等が乳母選定基準としてあげられている。さらには、乳母の待遇、乳母の監視、解雇するか或いは交換すべき件、乳母及び生母の飲食等にも詳細な指南がある。乳母は朝から夜まで授乳の必要があるため、住み込みとなることも多かった。雇う法も雇われるほうも大変な気苦労があったに違いない。
牛乳に関する章が初めて現れた明治24年の育児談から始まって、昭和18年に刊行された育児書(38)まで一貫して、牛乳と乳母に関する併記は続く。明治13年に43万リットルだった牛乳搾乳量は、明治43年には774万リットルを超え、大正2年にはスイスネッスルの粉ミルクが発売され、大正6年には和光堂薬局が国内初の粉ミルクを開発した。しかしながら、乳母に対する需要は依然として高かったのだ。
また牛乳や乳母を用いることができたのは、経済的に恵まれた一部の上流階級の人たちだけであったろう。つまり明治〜戦前に刊行された育児書は、主に都会の上流階級の人たちを対象に書かれたものであり、例えば一般庶民や田舎では乳母や哺乳瓶の普及は遥かに低かったと思われる。しかしながら、もしヤギなどを飼育していれば、その新鮮な乳を得ることは比較的簡単にできたかもしれない。
さて、断乳のための辛子、わさびについてであるが、この手法を勧めている育児書はない。「古来よりこういう場合には乳首へ唐辛をつけたり、芥子を着けたりする。之も一つの方法ですが、乳房へ包帯をする等はよき方法で」(12)、「間々世間にあることでよくないことは離乳せしめんとして乳首に唐辛をつけたり芥子を着けたり又は苦いものを塗りつけて小児を驚かせることで、かかる残酷な方法を以て強いて離乳せしめなくとも他に良法はたくさんある。例えば乳房へ包帯をするとか、又は害にならぬ膏薬絆創膏の様なものを貼るとか」(14)、「従来世間の母親が取りし断乳の方法は乳首へ芥子をつけるとか又唐辛をつけるとか熊胆をつけるとか種々の方法を講ずる。熊胆ぐらいならいいが、その他の薬物を付けることは見合わせるようにしなさい。乳房へ包帯をし乳の見えぬようにしておくと小児はついに乳汁の味を断念するものです」(15)と言う風に否定されているが、これらの記載からは、辛子・わさび手法が当時巷で行われていたことを物語っている。
前述したように当時、断乳すべき母親の病気、産後の肥立ち不良や栄養不良はとても多かった。おそらく授乳したくてもできない、お乳を止めなければならないという状況は明治時代より前からあった。しかし「小児は乳程恋しいものはないと見え、なかなか乳房を断念し得ないものです」(15)、「特に就寝時或いは夜半に母乳を熱望し偶ま之を禁ずれば啼泣、怒号して夜を徹することあり」(35)という風に断乳は一筋縄では行かない。辛子・わさび手法は、乳を止めさせようと腐心する母親たちによって民間療法のごとく編み出された妙法だったのではないだろうか。
話しは変わるが、私は祖母から授乳に関する逸話を聞いたことがある。祖母は、昭和20年7月28日に長女(私の母)を産んだ。敗戦の約2週間前である。祖母はやせ細っており、ほとんどお乳が出なかった。そのため闇市で買ってきたヤギの乳で、娘を養ったのである。もし私が同時代に赤ちゃんを産み、水の様なお乳しか出ず、そのため見るからに赤ちゃんが栄養失調となったらどうするだろうか。辛子でもわさびでも使って赤ちゃんをおっぱいから引き離し、ヤギの乳や他の食べ物に気が向くようにしたと思うのだ。
今まで見てきた断乳に関する文献に記載はないが、断乳の目的として、次の赤ちゃんの妊娠のためということがある。
授乳中はプロラクチンという女性ホルモンが多量に分泌される。これは乳汁の分泌を促すが同時に排卵を抑制する作用も持つ。つまり授乳中はプロラクチンによって排卵が起きないため、妊娠する可能性が低い。逆に言えば、断乳すればプロラクチンの分泌も減り、排卵が再開し妊娠の可能性が高くなる。
王族や上流階級など、家名存続、家督相続が至上命題であった人々の間では、古くは紀元前から乳母を雇う習慣があった。乳母を雇うことで、王女や正妻は授乳を止め、早期に再妊娠できる状態に戻ることができたからである。
世界こども学事典によると、19世紀のアメリカでは多くの家で2年ごとに子供が生まれ(ということは、上の子が1歳過ぎの時に母乳は止めていた可能性が高い)、かつ母乳を止めるために母親が長期間家を留守にしたり、嫌な味のする軟膏を乳房に塗るという方法があったという。もちろん病気等の理由もあっただろうが、その他にも断乳の理由があったのではないだろうか。私的見解になるが、新天地を求めて大西洋を渡った人々は、祖国ヨーロッパの生活習慣や価値観を、当地にて模倣しようと試みた。しかし経済的理由から乳母を雇うという風習はそれほど普及しなかったと言われる。乳母に赤子を預けずに、受胎の可能性を高くするには、授乳を止めるしかない。おそらく「多くの子供に恵まれるのが理想的な家族である」という強力な価値観が存在し、それを実現するべく、強制的な乳離れの手法を編み出したのではないだろうか。同様の社会的価値観による授乳スタイルへの影響は「産めや増やせや」と謳われた戦時中の日本にもあったかもしれない。
ところが、昭和18年に刊行された育児書(37)には「軽々しく断乳不可」という項に「特に最近のやうに牛乳を手に入れることの難しい時代に於きましては母乳は一層大切であります。かく大切な母乳しかも十分に出る母乳を軽々しく止めてそのために子供の健康を害ねるというような愚は此際十分に警戒してほしいのであります。申す迄もなく国家は国家は今や人口の増殖を熱烈に要求しております。産んだその人間の子供を育てるために天が授けてある人間の乳すなわち母乳を深く考えるところもなく軽々しく断つということは天意を無視した罪悪であることに想到せねばなりませぬ」と述べられている。これは当時「早く断乳して次の子を」という社会風潮が存在し、それ故に乳幼児死亡率が高かったことへの警告だったのかもしれない。
そして戦後10年たち、小児科医、伊賀郁夫氏は書く。「アメリカの学者の中には乳児の自己調節栄養(ほしい時にほしいだけ飲ます授乳法)を唱えて以来母乳栄養について健康上よりむしろ情緒のため母乳栄養を必要とする人が多いらしい。
十分粥や米飯を食べ、愉快に遊び寝る前や夜半になると乳房にしがみつく子の場合、発育も十分ならば、栄養にはほとんど関係ないから夜だけは十分母乳を続けてよいのではないか。実際夜だけ残された母と子の肉体的愛撫の唯一の場までうばひ去ることはなかなか難しい。人間の本能と社会との結びつきに関して母の乳房は不思議なそして神秘的な存在である。乳房を離れて一個の人格として世にいづる子の大きくなっても常に戻ってくる母の胸、科学では割り切れぬ問題があるような気がする」(42)。昭和30年既に、授乳が小児の精神面、情緒面にもたらす重要な側面が認識されていたのである。
かずちゃんがしゃべれるようになってきたので、ある日聞いてみた。
「かずちゃんは、ママとおっぱいとどっちが好き?」
「おっぱい!」
「じゃあ、おっぱいと桃とどっちが好き?」
「桃!」
「じゃあ、桃とスイカとどっちが好き?」
「スイカ!」
「じゃあ、スイカとおっぱいとどっちが好き?」
「おっぱい!」
別の日にまた聞いてみた。
「かずちゃんは、ママのおっぱいとかずちゃんのおっぱいとどっちが好き?」
「ママの!」
「じゃあ、ママとかずちゃんのおっぱいとどっちが好き?」
(少し悩んで)「かっちゃんのおっぱい!」
というぐらい、おっぱいが好きなのである。ママはもうおっぱいには完敗である。
かずちゃんは今でも毎日明け方はおっぱいを飲むし、保育園から帰ってきてもよほど魅力的なおやつがない限り「おっぱい」を要求するし、うちで頭をぶつけたりして痛い思いをすると「おっぱい〜〜」と駆け寄ってくるし、お風呂の中でも出た後も欲しがる。寝る前にはおっぱいをごくごく飲んでから歯磨きである。まだまだママに甘えたいのだろう。
よほど魅力的なおやつ。例えば、スイカ丸ごと1個とか、クリスマスケーキとか
色々なお手伝いができるようになったが、卒乳はまだまだ先のようです
ところが、2018年12月4日、冬になって状況に少し変化が起きた。知り合いのおじさんが、大好きなノンタンの絵本を贈ってきてくれてからというもの、何度も「読んで、読んで」とリクエストして、寝る時にはお布団の中に大事にしまうのである。ある夜、ノンタンの絵本を手に「おっぱい、おっぱい」と駆け寄ってきたので、
「おっぱいとノンタンとどっちがいいの?」
と言ったら、
「ノンタン!」
という。そしてノンタンの絵本を読んであげたら満足して、歯磨きの後そのままお布団に行ったのである。翌日は、ノンタンの絵本とおっぱいと両方だったので、ママとしては「よかった、まだ飲んでくれるんだ。」とちょっとホッとした。
大好き、ノンタンシリーズの絵本
おっぱいを上回る好きなものができた、これは大きな成長の一歩である。
ママとしては嬉しい、寂しい、半々の感情が入り交ざり、複雑な心境である。
年末は日光探訪でした!
2019年亥年、充実した幸せな年になりますよう、心からお祈り申し上げます
参考文献
江戸の乳と子ども いのちをつなぐ 沢山美果子 吉川弘文館
江戸の捨て子たち:その肖像 沢山美果子 吉川弘文館
最強母乳外来 あらゆる悩みにお答えします! 助産師SOLANIN
ちょっと理系な育児 母乳育児編 牧野すみれ
ミルクの歴史 ハンナ・ヴェルデン 堤理華訳 原書房
ぞくぞく、モノの歴史事典 のむの巻 ゆまに書房
牛乳・乳製品の知識 堂迫俊一 幸書房
ミルクと日本人 - 近代社会の「元気の源」 武田尚子 中公新書
牛乳と日本人 吉田豊
モノと子どもの昭和史 天野 正子、木村 涼子、石谷 二郎 平凡社ライブラリー
東京牛乳物語―和田牧場の明治・大正・昭和― 黒川鍾信 新潮社
世界子ども学大事典 ポーラ・S. ファス (編集)、北本 正章 (翻訳) 原書房
カリスマフード 肉・乳・米と日本人 畑中三応子 春秋社
にっぽん洋食物語大全 小菅桂子 ちくま文庫
国会図書館所蔵、断乳に関する文献
明治時代
1 母親の心得 上 図書 クレンケ, ハルトマン 著, 近藤鎮三 訳. 近藤鎮三, 明8.11 <特39-622>
2 婦女性理一代鑑 第3篇 図書 那普平斯 (ジョー・エッチ・ナフェース) 著, 堀誠太郎 訳. 司命堂, 明11-12 <特25-242>
3 女範 卷之上 再版 図書 小田深藏 譯述. 穴山篤太郎, 1880.10 <わ375-23>
4 母親の教 図書 トーマス・ブール 著, 大井鎌吉 訳. 丸善, 明14.8 <特25-183>
5 婦人衛生論 : 附・育児要訣 図書 ブール 著, 大井鎌吉 訳. 丸屋善七, 明17.3 <33-2>
6 育児談 図書 足立寛 著. 日本赤十字社, 明24.10 <38-218>
7 躾と育 : 婦女心得 図書 依田文四郎 著. 温故堂, 明27.3 <特21-421>
8 普通育児法 図書 木村鉞太郎 著. 金港堂, 明34.4 <88-113>
9 嬰児教養 (子女教養全書 ; 第1編) 図書 下田歌子 著. 古川勝次郎, 明35.5 <259.5-14>
10 通俗小児衛生学 図書 小林信義 著. 丸善, 明36.8 <特25-223>
11 母のつとめ : 家庭講話 図書 金島治三郎 著. 石塚書店, 明37.3 <45-328>
12 実験上の育児 上巻 増訂 図書 瀬川昌耆 述, 天野馨 編. 新橋堂, 明39,40 <246-192>
13 実験上の育児 下巻 増訂 図書 瀬川昌耆 述, 天野馨 編. 新橋堂, 明39,40 <246-192>
14 育児学 図書 岩淵豊治 著. 東京産婆看護婦講習会出版部, 明41.7 <18-869>
15 実験小児保育法 健康児の巻,虚弱児の巻 図書 小松貞介 著. 日高有倫堂, 明42.5 <246-112>
16 安産の心得 図書 南川淳一 著. 興信社, 明42.8 <特25-206>
17 妊婦必読安産の心得 図書 吉田賢子 著. 宇宙堂, 明43.2 <56-70>
18 治療新報 9(3)(96) 雑誌 治療新報社, 1910-03 <雑27-9>
19 新撰育児法講義 図書 大久保直穆 著. 朝陽堂, 明44.8 <327-532>
大正時代
20 婦人之養生 図書 吉岡弥生 講述, 田中玲瓏 [編]. 明治出版社, 大正1 <61-135>
21 小兒榮養法 増訂3版 (近世眼科學補遺 ; 第5卷) 図書 平井毓太郎 増補, 澤野虎次 著, 小川劍三郎 編. 吐鳳堂書店, 1913 <55-57>
22 婦女の栞 図書 川俣馨一 著. 東京女子家政学院, 大正2 <342-351>
23 婦人宝鑑最新家庭全書 図書 河野正義 編. 東京国民書院, 大正3 <349-367>
24 家庭の栞 図書 日本女子家政学院 編. 日本女子家政学院, 大正4 <327-767>
25 母の道と育児 図書 竹中鎰之助 著. 博文館, 大正5 <56-122>
26 小児ノ営養発育及衛生 3版 図書 高洲謙一郎 編. 南山堂書店, 大正7 <56-67ロ>
27 最新産婆看護婦講習録 産婆科 第2巻 図書 日本産婆看護婦養成所, 大正8 <特112-965>
28 安産の心得 : 姙婦必読 図書 平安堂書店[ほか], 大正8 <特116-178>
29 女子として是丈は心得おく可し 図書 岡部稲子 著, 女子家政学会 編. 春江堂, 大正8 <371-200>
30 弘道 (343) 雑誌 日本弘道会, 1920-10
31 育兒衛生 (愛兒叢書 ; 第1編) 図書 三野裕 著, 大阪兒童愛護聯盟 編. 大阪兒童愛護聯盟, 1924 <56-203>
昭和時代・戦前
32 児科雑誌 (334) 雑誌 日本小児科学会, 1928-03
33 児科雑誌 (335) 雑誌 日本小児科学会, 1928-04
34 児科雑誌 (378) 雑誌 日本小児科学会, 1931-11
35 臨床児科須知 小児発育及営養篇 訂 図書 高洲謙一郎 編. 南山堂書店, 昭和10 <56-286イ>
36 標準育児講座 第1巻 發育・榮養・育兒 図書 朝日新聞社 編. 朝日新聞社, 昭15 <56-435>
37 治療医学 (510) 雑誌 医薬聯合社, 1942-03 <雑30-10>
38 乳幼児の育成 改訂版 (保健教本) 図書 大政翼賛会文化厚生部 編. 翼賛図書刊行会, 昭和18 <特220-473>
昭和時代・戦後〜昭和30年
39 育児の常識 (家庭科学教室 ; 第6) 図書 高井俊夫 著. 生活科学化協会, 1947 <599-Ta323i>
40 乳児脚気 (臨牀医学文庫) 図書 平沢精蔵 著. 日本医書出版, 1949 2版 <493.9313-H523n>
41 児科診療 13(1) 雑誌 診断と治療社 [編]. 診断と治療社, 1950-01
42 児科診療 13(4) 雑誌 診断と治療社 [編]. 診断と治療社, 1950-04
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