九州、祖母山と比叡山の旅 2013年10月11〜14日


10月11日
仕事を終えた後、羽田空港から大分へ。駅前のホテルで宿泊。
10月12日
立花さんが迎えに来てくださり、祖母山の登山口の尾平まで移動。祖母山九合目小屋にて宿泊。
10月13日
祖母山下山。日ノ陰温泉に入った後、宮崎県の比叡山に移動。白河さんや他のクライマーの方々と合流し、庵にて宿泊。
10月14日
比叡山の簡単なルートをクライミング。その後阿蘇を経由して北上し日田で立花さんとはお別れ。夜は筑紫野市の白河さん家泊。
10月15日
朝一の福岡ー羽田の飛行機で帰東。

今回の九州旅行では立花さん、白河さんという2人の山友にこの上なくお世話になってしまった。

立花さんは神田山の会の先輩、かつ2年前から一緒に習い始めた空手仲間であり、オペラや太極拳にも造詣が深く、一生勉強一生青春を地で行く、心から尊敬する女性である。2013年春に練馬から旦那さんの実家である田川に引っ越して、田舎暮らしの楽しみ方を模索中である。

白河さんは2003年にボルネオ島のキナバル山登山で出会った以来の中で、還暦を目前に迎えつつも体力の衰えを知らず、去年一昨年とマッターホルンの北稜、南稜を登頂しているスーパーおじさんである。仕事は庭師で、太宰府天満宮がある筑紫野市に在住。

その二人に再会できるのを楽しみに、10月11日金曜日仕事を終えた後、羽田から大分発の飛行機に乗った。

1時間半のフライトを経て到着した大分空港は市内からバスで1時間も離れていた。途中賑やかな別府温泉の街中を通り、大分駅に到着したのは9時過ぎ。すきっぱらで食べた大分名物鳥てん(鳥の唐揚げではなく天ぷらで、ポン酢をつけて食べる)の定食はとてもおいしかった。

10月12日
翌朝は6時に起きて、お散歩がてら大分城を見学。よく城址が市役所の敷地になっているところがあるが、大分城もその一つで、お堀の一部がよく残っている。

早朝に田川を出発した立花さんが7時50分にホテル前に迎えに来てくれた。2月に九州に引っ越して以来、立花さんは視力が一気に衰えた。また、白内障も進み手術を予定しているという。
「九州は東京に較べて紫外線が強いから、それで目が悪くなったみたいで。朝とか夕方とか日が射すと本当に見えないんだよね。」
といいながら立花さんはハンドルを握る。こんな時に
「運転変わりますよ!」
と申し出ることができればいいのだが、私は2回もゴールドで免許更新してしまったペーパードライバー。かくしてゆっくり安全運転で祖母山に向かうことに。

車の中ではお互いの近況話。9月に行ってきたフィリピンのこと。神田山の会に入ってきた新人さんのこと。立花さんの田川での家探しの話。地元での生活を満喫するだんなさんの話。

3〜4時間のドライブの後、道は祖母山山麓の県道7号に入った。ゆるやかに蛇行する道の両側には棚田が広がり、ちょうど収穫期を迎えたきれいな稲穂が頭を下げて幻想的な風景を作っている。

道路は徐々に標高を上げ、奥深い森の中を進むようになると、いつしか片道0.7車線程の幅になった。そしてその道を延々と蛇行しながら進み、ようやく尾平駐車場に到着。

車から降りて、登山の準備を始めると、1匹の痩せぎすの犬が私たちに近づいてきた。
「かわいそうに。捨て犬だ。」
と立花さん。
「捨て犬ですか、、?」
私は誰かが登山に来て、一時的に犬だけをおいていった可能性もあると思ったが、
「いや、違うと思うな、、。首輪もないし、こんな人里離れたところに。かわいそうに、、。」
確かにその犬の表情を見ると、不安と猜疑心で眉はひそみ、歩き方も進んだり後退したりで定まらない。
「食べてくれるかな。大したものじゃないけど。」
立花さんはそういって食べかけのおにぎりを犬の近くにおいた。

その後、私たちは祖母山を登り始めた。

広大な自然林の中、日光が林床までよく差し込む。 また、もう10月も半ばだというのに、紅葉の感を呈している木が少ない。それもそのはず九州は、関東とは違って照葉樹の森なのだ。クスノキのような黄緑色のてかてかした感じの葉を持つ木が照葉樹である。そのため森林の中は、落葉広葉樹林と較べて心なしか明るい。その中に見覚えのある木を私は見つけた。

ソヨゴ

という木を知っているだろうか。葉の外縁が波打っており、そよそよと風に揺れる様子から名前がついたという木である。都内では街路樹としてところどころに植えられている。それがこの祖母山の森に自生していた。主に日本中部、四国、九州に育ち、南は台湾にも育つ。冬には紅のかわいらしい実をつける木である。

立花さんと私は、ゆっくりとおしゃべりしながら登り、お昼過ぎに今日泊まる予定の祖母山九合目小屋に到着した。驚いたことに、中からはライブハウスかと思うような大音量の音楽が聞こえてくる。立花さんと私は首をかしげた。山小屋の管理人が聞いているのだとすると、一体どんな人なのか。

ドアを開けて、
「すみません。2名で予約した立花と言いますが。」
と中に声をかけると、音楽のボリュームが下がり、痩身の、髪の毛はぼさぼさ、牛乳瓶の底のようなメガネをかけたおじさんが現れた。
「ああ、予約された立花さんね。中入っていいよ。もう山頂は行った? 」
「あ、まだなんで行ってこようと思います。荷物置かせていただいていいですか?」
「いいよ。どうぞ玄関に。」
私たちはザックをおろして、とりあえず山頂に向かった。

登り15分ほどで到達した山頂からは、360度の風景を見渡すことができた。北西には久住、東には阿蘇、真北には鋭角な由布山、そして遠く南西には一房山。九州の山塊はどれも裾野が広く重量感を持ち、「不動如山」といった雰囲気でそびえ立っている。

立花さんがこの山頂で年賀状用の写真を撮りたいという。
「来年の年賀状には、空手やっています! ってことでその写真がほしいんだよね。」
ということで、二人で突きと受けをやってポーズ。






日帰り登山客に混ざって、テントを張っているおじさんがいた。祖母山にはもう何度も登っており、今日の夜はここでテント泊だという。
「私たちは山小屋どまりなんです。なんか管理人の人がすごく音楽好きなおじさんなんですけど、、。」
「ああ、加藤さんのことだね。とにかく変わった人だよ。でも悪い人じゃないから。」
とおじさんは言う。

下山して小屋に戻ってくると音楽は大音量に戻っており、加藤さんは
「どうだった。天気いいから展望よかったでしょ。さあ中に入って入って。コタツもあるよ。」
うれしそうに私たちを迎えてくれた。

築30〜40年は経っていそうな山小屋だったが、発電機のおかげで電灯も、使い古されたコタツも稼動している。 そのコタツの前においてある棚には、優に100冊を超える本と大音量を放っているステレオとパソコンがあった。
「音楽お好きなんですね、、。」
「うん。色々あるよ。どんな音楽が好き?」
そういって、彼はパソコンのマウスを動かした。パソコンの画面には色んなジャンルの名前がついたディレクトリーが並んでおり、そのコレクションは膨大だった。加藤さんは、曲や映像の説明をうれしそうに話しながら、R&B、ギター、ポップスと色々な洋楽を聞かせてくれ、立花さんがオペラが好きだと話すと
「オペラもあるよ。」
と言ってオペラのディレクトリーを開くと、そこには有名どころのオペラが数十曲。J-POP、K-POP、なつメロ、演歌まであり、そのコレクションはさながら小型のカラオケボックスである。これらの音楽は自宅でCDを焼いたり、U-tubeからダウンロードしたりして、時には、気に入った音楽に動画を組み合わせて編集して外付けHDに入れて山小屋に持ってくるという。
加藤さんは麓の生まれ育ちで、お酒を飲まないという点を見込まれ数年前から祖母山九合目小屋の管理を頼まれた。基本的に予約が入った時にしか登らない。

時刻は夕暮れになり、私たち以外に親子連れや、明日傾山に縦走するというおじさん達のパーティーが到着した。私たちもEPIを取り出して夕飯を作り始める。
「もう夕飯の時間か、でもジャズはまだ早いな、、。もうちょっと後だな。」
と加藤さんは音楽をかける時間帯にもこだわりを見せる。

私は夕飯の後、本棚から本多勝一が1986年に書いた「山を考える」という文庫本を取り出して読みふけった。1953年にエドモント・ヒラリーとテンジン・ノルゲイによって世界最高峰のエベレストが登頂された。と同時に人類未踏の処女峰への挑戦に全てを賭けていた登山家達は、その目標を失った。その後は、無酸素、厳冬期、単独といった条件をつけて登山家はヒマラヤに挑むようになるが、その社会的インパクトは「初登頂」には及ばなかった。エベレスト登頂以降、近代登山は衰退期に入ったのである。

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登山が一般大衆化した現代、個々人が山に登る理由は健康増進、体力維持、趣味の追及、ストレス解消等の私的なものとなった。紙一重である大衆化と衰退化は、近代登山が進む避けられない方向性ではないか、と考えたりして、私は、ふっと目をあげた。

とそれを待ち構えていたように、加藤さんが
「俺、こういう本も好きなんだよ。読んだことあるか?」
と私の前に並べ始めた。

それは量子力学や宇宙物理学の入門書で、私はそれを手にとってパラパラとめくってみたがなかなか難しそうである。
「こういう動画もあるんだよ。慶応大学の学生向けの講義でさ、、。」
そういって加藤さんはその動画をスタートさせた。ちゃんと慶応大学が作ってネット配信しているものらしく、教授が黒板に微分積分、インテグラル、アルファ、ガンマ、、と訳のわからない式を書き連ねて何かを説明している。
「これさあ、すごくいいんだよ。これぐらいわかるでしょ?」
「いやいやいや、とんでもない。全然わからないですよ。」
と私は手をふった。加藤さんは、理解しているののだろうか?

とにかく一風変わったおじさんである。奥さんはいない様子で、この山小屋管理以外に仕事をしていそうにも見えない。かといってこの山小屋の仕事もたいした給料ではないだろう。つまり一般常識からはかなりずれた人生を歩んでいるのだが、加藤さんは音楽の動画集めとその編集、そして宇宙論や量子力学に思いを馳せることに関しては、並々ならぬ情熱と楽しさを見出しており、人生を謳歌しているのである。

そんな一風変わった加藤さんとの一時を楽しむことができる祖母山九合目小屋であった。

山小屋のHP。泊まりに来てくださいとのこと!

夜は9時過ぎに消灯となり、寒くもなく安眠することができた。

10月13日

今日も天気は快晴で、山小屋のすぐ外からは素晴らしい朝日を見ることができた。






私たちが朝食を食べて出発の準備に取り掛かると、加藤さんは
「送り出しの音楽だな。」
と言って、リズミカルな音楽をかけてくださった。

今日のルートは山頂、天狗の岩屋を経由する黒金尾根ルート。山頂の展望は昨日と同じく良好で、私たちは再度久住や阿蘇の展望を楽しんだ。ここからはロープやはしごが連続しており、ゆっくりと気をつけて降りる。今日が悪天でなくてよかったと思う。標高は徐々に下がって行ったが、それ以上に水平方向の移動距離も長い感じがする。やはり、九州の山である祖母山も裾野が広いのだ。昨日と異なる沢沿いのルートを通ることで、祖母山の良さが倍になった。








駐車場に着いたが、昨日立花さんが心配した犬の姿は見られなかった。しかし、おにぎりはなくなっており
「食べてくれたのかな〜。そうだといいな。」
「ね、元気でいるといいですね。」
後ろ髪を引かれつつ、車に乗って県道7合線を南に向かって出発。

途中立ち寄ったのは高千穂町にある天岩戸西本宮。

天照大神が弟であるスサノオの乱暴狼藉を嘆き、天岩戸に隠れた。それとともに太陽は隠れ、困り果てた神々は、その岩戸の前でアメノウズメノミコトを躍らせて宴会を開いた。不思議に思った天照大神が中から戸を開けた瞬間に、アメノタヂカラオが戸をあけて天照大神は外に現れ、空にはまた太陽が昇った。

という岩戸隠れ伝説の舞台がここだという。苔むした岩の表面を流れる清流はなかなかの渓谷美。実際に歌と踊りの宴会が行われたという場所は、大きな洞窟となっており、参拝した人が徳を積むために積んだ石が幾多もの岩の塔を作っている。何か霊魂が存在していそうな雰囲気。私も石を一つ重ねて、手を合わせて参拝する。




この後は、白河さんと合流すべく、宮崎県の比叡山へと向かう。この場所は大岩壁が連なる山塊で、九州におけるクライマーの聖地らしい。そのクライマーが集う庵という小屋があり、そこに今日私たちは泊まらせてもらうことになっている。

立花さんの運転で、国道218号線へと入り、高千穂鉄道の駅の一つである日之影温泉に到着。ここは五ヶ瀬川沿いの駅舎に温泉施設が併設されており、清流の流れを見ながらお湯に浸かることができる。しかし高千穂鉄道自体は、2005年の台風が原因で運転休止、かつその後廃線となった。

外湯に浸かり、川を見ながら、地元のおばちゃんたちとお話しする。
「電車はお金がかかるらしく再会の目処がつかなかったんですって、、。」
「そうなんですね、。残念、、。私たちは今日は祖母山から降りてきたところなんです。」
「それはいいわね〜。私も若い頃に登ったけど、最近運動はさっぱりだわ、。」
と話す地元のおばちゃんは宮崎弁。私も立花さんも長湯で、1時間ほどかけて温泉を堪能する。

駅舎の外には、以前使われていた高千穂鉄道の車両が展示されていた。しかし、廃線車両を目の前にすると、せつなさを感じずにはいられない。ちょっと調べてみると、日本で廃線になった鉄道路線、路面電車、馬車鉄道は634路線(一部廃線も含む)にもなる。

1941年に武器製造に伴う金属搬出のためには必要度が低いとされた不要不急線、また1968年に国鉄が役目を終えたとして指定した赤字83線等の、大規模な廃線の取り組み。また人・物資の輸送等の変化、自然災害の被害等にあい経営負担に陥り廃線となった路線。1872年に新橋ー横浜間の鉄道路線が開通してから約150年が経つが、その間日本の鉄道路線は、様々な変動を体験してきたのであった。

ここからは、目的の比叡山の庵はそう遠くはない。しかし何を目標にしていけばいいのだろうか。白河さんにメールで連絡を取ると
「上鹿川という集落を目指して来てください。那須商店というお店があります。」
との返事。立花さんがカーナビに入力するとそれらしい場所が目標として設定された。

私は地図を広げて、道を再確認する。
「この道路をず〜っと川沿いに行って、槙峰っていうところを越えた辺りで左折みたいです。」
「わかった。うっちゃん、その辺りになったらまた教えてね。」
助手席の私の心もとない案内と、立花さんのゆっくり運転で、車は渓谷の道を進む。

槙峰を左折すると県道214号線は網の瀬川沿いに蛇行して進むようになり、渓谷はさらにその雰囲気をました。両壁はほぼ垂直に切り立ち、しばらく行くとクライマーの人たちが集っている場所を何度も通過するようになった。

しかし、カーナビによると目標の上鹿川の集落は、まだまだ奥である。そのうちにクライマーの姿も見かけなくなり、両側は鬱蒼とした杉木立となり
「間違っているんじゃない?」
「え〜、でも、那須商店なんてなかったですよね、、?」
のろりくらりと車を進めていき、引き返そうかどうしようかという寸前で、突如木立が開け那須商店が目の前に現れた。立花さんと私は大喜び。お店に入って飲み物を購入し、店員に庵の場所を聞くと、
「すぐそこですよ。隣です。」
商店から30メートルも離れていない場所にログハウスが2軒並び、その煙突からは夕餉のしたくと思われる湯気がやわらかに立ち昇っていた。

車が何台か止まっており、ログハウスの玄関では何人かの人がクライミングの道具や食材を手に出入りしている。その中に白河さんの奥さんの茂美さんがいて、私は数年ぶりの再会に頭を下げた。
「あゆほさん! よく来たわね〜。迷わなかった?」
「茂美さん、お久しぶりです。迷いそうになりました。途中で全然集落から離れた感じになってしまって間違えたんじゃないかって思って。」
「そうなの。初めてだとすごく奥深いところに感じるでしょう。さ、お父さんは中にいるから、どうぞ入ってくださいな。」
玄関から中を覗き込むと、そこには7、8人の人が囲炉裏を囲んでお酒を飲んでおり、その中から白河さんが立ち上がって
「よく来たよく来た。迷わなかった?」
とやや呂律が回らない感じで、私たちを迎えてくれた。

この庵という山小屋、とてもきれいである。部屋の真ん中には囲炉裏。川原に続くベランダ。大きなキッチンがあり、寝室には20〜30人近くが泊まれる。清潔な水洗トイレがあり、お風呂は五右衛門風呂である。村営でも町営でもなく、この隣のログハウスに住む三沢さんという方が私財をなげうって作ったのだという。
「こちらが、その三沢さんだよ。この比叡山のルートをほとんど開拓したすごいクライマーだよ。」
と私たちは、白河さんから紹介を受けた。

三沢澄夫さん。クライミングにはまり、大蔵省を退職後ここに居を構え、クライマーのためにこの山小屋を設立。この比叡山のルートはほとんど三沢さんが開拓したのだという。

比叡山のルート



そんなすごい人にも関わらず三沢さんはとても気さくで、今まで体験した色んな武勇伝を話してくれた。囲炉裏の周りの食卓台には、お酒や色んなおつまみが並び、白河さんが進めてくれる。

日はすっかり暮れ、お酒や食材、登攀道具を手に持ったクライマー達が続々と到着。皆顔なじみらしくお互いに挨拶し、囲炉裏の回りはますます賑やかなで和やかな雰囲気になった。

私と立花さんは、白河さんと三沢さんから、他の人たちの紹介を受けた。ヨーロッパによく遠征し難壁の数々を登った人。ヨセミテに通うのが好きな人。三沢さんとともに比叡山のルート開拓に貢献した人。皆クライミング狂で、しかも実力者がそろっている。この時集まった人は25人ほどだっただろうか、若い人は30〜40代、年配の人は引退した60代という感じで、男女比は半々ほど。

白河さんも去年、一昨年とアイガーの北壁と南壁を登り、私はものすごいと思っていたが、
「いやいや、私なんかここの人たちと較べたらまだまだよ。」
ということらしい。ちなみに奥さんの茂美さんは、白河さんの指導で去年からクライミングを始め、来年は二人でアイガーに登りに行こうと思っているとのこと。

ここには九州のみならず、北海道からもクライマー好きが遠征してくる。
「札幌の殿平さんっていう人がリーダーで毎年秋にくるんだよ。」
と聞いて驚いた。私が札幌にいたときにお世話になっていた札幌中央労山山岳会のおじさんではないか! 白河さんも何回か殿平さんに会ったことがあるという。世間はせまい。離札して以来会っていないが、今も元気でクライミングされているということがわかってうれしかった。

囲炉裏の回りはすっかり賑やかになり、お酒や飲み物も十分に回って縁もたけなわの頃、突然
「誰か! 助けてください!」
とベランダにいた女性が叫びながら、部屋の中に駆け込んできた。
「あの、川原で倒れたんです! 顔が水に浸かって、大変なんです! きゅ、救急車呼んでください! あとヘッドランプとタオル!」
庵の中は騒然とし、何人かがベランダに飛び出した。そこから石段を降りて川原にトイレに向かった男性が倒れたという。とりあえず水から顔面を引き出しはしたが、ここまで運ぶには男性数人の力がいる。 この時点で庵の中に素面の人は皆無だったが、まだ足元がしっかりしている何人かが川原に降りていく。

しばらくして、倒れた男性が6〜7人に抱えられて、庵の中ではなく外に駐車してあった車のほうに運ばれて行った。 そして救急車が来るまで、できる限り応急処置が行われた。

救急車が到着するのに全国平均で6〜7分と言われているが、この場所では一体何分かかるのだろう。皆、その到着を今か今かと待った。30分〜1時間近く経って救急車が到着し、男性は延岡にある緊急病院に運ばれて行った。

救急車が走り去った後も、まだ庵の中は騒然としていた。応急手当をした段階では、男性にほとんど意識はなかったらしい。
「私がいけないんです。付き添って川原まで降りていけばよかったのに!」
と涙ぐむ女性に、
「そんなことないよ。」
「警察にも連絡したほうがいいんじゃない?」
「そうだよ。」
「いや、救急車が病院に到着して連絡がくるのをまとうよ。」
「でも、、。」
と色んな意見が飛び交い、収集がつかなくなりかけた時に、
「静かにー! 落ちつけっ! 奴はそんなやわじゃないっ!!」
三沢さんが一括した。
「ヨーロッパの数々の壁を登ってきた奴だぞ。病院にとりあえずまかせておけ。」
という一言で、囲炉裏の周りにはとりあえず落ち着きが戻り、皆徐々に座り始めた。

この時私は初めて気付いた。運ばれた人は、さっき紹介されたヨーロッパの壁を制覇してきた人だったのだ。屈強な彼が細心の注意を払うべきだったのは、ほろ酔い気分で立小便に向かった川原だった。

小一時間たって病院から連絡があった。患者には点滴を施し、容態も落ち着いている。その情報に庵の人々は安堵のため息をついた。


10月14日

何故か私は一人早朝に目が覚めたので、昨日ここまで来た道をさらに奥に向かってランニングしに出かけた。この道路の一番奥は、大崩山というおどろおどろした名前の登山口となる。庵がある上鹿川の集落を抜けて走っていくと、さらにもう1つの小さい集落があり、その後は半舗装の九十九折の道になった。展望のいい所を何ヶ所か通過し、40分ほど経った地点で引き返し始める。下りは早く、ちょうど1時間ほどで私は汗を流して庵に戻った。

庵では女性人が朝食を作っており、囲炉裏を囲んでの朝ごはんが始まった。昨日病院に運ばれたおじさんも庵に戻っており、心配かけたことを照れくさそうに笑って頭を下げている。そんな中、クライマー達は今日登るためのルートを話し合っている。

白河さんが、
「よしじゃあ今日は、午前中に第4スラブを2ピッチ登ろうか。まあ2時間もあれば登れるから。」
とルートを決めてくださった。登るのは白河さん、茂美さんとその友人の藤原さんと私。50代半ばの2人が、白河さんに誘われてクライミングを始めたのは約1年前であるが、あっという間に上達し今は比叡山の新たなルートに次々に挑戦している。

比叡山には、膨大な数のルートがある。順番まちをすることはほぼ無いらしい。異なる取り付き場の間を移動するのが車であり、巨大な岩がいくつも屹立する様子は中国の吉林の如し。

通称4スラの取り付き場に到着し、皆ヘルメットをかぶり、ザイルをつないで準備をする。リードは白河さん、セカンド藤原さん、サードが私。そしてセカンドの藤原さんと茂美さんがザイルをつないで4番目となる。

私はあまりに久しぶりなので感覚をすっかり忘れていたが、登り始めてみるとちょっと思い出した。なるべく足を使う。腕を中途半端に伸ばしているとすぐ疲れるんだっけ、、。2ピッチはあっという間だったが、素晴らしい高度感と展望を楽しむことができて、とても楽しかった。






立花さんは下で見学している間に、何枚も写真を取ってくれました。

クライミングが無事に終わり、比叡山を後にする。白河車が先頭で、国道に出るまでの蛇行道は茂美さんが立花さんに代わって運転する。
「九州に引っ越してきてから、目が見づらくなって、、。こっちは紫外線強いですか?」
「やっぱり東京よりは強いと思いますよ。どんなときもサングラス必須ですよ。」
と二人は話す。

私は以前、白河さんがアルファ米を自作するという話を聞いたことを思い出した。夏の暑い日に炊いた米を自宅の庭で日干しするという方法なのだが、九州は日差しが強いので可能だという。九州は、日差しが強くていいこともあれば、紫外線という恐ろしい欠点も有り。

帰り道は、ちょうど一面のススキが原となっている阿蘇高原を通った。ススキは、草原としては遷移の最終段階だという。火山噴火後、裸地となった場所に、まずコケや草本などのパイオニア植物が育つ。その後に、ススキは巨大な地下茎を作って広大な原っぱとなる。ススキの茎を萱と呼び、これは日本では古来から茅葺として屋根を葺くのに利用された。そのために人為的に刈り入れをしてススキが原としている場所を萱場と呼ぶ。東京の茅場町も、昔はススキが原であった。

「きれいだね〜。」
「本当。阿蘇は雄大ですね、、、、。」
立花さんと私は、雄大な景色を見ながら、ドライブを楽しむ。
9万年前に起こった阿蘇山の大噴火時には、火砕流が九州の半分を覆い、一部は山口県まで流れたというから想像を絶する規模であった。今、ここを安穏とドライブできるのはなんという平和であろうか。

その阿蘇を通り過ぎ、日田の手前で友人の家に立ち寄るという藤原さんとお別れし、その後近くのお店に入って牛丼を食べた。阿蘇牛だったのかもしれない、やわらかくておいしかった。
ここから、立花さんは田川方面、白河さんは筑紫野に向かうため、立花さんとはお別れである。
「うっちゃん、また九州来てね! 」
「立花さんも。東京に来るのが水曜だったら是非空手の練習に来てくださいね。」

この後は、さらに北上を続け、日暮れ間じかに筑紫野市の白河さんの家に到着した。私は、2005年に白河さんの家にお世話になったことを、なつかしく思いだした。
「以前来たときの裏山にあった小さな小屋、覚えてる? あの小屋、大分手を加えてきれいになったんよ。」
白河さんは、家から車で数分の裏山に土地を所有しており、そこに山小屋を建てるのが夢だった。それが数年をかけて完成したらしい。
「見に行く? 池で飼っている鴨に餌やりに行くから。」
「はいはい! もちろん。」
私は喜んで同行させてもらった。

県道をそれて半舗装の急坂を登ったところが、白河さんの裏山への入り口である。そこには、以前あった小屋の後ろに大きな家が建っていた。山小屋というよりログハウスか別荘という感じである。
「白河さん、すごい! これ白河さんが建てたんですか?」
「まあ、自分は仕事上、重機とかも使えるからね。どうぞ。」
その建物は、1階が作業場兼物置、2階がリビングスペースとなっており、暖炉、キッチン、囲炉裏、お風呂場がある。その上にはロフト状の3階があり、優に10〜15人は泊まれる広さ。窓を開くと鴨の泳いでいる池と紅葉を迎えた林が目の前に広がる。まるで、新築ログハウスの見学のような気分である。

「すごいですね、、。でも、白河さん、今は毎週末比叡山行っているから、、」
「そうなんよ。」
と白河さんは残念そうな顔をした。ちょうどこの別荘ができた頃に、比叡山の庵の人々と出会いクライミングにはまってしまったのだという。それでもお正月には家族親戚が集い、またご近所の人たちとの懇親会の場として使うことがあると言う。

白河さんは仕掛けを使ってこの裏山に現れるイノシシを捕る。その牡丹鍋は私もご馳走になったことがあり、非常においしい。またこの裏山で道に迷っていたおじいさんを助けて、地元警察から表彰されたこともある。
「また九州に来ることがあったら今度はここ泊まって。何人でも大丈夫だから。」
とのこと。

家に帰ると、茂美さんが夕飯の支度をされていた。
「あゆほさん、どうでした? 山小屋きれいになっていたでしょう。よかったらお風呂入ってください。」
「あ、はーい。ありがとうございます。」

茂美さんが台所で夕飯を作り、白河さんが仕事の電話をかけたりする中、私もお風呂上がりの格好で新聞を見ながらくつろぐ。家族の一員のように迎えていただいて、本当にありがたい。

夕飯は、肉じゃがとイカのキムチいために白米とお味噌汁。お互いの近況話。結婚して車で1時間のところに住む長女さん。今東京で一人暮らしをしながら働いている次女さん。以前家族4人で住んでいた2階建ての一軒家は、今白河さんと茂美さんだけでやや寂しい感じがしたが、お二人の娘さんは元気でやっている様子。

10月15日

早朝に白河さんに筑前山家駅まで送っていただき、福岡空港まで移動。朝一番の飛行機で羽田へ。
3日間、晴天に恵まれていい九州の旅ができました。立花さん、白河さん、深謝いたします!