去年の8月31日、まだ暑い盛り、会社帰りに道端にどんぐりが落ちているのを見つけた。驚いて上を見上げるとマテバシイの木。どんぐりは、真新しくきれいで落ちたばかりのものである。どんぐりってこんなに早く落ちるものなんだ、と感心した。
マテバシイは食べられるドングリである。
かずちゃんが生まれて以来、秋になったらどんぐりを炒って食べよう、と思っていた。しかし毎年秋らしくなり、紅葉が始まり、気づくとハロウィンが過ぎており、いつの間にか冬を迎えていた。
今年はようやく、どんぐりの成っている時期にマテバシイの木に巡り合えた。今年はここでどんぐりを拾おう。
1週間後、私はビニール袋を持参して同じところにやってきた。ちなみに場所は、信濃町駅から歩いてすぐの外苑に沿った歩道である。まずしゃがむ。割れていない、なるべくきれいなどんぐりを選んで、ビニール袋に入れていく。ここにも、そこにも、あそこにも、、と山菜取りみたいな感じで素直に楽しい。
ドングリ拾いの途中に、枯葉とどんぐりの間から、小さいキノコが生えているのを発見した。柄も細長くて傘も1センチあるかないかである。2,3歩行くと、今度はしいたけのような傘が5センチ以上あるきのこも見つけた。面白い。
歩いている際に地面にどんぐりが落ちているのに気づくというのと、しゃがんで探しながら1粒1粒拾うというのでは、発見するものが全然違うんだなあ、と改めて思った。
ビニール袋が一杯になったので今日の採取はこれで終了。
家に持ち帰り、早速私はどんぐりを水に入れた。水にいれて浮かんでくるどんぐりは、中が虫食いで空洞だったりするので取り除く。そして水を切ってフライパンで炒る工程となるが、平日夜はかずちゃんの夕飯、お風呂、お遊びで忙しくて手いっぱいである。しばらくの間、マテバシイのどんぐりは、水に浸漬し続けることになった。
9月12日、やっと時間が取れて、どんぐりを炒ってみることに。どんぐりを採取したのが9月8日だったので、5日間もどんぐりは水に浸かっていたことになる。その間1、2回は水を取り替えたかもしれない。さて、ザルにいれて水を切り、フライパンにいれて火をかける。すると、しばらくして、殻が乾燥してヒビが入り始めた。
全てのどんぐりに満遍なくヒビを入れるために、根気よくフライパンをゆすり続け、10分以上行って取り出した。そしてしばらく冷ましてから殻むき開始である。ヒビの間に爪をかけて、フンっと力を入れて割る。上手くいくと中から薄いクリーム色のどんぐりが取り出せる。収穫である!
「かずちゃーん、どんぐりの殻むき一緒にやろう!」
私は娘を呼んで一緒に手伝ってもらうことにした。しかしこの殻むき作業がサクサクとは進まないのである。
指先にはけっこうな力を込めなければならない。かずちゃんはママを真似ようとするが、なかなかむけない。
「かずちゃん、これはコツがあってね、、」
そういいながら、ヒビに爪を引っかけて力を入れるところを見せた。すると、
「痛っ!」
するどい痛みと共に殻がささり、深爪みたいになってしまった。
渋い顔をする私に
「ママー、大丈夫?」
とかずちゃんが心配そうに尋ねる。そして
「ママ! 良いこと思いついたよ。銀杏割るやつを使おうよ。」
との提案。
そして登場した銀杏割り。しかし銀杏とマテバシイのどんぐりは微妙に形も大きさも違う。銀杏はほぼ球形だが、マテバシイのどんぐりはラグビーボールに近い。銀杏割りだと、時々マテバシイのどんぐりを真っ二つに横に割ってしまうのである。その場合、中身が取り出せないのである。しかし、深爪をしなくて済むという利点はあった。
私はペンチも使ってみることにした。これも銀杏割り同様で、縦に割れればうまく中身を取り出せるが、時々真横や斜めに割ってしまう。一粒一粒やるのはなかなかどうして時間がかかる。
「縄文人は、どうやってドングリの殻を剝いたのだろう。そもそも縄文時代には、金属系の道具はなかったはずだ。よほど爪が丈夫だっただろうか、。」
そんなことを想いながら、1時間以上かけてなんとか殻むきが終了した。
1粒食べてみる。硬さはピーナッツやマカダミアナッツよりもやや柔らかく、味は素直な木の実である。苦みやえぐみは全くない。野生の木の実でこんなに食べやすいとは感動的である。
「これなら食べられるね。」
「どんぐりクッキー作れるね。」
と母子で感心した。
そして今度は粉にする過程である。
昔は、石臼や薬研などを用いて、気の遠くなるような時間と労力と根気力で頑張ったのだろうが、今回はミキサーに投入しボタンを押す。硬いのでミキサーは恐ろしい唸り声を立て、かずちゃんは部屋の端っこに逃げていく。しかしその甲斐あってあっという間に粉砕完了。
ミキサーから取り出すと、きれいな薄茶色でまるで全粒粉のよう。約150gのどんぐり粉ができあった。
実はどんぐり粉は、インターネットでも売られている。韓国製や国産があるが、400g1500円~と決して安いものではない。しかしどんぐりの殻むきを自分でやってみた後は、この値段もさもありなんと感じるようになった。
どんぐり粉にバターと砂糖と牛乳を入れて混ぜる。かなり柔らかくなってしまったため、クッキー生地の固さにするために小麦粉も追加で加えた。
そして食べたい時に必要量だけ焼くことができるように、ラップにくるんでアイスボックスクッキーにした。今日は試しに10枚ほど焼いてみる。
グリルの中で表4分、裏3分。すると、こんがりといい匂いのクッキーが出来上がった! バターと砂糖の中に、素朴な木の実の味が漂う。
「おいしい! ママ、すごいね!」
かずちゃんが目を見開いて、ほめてくれる。殻むきの手間を惜しまず体験したどんぐりクッキーの味に、母子とも大満足であった。
マテバシイのどんぐりが食べられるのはよくわかった。さすが縄文時代から主食の座を担ってきただけある。
では逆に、あくが強くて食べられないとされるどんぐりはどうなのだろうか。どのぐらいの苦さ、まずさなのだろうか。
数週間して、娘が保育園のお散歩でどんぐりを拾って帰ってきた。マテバシイではなく、アラカシやコナラ、クヌギなど食べられないと言われる種類である。これは、どんぐりのまずさ・苦さを確かめるチャンス! 私は軽く水で洗った後、水の中に浸けた。その時にふと、ある懸念が私の頭の中をよぎった
「どんぐりって芋虫いなかったっけ?」
確かいる、いるはずだ。穴が開いていたら、芋虫が出た痕とか卵を産んだ痕とか聞いたことがある、、。
私が作ったマテバシイのどんぐりクッキーは大丈夫だったのだろうか?! もし芋虫がいたら、粉にする過程でさすがに気づくだろうが、小さな産みたての卵とかだったら気づかなかったかもしれない、、、。 どうしよう、、、。
色々調べて得た結論は、どんぐりに卵を産むハイイロチョッキリやゾウムシという虫はマテバシイにはほとんど産卵しないということであった。虫にも色々どんぐりの好みがあり、まだどんぐりが緑色の若い時にやらわかいものを選ぶ。マテバシイは、緑色の時から殻も殻斗(どんぐりの帽子の部分)も固く
、虫たちにとっては産卵しづらいどんぐりだという。
家族3人でマテバシイのどんぐりクッキーを食べたが、誰もお腹を壊していない。そして何より、どんぐりが縄文時代から脈々と食べ続けられていることが、食べて大丈夫と言う何よりの証拠である。
さて、食べられないどんぐりである。
水に漬けたどんぐりであるが、日々の忙しさに負けて、やっぱりそのまま数週間ほど放置してしまった。2、3日毎に水を取り替えていたが、何回取り換えても水が紅茶色に染まるのである。
後で知ったが、これが苦いどんぐりに含まれるタンニンであった。タンニンは水溶性でかつ紅茶にも含まれる成分。そういえば紅茶も濃くなると苦みがある。
そしてどんぐりをフライパンで炒って、殻にひびをいれて頑張って剝いた。今回は味見なので数個剥けば十分である。味はやっぱり苦かった。例えるならゴーヤの苦みをどんぐりサイズに凝縮しました、みたいな味である。しかし2つ目はそうでもなかった。うっすら苦みが感じられるぐらいで、そのまま噛んで飲み込むことができた。長期間水に漬けて、あく抜きをしたのがよかったのかもしれない。
この時も、深爪しないように恐る恐る殻むきをしながら、縄文人はどうやってどんぐりの殻むきをしたのだろうか、という想いが再度頭をよぎった。縄文人の食料の中で、どんぐり等の木の実は総カロリーの5割近くを占めていたと考えられている。かつ貯蔵も可能であり、実りの時期に大量にとって大量に処理したはずだ。一粒ずつやったのでは余りにも効率が悪い。
答えは「乾燥堅果類備蓄の歴史的展開(名久井文明著)」という論文で論じられていた。それは搗栗(かちぐり)ならぬ「搗どんぐり」だという。
かちぐり、、聞いたことはあるが「勝栗」だと思っていた。正しくは、搗栗だという。読みが勝つに通じるので、出陣前に食べたり、縁起物として尊ばれた。
この「搗」という漢字は、かつ、つくとも読む。臼の中でつく、うつ、たたく、という意味で、餅搗きと同じである。搗栗とは、餅搗きと同様、臼の中で杵でついて叩いて殻を砕いて取り出した栗の実のこと。それが縄文人の栗やどんぐりの殻の除去方法だったのだ。
搗栗や搗どんぐりの作り方とは。
まず、採取した堅果を炉の上にかざしたり天日干しにして数週間十分に乾燥させる。すると殻の中で、木の実が縮んで殻との間に隙間ができる。これを臼にいれて杵で搗くと殻が砕ける。その中から取り出した木の実には、しわがあり、へそと呼ばれる独特な形状がある。日本各地の縄文遺跡から、このへそがある栗やどんぐり、杵と思われる道具、さらに堅果を炉の火にかざすための網が発見されている。
どんぐりの殻むきの労苦や深爪の痛さを体感した今は、搗くという殻むきの方法が素晴らしく画期的だったであろうことが想像できる。
搗くというのは、森からの恵みを実際に食す形にするために必要不可欠な過程だった。収穫を得るための大切な手段だった。そのため現代においても、餅搗きという行事が年神を祝うという象徴的な意味を込められて大切に行われているのだろう。
縄文と言えば、品川区にはアメリカ人学者のエドワード・モース博士が発見し、日本考古学発祥の地となった縄文遺跡の大森貝塚がある。
貝類の系統分類学者かつ進化論学者であったモースは、明治10年(1877年)6月17日、数週間の船旅を経て横浜港にたどり着いた。そして蒸気機関車で東京に向かう途中、大森停車場を発車してすぐのところで、車窓から貝塚の層を発見した。本国アメリカで貝塚の発掘調査を手伝った経験から、モースには車窓から見えたものが貝塚であるとすぐに分かったのである。
その後、東京帝国大学の動物学教授として招聘されたモースは、江の島に臨海研究所を設立し貝類の採取・研究を行った。
そして数か月後に東京に戻った時に、本格的に大森貝塚の発掘を開始。貝殻のみならず、多くの縄文土器や獣骨等が見つかり、モースはそれらを絵図付きで詳細にまとめ、大森貝塚の報告書を書き上げた。国内外で大きな話題となり、その後日本における考古学は飛躍的に発展していく。
そしてモースが大森貝塚の発掘調査後、情熱を傾けたものは民具や陶磁器の収集であった。普段使いのお皿にも甲乙や産地があることを知ったモースは、陶磁器の大家であった蜷川式胤(にながわのりたね)に弟子入り。瞬く間にその分野の知識を身に着け、北海道から九州に渡る旅行を通して、日本全国の陶磁器や民具を精力的に収集した。
当時の庶民にとっては他愛もない当たり前のもの、それ故に生活の息吹が感じられるものが、日本をこよなく愛するモースには限りなく魅力的だったのであろう。また、モースは文明開化に晒される中で、日本の慣習・文化が急速にかつ恒久的に失われることを危惧しており、その生活用具を残すことの重要性を肌で感じていた。
収集した陶磁器の数は約5000点であり、その全ては帰国後ボストン美術館に一括譲渡された。また民具は、鍋等の生活用具から、お店の看板、土がついたままの下駄や、子供の玩具にまで及び、晩年モースが館長となった故郷ポートランドのピーボディ博物館に送られ、今でも大切に保管・収蔵されている。両方とも世界に類を見ないコレクションと言われ、150年前の明治初期の日本文化を研究するための貴重な資料ともなっている。
晩年、モースは自分の日本滞在中の日記をもとにした「Japan day by day」(邦訳版:日本その日その日)を出版した。西欧至上主義であった当時の風潮の中で、モースは非常に好意的にかつ肯定的に日本の文化習俗を捉えている。日本人が皆非常にまじめで嘘をつかないこと、貧困層の人々でも対人関係のマナーが行き届いていること、子供が非常に幸せそうで親の愛を受けて育っていること、家屋がシンプルで清潔で些細なところに美しさがあふれていること等である。
この本は出版後すぐさまベストセラーとなった。さらにモースは日本に関する講演を各地で精力的に行った。明治以降、西欧人が日本に興味を持つための橋渡し役をモースは担ったのである。
異文化を対等にかつ好意的に見る目を持ち、かつ科学者の観点から分類・考察・論述できるモースという人が、日本に来て滞在したのは類まれなる幸福だったと思う。モースは、明治期に日本を訪れた多くの外国人の中でも、特に日本人に愛されている一人であろう。
話は変わるが、去年の10月にアパートの大家が変わり、突如、退去要求を切り出された。木造築40年。古くて地震の時など危ないですからというのが理由だったが、住人を退去させて更地にし新たな住宅開発を推し進めたいという側面が強かったようだ。突然の退去の話に、私も主人も動揺した。同条件の物件がタイミングよく見つかるだろうか?
以後、真夜中に目が覚めては、賃貸サイトを延々と見てしまう毎日となった。さらに退去金の交渉もあり心労が重なる日々が続いた。
かずちゃんは内覧に行くのが大好きで、また大人の話を聞いているうちに「間取り」「弁護士」「退去金」等の言葉もすっかり理解してしまった。なんとか去年の12月末に新しい物件を見つけることができ、安堵して新年を迎えることができた。実際の引っ越しは2月である。
今、引越しに向けて家の中のものを整理している。
・思い出深いがもう使わないもの
・知り合いから贈られたもの
・数年間遊んでいないおもちゃ
悩ましいものが多く困っている。
そんな中ふと、モースだったらこのうちにあるどんなものを収集したいと思うだろうか、と考えた。100年や150年後に、昭和・平成の庶民のアイテムとして博物館の片隅にそっと展示されそうなもの。
こう見てみると、うちの中にもモース博士が興味を持つ品々がけっこうあるような気がして、なかなか興味深い。束の間でもうちにあった品々である。感謝してどうするか考えたい。そして新しい家で、家族3人また楽しい思い出を積み重ねていこうと思う。
どんぐり、搗く、モースと思いを馳せた。それに因んで2023年は、ドングリ拾いなどを通してかずちゃんと自然に親しみ、留まることを知らない値上げには創意工夫で勝つ(搗つ)ことを祈念し、モース博士のように初めての異なるものにも対等・親愛の情を持って接するよう、そんな一年を目指したい。
本年もよろしくお願い申し上げます。
2023年正月
参考文献
私たちのモース 日本を愛した大森貝塚の父 大田区郷土博物館
東京都品川区大森貝塚 品川区教育委員会
品川の原子・古代 品川区教育委員会
モース博士と大森貝塚 大森貝塚ガイドブック 品川区立品川歴史館
明治のこころ モースが見た庶民のくらし 編著「江戸東京博物館」小林淳一、小山周子
豊饒の海の縄文文化 曽畑貝塚 木﨑康弘 新泉社
日本考古学は品川から始まったー大森貝塚と東京の貝塚ー 品川歴史館特別展
絵本日本女性史1 原始・古代・中世 野村育世 大月書店
どんぐりむし 有沢重雄 そうえん社
ひろった・あつめた ぼくのドングリ図鑑 盛口満 岩崎書店
わたしの研究 どんぐりの穴のひみつ 高栁芳恵・文 つだかつみ・絵 偕成社
日本その日その日 E.S.モース 石川 欣一 (翻訳) 平凡社