うちから歩いて約30分の品川区小山7丁目に、湧水池を持つ弁天神社がある。
臨月に差し掛かった2016年6月2日午後2時過ぎ、私はこの弁天神社の
前を、散歩がてら通りかかった。
すると、境内にいたおばちゃんが、必死に私に手招きする。湧水池を指さして「ほらほら!」と言わんとするのである。
境内に入り、おばちゃんがいる太鼓橋の上からその方向を見ると
そこにはなんと、カルガモのお母さんと6羽の雛がいたのである。
お母さんと雛は湧水池の岩の上でちょうど日向ぼっこをしている。
お母さんの周りをちょこまかと動く雛の様子が、とてつもなく
かわいい。カルガモの親子を初めて見た私は、その愛らしさに衝撃を受けた。
おばちゃんは、言う。
「今日の午前中は何もいなかったのよ。で、午後今来てみたらいたの!
もうびっくりよ。今年は母ガモの姿が全然見られなかったから、ダメかねえ
なんて言ってたんだけど。」
という彼女は、毎年ここでカルガモの子育てを見守っている地域メンバーの
1人であった。他のメンバーに連絡して、近日中に餌を用意してカラス除けのネットを
張ったりするという。
そのうちに、カルガモたちのいる岩にカメが登ろうとし始めた。彼らも同様に
日向ぼっこがしたいらしい。雛たちは、のそのそ動いてくる甲羅を被った
物体におどおどして戸惑う。母ガモは、子供たちを守るべくそのカメを真正面から
嘴でつついた。すると、カメはつるっと滑って勢いよく池にドボン。しかしカメは何匹もいるため、
別のカメが別のところから登ろうとして、雛たちをまごつかせる。母ガモは、またもや
カメを一撃し、ドボンとカメが落ちる音が池に響く。母強しである。私はいたく感銘を受けた。
しばらくすると、母ガモは日向ぼっこはもう十分と感じたのか、ぱちゃんと池に飛び降りた。
あわてて6羽のヒナたちもそれに続く。水鳥といえどもやはりまだ生まれたばかり。
泳ぎ方がおぼつかず母から離れまいと必死の様子が見てとれる。
母ガモが右に進むと6羽の雛も右に方向転換し、左に進めば慌ててまた向きを変える。
母ガモが岩についた苔をついばめば、雛も食べようと首を伸ばすが若干届かない。
今にも「待って待って、お母さん!」という6羽の騒がしい台詞が聞こえてきそうな感じである。
その日、帰宅して夕飯の時に、私は主人にカルガモの親子に遭遇したことを喜々として話した。
そして三日後の6月5日、今度は二人で弁天神社にお散歩しに行った。
この日は偶然、弁天神社の祭礼の日で十人ほどの参拝者がいた。その中に、私を手招きしてくれた
おばちゃんがいる。
「こんにちは!」
と会釈して、太鼓橋の上から湧水池を見ると母ガモと大きくなった雛がいる。ところが雛が4羽しか見当たらない。
おばちゃんに尋ねると、
「たぶんね、、猫にやられたのよ。」
その言葉に私は愕然とした。
この弁天神社の周りは、人口33万を抱える品川区の住宅地である。どこかの山麓や河原沿いという訳ではないのに、
カルガモの雛は猫に襲われ、命を絶たれてしまったのである。こんな都会の中心部にも食物連鎖が存在していることに
胸が痛んだ。現実は厳しい。
しかし4羽の雛の成長ぶりは目を見張るものがあった。たった三日なので大きさはさほど変わらないが、
泳ぎ方が確実に上達している。母ガモからかなり離れて泳ぐ雛もいるし、母ガモとは違う方向に向かう雛もいる。
三日前とは異なり、水上での自分たちの動きに自信が見られる。カモの子はカモの子である!
そして、その1週間後の6月12日に、私と主人は再度弁天神社を訪れた。すると、こともあろうに、
今度は4羽の雛が2羽に減っていたのである! 現実は厳しすぎる、、。生き残った2羽は、生まれてすぐの時とは比べ物に
ならないぐらい、サイズも大きくなり毛の色も母ガモに似てきている。
そして、この二日後に私は入院し6月16日に無事、長女の一穂(かずほ)ちゃんを出産。それからしばらくは、かずちゃんのことで24時間が一杯いっぱいで、再度、今度はかずちゃんも一緒に弁天神社を訪れることができたのは、8月5日であった。
太鼓橋の上から、湧水池をのぞく。するとそこには、母ガモが2羽いるではないか、、!
いやいや、そんなはずはない。母ガモが2羽のはずない。ということは、可能性は2つ。
1.目の前にいるのは、母ガモと同サイズまで育った2羽の雛。
2.目の前にいるのは、1羽は母ガモで、もう1羽は母ガモと同サイズまで育った雛。
どちらにしても、雛はこの二か月で母ガモと同サイズにまで成長してしまったのだ。なんというスピードだろう!
私はかずちゃんを見た。生後やっと一か月半。私と同サイズになるまでには、早くても後15年はかかるに違いない。
家へ帰る途中、ふと思った。カルガモの親子は、弁天神社で見ることができたが、毎日のように見る
スズメやハト、カラスの親子は、今まで40年生きてきて、見たことがない!
どうしてだろうか? そういえばこの3種の鳥は、どうやって子育てしているのだろうか?
図書館の児童書コーナーにあったたくさんのふしぎースズメのくらしーという本には、衝撃的なことが書かれていた。
スズメは、毎年4月から8月にかけて子育てをする。条件がよければ、1年に3〜4回子育てを行うこともある。
スズメの卵は、アーモンドとほぼ同じ大きさで、生まれたときは約2gだが毎日2gずつ増えて、約2週間で巣立つ。
驚きである。アーモンドの大きさから生まれて、たった2週間で巣立ち!
そんなすごい超スピード子育てをスズメは毎年やり遂げていたのだ!
ただでさえ小さいスズメの雛は、一体どんなかわいさなのだろう。その巣や雛を見れないものだろうか。
しかし本には、巣や雛を見つけるのは、かなり難しい、とある。
私は、学生時代に何度かバードウオッチングに連れて行ってもらったことを思い出した。
その時につくづく実感したことは、経験あるバードウォッチャーと素人との間には、
鳥の発見能力に、月と鼈のような違いがあるということだった。
鳥のことをよく知っている人たちは、林などの自然の中で、鳴き声で何の鳥かを知ることができる。
そして、その鳴き声の主がどういう樹木のどの辺りに居るという知識に基づいて、
すぐにその鳥を見つけてしまうのである。
素人の私は
「ほら、あの太い幹の下から2番目の枝の先のほう、今、尾羽を振っているけどわかる?」
などと説明されて、その方向を眉毛をしかめながら見ること数秒。その鳥が飛び立ってようやく
「あっ、わかりました! 今飛びましたよね?!」
というのが関の山。
彼らの観察能力は、一朝一夕で会得できるものではない。
ということは、経験者でもなかなか見つけられないというスズメ、ハト、カラスの巣や雛の姿は
私に見つけられるはずがないのである。
というわけで巣や雛は諦めて、その代わりに一穂ちゃんとのお散歩中にスズメ、ハト、カラスを観察して、
可能な時は写真を撮ってみることにした。
スズメ
うちの隣の家にある大きな柿の木。そこはスズメのねぐらになっており、朝の日の出前から、スズメたちはチュンチュン、チュンチュンとさえずり、時には屋根の上に並んで止まり、いつしか採餌に出かけていく。
そして夕方、日の暮れる前になるとまた戻ってきて、その日一日のことを話し合うかのごとくチュンチュンと鳴く。
そんなスズメの様子を、家の中から一眼カメラで撮ることができた(42oの望遠)。
ところが、一穂ちゃんを連れてのお散歩中は、私は携帯しか持っておらず、そのカメラだと
とにかくスズメの姿は撮れないのである。というのは、携帯カメラでの撮影可能範囲に近づこうとする前に、
スズメは、パーッと飛び立ってしまうからだ。
例えば、私が「スズメいるかな、、」と思いながら人気のない公園に入り、原っぱの上で採餌中のスズメたちを発見! と思うや否や、彼らはパッと飛び立って木の枝の上へ。急いで、私が携帯を取り出して、カメラを起動させるときには、彼らはさらに遠くの屋根の向こうに飛び立っているのである。
スズメは都会に住んでいる鳥としては、特に警戒心が強いという。もしかすると、「舌切り雀」で舌を切られて以来、スズメは人を過度に警戒するようになったのかもしれない!
昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは、一匹のスズメをとてもかわいがって飼っていました。
ところがある日、そのスズメが障子を張り替えるための糊(ご飯粒を潰したもの)を食べてしまったことにおばあさんは怒り、スズメの舌を切って追い出してしまったのです。
おじいさんが可哀想なスズメを心配して探しに行きますと、藪の中にスズメのお宿がありました。
そこでは、舌を切られたスズメが他のたくさんのスズメたちと共に、おじいさんを歓迎してくれ、最後にはお土産の入ったつづらを用意してくれました。
つづらは大きなものと小さなものがありましたが、おじいさんは自分にはこれで十分と小さいほうを選び、うちに持ち帰ると中からはたくさんの宝物が出てきました。
それを見たおばあさんは、自分でスズメのお宿に行き、大きいつづらを持って帰ってきたのですが、中から出てきたのはお化けや気味悪い虫たち!
おじいさんは、おばあさんに欲張ってはよくない、と諭したということです。
この舌切り雀の話は、スズメの生態を的確に描写している。
1 スズメには舌がある
鳥類全般に舌はある。ヒトと同じく嚥下を助ける働きを持つが、ウなど餌を丸呑みする種ではその機能はほとんど退化している。
2 スズメはお米の汁が大好きである
秋、田んぼには、巣だってまもない若鳥や子育てを終えて休息をする親スズメたちが群れる。ちょうどそのタイミングで米は乳熟期を迎え、スズメはこの汁を飽くことなく吸って食べる。しかしほかの季節には、スズメは健気に雑草の種や果実などを食べて空腹を凌ぐ。
3 スズメにはお宿(ねぐら)がある
夜、スズメが羽を休めるための場所である。大きな木や林がねぐらになる。
実は、うちから歩いて小一時間の目黒区碑文谷に、雀のお宿という竹林がある。昔は、スズメの大群がねぐらにしいてた場所だったらしい。
早速、10月29日土曜日、かずちゃんと一緒に訪ねてみた。
この日は東京文化財ウィークの日で、ガイドさんによる説明があった。
江戸時代、目黒は筍の産地でありいたるところに竹林があった。またこの碑文谷地区の農家を統括していたのが栗山家であり、現在栗山家の旧宅が、雀のお宿の竹林に囲まれて一般公開されている。
この旧宅は、江戸時代中期に建てられたと推定され、竈のある土間を上がると囲炉裏があり、庭がよく見える座敷、雨戸と外縁、三本の大黒柱等を見ることができる。
この家の庭に、2、3羽のスズメが遊んでいるのどかな風景が頭に浮かんだが、
スズメがかわいらしいのはせいぜい10羽ぐらいまで。
忘れるなかれ、スズメは大群になると、田んぼの米を食い荒らしてしまう農家にとっては憎き存在なのである。
スズメは、稲が熟す直前、つまり米粒が固くなる前の、乳熟期の米粒に目がない。
しかしこれを食べられてしまえば、米の収穫はゼロになる。生きる糧である米を巡って、農家とスズメは長い間戦ってきた。
スズメの田んぼ荒らし対策として頭に思い浮かぶのが、案山子であろう。
他には、からからと音が鳴るなるこやキラキラ光るテープ等でスズメを脅かす方法がある。
しかしスズメが、これらが恐れるに足らないことを知ってしまえば、もう効果はない。そこで使われたのが、もっとすさまじい音がする空砲、さらには実弾による狩猟である。
また袋網猟、別名、地獄網猟という方法もあった。これは、ねぐらに帰ってきたスズメの大群を木を叩いて脅かし、あらかじめ仕掛けておいた網の中に追い込むというもので、一晩で数百羽ものスズメを一網打尽にすることができたという。
奇策は、お酒に浸した米粒をスズメに与えて酔ったところを捕らえるというもの。中国では昔からある方法で、日本では戦後鳥取県で行われてそれなりの成果を上げた。
このように、田んぼ荒らしの筆頭格として君臨しているスズメであるが、日本人の愛情を最も受けてきた鳥もおそらく雀なのである。
平安時代の女流作家、清少納言は「うつくしきもの、すずめの子の、ねず鳴きするに踊り来る」と、雀の鳴き声と歩き方を愛でている。
また、紫式部作、源氏物語の中では、若紫が「すずめの子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちにこめたりつるものを。」と、犬のいたずらで籠から逃げてしまった雀を惜しむ場面がある。当時の貴人の間で、雀を愛玩動物として飼うことがあった証拠である。
時代は下って江戸中期。
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
我ときて 遊べや 親のない雀
と詠んだ俳人、小林一茶(1763-1828)は、その他にも雀の句を詠んでおり、それらから一茶自身が雀を飼っていたといわれている。
慈悲すれば 糞をするなり すずめの子
これは餌をあげると、糞をする雛の様子を詠んだものである。雛は巣の中にいる時は、巣内をきれいに保つためにきちんとお尻を巣の外に向けて糞をする。
すずめ子を あそばせておく たたみかな
飼われている雀にとっては、家の中が住まいとなり、たたみが地面の代わりの遊び場となったのだろう。
すずめ子の 早や知りにけり かくれよう
ところが、雀は人を警戒する本能がある。成長するにしたがって、家の中に居つつも、隠れてしまうようになった。
小林一茶は、三歳の時に生母を亡くして継母になじめず、十四歳の時に半ば逃げるようにして郷里の信濃国柏原宿から単身江戸へ出た。そして十年近い流浪の時を経て、俳諧師として世に知られるようになった。
一茶は、純真無垢な雀と対峙する時に、幼少期の哀しい身の上がなぐさめられる気持がしたのかもしれない。
雀は、純朴な詩心を呼び起こすのであろうか。
詩人、童謡作家として知られる北原白秋も、雀を愛した一人である。
白秋は十九才の時に、生家の福岡県柳川を後にし上京した。そこで若山牧水と知り合い、与謝野鉄幹、晶子らとの知遇を得て、1909年、邪宗門を出版、文壇の注目を浴びる。ところが、白秋は夫と別居中だった松下俊子と恋に落ちたことで姦通罪を訴えられ、その名声を一気に失ってしまう。その後彼は、種々の事情により、小笠原父島、麻布、葛飾と居所を変えながら、極貧の生活を強いられることとなった。その苦境の中、彼が慰めを見出したのが雀の存在である。有り余るほどの時間と詩人としての眼差しを、白秋は雀に注いだ。
1920年に刊行された「雀の生活」という詩文は、
1 雀と人間の愛
2 雀と人間との相似関係
3 雀と人間との詩的関係
4 雀の形態と本質
5 雀の神経感覚及性格
6 雀の団体生活
7 雀の人間化
8 雀の霊覚とその神格
という章からなる200ページ以上の大著である。その中には、白秋が雀に向けた深遠な優しい眼差しが、詩人らしい情愛あふれる文体でとうとうと語られている。
まだ幼い子供の朝の目覚めは格別です。子供は誰よりも一番に早く目を開けています。そうして戸の外で雀の声がちゅちゅっとでもしようものなら、それこそもうじっとしていられません。すぐに手足をバタバタさします。(1章)
雀は確実に昼の鳥です。彼は快活で、正直です、明けっ放しです、がさつで性急です、ちゅちゅちゅっちゅです、むきだしです、企みません、覆面しません、陰から笑いません、闇から闇へと羽立ちません。雀は紅い大きな太陽の子です。雀の一日は明るい一日です。彼の頭上には、蒼穹の円天井と無限の光明とがあるばかしです。(2章)
うき世の波というものは、どんな山奥の奥までも響き返して、しばらくの間も人の心を安らかにしてはくれないものです。それを一々に、またらしくなぐさめてくれるものは雀です。雀の声です。雀さえ鳴いていてくれれば、どうにか命が凌げます。(3章)
雀の頭は無論茶色です。純粋の焦茶です。そして頭がおかしいほど真ん丸です。そのまんまるな頭がまた、何より雀を可愛く見せます。(4章)
雀の用意深さは実に驚きます。白い米粒か何かが人家の厨の前にこぼれていたとします、雀はそれを木の上で見つける、と、永い事四方に気を配って、愈々と思うまでじっとしています。よしとみると飛び下りる、その速さは全く電光石火です。地に着く、と、チョイチョイと二口ぐらい食べて後をも見ずにパッと飛び立つ。決して三口以降を食べていません。(5章)
真実一人でいきてゆけないのが人間なら、真実一羽で生きてゆけないのも雀でしょう。無論、一羽の雀は必ずほかの一羽の伴侶がなしには生きてゆけません。庭の雀の夫婦としての生活がこうして始まります。夫であり、妻であるべき二羽の雀がこうして一つの家庭を作ると、その二羽の間からは可憐な幾多もの小雀も生まれてきます。親子の雀の情愛の深いあたたかな生活がこうして始まります。(6章)
雀はいかなる鳥類よりも人間に近い。人間にまた深い関係を持っています。この雀を人間が人間化して考えるのは無理では無いのです。特に日本人が日本化して雀を考えるのはもっともです。日本人ほどまた雀を人間化して物語にしたり、画模様にしたりしたものはありますまい。(7章)
雀の宿、雀の生まれの里は昔から笹竹藪と決まっていました。孟宗、寒竹、真竹、篠竹といろいろの種類はあっても、総じて竹には一種の神々しい神格が光っています。雀はこの神々しい神格を備えた竹から自然に感化され、薫染されてきたらしい形跡さへ見えます。(8章)
「雀の生活」を読み終えて、私も白秋に多いに共感するところがあると感じた。
うちの隣の家にある柿の木は雀のねぐらとなっており、毎朝賑やかで元気な雀の声が家の中に聞こえてくる。その様子を感じ取ってか、かずちゃんは大きなお目目を開けて、嬉しそうに両手両足をぱたぱたさせる。
この些細な日常生活の一コマに、確かに、白秋が言うように、ごくごく素朴な力の源、幸せの源といったものが内在していることに思い至るのである。
人々に愛情を注がれる小鳥でもあり、田んぼから叩き追い払われる害鳥ともなる。そんな雀の二面性が、この鳥の存在を日本人にとってとてつもなく大きくしているのではないだろうか。
私も、雀とかずちゃんに愛をこめて詩心を一つ。
スリングで まあるく抱かれし 我が娘 雀と一緒に 遊ぶ日はいつ
ハト
ハトは、スズメに比べて断然写真が撮りやすかった。驚いて飛んだとしても撮影可能範囲の枝や電線に止まり、
また、公園などに群れているハトは、むしろ近寄ってきた。そういえばハトは、スズメに比べると遥かに人慣れしている。
世界にはハトの仲間が約300種いるが、ユーラシア・ヨーロッパ原産のカワラバトという種は、古来から人々に飼われ
伝書鳩や食用、観賞用として利用されてきた。その家禽化されたカワラバトが、奈良・飛鳥時代に日本に移入され、
繁殖したのが土鳩(ドバト)である。今、都内の公園や境内で見るハトの十中八九は、この土鳩である。
もともと家禽化されたハトであったことに加え、日本においてハトは八幡神社のお使いとも見なされ大切にされた。
そのため、特に神社仏閣で繁殖し、塔鳩(トウバト)、堂鳩(ドウバト)と言われていたのが、
後に土鳩(ドバト)になったと言う。
以前、浅草寺ではハト豆が売られ、それをやる人の周りにハトの大群が群れている光景が見られた。
しかし3000羽にも増えてしまったハトは、寺の建物や洗濯物が汚れるといった
フン害を引き起こし、2003年に歴史ある浅草寺のハト豆売りは、なくなってしまった。
しかし、草食性であるドバトは、豆以外にも色んなものを食べる。私が観察した中でも、お寺の境内で
苔をついばんでいたり、五反田駅前の花壇に植えられていたヒマワリに頭を突っ込んで種(?)を食べているのが
見られ、都会での生活をたくましく生き抜いていた。
ドバトの繁殖力は非常に強い。抱卵して雛が孵り巣立つという子育ての過程を、初春から晩秋にかけて6回も
行うことができるのである。それを可能にしているのが、ハト類特有のピジョンミルクである。
ドバトは、採餌した餌をそのう(素嚢)という消化管の一部に貯めて、半分消化されたような乳状のもの、
通称ピジョンミルクを作り雛に与える。
たくさん餌を採ってピジョンミルクとしてそのうに貯めることができるため、ハトは採餌のために巣から飛翔する回数が少なくて済む。
また、季節によって採餌する餌が変わっても、ピジョンミルクで雛を育てることが可能なため、繁殖期間が長い。
ちなみに、ベビー用品大手のピジョン(Pigeon)は、このピジョンミルクが社名の由来だという。
2016年9月、かずちゃんとお散歩している途中、大きなハト小屋を発見した。うちから歩いて30分ほどの品川区旗の台に
おいてである。
一番上の小屋には白ハトが一匹。その下の小屋には、公園や境内で見るドバトと同じ模様のハトが数羽いるのが見える。
彼らは、伝書鳩だろうか、、! 心なしか、普通のドバトに比べて筋骨たくましく見える。
カワラバトは、遠く離れた場所からでも自分の巣に帰ろうとする帰巣本能がとても強く、古来から人々に飼いならされて
伝書鳩として使われてきた。
・紀元前776年にギリシャのアテネで行われた古代オリンピックでは、競技の結果を各都市に伝書鳩で伝えた。
・普仏(プロイセン(旧ドイツ)VSフランス)戦争時(1870〜1871年)、プロイセン軍によって包囲されたパリから、気球によって将校らと伝書鳩が脱出した。後、フランス軍は部隊を組織して反撃に出たことが伝書鳩によって伝えられ、パリ市民を勇気づけた。
・第1次世界大戦時、パイロットは伝書鳩とともに戦闘機に乗り込み、不時着時は伝書鳩で助けを求めた。
、、と、様々な場面で伝書鳩が活躍した例は、枚挙にいとまがない。
日本で伝書鳩の有用性が大きく認められたのは、1923年(大正12年)の関東大震災であった。
交通網や電話・通信用ケーブルがことごとく壊滅状態に陥り、その間は関東の被害状況を地方に伝えることが
全くできなかったのである。
関東大震災後、各新聞社は伝書鳩を導入し、その飼育数やハト小屋を設置する支社の数は年々増え続け、緊急を要する
ニュース記事や写真のフィルムを運ぶ手段として重要な役割を果たすようになっていく。
・1940年三宅島が大噴火した際には、読売新聞社のハトである「ヨミウリ807号」が4時間で海上175キロを飛び
噴火の写真を運んだ。
・第二次世界大戦時には、ハトは従軍記者とともに前線に運ばれ、最新の戦況を伝えるのに大変役に立った。優秀な
軍鳩には勲章が送られたり、軍鳩感謝の夕べといった催し物も行われた。
・1953年、エリザベス2世の戴冠式参列のため、皇太子(平成天皇)がイギリスへ向かった。洋上での皇太子の写真を
託されたハト40羽が船から放たれ、毎日新聞の「毎日353号」が、見事に海上600キロを飛翔しきった。
どのような状況下でも、一直線に空を飛んで行ける、それがハト通信の最大の強みであった。しかし、最盛期には各大手新聞社に数百羽飼われていた伝書鳩も、通信技術革命のスピードにはかなわず、ついに昭和40年代半にハト通信は終わりを告げた。
そしてその後、伝書鳩はそのスピードと正確さを競いあうレース鳩として生き残っていくようになる。
現在日本には、日本鳩レース協会および日本伝書鳩協会の2つがあり、全国各地で飛翔距離200〜1000キロのレースが20回以上行われている。1000キロといえば東京ー札幌間とほぼ同じであるが、訓練された
レース鳩はその距離を違えることなく飛翔するのである。
ノアの箱舟から放たれた後、オリーブの葉をくわえて帰還し愛と平和の象徴となったハト。
そして、ハト豆が得られなくなっても、ピジョンミルクで一年に何度も子育てに奮闘するハト。
そんな彼らに、敬意の念を抱かずにはいられなくなった。
カラス
カラスの写真も撮りやすかった。彼らはほとんど逃げることがなく、逃げたとしても近くの電線にひらりと羽ばたく程度で、そのあとは向きを変えてこちらを見下ろす余裕があるほど、堂々としている。都会の鳥の王者という風格がある。
しかし悲しいことに、カラスは、都心部においてはゴミ捨て場荒らしの犯人となっている。防鳥ネットがかけてあっても、カラスはゴミ袋を引っ張り出し、中のごみを引きずり出す。人が近寄って行っても、スズメのように慌てふためいて逃げることはなく、しばらくすると戻ってくる。体色も黒く体も大きいため、数羽で群れていると、ちょっと怖いぐらいである。
しかし、ものの本には、都心で見られるハシブトガラス、ハシボソガラスの2種は元来は河川や森林に住む鳥との説明がある。
では、なぜカラスは都市の鳥として定着するようになったのだろうか。またそれはいつ頃からなのだろうか。
興味深いデータがある。
カラスは、夕方から夜になると大群となって、ねぐらとなる木々に集う。都心のカラスの二大ねぐらである明治神宮と目黒の自然教育園で、カラスの個体数変化が調べられている。
明治神宮では、1985年の3715羽から、1999年の9552羽と約2.5倍に増えている。
自然教育園では、明治神宮の20年以上前からのデータがあり、
1963年の180〜200羽から、1998年の6574羽と30倍以上に激増している。
そして、この時期は、日本の高度経済成長期(1954年〜1973年)とほぼ一致しているのである。
カラスが街中で餌としているのは、人が出す生ゴミである。高度経済成長期に東京23区の人口は、700万人から850万人に増加したが、ゴミの量は60万トンから390万トンと6倍にもなった。生肉でも死肉でも穀物でも野菜でも何でも食べる雑食性のカラスにとって、都心は食べ物に事欠かない住みかとなった。
また、カラス科の仲間は、高度な知能を持つ鳥類として知られる。カラスは、夜は人が入らない明治神宮や自然教育園の林をねぐらにすれば安全であることを知り、固いクルミの殻等を車道においてタイヤに割らせることを覚え、時にはお菓子やおにぎりを食べる人々を公園で脅かしたりもする。カラスはその聡明さゆえに、都市部の環境変化にいち早く適応してしまった。
哀しき哉、高度経済成長とそれに伴う大量廃棄の習慣が、聡明なカラスを「ゴミ捨て場荒らしの犯人」といった地位におとしめてしまったのである。
カラスの増加ぶりからも明らかなように、カラスも毎年子育てをする。しかしカラスの雛を実際に見ることは、素人にはなかなか難しい。
カラスの巣作りは2-3月ごろで、メスは2-6個の卵を生み約30日温める。孵ったばかりの雛は肌色だが数日たつと黒くなり始め、約一か月で巣から出るようになる。しばらくは親鳥から餌をもらうが、徐々に自身での餌採りを覚え若鳥の仲間入りをする。
驚くことに、カラスはダミーの巣を作る。実際に子育てする巣の近くに使わない巣も作るのだ。カラスの雛を狙う猛禽類をだますためだと考えられている。また、カラスはいったん夫婦となると一生そのペアで過ごすという。オシドリ夫婦ならぬ、カラス夫婦である。
烏 なぜ啼くの 烏は山に
可愛い七つの 子があるからよ
可愛 可愛と 烏は啼くの
可愛 可愛と 啼くんだよ
山の古巣にいって見て御覧
丸い眼をした いい子だよ
大正10年に野口雨情が作詞した童謡「七つの子」を歌ってみるとき、必死に子育てをするカラスの姿が頭に浮かんで、胸にしみいるのは私だけだろうか。
漆黒の翼と体を持ち、かつ知的聡明さを兼ね備えたカラスの姿は、古代の人々に神的なものを想起させた。その最たるものが、熊野で信奉されている八咫烏(やたがらす)である。三本足のカラスで、日本サッカー協会のエンブレムになっていると言えば、思い当たる人もいるだろう。
古事記および日本書紀に、大和の国(現、奈良県)への先達者として八咫烏は登場する。
日向の国(現、宮崎県)に住んでいた神武天皇は、天下を収めるのにふさわしい土地を探して、東に向かって遠征に出る。長年にわたって陸路海路を旅し、ようやく熊野にまでたどり着いたが、山深いこの土地で神武軍は道に迷ってしまう。その時に八咫烏が現れ、大和までの道を先導し、神武軍は荒ぶる神々を平定し国を治めることができた。これが、神武天皇が初代天皇として日本国を治めた経緯である。
神武軍を道案内し勝利に導いた八咫烏は一体なんであったのだろうか。
一説には、道案内の役割を果たしたのは当地の有力な豪族だったと言われ、それは賀茂氏族の祖先神である賀茂武角命(かもたけつぬみのみこと)と同一視されることもある。
いずれにしても、古事記、日本書紀が編纂・成立した八世紀初めには、カラスは叡知と勝利が冠せられる瑞鳥として崇拝されていたのである。
八咫烏を神の使者として奉る熊野三山は、
和歌山県にある
田辺市の熊野本宮大社
新宮市の熊野速玉大社
那智勝浦町の熊野那智大社
の三社であるが、これらの市町ではカラスは問題になっていないのであろうか。
東京23区とこれらの市町の面積、人口、人口密度を下記に概観する。
面積(q2) | 人口 | 人口密度 | 田辺市 | 1,026.91 | 76,553 | 72人/km2 | 新宮市 | 255.23 | 28,749 | 113人/km2 | 那智勝浦町 | 183.31 | 15,396 | 84人/km2 | 東京23区 | 626.70 | 9,375,104 | 15,077人/km2 |
参考文献
野生の王国DVDシリーズ
クマタカ 森の精
サシバ 海を渡るタカ
イヌワシ風の砦
富士山麓野鳥たちの詩
まだ
トキよ舞いあがれ 巣立ちの記録
ニホンザル母の愛 モズの子育て日記
街で子育て小さな猛きんツミ
家族になったスズメのチュン 竹田津実 偕成社
コンクリート壁のスズメ団地 宮崎学 理論社
シートン動物起 スズメのランディー 小林清之介 あすなろ書房
くちばしのずかん みぢかなとり 村田浩一 監修 金の星社
スズメのなかまたち 水谷高英絵 日本野鳥の会編 あすなろ書房
がんばれ! ”赤”スズメ 唐沢孝一 子ども科学図書館
スズメの大研究ー人間にいちばん近い鳥の秘密ー 国松俊英 PHP研究所
新編 スズメの四季 小林清之介
北原白秋歌集 高野公彦編 岩波文庫
ファイン/キュート 素敵かわいい作品選 高原英理編 ちくま文庫
子どもの伝記全集 北原白秋 笠文七著 ポプラ社
白秋全集15 雀の生活 岩波書店
北原白秋の研究 西本秋夫 新生社
評伝 北原白秋 薮田義雄 玉川大学出版部
ハトの大研究―古代から人とともに生きてきた鳥 国松 俊英 PHPノンフィクション
キジバトのなかまたち みる野鳥記 日本野鳥の会編
シートン動物起 伝書鳩アルノー
ハトの大研究 古代から人とともに生きてきた鳥 国松 俊英 PHPノンフィクション
カラス、どこが悪い!? 樋口広芳 森下英美子 小学館文庫
やたら・カラス ひろかわさえこ あかね書房
カラスとネズミ 人と動物の知恵比べ 川内博 遠藤秀記 岩波書店
カラスとかしこく付き合う法 杉田昭栄 草思社
カラスの早起き、スズメの寝坊 文化鳥類学のおもしろさ 柴田敏隆 新潮選書
カラス、なぜ襲う 都市に棲む野生 松田道生 河出書房新社
カラスの大研究 国松俊英 PHP研究所
熊野 八咫烏 山本殖生 原書房