富山のTさんにお誘いいただき参加した立山浄土山の山スキー。初めての冬の立山、天候もよく、色んな山スキーヤーやボーダーの滑りを見ることができ、夜は浄土山の上にある富山大学の施設に泊まらせていただき、とても楽しかった。また、例の如く、多くの迷惑をかけてしまったのであるが、、。
Tさんがヤマレコに載せてくれた記録
4月19日
東京発の夜行バスで富山に6時10分到着。3月22〜23日にも山スキーに来たので約1ヵ月ぶりである。バスを降りるとTさんが待っていてくれ、Wさんの運転する車で薄曇の中、立山駅へと出発。私は、後部座席に座り、街中の建物などを眺めて楽しむ。大和(Daiwa)なるデパートを発見。富山市内にある唯一のデパートだという。
三越、伊勢丹、大丸じゃなく、地方都市ならでは地元密着型のデパート、頑張ってほしい。
県道43号線を進み立山町に入り、芦峅寺、岩峅寺の集落を通過した。立山登拝の本拠地となった山岳宗教の集落である。昔、立山が女人禁制だった時代、女性はここまでしか登れなかった。しかし、明治時代以降女性にも開放され、いまや黒部アルペンルートは年間100万人近い人が訪れる富山随一の観光地。
標高475メートルの立山駅に到着したのは8時前で、ここで立山駅〜室堂往復のチケットを買う。ここはぼんやり薄曇であったが、ライブカメラを見ると弥陀ヶ原、室堂は雲の上で快晴の様子。今週はアルペンルートが開通して初めての週末ということもあって、中国、韓国、台湾、はたまた東南アジアからと思われるツアー客も多く駅構内は大賑わい。
私達のケーブルカーのチケットは8時40分発だったのでそれまで休憩所で、おしゃべり。外国人が話すおもしろ日本語のことが話題となる。何故「人一倍頑張る」(一倍なら何も変わらない)なのか。品川のことを「Where is a station with three boxes and three stripes?」と聞いた外国人。「わかりました」の代わりに「わかってます」と言い続け生意気だと思われていた留学生。言葉の勘違いはおもしろい。
満員のケーブルカーに乗り込み標高977メートルの美女平に到着。ここから50分間バスに乗って一気に2450メートルの室堂に向かう。アルペンルートが一部開通していた先週末、TさんとWさんは、弥陀ヶ原まで行って美女平まで山スキーで降りた。そのコースは、このアルペンルートの北側か南側をずっと滑走するコース、もしくは途中で道路を横断して降りるコースもあるという。両側に立派な杉の巨樹が生えている中、道路は徐々に標高を上げていく。標高2000メートル近い弥陀ヶ原を通過する頃には、雲の上に出て外には青空が広がった。よかった、天候は上々である。
今日宿泊するのは、室堂から目の前に見える浄土山山頂の富山大学立山施設。かなり昔から野外調査のベースとして使われてきたが、老朽化したため一時は取り壊すという意見が出た。しかし、登山の基地としてその施設を長年使っていた富山大学のワンゲル部の有志が、施設の存続を訴えて300万円の寄付を集めた。それに応じて大学側も意見を変更し、さらにお金を追加して補修工事を行い、2010年に施設は新しく生まれ変わった。補修費用には全体で3000万円近くかかったという。
室堂ターミナルに降りると空気は少しひんやりし、建物の中は美女平同様に大混雑。休憩所でスキーにシールを張ったりして、荷物を準備する。
「内田さん、今日、雄山に登りたいですか?」
とTさんに聞かれた。一ノ越からピッケルとアイゼンで登り、下りはTさんは山崎カールをスキーで降りるという。
「う〜〜ん。雄山には登りたいですが、そのカールはすごく急なんじゃないですか、、。この間の人形山の下りと較べてどうですか。」
私は夏に雄山に登ったときを思い出していた。確か社務所までの山道は相当急だったはずだ。
「人形山の下りと同じぐらいだと思います。滑り出しがちょっと急ですが。」
とのTさんの意見に、私は結論を出せずに困った。Wさんは
「いや、僕はまっすぐ浄土山に行きますよ。雄山は怖いですから。」
とのこと。どうしよう、行きたいような、、怖いような、、。
スキーヤーやボーダー向けに天候や雪の状態、注意等が書かれた黒板があり、内容を確認。去年の11月の立山での山スキーヤーの死亡事故以来、登山計画書の提出が必須となり、スタッフの人が山に入る人に直接呼びかけをするようになった。
建物の3階から外に出ると、サングラス無しでは目も開けられないほどまぶしかった。室堂周辺を散策している観光客も多いが、多くの山スキー、山ボーダー達も一ノ越しへ向けて登っていく。前回登った僧ヶ岳と人形山は終始Tさんと私の2人だけだったので、それに較べると大変な賑わいである。2400メートルの高さまで交通機関を使って来られるという利点はやはり大きい。
一の越までは標高差約250メートル。斜度も緩やかなのに、一歩一歩が辛いのは標高が高いせいだろうか。Tさんに遅れじと頑張ってついていき、ふと振り返ると、Wさんは遥か後方。一の越と浄土山の分岐に着くと、Wさんは
「じゃあ、僕はこのまま先に施設に行っていますね。」
とのこと。私はTさんについて一の越へ、そこから雄山に登ることを決めた。
Tさん曰く、この一の越直前の斜面が曲者だという。緩い斜面で後もう少しで到着のように思えるのだが、最後急に雪面がアイス状になり、今までせっかく登ってきた斜面を滑って逆戻り!ということが多発する。しかし今日は雪の状態がよく、2人とも逆戻りをせずに一の越に到着。
突如、打って変わって強風となった。私は目出帽をかぶり、Tさんは自作の皮製の鼻カバーをつける。Tさんがスキー板をザックに括りつけたので、私も同様にスキーをつけて登ることにしたが、もし斜面を滑るのが無理そうと思ったら夏道をアイゼンで降りてくることにした。失敗だったのは、アイゼンのひもの調整が中途半端だったことである。手袋でなかなか縛れず、装着するのに予想以上に手間取ってしまった。
スキーをつけたザックはずっしりと重い。その重みを背中に感じながら、アイゼンの前爪を効かせて雄山へ一歩一歩登る。夏に訪れたのは3年前だっただろうか。その時一緒に来てくれた同い年の友人は、事故で、今年の2月に亡くなった。彼女の冥福を祈りながら登る。
小一時間ほどで無事に社務所に到着。そこには10人近くの登山者、スキーヤー、ボーダーがいて、Tさんと私はザックを下ろし、お社のある雄山山頂に向かった。雪に埋もれた拝殿に手を合わせてお参り。西側には奥大日と大日岳が雲海の上に浮かぶように立っている。。南側には槍ヶ岳と後立山の山並み。ここから山崎カールとは逆の御前沢の斜面を滑る場合、大観望駅の北東側で稜線を越えて、タンボ平に出るという。
一人のボーダーのお兄ちゃんが、この拝殿の横から御前沢の斜面へ滑り出そうとしていた。拝殿はレンガ状の岩が積み重なった上にある。その岩に雪がついているが角度はほぼ水平で、滑走じゃなくて、それは滑落、、。はらはらしながら見守っていると、準備を整えた彼はふっと体を前方に出し、その3秒後ぐらいには御前沢の斜面に優雅にシュプールを描いていた。
ボーダーの兄ちゃん、すごい! まるでプロモーションビデオに出てくるプロボーダーみたい! あんなことができる人がいるのだなあと感動する。
何枚か写真を撮った後、私とTさんも拝殿から社務所まで降りて滑走の準備をする。以前は社務所の北側の手すりを越えて斜面に出られたのだが、増築されて建物の形が変わりそれができなくなっていた。そのため南側から斜面に出て、Tさんの後ろについて40メートルほど斜滑降する。
しかし、滑り出す地点に出たときに、私には既にかなりの恐怖心が心の中に芽生えていた。目の前には、奥大日、大日岳の雄大な姿が屹立し、カールの縁の外側は左右共にきれ落ちている。天気がよく展望が効くゆえに、足がすくんでしまった。
最初はゆっくり斜滑降で滑り、カールの端っこに来た時に、私はキックターンをしようとした。ところがその時にしりもちをついてしまい、そのまま体はザーッと滑り出してしまったのである。でもこの時は、ハイマツに手がひっかかる感じですぐに止まることができた。立ち上がる。また斜滑降で滑る。しかし、また端っこに到着してしまう。
「どうしよう、どうしよう!」
キックターンをするべきか、それともターンを試みるべきか。結論として、私は上手く方向転換することに失敗し、
またザザーッと滑り出してしまった。あああ〜〜と心の中で絶叫し、何回か体が上下逆になったりして、一体何十メートル滑っただろうか、ようやく斜度が緩くなり、私の体は停止した。
目を開くと雪面の白色が反射して眩しい。自分の心臓がこの上なく速く拍動しており、ザックを背負った体をゆっくりと起こす。よかった、どこも痛くない。Tさんはすぐ後を滑ってきてくれ、横に止まってくれた。
「すみません。大丈夫です。怪我はないです、、。」
「それはよかった、、、、。」
なんとか立ち上がり、近くに落ちてしまったサングラスをTさんに取ってもらい、私は彼の後をゆるゆると滑り出した。
2600メートル付近をトラバースするが、先ほど転がり落ちた恐怖心が抜けず、足元が覚束ない。しばらくして午前中に登った室堂〜一の越のルートに合流し、1430分ごろ浄土山へ向かって登り始める。なんだか体が重い、、やっぱり標高のせいだろうかと思いつつも、100を繰り返しカウントし、無事に稜線に到着。
目の前には、五色が原と薬師岳の雄大な姿が、手に取るように現れた。折立から薬師、五色が原を経由して室堂へ縦走するルート、いつか行ってみたい。
富山大学の施設はここからすぐそこで、私達の到着を心配したWさんが迎えに来てくれた。
Tさん「心配した?」
Wさん「はい、ちょっと遅いな〜と思って。でもヘリが飛んでる訳じゃないから、大丈夫かなと。」
私「実は、私が山崎カールでこけて、、雄山に登る前にもアイゼンはくのに手間取って、、。申し訳ありません。」
今日ここに泊まるのは、私達以外に富大ワンゲル部の学生が3人いるが、今はまだ御山谷のほうを滑りにいっているとのこと。
さすが2010年に改築が終わったばかり、施設はきれいで真新しい。でもまだ半分は雪に埋もれているので、窓から中にお邪魔すると、中は真っ暗、、かと思いきや、廊下には人が歩くと電源が入るフットライトがあった。
「すごい、、。とってもきれいな山小屋ですね、、。」
廊下の横には3つほど、色々な荷物をデポする部屋があり、その奥には玄関。そこを越えたところに寝る部屋が2つあった。泊まり慣れている2人は、手早く荷物部屋から石油ストーブを準備して、寝る部屋を暖め始めた。この施設を使うワンゲルの学生や、地球物理、雪氷学の講座の先生、学生さん等が、色んな物資を荷揚げしてくれるのだという。
床の上に銀マットをひいて、机を準備し、食材を並べる。Wさんが持ってきてくれたビールで乾杯し、Tさんが手作りの白海老の南蛮漬けを出してくれる。富山湾でしか取れない白海老。何故ゆでると赤ではなく白色になるのだろうか。
私は試作した昆布パンを2人に出す。焼きたてはやわらかくておいしかったのだが、今日の山行中に硬くなってしまったのがちょっと残念。
Tさんが用意してくれた今日の夕飯は鶏肉とキャベツと菜の花のお鍋だった。体が温まってとてもおいしい。
後日、Wikiで検索したところによると、一般的な海老や蟹がゆでると赤くなるのは、アスタキサンチンという色素がたんぱく質の熱変性ととも分離されるからである。白海老は、海老といえども、分類学的に大分異なる。大きさ的によく似たサクラエビは、メスが抱卵せず受精卵を海中に放つクルマエビ亜目(根鰓亜目)に属するのに対し、白海老はメスが卵を腹肢に付着させて保護するエビ亜目(抱卵亜目)に属する。
Tさんは、夏になると自転車での活動が多くなる。
「夏、乗鞍に行かない?」
といわれ、それは乗鞍の麓から登るかと思ったら、富山市北部にある岩瀬浜から標高2400メートルの畳平まで自転車で行って剣が峰まで登って、また富山まで帰るというコースを意味していた。もちろん日帰りである。
「標高差2400メートル、往復200キロですか、、。う〜ん、ちょっと厳しそうですね、、。」
もう少しきつくないコースであれば、頑張ってついていけるかも知れないが、、。
Tさんの山友達で金沢のやすひろさん(ドクター早川)は、Tさん曰く
「僕よりずっと山スキーが上手です。」
とのこと。槍ヶ岳の西面や剣岳の頂上から滑走するという。また身長はTさんと同じで10キロ体重が少ないというから、かなりの細身である。お話はよく聞くが、どのような先生なのだろうか。
夕方5時半を過ぎて、ワンゲル部の学生3人がようやく小屋に戻ってきた。窓から入ってくる音がして、その後大きな荷物を背負って私達のいる部屋に入ってきた。
「お邪魔します。」
と頭を下げる礼儀正しさの中に、現役大学生らしい若々しさがある。私達と彼らはお互いに自己紹介し、机を2つ並べての歓談が始まった。
Tさん「御山谷のほうはどうでしたか?」
学生「今日は2200メートルぐらいまで滑って登り返して来ました。明日は雷鳥沢のほうを降りようと思います。」
彼らの夕飯は私達と同じく鍋であったが、野菜の量が2倍近くある。炊くお米の量や食べる様子なども勢いがあって、私達は
「いいね〜。若いって。」
と何度も口にしてしまう。
ワンゲル部は、今2年目と3年目で25人いて、女性は3人。1年目を一生懸命勧誘中だという。今日の3人は山スキーの熟練者らしく、GWは室堂から槍ヶ岳縦走、5月最後には富士山滑走を予定している。3人の出身は、名古屋、大阪、富山で、やはり富大は西日本出身者が多いらしい。年間に山に登る日数は100日ほど。「そんなに登っていて勉学は大丈夫ですか?」と聞くとぼちぼち頑張っていますとのこと。私は笑いながら、北大の山スキー部はとても留年率が高かったという話をした。
彼らが予定している山スキーでのツアー内容を聞いてみるとすごい。一日目で室堂から真砂沢、二日目に長次郎谷を登って平蔵谷を降りて剣沢泊、そして3日目に室堂へ帰る。毎週立山に来ることができる富山大学のワンゲル部はかなりハイレベルである。Tさんの週末もすごい。早月尾根を登って平蔵谷を降りて真砂沢泊、2日目に同行程を戻る。鞍馬天狗ならぬ立山天狗である。
彼らの夕飯が終わったときに、私は携行食として持ってきたケーキをおすそ分けした。数の都合上、人参味のを1つ、チョコナッツ味を2つである。
「いいんですか? ありがとうございますっ!」
と彼等は丁寧にお礼を言い、その後なんと、どちらの味を取るかで3人でじゃんけんを始めたのである。
「やった勝った。じゃあ、チョコ!」
「じゃ、俺人参!」
なんと愛らしいのだろう! こんなに現役大学生ってかわいいの?! と、私はどきどきしてしまった。若者がかわいくて仕方ないというのは、自分がおばさんになりつつある証拠だろう。
Tさん、Wさん、私で視力の話になり、コンタクトの話になる。Tさんは自転車のレースの時だけワンデーをつける。Wさんは以前コンタクトを使っていたが面倒くさくなって止めてしまった。私はコンタクトの会社の安全管理部門に勤めているが故に、その危険性に日々遭遇しているという話。
Wさんがいう。
「以前、大分前だと思うんですけど、全く同じレンズに違う名称をつけて、ワンデーと2ウィークのレンズとして売っていた会社があって、裁判沙汰になりましたよ。」
「本当ですか? 最悪ですね〜、その会社。」
後日知ったが、その会社とは、なんと私が今勤めている会社であった。20年以上前のことで、もう時効かも知れないが、何を血迷ってそんなことをしたのだろうか。
当時の事件
明日は天候を見て、悪ければここ付近の斜面を滑り、よければ予定通り、東一の越、タンボ平経由、黒部平もしくは黒部湖まで滑る。Tさんは、黒部湖までは山スキーで降りたことがないので、行ってみたいとのこと。Wさんは「でも黒部平から下って樹林帯じゃないですか。滑るの楽しいかな。」とやや消極的。私は行ったことがないのでわからないが、黒部湖の黒四ロッジから、黒部湖までの湖畔歩きがけっこう時間がかかるのではないかと思う。
まだ施設の中のトイレが使用可能となっていないので、寝る前にタイミングを見計らって外にトイレに行った。体が引き締まる寒さの中、月光が周囲の山々の稜線を、儚く浮かび上がらせる。8時ごろ就寝。
4月20日
朝5時30頃に起床。外は見事な青空で、雄山、奥大日と大日岳、薬師岳と五色が原方面、どちらを向いても絵になるほど素晴らしい。予定通り、東一の越を経由してタンボ平を滑ろうということになった。
朝ごはんは各自で、Wさんと私はラーメン、Tさんはかぼちゃスープとパン。Tさんが富山市内のドンクで買ったという昆布パンを少しいただく。白パンの中に、細切り塩昆布がたくさん入っており、私の試作品より遥かにやわらくておいしい。昆布パン、まだまだ改良の余地がありそうである。
荷物をまとめて、ワンゲル部の3人に挨拶して、出発。ここから龍王岳は目の前で、鞍部までスキーで滑った後、Tさんと私はアイゼン、ピッケルを持ち、空身で頂上に向かう。標高差50メートルを20分ほどで登ると、頂上からは遮るもののない素晴らしい展望があった。五色が原と薬師岳、その稜線の遥か遠方に槍ヶ岳。これが昨日ワンゲルの3人がGWに予定しているルートで、ずっと標高の高いところを行くことから、日本のオート(フランス語で高い)ルートと呼ばれる。
「槍ヶ岳の飛騨沢の滑走を一度やってみたいんですよね。」
とTさんは言う。私は思い出した。以前GWに槍ヶ岳に登った時、スキーをはいた人が、槍ヶ岳山荘の横からその斜面にふわりと姿を消して滑って行ったことを。人間業とは思えなかったが、それにTさんは挑戦してみたいのだなあ、、、と思う。
鞍部まで戻り、3人で滑走開始。と書くと格好いいが、私は昨日の出来事がまだ根深く心の中に残っており、安全策をとってずるずるずると横滑り。朝が早いからだろうか、雪面が堅く、前に滑った人のシュプールがわだちのようになって固まっている。怖い、、。端っこに来てキックターンし、またゆっくりと横滑り。2人はそんな私を前後で見守ってくれ、無事に夏道に合流。ここからトラバースを開始して、東一の越へと向かう。
このトラバースが長かった、、。直線距離で約1.5キロ。左側は雄山山頂に突き上げる急斜面で、右側は遥か下方の谷底に切れ落ちている。斜めにバランスを保ちながら、ゆるゆると進み、途中にあった大きな岩場で一休み。この後は雪面と岩場が繰り返しになりそうだったので、私はここでスキーをザックにつけてアイゼンをはいた。Tさんはスキーでトラバースを続ける。Wさんはツボ足で歩き始めたが、やっぱり不安定とのことで途中でスキーに切り替える。私にとっては、スピードはゆっくりだけれども、アイゼンのほうがずっと安定感と安心感があって、無事に東一の越に到着!
「峠を越す」とはこういうことか、、と実感した。ここで、ひやひやするようなトラバースはきれいさっぱり終わり、目の前には巨大なスプーンですくったようなカール地形のタンボ平が現れた。
「あそこが黒部平の駅ですよ。」
とTさんが指す方向に小さな建物があり、そしてそこから大観峰駅に向かって伸びているロープウェイのワイヤーが見える。
「よかった〜。後はあそこまで降りるだけだ!」
と私はほっとした。
タンボ平の中央には、3本の雪崩の跡とデブリが見える。
「あそこがやっかいそうですね、、。でもゆっくり行けば大丈夫でしょう。」
ここからの雄山は、室堂や浄土山からの見え方とは異なりおもしろい。また後ろを振り向くと今朝登った龍王岳が見える。しばし休んでいると、どこからか「グエー、グエッ、ゲッ」という雷鳥の声がした。あたりを見渡すと、左側の雪面から鳴き声の主と思われる雷鳥がパッと飛び上がり、私達の目の前を通り抜けて、太っちょの体で40メートルほど飛翔した。雷鳥にしてはかなりの頑張り方である。
やはりここの斜面も、昨日か一昨日の先行者のシュプールが、がりがりに凍っておりとても滑りづらかった。私は何度も何度もこけて、ようやく斜面が緩やかになってターンができるようになってきた頃に、デブリの箇所についた。東一の越から見たときは、デブリの雪塊は雪合戦に使うぐらいの大きさかと思ったが、まじかで見ると神社仏閣にある力石ぐらいに大きい。
Tさん、Wさんはスキーのまま頑張って越えるという。私はとても出来なさそうだと思い、デブリの下まで滑って、その後ツボ足で、滑走跡のある斜面まで登り返した。黒部平駅はもうまじかである。うれしいが、下山してしまうのも寂しい。何度も休憩しながら、今滑ってきた東一の越を振り返る。最後の方はなかなか足で踏ん張ることができず、緩傾斜でも転びまくりだったが、無事に黒部平駅の下部に到着。2人に感謝! ここから標高差20メートルほどの坂をツボ足で登り、駅の入口に向かう。
坂を登りきって、驚いた。そこは黒部平駅に降り立った観光客の写真スポットとなっており、皆が雄山を背景に大きな雷鳥のぬいぐるみをもって写真を撮るために、長蛇の列を成して並んでいたのである。色んなツアー会社の添乗員が持つ旗がはためき、日本語以外の話し声も賑やかに耳に入ってくる。手の裏を返したような山から下界への変貌振りに、気持ちが付いていかない、、。しかし美女平や室堂の混雑を考えれば、ここもツアー客で一杯なのは当然なのだ。
Tさんが黒部平から室堂までのチケットを購入。次のロープウェイまで30分ほどの待ち時間があったので、私は店内においてあった立山昔話という絵本を手に取ってみた。
「立山が厳しく女人禁制だった時代、ある尼さんが登拝を祈願し、男勝りの女性とおかっぱ頭の少女を連れて、旅に出た。ところが、立山は彼女らの行く手を次々に阻む。芦峅寺を越えて登っていくと、神社の修繕に使うための木材置き場があった。彼女らがそこを越えると、木材は石になってしまった。さらに山道を登り、見晴らしの利く平らなところに出た。3人が休息を取ったこの場所が後、美女平と呼ばれるようになったが、ここを過ぎると男勝りの女性が突如、石となってしまった。それでも尼さんはおかっぱ頭の少女を鼓舞して登っていく。○○を過ぎると少女も石になってしまい、その先でついに尼さんも石になった。固まる直前に、渾身の力を振り絞って立山の頂に向かって投げた手持ち鏡が、鏡岩になった。」
立山、なんと恐ろしい山なのだろうか!
とここまで読んだときに、後ろからWさんに肩を叩かれ、
「Tさんがビールで乾杯しようっていってます。」
と声をかけてくれた。
お土産売り場の端に3人で集まり、手渡されたのは「立山地ビール 星の空」。富山県立大学で発見された酵母を使った地ビールだという。酵母の味が濃厚な無濾過のビールでとてもおいしい。でも品質管理が難しいようで、飲むときと場所によって味が違うという。
「今日のはおいしいですね。」
「うん、そうだね。」
と2人は利き酒をする。
とその時、戦国時代の兜や鎧を身に付けた一行がお土産売り場を通り抜けていった。その一人に何のお祭りか尋ねてみると、信濃大町主催、ザラ峠越えをした佐々成政に扮してアルペンルート開通をお祝いするお祭りだという。
信長が越前国を制定した後、佐々成政は越前国の大名となった柴田勝家の与力として仕えた。後、上杉家に対して攻防を行い、1581年に越中半国を与えられ、富山城の大規模な改修に着手した。
本能寺の変後、表面化した羽柴秀吉と柴田勝家の信長の後継争いでは柴田方についたが、勝家は賤ヶ岳の戦いにて自刃。佐々成政は、浜松にいた徳川家康に、信長の次男信雄を当主として織田家再興を目指すよう進言すべく、厳冬期の北アルプスはザラ峠を越えた。今でも厳しい立山連峰を冬に踏破したことは驚嘆に値するが、家康ひいては信雄の説得に失敗する。
以後富山の役で、成政は秀吉に降伏し、御伽衆(政治、軍事の相談役)として大阪に住み、後肥後一国を与えられる。ところが性急に太閤検地を行おうとした結果、大規模な肥後国人一揆が起こり、それを鎮圧できなかったことを咎められ、1588年、摂津尼崎法園寺にて切腹し53歳の生涯を終えた。
戦国時代には、織田家、豊臣家、徳川家のいづれに付くかで、大名は揺れ動いた。佐々成政も越前、越中という覇権争いの火花が散った土地で、命運をかけて戦に明け暮れた武将の1人だったのだ。
「お昼どうしますか。っていうのは下山してどこかに食べにいってもいいし、残っている行動食を食べてもいいし。」
とTさんが尋ねる。
「お昼ですか、。どっちでも大丈夫です。でもなんか富山っぽいものが食べられたらうれしいです。そうだ!富山ブラックのラーメンを食べにいくのはどうですか?」
都内でも時々見かける富山ブラックのラーメンが、私は以前から気になっていた。
「どこのお店がいいだろう、、。駅前の○○は、しょうゆ味が濃すぎるんですよね。」
そんな話をしながら、大観峰へ向かうロープウェイに乗車。中は、相変わらずの満員御礼状態である。
大観峰駅では、スキーを持ってスキー靴でガシャガシャと構内を歩いてトロリーバスに乗り換え、15分ほどで室堂に到着。Tさんは私がいるので、雪の大谷を歩きに行きましょうと誘ってくださる。
多くの見学者に混ざって巨大な雪壁にはさまれた道路を歩く。室堂から200メートルほど離れた地点が雪壁の高さが最高となる場所で、今年は15メートルだが、去年は18メートル積もったという。毎年5月一杯は立山で山スキーができ、6月半ばには初夏を迎えて雪壁は溶けてしまう。そして暑く短い夏が過ぎると、また立山には冬が来る。一体どれだけの積雪量なのだろうか。
Tさんは特別研究員としてアメリカに滞在していたときの話をしてくれた。ロッキー山脈の近くに滞在していたので、何度か山にいく機会があった。スキーのできる山も多くあったが、研究目的の渡航ということもあって山スキーの道具を持っていかなかったのが悔やまれる。最高峰のマウント・ウィットニー(4421メートル)は、標高差2000メートルを日帰りで登るコースがある。かなりの健脚者でも難しく成功率は2割程とのこと。
室堂に戻り、またもや並んで、13時過ぎに美女平行きのバスに乗車。ザックを膝の上に抱えながら、右に左に蛇行するバスの窓から弥陀ヶ原の風景を眺める。どちらを向いても一面の雪、雪、ゆき、、。心地よい温かさとバスの振動でぐっすり寝て、気付くと美女平駅に到着。
時刻は2時過ぎ。山スキーを終えて黒部平駅に到着したのは10時過ぎだったのに、黒部アルペンルートはなんと時間がかかるのだろうか、、。構内のベンチに座ってTさんがザックから出してくれた干し柿を3人で食べる。渋柿を干すことで水溶性だったタンニンが不溶性となって固まり、食べられるようになる。糖度自体は渋柿のほうが甘柿より高いので、甘柿で干し柿を作っても、渋柿の干し柿ほどは甘くならないのだとか。
ここからケーブルカーに乗って立山駅へ。途中、窓の外に材木石という看板があって私ははっとした。黒部平の駅で読んだ立山昔話にのっていた、3人の女性が禁則を犯して立山に登ろうとしたとき、材木が石に変わったと言う場所がここらしい。どういう結晶構造をしているのだろうか、確かに材木のように長方体の形をしている。
3時前にやっと到着した美女平はちょうど桜が満開だった。やわらかい陽光が春の喜びに溢れている。ああ、今朝は2700メートルの雪の世界の中にいたのに。無事に降りてこられてよかったと、改めてTさんとWさんに感謝する。
スキー靴から町歩きようの草履に履き替え、荷物を車の中に積み込む。私は東京に送るスキー袋の中にスキーのみならずシュラフやダウンなども詰め込んだ。これで大分荷物が軽くなったはずである。
この後、Tさんが立山から下山後によく行く森の雫という温泉に向かうが、「都合により本日休業」との札が玄関にかかっていた。
「また、お休みだ、、。せっかく回数券買ったのに。払い戻ししてもらおうかな。」
とTさんが思ってしまうほどここはよく休むらしい。代わりに数キロ離れた国民宿舎白樺ハイツへ。
アルペンルートにはあれだけ観光客がいたのに、彼等の大半はバスツアーの客であるため、立山駅到着後は大型観光バスに乗って別の目的地に直行する。そのため近くの温泉に来る人はまれで、ここも施設は大きくて立派ながら、浴場にいたのは終始自分を含めて2〜3人ほどだった。
お風呂上がりのTさんは、2013年に行われた第1回立山アルペンクライムヒルのTシャツを着ていた。
「今回行った美女平から室堂までを自転車で走るコースで、去年が初めての開催だったんですよ。でもエントリーが5万円と高くてね。」
「えっ!」
東京マラソンが1万円、トライアスロンのレースでも2〜3万なのに何故そんなに高いのだろうか。
「美女平までのアクセス方法が問題になったんですよ。アルペンルートへの観光客も来るから、レース参加者の車で駐車場が一杯になっても困る。また普通の自転車レースだと頂上から個々人が自転車で下るんですが、室堂には観光客のバスが行き来するからそれは無理だろうってことになって。」
それらの問題を解決するために、レース前日に参加者全員は立山国際ホテルに宿泊。翌日参加者と自転車をバスで美女平に搬送。一般観光客が乗る美女平始発のバスが9時なので、レースはそれとかち合わないように朝6時スタート。ゴールの室堂から下る時もバスで参加者と自転車を搬送、という方法が取られた。全ての費用が混みこみで5万円。しかし参加者は100名。自転車はマラソンよりスペースをとるので仕方がないが、100名では地元への経済的効果は大きくは望めない。
「でもやっぱりエントリー代が高いという意見はあって、地元の自転車競技会の人等が協議して、今年からは3万円になったんですよ。」
それでも3万円か、と思う。しかし普段は走れないところを走行できるのは、サイクリストにとって特別なのだろう。
この後、途中で、道路沿いに生えているフキノトウを取るために、少しの間車を降りた。雪が溶けた地面からは、雪下で春を待ちかねていたオオイタドリや様々な植物の新芽に混ざって、フキノトウも顔を出し始めている。数年前にGWに新潟の山に行ったときに小出駅近くの公園で採取したとき以来である。3人で20個ほどを取り集める。
この後、私は2人にお願いして立山博物館に立ち寄ってもらった。明治時代に剣岳山頂で発見された錫杖と宝剣が展示されており、一度訪ねてみたかったのである。
3階まで上がってそこから見学するようになっており、最上階は立山の自然の展示。丹念に作られたジオラマの中に立山で見られる動植物が存在している。立山の噴火による火山灰で形成された富山平野は保水力が低く、耕作には適さない土地だった。立山の地質図があったが、これはどう作るのだろうか。森林に覆われているエリアの岩石はどの程度の精度で採取することが可能なのだろうか。
2階は山岳信仰の展示だった。剣岳山頂で発見された錫杖と宝剣は奈良時代製作と言われているが、剣岳に登った修験者が奈良時代に登攀したとは限らない。立山信仰は曼荼羅を使って絵解きで布教されたが、芦峅寺と岩峅寺ではその曼荼羅が少し異なる。立山に登ることができなかった女性に御利益を授ける布橋灌頂会。血の穢れゆえに地獄に落ちる女性を救う血盆経の教え。中語と呼ばれた、立山登拝を案内する先達の存在。
とても興味深かった。あまり多くの観光客が訪れる博物館ではなさそうだったが、内容はとても充実していた。
富山市内へと向かい、やっと6時頃に富山ブラックラーメンの有名店、大喜というお店に入店。黒部平でラーメンを食べに行きましょう!と決めてから、はや7時間近くが経過していた。
終戦直後に開業したこのお店は、当時の肉体労働者が喜ぶラーメンをという信念の元、濃い醤油味のラーメンを作り続けてきた。メニューは中華そばの大、中、小とシンプルで、しばらく待ってねじり鉢巻のおじさんが運んできてくれたラーメンの色は驚くほど真っ黒。味も色にたがわず、濃い醤油味。塩分を控える必要のある人は、とても食べられないラーメンであるが、山帰りの身にとってはおいしい。昭和の時代、汗をかく労働者の人たちには身にしみる味だったのだろうか、と想う。
この後Wさんは、私とTさんを公務員宿舎に下ろして、自分は一度車を置きに家に戻って自転車でまた来ますといって帰っていった。その間、Tさんと私は夕飯の買い物に出かけた。
今日向かったところは、有沢橋を渡らずに県道56号線を南下したところにあるバローというスーパー。大きな駐車場を持つ郊外型店舗で、ちょうど夕方の買い物の時間帯。私は前回と同じように、何か富山っぽいものがないかと見て回る。
富山ではブリは大きさによって、ツバイソ → コズクラ → フクラギ → ガンド → ガンドブリ → ブリと呼び名が変わる。おもしろいことに、鮮魚売り場にはフクラギとガンドブリの両方が売られていた。私はある時期には特定の大きさのブリしか取れないのかと思っていたのだが、どうも違うらしい。
お惣菜コーナーで、「レバーときんかんの煮物」なるものがあった。富山ではレバーと金柑を一緒に煮る風習があるの?と驚き購入したが、このきんかんは鶏が卵として生む前の卵黄のことであった。
Tさんの社宅に帰ってしばらくすると、Wさんが自転車で到着。Tさん手作りのエノキだけ、カボチャ、卵のサラダ、角煮、スーパーで買ってきた刺身などを机に並べて、ビールで乾杯。
Wさんは中、高は吹奏楽部で、大学ではオーケストラ部でトロンボーンを弾いていたという。
「トロンボーンって言うのはもともとオーケストラのための楽器じゃなかったんですよ。人の音域に近い楽器だったので長いこと教会で歌う音楽の伴奏として使われていたんです。」
それがベートーベンの時代よりオーケストラの中にも取り入れられるようになったが、主旋律を担う楽器に比べるとやっぱり出番は遥かに少ない。曲によっては最初の400小節、ずっと休みというものもあるという。
「コンサートをやるときに、売りさばかないといけないチケットのノルマがあるんですが、それを譜割りにしようっていう話がでたんですよ。例えばバイオリンとトロンボーンじゃ、出番にあまりに差があるので。」
という話も頷ける。
そんなトロンボーン初め金管楽器が主役となる曲がある。それはラヴェルのボレロだという。
Tさんが作った角煮は、味が滲みこんでいてとてもおいしい。スペアリブを圧力鍋を使って煮込んだという。
「うちは圧力鍋が2つあるんです。男性の単身赴任でそれは珍しいですよね。」
とTさん。確かに一般家庭でも圧力鍋2つはまれだろう、、と驚いていると、Tさんは
「今日採ってきたフキノトウを食べましょう。」
と今度は温度計つきの天ぷら鍋を用意し始めた。机においたガスコンロの上で油を180度に熱し、衣をつけてフキノトウの天ぷらの揚げたてをいただく。サクサクした食感の中に、少し苦味がかった春の香が感じられる。Tさんすごい、お料理教授だ!
Tさんは、年に15回ほど山スキーに行く。その記録や写真でパソコンで見せてくれる。
「行った山行はほとんど山レコに載せるんですが、登山口が見つからず時間が足りなくなって登らなかったとか、そういう失敗が僕でも時々あるんですよ。」
とのこと。また今日取った写真や動画を3人で見た。私がよくこけるのは重心が後ろに行ってしまっているからとの指摘。すぐには直らないかも知れないが、頑張って精進しようと思う。
あっという間に時間が経ち、お暇する時間になった。前回はタクシーに乗ったがそれが予想外に高かったので、今日は路面電車に乗って富山駅まで行くことにした。Tさんが宿舎の敷地の入口のところまで送ってくださる。今回もとんでもなく迷惑をかけてしまいすみません。でもまた一緒に山行ご一緒できることを楽しみにしています、とお礼。
ちょうど宿舎から1キロ歩いたところで、路面電車の広貫堂停留所についた。数分待つとかわいらしい一両車両が、チンチンと音を鳴らして到着し、10分ほど乗車して富山駅南口に到着。次にくるのはいつかなあと思いながら、高速バスに乗り込んだ。