国歌、国花、国家!!!



東アジア編
ヨーロッパ編
アフリカ編
西アジア編〜バラとチューリップ
南アジア編
東南アジア編
南米、中米、北米編
再度、東アジアへ



東アジア編

日本の国花は、桜と菊である。ではお隣の中国は、梅と牡丹であることをご存知だろうか。




桜と梅



古来から日本人と桜の関わりは深い。富士山麓の浅間神社で紀元前から祀られているコノハナノサクヤヒメは、桜の化身とされる女神であり、古事記には5世紀前半の履中天皇による日本最古の花見の記録がある。667年、奈良吉野の山中で修行していた役行者は、体得した蔵王権現を桜で彫り、以来吉野で桜は聖木となった。

日本に自生する山桜、彼岸桜、大島桜は平安時代に宮廷文化の円熟とともにその美しさを楽しむ対象となり、桜は勅撰和歌集にも多く読まれ、嵯峨天皇は、812年、京都の神泉苑で花見の宴を行っている。

さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
あしひきの 山の間照らす桜花 この春雨に 散り行かむかも
見渡せば 柳桜をこきまぜて みやこぞ春の錦なりける

鎌倉時代に入ると、桜の散りぎわが武士の潔さを象徴するものと見なされ、桜は儚さという意味をもって日本人の心に根付き始める。桜を愛した旅僧、西行は謳う。

願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月の頃

1594年、権力の頂点にあった秀吉は、部下5000人を連れて吉野山にて、晩年の1598年には1300人の部下を従えて京都醍醐時にて盛大な花見を行っている。

徳川家光は江戸の鬼門である上野寛永寺に吉野から山桜を移植し、吉宗は王子飛鳥山に桜、紅葉、松などを植樹し庶民が楽しむための場を作った。

幕末に江戸染井村の伊藤伊兵衛という植木職人によって、大島桜と江戸彼岸の交配による桜の園芸種が生まれた。それは桜の名所である奈良の吉野にあやかって「染井吉野」と名付けられ、明治以降瞬く間に日本人の心に根付いた。

潔さ、儚さの象徴とされた桜は、戦争中、死を美化する手段となった感がある。戦闘機「桜花」の名前にもなり、外国では多くの桜が切り倒されたり、焼かれたりという受難の時を迎えた。しかし敗戦を迎え、焼け野原でも山中においても、桜は毎年春になると花を咲かせ、人々に積年の記憶を呼び起こした。
様々の こと思い出す 桜かな 








もう一つの国花である菊は、奈良時代に中国から伝わったといわれる。秋の花として愛でられ、平安時代には、重陽の節句で菊花酒を飲んで長寿を願った。また菊水文様は、着物や装飾具の意匠として多く描かれるようになった。鎌倉時代の後鳥羽上皇はことのほか菊を愛し、その頃から菊は天皇家の御紋になったと言われている。

江戸時代には、徳川家の葵の紋と対を成すようになり、十菊、十六裏菊、菊水など多くの意匠が考案され、武家や商家の家紋としても使われるようになる。幕末には世相を反映して「菊は咲く咲く、葵は枯れる」という川柳が流行った。

正式に十六八重表菊が皇室の御門と制定されたのは明治2年。菊も、桜と同様に、戦争中は愛国心を鼓舞する文様として軍旗や戦艦に施されるようなった。

江戸前期に始まった菊の栽培熱は、嵯峨菊、美濃菊、肥後菊、一文字といった多くの品種、三段仕立て、ダルマつくり、福助つくりといった様々な丹精の仕方を生み出し、菊作りの文化は現在に至るまで衰えることを知らない。

艶やかな園芸種も人々の目を引くが、日本古来の野菊には素朴な力強い美しさがある。
「鬚むじゃらの人夫などが白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、山の端に日が燃え切る頃、大きな花束を抱えてうれしげに家路に着く」
と三島由紀夫は「菊」という散文の中で表現している。

野菊が咲き乱れる秋は、夜の闇が日々長じていき、人々の相思の念が深まる季節である。重陽の節句に帰るという約束を違えぬために、獄中で切腹し出雲から播磨まで魂のみ千里飛んだ赤穴宗右衛門の物語が、菊花の約として雨月物語に描かれている。


飛んで中国。

中国人と梅の関係は古い。紀元前700年から約250年間の歴史が書かれた春秋左氏伝には、「和」の意味を現す表現として「和は羹の如し。水・火・醤・塩・梅、以って魚肉を煮る」という一文が載っている。梅は梅酢のことであり、当時から調味料として使われていた。紀元前200年の馬王堆の噴墓からは梅干が入っていたとされる壷が発見され、梅酢は調味料の他、鉄器や青銅器の錆止めとしても大量に使われていた。

梅は揚子江上流部が原産と言われ、紀元前から未熟の梅を燻製し乾燥させた烏梅(Wu mei)という保存食を作ってきた。烏梅は鎮痛・解毒、健胃整腸の漢方薬として用いられ、烏梅に砂糖をまぶして干せば話梅(Hua mei)というお菓子に、烏梅に山査子(サンザシ)や甘草(カンゾウ)を混ぜて煎じて砂糖を入れれば酢梅湯(Suan mei tang)という飲み物になる。

また世説新語の三国志には、魏の曹操にまつわる逸話がある。水場への道を失い、砂漠を進んでいた兵士を激励するために曹操は言った。
「前に大いなる梅林有り、子饒かにして甘酸っぱし。以って渇きを解く可し」
これを聞いた兵士らは
「口に皆水を出だす。此に乗じて前源に及ぶを得たり」
曹操が機転を利かした、梅の酸っぱさを物語る話である。



梅干、



雪残る初春に花を咲かす梅は、別名、「報春花」、「雪友」、「一枝春」、「第一香」とも呼ばれる。その鮮やかな強靭さは、長寿、富裕、無病息災、道徳、天命の象徴であり、梅花開五福という。

また、梅は、松、竹とともに「歳寒三友」、蘭、竹、菊とともに「四君子」と見なされ、宋の時代より多くの画題とされてきた。

宋時代の詩人、林逋はこよなく梅を愛した。晩年、杭州西湖の畔で、林逋は梅を妻、鶴を子供として寵愛し、一人静かに隠遁生活を送った。
彼の歌にある。
疏影斜水清淺 (陰影は清き湖面に斜めに落ちて)
暗香浮動月黄昏 (暗がりで香を放ち月と共に黄昏る)




牡丹



もうひとつの中国の国花である牡丹は、楊貴妃との縁が深い。
根に血行促進の薬効を持つ牡丹は、初め漢方のために栽培されていたが、唐の時代に入って、その艶やかな大輪が観賞用として愛されるようになった。楊貴妃は、その唐代の六代目皇帝玄宗に見初められ、後、貴妃として後宮に入った絶世の美女である。玄宗の寵愛を受けて絢爛豪華の極みに身をおき、楊氏一族も不相応な大出世を遂げた。ところがその不正政治に対して安ろく山が安史の乱を起こし、楊氏の血縁として咎めを受けた楊貴妃は、愛する玄宗の前で自害するという悲運の最期を遂げる。

李白は、興慶宮の沈香亭での遊宴にて、楊貴妃を牡丹に例えてその美を讃えた。

雲想衣裳花想容 雲には衣裳を想い花には容姿を想う
春風拂檻露華濃 春風檻を払うて露華濃なり
若非郡玉山頭見 若し郡玉山頭に見るに非んば
會向瑤臺月下逢 会ず瑤臺月下に向かって逢わん

楊貴妃の死より半世紀、白居易は玄宗と楊貴妃の悲恋を長恨歌に詠んだ。自害した楊貴妃の魂は、仙界にて太真と名乗っており、「天にあっては比翼の鳥のように」「地にあっては連理の枝のように」と玄宗への思いを伝えた。

在天願作比翼鳥
在地願爲連理枝

しかし、長恨歌の中では楊貴妃は芙蓉、梨花として例えられており、牡丹ではない。唐代において牡丹は花の王であったが、妖艶、濃麗、かつ魔性の美という印象も付随していた。そのため、白居易は2人の運命を純愛として謳うために、純朴で可憐な芙蓉、梨花を用いた、と言われている。

しかし盛唐の時代に生を受け、時の皇帝に愛され、命を絶った一人の女性の姿は、いつしか牡丹と重なりあうようになった。幾重にも打ち重なりぬ牡丹の花弁の奥には、傾国の美女楊貴妃の妖香が漂う。



では両国の国歌はどうであろうか。

君が代は、世界最古の歌詞を持つ国歌といわれる。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

という和歌の原歌は、905年に紀貫之らによって編纂された古今和歌集に最初の出典があり、古来から目上の人の長寿と治世が末永く続くことを祝う賀歌(がのうた)であった。

この賀歌は、奈良時代から祝事の場で愛好され詠まれてきた。鎌倉・室町時代になると貴族文人のみならず、神社・仏閣の行事歌として、酒宴の舞い納めとして読まれ、さらに安土桃山時代になると、庶民の間で愛好された仮名草子、小唄・長唄、浄瑠璃、盆踊り、正月の祝い歌などとして広く用いられるようになった。

しかし、それに譜が付けられ初演されるのは明治3年を待たねばならない。開国し外交を通して近代国家への道を歩み始めていた日本は、当時のイギリス公使館護衛歩兵隊軍楽長フェイトンから、儀礼用の国歌があるか問われる。今まで日本には対外的に公の場で演奏する国歌というものはなかった。大山巌は、急遽歌詞として古来からの賀歌である「君が代」を選定し、軍楽長であったフェイトンに作曲を依頼した。そして明治3年、深川越中島の薩長土肥四藩の操練に臨席した天皇の前でその君が代は初演された。この時の旋律は、今の「きぃ〜みぃ〜がぁ〜あ〜」というものではない。日本語が堪能ではなかったフェイトンは歌詞にあった譜をつけることができなかったと言う。

フェイトン作曲の君が代 プロが歌っているためもあるが、今の君が代のメロディーより明るく悪くないと思われる。
Play!

フェイトン作曲の君が代に代わって、明治13年に雅楽局の大伶人の任にあった林広守が新たに譜をつけ、11月3日天長節の宴会にて初演され、ようやく今の君が代が出来上がった。

しかし、明治大正を通じ、第二次世界大戦終戦まで、天皇の統治する国家への崇拝の意味を込めて謳われた君が代の運命は幸運とはいえない。激戦地となった沖縄を始め、日本の占領下におかれた韓国、中国では、君が代に対して不快な思いを抱く人が多い。また終戦から68年経った現在においても、学校で謳うべきか否かという君が代問題は収束を見ない。

ここに外国語に翻訳された君が代の歌詞を、再度邦訳したものがある。

1「願わくば我々の君主の支配権が 千年も八千年も歳月が過ぎ去り 磐石の岩根に年を経て 青々と悠久の苔むすまで続きますように!」 英訳(E.アーノルド 小見山寿海市再訳)

2「帝王ご一家が千年また千年も栄えますよう ちいさな小石が大きな巌となり コケで覆われてしまうまでも」  独訳(F.エッケルト 上村敏夫氏再訳)

3「どうか我々の大君には、その御治世が 千代も八千代も続くのを御覧になられますように 小石が巌となり その上に苔が生えるまでも!」仏訳(G.ボノー 坪井一氏再訳)

それぞれの歌詞の「君が代」にあたる部分を見てほしい。たった4文字でありながら、君が代の解釈が難解であることを物語る資料ではないだろうか。

私的見解になるが、上記のどの訳も、君が代という言葉が自分の心に想起させるものとは異なる。わかりやすく率直に訳すならば、君が代は「祖国」(Motherland)である。

数千年以上の歴史を持ち、様々な文字文化を生み出してきた日本語という言語。米、大豆、魚を軸とし、世界一の長寿とも深い関係にある豊かな食文化。そして北海道から沖縄まで3000キロにわたり春夏秋冬を彩る習俗と伝統。

それらによって今の自分を育んでくれた日本という国に対して、日本人ならば愛着があるのではないか。

我々の祖国が 千年も八千年も歳月が過ぎ去り 磐石の岩根に年を経て 青々と悠久の苔むすまで続きますように!



中国の国歌は「義勇軍行進曲」という。まずその曲を聴いてみていただきたい。

義勇軍行進曲  Play!

起来!起来!起来!
我們万衆一心、
冒着敵人的炮火、前進!
冒着敵人的炮火、前進!
前進!前進!進!

行進曲らしいメロディーに、勇ましい歌詞。ところで歌詞の中の敵とは誰のことであろうか。
驚くなかれ、これは満州事変を引き起こした日本の関東軍のことなのである。

もともと義勇軍行進曲は、1931年に起こった満州事変に対して、抗日運動に赴く青年達を描いた「風雲児女」という国策映画の主題歌のために作られた。当時、国民党当局によって獄中にあった共産党員の田漢がひそかに作曲を手がけ、その歌は瞬く間に民衆を鼓舞する歌として広がった。そして1949年中華人民共和国の成立ともに、義勇軍行進曲は晴れて国歌として制定される。

ところが、劇作家として第一線の活躍をしていた作詞者の田漢は、1966年から始まった文化大革命の四悪として捕らえられ獄死。義勇軍行進曲は歌うことを禁じられ、代わりに毛沢東を讃える「東方紅」が国歌のように用いられた。

しかし毛沢東の死後、政権はケ小平に移り、文革による混乱の収束が行われ、1982年の全国人民代表大会にて、田漢の名誉復活をも兼ねて、義勇軍行進曲は再度国歌として制定された。これは毛沢東時代の衰退と、近代化を通して新時代の構築を築こうとするケ小平の台頭を象徴する出来事であった。

日本と中国は、桜、梅、牡丹、菊という東アジアを代表する麗花を国花として持つ。
そして君が代と義勇軍行進曲は、歴史の変動に伴う紆余曲折を経て、現在に至る。




ヨーロッパ編

革命歌が国歌となっている国の1つに、アイルランドの「兵士の歌」がある。

アイルランド Amhran na bhFiann 兵士の歌 
Play!

アイルランドは、数百年にわたって宗主国であるイングランドに苦渋の想いを強いられてきた。その最たるものが1845〜49年のジャガイモ飢饉である。史上まれにみる冷夏が連続して続き、当時アイルランドで育てられていた単一品種のジャガイモは銅枯れ病にかかり、壊滅的な打撃を受けた。しかしその状況下においてもイングランド政府は、アイルランドからの、ジャガイモを除く全ての穀物の強制輸出を続行させた。想像を絶する飢饉がアイルランドを襲った。

全人口のうち20%の人々は病死または餓死し、10〜20%の人々は国外に脱出し、800万人だった人口は400万人にまで減少した。これを機にイングランド政府からの独立を求める気運は波のように高まり、1916年イースター蜂起勃発。武装した約1000名の蜂起軍はすぐに鎮圧されたが、この後数年に渡る独立戦争を経て1922年にアイルランドは積年の願望であった独立を勝ち取る。

兵士の歌は、共和主義者のパダル・オーチャルニーによって作詞され、イースター蜂起の時にアイルランドの兵士達が口ずさんで行進した。

アイルランドの国花はシロツメクサである。マメ科であるシロツメクサは根粒菌と共生関係を作り土壌を肥沃にする働きがある。控えめでかつ屈強な美しさを持つシロツメクサが咲く大地で、何百万人もの魂とともに兵士の歌は歌い継がれる。

ちなみに幸福を呼ぶといわれる四葉のクローバーの話はもちろんアイルランドにもあり、四葉より五つ葉のクローバーはさらなる幸運を呼ぶといわれている。



シロツメクサ



一方宗主国であったイングランドは、英国王室を讃えてGod save the Queenを謳い、トゥーダー王朝の家紋が発祥のTudor Roseを国花として愛でる。

イングランド(イギリス)God save the Queen エリザベス女王の85歳の誕生日@ウェストミンスター寺院 パイプオルガンの響きがすごい ハリーポッターに出てきそうな荘厳な衣装も見もの Play!

イギリスは連邦王国であるが、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドにも、それぞれ国歌がある。今も彼らの中にみなぎる愛国心は、その歌の中に強く表現されている。

ウェールズ Hen Wlad Fy Nhadau わが祖父の土地 1856年作詞作曲。 Play!
北アイルランド Londonderry Air このよく知られる民謡は、北アイルランドの国歌。1856年作詞作曲 Play!
スコットランド O Flower of Scotland 1314年のバノックバーンの戦いを題材にした歌詞 Play!
バグパイプバージョン 心に沁みる歌です。 Play!


イギリスの南から、ドーバー海峡を渡ってフランスに入り、この国の国歌であるラマルセイエーズに耳を傾けてみたい。

フランス ラマルセイエーズ Play!

初めてこれを聞いたとき、ビートルズのAll you need is LOVEだ!と私は思った。

All you need is LOVE, Beatles 最初の部分に注目。 Play!

それもそのはず、この曲はラマルセイエーズの最初のファンファーレをそのまま引用しているのである。

All you need is LOVEは、1967年6月25日、史上初衛星多元中継番組で31カ国において初演された。犬猿の仲であったフランスのラマルセイエーズのファンファーレを組み込んだビートルズのこの曲は衝撃的で、これでフランスとイギリスの仲はよくなると言われたという。

それはさておき、ラマルセイエーズを引用しているのはビートルズだけではない。

チャイコフスキー 1812年 (序曲)作品49 ナポレオンのロシア遠征の年に作曲。フランス軍を象徴する場面で引用されている(5分〜6分台辺り) Play!

ロベルト・シューマン 二人の擲弾兵(1840年)ナポレオンのロシア遠征後、長い間ロシアに囚われていた二人の兵士が祖国フランスに帰ろうとする。ハインリヒ・ハイネ作詞の詩に、シューマンが作曲。フランス兵士が倒れるところで、ラマルセイエーズが引用されている。 Play!

名立たるクラシックの作曲家が引用しているラマルセイエーズはいつ作られたのだろうか。それは1792年、フランスの市民革命のときに遡る。

時の皇帝は、国王ルイ16世とマリーアントワネット王妃。当時のヨーロッパでは、平等、人民主権論などを基本とした人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっており、フランスもその例外ではなかった。

フランスの絶対君主制の支配下では、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人おり、平民は貧困にあえぎながら重税に苦しみ、その鬱積した不満は、爆発寸前となっていた。

1789年第三身分の民衆らは自分達による国民議会を発足させ、ルイ16世に承認させた。しかしその一方で既得権益を守ろうと貴族や王族らはルイ16世に平民制圧を要請する。

パリとヴェルサイユに軍隊が終結し両者の緊張が高まる中、1789年7月平民達はバスチーユ要塞を襲撃。8月には人権宣言が採択され、以降、ルイ16世国王一家は平民の監視下で生活することとなった。

革命の余波が及ぶことを恐れたオーストリアとプロセインは、ルイ16世の地位の保証を求めて圧力をかけたが、フランスの民衆は屈せずに、1792年4月にオーストリアに宣戦布告。フランス各地で平民によって義勇兵が組織され、この時ストラスブールで駐屯していた工兵大尉のクロード・ジョセフ・ルージェ・ド・リールは一夜で闘いのための歌を作った。

これがラマルセイエーズの誕生である。

この歌は熱狂的に支持され、マルセイユの義勇兵達が口ずさみながらパリに集結したことから、ラマルセイエーズの名前が付いた。

国王一家の住むテュイルリー宮殿の攻撃、反革命者狩り、プロイセン軍を破ったヴァルミーの戦いを経て、フランス革命軍は勝利を収め、1792年9月21日革命政府は王政廃止と共和制の樹立を宣言。

1793年1月、国民公会にてルイ16世は有罪判決を受け、コンコルド広場で2万人の民衆が見る中ギロチンに処される。同年10月に、マリーアントワネットも牛馬によって市中を引き回された後、ギロチンにて処刑。数年に渡る壮絶な戦いをへて、フランス市民は自由と平等という権利を喜び合った。

当時の民衆からなる義勇軍を心から鼓舞し、そのまま勝利歌となったラマルセイエーズは、その後多くの音楽家に影響を与え、アフリカを始め多くの国々が独立時に国歌を制定するときに模倣するところとなった。

しかしその歌詞は、当時の流血を厭わない闘争をありのままに表現している。

「祖国の子らよ 立ち上がれ 栄光の日が来た 我らに対する圧政の 血塗られた旗が揚げられている 聞け 戦場に 響き渡る凶暴な敵兵の怒号を 敵は我らの地に攻めてくる 子供や妻の喉を掻き切るために」

近年はこの歌詞のまま国歌を歌う是非が問われてもいるが、当時のフランスの市民革命が命がけであり、その結果得られたのが、自由、平等、友愛を掲げる共和制であった、ということを感じずにはいられない。



陸続きであるヨーロッパは、長い歴史の中で幾度も国境線が塗り替えられてきた。その史実は国歌の中にも色濃く歌い継がれている。

ハプスブルグ家からの独立を歌ったオランダの国歌。
オーストリア・ハンガリー帝国支配化で、民族運動が盛んになったときに作られたスロバキアの国歌。
イタリアからの独立を祝うサンマリノの国歌。
スウェーデンからの独立を歌うノルウェーの国歌。

1453年に勃興し最盛期には地中海から中央アジアを支配した強大な帝国、オスマントルコ。長きに亘ってこの国の支配下におかれた国は多く、ギリシャ、キプロス、アルバニア、セルビアが国歌にオスマントルコからの独立の喜びを謳う。

ではそのオスマントルコの国歌はどうか。第一次世界大戦で敗戦したオスマントルコは、連合国によって4つに分断されそうになるが、革命家アタチュルクらが祖国解放運動の名の元に独立戦争を起こし、トルコは分割統治を免れ、近代国家としての第一歩を歩むことになった。国歌は、その独立戦争の最中に生まれた。

トルコ 独立行進曲 オスマントルコ帝国は第一次世界大戦に敗戦。戦勝国による国家解体に対する独立戦争中に公募された曲が、1932年に国歌として制定。物悲しい旋律の中にも勇猛さがひそむ曲。 Play!

顔を歪めるな 優しい新月よ!
勇敢なる我が民族に微笑みたまえ
何を激す 何に怒る
怒りあらば 汝がために流した我々の血は無駄になる
神を敬う我が民族は自由に値する

ロシアも多くの国を支配下に治め、その自由を奪ったという点ではオスマントルコと共通する。第一次世界大戦後、東ヨーロッパの国々を共産主義体制の中に取り込みソビエト社会主義共和国連邦が成立。第二次世界大戦後は激化するアメリカとの冷戦があり、90年のソビエト連邦崩壊後、支配下にあった国々は念願の独立を得た。中央アジアや東欧の国々は、連邦時代は歌うことが禁止されていた民族色の強い曲を国歌として制定し、その喜びを表している。

ではそのロシアの国歌はどうかというと、
帝政ロシア時代の1833年にニコラス1世は「神よ、皇帝を守りたまえ」という歌が制定。
帝国崩壊後は新たにソビエト連邦国歌が制定。
しかしその歌詞にはスターリンを讃える表現があったため1956年のスターリン批判以後は20年間メロディーだけが演奏。
91年のソ連崩壊後、再度歌詞に修正が加えられ、ロシア連邦賛歌と名前が変えられて国歌として制定。

体制とともに、国歌も目まぐるしく変わっている。
時を経て、支配者は被支配者となり、人は新しい治世の在り方を探る。



ヨーロッパの国歌

アイスランド Lofsongur アイスランド移住1000年を祝う式典に合わせて賛美歌の歌詞を元に作られた国歌 Play!

アイルランドAmhran na bhFiann 兵士の歌  Play!

アルバニア Hymni i Flamurit 国旗への賛歌  Play!

アンドラ フランスとスペインの間に位置する山岳王国。作詞者のホアン・ベンリョーク・イ・ビボは後に枢機卿まで務めた高位聖職者。 Play!

イタリア 19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)の最中に生まれた。 Play!

エストニア Mu isamaa, mu onn ja room 我が祖国よ、我が幸せと喜びよ 帝政ロシアの支配下にあった1848年に作られた国歌。歌詞はエストニアの詩人、ヨハン・ヴォルデマル・ヤンセンによる。民族意識の高いこの歌はソ連時代には禁止されていたが、1991年に国歌として復活。 Play!

オランダ 国歌の旋律は、世界で一番古い。 Play!

オーストリア国歌 モーツアルト作曲 Play!

キプロス トルコ系住民の多い北部とギリシャ系住民の多い南部で対立が続いている。独立時にギリシャと同じ国歌が採用されたが、北部ではこれを認めていない。 Play!

ギリシャ 自由への賛歌 オスマントルコからの独立戦争中に作られた国歌。19世紀のギリシャを代表する詩人のディオニシオス・ソロモスの歌詞に、ニコラオス・マンジャロスが曲をつけた。 Play!

イングランド(イギリス)God save the Queen エリザベス女王の85歳の誕生日@ウェストミンスター寺院 パイプオルガンの響きがすごい ハリーポッターに出てきそうな荘厳な衣装も見もの Play!

クロアチア LIjepa nasa Domovino 麗しき我らがふるさと クロアチアの詩人アントゥン・ミノハヴィッチの詩がもととなって生まれた国歌。 Play!

サンマリノ 聖歌が原点の国歌。 Play!

スイス 修道士アルベリク・ツヴィッシヒが、以前作曲した聖歌を編曲。ドイツ語のボーカルバージョン Play!

スウェーデン Du Gamla Du Fria 1844年、民俗学者リッカード・ディーベックがベストマンランド地方に伝わる民謡に歌詞をつけて発表した。 バイオリンの旋律がすごくきれい。 Play!
こちら、ボーカルバージョン Play!

スペイン 作曲者不明のグラナデーラ行進曲が国歌となった。 Play!

スロバキア タトラ山の嵐 Nad Tatrou sa blyska 物悲しい旋律は元スロバキア民謡。民族運動が盛り上がりをみせた19世紀半ばに盛んに歌われた。映像きれいです。 Play!

スロベニア 乾杯 Zdravljica スロベニア人の結束、ひいては普遍的な世界平和を歌う。作詞者フランツェ・プレシェーレンはスロベニアが誇る詩人 Play!

セルビア 正義の神 Boze Pravde 1904年にセルビア王国の国歌だったものが、旧ユーゴ分裂後再び採用。サッカー大会で小さい女の子が歌っています。 Play!

チェコ Kde domov Mji?  ふるさとよ、いずこ 19世紀前半に作られた「靴職人の祭り」という劇に使われた音楽の一部。きれいな民謡音楽です。 Play!

デンマーク Der er et yndigt land 愛する国がここにある 北欧詩人王と言われたアーダム・エーレンシュレイヤー作詞。北欧神話の女神フレイヤの名前が歌いこまれている。透明感のある旋律。 Play!

ドイツ ハイドン作曲の皇帝賛歌のメロディーに、ドイツの詩人アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンが歌詞をつけた。1991年東西ドイツ統一後、民族統一の願いが込められた第3節のみが国歌として正式に採用。このメロディーは、弦楽四重奏としても有名。 Play!

ノルウェー Ja, vi elsker dette landet そうだ、我らはこの国を愛す 後ノーベル文学賞を受賞したビョルンステイエルネ・ビョルンソンが作詞。アカペラで合唱されています。 Play!

ハンガリー Hymnusz 賛歌 ハンガリー・オペラの父と呼ばれるエウケル・フィレンツによる作曲。大聖堂でオーケストラと聖歌隊が歌っています。 Play!

フィンランド Maamme 我が祖国 スウェーデンの支配下だった1848年に初演された時には、スウェーデン語が公用語だったが、独立後にはフィンランド語訳も試みられた。 Play!

フランス ラマルセイエーズ Play!

ブルガリア Mila Rodino 愛しき祖国 1885年のセルビア・ブルガリア戦争時に歌われた愛国歌が、ソ連崩壊後国歌として制定。哀切漂うメロディーでバルカン半島の自然の美しさを歌う。 Play!

ベラルーシ 我らベラルーシ人 ソ連時代に使われていた国歌の歌詞を変えて、現在も歌われている。 Play!

ベルギー La Brabanconne 対オランダ独立戦争のさなかに生まれ、1830年の独立宣言のときにモネ劇場で初演された。フランス語とオランダ語の歌詞がある。 Play!

ポーランド Mazurek Dabrowskiego ドンブロスキのマズルカ ポーランド王国がオーストリア、プロセイン、ロシアの3国に分割され、消滅したのは18世紀後半。この時に作られた国歌は、祖国復活を目指して、ナポレオンについて進撃しようと士気の高まりを歌ったものである。ドンブロスキはその時の将軍、マズルカはポーランドの伝統的舞曲のこと。美しく、かつ勇ましい軍歌です。 Play!

ボスニア・ヘルツェゴビナ 間奏曲 旧ユーゴスラビアの中でもこの国の民族の多様性はとりわけ複雑で、国歌は民族性を排除し、歌詞のないものが1998年に採用された。 Play!

ポルトガル かつての海洋帝国であったがその座はイギリスに奪われる。19世紀後半から民衆の間で反英、反王政の歌が密かに歌い継がれ、1910年共和国成立と同時に国歌として制定。 Play!

マケドニア オスマントルコ帝国に身を投じた英雄の名前(ゴツェ・デルチェフ、ピトゥ・グリ、ダメ・グエフ、サンダンスキ)が歌詞の中に歌われている。 Play!

マルタ 地中海の真ん中に浮かぶ島国。医師で音楽家のロバート・サムートが作曲。 Play!

モナコ フランスとイタリアが領有争いをしていたが1861年に独立。もと警察隊行進曲だった曲が独立後の1867年アルベール王の歓迎式で初演された。 Play!

モルドバ 1991年にソビエト連邦から独立。アレクセイ・マテーヴィチの作った歌詞には、母国の豊かな言語を取り戻そうという想いが歌われている。 Play!

モンテネグロ Oh, svijetla majska zoro おお、5月の夜明けよ 作曲者不明の古い歌がもとになっている。国名となった「黒い山」が歌詞に読み込まれた、哀愁漂うかつ荘厳な旋律である Play!

ラトビア Dievs, sveti Latviju 神よ、ラトビアに祝福を ロシアの侵略から1918年に独立するが、その後ソビエト連邦に編入され1991年に独立。ロシア、ソ連支配下の時は、国歌にラトビアという単語を歌うことが 禁じられたが、91年にオリジナルの詩が再度採用された。下記、素晴らしい合唱曲の動画です。 Play!

リトアニア Tautiska Giesme 独立運動家であったヴィンカス・クディルカによる作詞。帝政ロシア時代は歌うことが禁じられたが、1990年に国歌として復活した。 Play!

リヒテンシュタイン スイスの東にある永世中立国。イギリスのメロディーとほぼ同じものが使われている。 Play!

ルーマニア Desteapta-te Ramane 目覚めよ ルーマニア人 1848年の市民騒乱の時に詩人アンドレイ・ムレシャムが歌詞をつけたこの曲は、オスマントルコ、対ナチス・ドイツ戦、チャウシェスク独裁政権下においても愛国歌として歌われ続けた。悲壮ながらも情熱的な旋律。 Play!

ルクセンブルグ Ons Heemecht 我らが祖国 古くから交通の要衝であり1867年オランダから独立。国歌は詩人ミッシェル・レンツとジャン・アントワーヌ・ツィネンによって作られた。祖国の自然を賛美する格調穏やかな旋律。 Play!

ロシア ロシア連邦賛歌 帝政ロシア時代の1833年にニコラス1世は「神よ、皇帝を守りたまえ」という歌が制定されたが、帝国崩壊後は新たにソビエト連邦国歌が制定。しかしその歌詞にはスターリンを讃える表現があったため1956年のスターリン批判以後は20年間メロディーだけが演奏される。91年のソ連崩壊後、再度歌詞に修正が加えられ、ロシア連邦賛歌と名前が変えられて国歌として制定。歌詞はロシアの作家、ミハルコフによる。 Play!




他方、花には国境がない。

日本の3000メートル以上の稜線に咲くチョウノスケソウは、北緯65度に位置するアイスランドの国花であり、同じく高山植物であるギョリュウモドキはノルウェー、スズランの花はフィンランドの国花である。

北方の樹木であるセイヨウトネリコはスウェーデンの野山を守り、自由の象徴である菩提樹はチェコ、オウシュウナラはドイツの森林をなす樹木である。

前述のシロツメクサは、アイルランド、北アイルランド、そして近縁のムラサキツメクサは、デンマークの国花であり、ヨーロッパ原産の優美な青色を持つヤグルマギクはエストニアとドイツ、白いキクの花は、ラトビアとフランス人が国花として愛でる。

最高峰モンブラン(4811メートル)を始め、マッターホルン、グランドジョラスなど世界に名立たる秀峰を擁するヨーロッパアルプス。高山植物は600種以上あると言われ、その代表であるエーデルワイスは、オーストリアとスイス、ピレネー山脈の東端に位置するアンドラ、そしてタトラ山脈をポーランドとの国境に持つスロバキアの国花である。



ヨーロッパアルプスにあるエーデルワイスは、Leontopodium alpinumの一種類。日本には、ハヤチネウスユキソウ、ミヤマウスユキソウ、ウスユキソウ、ホソバヒナウスユキソウ、コマウスユキソウ、ミネウスユキソウと6種類ものエーデルワイスの種があります。



南に下ると気候は一変して、夏季乾燥、冬季湿潤の地中海性気候になる。

イタリアのデイジー(ヒナギク)、スペイン、モナコ、スロベニアのカーネーション、キプロス、サンマリノのシクラメンは、ヨーロッパ〜地中海原産の花々である。

日中開き夜閉じるという性質を持つデイジーはDay's Eye が語源といわれる。
母の日に贈られるカーネーションは、ヨーロッパでは2000年近い栽培の歴史がある。
大きな根茎を持つシクラメンは、ラテン語、古代ギリシャ語のCircleが語源といわれる。



デイジー、カーネーション、シクラメン



旧約聖書にも登場するオリーブは、ギリシャ、ポルトガル、イスラエル、キプロスの国花である。ノアの大洪水の後、大地に緑が戻ったことを示す一枝のオリーブの葉を、鳩がくわえて箱舟に戻ってきたという。またこの木はキリスト教において大変聖なる木であり、イタリア・スペインでは赤ちゃんを洗礼するときにはオリーブオイルでその体を清める。

ザクロは、スペインと対岸のリビアの国花である。ペルシア原産のザクロの栽培の歴史も古く、古代メソポタミアのくさび文字文書、またコーランにその記載が見られる。また西アジア・北アフリカのイスラム諸国では、ザクロは生食、お菓子、飲料として使われ、庶民に不可欠な果物である。



ザクロ





アフリカ編

地中海を越えるとそこはアフリカ大陸となる。その北岸に位置するリビアの国名は、ギリシャ語の「海の向こうの国」という意味に由来する。

アフリカと一言にいっても、そこには54の国々、1500にも及ぶといわれる言語と民族が星のように存在している。
しかし、この大地は大航海時代にヨーロッパ人が到達して以降、奴隷貿易そして植民地という名の搾取と略奪の対象となった。1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェスが、西サハラで拉致した黒人男女をエンリケ航海王子に献上したのが、アフリカ黒人奴隷貿易の端緒といわれる。そして15〜18世紀にかけて、奴隷として1200万人もの黒人が西インド諸島に労働力として送り込まれた。

18世紀中ごろより奴隷制を非人道主義だと見なす考えが起こり、イギリスは世界に先駆けて1807年に奴隷制を廃止。しかしその後も植民地化は続き、19世紀初頭にアフリカ各国で帝国主義への反発、独立を求める動きが熟成され、そこにヨーロッパ列強の弱体化が重なり、第二次世界大戦後アフリカの国々は次々に独立。それとともに制定された国歌には、独立の喜びが謳いこまれている。

その旋律は国によって色々で、伝統的な民謡がベースとなったもの、黒人の間で歌われていた賛美歌をベースにしたもの、ラ・マルセイエーズを模倣した雰囲気をもつものなどある。天性のリズム感を持つアフリカの人たちが独立の喜びを歌う国歌を是非聴いてみてほしい。

アフリカの国歌

アルジェリア Qassaman 誓い 独立戦争中の1956年に、フランス軍に投獄されていたむムフディ・ザカリアが作詞。当時の白黒の動画が興味深いです。
Play!

アンゴラ Angola Avante アンゴラよ進め 作詞者のマヌエウ・ルイ・モンテイロは、宗主国のポルトガルで法律を学んだ人物。 Play!

ウガンダ Oh Uganda, Land of Beauty! おおウガンダ、美しき国! 英国の音楽院で学んだ経験のあるジョージ・ウィルバーフォース・カコマが作詞作曲。小学生達が合唱。 Play!

エジプト アラブ音楽に西洋音楽の要素を取り入れ、近代音楽に大きな貢献を果たしたサイード・ダルウィーシュ作曲。 Play!

エチオピア 帝政、社会主義、民主主義と体制が変わる度に国歌も新しく制定。 Play!

エリトリア 古代から紅海貿易の拠点として発展した。1992年にエチオピアから独立し国歌が制定された。 Play!

ガーナ God Bless our homeland Ghana 神よ、祖国ガーナを護り賜え  Play!

カーボベルデ Cantico da Liberdade 自由の歌 アフリカ大陸西岸、650キロの沖合いにある火山諸島。 Play!

ガボン La Concorde 調和 Play!

カメルーン フランス統治時代の1928年にカメルーンの自由と団結を願って作られた。男性の素敵なボーカルが歌ってます。 Play!

ガンビア 西アフリカのマンディンゴ民族の伝統音楽を用いた国歌。 Play!

ギニア共和国 伝統音楽を元にした国歌。 Play!

ギニアビサウ 独立運動を率いて初代大統領となったルイス・カブラルの兄、アミルカル・カブラルが作詞・作曲。 Play!

ケニア Ee Mungu Nguvu Yetu 昔からのケニアの民謡に、イギリスから独立した1963年、歌詞が付けられた。黒人の女性シンガーが歌っています。 Play!

コートジボワール L'Abidjanaise 情報大臣マテュー・エクラ作詞、文部大臣ジョアキム・ボニが作曲した国歌 Play!

コモロ アフリカの東部に位置し、シーラカンスが捕れる海洋国。1975年フランスから独立。 Play!

コンゴ共和国 社会主義政権が崩壊後、独立時の国歌が再び制定された。 Play!

コンゴ民主共和国 1960年にベルギーから独立。 Play!

サントメ・プリンシペ カポエラをやりながら歌われているバージョン。 行進曲。 Play!

ザンビア 賛美歌が原点でアパルトヘイト運動の時にも歌われた曲。  Play!

シェラレオネ アメリカで番組制作を学んだアカーが作曲。 讃美歌みたい。 Play!

ジブチ 紅海に面している。ソマリ語で歌われる国歌。 Play!

ジンバブエ シャンキーという女性歌手が歌っています。きれい。 Play!
Our zimbabweというショナ語で歌われる曲も有名。 Play!

スーダン 独立戦争時の軍歌が国歌として制定された。 Play!

南スーダン 長い間、南北で対立していたスーダンは、2011年に南部の黒人勢力がアフリカ54番目の国として独立。 Play!

スワジランド Nkulunkulu Mnikati 初めてのスワジ語英語の辞書の著者ライクロフトが作曲。民謡と西洋音楽が融合。 Play!

セーシェル 1976年独立後社会主義政権成立。今の国歌は1996年民主主義移行後に制定。 Play!

セネガル 詩人でもあったサンゴール初代大統領によって作曲。 Play!

ソマリア ソマリアよ、目覚めよ Somaliyaay toosoo、独立前から知られていた作詞作曲者不明の大衆曲が国歌として制定。 公式バージョン Play!
ポップバージョン? かっこいい。 Play!

タンザニア God bless Africa アフリカ南部の黒人の間で広く知られていた賛美歌のメロディーが用いられている。 Play!

チャド La Tchadienne チャドの歌 1960年独立時に神父のルイ・ジドロルが作曲。トランペットの前奏が勇ましい。 Play!

チュニジア Himat Al Hima 国を守る者たち フランスの保護領時代に独立を求めて歌われた愛国歌 Play!

トーゴ 1960年独立時に公募して制定された。男性ボーカルが歌っています。 Play!

ナイジェリア 作曲家のベネディクト・エリデ・オディアセは警察音楽隊の指揮者だった。ビヨンセ(ナイジェリア人の血も持つ)が歌っている画像見つけました。 Play!

ナミビア Namibia, Land of the Brave 1990年に南アフリカから独立。カラハリ砂漠の伝統音楽のグループを率いるアクセリ・デーサブ作詞作曲。 Play!

ニジェール La Nigerienne ニジェールの歌 かわいい子供たちが合唱しています。サハラ砂漠の画像も素敵。 Play!

ブルキナファソ 1983年にクーデターを起こし33歳の若さで大統領に就任したトーマス・サンカラの作詞。貧困と腐敗の一掃、女性解放、教育と社会保障を掲げた社会主義国家を目指し、アフリカのチェ・ゲバラとも称される。ギタリストとしても有名。 Play!

ブルンジ 1962年独立時にカトリックの司祭であるジャン・バティスト・ンタオカージャによって作詞。歌は、ドラムの音も混ざり、民謡の雰囲気が伺われる。 Play!

ベナン L'Aube Nouvelle 新しい夜明け 1960年にダホメ共和国として独立したときに制定。子供たちが元気に歌っています。 Play!

ボツワナ Tatshe leno la rona 私たちの大地 1966年に独立の日に制定。歌詞はツワナ語。 Play!

マダカスカル フランス共同体内の自治共和国となった1958年に制定。聖職者のパストゥール・ラージャソンによって作詞。女の子達の合唱団が歌っています。 Play!

マラウィ Mulungu dalista Malawi 神よマラウィを祝福した前 マラウィはチェワ語で光や炎を意味する。チェワ語で歌われているバージョンです。 Play!

マリ 西アフリカにはグリオと呼ばれる冠婚葬祭で歌う職業音楽家がいる。グリオとして有名なバズマナ・シソコによる作曲。ドラムの音が独特な民謡です。 Play!

モーリシャス マダカスカルから東に約800キロのインド洋にある島国。作曲者のフィリップ・ジェンティスは警察音楽隊のバイオリン、サクソフォーンの奏者。 Play!

モーリタニア 詩人で宗教的指導者でもあったババ・オウルド・シェイクが作詞したものに、伝統音楽の旋律が使われている。とても独特の国歌です。 Play!

モザンビーク 独立当時に制定された万歳、万歳フレリモには、植民地、帝国などの歌詞が連なる革命家だったが、2002年にイデオロギーを排除した新しい国歌が制定。 1975-2002 Play!
2002年以降 Play!

モロッコ 独立前から知られていた旋律に1970年歌詞が付けられて、国歌として成立。アラブの雰囲気が感じられる曲です。 Play!

リビア Allahu Akbar アッラーは偉大なり この曲は元はスエズ戦争時にエジプト軍が歌っていた行進曲。アラブの雰囲気漂う軍歌です。 Play!

リベリア 1847年、アメリカの憲法を元にアフリカ初の民主主義国として独立。国歌の作詞者ダニエル・バシール・ワーナーは、三代目の大統領。 Play!

ルワンダ 100万人に及ぶ犠牲者を出した内戦後、国家再建を目指して国旗も国歌も新しく制定。学生さんたちが素敵な歌声で歌っています。 Play!

レソト 南アフリカに囲まれた内陸国。1966年にイギリスから独立し、スイスの歌唱曲を元に国歌が制定。 これも学生さんが歌っています。ハモリがとても上手!! Play!

赤道ギニア 独立時に国歌公募が行われ、軍音楽隊副隊長だったラミロ・サンチェスの歌が採用された。歌詞はスペイン語。 Play!

中央アフリカ 作曲者のハーバード・ヘッパーは民俗音楽学者で現地に滞在中に、独立運動を率いていたバルテルミ・ボガンダに出あい、国歌の作曲を依頼された。勇ましい伝統音楽らしいメロディー。Play!

南アフリカ 1921年に作られた「南アフリカの呼び声」とアパルトヘイト時代には禁止されていた「神よアフリカに祝福を」の2つを、マンデラ政権樹立後1つの曲に編曲して制定。何人ものシンガーが熱唱している動画ですごく素敵。 Play!





アフリカ南西部のナミビア砂漠にしか生息しない、ウェルウィッチアという奇妙な植物が存在する。
植物系統分類学的には、
種子植物門
裸子植物亜門
裸子植物綱
グネツム目
ウェルウィッチア科
に属し、学名はWelwitschia mirabilisという。1科1属1種であるが、学者によってはウェルウィッチア目を作るべきと主張する人もいるほど、進化的に非常に独立した奇特な植物種である。



ウェルウィッチア この姿で何千年も生きるそう。 Peaceboatのサイトより



卓越した乾燥耐性を持ち、一見多肉植物のような風貌で、ナミビア砂漠に生える数少ない植物の1つがこのウェルウィッチアである。発見されたのは1859年、ナミビア砂漠を採集旅行中だったオーストリアのマーティン・ジョセフ・ウェルウィッチによる。彼は550もの動植物を新発見した学識ある博物学者であり、学名に用いられたことで彼の名前は不朽になった。

この植物の標本はロンドンのキュー植物園に送られて、学者達を驚愕させた。植物園長のフィリアム・フッカーは「大英帝国にもたらされた植物の中で、最も興味深く最も醜い。」と評し、かのチャールズ・ダーウィンも「陸上のカモノハシ」と驚きをあらわにしている。

そんなウェルウィッチアが日本に紹介されたのは1936年。奇想天外という和名をつけた植物学者の石田英夫もなかなか洒落者ではないだろうか。





西アジア編〜バラとチューリップ〜



バラ



国花として一番多い花はバラであり、それらはヨーロッパそして中東に多く、アルジェリア、モロッコ、イラク、イラン、オマーン、キルギス、サウジアラビア、イギリス、ブルガリア、ポルトガル、ルクセンブルグ、アメリカ、エクアドル、セントルシアと14カ国に登る。

バラの原種はヒマラヤのカシミール地方が故郷だという。それが西アジア・ヨーロッパ、東アジアひいてはベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に広がり、野生のバラは北半球のいたるところに生息するようになった。

バラはその美しさと芳香ゆえに崇められた。古代ギリシャ、古代ローマでは、愛と美の女神アフロディティ(ヴィーナス)を意味する花であり、紀元前3世紀のギリシャのテオフラストスが記した植物詩には既にバラに関する記載があり、バラはユリと同様に聖母マリアの象徴とされ、古くから宗教上大切な花の1つであった。

ペルシアでは10世紀に哲学者かつ科学者であったイブン・スィーナーによって、バラの香油を作るための蒸留方法が編み出された。以来西アジアの国々はバラの香油の重要な生産国であり、副産物として作られるローズウォーターは西アジア各国で料理やお菓子に多用される。

13世紀を代表するペルシャ詩人、サーディによって書かれたGulistan(バラの庭園)と題する著作がある。詩や小説、教訓譚などを含む全8章からなる大著であり、後世において東西に大きな影響を及ぼした。

その冒頭には、野外にてバラの花を摘み取った友人に対する問いかけが書かれている。

その摘み取ったバラの花々。
庭から花を取ってしまえば、
その花の命は数日で絶えてしまう。
庭に植えれば、花はいつまでもその命を謳歌する。



現代では、バラは他種の追随を許さない多様な品種を抱する園芸品種であるが、その基盤はナポレオン・ボナパルトの妻、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ皇后によって作られたといえる。

フランス領西インド諸島マルティニーク島の生まれで、1796年にナポレオンと結婚したジョゼフィーヌは、大変な浪費家であり、かつバラを愛したことで知られる。1810年にマルメゾン城に住まいを移したジョゼフィーヌは、世界中から植物、動物の希少種を集め、園芸家達による品種改良を奨励し、庭には250種を越えるバラを植えて楽しんでいた。彼女に雇われたベルギーの植物画家、ピエール・ルドゥーテは、それらのバラを描き、1817年から1824年にかけて全3巻として「バラ図譜」を刊行、ヨーロッパ各国で好評を博した。



バラ図譜は今でも世界中で刊行されています。素晴らしい植物画集です!



1833年、中国のコウシンバラを改良して四季咲き性のティー系のバラが誕生し、1837年にはグルジアの原産と言われるロサ・フィティダが交配されて、ペルシアン・イエローという黄色いバラが創り出された。

そして1867年、ジャン・バプティスト・ギョーが初めてバラの人工交配に成功し、完全四季咲き性の大輪種、ラ・フランスが誕生。このバラは、ハイブリッド・ティー系ローズの第一号となり、人工交配の確立によってバラの品種改良は飛躍的な発展を遂げることになる。

このラ・フランス以前に創出されたバ品種をオールドローズ、それ以降の品種をモダンローズと呼ばれる。現在、マルメゾン城には2000種を越えるバラが咲くといわれている。

古来から数多の人々が賛美し傾倒する花であったバラ。それは現代においても一寸も色あせることがない。




チューリップ



国歌としてバラの次に多いのがチューリップで、ハンガリー、オランダ、ベルギー、カザフスタン、キルギス、アフガニスタン、イランと6カ国に登る。

チューリップといえばオランダであるが、その原産地はトルコのアナトリア高原、イラン、カザフスタン、キルギスのパミール高原に及ぶ広大な半乾燥地帯である。

チューリップは、ペルシア、トルコ、アラビア、マケドニア、ブルガリア語でラーレと呼ばれ、その表記はアラー(Allah)と同じであり、西アジアでは古代から非常に神聖視された。

既に10世紀には栽培と品種改良が始まったといわれ、建物のモチーフや装飾具の意匠として用いられた。イスタンブールのブルーモスクやトプカプ宮殿の壁面には、ラーレの花が描かれている。

では、そのラーレの花は、いつチューリップになったのだろうか。

最盛期には、アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる領土を支配下におさめたオスマントルコ帝国。1558年、神聖ローマ帝国の大使としてオルジェール・ギスラン・ド・ブスベックは、トルコのスレイマン1世を来訪した。その時の記録には、「冬にも関わらず、水仙、ヒヤシンス、そしてラーレと呼ばれる花々が咲き乱れていた」と記載されている。

この時宮廷では、王を始め高官らは皆ターバンをつけており、紹介されたラーレの形がターバンに似ていたため、通訳者は誤って花の名前を訳してしまったという。かくしてラーレは、チューリップ(ドイツ語:tulpen )という名になり16世紀に初めてヨーロッパに持ち込まれた。

ブスベック大使の友人であった植物学者のカルロス・クルシウスは、1593年にオランダのライデン植物にてチューリップの栽培を開始。大陸ヨーロッパでも開花する方法が確立されると、チューリップは不動の人気を誇るガーデニング植物への道を歩み始める。

最初チューリップは小数の園芸愛好家によって品種改良が始められた。様々な色、花びらの形、斑入りと多様な品種が生み出されるに従って年々チューリップの評判は高まり、いつしかオランダの富裕層の間では、自庭にチューリップの希少種を咲かせることがステータスとなった。人々は熱狂的にその球根を買い求めるようになり、常軌を逸脱する値段で売買されるようになった。いわゆるチューリップ狂時代の到来である。

記録によると、高級品種であったアドミラル・リーフキンは4400フロリン、ヴィセロイは3000フロリン、センペル・アウグストゥスは5500フロリンの値段で取引された。当時の雄牛一頭が120フロリン、ベッド一式100フロリン、240リットルの樽ワイン35フロリン、羊一頭が10フロリン、1キロのバターが1フロリンであったことを鑑みると、桁外れの値段であったことがわかる。3000フロリンの球根を4000フロリンで売れば、1000フロリン(羊100頭分!)の利益が得られたのである。

この莫大な利益を生み出す取引は、初期は球根での物々交換だったが、後に「来春に球根を渡す」 「その時に支払う」と言った先物取引の形で行われるようになり、投機家のみならず、労働者、農民、球根を手に入れられるものならば誰しもが参入するようになった。

当時のオランダには下記の逸話が伝わっている。
港で荷運びを頼まれた漁師が、荷物の中にあった「玉ねぎ」を1つとって食べてしまう。彼はそれが自分の持つ漁船を遥かに上回る価値を持つチューリップの球根であったと知らされびっくり仰天、売り手に責任を問われ哀れにも監獄に入れられてしまう。

しかしバブルは永続しない。1636年11月、突然チューリップの球根には誰も買い手がつかなくなった。青天井と思われた球根の値段は大暴落を始め、オランダ中に不渡の手形が出回るようになった。この時の債務者は3000人に登り、オランダの経済は混乱に陥る。そして破綻したオランダの経済が落ち着きを取り戻すまでには、数十年がかかったという。

こうしてチューリップ狂の時代は終わりを告げ、花は本来の美しさと静けさを取り戻した。
アラブでは、ラーレの花は愛を意味する。花の中央の黒い雌しべは、情熱で焦がれた心を現す。

バラとチューリップを国花に持つ国々が、西アジアとヨーロッパにまたがって分布している。この地理的事実は、歴史上この地域に花の美を探求し続けた人々のロマンが存在したことを深く物語っている。


西アジアの国歌 アラビアの雰囲気を持つ独特のものが多い。

アラブ首長国連邦 ムハンマド・アブドゥル・ワハーブによる作曲。1966年に初めて歌詞が作られた。砂漠の映像がきれいです。
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イエメン 南北イエメンの統合時に、旧南イエメンの国歌が採用された。 Play!

イスラエルの国歌 Hatikvah 希望 モルドバ出身のサミュエル・コーエンが作詞。哀調漂う曲はまたたくまにユダヤ人の間に受け入れられ、シオニズム賛歌と位置づけられた。 Play!

イラク Mawtini 我が祖国 1930年代パレスチナへのにユダヤ人入植に抵抗した歌われた曲。男性ボーカルが歌っているバージョン。 Play!

イラン 1953年以降脱イスラム化を進めたパフレビー2世、イスラム原理主義を軸としたホメオニ政権、現在穏健派として改革を進めるハタミ政権下と、国歌は3回改定された。 Play!

オマーン イギリスの保護国時代に英国海軍の軍楽隊がスルタン表敬のために作った曲。 Play!

カタール 1995年の無血宮廷クーデター後に、新国歌が制定。何かのイベントで合唱されています。 Play!

クウェート 独立宣言後に詩人メシャリ・アル・アドワニが作詞。民族色の強い明るい旋律で、アラーを讃える。 Play!

サウジアラビア 太鼓の音がリズムを作る行進曲。メッカの映像やアラブの子供たちの映像がかわいい。 Play!

シリア Homat el Diyar 祖国を守る者たちよ 作曲者のムハンマド・フライチェルはパレスチナの国民歌を作ったことでも知られる。哀調おびる旋律を男性のボーカルが歌う。 Play!

バーレーン 元々首長に敬意を表するための歌が国歌になった。子供たちが敬礼して歌っているかわいらしい映像。 Play!

トルコ 独立行進曲 オスマントルコ帝国は第一次世界大戦に敗戦。戦勝国による国家解体に対する独立戦争中に公募された曲が、1932年に国歌として制定。物悲しい旋律の中にも勇猛さがひそむ曲。 Play!

ヨルダン 元元首アブドゥルムニイム・アッ・リファーイーによる作詞で、国王を讃える内容。 Play!

レバノン 紀元前から貿易されていたというレバノンスギの産地。雪の降る山脈もあり、西アジアのスイスといわれる。国歌は、1927年フランスの委任統治領時代に、音楽家のワディ・サブラーによって作曲。 Play!

中央アジアの国歌 

アゼルバイジャン 独立後の1992年に制定。同国の作曲家ウゼイル・ハジベヨフによる旋律は、非常に重厚で悲壮感にあふれている。 Play!

アルメニア Mer Hayrenik 我が祖国 19世紀の詩人ミカエル・ナルバンディアンによる作詞。クリスマスに皆で合唱している動画。民族衣装が素敵。 Play!

ウクライナ Shche ne vmerla Ukraina ウクライナの栄光は滅びず ウクライナ・カトリック教会の司祭ミハイル・ヴェルビツキーが作曲した曲が、独立後歌詞を改めて2003年に再度国歌に制定された。 Play!

ウズベキスタン ソビエト共和国の時代に使われていたメロディーの歌詞を文学者のアブドゥラ・オリポプが新たに歌詞をつけて、1992年に制定された。 Play!

カザフスタン Mening Qazaqstanym 我らがカザフスタン ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領がオリジナルの歌詞に修正を加えた。民族色の濃い独特の国歌。 Play!

キルギス 国土の4割が3000メートルを越える山岳地帯。ソ連から独立した1992年に、母国の自然の美しさを讃える国歌が制定。 Play!

グルジア Tavisupleba 自由 作曲者ザカリア・パリアシビリはグルジア民俗音楽とヨーロッパ古典音楽を融合させてことで有名。 Play!

タジキスタン Surudi Milli 民族の幸福  中央アジアユダヤ系のスレイン・ユダコフが作曲。勇壮な曲風。 Play!

トルクメニスタン ソ連から独立後、伝統文化への回帰を図っている。国歌も民族的でとても個性的。 Play!






南アジア編

さらに東方に進み、インド亜大陸に入ろう。
紀元前3000年前にインダス河、ガンジス河の両流域に文明が勃興して以来、この地では東西の文化が交流、融合し、数え切れない王朝が栄華、衰退を繰り返した。

1世紀には大乗仏教が成立し、1〜2世紀にはガンダーラ美術で知られるクシャーナ朝が繁栄。同時代に南インドではローマ帝国との季節風貿易によってサータヴァーハナ朝が栄えた。バラモン教と土着信仰とが混合して生まれたヒンドゥー教は、4世紀頃に民衆の間に広がり始める。

6世紀のヴァルダナ朝の時代には、三蔵法師こと玄奘が何千里もの旅をしてインドを訪れ、ナーランダ僧院で経典を勉強し、唐に持ち帰った。

13〜15世紀にかけて北インドではムスリム五王朝、南インドでは4つのヒンドゥー王朝が栄え、16世紀からの約300年間はタージマハルで有名なイスラムのムガール帝国がインド全土を支配する。

しかし1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド西岸のカリカットへ到達したときより、西洋人の影響力は徐々に増え、インドはポルトガル、デンマーク、フランスの支配を経て、1858年より完全にイギリスの植民地となる。

機械製綿織物の輸入によってインドの伝統的な手織り綿工業は大打撃を受け、第一次世界大戦では100万人以上が傭兵として借り出され、インドは英国のいいように翻弄された。しかし20世紀初頭より反帝国主義、民族主義が台頭・熟成し、ネルー、ガンディーといった政治的、精神的指導者達の活躍によって、第二次世界大戦後の1948年、インドは共和国として独立を勝ち取った。

彼らと同年代を生き、詩人かつ思想家として多くの人に愛されたのが、ロビンドロナト・タゴールである。彼は1861年、ベンガル州カルカッタで祖父の代から有数の豪商であった名門タゴール家に、15人兄弟の末っ子としてうまれた。

タゴールには、文学者や政府の高官として、また音楽・絵画の方面で大成した才能溢れる兄や姉もいる中、生涯重度の精神的障害をもって暮らした兄弟もいた。タゴールは彼らを「もっとも純粋に生きている人」と思い、献身的に彼らの面倒を見た。

タゴールは生涯を通して「自然をも含めた万物への平等な愛」「民族主義」そして「他国の文化、宗教の積極的理解」を説くことになる。カルカッタ北西部のシャンティニケターンに私設の学園を建て、理念に基づいた教育を行い、自らもそれを実践した。自身はヒンドゥー教の熱心な信者でありながら、イスラムの指導者たちとも幾度となく交流を行い、日本人の岡倉天心とは仏教美術を通して深い交流があり、アインシュタインやドイツのハイゼルベルクら第一線で活躍する科学者らとも親交があった。彼はインドひいては世界における宗教間の憎悪の終焉を信じて活動した。

時は20世紀初頭、インドには英国からの独立の気運が強く高まりつつあったが、内部には宗教間、民族間の抗争が根深くあった。これらを融和に導くことが独立と平和への道のりであると信じた点では、ガンディーもタゴールも共通であり、ガンディーは非暴力不服従という精神的行動を通して、タゴールはその想いを詩に託した。

民族主義歌 第五 (インドのあらゆる差別をなくし、人類の共存を目指すインドの独立を確立するために、全てを受け入れる非排他的な民族主義運動を表した詩として有名)

ああ 私の心よ! 幸う聖なる岸辺で
静かに目覚めよ
この インドの 人類の
海の岸辺に
ここに立ち 両手を拡げ
人なる神を 私は拝む
私は 肝要な調べにあわせ この上もない喜びにみちて
この神を 敬う
深く瞑想に耽る この山々!
川なる数珠を持った大平原!
ここに見よ とこしえに きよらかな 
大地を!
このインドの 人類の
海の岸辺を!

誰の呼声にこたえて
いかに多くの人々の流れが
せきとめがたい 大流となって
どこから来て 海の中へ消えたのか
誰も知らない
ここには アーリヤ人 ここには非アーリヤ人
ここでは ドラヴィダ人 中国人
サカ族 フン族の群 パターン人に蒙古人が
一つの体に 融け合った
今 西方の門があいた
そこから すべてのものは 贈り物をもたらす
与え また受け
出あい 交ざりあい、帰っていかない
このインドの 人類の
海の岸辺に。

戦いの流れをあやつり 勝利の歌を歌い
狂おしいほどに 夢中になりながら
砂漠の道を 山々をこえ
やって来たものたち すべてが
私のうちに 現存し
誰も 遠くにはいないのだ
私の血管の中には かれらの とりどりの調べが
鳴り響け、鳴り響け
今もなお 憎みながら 遠くにあるものたちも
きずなを断ち切り来たり
このインドの 人類の
海の岸辺に 立ち並ぶだろう。
このインドの地に 昔
大きなオームの声が 休むこともなく
一なるものの のり言として 心の絃にどよめき 響いた
人々は 公卿の力 一なるものの 炎の中に
多を犠牲として捧げ 差異を忘れ
一つの大いなる心を 喚び起した
その修行の その勤行の
犠牲の党の扉が
今日 開かれている。
ここですべてのものが 頭を垂れ
相会すべきだ。
このインドの 人類の
海の岸辺に。

見よ! その護摩の火に 苦難の血の炎が今燃えている
それに耐えていかねばならぬ 骨の髄まで焼かれるべきだ
そう 運命に書かれている。
私の心よ 苦しみを担え
一なるものの 呼声を聞け
あらゆる恥と恐れに 打ち克て
侮りは 遠ざかれ!
耐え難い苦しみは終わりになり
この上ない 大いなる生命が誕生するだろう。
夜が終わりになり 母は目覚めた
大いなる巣の中で
このインドの 人類の
海の岸辺に。

来たれ アーリヤ人よ 来たれ 非アーリヤ人よ
ヒンドゥー教徒よ イスラム教徒よ!
来たれ 来たれ 今は英国人よ!
来たれ 来たれ キリスト教徒よ!
来たれ バラモンよ! 心を清くして
すべての人の手を取れ
来たれ 虐げられた人よ!
すべての侮辱のかせは とりはずされよ!
母の祭りに 急ぎ来たれ
すべての人に触れられ 浄められた
岸辺の水で
吉祥の水瓶が まだ満たされてないのだ
今 インドの人類の 海の岸辺に!


独立後の1950年に制定された国歌、jana gana manaは、タゴールの作詞・作曲による。民族の融和と国家の繁栄がその中に読まれている。

インドの朝(jana gana mana) 映像も素敵
Play!

もろ人の心を動かしたまう方よ、勝利あれ。
インドの運命の創造者よ!
パンジャーブ、シンド、グジャラート、
マラーター、ドラヴィダ、オリッサ、ベンガル、
ヴィンディヤ山脈、ヒマラヤ山脈、
ヤムナー河、ガンジス河、
たぎり立つ海の波涛。
すべては御身の吉祥なる名前により
喚び覚まされ、御身の吉祥なる祝福を請い願い
御身の勝利の歌をうたう。
もろ人に幸いを与えたまう方よ、
勝利あれ、インドの運命の創造者よ!
勝利あれ、勝利あれ、勝利あれ、
勝利、勝利、勝利、勝利あれ!

インド発祥の仏教とヒンドゥー教では、蓮を聖なる花として崇める。
マハーバーラタによると、世界が原初の海に覆われていた頃、ヴィシュヌ神は水上に身を横たえ、瞑想の至福に浸って眠っていた。そのヴィシュヌ神のへそからハスが伸びてきて花を開き、中から創造神ブラフマーが生まれ、世界は創造されたという。美と豊穣の女神ラクシュミーは蓮色の衣をまとい蓮の上に座す。仏教では蓮は極楽浄土に咲く花であり、如来像・菩薩像は蓮の上に立つ姿で表現される。



蓮に座すラクシュミー(真ん中)、右は障害を取り払い、商売・学問の神とされるガネーシャ。





蓮の上に立つ如来立像。



蓮は、泥沼の中から一寸の穢れもない花を開くその姿が尊しとされる。9億人がひしめき合う亜大陸の中に、様々な宗教、言語、人種、カースト、貧富、生死が混在するインド。その混在の中から蓮は、静かに茎を伸ばし、全てを包み込む手の平のように花を咲かせる。

敬虔な仏教国であるスリランカはネル・マーネルと呼ばれる睡蓮、タイも睡蓮、ベトナムは紅い蓮を国花とする。またタゴールの生まれ故郷であるバングラディッシュも熱帯睡蓮が国花である。



南アジアの国歌

アフガニスタン 英国保護領時代から、王国、共和制、共産主義国、内戦、タリバン政権、2001年アメリカの軍事行動によりタリバン政権崩壊という歴史的経緯があり、国歌も何度も改定されている。現行の歌詞には「アッラーは偉大なり」と国内の様々な部族名が含まれている。 Play!

インド(jana gana mana) Play!

スリランカ 1947年独立時制定。南国らしい伸びやかな民俗音楽。 Play!

ネパール Sayaun Thunga Phool Ka 何百もの花 王政が廃止された2007年に新しい国家が制定。民謡風のメロディーが独特。 Play!

パキスタン インドの伝統音楽と西洋音楽の両方を学んだアフメド・グラマリ・チャグラが作曲。東西の要素が混ざったちょっと不思議な旋律。 Play!

バングラディッシュ Amar Sonar Bangla 我が黄金のバングラ インドの国歌の作詞者でもあるラビンドラナート・タゴールはベンガル生まれ。そのタゴールの作詞。民族色豊かなメロディー。 Play!

ブータン 国民総幸福度が世界で一番の国として有名。踊りを伴う民謡をもとにしており、下記は無伴奏で歌われているバージョン。 Play!

モルディブ 1972年に旧宗主国のエリザベス女王を迎えるにあたって音楽家のアマラデヴァが作曲。 Play!







東南アジア編

約18000の島から成り立つ海洋国家のインドネシア。赤道を中心に南北1200キロキロ、東西3700キロにわたる広大な地域を占め、フタバガキ科を代表種とする熱帯雨林は世界最多の生物多様性を保持すると言われている。

そのインドネシアには、4つもの国花が定められている。

ジャスミンの一種であるメラティ
コチョウラン
オオスマトラこんにゃく
ラフレシア

インドネシアには、3000種のランが生息すると言われているがコチョウランもその1つ。日本では贈答用として建物の入り口などによく飾られ、比較的暗い場所でも長持ちするが、それは元来の生息地に関係がある。着生ランであるコチョウランは、熱帯雨林の苔むしている木々の枝や幹に種が落ち、発芽して成長する。分厚い樹冠に覆われたジャングルの中は、開けた耕作地や道路上に較べて驚くほど暗く、照度計によると直射日光の1〜2パーセント程の光しか入らない。つまりコチョウランは強い耐陰性を持っているのだ。鬱蒼とした熱帯雨林の中を歩いていると、僅かな木漏れ日の光を受けて、大樹の枝に着生して静かに花を咲かせている野生の蘭を見かけることがある。

ラフレシアは直径が1メートル近くにもなる世界最大の花として知られ、スマトラオオこんにゃくは体積が世界最大の花として知られている。



ラフレシアとスマトラオオこんにゃく



両者とも強烈な腐敗臭を出して昆虫をおびき寄せる虫媒花である。高度な確実性と特異性を兼ね備えた虫媒という送粉方法は、種子植物が多様な進化を遂げることを可能とした。被子植物の大部分は虫媒花であり、そのパートナーである昆虫の多様性は驚くほど高い。

世界には、優に100万種を越える昆虫がいると言われ、その半分にはまだ学名がついていないと言う。今でも世界では、年3000種を越える新種が発見され、記載されているが、そのほとんどは南米、アフリカ、そして東南アジアの熱帯雨林地域に集中している。特に世界第3位の大きさを持つボルネオ島では、2000年以降も続々と植物、昆虫、両生類等の新種が見つかっているが、その一部を垣間見てみよう。

体長が35.7センチにもなる、枝状の昆虫。(Phobaeticus chani)
青銅色の頭を持つ蛇(Dendrelaphis kopsteini)
特殊な水かきを持ち、ジャンプ以上の飛翔行為を見せるカエル(Rhacophorus penanorum)
体長約8センチの小型トカゲ(Lipinia inexpectata)
長い尾を持つナメクジ(Lbycus rachelae)
2007年以降だけで既に51種の新種が記載されているランの世界。

また2012年には、インドネシアのスラウェシ島で体長3センチを超える有毒のハチ(Megalara garuda)が新発見されている。

インドネシアの熱帯雨林は違う。さすがである。今後も学者の探究心が存在する限り、新種は次々に発見されるのではないだろうか。

インドネシアの国歌はIndonesia Rayaといい、Rayaは「大いなる」を意味する。国歌のみならずこの国の生物多様性がいつまでも人々を驚愕させるRayaなる存在であることを願わずにはいられない。



東南アジアの国歌

インドネシア Indonesia Raya 大いなるインドネシア 1928年インドネシア青年会議でワゲ・ルドルフ・スプラトマンが披露した自作の曲が、独立運動を鼓舞する愛唱歌となり、独立後は国歌として制定。インドネシアの画像が素敵。
Play!

カンボジア 政権交代に伴って何度も国歌が変わったが、1993年に古謡を基にしクメール語の保護に尽力したチュオン・ナットによる歌詞をつけたものが国歌として制定された。 Play!

シンガポール マレー語の歌詞 Play!

タイ 1932年に立憲革命時に制定。朝8時と夜6時の国旗掲揚時に演奏される。Tata Youngという女性シンガーが歌っています。 Play!

フィリピン Lupang Hinirang 選ばれし地 1898年スペインからの独立時に革命詩人のホセ・パルマがスペイン語の歌詞をつけて制定。その後アメリカの植民地となった時は英語の歌詞になったが、1956年以降はフィリピン語の歌詞で歌われている。フィリピン人のChariceという女性シンガーが歌っています。 Play!

ブルネイ Allah Peliharakan Sultan 神よ、国王陛下を護り賜え 1947年に日本軍の占領を離れて英国保護領に戻る。その最中、独立を願う若手グループのペンギラン・ハジ・モハマド・ユースフが作詞、アワング・ベサール・サガップが作曲。 Play!

ベトナム Tien Quan Ca  進軍歌 ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟に参加していたグエン・ヴァン・カオによる作詞、作曲。 Play!

マレーシア Negaraku もとはTerang bulan(明るい月)と呼ばれるラブソング。ペラ州の王が英国を訪れた際に、州歌があるかと問われ、即興でこのラブソングを歌ったことがきっかけでペラの州歌になり、後国歌となる。 Negaraku Play!

Terang Bulan 今は2つはだいぶ変わったメロディーのように聞こえますが、、。 Play!

ミャンマー アウン・サン・スーチーも参加していた「我らがビルマ党」のメンバー、サヤ・ティンの作詞・作曲。行進曲風でかつ、民謡の雰囲気もあります。 Play!

ラオス ポピュラーソングの作曲家トーンディー・スントーンウィチットが、1947年の独立戦争中に愛国的な歌を作詞、作曲。でも旋律はやわらかくて明るい。 Play!

オセアニアの国歌

オーストラリア Advance Australia Fair 1番だけじゃなく全部謳われているバージョン。 Play!
オーストラリア人は、開拓期のスピリットを歌ったWaltzing Matildaという曲も大好きである。 Play!

キリバス 日付変更線にまたいで位置し、世界で一番最初に日付が変わる国。小学生達が歌っています。 Play!

サモア Fa'a-Samoa: The Samoan Way NZの北東にある海洋国家。1962年NZからの独立時に制定 Play!
Anna Robertsonという歌姫がサッカーの試合で歌っています。 Play!

ソロモン フィジー生まれのパナパサ・バレカナは、戦後復興のために橋や道路の建設に貢献した牧師。彼が作詞作曲を手がけた賛美歌風の国歌。 Play!

ツバル 神のためのツバル Tuvalu mo te Atua 国民のほとんどがツバル教会に属している。国歌は賛美歌を思わせる。 Play!

トンガ E Otua Mafimafi 英国保護領下の1874年に初演された記録がある。トンガ語で国と国王を賛美する歌。 Play!

ナウル 1968年独立時に制定。リン鉱石が取れた時代は豊かな国だったが採掘されつくした今、経済は破綻状態。ナウル語で歌われています。 Play!

ニュージーランド God defend NewZealand Aotearoa 英語とマオリ語で歌われる国歌。NZの海、空、山の映像が素晴らしいです。ゆっくりした心に沁みる旋律。 Play!

バヌアツ Yumi Yumi Yumi 「You and Me」が変化したピジン語のYumiが国歌のタイトル。 Play!

パプア・ニューギニア O Araise, All you Sons 独立時にパプアニューギニア警察音楽隊長だったトマス・シャクレイディーによって作詞・作曲。学校では毎日斉唱され、子供たちが歌っている動画にありました。愛国心が伝わってきます。 Play!

パラオ Belau Rakid「我らがパラオ」 同国の作曲家、イメセイ・エゼキエルが作曲。どこか日本の童謡を思わせるメロディー。 Play!

フィジー Meda Dau Doka 神よフィジーを祝福したまえ 独立以前から知られていた「安息の地に住みて」という賛美歌を原曲とした国歌。 Play!

マーシャル諸島共和国 Forever Marshal Islands マーシャル諸島よとこしえに 初代大統領のアマタ・カブアによる作詞・作曲 合唱隊の人たちが歌っています。 Play!
素敵なボーカルさんによるバージョンも Play!

ミクロネシア連邦 ドイツ領時代にもたらされたと言われる、ドイツのチューリンゲン地方に伝わる民謡がもととなっている。 Play!

南緯13度50分、西経171度45分に位置するサモアは、2011年に日付変更線を自国の東側に置くことを定めた。これは輸出入が増加するオーストラリアやNZとの時差を少なくし、貿易をより効果的に行うためであり、こうして、サモアは世界で最も日の出が早い国の1つとなった。



南米、中米、北米編

サモアからさらに10000キロ東に進むと南アメリカに到達する。

その中で最大の面積と約2億人の人口を誇るブラジル。1500年に、ポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルが初めてポルト・セグーロの海岸に着いた時、国名の由来ともなるマメ科の巨木(Caesalpinia echinata)がこの地には無数に屹立していた。

この木は弾力性のある非常に優れた材になり、かつ紅色の染料を取ることができた。入植者達はこの色から、この木をPau-Brasil、ポルトガル語で「燃える木炭の木」と読んだ。この木はすぐにヨーロッパへの重要な輸出産物となり、宗主国であるボルトガルに莫大な利益をもたらすようになった。そしてその木の名称が、いつしかポルトガルが支配した領土自体の呼称となった。この木材貿易の利益を求めて、当時のブラジル沖にはヨーロッパ列強の海賊船が出回ったり、密輸が横行していたという。

Pau-Brasilの木が運び込まれた当時のヨーロッパは、ルネサンスの真っ只中。新しい芸術を生み出そうと流れの中で、絵の具は大いに需要があり、またベルベット等の高級繊維、中でもPau-Brasilから取れる紅色によって染められたそれは、大変人気になった。さらにPau-Brasilの材は、弦楽器の弓を作るための最高級品であった。

しかし、過度の伐採によって瞬く間にPau-Brasilの量は激減し、17世紀にはPau-Brasilによって支えられていたブラジルの貿易に変わって、内陸の鉱石採掘、サトウキビの栽培が発展していく。そして、1807年ブラジルに大事件が起こる。

フランスからヨーロッパ全土の勢力を伸ばしつつあったナポレオン・ボナパルトは、1802年にポルトガルのリスボンを陥落。マリア1世をはじめとするポルトガル宮廷の15,000人は、陥落2日前にリスボンを脱出し、はるばる大西洋を渡ってリオデジャネイロに辿りついた。

急遽、ポルトガルの亡命王室が敷かれることとなったリオデジャネイロには、劇場、宮廷、学校、図書館などが整備され、1815年にはポルトガル・ブラジル連合王国が成立し、スイスや中国からの移民・入植が奨励された。

リスボンを陥落させたフランス軍は1814年に敗北し、その後ポルトガルは政治的に不安定な時期が続いていた。1820年、民衆が自治を求める自由主義革命が起こり、ブラジルからジョアン6世を帰還させて立憲王国が成立。と同時にポルトガルは、ポルトガル・ブラジル連合王国を解消し、なんと再度ブラジルを植民地に降格させようと方針を固めた。

しかし、ブラジルに残留していた急進派のジョゼー・ボニファシオ、シプリアーノ・バラタ、ゴンサルヴェス・レドらはその方針に対抗して、本国へ帰還を求められていたペドロ王子にポルトガルからの独立を進言。彼はブラジル皇帝ペドロ1世として即位し、ポルトガル王立軍を破って、1822年9月7日にブラジル帝国は独立を宣言する。

独立後の1831年に制定された国歌は、初代皇帝のペドロ1世の作曲による。彼はフルート、 トロンボーン、 ハープシコード、ファゴット、ヴァイオリン、ギターの演奏に堪能であったと言われる。

ブラジル国歌 Hino Nacional Brasileiro
Play!



南米の国歌
数百年に亘るスペイン、ポルトガルの支配を受け、その後は軍事政権に翻弄された南米の国々。厳しい言論統制化で、音楽は秘密裏に情報を口伝する手段として大きな役割を果たした。国歌には独立の喜びと愛国心が歌われており、そこにラテン気質とサッカー王国の誇りが加わって、ワールドカップで歌われるときにはものすごい盛り上がりを見せる。

アルゼンチン 前奏だけで1分近くある長い国歌。独立戦争の最中に詩人かつ政治化のロペス・イ・プラネスによって作詞された。 Play!

ウルグアイ WCでみんなで大合唱。南米ってこうなのか、いいなー!! Play!

エクアドル 独立の要となった「ピチェンチャの戦い」が歌詞に読み込まれている。  Play!

ガイアナ 1966年の独立時に議会で承認された。 Play!

コロンビア ラファエル・ヌーニェス大統領が作詞。1920年制定。 Play!

スリナム 勇ましい行進曲 植民地時代のオランダ人が作詞作曲。 Play!

チリ 1818年独立後制定された国歌は、メロディーと歌詞が2回ほど変更され、1941年に正式に採用された。元気な行進曲。  Play!

パラグアイ 1811年、南米国歌の中でいち早く独立。オペラを思わせる壮大な国歌。 Play!

ブラジル 1808年、ナポレオンに攻められたポルトガルの中央政府はブラジルのリオデジャネイロに避難。1821年の国王帰国後ブラジルは再度植民地になりかけるが、ペドロ1世によって独立が宣言される。1831年に初演された国歌は、勇壮な行進曲風。サッカーの試合でサブリナ・マルヒロが歌っています。 Play!

ベネズエラ Gloria al Bravo Pueble スペインからの独立戦争の最中に生まれた。作詞者ビサンテ・サリナス、作曲者フアン・ホセ・ランダエタらは、独立の謀議に関わったとして処刑されている。勇者達によって作られた革命歌であろう。 Play!

ペルー 1821年スペインからの独立と同時に、独立解放運動の指導者ホセ・デ・サン・マルティン将軍によって公募がかけられて制定。独立の喜びを歌う勇壮な行進曲。 Play!

ボリビア スペインからの独立後、法律家かつ詩人であったホセ・イグナシオ・デ・サンヒネスが作詞。独立解放の英雄シモン・ボリーバルが歌詞に歌いこまれている。 Play!

中央アメリカの国歌  アンティグア・バーブーダ 1940年代に起こった労働運動がきっかきでアンティグア島が独立。その後バーブーダ島も独立し、歌詞に修正が加えられた。独立記念日のサッカー試合で歌われている画像。 Play!

エルサルバドル 軍人・外交官かつ詩人であったファン・ホセ・カーニャスの詩に、イタリアから移民してきた音楽家ファン・アベルレが曲をつけた。世界で一番長い国歌といわれる。 Play!

キューバ La Bayamesa バヤモの歌 スペインからの独立戦争は、裕福な農園主であったカルロス・マヌエル・デ・セスペデスが自分の農場で働いていた奴隷達に解放宣言をしたことから始まる。セスペデスの実家がバモヤであり、この町で闘争の準備が行われていたことにちなむ。 Play!

グアテマラ 作詞者はキューバ独立のために戦った後、グアテマラに移り住み国会図書館長などを勤めたホセ・ホアキン・パルマ。 Play!

グレナダ 世界的なナツメグの生産地として有名。1974年に英連邦の一員として独立し、その時に国歌が制定。 Play!

コスタリカ 1853年に米英使節団を迎えるときに国歌を演奏する必要に迫られ、軍音楽隊長であったマヌエル・マリア・グティエレスが大統領から命じられ作曲した。 Play!

ジャマイカ 牧師さんが作った歌詞 2013年のサッカーの大会にてRichie Stevensが熱唱。 Play!

セントクリストファー・ネイビス 作詞作曲したケンリック・ジョージズはポピュラー音楽の分野でも有名。 Play!

セントビンセント・グレナディーン 荘厳な立派な曲 Play!

セントルシア 作詞者チャールズ・ジェシーはイギリス生まれの神父で1928年にセントルシアに移住。女性ボーカルの声、素晴らしいです。 Play!

ドミニカ共和国 Quisqueyanos Valientes アメリカの軍事占領に激烈に反対した詩人プルドメの作詞。 Play!

ドミニカ国 うるわしの島 作曲したリミュエル・マクファーソン・クリスチャンは、ドミニカに初めて音楽学校を設立した。 Play!

トリニダード・トバゴ 1962年独立時制定。Keron Jamesという黒人シンガーが情熱的に歌ってます。 Play!

ニカラグア 国歌のメロディーはもとフランシスコ会修道士が伝えたといわれる。 Play!

ハイチ ジャン・ジャック・デサリーヌ率いる黒人開放運動によって1804年に独立した初の黒人国歌。1904年に独立百周年を記念して、新しい国歌が制定された。 Play!

パナマ 1902年にグランコロンビアから独立。翌年米穀大使を迎えてのセレモニーで国歌が必要となり、共和国音楽隊長のサントス・ホルヘが「地峡の歌」を作曲。 Play!

バハマ March on Bahamaland 同国の著名なミュージシャン、ティモシー・ギブソンによって作詞・作曲。素晴らしい国歌です。 Play!

バルバドス In Plenty and In time of Need カリプソのソングライター、アーヴィング・バーギーによる作曲。バーギーは、ジャマイカの労働歌であるバナナボートのアレンジを手がけたことで有名。 Play!
バナナボート Play!

ベリーズ Land of Free 自由の大地 作詞者のサミュエル・ヘインズは、宗主国のイギリスと闘い、また自国では人種差別に抵抗した黒人の兵士、かつ詩人。 Play!

メキシコ 1821年スペインから独立。イタリアで音楽を学び、軍音楽隊長となったハイメ・ヌノ作曲。勇ましい軍歌。 Play!

北アメリカの国歌 アメリカ The Star Spangled Banner 星条旗 オバマ大統領就任式でビヨンセが熱唱。 Play!

カナダ Oh, Canada 音楽分野で多岐にわたる活躍をしたキャリクサ・ラヴァレによる作曲。1980年、英国国歌に変わって、正式に国歌として制定。賛美歌風の荘厳な旋律。 Play!



再度、東アジアへ

ベーリング海峡を渡って、再度東アジアに戻ろう。

北朝鮮と韓国は、愛国歌(エーグッカ)という同じタイトルの国歌を持つ。両国は、米ソ冷戦に巻き込まれる形で1945年に北緯38度線を境に南北に分断された。そして1948年には、北ではソ連が金日成を擁立して朝鮮民主主義人民共和国という共産主義国が、南ではアメリカ主導の下選挙が実施され李承晩を初代大統領とする民主主義の大韓民国が成立した。1950年、アメリカの占領から韓国を救うというプロパガンダの元、北朝鮮は韓国を攻撃して、朝鮮戦争が勃発。ソ連、アメリカが後ろ盾となって兵士・武器を投入したこの戦争は3年に渡って200万人以上の犠牲者を出し、1953年に休戦という形で一旦は終結を見た。

その後北朝鮮は、金日成・金正日父子による独裁政治の下共産主義体制を確立していき、他方韓国は市場を開放して近代史上まれにみる経済発展を遂げ先進国の仲間入りを果たした。そして両国には、48年以来分断され会うことはおろか、手紙を送ることさえできない離散家族が1000万人以上いると言われている。

しかし、両国は同じハングルという文字を使い、一昔前はおいしいキムチの漬け方を習得することが大事な花嫁修業であり、焼肉、冷麺、朝鮮人参などの代表的な料理・食材があり、チマチョゴリという美しい民族衣装を着る。そして両国民とも、朝鮮民族としての誇りを持つ。

1991年、ソビエト連邦の崩壊とともに冷戦が終わり、両国は歩み寄りを見せ始めた。2000年に行われた金大中、盧武鉉による第1回南北首脳会談では、和解に向けての具体案が議論されたが、2007年に新たに就任した野党の李明博大統領は、北朝鮮の核疑惑問題等を理由に今までの方針を全て撤回。現在でも南北和解の目処は立っていない。

北朝鮮の愛国歌と韓国の愛国歌は全く異なる歌である。

韓国の愛国歌 作詞者:不明 作曲者:安益泰 
Play!
東海の水が枯れ
白頭山がすり減るまで
神は守り賜う
我が国よ、万歳

無窮花 三千里
麗しき山河
大韓人よ
大韓をとこしえに守らん

北朝鮮の愛国歌 作詞者:朴世永 作曲者:金元均  Play!
朝は輝け この大地
白金黄金の恵みあふれる
三千里の麗しき祖国
五千年の歴史の中で
光り輝く文化を育んだ
人民のこの栄光
身と心のすべて捧げん
朝鮮をとこしえに守らん

しかし、作詞者や歌詞の内容を見ると、2つは全く無関係ではないことがわかる。

韓国の愛国歌の作曲者、安益泰(アンイッテ)は、平壌生まれでウィーン留学中にこの曲を創作した。その曲は、1948年の独立記念式典で歌われた時より国歌と見なされるようになった。また歌詞の中には、両国民にとって霊峰である白頭山、古来より朝鮮半島で愛されてきた無窮花(ムクゲの花)が出てくる。

北朝鮮の愛国歌の作詞者は、詩人の朴世永(パクセヨン)であり、彼が作詞して有名になった歌にイムジン河(臨津江)がある。1957年イムジン河は、南北の分断を嘆き、北の豊かさを歌い、南の貧しさを哀れむ北朝鮮のプロパガンダ曲として作られた。これは在日朝鮮学校においても教育のために頻繁に歌われており、昭和30年代当時中学生だった松山猛が朝鮮学校の友人から教わり、その曲に感動した。松山はこの曲が作られた背景を知らず朝鮮民謡だと思ったという。後に松山猛はフォーク・クルセダーズを結成し、加藤和彦とともに曲・歌詞をアレンジして「イムジン河」を発表。しかし在日朝鮮人の団体から著作権に関してクレームが付き、イムジン河のCDの発売は中止となった。また韓国が、北朝鮮の歌が日本で有名になることを恐れ、圧力をかけたとも言われる。

冷戦終結後、在日北朝鮮人と在日韓国人の間の緊張も緩和し、イムジン河は2002年に初めて発売され、日本そして韓国でも広く知られる歌となった。松山のアレンジした歌詞、また韓国で歌われるようになったイムジン河の歌詞も、「北の豊かさを歌い、南の貧しさを哀れむ」という部分が、分断に対する想いを訴えるという内容に変わっている。

北朝鮮で作られた原曲イムジン河の歌詞
(1)
臨津江の清き水は
流れ流れて下り
水鳥たちは自由に
行き来して飛び交うが
わが故郷は南の地
行きたくとも行けないので
臨津江の流れよ
恨みをのせて流れるか

(2)
川向こうの葦原では
オオヨシキリだけが悲しく鳴き
やせた原野では
草の根を掘っているが
共同農場の穂が
波の上に踊るので
臨津江の流れを
分けることはできまい



日本で発売されたイムジン河の歌詞(作詞:朴世永・訳詞:松山猛)
(1)
イムジン河 水清く
とうとうと流る
水鳥自由に むらがり飛びかうよ
我が祖国 南の地
おもいははるか
イムジン河 水清く
とうとうと流る

北の大地から
南の空へ
飛びゆく鳥よ 自由の使者よ
だれが祖国を
二つにわけてしまったの
誰が祖国をわけてしまったの

(2)
イムジン河 空遠く
虹よかかっておくれ
河よ おもいを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも
忘れはしない
イムジン河 水清く
とうとうと流る

韓国で歌われるイムジン河の歌詞
北朝鮮の原曲の(2)の歌詞が変わっている。
(2)
臨津江の空高く
虹のかかる日
昔の友人が原野で
私の名前を呼ぶとき
私の心、故郷の姿が
思い出の中に消えても
臨津江の流れを
分けることはできまい

2005年に公開された映画「パッチギ!」は、中学時代の松山猛を主人公とした物語であり、彼が在日朝鮮人の人たちと一緒にイムジン河を歌うシーンが描かれている。

イムジン河 フォーク・クルセイダーズ Play!


白頭山と無窮花についても両国民は深い思い入れを持っている。



無窮花こと、ムクゲの花



無窮花は、東〜南アジア原産のアオイ科の低木で晩夏に白や薄紫色の五花弁を咲かせる。古くは9世紀末に新羅が自らを「槿花郷」(=むくげの国)と呼称しており、たくましく可憐に咲く花は朝鮮人の心の花であった。



白頭山 




白頭山は、北朝鮮と中国の国境、北緯41度、東経128度に位置する標高2744メートルの活火山である。松花江、鴨緑江・豆満江の源流部を胞し、山頂には天池と呼ばれるカルデラ湖があり、風光明媚なことで知られる。

高麗王朝の時代(918-1392年)に書かれた三国遺事によると、古朝鮮の時代には檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮3つの王朝があり、最古の檀君王朝の先祖は白頭山の火の神だったという。そのため、白頭山は朝鮮民族のルーツであり、古来からの霊峰であった。

南北分断後、韓国の人々にとって白頭山は遠くなった。しかし祖国の霊峰に対する想いは変わらず、今も中国吉林省経由で、多くの人が白頭山を訪れている。

北朝鮮でも韓国でも国歌は非常に大切にされる。公式の行事では必ず斉唱される他、両国とも国営放送の始まりと終わりに愛国歌が放送される。

こうした歴史的経緯を鑑みると、愛国歌には同胞民族の祖国統一への願いが込められているように思えてならない。いつか様々な困難を乗り越え祖国統一が成された暁には、2つの愛国歌が編曲され1つの愛国歌となる日が来るのではないだろうか。

国花を愛で、国歌を歌い、国家の平和と繁栄を願う。



東アジアの国歌

モンゴル 人民栄誉作家賞を受けたツェンディーン・ダムディンスレンによる作詞。どこか日本の民謡とも共通点を感じるメロディー Play!

大韓民国 平壌生まれの安益泰が作曲。1948年の独立記念式典で歌われて国歌として見なされるようになった。西洋風の中にもアジア的な要素が感じられるメロディー。 Play!

中国 義勇軍行進曲 元々は満州事変の時の抗日運動に赴く青年達を描いた「風雲児女」という映画のテーマソング。 Play!

朝鮮民主主義人民共和国 金日成指導の下に作られ1947年訂正。作詞者の朴世永は「イムジン河」を作ったことでも有名。勇壮でなかなか素敵な旋律。 Play!

日本 君が代 82回の選抜高校野球大会での野々村綾乃さんによる熱唱。高校生とは思えない美声。 Play!





このエッセイを書くにあたって、各国の国花をエクセルにまとめました。 国名、地域、国花、Family、Scientific name、Notesの項目があります。国花を複数持つ国もあります(ブラジル、ポルトガル、インドネシアなど)。国花のない砂漠の国もあります。興味ある方はお送りしますのでお知らせください。



参考資料
国花さくら 大都直光著 暁印書館 
世界の国旗と国歌 教科書問題を考える市民の会 岩波ブックレットNo. 189
世界の国歌ベストCD
国旗・国歌の常識 所功 東京堂出版
世界のCD付き国旗国歌 大泉書店
世界の国歌総覧(全楽譜付き) マイケル・ジェミーソン・ブリストウ編 別宮監訳 悠書館
三島由紀夫全集 菊花
小泉八雲 怪談奇談集 河出文庫 森亮他約
サラソウジュの木の下で インド植物物語 西岡直樹 平凡社
もうひとつのスーダン 日本人医師 川原尚行の挑戦 主婦の友社 文/川原尚行 写真・文/内藤順司
書物の王国植物 国書刊行会 
梅の文化誌 梅花女子大学日本文学科編集 和泉書院

バラいっぱいの庭 成美堂出版
砂漠とハイヒール 高柳和江 春秋社
イラン人はおもしろすぎる! エマミ・シュン・サラミ  光文社新書 
ラテンに学ぶ幸せな生き方 八木啓代 講談社プラスアルファ新書
幸福王国ブータンの知恵 アスペクトブータン取材班
アフリカに暮らして ガーナ、カメルーンの人と日常 多摩アフリカセンター 少年ケニアの友東京支部 春風社
タゴール 詩・思想・生涯 我妻和男 麗澤大学出版会
ぼくらの祖国 青山繁晴 扶桑社

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