かずちゃんが海苔を初めて食べたのは、つかみ食べができるようになってきた頃だっただろうか、私が食べているところに興味津々に近づいてきたので、ちぎってあげてみたところ、臆せずにパクっと食べて一発でその風味が気に入ったらしい。
そういえば、かずちゃんはとろろ昆布も大好きである。わかめのお味噌汁もよく食べる。やっぱり日本人、海藻好きの遺伝子が組み込まれているのだろうか、と思ったりする。
日本人は縄文時代から海藻を採食していたと言われ、既に奈良時代には海苔は大和朝廷への貢納品であったことが大宝律令に記されている。当時の主産地は出雲国の十六島(ウップルイ)半島であり、その質、量は他の産地と比べて群を抜いていた。十六島という漢字は、湾内に存在する大小多数の岩礁地帯の風景を現し、ウップルイという変わった呼び名は岩上に自然繁茂した岩のりを打ちふるって、小石などを取り除いて食したからだとも言われている。岩海苔は、製塩が難しかった冬に採取することができたため貴重な塩分源とされ、生の状態(生海苔)または手で押し広げて乾かした状態(干し海苔)で、遠く大和朝廷まで運ばれていった。
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今年の2月、知人から毎年冬には生海苔を買って佃煮を作るという話を聞いた。生海苔は、魚屋で注文すれば手に入るという。
週末に戸越銀座の魚屋さんにいって聞いてみると、もう2月なので海苔の旬は過ぎているが、まだ大丈夫とのこと。早速注文し、2日後に私は生海苔を手に入れて喜々として帰宅した。
かずちゃんも生海苔(というかパッケージ)が気になる様子。
早速クックパッドに載っていた「生海苔としらすの煮物」に挑戦。生海苔を粗く刻み、しらすと一緒に火にかけると、部屋中にふわーっと磯の香が漂い、ここは海だろうか?!と思うほどその香は力強くて驚いた。出来上がった煮物もいい塩梅で、ご飯の付け合わせとしてピッタリであった。
普通に売られている海苔も、一生懸命嗅げば海の雰囲気が感じ取れるが、生海苔の香は桁違いである。これを料理することを毎冬の恒例にしようと思う。
釣った魚をいれておく生け簀という道具がある。この生け簀を長く海に漬けておくと海苔が付着することから、材料である竹や木の枝を海中に突き刺してみたことが、海苔養殖の始まりであった。海苔は冬場によく付いた。というのは、海苔となるアマノリ属などの海藻類は、海水温が20度前後になる冬の時期が生育に最適だったのである。そのため海苔養殖は、秋に竹ヒビ(海苔を付着・生育させるために海中に立てる道具)、木ヒビを建て、冬から春先にかけて海苔の収穫を行うようになった。時代は享保末年(1717年頃)、場所は品川沖と言われている。
ところで、ヒビに繁茂し収穫した生海苔は、いつ誰の手によって、四角い紙状の海苔に製法されるようになったのだろうか。
一説によると、大森村(現東京都大田区大森)の野口六郎左衛門(1592年生まれ)が、浅草寺を参拝した時のこと。当時の浅草寺界隈は、竹や飴等の細工物、傘や下駄等様々な店がひしめき職人が作業する姿を見ることができたが、六郎左衛門は和紙漉きを見て、海苔を抄いてみてはどうかとひらめいた。早速、大森村で採れた生海苔を浅草に運び、細かく刻んで、抄いて乾かしてみたところ、なかなかの出来栄え。ここに、生海苔とは違って格段に優れた保存性・輸送性を持つ抄き海苔が誕生した。この抄き海苔が一般的に普及してきたのは享保(1716-1736)末年と言われている。
それまでの海苔を使った料理と言えば、汁物や和え物、または単純に炙った海苔であったが、抄き海苔の誕生によって画期的な料理が創案された。巻き寿司である。
巻き寿司に関する記述が初めて見られるのは、安永年間(1772-1781)に刊行された献立部類集であるが、片手で食べられる気軽さ、切り口の意匠、そして口の中に漂う磯の香は、瞬く間に江戸っ子の人気を得るようになった。天明(1781-1789)の頃には、青海波巻き、比翼巻き、夫婦巻き等、凝った意匠が現れ、巻き寿司は江戸前の食文化として花開いたのである。
保育園からの帰り道に、かずちゃんはちよだ寿司のお店に寄りたがる。持ち帰り用の様々な寿司が並んでいるのを見るのがとても好きで、納豆巻きやかんぴょう巻き、かっぱ巻きなどを購入する。おうちに帰ると、それをパクっと口に入れて喜んで食べる。離乳食を始めたばかりの頃は、ご飯を数粒食べるか食べないかだったことを思うと、とても成長したなあと感じる。
さて納豆巻きが好きなのはいいが、ママとしては「海苔巻きは家でも作れる!」ということを見せなければならない。必要なのは巻き簾である。100円均一のお店でも竹製のものが売られている。でも、あれ汚れると洗うのがけっこう面倒ではなかろうか、と私は思った。普通に食器を洗っているだけでも、「抱っこ」「チッチ(おしっこ)」「パン」「お歌〜」と様々なかずちゃんリクエストへの対応を迫られるのに、竹製の巻き簾を毎回きれいに洗うのはハードルが高い!! ネットで調べてみると、洗いやすいシリコン素材の巻き簾があることがわかり、早速それを使って納豆巻きに挑戦!
ママがなにかやっていると気づき、かずちゃんは興味津々で台所を見にくる。私は「海苔巻きできるよ、海苔巻き。」と言いながら、シリコン巻き簾の上に海苔、ご飯、納豆を乗せて、慎重にくるくると巻く。「こうして、キュッキュッだよ。」というと、かずちゃんも「キュ、キュ。」と真似をする。そして出来上がった納豆巻きは、初めてなので、自分の家族以外にはとてもお出しできない形と相成ったが、かずちゃんに渡すと喜んで食べてくれるではないか!!
ママの作った納豆巻きを食べてくれたのは、心の中がじんわりと暖かくなるほどうれしかった。切り口がかわいい海苔巻きにもいつか挑戦するので待っていてね。
江戸時代初期、海苔は、葛西、深川、品川と東京湾の広い地域で採ることができたが、隅田川の築堤工事によりその加工が前進した元禄年間(1688〜1704)以降は、大森村の遠浅の沖合が、海苔の生育に最適の環境となった。加えて、ヒビによる養殖の確立、抄き海苔・巻き寿司の登場によって海苔は江戸の富裕層の間に浸透していく。
1746年、海苔養殖も相当大規模になったのだろう、大森村には幕府から運上金が課せられるようになり、ヒビの新設・移設等は厳格に管理されるようになった。そして、1773年には、浅草の大手海苔商である永楽屋が将軍家への御前海苔献上を始め、大森村は栄誉ある御前海苔漁場として指定されたのである。
御前海苔の威光は絶大である。御膳御用の看板を掲げることを許された永楽屋は海苔商の中でも別格の存在となり、取引量や売り上げを大いに伸ばした。また、大森村は日本一の海苔産地として有名になり、「御前海苔のために」という名目で、漁場の拡大や新たなヒビ建に関して、永楽屋を通して幕府から便宜を図ってもらうことができた。こうして永楽屋と大森村は、互いに依存しあって海苔による巨利を得るようになった。
ところが文政年間(1818〜1831年)に、この職業上友好関係に亀裂が生じる事件が起こる。
この頃、大森村では付加価値の高い抄き海苔の製造を村内で開始し、仲買商人も現れ、海苔の製造・販売に関して力を付けつつあった。そして、それまでは永楽屋から便宜を図る手数料として要求され仕方なく払っていたお金を断るようになった。
永楽屋は、一介の漁村が浅草の御前海苔商様に盾突くとは生意気な!と思ったかもしれない。
考えた永楽屋は、大森村の南に位置し、規模は小さいながらも良質の海苔を産する糀谷村の人々に接近した。というのも、糀谷村は新たなヒビ建てを申し出ようにも、大森村から「御前海苔の生育に悪影響が出る」等文句をつけられて妨害され、両村は常に紛争状態にあったのである。
1819年、糀谷村を取り込んだ永楽屋は「大森村より糀谷村のほうが御前海苔場として適している」として幕府に変更願を提出した。大森村にとっては寝耳に水であり、生活の糧を失っては困ると、幕府に対して永楽屋の言い分を反覆するための嘆願活動を始めた。
判決が出たのは翌年であり、大森村は今まで通り御前海苔場として認められ、糀谷村は不届だったヒビは引き抜くことを言い渡され、そして永楽屋は漁場の指定を都合のいいように変えようとすることや、糀谷村から仕入れた海苔を御前海苔並みの値段で売っていたこと等が発覚し、御前海苔商としての資格を失うこととなった。永楽屋の悪事千里を走る、といったところだろうか。
この永楽屋事件をきっかけに浅草海苔商は衰退し、代わりに江戸の商業の中心地であった日本橋海苔商が活躍を見せていくようになる。
4月7日、水天宮に桜を見に行った際に、日本橋海苔店の催事にも足を運んだ。
同店は、明治以後、浅草海苔商に代わって台頭してきた日本橋海苔商の中でも老舗の一つ。
たどり着いた店先は、お買い得海苔を買い求めようとする人たちで大賑わい。
嬉しいことにすべての海苔が試食できるようになっており、缶を開けて2センチ四方程の小さな海苔を取り出すと、かずちゃんもほしいほしいと手を伸ばす。
母子ともに海苔には全く詳しくないが、色んな種類が試食できるのは楽しい。これは有明海か、これは瀬戸内か、青混ぜは独特な味がするんだなあ、と食べ比べ、大判海苔とおにぎり用の海苔を購入。この後東京水天宮をお参りして帰路につき、かずちゃんは、早速買ったばかりの海苔を口にして大喜び。
日本橋海苔店のHPには、創立者宮永清のわが海苔人生いう読み物がある。明治43年生まれの同氏は、13才で大阪の大手乾物屋に丁稚奉公し、18歳で東京宮永商店の番頭となり、晩年は東京海苔問屋協組理事長、全国海苔問屋連合会会長として業界をリードして、大正、昭和、平成と海苔一筋の人生を送ってきた。日韓併合時の韓国における本土輸出用の海苔生産、戦中戦後混乱期の海苔販売、東京湾の沿岸埋め立て以降の地方海苔の勃興等にまつわる生の体験談は、大変興味深い。
時は1853年、浦賀にペリー率いる黒船が来航。この驚天動地の事件を大森村の人々も伝え聞いたのではないだろうか。幕府は江戸湾防備のために慌てて砲台場の建設に着手するが、海上に突如作られた構造物によって潮流の流れが変化し、江戸湾の海苔養殖は大打撃を受ける。そんな中、国内では勤皇、佐幕、開国、攘夷と意見が乱れ、1867年には大政奉還となるが翌年には戊辰戦争が勃発した。
鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争は、官軍優勢の形で東進し、明治元年(1869)征東総督有栖川宮が大森村から一里と離れていない池上本門寺に滞留となった。官軍は戦いは優位に進めていたが財政的には火の車であり、大森村に軍資金として五千両(1両12万円として換算して6億円)出すよう打診してきた。海苔漁不振にあえいではいたものの、そこは重鎮、大森村はなんとか五千両をかき集めて官軍に治めた。と同時に新たな漁場を得る約束を取り付け、戦争終結後、明治政府認可の漁場を獲得したのであった。「官軍場」と呼ばれるようになったこの漁場は、糀谷村、羽田村の沖合にまで伸びる広大な面積を持つものであった。
それにしても、先見性があったといおうか、絶妙な鞍替えのタイミングである。御前海苔の産地として百年近く将軍家から多大な恩恵を受けていたにも関わらず、維新後の激動期には官軍を援助する側となり、官軍場を手に入れたのである。
また明治時代は、交通網の発達によって文化や技術の伝播が飛躍的に進んだが、大森村の海苔養殖の技術と抄製法は先祖伝来の秘伝として、簡単には他所に伝わることを許されなかった。
例えば、大森の海苔仲買商の子息であり、三保の松原(静岡県清水区)に海苔養殖を伝えた大森屋孫七は、村民から非常に感謝され立派な顕彰碑も建立されているが、故郷の人々からは村八分にされ二度と大森村に帰ることはなかったという。
旧態依然、閉鎖的とも思える史実であるが、裏を返せば、大森村の人々が海苔養殖を誇りに思い、またそれに賭けていたことの証拠ではないだろうか。
こうして大森村は、昭和初期まで名実ともに日本一の海苔産地として名を馳せ、一方、上総、駿河、広島、九州といった地方にも海苔養殖の技術が徐々に、そして確実に普及していった。
5月20日、家族3人で東京港野鳥公園を訪れた。大井ふ頭の一角に位置するこの公園は、埋め立て以前は大森の前面に位置する良好な遠浅の海であり、ヒビが並ぶ豊かな海苔漁場であった。
昭和37年の漁業権放棄以降その風景は消失したが、時を経るにつれ、芦原や干潟が形成され多くの野鳥が生息・飛来するようになり野鳥の宝庫となった。人々が予測しえない形で、新たな自然が再生したのである。
ちょうどこの日は野鳥公園祭りで、入園してすぐの広場には自然を学ぶためのブースがたくさん並んでおり、家族連れでにぎわっている。干潟に住む蟹に触れるプールもあり、かずちゃんは興味深そうにのぞき込む。
また、野鳥観察小屋では必死に双眼鏡をのぞこうとしたり、原っぱではパパに肩車してもらって野鳥を見たり、隣接している羽田空港から離陸する飛行機の音がすると空を指して教えてくれたりして、とても楽しんでいた。
帰りは、野鳥公園から歩いて京浜運河を渡り、流通センター駅から浜松町までモノレールに乗って帰宅。後で知ったが、この日の帰り道に通過した京浜運河が大森の海苔養殖を終わりに導く遠因となった。
1923年(大正12年)の関東大震災により、首都圏の交通機関は壊滅状態になり、救援物資は海上輸送しなければならなかった。しかし遠浅の東京湾を大型輸送船が航行する際には多くの危険を伴ったという。このことから、有事の際の東京湾整備が重視され、京浜運河の掘削及びその土砂を使っての埋め立て地造成の計画が提唱された。昭和3年のことである。
運河掘削予定地の漁村に打診がなされたが、この工事が漁業に多大な悪影響を及ぼすことを危惧した漁民はこぞって反対を決意。さらに、昭和5年には海苔養殖者、鳴島音松による天皇直訴事件が起こり、開発側である国は計画を一旦は停止するに至った。
しかし世界恐慌が起こり、大陸進出と軍需産業で不景気を打破するという世論が強まるにつれて計画は再開され、漁村の反対運動は低迷せざるを得なくなる。そして1939年(昭和14)年に、最後まで反対表明をしていた大森漁協が同意書を提出し、工事が始められた。しかし日中戦争の勃発その後の太平洋戦争の長期化により、資金・資材不足に陥り京浜運河は未完成のまま終戦を迎えた。
戦後アメリカ軍主導で行われた民主化改革は、海苔業界においても新風を吹き込むこととなった。昭和24年に制定された新漁業法によって、旧態の封建的な漁業体制が撤廃され、実際に漁業を行う人々に公平に漁業権が交付された。また新漁協の組合員らによって、製造者の言い値がより反映される共同販売制度が確立された。こうして新体制の下、海苔業界は活況を呈した。また生産量増加に関しては、海底に突き刺して用いる竹ヒビ、木ヒビに代わって、波間に浮かべて用いる網ヒビが開発され沖合でも海苔養殖が可能となったことが大きい。
しかし昭和20年代後半になると、首都としての港湾機能の必要性が急速に高まっていく。1950年(昭和25年)に制定された港湾法により東京湾沿岸部は将来性のある開発地区と見なされるが、不運なことにこの地区は海苔養殖場とほぼ完全に一致していた。当然の結果として、開発側と漁民側の間には、幾重もの軋轢が生じることとなる。
昭和33年には埋め立て地の建設から出る浚渫土砂が指定区域外へ廃棄されていたことが発覚し、大森漁協が港湾局に抗議を行う。昭和35年には補償協定が締結され、損害賠償金1644万円が支払われたが、海苔養殖場である東京湾の環境が急速に悪化しているという意味においては、根本的解決ではなかった。
戦後復興・経済発展が叫ばれ、また1959年(昭和34年)5月には東京がオリンピック開催地として決定されたこともあり、日本中が湧いていた。そんな中、東京都の傘下にある漁協は、漁業を継続するか否かについて苦渋の決断を迫られていた。
一番の水揚げ高を誇る大森漁協においても、意見が割れた。先祖代々継承されてきた海苔養殖を自分たちの代で辞めるわけにはいかない、開発には断固反対という人々、自分は継続したいが子供に継がせるのは消極的な人々、その一方で、将来には見切りをつけ補償金で手を打とうと考える人々。その補償金についても要求金額や分配方法に関して異論が飛び交う。計画全廃の可能性はないという開発側との交渉は、長期化・泥沼化し、その間にも海苔の収量や品質は目に見えて落ちていく。
1962年(昭和37年)12月、大森漁協は漁業権放棄を決定した。この時海苔養殖者で涙を流さない者はいなかったという。そして、翌1963年(昭和38年)3月に最後の海苔漁が行われ、その2か月後には東京モノレール羽田線の工事が着工。1年7か月の突貫工事で開通し、その翌月である昭和39年10月、海外から多くの選手団と観戦客を迎えて東京オリンピックは開催された。
こうして300年近い歴史を持つ大森の海苔養殖は終焉を迎えた。
7月15日、大森海苔のふるさ館を訪れた。この施設は、大森の海苔養殖の歴史と伝統の保存を目的に、元海苔漁業者が中心となって平成20年にオープンし、今年で開館10年目を迎える。館内には、海苔養殖に使われていた道具やべか舟の展示があり、海岸沿いに生息する野鳥や生物を学べるコーナーもある。
このふるさと館では、海苔簾作り体験や貝殻工作、フジツボの観察など様々なイベントを行っている。中でも、生海苔を抄いて
日干しして一枚の手製の海苔を作るという海苔付け体験は、大変人気がある。大森地区の小学生達はもれなく、この海苔付け体験を地域学習の一環として行っている。素晴らしい体験だと思う。
かれこれ30年近く前になるが、私にも小学校時代の海苔の思い出がある。生まれ育った千葉県船橋市には真間川という江戸川の支流が流れているが、ある日実家近くの真間川の橋の上で、障子の桟みたいなものに四角い黒い紙を張り付けて乾かしている人がいたのである。
「あれは海苔を干しているんだ。」
一緒に歩いていた父は、そう教えてくれた。子供ながらに、お店で売られている海苔はああいう風に作られるのかと思った記憶がある。
この時の海苔はどこで採れたものだったのだろうか。調べてみたところ、船橋市と市川市にまたがって現存する三番瀬という自然干潟の沖合で、2018年現在も海苔養殖が続けられているという。真間川は三番瀬のすぐ横で東京湾に注いでいるので、上流側の橋の上で海苔を干すというのは、当時は一般的だったのかもしれない。
今も、千葉県側では、三番瀬、木更津、そして富津で海苔養殖が行われている。
今年のGWは房総を旅行し、富津の海岸にある民宿に泊まった。この時は知らなかったが、この写真の近くの海で海苔が採られていたのだ。
一枚の海苔には日本の歴史や技、そして人の労が凝縮されている。そんな海苔を使って自分で巻いた海苔巻きやおにぎりは、一味違う。そんな気がする。
参考文献
ものと人間の文化史111 海苔 宮下章 法政大学出版局
浅草海苔盛衰記 海苔の五百年 片田実 成山堂書店
重要有形民俗文化財 大森及び周辺地域の海苔生産用具 大田区立郷土博物館
海苔のこと 大森のこと 元大森海苔漁養殖業者+編集委員会
大田区史 中巻
大田区史 下巻
月刊 おとなりさん 2018年4月25日号 特集 海苔漁場をめぐる百年紛争