「彼が目は赤加賀智の如くして、身一つに八頭八尾有り。亦、其の身に蘿と檜・椙と生ひ、其の長は渓八谷峡八尾に度りて、其の腹を見れば、悉に血爛れたり。」
古事記に書かれたヤマタノオロチの描写である。現代風に訳すならば、「その目はホウズキのように真っ赤で、身一つに八つの頭・八つの尾がある。また、その身には蘿(こけ)や檜や杉が生え、その長さは八つの谷・八つの峰にわたる。その腹を見れば、ことごとく常に血がにじんで爛れている。」となるだろうか。
これは大蛇の記述というよりも、鬱蒼とした森をもち、噴火を起こし溶岩が流れている恐ろしい山の姿と取れなくもない。
有史前から日本人は、威風堂々と屹立する峰々に、噴火や土石流などを引き起こす破壊的側面と動物や植物を無尽蔵に育む生命力を見出し、畏怖し崇拝していた。オロは峰・岳、チは霊威あるものという意味であり、人々は円錐形を成した山容をトグロを巻いた蛇の姿と見立てた。繰り返される脱皮は「死と再生」、長い形態は「男根」、強靭な生命力は「多産」、敵を倒す毒牙は「強さ」の象徴とされ、蛇は神格化された。
縄文土器の模様は蛇のウロコ、土偶の細長い目は蛇眼を模した物とも言われる。八ヶ岳南麓の藤内遺跡からは蛇を頭に抱く土偶が発見されている。
農耕を営む人々は、山頂の奥宮から神の力が集落に降りてくるよう里宮を建てたが、その御社に飾られる注連縄は一説によると交尾している蛇を見立てたものと言われる。
日本最古の神社がある奈良県の三輪山は、美しい円錐形をしている。その形は蛇がトグロを巻いた姿とされ、古来より蛇神の座す山(神奈備山)として信仰の対象となっている。
日本には各地に様々な蛇信仰がある
・古事記によると、出雲の海上に現れオオクニヌシとともに日本の国作りを行ったスクナビコナは蛇の化身と言われる。
・宇賀神 古語でウカ、ウガ、カ、カガは蛇のことである。その蛇を神格化した宇賀神は日本各地に祭られている。
・伊吹山 日本書紀には、この山の神は蛇であることが書かれている。
・男体山 日光山縁起には、山の主は白蛇であることが書かれている。
・カガミとは、蛇目(カガ メ)が語源だという説がある。古代日本人は、蛇眼と鏡を同一視し崇拝の対象とした。魏志倭人伝には魏の国から卑弥呼に銅鏡が百面贈られたという記録がある。赤城山小沼、武尊山鳳沼、榛名山榛名湖からも、古鏡が発見されている。
・赤城大明神は、男体山の大ムカデと戦って勝利した蛇神様を祭る。老神温泉では毎年5月に大蛇祭りを行う。
・縄文時代には蛇を祀り、蛇の動きから神託を得る蛇巫が存在したといわれている。
・お正月に二重、三重にして備える鏡餅は、トグロを巻いた蛇の姿を模したカガ(蛇)ミ(身)餅であるといわれる。古代日本人は蛇を祖神として祭った。
・ 伊豆諸島や中国地方には、蛇巫が蛇を飼育していたと考えられるヤスノゴケ、トシオケ(歳桶)と呼ばれる容器に鏡餅を入れて飾る風習がある。
・筑波山 カガは古語で蛇を意味するが、万葉集、常陸風土記には、筑波山で行われたカガヒという若い男女が集い乱交する祭りの様子が記されている。カガヒは、山の神である蛇の力が男女に宿り、身ごもることを祈念した神事だと言われる。
・ホウヅキの古名はカガチで、カガは蛇、チは様子、形を意味する。おそらく古代の人は、三角形のホウヅキの橙色の実を、蛇の頭部に見立てて命名したと考えられる。またホウヅキは、瞬目をしない蛇の眼光を描写する色でもある。
・蛇同様に細長く巻きつく習性を持つ蔓植物。ヤブガラシ、マメヅタ、ビャクレンは、別名カガミグサであり、またガガイモ、ガガメなどガガを持つ植物名も多い。
・山口県岩国 神のお使いとしてアオダイショウの白化型である白蛇を祭る
・延喜式所収の大祓祝詞には、罪を一飲みにする速開都姫(ハヤキツヒメ)の様子を「カカ呑む」と記しており、蛇が顎を開いて餌を丸呑みする様子とされる。
・諏訪大社 蛇神であるソソウ神を祭る。12世紀までは、脱皮を象徴した藁で作った蛇をお供えする御室神事、土室神事があった。今は、お正月に蛇神にささげるための蛙取神事がある。御柱は、蛇の男根を象徴した祭りとも言われる。
・福岡県大牟田市大蛇山 大牟田市で行われる夏祭り。350年前に勧請された祇園信仰と三池の龍神信仰が融合したものといわれる。
・出雲大社 出雲佐太神社 神有月に浜に打ち上げられた海蛇を「龍蛇さま」と称してトグロの形に仕立てて八百万の神々とともに祀る。
・栃木県小山市間々田八幡宮 旧暦の4月8日(現在5月5日)に藁や藤で作った蛇を担ぎ「蛇がまいた、蛇がまいた」といいながら町内を練り歩き、悪病を追い払う蛇祭りを行う。
・沖縄ではこの世の始まりを蒲葵葉世(くばぬはゆう)というが、蒲葵(ヤシ科、ビロウ)とは古来から神の男根、つまり蛇神として神聖視された樹で、その幹や葉は呪術面、実用面の両方に渡って使われる。
かように様々な蛇信仰が各地に見られる日本には、何種の蛇がいるのだろうか。
日本には34種の陸生蛇が生息している。しかしその分布は九州以北とその南で大きく異なる。九州以北には10種の陸生ヘビが知られ、そのうち毒性を持つものはヤマカガシとマムシ。対照的に南西諸島には、20種を越える陸生ヘビが知られ、その分布は島ごとに大きく異なる。リュウキュウハブは奄美・沖縄群島に、サキシマハブは八重山諸島に分布するが、サンゴ礁から作られた奄美の喜界島や宮古島にはハブはいないという。
日本には、マムシ、ハブ、ヤマカガシという3種の毒蛇が生息する。この中でヤマカガシの毒は一番毒性が高い出血毒であるが、口腔の奥に牙を持つ後牙蛇であるため、咬症が致命的になることはまれである。ハブは南西諸島で恐れられているヘビで咬症には激痛が伴い、非常に気性が荒くネズミ、ハト、ウサギを捕食することもある。咬症による被害が一番多いのはマムシで、沖縄を除く日本全土に生息し、年間約3000人近い報告件数がある。
このように考えると、最強の毒ヘビというのもなかなか定義が難しい。
私は今までに山の中で蛇を見たことが二度ある。一つは平日の奥多摩御岳山で人の少ない杉木立を下っているときに、道端を這っていたアオダイショウだった。
もう一つはこれも奥多摩、日原川上流で釣りをしているときだった。窪みに釣り糸を垂れ岩魚か山女の当たりを待っているときに、目の前の岸の脇を長さ1メートル近くのものが横切った。それはあでやかな色彩の蛇で、鎌首をもたげ先の割れた舌を出し、静かに岩陰に消えた。身の毛がよだった。
敵を一撃に倒しうる蛇の力。恐怖ゆえの蛇に対する畏怖と崇拝。
トグロを巻いたヘビと見なされた山は、夜とともに暗黒の世界となり、魑魅魍魎が跋扈し、そして時として大地を揺るがしながら火を噴き、全てを洗い尽くす濁流を生む。
山の頂は蛇の頭頂部と見なされ、古代の日本人は神のたたりに遭うことを恐れてその山頂に登ることはなかった。
しかし、仙人、 杣人と呼ばれる日本古来のシャーマンたちは例外だった。
彼らは山中奥深くに分け入り、山の神々と霊的に交わることを試み、その験力を高めた。全ての天災や病が神々の怒りと結び付けられて考えられていた時代、彼らの力は必要とされ、祈りや呪術、加持祈祷が行われた。
飛鳥時代、中国から仏教が伝来する。それは、日本古来のシャーマンの山林修行の風習と融合して修験道として確立し、各地の霊山は改めて仏教的要素を伴って”開山”されていくこととなる。
修験道の山の開山年代と開山者。主に奈良時代〜平安初期
・ 6世紀 熊野三山 真言密教の修験の場となる
・ 剣山 古来より修験の場となる
・ 531年 英彦山 北魏の僧・善正
・ 593年 出羽三山、羽黒山 蜂子皇子
・ 645年 兵庫県三木市伽耶院 法道仙人
・ 650年? 金剛山 役行者(634-701年)が峰入修行
・ 八海山 役行者小角、弘法大師が密法修行されたという事蹟譚あり
・ 鳥海山 役行者によって鳥海修験が起こった
・ 秩父三峰山 伊豆に流罪になった役行者が修行、空海が観音像を安置
・ 中国山地 後山 役行者
・ 石鎚山 役行者
・ 658年 箕面山瀧安寺 役行者
・ 661年 犬鳴山七宝瀧寺 役行者
・ 675年 京都鷲峰山金胎寺 役行者
・ 滝勝寺布引の滝 役行者
・ 679年 蔵王山 役行者が蔵王権現を奉還
・ 684年 奈良霊山寺 鼻高仙人
・ 697年 大阪神峯山寺 役行者
・ 600年代末 吉野〜熊野 大峯奥駈道 役行者
・ 701年 立山 佐伯有頼(後、慈興上人)
・ 701年 倉敷市五流尊瀧院 義学・義玄・義真・寿玄・芳玄(役行者の高弟)
・ 702年 鳳来寺山 利修
・ 702年 木曾御嶽山 役行者
・ 静岡秋葉山 信州出身の三尺坊という修験者
・ 717年 白山 泰澄
・ 718年 能郷白山 泰澄
・ 718年 伯耆大山大山寺 金蓮上人
・ 717〜724(養老元年) 石動山 泰澄
・ 736年 武蔵国御嶽山 行基が蔵王権現を勧請
・ 757年 箱根三所権現 万巻上人
・ 782年 日光二荒山 勝道上人
・ 788年 比叡山 最澄
・ 816年 空海 高野山に道場を開く
・ 862年 恐山 円仁
・ 849年 戸隠山、飯綱山 学問という僧
・ 859年 滋賀県三井寺 円珍
・ 874年 京都醍醐山 聖宝
・1090年 京都聖護院 増誉
・ 富士山 末代上人(1103〜)が村山修験を確立
・12世紀初頭 豊前市求菩提山 頼厳
今から1300〜1400年近く前に単独で未踏の頂を目指した修験者達は、間違いなく死を覚悟して、もしくは死を厭わずに山に分け入り身をゆだねた。それが現世と神の世の境界線を越えて、山という神域に足を踏み入れる行為だった。
開山者=初登者、という捉え方がある。
北アルプスの最深部に位置する霊峰、剣岳。この山は、新田次郎の点の記に詳述されているように、明治40年、参謀本部陸地測量部と日本山岳会がその初登をめぐって争った。しかし初登攀と思われたその頂からは、奈良〜平安初期の製作と考えられる修験者の錫杖の頭と鉄剣、そして近傍には炭の跡がある岩窟が発見され、遥か昔にこの山は登られていたことが明らかになった。
点の記を読んだときに、腑に落ちなかったことがある。立山登拝の本拠地である芦峅寺、岩峅寺の僧、またその集落の人々は剣岳を死の山として恐れ、昔から登ることを禁じていた。剣岳の上に立った修験者はどういう人だったのだろう。「彼」は禁則を犯して剣岳に向かった、当時の異端児だったのだろうか。
発見された錫杖と鉄剣は、測量隊長であった柴崎芳太郎の家に預けられたが、後に富山県立山博物館に寄贈され、現在は一般公開されている。明治44年の高橋健自著「古式の錫杖」という論文に始まり、現在に至るまで多くの考古学的研究がなされいる。
錫杖とは、密教の修行僧が山林を歩くときに持つ杖で、頭部は装飾が施され、音のなる輪が付けられている。この音は山中での熊、蛇避け、また寺門の前で訪れたことを知らせる意味があった。また剣は、天皇家に伝わる三種の神器であり、武力の象徴とされ、古来から山頂に奉納される風習があった。今でも日本各地の霊山の奥宮には剣が多く見られる。
剣岳に先立つこと14年の明治26年、立山連峰の大日岳の頂上からも同時代と推定される錫杖が発見されている。このことも考え合わせると、錫杖の頭は何らかの宗教的な意味を持って頂上に置かれたと考えられる。
「彼」が誰だったかについては諸説ある。日本各地の霊山が修験者によって登られた時代の無名僧とも、立山を開山した佐伯有頼(後、慈興上人)とも言われる。またその登攀ルートについては、点の記の中では、修験者の間に伝わっていた「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ。」という口伝から、万年雪を抱いた平蔵谷か長次郎谷だったことが伺える。五十嶋一晃氏によると、修験者の根拠地である富山県上市町の日石寺から、早月川、白萩川を遡上し、西仙人谷から小窓を経由して北方稜線のルートの可能性が示唆されている。
しかしいずれも詳細は不明で「彼」はいまだ多くの謎に包まれている。
剣岳が神聖不可踏となったことを明確に物語るものとして、立山曼荼羅がある。曼荼羅とは、仏教におけるこの世の全てを描きあらわした概念図で、通常は宇宙の真理である大日如来が中心に描かれ、その周りを現世の悩み苦しみを担う地蔵菩薩、極楽浄土への生まれ変わりを祈る阿弥陀如来、知恵の象徴である文殊菩薩などの諸菩薩が取り囲んでいる。立山曼荼羅にはその仏教概念に立山近傍の山々が当てはめられ、噴火口のある雷鳥沢は立山地獄、雄山と浄土山はそこから救済された魂が行く着く極楽浄土、その奥に屹立する剣岳は不動明王の座する針地獄のある死の山として描かれている。
この立山曼荼羅が成立したのは10〜11世紀ごろと言われ、佐伯有頼が立山を開山した701年から数百年の開きがある。このことから推察するに「彼」が剣岳に登った時代は、立山曼荼羅に表現されているような剣岳神聖不可踏の概念が色濃く根付く前だったのではないか。
今から1000年以上も前に、身1つで剣岳に登ることは人間離れした仙人のような業であるが、「彼」を初めとした修験者達は、剣岳を聖なる山と信じその山頂に錫杖と鉄剣を奉納したのである。
2012年夏、私は後立山連峰の五竜岳〜唐松岳を縦走し、山荘の脇にテントを張った。ここの唐松岳頂上山荘は、2700メートルの稜線にあり、西側には、威風堂々と屹立する立山連峰と剣岳の姿を望むことができる。
受付にいた山小屋のオーナーに、剣岳が死の山として登ることを禁じられるようになった背景について聞いてみた。
「やっぱり、立山に較べて険峻だったんでしょうね。錫杖が見つかったことから、昔は修験者が剣岳に登っていたことは間違いないけど、誰でも登れる山じゃなかったんですよ。登ろうとした人の多くが怪我したり死んだりするような山では、一般の人が講を組んで来る山にはなりづらいですよね。宗教も商売ですから、一般客が参拝に来ることができて、有名にならないとダメなんですよね。」
と北アルプス随一の規模を誇る山小屋の経営者らしい意見。
オーナーの言われることは立山登拝が全国に広まっていった経緯とぴたりと当てはまる。立山登拝の拠点である芦峅寺、岩峅寺は鎌倉初期に伽藍等を建立して現在に近い形として成立。先達と呼ばれる修験者たちは、全国を行脚しながら立山登拝を広めていく。絵図である立山曼荼羅は、難しい経典とは違って仏教概念を庶民に理解しやすく伝えることができ、これは大きな効力となった。
旅の先々で、その村の有力者は先達らの寝食の面倒を見た。そのお礼に彼達は、先祖や亡き人を弔うためのお経を唱えた。これが寺院と檀家の原型といわれ、江戸時代にはこの檀家制度が全国的に発達した。
江戸時代後期、経済的に豊かになるに連れて、立山三千講、富士講江戸八百八講と言われるほどに登拝山行や各地の神社仏閣参拝は庶民の中に浸透していく。そして、一般大衆化と共にその孤高性と神秘性は失われていく。
木曾御嶽山の宿坊で参拝者達の宴会騒ぎに遭遇したという北アルプスの命名者、ウォルター・ウェストン。
江戸からお伊勢参りをめざした弥次さん喜多さんの珍道中が描かれた東海道中膝栗毛。
相模の藤沢遊郭は、江ノ島弁天参りの時のお楽しみ。
碓氷峠の軽井沢遊郭は、善光寺参りの時のお楽しみ。
庶民の”お参り”は多かれ少なかれ物見遊山を兼ねた小旅行であり、講への参加者を決めるためのくじ引きやすごろくは非常に白熱したものになったという。
ここで、再度「彼」の時代について考える。一般大衆化した後の登拝と「彼」が剣岳に向かった時代の修験登山とは、全く異なるものであることがわかる。
蛇苔(ジャゴケ)という苔がある。苔好きの友人が、青森を旅行しているときに教えてくれた。
誰も歩いたことのない薮に覆われた道なき道を一人這うように進む。まるで蛇が這うように修験者達も薮をこぐ。
蛇は単独行動の動物だという。交尾時を除き、他個体と群れることはほとんどない。
修験者も然り。
大和葛城山で若い頃から修行し、金峯山で、過去世、現在世、未来世の三世の救済を担う蔵王権現を感得し、奥駆修行を確立した修験道の開祖、役小角。
十九歳の時に、理論と体験双方を確立するまでは下山しないという願文を書き、比叡山中での修行を開始。一乗止観院を建立し、天台宗の開祖となった伝教大師最澄。
大日経に感銘を受け、厳しい山岳修行を通して自然との一体化、そして自分の中にある仏性の直観を試みた、真言密教の開祖、弘法大師空海。
修験者達は皆、山の中では極限の個の状態だった。
多数の中の一ではなく、個のための一。個の持つ自我と対峙する一。
そういう生き方、逝き方のできる人は、この世にどれほどいるだろうか。
我流ならぬ、蛇流を行く。
2013年元旦