Phillipines, lost in the Camera.
フィリピン〜失われた写真の中に〜



以前同じシェアハウスに住んでおり、社会福祉について勉強していた市川さんという友人が、ストリートチルドレンを助けるチャイルドホープというNGOの活動に参加するために、2012年にフィリピンに発った。期間は約1年半。彼女がマニラにいる間にフィリピンに行きたく思い、私はフィリピンで3番目に高いMt. Pulag(プラーグ山)、1991年に大噴火したピナツボ山に登る計画を立てた。

今回の旅行には、以前フィリピンで海外生年協力隊員として働いていた友人から、現地で使っていたフィリピン携帯をお借りした。日本の携帯も海外で使用可能だが、通話料金が高い上、フィリピン携帯へのテキストメッセージを送ることができない。なので、今回は日本携帯は写真撮影用に、フィリピン携帯は現地連絡用として2つの携帯を持っていくことにした。

またその友人から、海外青年協力隊の同期であり、今フィリピンのバギオという町でオーガニックカフェを開いている岡田さんという友人を紹介してもらった。バギオは私が登る予定のプラーグ山に向かう途中に通過する町で、私は出発前に岡田さんと何度かメールでやり取りをした。

出発前に大まかに旅の予定を決めていたが、紆余曲折を経て、結果下記のようになった。(リンクからその日に飛びます)

9月21日 マニラ到着。市川さん家に泊。
9月22日 マニラからバギオへバスで移動。岡田さんに会う。バギオ泊
9月23日 バギオからアンベンゲッグへバスで移動。プラーグ山小学校訪問。プラーグ山のレンジャーステーション泊。
9月24日 朝日を見にプラーグ山登頂。プラーグ山小学校で折り紙を教える。アンベンゲッグからバギオにバスで戻る。トリニダッドにある岡田さんのカフェを訪ねる。トリニダッド泊。
9月25日 バギオ観光。セントルイス大学の博物館見学。エミリオ・アギナルド博物館見学。バギオからビーガンへバスで移動。ビーガン泊。
9月26日 ビーガン観光。早朝マラソン。ホセ・ブルゴ神父博物館見学。ビーガンで有名なヴィラ・アンジェラ泊。
9月27日 ビーガン観光。海岸までお散歩。世界遺産のセント・マリア教会を訪ねる。ビーガンからピナツボ山近くのカパスへ夜行バスで移動。
9月28日 カパスからピナツボ山麓のセント・ジュリアーナ村へ移動。
9月29日 ピナツボ山のトレッキング。夕方マニラ到着。市川さん家に泊。
9月30日 朝6時の飛行機で日本へ。




今回の旅にとても役立った2つのグッズは、現地で使用可能なフィリピン携帯と、ロンリープラネットのガイドブックである。



フィリピン携帯。貸してくれた友人に感謝!





ロンリープラネット、フィリピン



ルソン島北部 マニラの北にバギオの街がある


大きな地図で見る



9月21日 マニラ到着。市川さん家に泊。

JetStarの往復37000円の航空券で成田空港を出発し、5時間のフライトを経て到着したマニラの町は雨だった。9月21日はちょうど台風19号が沖縄に近づいており、その南西に位置するフィリピンは、同台風が通過した直後でまだその余波が残っていた。しかし、それは哀愁漂う小雨などというものではなく、機内の窓にも空港の建物の窓にも、大きな雨粒が強く叩きつけられている。

入国審査と税関を抜けて、空港のロビーでまず初めにしたことは、フィリピン携帯のSIMカードの購入である。携帯本体も店頭でチャージしてもらい、私はマニラでNGO活動に関わっている市川さんに電話をかけた。
「もしもし、内田です。 今マニラ空港につきました!」
「よかった!着いたんですね。私の家から最寄のキリノ(Qurino)駅にはなんとか来れそうですか?」
初めての外国で頼りになる人がいるのは、本当にありがたい。私はそう感じながら、これからバクララン(Bacleran)駅まで行って、LRT(市内高架鉄道)に乗り換えて、キリノ駅まで行くつもりであることを伝えた。
「わかりました。了解です。あの、実は今日うちに警察が来るかもしれないんです。ちょっと盗難にあって。」
「えっ! そうなの? 大丈夫?」
「そんな大きな被害があったわけではないんですけど、みんなで警察に来てもらおうってことになって。でもキリノ駅には迎えに行くので、LRTに乗ったらメールくださいね。」
そう言われて、一旦携帯を切った。

マニラ空港には、ターミナル1、2,3,4があり、ターミナル間を走るシャトルバスが10〜15分毎にある。今はターミナル1であるが、別のターミナルに移動すればそこからバクララン駅に向かうバスがある、とガイドブックにはある。ところがそのシャトルバスを待つ人たちの列がとんでもなく長い。その長さから推定するに、時刻どおりにバスが来ているとはとても思えない。仕方なく待つ中で、私は前に並んでいたイタリア人のカップルと仲良くなった。
彼氏さんは、ミンダナオ島にある赤十字で働いていて、台風などの自然災害の後の人々の生活の復興の支援をしているという。彼女さんも同様にメキシコやグアテマラで赤十字の活動に従事していたが、その仕事を終え、彼氏さんと再会すべく、フィリピンに飛んできた。これから2人は約1ヶ月かけて旅行する予定である。

彼氏さんは、イタリア人らしくとても賑やかで、1つ1つのリアクションが大きい。また驚いたことに列に並んでいる途中で歌を歌いだし、彼女の肩を抱きかかえる。何かイタリアの民謡なのだろうか、と思っていると、
「この曲はね、僕が作ったんだ。彼女のために。」
と彼は公言する。しかも一曲ではなく、けっこう頻繁に作詞するらしい。彼女はやや照れつつも、その歌を気に入っている様子。ああ、日本人の男性でガールフレンドのために歌を作り、彼女の肩を抱きつつその歌を堂々と歌える人が何人いるだろうか! 国民性が決定的に違うのだなあと思いつつ、素敵なカップルである二人を羨望した。

40分近く待ってやっとシャトルバスが来たが、それ1台では並んでいる人たちを全て乗車させるのは不可能だった。このまま待っていたのでは、いつどこに行けるのかわからない。私は空港警備員に尋ねた。
「LRTのバクララン駅に行きたいんだけど、どうすればいいですか?」
「ジープニーに乗ればいい。そこの高架橋の下の道路で待っていればすぐに来るよ。」
と彼は顎をしゃくった。

ジープニーとは、フィリピンの街中を走る公共交通の1つであるが、元々は米軍が乗り回していたジープを改造した車であり、ジープの後部の荷物置き場にお客が座れるようになっている。その車体には、とんでもなく派手な絵柄や文字が書かれており、やもすると、暴走族が壁にスプレーで上手に描く絵や、長距離トラックに描かれている絵柄を髣髴とさせる。日本の整然としたバスや電車に較べると、こんな派手なものが公共の乗り物かとびっくりするが、値段は驚くほど安くフィリピン人の重要な足となっている。



ジープニー(写真はネットより)



しかし、彼のいう「すぐ」とはどれぐらい「すぐ」なのか。
「本当? 10分毎とかに来るんですか?」
「来る、来る。あそこの道路が交差するところで待てばいい。」
とにかく行ってみよう。私は、振り返ってイタリア人のカップルに大きく手を振り、走ってそこに行った。すると本当にすぐに車体の横にBacleranと書いてあるジープニーが来て、他の何人かの地元の人と一緒に私は乗り込んだ。

乗客は乗り込むと同時に、行き先を告げて運転手にお金を払いお釣りをもらっている。同様に私も
「バクララン、LRT」
と告げて、10ペソ(23円)を渡すと2ペソ(5円)お釣りが帰ってきた。8ペソ(18円)の乗車料金らしい。特に自分が好奇の眼にさらされることなく、私は安心してジープニー内の雰囲気に溶け込んだ。雨は相変わらず勢いよく降り続いている。 停車するたびに乗り込んでくる人たちはほとんど傘を手に持っている。私は今回うっかりして傘を持ってくるのを忘れたため、すぐにでも買わなければいけないと思う。

しばらくして大きな交差点につくと、運転手が振り返って、
「バクララン駅は、ここで降りてずっと右だ。」
と私に言った。ということは、駅まで行ってくれないのか、、このどしゃぶりの中!私が眉をひそめると、運良くジープニーの中にバクララン駅まで行くという男の子がいて、彼が身振りで一緒に行こうと言ってくれた。

車から降りて、台風のようなどしゃぶりの中、私たちはとりあえず店の軒先に入った。二人とも傘を持っていなかったので、軒先から軒先へと渡るように歩き始めた。しかしそうやって歩いても、5分も経たないうちに私のザックはびしょ濡れになった。バクラランの町は排水溝の機能が低下しているのか、道路は冠水しており、一歩ごとにサンダルを履いた足は水に浸かった。さらにその水の中にはビニール袋や、八百屋から出た野菜、果物の皮などが浮かんでおり、お世辞にも衛生的とは言いがたい。

前を歩いていた男の子が、「あれに乗ろう」と言ってペディキャブを呼んだ。これは、日本語に訳すならば、人力自転車タクシーなるもので、自転車の横に乳母車を大きくしたような屋根つきの荷台が付いており、そこに人が2人乗ることができる。彼は値段交渉し、ペディキャブは50ペソ(115円)でバクラランの駅まで行ってくれることになった。どしゃぶりの中、そのペディキャブをこぐのは10代後半と思われる若い男の子で、体力勝負の大変な仕事に頭が下がる。

バクラランの駅までは、ペディキャブに乗って5分ほどかかった。ジープニーを降りた地点からは相当距離があったらしい。LRTに乗るためには、面倒なことに荷物検査があり、私のザックは係りの人の手と金属探知機で丹念にチェックされた後、ようやく改札を通過して電車に乗ることができた。車内はごく普通の大都会にある公共交通といった雰囲気で、東京の電車と同じく皆周りの人に必要以上に関心を示さない。私は市川さんにLRTに乗ったことをメールした。そしてギル・プヤット駅で降りるという男の子には感謝してお別れし、もう1駅乗って目的地であるキリノ駅に到着した。

市川さんは既に駅に迎えに来てくれていて、私たちは久々に再会を果たした。
「市川さん、そういえばさっきの警察が来るっていうのはどうなった? 大丈夫だった?」
「はい、なんとか、、。実は今私の住んでいるアパートで、盗難騒ぎがあったんです。たぶん犯人は以前の住人なんですよ。シェアハウスの人たちみんな怒っていて、一応警察に来てもらって被害届けを出そうってことになって。でも警察もいい加減で、今日は雨が降っているし、本当に来てくれるかどうかわからないんです。とりあえずうちに向かいましょうか。」
彼女が歩き出した後を私もついて歩く。
「その以前住んでいた住人って言うのは、どういう風に盗みを働いたの?」
「うちのアパートは、お風呂とトイレが共同でそこに行くときは、わざわざ鍵をかけない人が多いんですよ。その間に人の部屋に入っていたみたいで。」
「えー、あくどいなあ。市川さんは何盗られたの?」
「古いカメラです。パソコンとられちゃった人もいて。」
それは大変な被害である。しかし、凶悪な強盗が市川さんの住むアパートに侵入し、人的被害があったわけではないことに私はほっとした。
「何か夕飯買って帰りましょうか。」
「はーい。そうしましょう。」
フィリピンの街には持ち帰りできるお惣菜屋、兼食堂がたくさんある。それらのお店の店頭には、4〜5つ、多い時は10個以上の銀色のトレイやお鍋があり、それぞれには違うおかずが入っている。お客さんは、それらの蓋を開けて中を吟味し、お店の人に値段を聞いたりして、「これとこれ。」という風におかずを選択する。

私たちが歩く道路の両脇にもそういうお店がたくさんあった。市川さんはあるお店に入って、お鍋の蓋を開けながら、お店の人とタガログ語で話し始めた。おかずの内容を聞いてバランスを考え、そして今日の夕飯のために、豚肉の煮込み、酸味の利いたジャックフルーツのサラダ、アジの南蛮漬けを買った。全部で120ペソ(276円)だという。
「まあ、普通の値段ですかね、、。私が普段お昼を食べるときは30ペソ(70円)ぐらいです。」
「そっか、、日本に較べるとやっぱり大分安いね。」
さっきのジープニー、LRTの値段ともあわせて、私はフィリピン値段の感覚をなんとなくつかんだ気がした。

交差点からジープニーに乗って終点まで行き、そして右に曲がって100メートルほど行った所に市川さんの住むアパートはあった。4階建てで1階はリビングとダイニングルーム。2、3階にはそれぞれ3つの個室があり、4階には大家さんが住んでいる。

夕飯は、ちょうどダイニングルームにいた2人のフィリピン人女性も一緒に歓談しながら食べた。市川さんは、タガログ、英語、日本語を駆使して、通訳をしてくれる。私が今回、プラーグ山とピナツボ山を登る予定であることを話すと、2人ともプラーグ山という山名を初めて聞いたという。日本と同じで、山好きでなければ自分の国の最高峰以外はあまり知らないかもしれない。買ってきたおかず3種はどれもおいしく、特に南蛮漬けは酸味がほどよく聞いており、日本人の口によくあった。
「マサラッブ!(おいしい!)」
私が唯一覚えたタガログ語を言うと、3人は笑った。

その後3階の市川さんの部屋に行った。4畳ほどのスペースには二段ベッドがあり、以前はここに2人が住んでいた。しかしその人が引っ越した今は、二段ベッドの下段は彼女の勉強の資料で一杯になっている。壁には付箋に書かれたタガログ語の単語が張られ、洋服ダンスの扉には社会福祉やストリートチルドレンに関する彼女の質問やアイデアが、これも付箋に書かれて張られている。異国の地で、献身的に勉強するその様子に私は胸を打たれた。

私はザックからお土産の日本のお菓子と、子供たちのためにと色んな人からもらってきたTシャツや赤ちゃん服などを取り出した。
「ありがとうございます。喜ぶと思います。こちらの人たち、子供服がなくて大人のものをしぼってしぼって着ている感じので。」
「お役に立てればうれしいです。日本ではもう着ないものでも、こちらだと大事に使ってくれることがあるものね。明日は日曜だけど、市川さんどこか行くの?」
「明日は、今チャイルドホープが支援している貧困層が住む地区があるんですけど、そこに行って地区の地図を描こうって言う催しがあるんです。」
「地図?」
「あっ、けっこう大きなエリアなんですよ。地区の中に共同の水汲み場とか、集会所もあって。」
彼女はグーグルマップでその位置を見せてくれた。人口1100万人を越えるマニラの地図がパソコンのディスプレイに映り、市川さんはその一部分を拡大した。
「フィリピン各地から仕事を求めてマニラに出稼ぎに来た貧困層の人たちが住むエリアは、一軒一軒の区画が小さいんです。」
と彼女は言った。確かにマニラの特定の地域だけが、グーグルマップ上でやたらに細かい建築物の集合体であることがわかった。それは貧困層の人たちが2階を3階建てにしたり、家屋と家屋の間に無理矢理新しい部屋を作ったり、玄関のスペースを建て増しして新しい部屋にしたりするためである。こういう貧困地区がマニラには十何ヶ所もあるという。
「そんなにあるの? 明日、市川さんが行く地区には何人ぐらいの人が住んでいるの?」
「300人ぐらいです。でも港湾の近くのもっと大きな貧困層のエリアには3000人ぐらい住んでいるんですよ。中にはNGOが運営している病院と教会もあったりして。」
そんな人数では、日本の小さな村と同等である。当然ながらそれらの地域はガイドブックには載っていない。厳しく外国人立入禁止にしている場所もあるという。

市川さんが携わっているチャイルドホープや多くのNGOは、貧困層の生活の実態調査や子供たちへの無償教育等を行っている。しかし教育と言ってもどういうことを教えているのだろうか。

「衣食住が不十分な子供に読み書きとか教えても意味がないんですよね。なので、もっと生活に即したことを教えるんです。貧困地区だと盗みとかドラッグとかをして警察に捕まっちゃう子供が多いんですよ。だから、どういう罪までが注意で済んで、それ以上になると逮捕されちゃうかとか教えます。」
それは、とてつもなく実践的な、生活の安否に関する内容。
「その後、状況が落ち着いてくれば、読み書き、そろばん。さらに興味があれば、職業訓練校に行くみたいな。そんな流れです。」
フィリピンは子沢山の国である。貧困層では特に子供の比率は高い。そこで罪の軽重を教えることから始まって、様々な過程を経て、衣食住もサポートしつつ、子供に教育を施していくのは、並々ならぬ時間と根気を要するに違いない。

「このアパートのすぐ近くにも、ここ10〜20年のうちに成立しちゃった貧民街があるんです。明日の朝、よかったら見に行きますか?」
「うん、ありがとう、、。」
日本からの長距離移動で、私は眠くなりつつあった。

このアパートの3階には、共同のユニットバスはあるがシャワーはお湯が出ない。
「お湯を使ってお風呂に入りたいときは、こうするんです。」
市川さんは、なんと炊飯器でお湯を沸かし、それを風呂場のバケツにためて水でちょうどいい温度にした。それを手桶で組んで使うようにして私はお風呂に入らせてもらった。

寝る前に、明日はまず朝どこかで両替して、8時発のビクトリーライナーのバスでバギオに向かう予定であることを伝えた。すると市川さんは、
「それならペドロギルに両替しに行くのがいいと思います。キリノは地元の人しか住んでいないので両替商がないんですよ。それで両替した後、ペドロギル駅からLRTに乗ってエドゥサ駅に行って、そこから歩いて10分ぐらいでビトリーライナーのバスターミナルに着くと思います。6時30分ぐらいにうちを出れば大丈夫かな、、。」
と時間を見積もってくれた。

「どうぞ内田さんは二段ベッドの上で寝てください。」
彼女はぽんとマットレスを叩いた。

大雨で冠水していたバクラランの町、意外にも日本人の口に合うフィリピンのおかず、マニラに何箇所もあるという貧民街。それらが到着初日に感じたフィリピンへの印象であった。



9月22日 マニラからバギオへバスで移動。岡田さんに会う。バギオ泊

朝5時30に起床して、市川さんと私は小雨降る中、傘をさしてアパートからすぐ近くの貧民街に向かった。
「この道路から向こう側なんです。」
と彼女が指し示した場所は、2〜3階建のアパートが所狭しと並び、外壁のペンキはいたる所ではげていた。窓ガラスはひびが入ったり壊れていて、ビニールで覆ってある。無理に増設したと思われる最上階の屋根はゆがんだトタン板で、その上には手作りの曲がった煙突らしきものがある。見るからに貧しい人々が住んでいるエリアであることはわかった。

しかし、市川さんの住むアパートやその周辺も高級住宅地ではないので、道路一本で白から黒に変化するわけではなかった。

空は既に明るく、お店は徐々に開きつつあり、家の前に座る半そでシャツを着たおじさんたちは市川さんと私をやや物珍しそうに見つめる。何故か私は市川さんの後を歩きながら、やや身構えた。ジャカルタやクアラルンプールにはない、ちょっとした怖さを感じたのである。
思い出した。マレーシアのサンダカンの町にあったフィリピンの不法移民の住む地区の近くを歩いた時の感覚と同じである。それは、汚れてゆがんだ、今にも壊れそうな建物の状態から発せられていた、と思う。

「フィリピンでは本当に多くのNGOが活動しているんですよ。でもその支援の仕方も色々で。」
「色んな考えを持つ人がいるんだろうね。」
と相槌を打つ。施すべきは、衣食住か、教育か。教育ならば、まず何を教えるべきか。衣食住の満たされない子供たちに読み書きを教える必要があるだろうか。昨夜市川さんが言っていた「罪の軽重」は、理に適った教育内容かもしれない。

そのエリアを離れ、市場の近くまで戻ったところで、市川さんと私はおかゆ屋で朝ごはんを食べた。



おかゆ、おいしかった。



おかゆの写真を日本の携帯で撮ったのはいいが、どうもボタンの利きが悪い。昨夜のどしゃぶりで携帯が濡れて調子が悪くなってしまったのだろうか。

この後市川さんは、私の両替に付き添ってくれ、そしてペドロギル駅まで送ってくれた。
「じゃあ今度は来週の日曜ですね。気をつけて山に登ってきてください!」

私はエドゥサ駅までLRTに乗った。ここは、マニラ中心部の南部にあたり、多くの高速バス発着所がある。片道3車線の主要道も走っており、バスや車、行きかう人々、排気ガスが混ざりあって脈打っているような場所である。ビクトリーライナーは1時間毎にバギオ行きのバスを運行しており、私は5分前にバスターミナルについて、かろうじて8時発のバギオ行きのバスに乗ることができた。乗車時間は約6〜7時間、走行距離約300キロで値段は455ペソ(1047円)。

バスの中は空いており、私は後部座席のほうに座った。フィリピン携帯を見ると市川さんからメールが届いている。

Buji ni bus ni norimashita-ka? Okiwo tsukete~!
(無事にバスに乗りましたか? お気をつけて!)

Ittekimasu! Mata renraku shimasune!
(行ってきます! また連絡しますね!)

と返事。このようにフィリピン携帯でのメールのやり取りはローマ字となる。相手の電話番号さえわかればメールが送れるので大変便利で、今回の旅はこのフィリピン携帯のメール機能が大活躍することになる。それにしてもバスの中は冷房が過剰に聞きすぎて寒い。私はレインウェアのジャケットをザックから取り出して羽織った。

フィリピンの首都マニラは、人口1100万人をかかえる大都市で、その中心部を抜けるのには時間がかかった。車窓から眺めるマニラの町の印象は、霧雨の影響もあってか、暗く排気ガスで薄汚れており、あまり好ましい感じではない。特にその汚い感じをかもし出すものが、電柱と電線である。

日本の電線ならば、秩序だって定まった本数が絡まずにきっちり張られているが、ここマニラのものは何十本もの電線がまるで櫛が通らなくなった髪の毛のように絡まりあって、電柱と電柱の間にだらりと垂れているのである。増設工事の途中なのだろうか、いやそれにしてももう少し整理しておいておくだろう、、。フィリピンの電線の構造は、全く持って不可解であった。

しばらくしてバスは、マニラ郊外を走るようになり、周囲には田んぼが広がり、その中には水牛が見られるようになった。牛と違って大きな角を持ち、力もあるため農耕用に使われる牛の仲間である。



水牛(写真はWikipediaより)



フィリピンの公用語であるタガログ語、そしてマレー語でも、水牛のことをクラバオと言う。そして牛のことは、タガログ語ではバカ(baca)、マレー語ではサピという。日本人は、牛も水牛もほとんど同じと感じるが、 言葉とは不思議なもので、彼らはクラバオと、バカもしくはサピは全然違うと主張する。あるものに重要な差異を認める文化圏では、それらに異なる名称をつける。つまり東南アジア圏では、牛は食用、水牛は農耕用と、生活面での差異が非常に大きいのだ。

逆に日本人にとってのそれは、稲、米、ごはんであろう。英語ではこれらは全てRiceである。もし、少し日本語ができる欧米の人に、
「イネ、コメ、ゴハンは、同じデショウ?」
と言われたら、私は憤然として
「違う、違う、全然違う!」
と切り返すだろう。

今日はバギオに宿泊の予定である。私はロンリープラネットを見て、手ごろな値段のバギオ・ビリッジ・インというホテルに携帯から電話をして予約を入れた。

そして何度も読んでいるプラーグ山のページを開いた。2922メートルのこの山は、フィリピンで3番目に高く、(1番目Mt.Apo 2954メートル、2番目Mt.Dulang-dulang 2938メートル)山頂を含む一体が国立公園となっている。山頂に登るルートはいつくかあるが、一番簡単なものは国立公園本部がある山麓のアンベンゲッグ(標高1500メートル)から、レンジャーステーション(標高2500メートル)まで移動し、そこから頂上までをピストンするコース。アキキトレイル(Akiki Train)という2泊3日のテント泊を伴うコースもある。私はこのアキキトレイルを歩きたく思っていたが、日本から電話して尋ねたところ、雨季は危ないから止めたほうがいいと言われた。

昨夜のバクラランの町のどしゃぶりを考えると、そのアドバイスには従ったほうが良さそうである。私は国立公園本部に電話をかけ担当者に、今夜はバギオに泊まり、明日アンベンゲッグに向かい、そこから歩いて標高2500メートルのレンジャーステーションまで行くこと、そこで一泊し翌23日に登頂したいことを伝えた。担当者は、メールで事前に連絡を取っておくといいと言って、プラーグ山国立公園の責任者であるライアンさん、そしてレンジャーステーションにいるラリーさんの携帯番号を教えてくれた。

バスの中から、その2人にメールを送るとすぐ返信があった。ライアンさんは、明日アンベンゲッグに行くためには、バギオのスローターハウスバスターミナルから出るバスとバンがあり、バスの始発は10時だが、バンは人は一杯になり次第出発するので、早めに行って待っているといいこと、また、レンジャーステーションには、台所があるから簡単な調理は可能であることを教えてくれた。ラリーさんは、レンジャーステーションで待っています、雨季だけど天気がいいといいですね、と返事をくれた。

ビクトリーライナーのバスは、2〜3時間ごとに休憩するために大きな停留所に止まった。バスが停車すると乗客が降りる前に、揚げ菓子やピーナッツ、ジュースなどを持った売り子のおじさん、おばさんたちがわらわらとバスに乗り込んでくる。それらの商品は、小腹が空いたときにちょうどいいサイズで、何人かの乗客が手を上げて売り子を呼び止める。また、乗客のみならずバスの運転手も彼らから商品を買っており、さらには小銭がなくなったために、運転手に両替してもらっている売り子のおじさんもいた。

日本ではありえない、なんともアバウトな感じの販売方式である。

売り子の人たちの動きが一段落したところでバスを降りると、そこにも蒸しパンやソーセージなどを売るお店がたくさん並んでおり、ミスタードーナッツのお店もあった。大きさは日本のミスドと同じだが、1つ15〜20ペソ(35〜45円)と安い。

トレイは5ペソ(12円)と有料で、その前には1回分のトイレットペーパーを丁寧に準備しながら、おばちゃんが待ち構えている。私はその料金を払って用を済ませてバスに戻った。

すると中では、まだ揚げ菓子の売り子のおじさんが粘り強く販売を続けていた。一回下車して、頃合を見計らってまた乗ってきたようである。なんとなく目があってしまったので、私はおじさんから揚げ菓子を買った。
「ユー、コリアン?」
と言われ
「ノー、ジャパニーズ」
「オー、ジャパン、ジャパン! ナイス!」
と言って笑顔で親指を立てる。購入してもらえたのが余程うれしかったらしい。

バスは発車し、バギオへ向けて北上を続ける。唐辛子が利いたソースのかかった揚げ菓子を食べた後、私はバギオでオーガニックカフェを営む、岡田さんに電話をかけた。何回かの呼び出し音の後、
「Hello」
「あ、もしもし内田と申します。」
「ああ、内田さん! 岡田です。始めまして。」
メールで何度かやり取りはしたが、声を交わすのは今日が初めてである。お互いに挨拶し、私は今バギオに向かう途中であることを伝え、今日時間があれば、岡田さんのカフェに行きたいということを言う。
「あ〜、ごめんね。今日は日曜日だからカフェはお休みなんですよ。」
しかし、彼女が今日は時間があるので、私と一緒にバギオでの探索に付き合ってくれるという。
「今はまだ平らなところを走っていると思うんだけど、しばらくすると山道を登りだすのね。そうしたらまた電話かメールくれますか。そこから一時間ぐらいでバギオだと思うから。」
「はーい、わかりました!」

バギオは、ルソン島北部に位置する高原都市で標高1500メートル、人口25万人を包する。4つの大学があり、多くの学生が生活する学園都市でもある。

午後2時を過ぎた辺りから道路は急勾配になり、ぐんぐんと標高を稼ぐようになった。と同時に車窓の外には鬱蒼とした緑に覆われた山塊が遠望できるようになった。そしてその山脈のいたるところに集落が点在する。

午後3時過ぎに、バギオのバスターミナルに到着し、私は岡田さんと落ち合った。そして町の中心部に向かうために、とりあえずジープニーに乗った。
「岡田さん、今日はどうもありがとうございます。家からここに来られたんですよね? バギオのどこら辺に住んでるんですか?」
「えっとね、実は私バギオじゃなくて、トリニダッドっていう北に5キロ離れた町に住んでいるの。でもトリニダッドって言ってもみんなわからないからバギオって言ってるんだ。」
と彼女は笑った。バギオの町は、坂が多く道路はよく蛇行する。ジープニーは、10分程でセッションロードと呼ばれるバギオ中心部の繁華街に着いた。

「明日から山に行くんだよね? その前にそろえなきゃいけないものとかある?」
と聞かれて私ははっと思い出した。今朝から調子の悪かった日本携帯のボタンが完全に効かなくなっていた。この携帯で写真を撮るつもりだった私は、今一枚も写真を撮れない状態だった。
「実は携帯のカメラが壊れてしまったんです。せっかくプラーグ山に登りに行くから、どうしても写真撮りたくて。もういっそのこと、新しいカメラを買おうかなと思ってもいるのですが、、。」
「そっか。あのね、携帯を修理してくれるお店は山ほどあるの。直るかどうかはわからないけど行って見る?新しいの買うよりは、ずっと安くつくと思うけど。」
私は岡田さんの申し出をありがたく受けた。彼女は近くにあった携帯のお店の店先で、お店の人に話しかけた。そして私の携帯を見せながら、その不具合を説明する。店員は携帯の裏を空けて、細かい作業を試みた後、何か言った。岡田さんは、その説明を聞いて納得する。
「ダメだって。ここのお店には、直すためのパーツがないんだって。でもそれがあるお店を教えてくれたよ。」
「そうですか、、。じゃあそのパーツがあるというお店に行ってみていいですか。」
しかしその2番目のお店では何故か直せないといわれ、次のお店ではクリーニングが必要だと言われ、それをするために2時間ほど預けたのだが、結局私の携帯は直らなかった。

携帯修理のお店周りのためにセッションロードを歩いているときに、岡田さんは偶然知り合いと会った。赤ちゃんを抱いた日本人の奥さんと、フィリピン人の旦那さんである。

岡田さんと奥さんは久々の再会を喜び、赤ちゃんの顔を撫でながら会話に花を咲かせる。奥さんは、日本で留学生のための技術研修の講師を勤めた経験があり、その時にフィリピンから来た旦那さんと知り合って結婚したという。

私は、「日本語はムズカシイです、、。」という旦那さんとお話をする。自然保護に関するNGOで働いており、今までに日本に行ったことは2回。今度赤ちゃんを連れて初めて日本に帰るので、今日はこれからパスポートの写真を撮りに行く。国際結婚は大変なことも多いだろうが、お二人はとても幸せそうだった。

この後、セッション通りの端にあるバギオ大聖堂に足を伸ばした。バギオで一番大きいこの教会で、先程の二人は結婚式を挙げた。その時に岡田さんは、新婦の後ろで花束を持つ係りをしたという。

日曜日の今日は、教会の中に納まりきらない程人が集まり、マイクから流れてくる神父の話に熱心に聞き入っていた。中も満員とすれば、500人以上は優にいそうな雰囲気である。こんなに多くの人が教会に集まっているのを、私はイギリスでも見たことがない。

フィリピンは人口の9割以上がカトリック教徒で、2010年の総人口は9400万人で2020年には1億人を越えるとされる。同じくカトリック国のフランス、イタリア、スペインもその割合は9割に近いが、人口がフィリピンより少ないため絶対数は4000〜5000万人前後となる。2億の人口を抱えるブラジルでのカトリックの比率は約7割で、信徒の数は1億4000万人となる。こう考えるとフィリピンは世界トップクラスのカトリック国である。

「カメラ、どうする? MSモールに電化製品のお店はあるよ。」
「じゃあ、そこ行ってみていいですか。お願いします、、。」
修理、そして今度は購入と、カメラに翻弄されていることを申し訳なく思いつつ、2人はバギオで一番新しくかつ最大のショッピングセンター、MSモールに向かった。MSとはSave More(もっと得しよう)の略である。西友のKY(価格、安く!)を、私はふと思い出した。

入り口にはマニラのLRTに乗るときと同様、荷物のセキュリティーチェックがあった。それを終えて中に入ると、1階には膨大な面積を誇るスーパーマーケットがあり、そこを抜けるとベーカリー、チャイニーズ、ハンバーガー、ピザ・パスタといった色んな店舗が並ぶフードコート、その先の広場は天井まで吹き抜けで、最上階までをつなぐエスカレーターには鈴なりに人が乗っている。
「今日は日曜日だから特に人が多いかも。私はよく閉店間際の9時前に買い物して、トリニダッドに帰るんだよね。」
「そんな時間までバギオからトリニダッドへのジープニーがあるんですか。」
「あるある、けっこう12時近くまで走っているよ。」
3階に電化製品の店舗が何軒かあり、その中のカメラ専門店に私たちは入った。にこやかに話しかけてきた女性の店員は、真紅のスーツを着て、ばっちりとお化粧もしていて、市場で魚を焼いているおばちゃんとは格が違う。
「あの、、デジタルカメラを探しています。なるべく安い、、。」
「それならこの棚になります。」
ショーケースの中にきれいに並べられたカメラは、どれも最新機種であり一番安価なクラスが4000ペソ(9200円)前後。
「10000円未満ぐらいか、、。日本でも同じぐらいの値段だろうか。」
私はそう考え、店員と交渉を始めた。
「これは、メモリーカードも付いていますか。」
「ついています。USBでつないで直接パソコンにダウンロードできます。」
「何枚ぐらい写真取れますか。」
「ちょっと待ってくださいね。」
店員はケースからカメラを取り出し、
「今設定されている写真のサイズで1200枚です。サイズは大きくも小さくもできます。」
「なるほど、、。ちょっとディスカウントしてもらえますか。」
私が買う気を見せたので、店員も
「じゃあメモリーカードも含めて3900ペソ(8970円)にしましょう。どうですか。」
と値引きに対応してくれた。

こうして私は、FUJIFILMのFinepix JX500 BL01632-100の赤色のカメラを手に入れた。

カメラを購入するのは何年ぶりだろう。
「岡田さん、ありがとう。これで安心してプラーグ山にいけます。」
「よかったね。」
早速買ったカメラを持って、バギオの街が見渡せる最上階のテラスに行った。

バギオ大聖堂、ホテル群、大学と背の高い建物が街の中心部に建ち、遠方の急峻な山肌には2〜3階建の家屋が所狭しと肩を並べあって林立している。
「凄いですよね、、。あんなに急な斜面に、、。日本ほど建築技術が高いとも思えないし、。」
「そう、だから1990年にバギオで地震があったときは、町が壊滅的な被害を受けたんだよ。」
と岡田さんが言う。

1990年7月16日、マグニチュード7.8の大地震がバギオを襲った。1621人が死亡、数千人が重軽傷を負い、急斜面に建つ建物は壊滅的な被害を受け、さらに1500メートルの高地に位置するということが救援物資の搬送を困難にした。

数年を経てバギオの街は復興するが、現在問題となっているのがインフラ整備を遥かに上回る人口増加だという。
「1番ひどいのがゴミ問題なの。バギオにはゴミ焼却場がないから、わざわざ平地までゴミを運ぶんだよね。」
バギオの人口は25万人である。その輸送費は馬鹿にならないだろう。またゴミの削減化を図るために、一般家庭の燃えるゴミは収集してくれず、各自でコンポストして処理することが推進されている。
「でも、、バギオの街で庭のない住民ってたくさんいますよね?」
「もちろん。だから全然理に適ってないシステムなの。」
目の前の美しい風景の裏側には、そういう厳しい現実問題がある。

又バギオの特徴として、ここ近年英語を勉強するために多くの韓国人が短期留学しに来ている。北米や英国に較べて近く、滞在費も安く済む。そんなバギオの街を背景にして、私たちは新しいカメラで写真を撮った。

そしてMSモール内の日用品売り場で、私は傘を探した。折り畳み式、ワンタッチ、軽量化のものといろいろあったが、一般的な傘を選ぶ。
「山に行くのにそんな大きい傘なの? 折り畳みじゃなくていいの?」
「このタイプだと、山行くときに杖にもなるんですよ。使わないときは、ザックの後ろにさして歩けば大丈夫だし。あと、折りたたみは強風だったらすぐに壊れそうで。」
MSモールは高級ショッピングセンターなのでやや割高の380ペソ(874円)という値段。

カメラ代を現金で支払ったため、新たに両替する必要があった。
「両替は確か中央市場にレートがいいところがあった気がする。市場に買い物しがてら行ってみる?」
「はい、お願いします!」
今日のバギオ探索は、岡田さんという専任ガイドにお世話になりっぱなしである。暗くなりかけたセッション通りを下ると大通りに突き当たり、そこを渡るとバギオ中央市場がある。歩きなれている岡田さんは颯爽と歩道橋を渡って市場に入り、私も遅れじとその後に続いた。そこは膨大な敷地面積の中に、屋台ほどの大きさのお店が何百と並んでいて、中にある路地は右に左にと曲がり、一見迷路のようである。岡田さんは
「バギオは山に囲まれているから、木の彫り物とか、あと銀細工が有名なんだよね。」
と言って、木工品、織物、伝統衣装、銀細工などがある区画を一周してくれた。

それぞれの屋台には数ある商品が、棚の中に並び、台の上におかれ、壁に飾られ、天井からも吊るされ、目移りどころか目迷いしそうになる。
「こんなところで立ち止まってキョロキョロしたり、カメラ取り出したらしたら、観光客ってことが一発でばればれなんだろうな、、。」
と思いながら岡田さんの後をついていくと、彼女は細い路地の角にある商店にすっと入った。

そして中の店員のおばちゃんに両替のレートを聞いて
「10000円が4300ペソだって。どうする? もう一軒あるけどそっちでも聞いてみる?」
「はい、じゃあ念のため、、。」
もう一つのお店では、お店の人が若干おまけをしてくれて、10000円を4310ペソに両替することができた。

「何か買いたいものある? おみやげとか、、。あ、でも山にもって行くのは面倒か。」
「おみやげはとりあえず大丈夫なんですが、山のための行動食が必要なんです。パンとインスタントラーメン、あと果物を適当に買えればと思っているのですが、、。」
「うん、大丈夫。買えると思うよ。探してみよう。」
岡田さんがいてくれて助かった!と思ったのは、バナナとグアバを買った時である。パンを買うときには既に値段が表示されていたのでただその金額を払えばよかったが、果物屋にある天井に吊るされたバナナや木箱の中に山盛りとなっている類には値札がない。

岡田さんは果物屋が並ぶ区画を一通りまわった後、一番質のよさそうなバナナを吊るしているお店のおばちゃんと交渉を始めた。何か私のわからぬ言葉で2〜3度やり取りをし、
「もう熟れていてすぐに食べられるバナナと、まだ固めのがあるけど、どっちがいい?」
「山の登るのは2日後だから、、後ザックの中に入れてつぶれないためにも固めのほうがいいかな、、。」
「うん、わかった。」
そして25ペソ(58円)で7本ほど房のついたバナナを購入。その後
「他にもなんか果物買う?」
「えっと、、私ナイフを持っていないんですよね。だから皮をむく必要がないものがあれば、、。」
「じゃあグアバはどう? ビタミンCもとれていいかもよ。」
という訳で、岡田さんがまた交渉してくれて、グアバ1/2キロを15ペソ(35円)で購入。

私一人だったなら、恐らく3〜4倍高い言い値で買うことになっていただろう。そして近くの小売店で1つ8ペソ(19円)のインスタントラーメンを4つ買い、買出しは完了した。
「岡田さん、本当にありがとうございます。お礼の言葉もありません。」
「いいよ、いいよ。後は明日アンベンゲッグに向かうバスが出るスローターハウスバスターミナルの場所を確認して、ホテルに行けばOKだね。」
そのバスターミナルは、中央市場から10分ほど歩いて北上したところにあった。
スローターハウスとは屠殺場のことである。昔はその用途に使用されていたのであろう、どことなく暗い雰囲気があり、バスが駐車するスペースも未舗装で水溜りや砂利が溜まっておりどことなく小汚い。

岡田さんはその駐車スペースの脇にたむろしている何人かの男の人たちに声をかけて、アンベンゲッグ行きのバスについて尋ねた。
彼らが小田原評定の如く話し合うのが聞こえ、それらの情報を総合して、岡田さんは私の方に振り返った。
「定期バスのほうは10時に出発。バンは人が集まればそれより前に出るかもって言ってる。」
「それ、私がプラーグ山国立公園のライアンさんからメールで教えてもらった情報と同じです。だから間違ってはいないですね。」
その中の一人のお兄さんはバンの仕事をしており、明朝もここにいるから自分のことを探してくれと言った。

その後、バスターミナルに併設している屋台で、岡田さんと私は夕飯を食べた。魚の頭が入ったスープ、野菜の炒め物とご飯。

近くにいたおじさんが私たちに声をかけ、岡田さんが地元の言葉で返事したことに彼は驚き、嬉々として色んなことを尋ね始めた。岡田さんの会話には少しのよどみもなく、私はただただ感心するばかりである。途中少し会話が途切れたときに、私は聞いた。
「タガログ語ですか?」
「ううん、イロカノ語。バギオから北のほうだと、地元の人たちはイロカノ語をしゃべるんだよね。普通のたいしたことない会話だよ。」
またおじちゃんが岡田さんに話しかけ、彼女は頭の中の言語のスイッチをイロカノ語に切り替えた。

私はしばらくの間、二人を代わる代わる見ていたが、当然ながら全く理解不可能で、必然とテーブルの上の夕飯に手が出るようになる。魚の頭が入ったスープは、脂身がいい味を引き出していておいしい。

岡田さんとおじさんの会話は1時間以上に及んだだろうか、その後バスターミナルから5分ほど歩いた所にある今日の宿であるバギオ・ビリッジ・インに向かった。

後で知ったが、タガログ語とイロカノ語は、方言というレベル以上の差異を持っている。旅の指差し会話帳によると、アイラブユーは、下記のフィリピンの主要4言語によってかくも変化する。

タガログ語 Mahal kita

セブアーノ語 Gihigugma ko ikaw

イロカノ語 Ay ayatin ka

イロンゴ語 Ginahigugma ko gid ikaw

若干、セブアーノ語とイロンゴ語のアイラブユーに類似点が見られるが、他には全く共通点がない。フィリピン全土には、約220の言語が存在するという。タガログ語は一応フィリピンのオフィシャル言語であるが、それを日常的に使うのはマニラを中心とした2200万人の人たちである。

バギオ・ビリッジ・インは、ダークブラウンの木材が印象的な温かみのある木造の建物だった。受付を済ませ荷物を部屋に置いた後、私と岡田さんは2階の広間にあるソファに座った。
今日一日色んな買い物につきあっていただいたお礼を言って、私は尋ねた。
「岡田さんは、青年協力隊でフィリピンにいたんですよね? そのときも栄養士か何かの仕事だったんですか?」
「ううん、違う。私大学で林学を勉強していたから、協力隊の時もそれ関係だったよ。」
植林や森林保護活動に携わっていたという。青年協力隊の任期を終えた後は、日本でしばらく働いていたが、フィリピンに再度戻ってやりたいことができた。それが今のオーガニックカフェである。体にいいものを作っている農家さんの生産物を買い、それをお客さんにおいしく食べてもらう。ということをコンセプトに岡田さんのカフェ・パンタイはスタートした。トリニダッドの町の中央市場のすぐ近くの建物の3階にそのカフェはある。

4テーブルしかない小さなカフェだが、そこで調理、フロアー、片付けと全ての仕事を自分で行う。最近はフィリピンでも有機野菜への注目が高まっており、食材はトリニダッド周辺の有機野菜連盟の農家から仕入れる。カフェ・パンタイへのお客さんも、有機野菜、病気、健康という意識を持った人が多い。

「農薬とかが使ってある体に悪いものを食べて病気になって、それを直すために薬を飲んでって言うのがおかしいなーと思って。それに無農薬のいい野菜を作っている農家の人を応援したいとも思って。」
私も岡田さんの意見に全く同意見である。生の基本となる食物に根源的な問題があり、それによって引き起こされる病状を緩和するために医薬品を多用する現代の社会。しかし、私は今その医療品業界で働き安定した収入を得ているので、何も偉そうなことは言えない。その想いを、オーガニックカフェ経営という形で実現につなげている岡田さんは素晴らしいと思う。

岡田さんの懸念するように、今の日本の医薬品業界では、アレルギー関連の薬が大きく売り上げを伸ばしている。そしてアレルギー系疾患、慢性疾患などは、食品添加物、農薬、排気ガス等に含まれる化学物質が根本的な原因の1つと考えられている。

この後、岡田さんと私は日本とフィリピンの文化の違いについて色々話した。フィリピンでは、一人でご飯を食べることは恥ずかしい、かつかわいそうと思う風習があるという。
「私が前に住んでいたフィリピンのホストファミリーの人は、私が遅く家に帰るとわざわざ夕飯を一緒に食べてくれるの。もう食べたんじゃないの? って聞くと、そうだけどまたお腹がすいたからとか言って。」
「あら、なんかやさしいですね。それ。」
「うん、まあ悪くはないんだけど、毎回そうだとちょっとね、、。一人になりたい時もあるし。」

今回の旅の間、私は食事をする時によくお店のおばちゃんに、
「No companio? (一緒の人はいないの?)」
と聞かれた。フィリピン人の感覚からすると、家族も友人もいなくて何が楽しいのだろう、かわいそうに思うのかもしれない。それは半分は正解で、確かに一人旅は正直言うと心細いことも多々ある。しかし一人ゆえの気軽さやフットワークの良さもある。

「フィリピンの人はみんなで仲良く一緒にという風に考えますよね。でもそれは、逆に言うと単独で努力を要すること、例えば自主練とか、そういうのは苦手なのかなって感じがする。逆に日本人は、こつこつ一人でっていうのが得意。」
「うん、まさにそう。フィリピンの人ってそうだよ。」
その国民性は、得意なスポーツにも現れているのではないか。日本人の得意ごと、マラソン、柔道、山登り。 是非はともかく、物事は二面性を持つものである。

岡田さんはフィリピンにおいて貧しいほど子供が多い傾向についても話してくれた。

「日本みたいに経済的なことが心配だから子供を生まないって言うのは、フィリピンでは全然当てはまらないよね。地方の農家とかは、人数が多いほうが作業が楽って言うのがあるけど、彼らは都会に出てきてもそうだから。皆若くして赤ちゃん生むから、祖母が面倒見てって言うのケースはいいのかなと思うけど。でもそれでお金がないとか学校に行かせられないとか言うから、もっとファミリープラン考えなよ、とか思っちゃう。」
と岡田さんは辛口批評。

教育施設等のインフラが整わない人口爆発は、マニラなどでの大都市に多くのストリートチルドレンを生むことに繋がる。フィリピンはそれらの問題を克服しなければならないが、解決の方向に向かえば、逆三角形の人口ピラミッドを築き上げつつある日本よりも、遥かに展望は明るいだろう。

「山からはいつ帰ってくるの?」
「予定通りにいけば、明後日の火曜日です。その後の予定は、ピナツボ山に行くつもりなんですが、詳細には決まっていなくて。よかったら下山後に、岡田さんのカフェ・パンタイに行ってもいいですか?」
「もちろん! 来て来て。ジープニーに乗ってトリニダッドに来てくれればすぐだから。」
彼女は、街の中央市場からの行きかたを丁寧に紙に書いてくれた。
「あの、カフェ・パンタイにいって、その日の夜にトリニダッドのどこかに泊まることって可能ですか?」 「泊まるところか。大学のゲストハウスがあると思う。余程のことがないと満室にはならないと思うから、下山したらメールして。そしたら予約入れてあげるよ。」
「よかった。ありがとうございます。」

岡田さんがホテルの前からトリニダッド行きのジープニーに乗るのをお見送りし、私は部屋に戻ってベッドに横になった。



9月23日 バギオからアンベンゲッグへバスで移動。プラーグ山小学校訪問。プラーグ山のレンジャーステーション泊。

6時30分に起床して荷物をまとめ、7時前にスローターハウスバスターミナルに着いた。開いていた屋台で朝ごはんを食べ、その後バスターミナルに行き、昨夜のお兄さんを見つけた。彼は笑顔で私を手招きし、
「これがカバヤン行きのバンです。よかったら中に乗ってください。」
と言ったが、しばらくは出発しそうにない。
「ううん、まだいいです。」
私は近くの屋台のテーブルに座って
「830頃には出発してくれるといいな。」
そう思いながら、ロンリープラネットを開き、電子辞書を用いながら、フィリピンの歴史の項を読んだ。

大航海時代に、スペイン王カルロス1世に献策する形で世界一周に臨んだマゼランは1521年にフィリピンのセブに上陸し、近隣の部族を次々と制圧したが最後までスペインに屈しなかったラプラプ王に殺されてしまう。その後、スペインは ミゲル・ロペス・デ・レガスピを指揮官として艦隊を送り込み、1564年にセブ周辺を完全に掌握。遅れること1571年、スペイン艦隊は当時マニラにあったイスラム勢力をもその支配下におき、その時から約370年に渡って、フィリピンはスペインの植民地となる。統治者となったスペインは、強力にカトリック化を推し進めたが、現地の人々に教育を施すことはほぼなかった。

しかしこの状況は、19世紀に入り徐々に変わっていく。カトリック教における堕胎、離婚禁止という概念は、スペイン人、華僑、現地の人々の混血を進め、その中には、高等教育を受ける人たちが現れる。その中の1人、ホセ・リサールは1861年の生まれで、スペインからの独立運動の中心的人物である。彼は反政府運動を扇動した容疑により、スペイン当局に捕らえられ、1896年に射殺される直前に下記の言葉を残した。
「私はフィリピンの独立を最も望む。しかしそれより重要なのは、フィリピンの人たちの教育である。そうすることによって、フィリピンが勝ちうる独立は真に価値のあるものになるだろう。」
彼の意思は、その死後も民衆に引き継がれ、当時スペインと交戦状態にあったアメリカの支援を得て、1899年にフィリピンは独立。この時運動の中心的存在だったエミリオ・アギナルドが初代大統領として就任する。

ここまで読んで、私は伸びをするために立ち上がった。時刻は8時過ぎで、いつしかバンの中には数人の地元のおじさんたちが座っていた。
バンのお兄さんにいつ出発するのか聞くと、お客さんが一杯になったらと言う。何時になることやらと思いながら私はまた読書に耽った。

しばらくして外国人のカップルがやってきて、彼らがバンに乗り込むとようやくエンジンがかかり、私も荷物を持って乗り込んだ。中には、満席ではないがすでに10人近い人が座っており、一刻も早い出発を期待したが、しばらくして何故かエンジンは止まってしまった。
「なんで? エンジンをかけたのは、ひょっとして出発と見せかけて、乗客をつかの間安心させるためだったのか?!」
時計を見ると9時20分でさすがに私は痺れを切らした。バンを降りて、バス停の様子を見に行くと10時出発のカバヤン行きのバスは既に来ており、乗客も多く乗っている。予定通りに出発しそうな雰囲気である。ならば、私が7時からバンの出発を待っていたのは一体何のためなのか。本当に客が一杯になるまで待つならば、いつまで経っても出発しないであろう。

私はバンに戻って、車の後ろでタバコをすいながら歓談している運転手と客引きのお兄さんの前に立った。そしてあからさまに不機嫌な表情をして言った。
「あのさあ、何時になったら出発するつもりなの? もうバスは来てるじゃない! 今すぐ出発しないとバンの中の乗客に言うよ。バスに乗ったほうが早いですよーって。」
さすがにこの台詞は効を成した。二人はあわてて立ち上がり、
「わかった。もう出発するよ。」
運転手のおじさんは運転席に乗り、お兄さんは乗車席の1つに座り、かくしてバンは9時30分に出発。

標高1500メートルの起伏ある高原に見事に建物が密集したバギオの町。そこをまさに縫うようにバンは進んでいく。赤や緑といった住人の好みで塗った外壁が、おとぎの国のような雰囲気を醸し出す。

バギオの街を抜けると、車窓からは壮大な山岳風景が広がるようになった。その巨大な山塊の斜面にかろうじて作られた道路は、大きく蛇行を繰り返して、深き山間に進んでいく。約2時間走った後、お昼を食べるために定食屋に20分ほど止まり、その後さらに1時間走って12時30分にアンベンゲッグに到着。そこはバギオの町とは対照的に、道端に鶏が何匹も見られる小さな村で、私はほっとしながらバス停からすぐのプラーグ山国立公園の本部に向かった。

出迎えてくれたのは、年配のおばさんで、私はここで入山料680ペソ(1564円)を支払い、オリエンテーションとして約15分のDVDを見た。

昔からプラーグ山域を狩猟場所としているイバロイ、カヤングヤ、イフガオ、イロカノといった山岳民族の人々、標高が上がるに従って広葉樹林から木性シダを含む雲霧林、そして山頂近くで矮生化した竹の草原へと変化する植生、そしてプラーグ山をトレッキングする上で守るべきルールなどがわかりやすくまとめられ、いいDVDだと思った。

おばさんに尋ねると、プラーグ山への登山者は年間たったの4000人だという。
「でも乾季の4〜5月の週末には、200人ぐらい登ることがあるのよ。」
と彼女は言ったが、年間20万人の富士山と比較すると、遥かに少人数である。ちなみにこのプラーグ山登山のことは、地球の歩き方には一言も触れられていない。アンベンゲッグまでのアクセスの大変さや、問い合わせなどを全て英語でやり取りしなければならないのが原因だろう。

アンベンゲッグは標高が約1500メートルで、ここから標高2500メートルのレンジャーステーションまでは、ほとんど舗装されておりオートバイを頼んで乗って行くこともできる。しかし私はあえて歩くことを選択した。
「普通の人なら4時間ぐらいかかりますよ。」
とおばさんは言う。
「大丈夫だと思います。私、日本でもよく山に登っているので。」
普通の人が4時間ならば、私は3時間だろうと見積もって、午後1時にビジターセンターを出発した。

アンベンゲッグの集落を抜けると、辺りは段々畑になり徐々に標高を稼いで行くようになった。道は完全舗装の所もあれば、半分のみで工事中の箇所もある。しかし数年後には全ての舗装工事が完了するであろうことが感じられた。

しばらく歩いて私は広大な谷間が見渡せる場所に出た。
急斜面には丹念に段差をつけて切り開かれた段々畑が広がっている。その畑の周辺にも集落があり、その中の建物の1つは白亜の教会だった。美しさに見せられて思わずシャッターを切る。しかしよく見ると、1つ1つの畑は8〜10畳ほどの大きさしかなく、それらが10〜20段近くに渡って連なっているが、総面積は大したことないことがわかった。かつこの段々畑では、機械を使うこともできず、全て人手による作業である。そのような生産性の低い急斜面を耕すということは、それだけ土地がないのだ。

ルソン島北部の山岳地帯には、このような段々畑が遥か昔から存在しており、特にバナウェにあるものはその広大さと美しさから1995年に世界遺産に登録された。しかし後継者不足等の問題により、2001年には世界危機遺産となった。

途中、小さい集落を何回か通り、耕作地にはお米だけではなく、冷涼な気候を利用してキャベツや人参が育っているところもあった。時々それらの野菜を積んだトラックが走っていく。
山岳地帯の人たちは高原野菜を育てて、それをバギオなどの町の市場で販売し、それが大きな現金収入の糧となっている。

高度計が2500メートル近くなると、また1つのまとまった集落の中に入った。Mt. Pulag Ranger Stationという看板がある。ようやく目的の集落に到達したらしい。日本には3000メートルを越える山々はいくつもあるが、集落があるのはせいぜい1500メートルの高さまでだろう。ところが、ここには集落があり、村人が生活している。家屋があり、庭には洗濯物が干されている。多くの洗濯物は、カラフルな子供たちの洋服で、子沢山のフィリピンらしい風景が風に揺れている。

集落内の道を登っていくと、Mt. Pulag Primary Shoolと門札を掲げた小学校があった。校舎の壁には、子供たちが想像力の赴くまま絵筆を走らせた、夢の世界の様子が描かれている。ちょうど15時30分は下校時間で、元気の有り余った男の子達や、はにかんだしぐさを見せる女の子達が、門からあふれ出てきた。
「わー、かわいい! 写真撮ってもいいかしら。」
私は何枚か写真を撮り、その撮った画像を見せると、子供たちはそれを一瞬見て、その後大声で笑い出す。しばらくして、その様子に気付いた女性の先生が門のところに来て、
「あらら、怒られるかしら。」
と思ったところ、
「こんにちわ。よかったら、中でコーヒーでもいかがですか。」
なんと、誘ってくださった。

案内された職員室には、声をかけてくれた先生以外に5名の女性の先生がいた。年配の女性が学校主任でレナ先生という。他の先生達は、皆20〜30代の年齢に見える。お互いに自己紹介をして、一日の仕事を終えた後のコーヒータイムに、私も参加させてもらった。

この学校には、幼稚園生と1年生〜5年生までの子供たちがおり、それぞれのクラスを1人の先生が担当している。クラスの人数は20〜30人で全児童数は150人ほど。この村の規模を考えると、子供の比率がとても高いと思われる。
私は、明日プラーグ山に登るために、今日アンベンゲッグの村から3時間かけてここまで歩いてきたことを話した。

我々の歓談する様子を、職員室の窓から何人かの子供たちが興味しんしんに眺めている。私が笑顔で手を振ると、彼らは「OKが出た!」という感じで、部屋に入り、テーブルの前に集まってきた。
私は彼らに折り紙を作ってあげようと思い、
「すみません、何か要らない紙がありますか?」
「ありますよ。これでいいですか?」
「大丈夫。ばっちりです。」
私はA4の紙を1枚受け取り、子供たちに向かって
「いいですか? 今から折り紙をやるよ。Origami、Paper-folding、知っている?」
パタパタ鶴を折ろうと思った。これは鶴の変形バージョンで尻尾を引っ張ると羽が上下にパタパタと動き、子供たちにはとても喜んでもらえる。
「じゃ、今からバードを作ります。」
子供たちと先生の視線が、私の手先に集まった。

正方形から三角、三角を経て、1/4の正方形。そして花弁折り。左右の羽を作り、頭と尻尾を完成させる。あっという間に鳥の形になったことに子供達は笑顔になり、
「でね、これはパタパタするの。」
私がそうやって見せると子供たちばかりでなく、先生達も感嘆の声を上げた。
一人の男の子が手を差し出す。その手の平においてあげるとうれしそうにパタパタを試し、隣の子がパッと手を出す。
「わ。けんかしないで、みんなで遊んでね。」
という私のとっさの日本語の意味を先生も汲み取ったのか、彼らに何か言って諭した。

しばらくすると子供達は元気に下校していき、その後私は先生達と色々と話した。

「フィリピンの食事はどうですか?」
「おいしいです!といっても、私まだフィリピンに来て、3日目ですけど、、。お米を食べるのは日本人と同じですし、魚や野菜のおかずもおいしいです。」
「Balutという卵を食べたことがありますか?」
「バルート? あっ、なんか変な受精卵ですよね。半分ひよこの形がわかるみたいな、、。」
バルートとは滋養強壮のためにフィリピン人が食べる鶏の受精卵で、発生段階に応じていくつかの種類に分けられる。発生後期のものは、ひよこの心臓や羽等の形状がわかるため、食すのは相当勇気がいるらしい。
「先生方は食べられるんですか?」
「時々、、。」
「体のためにいいんですよ。」
「でもちょっと高いんですよね。」
という返事。
しかし日本人も、納豆を初め、烏賊や蛸やホヤ等の軟体類、イナゴの佃煮など、外国人からみればけったいなものをよく食べる。食に関する慣れとは、まが不思議である。
ビ 話は経済のことになった。日本からマニラの往復航空券が38000円だったことを言うと、
「わー、私たちの1か月分の給料より高いわ、、。」
と先生方はため息をついた。彼女らの給料は、日給に換算すると300ペソ(690円)だという。
「日本では学校の先生だったらどれぐらいの給料なんでしょう。」
と聞かれ、
「日本では、公立の学校の先生の初任給は月20万円ほど、でも家賃は4〜5万かかるし、お昼だって600〜700円はするし、生活費も高いんです。」
と言いつつも、日本はフィリピンに較べて遥かに経済的に豊かであると思った。300ペソ(690円)を円に換金したら1回の定食代にしかならないが、10000円をペソに換金すれば10日間の滞在費になりうる。
「そうですか、、。日本は豊かでいいですね。だから多くのフィリピン人が日本で働いていますよね。」
「確か介護分野と、あと夜のお店とかでもと聞いたんですが、そうなんですか?」
そう聞かれ、私は思わず肩がすくんだ。いわゆるフィリピンパブのことである。日本のナイトクラブや男性向けのエステ、マッサージ等の風俗業界で働く外国人女性は多いが、フィリピン女性の数はその中でも最多に近いであろう。どう返答すればいいのだろうか。
「あ、あの、、気を害さないでくださいね。いわゆるナイトクラブみたいなところで働いているフィリピン人の女性が日本にはたくさんいます。たぶん裏の世界でそういうブローカーがいるんですよ。ある意味、そういう仕事って学歴がなくても、日本語ができなくてもやれるんです。フィリピンと日本の物価差を考えると、日本で働いている人が貯金してフィリピンに送金するお金に、ものすごい数の親戚知人が頼っているんだろうなって思います。」
テーブルは、一瞬しんと静まり返った。
「あ、でもフィリピン人女性と日本人男性の結婚もすごく多いんですよ。」
これも事実の1つであろう。そしてここから話題が方向転換した。
「あゆさんは結婚しているんですか?」
と聞かれ
「いや、まだ独身なんです。」
「何歳ですか?」
「37歳です。」
「えー、お若く見えますね!」
私はレナ先生以外の、自分と同年代の先生方に結婚しているかどうかを尋ねた。5人のうち3人が既婚で、そのうち1人は11月に2人目の赤ちゃんを出産予定だという。その先生は、3年前の結婚式の様子を離してくれた。

フィリピンの田舎では結婚式には村人全員がお祝いに集まる。この村で挙げた彼女の式にも約1000人が集まり、料理として3匹の豚の丸焼きを用意して振舞ったという。結婚式があることは太鼓を叩いて村人に知らせる。その情報はくまなく村民にいきわたり、そんなに親しくない人でもみなお料理目当てでやってくる。
「1000人、、すごいですね。一体いくらぐらいかかったんですか?」
「約半年分の給料です。だから今も返済しているんです。」
「そっかー。大変ですね。」
しかし彼女の表情は2人目をお腹の中にかかえて幸せそうだ。旦那さんも別の学校で教師をしており、家ではベビーシッターを雇って子供の世話を頼んでいる。コーヒーやお菓子をつまみながら話は尽きなかったが、4時30分を過ぎ、そろそろお開きの時間となった。
「あゆさんは、明日プラーグ山に登るんですよね。登山が終わったらまたここに寄ってください。そしてクラスの子達に挨拶してあげてください。」
と光栄なお誘い。

小学校の門前には1人の男性が立っており、それは帰りが遅い身重の妻を心配して迎えに来た旦那さんだった。他の先生方がその愛妻家振りを笑う。

プラーグ山小学校の先生達と十二分におしゃべりを楽しんだと、私はレンジャーステーションの近くに家がある校長のレナ先生と一緒に歩き始めた。彼女は毛糸の帽子をかぶり、黒い厚めのコートを着ている。私もレインウェアを着ているが若干寒い。標高2500メートルのこの村では、12〜1月に時々雪が降るという。

10分ほど坂を登ったところに、赤い壁とトタン屋根でできたレンジャーステーションがあり、その前では赤いジャケットを着た笑顔のおじさんが私の到着を待っていた。昨日携帯で連絡を取ったラリーさんで、お互いに挨拶。彼は私がプラーグ小学校で先生達と歓談してくれたことを喜んでくれて、レンジャーステーションの隣の宿泊小屋に案内してくれた。

といってもその建物には電気がない。入ってすぐの部屋にはプロパンガスの使える台所だったが薄暗く、その横はガランとした広間、らせん階段を2階にあがるとラリーさんの寝室と客用の寝室があった。
「ここで泊まってください。シュラフはありますか? 大丈夫ですか。」
「はい、あります。ダウンジャケットもあるので大丈夫だと思います。」
その部屋には、使い古されたマットレスが1枚、そして板張りの壁には色あせたプラーグ山のポスターが張ってあった。夜は真っ暗になるので、ろうそくをくれるという。普段テントや非難小屋に泊まり慣れている私でも、ちょっとどきりとする感じである。

「男性、女性のガイドがいるけれど、どちらがいいですか?」
と言われ、1階に降りていくと、そこには既に2人のガイドがいた。双方とも20代の男女と見える。最初に眼が合ったのが男の子だったので、彼に明日のガイドを頼むことにした。明朝2時に出発して頂上で朝日を見て降りてくるというコース。名前はロベルト君、私は彼と握手して自己紹介した。

既に外は暗くなり始め、ラリーさんがつけてくれたろうそくの明かりで、私は買ってきたインスタントヌードルと野菜をゆでて夕飯を作った。ラリーさんとガイドの2人が英語とタガログ語を交えて話す会話を、私はラーメンを食べながら聞く。以前はラリーさんもガイドをしていたが、今は彼らを統括する立場にあり、地元でガイドに登録している人は約40人。ロベルト君のガイド歴は15年近く、最近はアメリカ人3人をガイドした。日本人でプラーグ山に来る人も時々いる。数年前に、自分が第二次世界大戦時に駐屯していた場所を訪ねるために、ここからプラーグ山を登りルソッド村に下山という2泊3日のコースを歩いた年配の男性がいた。

7時を過ぎてガイドの2人が家に帰った後、ラリーさんはラジオをつけた。私にはわからないが、ニュースらしき番組が流れる。彼の表情がどことなく厳しい。
「何か、あったんですか?」
「ミンダナオ島で政府とイスラム勢力の暴動が起こったよ、、。5人死亡したらしい。」
「えっ、。」
ミンダナオ島は歴史的にイスラム教徒が多く、キリスト教勢力からの独立を目指し、アブサヤフやモロ・イスラム解放戦線(MILF)と呼ばれるイスラム主義組織と政府との衝突が耐えない。ラリーさんによると、今日MILF主導による大きなデモを伴った暴動が起こった。MILFは、前線にデモに参加した市民を立たせ、政府軍は鎮圧しようにも手が出せない状態だった。そのうち混戦状態となり、負傷者は今も増え続けている。
胸が痛んだ。

ラリーさんは、口元をきゅっと閉じたまま、ラジオに聞き入っている。その表情を、揺れるろうろくの明かりが照らしていた。



9月24日 朝日を見にプラーグ山登頂。プラーグ山小学校で折り紙を教える。アンベンゲッグからバギオにバスで戻る。トリニダッドにある岡田さんのカフェを訪ねる。トリニダッド泊。

午前1時に起床して、私は荷物をまとめた。ラリーさんも同じ時間に起きてくれ、2人でコーヒーを飲んでいると1時50分にしっかりと防寒具を着込んだロベルト君が到着し、私たちは午前2時、ヘッドランプをつけてレンジャーステーションを出発した。

15分ほどは他愛もないおしゃべりをしながら舗装路を歩き、いつしか道路は未舗装となり、そしてそれも途切れて細い山道が始まった。ロベルト君は10人兄弟の下から2番目で、幼少期の時に父を亡くした。親戚や姉、兄達に面倒を見てもらって育ち、数年前までは母と暮らしていたが、今は1人で生活している。16歳の時にプラーグ山のポーターとして働き始めて聞きかじりで英語を覚え、数年前からはガイドとして働くようになった。

独学でここまでしゃべれるようになったのはすごい。色々としゃべりながら、ロベルト君と私はお互いのノンネイティブ英語に慣れて行った。

彼のペースはけっこう早く、かつその彼に一歩も遅れずに私がついて歩くので、二人はいいペースで登っていく。2600メートル付近で森林限界を超え、雲霧林は矮性化した竹の単一植生になった。まだ夜明け前ながらも、山塊が暗闇の中に薄墨がかった色として浮かび上がり、その山際が姿を見せる。プラーグ山頂一体は広大な原野だった。なだらかな起伏の中にいくつものピークがあり、大勢の人が登るときは、それぞれのピークに分散させて朝日を見るという。

ハイペースだった私たちは日の出の一時間前である4時30分に山頂に着いた。無風快晴で空には満月と、星が輝いている。東側の空にはまだ日の出の兆候は見られない。

私はその静けさと日の出直前の暗闇が持つ温かさの中に浸った。そして何枚か月の写真を撮った。何百回もプラーグ山に登ったことのあるロベルト君は、私の感動をよそに
「ちょっと横になるよ。」
ジャケットをかぶって寝始めた。山頂は寒かったので、私もダウンジャケットを取り出して着た。

こんなにいい気象条件に恵まれて刻々と移り変わる東の空を1時間半に渡って見続けたのは、私は生まれて初めてだった。一番最初、東の空に一筋の赤い光が走った。その後赤い目は大きく見開き、薄雲がかかると眼を閉じたようになり、ゆっくりと瞬目を繰り返しながら、徐々に覚醒していく。いつしかそれに呼応して、漆黒のカーテンは開き、空色の舞台が広がり始めた。と同時にあたり一面を覆っていた雲海の姿があらわになった。最高峰であるプラーグ山の周りの峰々は、その頂のみを雲海の上に見せて、静寂の中朝日の到来を待つ。いつしか、正面にあった空色の舞台は南北、そして天頂を越えて西側にも広がり、プラーグ山頂は円形劇場の中心となった。太陽光線は見る者を威圧する高揚感を持ち、雲海の上を眩しい橙色に染める。私のそれらの自然現象の美しさを何枚にも渡って写真に収めた。

双眼鏡を使って見ると、遠方の山肌には朝焼けに包まれたいつくかの集落があるのがわかった。彼らは何千年この地に住んでいるのだろうか。



プラーグ山頂での朝日(帰国後、絵を書いてみました)



太陽が朝を告げ、ロベルト君も眼を覚ました。彼の数ある経験の中でも、今日はきれいな朝日だという。記念写真を撮ってもらい、6時過ぎに山頂を後にした。
太陽が昇った後の山道は大きく雰囲気が変わった。まるで刈り込まれた垣根のように、高さが統一された矮性化した竹の間を歩く。
キャンプ2まで降りてくると、突如豊かなコケを生やした照葉樹が現れ、雲霧林となる。ここには木性シダと呼ばれる木も多く生える。ワラビやゼンマイなどの葉の部分を10倍ほど巨大化し、茎の部分を2メートルほどの高さの幹に置き換えたような形態で、その幹には普通の樹木とは異なり、ウロコのような模様が刻まれている。倒れた後の木性シダの幹が適度な長さに切りそろえられて、雨が降ると泥々になる山道の中に埋め込まれ滑り止め防止となっている。

その林の中で、日本では聞いたことない鳥の鳴き声が聞こえた。ロベルト君に聞くと首をかしげる。辺りを見回すが声はすれども姿は全くわからない。

いつしか日本の経済力の話になった。ロベルト君は多くの東南アジアの国々の若者がそうであるように、ホンダ、トヨタ、スズキの名前を挙げて、経済立国である日本を羨ましいと言った。
そして、私に聞いた。
「どうしてフィリピンは発展しないんだと思いますか?(Why do you think Phillipines can not make development? )」
私は思わず眉をひそめた。ロベルト君、それはなんとも難しい質問!

戦後日本が驚異的な経済発展を成し得たのは、日本国民の民度が高かったからだと言われる。幕末の頃でも寺子屋が50000個以上あり、庶民の読み書き、計算能力は、当時の他国に較べて非常に高かった。それが戦後、高度経済成長期を迎えて世界経済の舞台で花開いた。
しかし、今ロベルトくんからそのような質問をされて、
「フィリピン人は民度が低いのかもね。」
とは間違っても言えない。
私は、熱帯では飢えることがないから基本的にのんびりした人が多いこと、日本は冬を越すために勤勉に働くという考えが歴史的に美徳とされそういう人が多いことを話した。またフィリピンでは自然災害が多いこと(といいつつ、自然災害の多さでは日本も引けを取らない)、マルコス政権から続く政治の腐敗も庶民の生活レベル向上に結びつかない要因と思われることなどを言った。

さらに
「日本はね、経済はいいよ。でも恥ずかしい話なんだけど、毎年3万人もの人が自殺しているの。」
と付け加えた。
「どうして?」
彼は驚いて尋ねた。
「どうしてだろう、、。」
改まって聞かれると難しい。
「多分、日本はすごくストレス社会なの。小さいころからいい学校に入るための競争があったり、会社に入っても昇進の競争があったり。そういう中で生活していると精神が病んでしまって、疲れ果ててしまって自殺しちゃんだよね。あと最近日本では高齢者がとても増えていて、一人で住んでいる人も多いのね。その場合、病気だったり、さみしかったりして、自殺する人もいる。」
「、、そうなんだ。」
とロベルト君はいったが、わかってもらえただろうか。

ある本に書いてあった。よく数年に及ぶ内戦で何万人もの人が犠牲者になったと報道されたりするが、10年で30万人が自殺している日本は、内戦国と同等のストレスを抱えている社会なのではないかと。また切腹にみられる死による自己完結という風習も、自殺を肯定化する要因となり得るという説もある。理由はともかく、近年に見られる自殺傾向には胸が痛む。

山道を下るとアスファルトの舗装路に出た。時々畑に行くために背中にカゴを背負った人たちと行きかい、8時30分にレンジャーステーションに到着した。ラリーさんが笑顔で出迎えてくれ、甘いコーヒーを入れてくれた。

レンジャーステーションの前では、中国人のおじさんたちがプラーグ山へ登る準備をしている。彼らは、2泊3日の行程でキャンプ2と山頂に泊まる予定で、なんと6人ものポーターを雇っている。話をしてみると去年はミンダナオ島のアポ山に登り、来年はキナバルに行く予定だという。腹が出ておりアスリート体型ではないが、流暢な英語を話すことから、ビジネスでは成功している裕福な華僑商人らしい。体力のない部分はポーターを雇ってカバーという雰囲気のパーティーである。

ラリーさんは、第二次世界大戦中にこのカバヤン地区を支配した日本軍のことについて話し始めた。彼らは撤退する直前に、財宝を隠して地図を描いたという。その地図があれば、財宝を見つけることができる。
「本当、、ですか?」
「本当ですよ。だから日本に帰ったらその地図を探してほしいんです。」
「でも1945年にアメリカ兵が来て、軍部が持っていた重要書類は全部焼却されたんですよ。」
「いや、でも中には秘密裏に地図を持ち続けた賢人がいるかもしれない。もし財宝が見つかったら山分けしましょう。」
ラリーさんの表情、半分本気、半分冗談と言った感じ。
帰国したら、カバヤンの財宝についてちょっと調べてみよう。

ラリーさんとロベルト君も一緒にレンジャーステーションの前で記念写真。お世話になった二人に別れを告げて、私は道路を下り始めた。昨日約束したとおりプラーグ山小学校に向かう。

前方に同じく道を下っていく若い女の子がいる。眼が合うと向こうはにっこり笑って
「どちらからですか?」
「日本です。」
と答えて、私は今日プラーグ山に登ってきたところで、今からプラーグ山小学校にいくことを言った。
「あ、私もプラーグ山小学校に行くんです。先生の一人が、私の母なんです。」
彼女は言った。彼女ほどの年齢の娘を持つ先生といえば、どう考えてもレナ先生しかいない。
「ひょっとして主任のレナ先生のことですか?」
「はい、そうです。」
と彼女はかわいらしくはにかんだ。

名前はマリンさんという。若く見えたが実は大学の教育学部を既に卒業し、教員採用試験を受けるために今からバギオに向かう。その試験の日は3日後の土曜日なので、早めに行って叔父の家に滞在する予定だという。彼女はとても英語が流暢だった。
「心配なんです。試験が受かるかどうか。」
「大丈夫ですよ。受かったらプラーグ山小学校で働くんですか?」
「それはわからないですけど、カバヤン地区になることは確かです。」
坂を下って行くと、昨日と同じかわいらしい外壁を持つプラーグ山小学校が見えてきた。一日を経て、プラーグ山小学校は、なつかしい空間になっていた。

子供達はちょうど授業の真っ最中だったが、マリンさんと私の到着に気付いた先生達は外に出迎えてくれ、
「あゆさん、待っていました。クラスの子供たちに挨拶してあげてください。」
私はまず一番年長である5年生のクラスに案内された。

予め挨拶の練習をしていたらしく、私がドアから入ろうとすると興味しんしんに目を見開いた15人近くの子供たちが
「グッドモーニング、ミス!」
声をそろえていう。その愛らしさに私の心臓は思わず飛び上がりそうになった。私は教壇の真ん中に立つよう促され、その脇で先生が私の紹介をする。
「今日は日本からのあゆさんというゲストがいます。今日彼女はプラーグ山に登ってこられました。あゆさん、何か子供たちにメッセージがあれば、、。」
と話をふられて驚いたが、15人の子供らの視線は今まさに私に注がれている。動揺を隠して、
「こんにちわ。日本から来ましたあゆといいます。今日プラーグ山で朝日を見て、今降りてきたところです。誰かプラーグ山に登ったことのある人はいますか?」
誰も手を上げない。確かにこんな小さい年齢の子が登る山ではないだろう、と思い
「じゃあ、将来登ってみたいと思う人はいますか?」
何人かの子がパッと手を上げる。
私はほっとして
「とてもすてきなきれいな山でした。この土地の人々が大切にしているのがよくわかります。是非いつか登ってみてください。」
とまとめた。さて、まだ時間があるらしい。何と続けよう。
「えっと、、日本はわかりますか? 日本はフィリピンより少し北にある国で、ホンダ、トヨタの車やオートバイで有名な国です。」
何人かの子供たちの表情が「知っている!」という風に動く。
「何か日本に関して、質問がありますか?」
目が好奇心できょろりと動いた子もいたが、質問はない。何か聞きたいことがあってもこういう場で、一人「はい!」と手を上げるのは、とても勇気がいったことを思い出す。
先生が、その間合いを見計らって
「じゃあ、いいでしょうか。あゆさん、ありがとうございました。それではみんな、記念写真を撮りましょう。前に出てきてください。」
子供たちがわっと椅子から立って前に出てくる。かわいらしい押し合い、へし合いがあり、列の形が整うと先生が写真を撮った。
私が教室を出るときに、彼らはまた声をそろえて
「グッドバイ、ミス!」
と言ってくれ、次に私は4年生のクラスへと引き継がれた。

今度も同様に子供たちの挨拶があり、私は彼らの前で自己紹介した。そして今度は、子供たちに何か歌を歌ってくれませんか? とリクエストした。すると先生が
「いいですね! みんな、あれを歌いましょう。立ってください。」
促して、生徒達は元気よく立ち上がった。普段から練習している曲があるらしい。
先生のワンツースリーの合図で、彼らが歌い始めた曲は、覚えやすい明るいメロディーで、繰り返しの部分に手をたたく振り付けがある。私は彼らの歌を聞きながら、小学校の合唱祭を思い出した。歌い終わって先生が言った。
「この歌詞の意味は、We all love you(私たちはみなあなたを愛しています)です。」
その歌を子供たちが熱唱してくれたことに感謝し、みんなで記念写真。歌詞の内容から、教会でも練習する曲なのかもしれない。

次の3年生のクラスに行くと、子供たちが5年生に較べて大分小さいことに私は深く感じ入った。英語で自己紹介して理解できるのはぎりぎりこの学年までで、私は彼らに何人兄弟か聞いて、それぞれの人数の時に手を上げてもらった。正確なところはわからないが、4〜5人が平均値という感じ。そして4年生のクラスと同様に歌のリクエストをすると、彼らはキリストを讃える賛美歌の1つを歌ってくれた。
「我々の上に、上にいらっしゃるイエス様(Gesus, above above us)」
という歌詞のところで、子供たちが手を上に上にと重ねていく踊りがなんともかわいらしい。

彼らとも一緒に記念写真を撮り、次は2年生のクラスへ。ちょうど何かを教えている真っ最中だったらしく、先生は
「もううちのクラスの順番?」
とてんてこ舞いの様子だった。簡単に私の紹介と記念写真撮影をして 、次にレナ先生の担当する1年生のクラスに行った。

昨日職員室でパタパタ鶴を折ってあげた子達はこのクラスにいた。彼らは私を見てにこっと手を振る。レナ先生は今日クラス全員でパタパタ鶴を折ることを計画していたようで、私の自己紹介の後
「いいでしょうか。お願いできますか?」
「もちろんです。」
私は俄然やる気になった。マリンさんと5年生の担当の先生も来てくれて、児童みんなに紙が配られ、私は紙を高く掲げて見せながら、説明を始めた。
「まずこうやって正方形にします。余分な部分は切り取ってください。そして三角、また三角です。」
と日本語なのだが、先生も子供たちも、皆なかなか懸命についてきてくれる。

しかし花弁折りのところでわからなくなる子が多く、私は1人1人の折り紙を受け取って
「こうやって折り目に沿って持ち上げながら折ると細長くなるの。ね、わかる?」
とやってみせ、できあがりを渡す。すると、ある子ははにかみながら、別の子は「やって!」という表情をしながら自分の折り紙を私の前に差し出す。
「ちょっと待ってね。順番、順番、、。」
と呟きながら、私はこの折りを20回以上繰り返した。見ていると屈託なく私や先生達にやり方を尋ねる子達と、一人で机に座ってしょぼんとしてしまう子がいる。私はそんな子達が置いてけぼりにならないように、最大限の気を使い、クラスの中を頻繁に歩き回った。前者の子達はそんな私にフットワーク軽くよくついてくる。
「これを上に折ると鳥の頭になって、反対側を折ると尻尾。そしてこの尻尾をゆっくり引っ張ると、ほら羽が動くでしょ。できあがり。」
子供達は満面の笑みで完成品を大事そうに受け取る。



パタパタ鶴、必死に教えます。(学校の先生が後で送ってくれた写真)



小一時間経って無事にみんなパタパタ鶴を手にすることができ、私は先生達と一緒に一仕事完了といった感じでほっとして笑いあった。

この後行った一番最後のクラスは、幼稚園生のクラスだった。まだきちんと座ることもままならない子供たち20人近くが遊んでいる教室はカオス状態で、目を離さないようにと言ってもどうすればいいのだろう!!と言った感じである。この子供たちの面倒を見ている先生のことを驚異的に私は感じた。



幼稚園クラスの子供たちと(学校の先生が後で送ってくれた写真)



お昼休みの休憩時間となり、子供達は一斉に外の広場に駆けて行った。
「よかったらコーヒーでも飲みませんか。」
「ありがとうございます。」
昨日と同じように、他のクラスの先生達も一緒に、また職員室に集まった。

校庭から子供たちの声が聞こえて来る中、先生達と私は折り紙や日本、フィリピンのことについて歓談し、最後は校舎をバックに写真を撮った。
「本当にありがとうございました。子供たちに折り紙を教えてくれて。」
「いえいえとんでもないです。私も子供たちの歌が聞けて感動しました。日本に来ることがあれば、いつでも言ってください。」
「行きたいですね! ふふふ。お金があったらですね。」
先生方は、私とマリンさんを門の所まで丁寧に送ってくれた。

最初私はプラーグ山小学校に簡単に挨拶してアンベンゲッグまで歩いて降りる予定だったが、折り紙を教えたりして楽しみすぎて時間がなくなってしまったため、オートバイに乗るというマリンさんと一緒に行くことにした。
小学校から5分ほど下った所にオートバイを持つ村人達の溜まり場があり、マリンさんが彼らと交渉してくれて、2人の男の人がアンベンゲッグの村まで150ペソ(345円)でバイクで送ってくれることになった。私はやせぎすのおじさんのバイクの後ろに乗り、両手でしっかりとしがみつく。エンジンが勢いよくかかり、バイクは風を切って出発。
「あれ? バイクってヘルメットかぶる必要あるんじゃなかったっけ?」
というつかの間の想いは、爽快な振動と頬をなでる風の中に溶け込んで消えてしまった。

来る時は3時間かかった道が、バイクに乗ると小一時間。無事に12時40分にアンベンゲッグのバス停に到着した。バギオ行きのバスの時刻は13時である。
「私ちょっと国立公園の本部によってきていいですか? 無事に登れたことを報告しておきたくて。」
マリンさんに10分で戻ることを約束し、私は急いで走り出した。

今日本部にいたのは昨日とは違う女性で、無事に下山したことを喜んでくれ、私は登山者名簿の下山の項に自分の名前をサインした。そしてお礼を言って、再度走ってバス停留所に向かった。時刻は12時50分、ほっとしてマリンさんに手を振ると、彼女はやや困惑した表情をして
「あゆさん。たった今、バスが来て出発しちゃったんですよ。ちょっと早めに来たんです。」
私は顎が落ちるかと思うほど驚いた。
「ええっ、13時じゃなかったんですか?!」
と質問してももう遅い。バスは客の乗降を済ませると、さっさと出立したらしい。

早く出発してほしい時は平気で1〜2時間遅れるくせに、何故肝心の時は定刻より早く出てしまうのだ!

「ああマリンさん、ごめんなさい! 私を残して先にバスに乗ってくださってもよかったのに。」
「いいえ、それはいいんです。バンが来るのを待ちましょう。運がよければ、1〜2時間のうちには来ますよ。」
2人は屋根のあるバス停留場のベンチに腰を下ろした。マリンさんは冷静沈着で、ヘマをした私に嫌な顔一つせず穏やかな笑顔を見せてくれる。試験に合格した暁には、慕われるいい先生になるだろう、と心から思う。

今フィリピンで教職は需要があり、かつ人気の職業である。フィリピン独自の教育システムでは20歳で大学の学部教育を完了でき、マリンさんも今年バギオの大学を20歳で卒業した。しかし、近年は留学生も増加しつつあり、諸外国の基準に合わせるために、18〜22歳の4年制大学のシステムが来年から施行される。教員になるためには、大学の課程を修了した後、教員採用試験を受ける必要があるが、合格率は100パーセントではない。落ちた人は翌年再受験するので、試験の倍率は年々高くなっている。
という込み入った内容をマリンさんは、流暢な英語で私に説明してくれる。
「試験緊張します。受かるといいんですが、、。」
「大丈夫ですよ! リラックスして頑張ってください。」
マリンさんの英語は私よりも遥かに上手である!きっと試験も大丈夫だろう。
「私の祖父は私よりも英語が上手です。逆にタガログ語をしゃべるほうが苦手なぐらいで。」
「そうなんですか!」
彼女の祖父、つまりアメリカ統治時代に学校教育を受けた世代は、ネイティブ並みに英語がしゃべれるのだろう。

ロンリープラネットによると、スペインによる植民地時代には現地の人に教育は施されず、識字率は0%に近かった。しかし1902年にアメリカ統治が開始され、教育システムは抜本的に改革、35年の間に識字率は50%に向上、国民の27%が英語をしゃべれるようになった。
ロンリープラネットは、この史実を次のように表現している。
「異論はあろうが、英語教育のシステムはアメリカによる統治が残した財産の1つである。」
(Arguably one of the legacies that America left)
言語はある意味生物である。1世代で根付かせることもできれば、逆に1世代で根絶させることも可能なのだろう。

いつしか雨が降り始めた。道路をはさんだ向こう側には大きな掌状葉を持つ大木があり、葉の先端からは雨粒が豪快に滴り落ちる。その木の裏側には大きな建物があった。
「あの建物、寄宿舎付きの高校で、私の母校なんです。」
とマリンさんは言った。プラーグ山村の子達は、高校に進学するとほぼ全員がこの宿舎に泊まる形をとる。親元から離れた大人へ進みだす感覚と、必要があればすぐに帰れる距離感と、一つ屋根の下での友人達との生活。
「とても楽しかったです。いつも賑やかで。」
と彼女は当時を振り返る。

スコールのような雨がいくぶん穏やかになり、待ち始めて約1時間半経った時にようやくバンが現れた。いつ来るか、いや繰るかどうかさえわからない公共交通を待つのは、非常に不安感が募る。この瞬間は
「神さま!ありがとうございます!」
と手を組みたい気分であった。マリンさんと私は、急いで荷物を持ってバンの入り口に乗り込み、満席の車内を移動して後部座席の真ん中にかろうじて座った。そして、岡田さんに無事プラーグ山を降り今バギオ行きのバスに乗ったこと、夕方にはカフェ・パンタイにつけますとメールを打った後、ほっとして眼を閉じた。

岡田さんは私のメールを受け取り、トリニダッドの大学のゲストルームを私のために予約してくれた。

途中何度か目が覚めて、私はバスが走る山岳地帯の風景を眺めた。そして徐々に集落から町へ、町から都会へと雰囲気は変わり、また渋滞で込み合うバギオの街に帰ってきた。バンはスローターハウスバスターミナルの駐車場に入り、下車した乗客はそれぞれの方向に散らばっていく。マリンさんが私に尋ねる。
「あゆさんはこの後どこへ?」
「私の友人がトリニダッドでカフェをやっているんです。そこを尋ねようと思っています。」
「あら、実は私の叔父の家も、バギオじゃなくてトリニダッドにあるんです。一緒にジープニーに乗って行きましょう。」
バスターミナルの前からジープニーに乗り込み、約15分でトリニダッドの町に到着。この町もバギオに勝るとも劣らぬ交通量の多い騒々しい町であり、マリンさんは、岡田さんが書いてくれた地図を見てカフェの建物の前まで送ってくれた。
「プラーグ山からここまでありがとうございます。試験頑張ってくださいね。」
「はい。頑張ります!」

空色に塗られた建物の1階の入り口には、小さなカフェ・パンタイの看板があった。中にある階段を3階まで登ると、角の一部屋がカフェ・パンタイで、中に入って
「こんにちわー。内田です。」
声をかける。すると右側にあるカーテンで仕切られた台所から、エプロンをつけた岡田さんが顔を出した。
「おかえりなさい。なんかあっという間に山に行って降りてきたね。」
「はは、、。そうですね。私がバギオにいたの一昨日ですものね。」

棚の上には、黒板に書かれたメニューが立て掛けてある。飲み物として有機コーヒー、紅茶、様々なハーブティー、そして手作りの洋菓子、チャーハン、サンドイッチ、春巻きといった軽食メニューが書かれている。
「岡田さん、私けっこうお腹が空いているのですが、何かお勧めありますか?」
「お腹すいているならチャーハンかな。」
「じゃあそれと、春巻きと、あと紅茶をお願いします。」
「はーい。あいている席どうぞ。っていっても1つしか空いてないけど。」
岡田さんは笑って、カーテンの向こうの台所に戻った。

お店の中には3つのテーブルがあり、中央には賑やかな3人の女性グループと、窓際には1組の男女のカップルがいた。私は残りの1つのテーブルに座り、改めてカフェの内部を眺めた。

小さくて手作り感漂うカフェだった。テーブルクロスは赤いチェック柄で、その上にある木製のフォトフレームの中にメニューが張ってある。空色にペイントされた壁には、編みかごや植物染めの布が飾られ、オーガニックの料理の本や、自然石鹸、木酢液などの商品がおいてある一角がある。

岡田さんが紅茶を運んできてくれた。私はそれを飲みながら、今までの旅の日記を書いた。

彼女は女性3人のテーブルから注文されたものを運び、男女のカップルの会計を済ませてテーブルを片付け、その合間に台所で調理を行う。休む暇はなく、常に動き回って忙しそうだった。

しばらくして運ばれてきたチャーハンと春巻きは、エスニックな味がしてとてもおいしかった。

私はロンリープラネットを見て、明日からの予定を考えた。登りに行く予定であるピナツボ山トレッキングの項を再度よく見ると「麓のセント・ジュリアーナ村からは、四駆に乗る。トレッキングに参加する場合、1〜4人のグループであれば1500ペソ(3450円)、5人以上であれば1000ペソ(2300円)かかると見るのがいい。」とある。

私は、フィリピンに来る前からセント・ジュリアーナ村でツアー・オペレーター兼民宿を営むアルビンさんに一泊の料金については既に問い合わせていたが、トレッキングツアーの具体的な値段については聞いていなかった。
「しまったなー。プラーグ山のことに気を取られて、ピナツボ山のことは下調べを十分にしていなかった、、。」
と反省しつつ、私はアルビンさんに問い合わせのメールを送った。
もしツアー料金が桁外れに高かったらどうするか、私が眉をしかめて考えていると、
「これ試作品なんだけど、よかったら。」
岡田さんはそういってホワイトムースをテーブルにおいた。

カフェが閉まる8時少し前に3人の女性が席を立った。ここの常連客らしく、岡田さんと親しげに話す。
「ありがとう。長居しちゃったわ。また来るわねー!」
そのような台詞を言って、3人はお店を後にした。

岡田さんはエプロンのポケットに手を入れたまま私のほうを振り向いた。
「ごめんね、ずっとお相手できなくて。」
「いえいえ。でも1人でお店やるのって本当に大変そうですね。調理して、フロアーもやって、会計もやって。ごはんご馳走様でした。ムースもおいしかったです。」
「よかった、楽しんでもらえて。人を雇いたいぐらいなんだけど、そんなお金もないしね。」
岡田さんは疲れた様子でテーブルに座り、
「ちょっと作業していい?」
パソコンを開いた。そして今日の売り上げを打ち込み、そして漢方のような植物名と病名が併記してあるHPを見始めた。
「なんですか、それ。」
「植物にどういう薬効があるかっていうのを説明していあるの。うちのお店、オーガニック・カフェをやっているから、食事療法とかに興味あるお客さんも多くて。だから勉強しておきたいんだよね。」
それはスクロールして何ページにもなるボリュームのあるHPだった。岡田さんはそれを見ながらいくつかの項目をノートに書き留めて、
「よしっと。プラーグ山どうだった?」
私に話をふった。
「よかったですよ! 雨季だったけど登った日は好天に恵まれて。山頂で素晴らしい朝日と雲海を見ることができました。そうそう、新しいカメラでばっちり写真撮って来ました。見ますか?」
私はカメラを取り出して、岡田さんに見せた。
「へー、。本当だ、きれい、、。いいなあ、私もいつか登ろう登ろうと思いつつ、もう3年近くが経ってしまった、。登るのはそんなに難しくはない?」
「大丈夫です。レンジャーステーションまでは、オートバイでもいけるし、そこから山頂は4時間ぐらいで。」
「ここから行って帰ってくるには、2日間の休みが必要なんだよね?」
「そうですね、ここからだと最低2日ですね。」
「そっか。お店がなあ、、。」
と彼女は苦笑した。自営業では、2日間の休みがなかなか難しい。
「ま、そのうち機会があれば行ってみたいな。」
今、岡田さんはお店のソファーで寝泊りしている。以前は別の場所に部屋を借りていたが、通勤が面倒であることと家賃の節約のために、部屋の賃貸をやめた。
「日本には、お正月とか帰られるんですか。」
「いや、もうしばらく帰ってないなー。」
異国の地で働く娘さんのことを両親は心配しているだろうと思う。

時間は優に9時を回っていた。
「じゃあ、そろそろ、、。予約してくださった大学のゲストハウスってここからすぐですよね?」
「うん。歩いて5分ぐらいかな。あ、そうそう。これなら荷物にならないと思うからよかったら。」
岡田さんは有機栽培で作られた生姜湯をお土産にくれ、建物の1階まで送ってくれた。
「今度はいつフィリピンに帰ってくる?」
その聞き方は、既にフィリピンに根付いている人の聞き方だった。
「う〜ん、いつになるでしょう。でも次来る時はセブとか、南のほうに行ってみたいですね!」
「そっか。じゃあ、またその時に連絡してよ。」
「はい、色々ありがとうございました。」

岡田さんが予約してくれた大学のゲストハウスでは、久しぶりにホットシャワーを浴びることができた。セント・ジュリアーナ村のアルビンさんから返事があり、ピナツボトレッキングの四駆の料金は、なんと4500ペソ(10350円)だという。これではいくらなんでも高すぎる。足元を見た値段に違いない。私は、明日引き続き交渉に挑む決意をした。

ロンリープラネットのバギオのページをパラパラめくると、セントルイス大学の博物館が7時30分から開館とある。明日はここを見学しに行こう。そう決めて、白いシーツのかかったベッドで就寝。



9月25日 バギオ観光。セントルイス大学の博物館見学。バギオからビーガンへバスで移動。エミリオ・アギナルド博物館見学。ビーガン泊。

バギオから海岸線に下り、北上するとビーガンの街


大きな地図で見る

朝6時に起床。私はすぐに荷物をまとめてゲストハウスから市場へ向かって歩いた。既に市場は、商品の搬入が始まっており、駐車場何台ものトラックが並び、筋骨たくましい男の人たちが麻袋に入った野菜などを担ぎ降ろしている。恐らくこの中にはプラーグ山近傍の野菜も含まれているのだろう。

市場の活気を感じ取った後、私はバギオ行きのジープニーに乗った。ちょうど通学の時間帯で、赤や青の学生服を着た子供たちがジープニーに乗り込んでくるのがかわいらしい。10分ほどでバギオに到着し、セントルイス大学へと向かう。フィリピンの大学は始まるのが早いのか、多くの学生さんもちょうど今通学時間で、私は彼らと一緒に、セキュリティーチェックを経た後、大学構内へ入った。

構内は広々として学部ごとに立派な建物があった。広場には、聖人の像が立つきれいな噴水もある。そこのベンチに腰掛けて、先ほど商店で買った蒸しパンを食べながらしばし休憩。昨日の続きでアルビンさんにメールを打つ。
「ピナツボトレッキングツアーの四駆の料金が4500ペソ(10350円)は高いです! 誰かと同乗させてもらえれば、四駆の料金は安くなりますか? 26,27,28日辺りでツアーに来る人はいないですか?」
いい返事が来ることを願って、私は博物館に行った。

ここの博物館は、大学で民俗学を研究しているアイク博士が管轄しており、今日一番最初の見学者だった私は、ちょうど在籍していた彼に、ルソン島北部の山岳民族について地図を見ながら簡単に説明してもらうことができた。

フィリピン一の急峻さと奥深さを誇るルソン島北部のコルディエラ山岳地帯。その最高峰は2922メートルのプラーグ山であり、山岳民族は昔から山域全体にわたって狩猟生活を営んできた。多くの実りをもたらしてくれる山は、偉大で聖なる存在だった。
「私、実は昨日プラーグ山に登ってきたんです。とてもいい天気に恵まれて、山頂からの朝日もとてもきれいで。」
「そうでしたか。私はプラーグ山麓の村の出身なんです。」
アイク博士は言った。山岳民族の血を受け継ぐのかと思い、私は彼の顔を垣間見た。

続けて、私たちは山岳民族の伝統的な家屋の模型の前に移動した。どれも日本の縄文・弥生時代を思わせるような木造のつくりだったが、アイク博士曰く、高床式かどうか、屋根や壁に使われている建材、内部の部屋割りなど、部族ごとに様々な点が異なるという。
「昔は、屋根を葺き替えるのに、村人全員で共同して作業を行っていました。集落で取れる米も皆で分配する形でした。しかし貨幣経済が入ってきて、土地の個人所有が進み、葺き替えの必要がなく、長持ちするトタン屋根の家が増えています。昔ながらの風景は失われてしまいました。」
憂いと哀愁を帯びた表情で、アイク博士は言った。

この後私は、博物館の仕事を手伝っている女学生に、案内を代わってもらった。この大学で心理学を専攻し、午前中のみこの博物館の手伝いをしているという彼女は、とても英語に堪能で、全ての展示品について非常にわかりやすい説明をしてくれた。

山岳民族の人たちは、ブロールという守護神の存在を信じている。それは木彫りの彫像で、単純に頭、腕2本に胴、そして足2本がついている。荒削りなので表情は薄く、性別はよくわからない。それがブロールの姿である。高さ20センチほどの置き物として彫られることもあれば、儀礼用のスプーン、ナイフの柄の部分に掘られることもある。名立たる名人が彫ったわけではないブロールには、無名ゆえの素朴な温かみがある。

ブロールと同じ材で作られた台所用品の展示もあった。2つのボールをくっつけたような容器がある。
「これは夫婦が使う茶碗です。夫婦は一緒に食べて、協力し合ってということを意味しています。」

また、中国製の陶器があった。これらの出土した年代から推定すると、コルディエラ地方に住む山岳民族の人々は海岸近くに住む部族を介して、既に7〜8世紀ごろには物々交換のような形で中国と交易があったと考えられるという。

集落の中には、必ず1名もしくは複数の、村人達の病を治すシャーマンがいた。多くは老齢の女性で、儀式の様子を撮った写真が展示されている。祖先の霊とも交信して言葉を聴くことができるともいい、日本の、いたことよく似ている。

プラーグ山北部のカバヤン地方に住む山岳民族は、死者をミイラにする風習があった。写真に写るその姿は、体中の水分が抜けて萎縮し、骨と皮だけになって、眼が落ち窪んだ遺骸だった。エジプトのミイラと決定的に異なるのは、内臓を取り出した傷跡が見られない点だという。普通、内臓を除去しなければ、そこから腐敗が始まりミイラにはならない。
「19世紀後半まではカバヤンにミイラを作る風習が残っていました。でもアメリカの植民地時代にそれが途絶え、どうやって内臓を残したままミイラにしていたのか、今もはっきりとはわかっていません。」 と彼女は説明する。研究者によると、燻製によって丹念に乾燥させて1体につき、1ヶ月ほど時間をかけて作ったといわれている。ミイラにされるのは地位の高い人たちで、一般の人たちは遺体を棺おけに入れての埋葬だった。しかし土葬では犬や狼に食われる危険性があったため、棺おけを岸壁に吊るすということが古くから行われいてる。この吊るし棺おけ(hanging coffin)のある場所を観光客は見学することができる。全く興味がないわけではないが、きっと恐ろしいに違いない。見に行かなくてよかった〜と私は思った。

台所で使われる様々な道具の中に穀物や食料を貯蔵しておく木彫りの大きな保存箱があった。蓋の上には、模様として大きなトカゲが彫られている。
「山岳民族の人は、とてもトカゲを敬います。トカゲはどこにでもぴたりとくっつきますよね。その姿が、ものごとへの粘り強さ、集中力、そして成功を意味します。」
そういう意味があることを初めて知った。確かマレーシアやインドネシアにもトカゲをモチーフとする装飾文化があったような気がする。

既に見学を始めて1時間。しかし彼女の説明はおもしろく、質問にも的確に答えてくれて、飽くことがない。

コルディエラ山岳地帯に住む人々は、時に部族間で争いをすることがあった。その時、男達は勇猛さを誇示するために、羽のついた頭飾りや、ワニの歯で作られた首飾りをまとった。歯の数は今まで自分が捕ったワニの頭数である。高度に発達した入れ墨文化も存在し、例えば、成長の段階にあわせて、手の甲、肘、上腕と入れ墨を増やし、それは村落内での社会的地位の印となった。

女性はカラフルなビーズの首飾りをまとう。また伝統的な民族衣装には、部族ごとに異なる幾何学模様が織り込まれている。

展示室の真ん中には、回転させて使うと思われる巨大な器具があった。回転部は直径50センチほどの凹凸が付けられた木の円柱2つで、回転して噛み合うと何かを圧縮できる力が生じる。
「これはサトウキビをつぶしてジュースを取るための機会です。てこの部分は人、もしくは牛につないで動かします。」

電動化されていないこの作業は大変な労力であろう。得られたサトウキビのジュースは乾燥させて砂糖を、もしくは酢を作るために用いられる。

最後に彼女が説明してくれたのは、部族の人たちが作った楽器類だった。竹筒を異なる長さに切って並べた木琴は、たたくと竹ならではの素朴な温かい音がする。また普通に切った竹筒を上手く揺らしながら床に落とすと、それは原始的なドラムのような楽器となる。br>
約2時間に渡って説明してくれた彼女に私は深く感謝した。素晴らしい博物館である。

そして私は再度噴水のところへ戻った。

携帯を見るとアルビンさんから返信があった。29日にはピナツボ山のトレッキングにグループが来るのでそれに参加という形なら、ツアー代金は2000ペソ(4600円)になる。トレッキング自体は3時ごろに終わるので、その後マニラに向かうバスに乗れば夜には十分帰れるとのこと。私は、アルビンさんの提案に従って29日にピナツボ山に登ることにした。となると今日から数日間、空きができる。

どこに行こう。ロンリープラネットのルソン島北部の地図のページを広げて私は考えた。西海岸線沿いには、いくつかの有名な町がある。サーフィンで有名なサンフェルナンド。その北部にあり、植民地時代のスペイン風の街並みが今も残るビーガン。そのさらに北のルソン島北西端に位置するラオアグ。ビーガンとラオアグの近くには数百年前に建てられ、世界遺産となっているセント・マリア教会、セント・オーガスチン・パオアイ教会がある。

植民地時代に栄えた町の薫風を感じてみたい。私はビーガンに行こうと決めた。ガイドブックによると、パルタスという会社がバギオから約6時間でバスを運行している。今日夕方にバギオを発って、夜ビーガンに到着。そして明日と明後日とビーガンの町を探索し、28日に西海岸を南下してカパス経由でアルビンさんの民宿があるピナツボ山麓のセントジュリアーナの町に行けばいい。そういう旅の予定を組んだ。

お昼は大学の学食で食べた。お盆を持って列に並び、屋台と同じ様におかずを選び、ご飯も一緒によそってもらう。賑やかに話し声が飛び交う中で、1人で読書しながらお昼を食べている学生さんも目に付いた。岡田さんが言っていた
「フィリピンでは一人でご飯を食べることを恥ずかしい、かわいそうと思う」
には、当てはまらない状況である。

大学生活においては、フィリピンの昔からの思いやりの風習は当てはまらなくなっているのかも知れない。

ガイドブックによると、パルタスという会社がビーガン行きのバスを運行しているのはわかったが、そのバス停がどこにあるのかがよくわからない。私は街の探索も兼ねて、その場所を探しに行くことにした。

バギオの中心にあり、人々の憩いの場所となっているリーザルパークの周辺に多くのバス発着所がある。そこに行って、おじさんに
「パルタスのバス停はどこですか」
と聞くと、リーザルパークの反対側だよ、と顎をしゃくる。
「えっ、どこですか。この地図上でわかります?」
とさらに聞くと眉をひそめて、あそこに交番があるから、と言った。
さすがに交番の人は、適当に顎をしゃくることはしなかった。
「ガバナー・パックロードにありますよ。まっすぐ行くとバギオ大学の大きな看板が見えますから、その坂を登ってください。歩いて15分か20分ぐらいです。」
「どうもありがとう。」
「コリアンですか?」
「ううん、ジャパニーズです。」
岡田さんが言っていたが、ここ近年、韓国人が英語上達のための安価で近い留学先としてフィリピンのバギオに大勢来るのだという。そのためバギオにいる東アジア人は、韓国人と間違われることが多い。

リーザルパークは噴水と巨木の木陰に覆われた市民の憩いの場であった。印象的だったのは、子供が乗って遊ぶための乗り物をレンタルできる場所があり、そこに三輪車や小さな自転車などが50台、いや100台近く並んでいたことである。今フィリピンは、少子高齢化とは無縁の国家らしい。

ちなみにロンリープラネットによると、現在のフィリピンの平均年齢は22.9才。日本は44.6歳でモナコについで世界2位。ちなみに世界で最も若い国はウガンダで15歳だという。この差は国家が純粋に持つエネルギーを考えたときに相当大きいだろう。

そのリーザルパークを横切ってバギオ大学の看板の前を通り、ガバナー・パックロードに出てやっとバス停を発見し、初めてその位置がわかった。そこは、カメラと傘を買いに来たSMモールのすぐ横で、セッション通りともさほど離れていなかった。2012年度版のロンリープラネットに場所が明記されていないと言うことは、ここはつい最近バス乗り場として整備されたのだろう。

パルタスのバス乗り場にいたスタッフのお兄さんに聞いて見ると、ビーガン行きの最終バスは夜9時だという。しかしそれに乗っては到着が遅すぎる。
「もっと早い時間のバスはある?」
「ある、バスは一時間毎だ。(Every one hour)」
「一時間毎なんですね?」
「ああ、そうだ。」
私は同じことを、別のスタッフのお兄さんにも聞いて、間違いではなさそうだと確信した。

そして、セッション通りから坂道を下ったところにあるエミリオ・アギナルド博物館に足を運んだ。表玄関は開いていなかったが、建物を一周してみると、裏にある入り口のところで大学生のグループが20人ほど入場するのを待っている。今日彼らは解説員の人たちと中を見学する予定で、今順番待ちだという。どうも今日は彼らのための公開日で一般人のための表口は開いていないらしい。しかし20人のグループに1人が加わっても大丈夫だろうと私は思い、頼んでみると学生さんたちは快諾してくれた。中に入ると解説員の人は私が加わったことを知って、
「説明は英語になりますが、大丈夫ですか?」
と丁寧に聞いてくれた。

フィリピンの初代大統領になったエミリオ・アギナルド。1869年カヴィテ州で生まれ、宗主国であったスペインにおいてはゲリラ戦を率い、米西(アメリカ対スペイン)戦争勃発時にはアメリカを助けてアメリカの勝利に導き、1899年の独立時に初代大統領に就任。その後フィリピンを植民地としたアメリカに対して大きく抗議し、日本軍占領時代においてもフィリピンの独立のために奔走し、1946年の第3次フィリピン共和国成立時には、国旗を掲げて凱旋した。19世紀後半から20世紀半ばにかけて、フィリピン激動時代を生き抜いた革命家である。

スペインからの独立は、フィリピンの歴史の中でも一番の見せ場らしく解説員の口調にも熱がこもる。日本に当てはめるなら明治維新だろうか。
「早くから倒幕を目論んだ長州は、幕府から2回も征伐を受けて一時期は壊滅的な状況に陥ったけれども、高杉晋作、桂小五郎らは、坂本竜馬の活躍で薩摩の西郷と手を結び、その後明治維新に向けて、時代の波が大きくうねり出したのは、もう皆さん百も承知ですね!」
といった感じだろうか、と想像する。

一番最後の展示室には、アギナルドとその家族が作り上げたというオリジナルのフィリピンの国旗があった。学生さんが熱心にメモを取り、解説員の人に質問する。自国の歴史から懸命に何かを学び取ろうとする学生さんの態度には、胸を打たれる。

この後、私はインターネットカフェに行き、今日の宿として安価なビーガンホテルを、明日の宿としてビーガンの中で歴史あるホテルの1つ、ヴィラ・アンジェラを予約した。

このヴィラ・アンジェラは、130年前に建てられたこと以外にも「7月4日に生まれて」という映画の撮影時に、トム・ハンクスらセレブ一行が泊まったことで有名である。「7月4日に生まれて」は、ベトナム戦争に参戦し、後反戦運動に関わっていく青年の実話に基づいて作られた映画で、その撮影にビーガンの町が使われた。

トム・ハンクスが泊まった宿に泊まる機会は人生にそう何度もないだろう、値段も一番安い部屋は1500ペソ(3450円)である。ちょっと奮発して泊まってみることにした。

この後、インターネットカフェの下にある学生向けのフードコートで早めの夕飯を取り、ビーガン行きのバス乗り場に向かった。

5時出発と思って乗り込んだバスが出発したのは、結局1時間遅れの6時だった。
バス会社のお兄さん達は、
「1時間ごとにバスはあるから!(Bus every oen hour!!)」
と自信たっぷりにいうが、それは正確には
「乗客が一杯になれば、バスは1時間ごとに発車するから! 一杯になるまではけっこう待つかも!」
なのである。しかし彼らは、そういう条件付の毎時発であることを英語では説明してくれない、、。乗客の有無に関わらず定時発車する公共交通に慣れている日本人には、いらいらするシステムであるが、環境面ではエコフレンドリーであるかもしれない。

標高1500メートルのバギオの町から、バスは一気に海岸線に向かって下る。高度計の指し示す標高がどんどん下がり、耳には飛行機が着陸降下する時の圧力変化と同様の不快感が生じてくる。ということは余程の勢いで標高を下っているに違いない。

海岸沿いに出ると道路は直線となり、街路樹もどことなく南国らしくなった。サンフェルナンドの街には、サーフィンの看板があちこちにあった。2回ほどトイレ休憩のために止まり、夜11時ごろにビーガンの町に到着した。

トライシクルという人が乗れる荷台をつけたオートバイが、乗降客を待っていた。
「ビーガンホテルまで。」
「オーケー。50ペソ(115円)でどうだ。」
「ノーノー。ホテルの人は30ペソ(69円)だって言っていたわ。そうじゃないと乗らない。」
強気の交渉は効をなし、無事にその値段でホテルまで送ってもらう。ホテルのドアは木造でそこには真鍮の金具がついており、それをノックして内側からドアを開けてもらうようになっている。それはまるで中世のヨーロッパのような雰囲気の建物だった。

到着が遅くなったことを詫びて部屋に案内してもらい、疲労困憊していた私は倒れこむようにして眠りに着いた。



9月26日 ビーガン観光。早朝マラソン。ホセ・ブルゴ神父博物館見学。ビーガンで有名なヴィラ・アンジェラ泊。

安宿のベッドだったが、熟睡することができて朝6時ごろ目が覚めた。外は既に明るい。私はランニングに行きたくなって、その準備をして外に出かけた。

ビーガンホテルのすぐ横には街のシンボルであるセント・ポール大聖堂があった。その前にはたくさんの馬車が並んでいる。ビーガンは今でも昔ながらの馬車による交通手段が生きている数少ない町の1つである。早朝なので、御者席に座っているおじさんたちはほとんど転寝していたが、馬は静かに立っている。私はその顔を覗き込み、馬のつぶらな瞳の愛らしさに思わず飛び跳ねて喜んでしまった。

そこから噴水のあるプラザ・サルセード公園を超えて、西側に向けてランニングを始めた。ビーガンの街を構成しているのは、1階が白い石造り、2階が中国の格子窓のある建物で、スペインと華僑の建築様式が融合した独特の景観ゆえに町全体が世界遺産に登録されている。

昨夜は気付かなかったが、200年以上前に作られたそれらの建物は、ビーガンの町に歴史ある風格をもたらしていた。



クリソロゴ通り。馬が闊歩する。(写真はヴィラ・アンジェラで同宿した吉井さんより)





2階が中国様式の格子窓。1階がスペイン風の石造り。(写真はヴィラ・アンジェラで同宿した吉井さんより)



そして10分ほど走り街の中心部を抜けると、大きな橋に差し掛かった。もう数キロ下流に向かえば海への河口と思われるその川の流れは緩やかで、それゆえに、ホテイアオイに非常によく似た湿生植物が流されることなく繁茂していた。その花の淡紫色が無数に川面に散らばっており、健康的な熱帯の太陽はホテイアオイの濃緑色の葉を輝かせる。その様子を私は写真に何枚も収めた。

そこから先は、ビーガンとその隣街を結ぶ片道2車線の幹線道路となった。通勤・通学のためにビーガンに向かうジープニーやトライシクルと行きかう形で20分ほど走ると、カトリーナという小さな町に到着した。街の入り口となるロータリーのすぐ横には、公園と併設して教会が立っており、ちょうど朝のミサの時間で私は開かれた扉の中からそっと中を見た。右の奥が正面で、聖母マリアやイエス・キリストの像、壮麗な蝋燭台があり、その間に立った神父が祈りを捧げている。信徒の座る長いすは正面から一番後ろまで何列にも渡り、数百人は入れそうだったが、今日はまばらに50人ぐらいの人たちが座り、神父の声を聞きながら静かに手を組んでいる。私も教会の中に入り、長いすに座って彼らの中に加わった。

お祈りが終わると今度は神父の横にいるギター2人、ピアノ1人の教会バンドの出番だった。彼らが賛美歌やゴスペルの前奏を弾くと、信徒の人たちは声をそろえて歌いだし、その歌声が天井の高い教会に気持ちよく響き渡る。楽しそうに歌う近くの女性と目があって、私は笑顔で会釈した。

歌のセッションが終わると、皆席を立って祭壇にいる神父の前に並び始め、私も促されるまま列に入った。それは、皆にパンを分け与えるという聖書の教訓を模した簡単な儀礼だった。神父は一人一人の口に小さなビスケットを入れて、信徒は手を合わせて頭を下げる。私も皆と同じように施しを受け、静かに手を合わせた。その後は神父の終わりの言葉があり、ミサは解散となった。

今日は日曜ではなく平日である。ということはこのミサは毎朝行われているのだろうか。皆、教会の外に出てゆったりとして足取りで家に帰り始める。彼らの熱心な信仰心に感心して、私はビーガンに向かって、今度は幹線道路ではなく一本はずれた田舎道をゆっくりと走り始めた。

周りには、ちょうど収穫の時期だった田んぼが広がり、淡い黄金色に染まる中、地元の人たちが作業していた。稲を刈る人、刈った稲を脱穀する人、それをトラックに積み込む人。

同じアジア人として稲作に携わる風景を見るのはとても胸がほっとする。来るときと同じホテイアオイの橋を渡り、ビーガンの中心部に戻ってくると、町はすっかり目覚めていた。

クラクションを鳴らしながら道を行きかう車やジープニー、そしてトライシクル。小学校の校庭には生徒が集まり、前に立った先生達に拍手をして何かのセレモニーを行っている。大聖堂の前の場所のおじさんたちも目が覚めたようで
「馬車、乗るかい?」
と声をかけてくる。
人々の熱気が感じられるようになった街中を抜けてビーガンホテルに戻り、一息ついてシャワーを浴びた。

この後、私はホセ・ブルゴ神父博物館を訪ねた。

1872年、罪に問われてスペイン側に処刑された3人の神父がいた。彼らは大罪を犯したわけではない。宗主国であるスペイン政府に対し、カトリック教会が保持・管理している財産等の世俗化を訴えたことが原因だった。

当時のフィリピンでは、政府と教会が持つ権力は絶対で、その基盤は庶民の働きによるサトウキビやタバコ栽培によって培われていた。庶民に教育を施さないことで、統治者であるスペインはこのシステムを継続してきたが、18世紀に入り労働者の中にも、高等教育を受けて神父や教育者となる人が現れる。ホセ・ブルゴはまさにその一人で、彼は政教分離を訴え、民衆に植民地からの独立という概念を説いた。しかしこの運動は、暴動と見なされ、彼を初めとした3人の神父はギロチンで命を絶たれた。

しかし、この処刑によって民衆の運動は沈静化したわけではなかった。むしろ宗主国スペインからの独立の気運は脈々と受け継がれ、1901年の独立へ向けて歴史の波は突き進んでいく。

この博物館には、その歴史的背景や当時の農耕器具、ギロチンのレプリカ、写真等が展示され、私は電子辞書を片手に時間をかけて見学した。

ビーガンホテルに戻ったのは11時30分だった。私は荷物をまとめてチェックアウトし、そのままヴィラ・アンジェラへと移動した。

このホテルの入り口の木製のドアにも、ノックするための真鍮の飾りがあった。
コンコン、コンコンコン、
と真鍮を鳴らしてしばらく待つと、人が駆けてくる音がして、ギイと重厚な音を立てて木製のドアが内側から開いた。年配の女性が顔を出して、
「こんにちわ。いらっしゃいませ。」
「予約した内田といいます。あの、まだチェックインには早いと思うんですが、荷物だけでも置かせてもらえたら、と思って。」
「もう部屋は準備してあるので、大丈夫ですよ。お入りください。」
ドアをくぐって中に入ると、そこは薄暗くて天井の高い空間だった。
中央にはテーブルがあり4人の子供たちが座っていたが、もしテーブルの上に数本の蝋燭がかざしてあったならば、魔法使いの長達が頭を寄せ合って何か話し合っている、そんな姿に錯覚しそうな空間だった。 その奥の左側の部屋は古い家具をそのまま利用してフロント兼事務室、右側の一角は従業員の寝室となっていた。
「こちらが鍵です。部屋は2階になります。」
手すりのある木製の階段を登った2階は、磨かれた板張りの床でバルコニーにつながっているため、風通しがよくとても明るかった。壁に誇らしげに掛かっていたのは、額入りのトム・ハンクスの写真と、当時のヴィラ・アンジェラのオーナーへの感謝状である。 ダイニングルームには、10人近くが同席できる円形のテーブルが2つあり、壁際には食器棚が並び、その中の陶製・ガラス製の食器、カテラリー、蝋燭台などからもヴィラ・アンジェラの古さがしのばれる。



古くて品格のある食器棚(写真はヴィラ・アンジェラで同宿した吉井さんより)



「こちらになります。」
と案内された部屋は、8畳ほどの広さにシングルの天蓋ベッドが2つおいてあった。そのベッドも床も壁も同色の濃茶色で統一された木製作りで、落ち着きのある雰囲気をかもし出していた。



ヴィラ・アンジェラのベッドルーム、天蓋ベッド!(写真はトム・クルーズが泊まった部屋。ヴィラ・アンジェラで同宿した吉井さんより)



「どうぞ、ゆっくりされてください。あ、でも今から出かけますか?」
私は、明日行こうと考えていた、セント・マリア教会について聞いた。
「ビーガンの街から1時間ほど南に行ったところに、世界遺産に登録されているセント・マリアっていう教会がありますよね? それを見に行きたいのですが。」
「それなら、パルタスのバスに乗れば良いですよ。けっこう頻繁に出ていますし、値段も50〜60ペソ(115〜138円)じゃないかと思います。」
私はダイニングルームで紅茶を一杯飲んで一息ついた後、まずパルタスのバスターミナルに向かった。

そこのスタッフによると、ビーガンからマニラに向けて南下するバスは全て、セントマリアを通過するので、降りたい旨をバス運転手に伝えておけば止まってくれるという。私は明日お昼頃にビーガンを出発して、セント・マリア教会を見学し、その後、カパスの街へ向けて、夜行バスに乗ろうと決めた。

時間はお昼過ぎ。私はロンリープラネットをみて、南シナ海を見るために、ビーガンの中心部から約4キロ離れたミンドロ海岸まで歩くことにした。
しばらく歩くと、町の喧騒からは外れビーガンの飛行場の横を通った。辺りは田んぼとなり、農作業に励む人たちがたくさんいる。作業の合間に立ち小便しているおじさんも遠方に見えたりして、思わず目をそらして歩く。

2時間近く苦労してあるいた割には、残念なことにそんなにきれいな海ではなかった。と言ってはこの浜の黒砂に失礼だろうか。浜の至る所には、丸たん棒が立ててあり、それには魚網が括りつけてあった。ここはリゾートビーチではなく地元の人が生活の糧を得るために漁をする海岸だった。

私は帰るときに途中の村にあったHidden Gardenという名の植物園に行った。主に一般家庭用の鉢植えや苗木が売られており、中にはレストラン、土産物屋、そしてミニ動物園もあった。檻の中にいたのは、カラフルなインコ、眼光鋭い鷹、そして2匹のイグアナ。

ビーガンの町に帰り着いたのは夕方で、私は街の市場をゆっくりと回った。八百屋のおばちゃんは幅2メートル、奥行き1メートルほどの台の上におかれた色とりどりの野菜を威勢良く取り扱う。右から左から注文が飛び、
「500gのトマトね、○○ペソ。キャベツ2つは○○ペソです。お客さんは何がご入用かしら。」
休む暇なく、しかし笑顔を忘れず、手際よく商品を渡していく様子はまるで六臂観音の如く。東南アジアの市場は、生き生きとした躍動感に溢れていてただ見て回っているだけでも楽しい。

市場から斜め向かいの所に、店の前で焼き鳥を焼いている家族経営の屋台があり、私は夕飯を食べにそこに入った。お店のおばさんは、料理を作るスタッフである家族、焼き鳥をテイクアウトで買いに来る人、店内に入ってくる人、そして食事中の人全てにこまめに気を配り、私にも
「大丈夫? 味はどうかしら?」
と笑顔で声をかけてくれた。
「はい、ごはんとてもおいしいです。」
「コリア? ジャパン?」
「ジャパンからです。」
「一人なの?」
これは、私が屋台でよく聞かれるさみしい質問だったが、本当なので「はい」と答えるより仕方がない。

充実した忙しさが漂うお店で夕飯を終え、ビーガンの古い町並みが一番よく保存されているクリソロゴ通りを散策した。石畳の道、そこを夜になっても行き来する馬車、1階が石造り2階が中国風の格子窓を持つビーガン特有の建物。それらが街灯の明かりに照らされて、幻想的に浮かび上がり、「現代」とは切り離された感覚に陥る。多くの建物の1階は土産物屋やおしゃれなレストランになっており、雨季で季節外れのためか、観光客で混雑しているわけでもない。それが街の雰囲気に心地よく浸りながら探索することを可能にしていた。



夜のクリソロゴ通り(写真はヴィラ・アンジェラで同宿した吉井さんより)



私は幸せな気分でヴィラ・アンジェラに帰った。鍵を受け取るときにフロントデスクにいるおじさんが教えてくれた。
「そういえば、2階に日本人の男性が泊まっていますよ。」
「本当ですか?」
今回の旅で、市川さんと岡田さん以外の初めての日本人である。どんな旅をしている人だろうか。明日の朝会えることを期待して、私はベッドに横になった。

真夜中に、私は下腹部に鈍痛を覚えて眼を覚ました。息苦しく若干寒気がして腕には鳥肌がたっている。この症状は間違いない! お腹が下る兆候だった。悪いものを食べたのか、水が合わなかったのか定かではないが、こうなると約2時間近くは七転八倒の苦しみを味わうことになる。私は部屋から出てふらふらとトイレに行った。視界がぼやける。一寸も体を動かしていないのに、ポタポタと汗が流れ落ちる。辛いので床にふせったり、またトイレに座ったりを繰り返し、極度の脱水症状を経てすべてが体外に出ると、私の体は徐々に平常状態に戻り始めた。

これでようやく眠りにつける、、。私は部屋に戻って天蓋ベッドに横になった。悲しいことに、植民地時代のロマンもかけらもない。しかし逆に考えれば、腹痛に見舞われたのが今日だったのは不幸中の幸いだった。夜行バスや山登りの前夜では、とんでもない状況になっていただろう。



9月27日 ビーガン観光。海岸までお散歩。世界遺産のセント・マリア教会を訪ねる。ビーガンからピナツボ山近くのカパスへ夜行バスで移動。

外を走る車やトライシクルの音が騒がしくなり、腕時計を見ると8時だった。
昨夜の激痛も大分緩和しており、部屋を出ると、 ダイニングルームでは、ちょうど日本人のお兄さんが朝食を食べているところだった。
「おはようございます。」
とお互いに挨拶し、異国で同郷の人に会う喜びを感じる。私も同席して朝食を食べることにした。
朝ごはんは、ごはん、目玉焼き、フィリピン風ソーセージ、塩をまぶした輪切りのトマト。これがフィリピンブレックファーストだという。

お兄さんは愛媛は今治の出身で、フィリピンは4回目。今回は1週間の行程でマニラからルソン島北部西海岸沿いにあるラオアグへ飛び、西海岸を南下してマニラに戻る旅をしている。

前回フィリピンに来たのは今年の2月で、オスロブ島でジンベイザメと泳ぐのが目的だった。
「地元の人々が餌付けしたら、上手くなついて毎日来るようになったんです。ほぼ毎日来るので、観光客がダイブしてジンベイザメが餌を食べる様子が見られるんです。世界で唯一なんですよ、ほぼ確実に毎日ジンベイザメが見られるのは。」
また、お兄さんは、一度マニラでひどい交通渋滞にあった。
「空港に行くときに、交差点の信号が壊れてしまって、かつ交通整理する人もいなくて、30分間全く車が動かなくなったんです。最後にはなんとか動いたんですけど、本当に焦りました。」
つまり、信号が壊れて4方向から車が押し寄せ、中心部でどの車も動かなくなったらしい。マニラはただでさえ交通渋滞がひどい。その上、信号が壊れるなどという状態になったらさぞかしカオスであろう。日本の20〜30キロに及ぶ渋滞もひどいが、道路上で無秩序状態になることはない、、。

お兄さんは今日はサーフィンで有名なサンフェルナンドに向かうという。私は、午前中はビーガンの町めぐりをして午後はセント・マリア教会に行く予定であることを伝える。

朝食の後、ヴィラ・アンジェラから歩いてすぐのシィキア・マンションを訪ねた。この建物はビーガンで生まれ育ち、後6代目大統領(1948〜1953年)となったエルピディオ・キリノの生家で、今は家全体がミュージアムとなっている。説明文がなかったので、彼の詳しい経歴や業績は不明だったが、中の展示は充実していた。ヴィラ・アンジェラの2階によく似た長テーブルのあるダイニング・ルーム、政治家を招いて会議を行った格式高い部屋。そこから続く植物の鉢が数多くおいてあるバルコニー。家族の寝室には植物の模様が施された天蓋ベッドがあり、リビングルームにはピアノ、ロッキングチェアー、チェス板がおいてあるテーブルなどが並ぶ。

それらの西洋風の調度品から、スペインからの独立後、その建築、文化、風習がフィリピン政府の主導者たちの生活スタイルの中に、強く受け入れられていったことがわかる。

この後は、ビーガンに生まれ育ち、1950年代より長年国会議員を務めたフロロ・クリソロゴを記念したクリソロゴ博物館に行った。妻も州知事を勤め、2人は8人の子供を育てた。彼ら家族が過ごした家は、今は博物館として開放され、様々な品々が展示されている。

スペイン統治時代の面影を色濃く残す当時の、家具や書斎、写真等がある中、一番衝撃的だったのはクリソロゴ氏が1970年にビーガンのセント・ポール大聖堂で暗殺されたという史実を伝える新聞の切抜きだった。頭が打ちぬかれた生々しい写真のあるその記事の見出しには「州知事(つまり奥さんのこと)は誓う、復讐はしない」とある。暗殺はクリソロゴが批准を推進していた法律への反対運動が原因だと言われているが、真相は不明で犯人は今だ捕まっていない。

また別の部屋には、前輪が外れ銃痕のある紅い旧式の車が展示されていた。クリソロゴ氏の暗殺後、州知事も命を狙われ、この車に乗って逃げ延びたという。命をかけて生きた2人の政治家の人生。8人の子供のうち、1人は現役の政治家である。

クリソロゴ氏も、6代目大統領となったエルピディオ・キリノも、スペイン人、中国の華僑、そして現地の人たちの血が混ざったメスチソである。

私は、フィリピーノ(フィリピン人)という時に、それは既に異なる民族が混血している状態なんだと思った。

同じ多民族国家でもマレーシアでは状況が異なる。この国では、フィリピンに較べて混血の度合いは遥かに低く、イスラム系のマレー人、仏教徒の華僑人、ヒンズー教徒のインド人、キリスト教化したボルネオ島に昔から住む部族、という宗教と民族の区分けがかなり明確にある。 ところがフィリピンではスペイン統治時代に、民族の如何に関わらず強力なキリスト教化が行われ、カトリックゆえの堕胎そして避妊禁止という概念が混血を押し進めた。

それではフィリピーノという言葉が想起するアイデンティーは何なのだろうか。民族ではない、220もの言語があると言われるフィリピンでは言語でもない。文化風習も部族ごとに異なる。

恐らく、400年に渡るスペイン統治からの独立、そしてアメリカ、日本からの独立に向けて立ち上がり、1つとなって戦った民衆の団結心。独立戦争の英雄ホセ・リーザルやアキナルド初代大統領に対する熱い尊敬と愛国心。それらがフィリピーノがフィリピン人であることを誇りに思うアイデンティーを形作っている。

逆に植民地化を体験したことのない日本は、そういう形のアイデンティーはほぼ存在しない。しかし同一の民族であり、言語、文化を共有していることが、フィリピンとは異なる形で確固として日本人のアイデンティーを作り出している。国民の持つアイデンティーの成り立ちは、国によって様々なのだ。

ヴィラ・アンジェラに戻って荷物をとり、私は13時発のバスに乗ってセントマリアの町に向かった。

ビーガンに来る時は夜だったため見えなかった海の姿が車窓の外に広がる。南シナ海の開放的な青色の波が、岩礁地帯に当たって砕ける。その風景がよく眺められる場所の食堂で、バスはお昼の休憩を取った。タケノコの炒め物がおかずにあり、日本との共通点を感じる。

さらに30分ほど揺られて、バスはある街中に入り大きく右折した。とその時、窓の外に一見要塞のような、巨大なレンガ造りの堅牢な建物が現れた。
「お客さん、セントマリアに着きましたよ。」
それがセント・マリア教会だった。
私はバスから降りて、改めて、そこだけ数百年間時間が止まったような教会を見つめた。1769年に作られたセント・マリア教会は、フィリピンに4つある世界遺産に登録されたバロック様式の教会の 1つである。この教会は1896年のフィリピン革命の時に、実際に要塞として機能した。

100に近い石段を登って振り返ると、セントマリアの街をよく見渡すことができた。その高台には、数百年の時を奏で続けた時計台があり、その横には2階建て近い高さを持つ窓のない教会が立つ。その屋根には急傾斜の階段を使って登ることができ、外敵を攻撃するための櫓の機能があった。



セント・マリア教会(写真はヴィラ・アンジェラで同宿した吉井さんより)



中を見るための受付には、係りの人が3人いた。
「どうぞ、無料です。」
「ありがとうございます。」
帽子を取って礼拝堂に入ると、中は誰もおらず私が唯一の見学者だった。内部は何度も改築された跡があった。数百年の時を刻んだレンガ造りの外壁とは異なり、マリア像、神父の立つ教壇、信徒達の座る長いす、どれも新品ではないが、歴代の古さを誇るものでもない。

いくつか額に入った資料も展示されており、興味深かったのは1800年代後半に初めて刊行されたというイロカノ語の讃美歌集。

私は、教会の外に出て建物を一周し、林のほうに向かう石段を見つけ、そこを降りて行った。何の表示も案内板もなく、くるぶし以上の草が旺盛に生い茂っているが、確かに道は続いている。
「ここで蛇にかまれでもしたらサンダルだし、一巻の終わりだなあ。でもそうなったらそうなった時だ!」
15分ほど歩いて行き着いたところは、レンガ造りの門と何か文字の書かれた大きな石碑があった。長い年月の間に成長したつる植物は、レンガの隙間に根を伸ばして絡みつき、門と石碑を人間の手による造形物から自然の一部へと変化させようとしている。

教会に戻って係りに人に尋ねると、
「えっ、あそこまで行ったんですか? あれは昔の司教のお墓なんですよ。」
と言う。あの植物の根の様子から考えて、数百年は経っている墓石に違いない。今はまだ道が補修されていないが、将来的には観光客のために表示案内をつける予定だという。

私は今日の夜セントマリアからカパス行きの夜行バスに乗る予定で、それまで有り余る時間があった。係りの3人の人もそんなに忙しそうではなく、私は彼らの雑談に混ぜてもらった。

このセント・マリア教会には、1日に50人、多ければ100人ほどの観光客が訪れる。ビーガンに行く人は多いが、わざわざここまで来る人は少ない。でも世界遺産に登録されているから、もう少し多くてもいいんだが、、。 と係のおじさんは呟きながら、何か教会の催し物の参加票のようなものを指でめくって丁寧に数える。

その横で書類を作っている係りの女性は、旧式のタイプライターをガチャンガチャンと打ちながら、 でも、交通の便が悪いからしょうがないわよね。そののんびりさと静けさがセントマリアの良さですけど。 と答える。

まだ、パソコンの1台もインストールされておらず、全てが手作業である。効率化が必要とされない、ゆったりとした時間がここにはあった。

4時を過ぎ、閉館時間間際に、係りのおじさんの孫娘が遊びに来た。彼はとろけそうな笑顔を見せながら、もう少しで帰るからね、いい子にしているんだよ。お母さんによろしく言うんだよ。そう言って女の子の頬っぺたにキスした。

私は、夜行バスが来るまでの時間をどこでつぶしたらいいかと聞いた。彼らはセントマリアの街の中心からやや離れた場所にあるSMスーパーマーケットなら夜9時までやっている、カフェみたいな場所もある、と教えてくれた。私はお礼を行って、街中をくるりと一周した後、SMスーパーマーケットに向かった。

このスーパーは日暮れとともにお店が閉じてしまうセントマリアの街の中では例外的に、暗くなっても煌々と明かりをつけて営業していた。日本の郊外ショッピングセンターといった雰囲気で、私はその中のフードコートでハロハロというココナッツ入りのパフェを食べながら、ロンリープラネットのコラムを読んだ。

第二次世界大戦時に日本軍の捕虜となった祖父を持ち、自らの意思で戦争遺品の収集を開始したナグロス島バレンシアに住むフェリックスさん。この地は日本軍の最後の砦となり、一ヶ月以上に亘ってアメリカ空軍による空爆を受け10000人以上の軍人が犠牲となった激戦地である。彼が収集したものは、手榴弾、ヘルメット、爆弾、マシンガン、ピストル、対戦車炸裂弾、軍部用蓄音機、軍人の認識票などに及び、これらはcata-al war memorabilia博物館の中に一般公開されている。

フィリピンの幼児売春に関するコラムもあった。
フィリピンでは、売春は違法行為であるが、実際には40万人もの女性そして幼児が携わっていると言われている。貧しい地域から新しい人たちを斡旋する巨大な組織が水面下には存在し、警察や政府関係者は金で買収されて、問題となっている事実からは眼をそらす傾向がある。

東南アジアの売春、臓器売買については、日系タイ人の梁石日著「闇の子供たち」という衝撃的な著作があるが、フィリピンも状況はほぼ同様で、人権保護団体の手が届きつつあるのは氷山の一角かもしれない。

ロンリープラネットを読み疲れたら、私は店内を歩き回った。おもしろかったのは、人気石鹸ブランドの1つとして売られていたKojieソープである。舞妓さんの顔が描かれたその商品は、麹から抽出された成分配合で美肌効果があり、日本でも有名と説明文にあったが、私はこの石鹸が日本で売られているのを見たことがない。しかし、Dove等と並んで石鹸コーナーの大きな一角を占めており、かなりの人気商品らしい。



フィリピンで大人気! KOJIEソープ



夜8時30分過ぎになり、数時間を過ごしたSMモールのフードコートに感謝して、私は街中のバス乗り場に向かった。30分も待たないうちにマニラ行きのパルタスのバスが来て、私はそれに乗った。

最初は隣に誰もおらず後部座席の3席分を使って休んだりしたが、徐々に混んできて最後には窓際の一席に座ることを余儀なくされた。しかし恐怖感や不安感は特になかった。カパスに着くまでの約5時間、比較的快適な時間を過ごしたように思う。



9月28日 カパスからピナツボ山麓のセント・ジュリアーナ村へ移動。

早朝2時に、バスはカパスの街に到着した。
「こういう時には遅れてほしいのに、、。」
眠い眼をこすりながら私は下車し、すぐ近くにあった24時間オープンのマクドナルドに入って朝日が昇るまで机につっぷしながら過ごした。

6時半頃に空全体が明るくなり始め、私はザックを背負ってカパスの中央市場まで歩いた。既に市場は活況を示している。バギオやビーガンの市場と同じく、野菜、肉、果物、菓子類、乾物、洋服、薬、寝具、文房具等の商店が所せましと並び、人々の息で波打っている。

印象深かったのは、肉屋が並ぶ一角だった。鳥、牛、豚の様々な部位が台の上に並び、上からも吊るされ、何匹ものハエがぶんぶんと飛び回っている。お店のおばさんはその中でソーセージを作る作業をしている。



市場の肉売り場。豚肉の頭が売られている。一体どう料理するんだろう!(帰国後、記憶を頼って描写)



以前アルビンさんにメールで聞いたところによると、カパスからセントジュリアーナ村まではトライシクルに乗って約1時間、値段は300ペソ(690円)だという。どうも腑に落ちない。300ペソ(690円)は地元民が普通に払う金額ではない。私はアルビンさんに再度メールを出した。
「今カパスに着きました。セントジュリアーナ村までジープニーか何かないんですか?」
しばらくしてアルビンさんから返答があった。
「カパスの市場からパトリンという町に行くジープニーがあります。約1時間で28ペソ(65円)です。そこからはトライシクルに乗って10分ほどでセントジュリアーナに着きます。」
ほら、やっぱり安い交通手段があるではないか!
9時過ぎに市場を後にして、道路を渡った向かいにある停留場で、パトリン行きのジープニーに乗った。乗ったはいいが、すぐには出発せず、どの乗客も隣の人と肩と足が触れ合うほど満席になってからようやくジープニーは発車した。

もともとジープニーは、フィリピンを占領したアメリカ軍が乗っていたジープを改良した乗り物である。そのためか残念なことに、外の景色がほとんど見えない構造になっている。車の側面には、幅10センチほどの細長い窓があるが、振り向いてちょうどいい高さに位置しておらず、またその窓には外側から厚めのシートがかけられ、その隙間に指を突っ込んで首を傾けると、ちょうど外が見えるか否かという感じなのである。

小一時間してパトリンの町に着いた。カパスの街に較べると遥かに小さく、道路わきには鶏が闊歩している。愛らしいが、明日明後日には食卓に上る運命の鶏なのかもしれない。私はパトリンの町にあった唯一の定食屋に入ってお昼を食べた。お店のおばちゃんによるとここからセント・ジュリアーナまでは4キロぐらいだという。 歩けない距離ではなく、時間もたっぷりとある。
私はザックを背負ってセント・ジュリアーナ村への道を歩き始めた。

すぐにパトリンの集落を抜けた。辺りは人気のない寂しい雰囲気となり、淡々と流れる大河に沿って作られた舗装路を歩き続け、優に1時間以上経って、ようやくセント・ジュリアーナ村に到着した。4キロどころではなかった気がする。ここはパトリンよりもさらに規模が小さく、道の両側にはヤシの葉で葺いた屋根を持つ家屋、石造りの家屋が混ざりあって並んでいた。

アルビンさんの民宿に到着した時は彼は留守で、代わりに奥さんのアンジーさんが対応してくれ、広々としたベッドとシャワーとトイレがついた部屋に案内してくれた。

昨夜セントマリアで高速バスに乗った時から長い時間が経っていた。私はほっとして荷物を降ろしてベッドに横になり溺れるように眠りこけた。気づいた時は夕方4時を過ぎていたので4時間近く寝ていたことになる。途中、ジェット機のような爆音が空を劈いて行ったのが気になった。

起きて顔を洗って部屋のドアを開けて外に出る。母屋は静かでアルビンさんもアンジーさんも留守の様子だった。夕涼みがてら、私は散歩に行くことにした。まず村内を散策し、そして村のはずれからさらに続く道をずっと歩いた。15分ほど歩き続けると、遠方に村の雰囲気とはどこか異なる石造りの堅牢な2階建ての建物が見えてきた。

近くまで行ってみてわかったが、それはフィリピンの空軍基地だった。何も知らずにその入り口まで歩いてきてしまった私は、ゲートの前で迷彩服を着用したガードの人に聞かれた。
「何か用ですか?」
「えっと、、あの、ここは空軍の基地だったんですね、。」
「そうです。」
「ありがとうございます。」
私はくるっと背を向けて、ゲートの近くにお店があったのでそこに向かった。そこは地元の人が営業している 雑貨屋で、飲み物や軽食が売られ、奥で焼き鳥も焼いている。お上さんが笑顔で顔を出してくれたことに私は安心して、中に入って焼き鳥を一本注文した。

店内にはお客として10人近い男性がいる。
「彼らは空軍で働いているんですか?」
「ええ、そうなんです。」
とお上さんは言う。彼らは空軍の中のどういうポジションにいるんだろうと思いを馳せた。

私はまた歩いて、無事にセントジュリアーナ村に帰った。既にあたりは真っ暗で、私はどこかで夕飯を食べようとお店を探しに出かけた。
家々から明かりがぱらぱらとこぼれており、何軒か特に明るい家がある。それらは、家の前で手作りのおかずを売っている家、もしくは雑貨屋だとわかった。私はその1つに顔を出し夕飯を食べられるかどうか聞くと、気のよさそうなおばちゃんは
「食べられますよ。どれがいいかしら? これが野菜で、これは豚肉よ。」
お鍋の蓋を取って見せてくれた。おばちゃんの娘さんは日本人と結婚して、今日本に住んでいるそうで
「ユー、フロム、ジャパン?」
とうれしそうに、おかずをたくさんついでくれた。

民宿に戻ると、アルビンさんとアンジーさんも帰宅しており、私は空軍の基地まで歩いてきたことを言った。この時に聞いてわかったが、私が焼き鳥を食べた店にいた人たちは、空軍の中で働いている訳ではなく、敷地外の道路工事の日雇いに借り出されている地元の人たちだろうとのことだった。

アルビンさんはしばらくして、息子さんと飛行機の模型で遊ぶために「失礼!」と言って部屋を出て行ったが、アンジーさんはリビングルームでしばし私と雑談してくださった。

彼女は1991年6月にピナツボ山が史上2番目の大噴火を起こしたときの様子を話してくれる。
「400年ぶりに噴火したんです。って言っても誰もそんな前のことを覚えていないから、驚きの一言に付きました。それまではピナツボ山なんて気にしなかったし、誰も登らなかったんですよ。」
ピナツボ山はその時に2000万トンもの噴出物を出したと言われ、それらは最大地上34キロメートルまで噴きあがった。その後エアロゾルとして成層圏まで到達し、全世界に渡って太陽放射を遮り平均気温が0.5度下がったと言われる。

爆発前の地震によって爆発が予知できたため大半の住民は避難したが、それでも死者は300人に登り、噴火鎮静後も、山麓に住む約2100万人に及ぶ住民は数年に渡ってその影響を受け続けた。

噴火によってピナツボ山は300メートル標高が下がり、巨大なクレーターが出現した。そこまで行く登山道が整備され、1997年には一般に開放された。

「2009年にピナツボで遭難事故があったのはご存知ですか?」
「はい、ロンリープラネットに書いてありました。土砂崩れで外国人5人が死亡したんですよね。その時は雨季だったんですか?」
「いいえ、乾季でした。でも午後から突如雷雨があって、土砂崩れがあったんです。その後規制が厳しくなって雨季は登山禁止になり、乾季でも早朝の出発が義務付けられるようになりました。天気が急変した時は、アルビンはとても心配します。」

アンジーさんは、フィリピンの政治に関することも教えてくれた。
独裁政権として悪名高いマルコス時代(1965〜1986年)から、コラソン・アキノ、フィデル・ラモス、ジョセフ・エストラーダ、グロリア・マカバガル・アロヨ、ベニグノ・アキノ3世と大統領は変わり、フィリピンの政界は大きく改善された印象がある。しかし、今でも政治腐敗は耐えることはない。

「2週間後に市議会議員選挙があります。カパスやセントジュリアーナにも色々ポスターが張ってあるんですが見ましたか?」
「見かけました。市議会議員選挙だったんですね。」
「その候補者が、約2週間ほど前に全国で告示されたんだけど、既に5人が殺されたのよ。」
私は自分の耳を疑った。英語の聞き間違いではない。確かにアンジーさんは今
「Five candidates were already killed.」
と言った。
「本当、、、ですか?」
「本当よ、それぐらいフィリピンの政治は腐敗しているの。」
そんな危険と隣り合わせでありながら、しかし新たに政界に参入しようという人がいるということは、政界にはよほど甘い汁があるのだろう。

選挙の時に行われる不正は数多くあるが、その1つが先住民族の票獲得だという。
フィリピンには、山岳地帯など都市部から離れた場所に多くの先住民族が住むが、投票権は彼らを含めた国民全員に認められている。
「でも、それは単純にいいことではないんです。先住民族の人は、特に年配の人は文盲の人が多いんです。彼らは街から離れたところに住んでいるので、立候補した人の情報も得られないし、文字も書けない場合が多いので、投票に行く時は代筆者を頼みます。」
政治家は、選挙前にある集落に住む先住民族を招き、歓待を行い好印象を持ってもらう。その後は投票日に自分の息がかかった者を彼らの代筆者として一緒に投票所に行かせればいい。
「これで一気に40〜50人の票が稼げるの。」
先住民族にも公正を期すために取り入れた法律が、彼らが文盲かつ教育程度が低いことを逆手にとって、票の荒稼ぎのために利用されている。
「でも、最近は状況が変わってきているわ。若い世代は、学校に行って教育を受けるようになっているし。」
とアンジーさん。

さらに衝撃的だったのは、
「1週間前にミンダナオで起きた暴動のことは知っていますか?」
私は頷いた。プラーグ山を登りに行ったときに、ラリーさんがラジオで聞いていたニュースのことだ。
「政府とMILF(ミンダナオ島に存在するイスラム系の反政府組織)主導のデモが衝突したっていう事件ですよね。死傷者も多く出たって言う、、。」
「そう、その事件です。でも政府側に捕まえられた人々に聞くと、彼らはデモ参加費としてMILFから一人5000ペソ(11500円)をもらっていたの。」
その金額は、プラーグ山小学校の先生達の日給が300ペソ(690円)であることを考えると破格である。貧しい人ならばその額目当てに誰でもデモに参加するだろう。しかし反政府組織であるMILFが何故そんな潤沢な資金を持っていたのだろうか。
「実は、中央政府の政治家が秘密裏に、暴動を起こすための費用をMILFに渡したって言われているの。」
「何のためにですか?」
私は眉をひそめた。アンジーさんの推測になるが、その政治家は自分が関わっている不正が公になることを避けるために、MILFに資金を回したのではないかという。ミンダナオで暴動が起きれば、メディアはそれを報道し、他の出来事は一時的には注目の的から外れる。今の話はどこの国においても起こりうることかもしれないが、今回のミンダナオの暴動では、100人以上の死傷者が出ているのである。

「マルコス政権の時は、彼ら一族のみがお金持ちになったけれど、今は政治家の人が皆お金持ちになるって言う形に変わっただけの気がするわ。」
とアンジーさんは言う。 こういう話を聞くと、日本の政界での出来事はかわいらしいものだと思ってしまう。



9月29日 ピナツボ山のトレッキング。夕方マニラ到着。市川さん家に泊。

朝になり、コーディネーターの人と、今日ピナツボトレッキングに一緒に行くフィリピン人の女の子二人がアルビンさんの民宿に到着した。私はリビングルームでその二人に会った。
「おはようございます。今日、トレッキングに参加される方ですよね? 日本から来たあゆといいます。」
「始めまして、私はチャー。彼女はグローリー。」
「始めまして、グローリーです。どうぞよろしく。」
と笑顔で話す二人の英語はとても上手。仕事は、マニラにある外資系のコンピューター会社で、年齢は二人とも20代。持っているカメラやザックなどから見ても、なかなか高給とりのマニラっ子という感じ。

コーディネーターの人もリビングに入ってきて、私たち3人の前で説明が始まった。ピナツボ火口までのトレッキングは危険を伴うものであること、常にガイドの指示に従うこと、荒天時は引き返す可能性があることなどを説明され、私たちは1枚の紙に承諾の旨をサインした。

コーディネーターの人曰く、以前は火口で泳ぐことが可能だった。しかし数年前にエメラルドグリーンの火口の水は多量の硫黄を含むことがわかり、遊泳禁止となった。

いよいよ出発である。ガイドの男性らと一緒に四駆に乗り込み、アルビンさんと奥さんに見送られて、私たちは出発した。



四駆に乗って出発。(写真は、一緒にトレッキングに行ったチャーさんより)



四駆は、昨日私が足を伸ばした空軍基地の方向ではなく、驚いたことにそのまままっすぐ進んで、勢いよく水しぶきを上げながら河を渡り始めた。車自体の振動もさることながら、ドアがないため助手席に座っている私の体半分には容赦なく水しぶきがかかる。川幅は、100メートル近くあったが、なんとか無事に渡り終えた。

広大な平原には、水牛や牛の群れが存在し、それらを一心に眺めていると、車はまた激しい水しぶきを立てながら渡河を始め、私はあわてて持っているカメラを握り直す。渡河は一回だけではないらしい。

行く手には左右両側に切り立った低山が見え始め、その間の谷状地形を車は進む。その谷の幅は100〜200メートルほどあり、雨の後は低山から水が流れ込んで川となるらしい。その河のど真ん中を、今四駆は進んでいく。振動と水しぶきは激しい限りだが、運転手はできる限り石等の障害物が少ないルートを選んでいることがわかった。

川底は一面の砂地で、両側の絶壁もよく見ると砂の土で形成されている。これらは全てピナツボ火山より噴出した膨大な火山灰によって作られた地形だという。1時間以上揺られ続け、川幅が50メートルほどに狭まったところで、四駆は止まった。

ここがトレッキングのスタートポイントで、火口まで7キロ歩く。私は気合を入れて山靴を履いたが、それはすぐに裏切られた。というのは歩き始めてすぐに、膝下まで水に浸かる渡河が待っていたからである。

ガイドさんたちは慣れたもので皆使い古したビーチサンダルを履き、河にざぶざぶと入って私たちに手を貸して安全に渡河させてくれる。それが一度だけはない、何度もある。5分毎にある感じである。



何度も何度もある渡河。(写真は、一緒にトレッキングに行ったチャーさんより)



今まで四駆が走ってきた道が河のど真ん中であったように、トレッキングのルートも河を遡行する形なのだ。そのため私は山靴をはかずに靴を持って、裸足で歩くことになった。砂地なので裸足でも、まあなんとか我慢できる。また、砂の性質なのか水流の速度の関係なのか、川の中にはコケはなく滑ることはほとんどない。

しばらくしてガイドの一人が私が裸足であることに気付いて、自分のビーチサンダルを脱いだ。
「はいて(You wear them).」
「すみません、ありがとうございます。」
私はお礼を言って、それをはいた。

我慢できると思っていたが、やはりビーチサンダルを履くと小石などが足の裏に当たる痛みが軽減されるので歩きやすい。しかしガイドさんはサンダルがあってもなくても全く変わらぬスピードで進んでいく。

高さ約50〜70メートルの高さにそびえる絶壁は、近距離で見ると本当に砂の塊であった。噴火後二十数年という短期間の間には、まだ蘚苔類や根の浅い草本が土壌表面に生えているだけで、熱帯のスコールの力の方が、そのわずかな植物がもたらす土壌安定力よりも遥かに強いであろうことが伺えた。また、砂の絶壁にはいくつも崩壊した箇所があり、砂であるが故に幼稚園児がスコップで崩せるのではないかと思うような脆さを呈しているのである。

2009年の突如の雨によって起こった土砂崩れによる観光客の死亡事故は、運が悪かったとしか言いようがないのではないか、と思えてくる。

ピナツボ山は、1991年に400年ぶりに大噴火し、300人以上が死亡、セントジュリアーナを含む山麓の村々に住む多くの人々が1〜2年に及ぶ避難生活を余儀なくされた。山が安定しその安全が確認され、火口を見るルートが一般の人々に解放されたのが1997年。現在は雨季の6〜8月を除き、国内外から年に100万人近い観光客が訪れるようになっている。

ゆっくり2時間ほど川を遡行したところに休憩所があり、皆思い思いにスナックを食べたり、タバコを吸ったりして休んだ。そしてそこから木性シダの茂る低木林を20分程歩くと、火口が見渡せる展望台に出た。

巨大な火口である。対岸まで直線で2キロ近くあり、湖面は素晴らしくきれいなエメラルドグリーン。ピナツボ山は、噴火によって頂上部分が爆発・崩壊し、300メートル近い高さを失った。その後現れたのがこの火口湖である。外輪山は100〜200メートル近い高さがあるので、一体全体どれほどの体積の山容が吹き飛ばされたんだろう。想像を絶する。



ピナツボの全容(葉書より)





ピナツボの火口。水は蔵王のお釜のようなエメラルドグリーン。(写真は、一緒にトレッキングに行ったチャーさんより)



エメラルドグリーンの湖を背景に写真を撮り、ツアーに含まれている鶏肉とご飯のお弁当を食べた。チャーさんとグローリーさんは、セントジュリアーナの町からカパスまでトライシクルに乗って戻る予定だという。
「よかったら一緒に乗っていかない? 300ペソ(690円)を頭割りにしたら、1人100ペソ(230円)になるわ。」
と申し出を受けて、ありがたく同乗させてもらうことにした。そして休憩を終えて、今来た道を再度戻り始めた。

結局ここまで一度も履く機会のなかった山靴を、ガイドのおじさんが
「ほら、持つよ。」
という。申し訳ないので断わろうかと思ったが、持ってもらってもおじさんのほうが歩くのが速いのは確実であるし、空を見ると雲行きが悪くなり始めていた。
「ありがとう。」
私は山靴を渡して気をつけて歩くことに集中した。ところがこの直後、サンダルの鼻緒が取れて壊れたのである。しかたなく、私は再度裸足で歩き出した。靴を持ってくれたおじちゃんは既に遥か前方である。

しかし、しばらくすると、別のガイド君が私のトラブルに気付き、壊れたサンダルを私の手からとり、
「はきな。」
と自分のサンダルを脱いで、スタスタと私の前を進んで行った。日本ではけっこう自信がある私の脚力も彼らとは比べ物にならないらしい。

途中でその彼が、何か鳥を見つけたらしく、砂の絶壁のほうに走り出して行った。そして、彼は身軽な動きで斜面の途中まで登り、岩の陰に身を潜めた。その前方に、2匹のややずんぐりした鳥がいる。彼は狙いを定めて石を投げたが、それは逆に鳥を驚かして、飛び立たせてしまった。
残念そうに戻ってきた彼に、
「何だったんですか? 今の鳥。」
と尋ねると
「野生の鶏だよ。」
「野生?」
「野生のは飼われているのと違ってすごくおいしいんだ。」
鶏にしては、優雅に空を羽ばたいていた。その様子はさながらガンのようであった。何という名の鳥だったのだろう。

何度も渡河を繰り返し、やっと四駆を駐車したスタートポイントまで戻ってきた。しかしセントジュリアーナの村までは、来た時と同様に、ここから河の中を水しぶきを上げながら無理矢理走ってさらに1時間かかる。ピナツボ山は、爆発してその広大な裾野を全て焼き、灰で覆いつくした。その火口までのトレッキングは、スタートポイントまでの裾野の部分のアプローチがかなり長い。

一番最初に渡った所まで戻ってくると、10人を超す子供たちが皆裸ん坊で川の中で遊んでいた。手を振ると満面の笑みで手をふり返してくれる。そこを渡ると既にセントジュリアーナの町で、アルビンさんのホームステイに戻ったのは13時過ぎ。私はパッキングして荷物をまとめ、チャーさんとグローリーさんは町に戻る用の洋服に着替えて、3人で一台のトライシクルに乗って出発である。



お世話になったアルビンさんとアンジーさん(写真は、一緒にトレッキングに行ったチャーさんより)



トライシクルとはオートバイの横に人が乗れる屋根付き荷台をつけた乗り物で、フィリピンの至る街中で簡易タクシーのような役割を果たしている。私とチャーさんは荷台の中へ、グローリーさんは運転手の後ろに座る。荷台は屋根が低くかがみ込まなければならないため視界は極端に悪いが、バイクの音と颯爽と吹きぬける風は心地よい。

カパスに向かう途中、私たちはアルビンさんの勧めてくれた、National Shrineに立ち寄った。ここは、日本統治時代に捕虜収容所がおかれたところで、ここで5000人を超すアメリカ、オーストラリアの兵士達が死亡した。それらの人々の名前が刻まれた黒い碑が何枚も立っており、戦争のむごさが胸に迫ってくる。

1900年代初頭、マニラはスペインとアメリカの両要素を併せ持つ非常に美しい町で、東洋の真珠(Pearl of the East)と呼ばれていた。ところが第二次世界大戦中に激戦地の1つとなり、町の建物は壊滅的な被害を受けた。現在の、統一性に欠けごみごみしたマニラの町並みの原因は、紛れもなく第二次世界大戦中の破壊にあることを思うと、日本人として謝っても謝りきれない気持ちになる。

National Shrineを後にして、またトライシクルに乗り10分ほどでカパスのバスターミナルに到着。運良くすぐにビクトリーライナーのマニラ行きのバスが来たので、私たちはそれに乗った。バスは高速に入り、舗装されたアスファルトの上を快適に進む。

相変わらず過剰に冷房が効いており、前方にある温度計は信じられないことに12度を示している。マレーシアやインドネシアでもそうだが、何故こんなに冷房を効かせる必要があるのかだろうか。以前聞いた話だと、冷房が弱いとケチっていると思われるため、その恥をかかないように、人々の間に過剰冷房に走ってしまう傾向があるのだという。
一昔前の日本でも同様の現象があったように思う。

バスの中で、グローリーさんとフェイスブックのアドレスを交換する。彼女と連絡先を交換しておいたのは、この日の夜に私の身に降りかかる不運を思うと、本当に幸いだった。

私は今日の夜お世話になる市川さんにメールを打った。
「今、バスでマニラに向かっています。夕飯は、よかったら私のおごりでどこかおいしいものを食べに行きましょう! どこかいい待ち合わせ場所がありますか。」
しばらくして
「ありがとうございます。それではペドロギル駅近くのロビンソンデパートに19時30分に待ち合わせはどうでしょうか。」
という返事が来た。

マニラのバスターミナルには、夕方5時と意外に早く到着したので、私はマニラの歴史が刻まれているイントラムロスに行くことにした。マニラはパシッグ河の河口に位置しており、1571年にスペイン人の指揮官レガスピが入植した時から、要塞としての機能を併せ持つ、強固な外壁に覆われた街を作り始めた。それがイントラムロスである。第二次世界大戦の市街地破壊をかろうじて免れたその場所には、スペイン統治時代の大聖堂や教会、建物が多く並ぶ。

私はLRTに乗ってエドゥサ駅からセントラル駅に行き、既に辺りは暗くなりつつあったが、イントラムロスに向かった。レンガで造られた城壁の門をくぐると、中には、ガス灯を模した街灯にぼんやりと照らされたイントラムロスの町並みがあった。ビーガンと同じく観光客を乗せて闊歩していく馬車。200年前の建物が改装された格式あるホテル。

何より私の心を奪ったのは、マニラ大聖堂だった。1から12までのローマ数字が時を奏でる時計台。その横の大聖堂のファセードには何人もの聖人の姿が刻まれ、その真下に立って見上げると、ギリシャ彫刻のような彼らの顔の陰影が街灯の光を浴びて浮かび上がる。マニラ大聖堂が持つ荘厳さと存在感は偉大だった。

イタリアに旅行したことのある友人が言っていたことがある。かの地にある数多くの教会は、素晴らしくきれいでその存在を誇示し、ある意味人々を洗脳させるために存在するのではないかと。マニラ大聖堂が作られ、それを初めて見た現地の人々はどういう衝撃を受けたのだろうか。
スペイン人の入植と平行して行われたキリスト教化の過程の一端を、垣間見る気が私はした。

イントラムロスの街中を時々写真を撮りながら散策して、ユナイテッドネイションズ駅まで歩き、一駅乗ってペドロギル駅へ。そして市川さんと夕飯を食べる約束をしたロビンソンデパートへと私は歩いた。
駅から数分のところにあるその建物は、円形のモダンな形にガラス張りの外壁だった。荷物検査を通って中に入ると、最上階まで吹き抜けになったスペースがあり、煌々とライトを浴びて音楽コンサートが行われている。見るからにマニラの高級デパートの1つである。

約束の19時30分まではまだわずかに時間があったので、私は2階のレストラン街をくるりと見て歩いた。インド、ペルシア、メキシコ、日本料理とバリエーション様々で、値段から察するに、10日間の旅行のうちで今夜の食事がダントツに一番高くなりそうである。

インフォメーションの前で待っていると、少し遅れて市川さんが到着し、彼女は私が無事に帰ってきたことを喜んでくれた。
「市川さん、何が食べたい? 2階を回ってみたんだけど、けっこう色んな国の料理がそろってるみたいだね。」
「私なんでもいいですよ。う〜ん、でも強いて言うなら、せっかくフィリピンにいるのに申し訳ないですが、韓国料理かベトナム料理が食べたいです。」
「全然いいよ、それで! 私フィリピン料理はもうたくさん食べたから!」
2階のレストラン街を一通り見て回り、私達はベトナム料理店に入った。

テーブルに座って落ち着いたところで、市川さんに旅行中に撮った写真を見てもらおうと思った。カメラを取り出そうと短パンのポケットに手を入れる。右、左、サイフしかない。ならレインウェアのポケットか、とそのポケットを探るがそこにもない。
「うそっ、カメラがない?」
私はもう一度4つのポケットをパンパンと手を叩いて確認したが、どこにもカメラは見当たらない。
「内田さん、、大丈夫ですか?」
「え、うん、カメラがなくて、、。」
「ええっ。」
「ちょっと待って、落ち着こう。とりあえず料理頼もうか。」
そして麺と生春巻きを注文した。念のためにザックの奥も調べてみたが、確実にカメラはなかった。一体どこでなくしたのだろうか。

最後に写真を撮ったのは、ユナイテッドネイションズ駅の近くにあった教会である。そこからペドロヒル駅までLRTに乗って約5分歩いてロビンソンデパートに来るまでの間に、恐らくスリにあったのだ。常にポケットのチャックを閉めるように気をつけていたのに! 
ザックの重さと待ち合わせ時間と人ごみに気をとられてスキができていたのだ。プラーグ山の朝日、ビーガンの町並み、ピナツボの渡河、300枚近く撮った写真が一気に消失してしまった、、。ああ、全ての景色は失われたカメラの中である。
「内田さん、家に帰ったらもう一度荷物をよく見てみましょう。」
「うん、ありがとう。後帰りに、ロビンソンのインフォメーションと駅で聞いてみていいかな。」
見つかる可能性はほとんどないだろうと思いつつ、私はそうお願いした。しかし、バギオで買ったデジタルカメラ、それにしても短い命だった、、。しかし、ナイフを突きつけられたり、危ない事件に巻き込まれることを考えれば、カメラの一台や二台、安いものではないか!

注文した料理が運ばれてきた。カメラのことはとりあえず忘れて、私たちは食事をした。

市川さんは、現在フィリピンの政府が取っている貧困層対策について話してくれた。政府とNGOの団体が協力しあう形で、様々な貧困度別に、段階的に支援を行うシステムが現在作られつつある。しかし、日本でも同様だが、その体制は期限付きであるため段階的支援が中途半端に途切れてしまういう欠点がある。民間のNGOは、比較的規模が小さい故に、変化に即応しうる柔軟性のある行動をとりやすいという利点があるが、主軸となるメンバーがいなくなるとその団体の存続さえも危うくなる危険性がある。

一世代を20年とするならば、その間に、政治、教育、世論、人口構成など、社会的要素はあまりにも大きく変わりうる。その変化を超えて、機能しうる貧困層の支援体制を築くことは、現実的には不可能だろう。
「理想的には、支援を受けた子供たちが大人になったときに、自分達の子供、そして社会に存在する貧しい子供たちをサポートしていく、フィードバック型の支援システムが構築できるのが良いんですけどね、、。」
と市川さんは言う。

フィリピンにおける利点を見出すとすれば、下記になるだろうか。
フィリピンは子沢山であるため、コミュニティーでは様々な年代の人々が途切れることなく一緒に生活している。かつフィリピンでは、家族・親戚同士の付き合いが非常に深い。そういった点では、自分が支援者から受けたものを、すぐ他の下の世代に施すといったフィードバックの形が根付きやすい環境である。

ロビンソンを後にして、ペドロギル駅、ユナイテッド・ネイションズ駅両方で、カメラが届いてなかったかどうか尋ねた。駅員には、もし遺失物が届いているなら、セントラル駅に送られるはずなので明日以降行ってみなさいと言われ、
「内田さん、私明日はちょっと時間がないのですが、明後日セントラル駅にいって尋ねてみますね。」
市川さんに本当に感謝である。本体は戻らなくとも、メモリーカードだけでも返してほしい。

そこから市川さんの家の近くまで行くジープニーに乗った。彼女は来月の終わりまでマニラに滞在し、その後日本の大学の講座に戻って研究をまとめる予定。しかしこの1年で得られたマニラのストリートチルドレン及び貧困層に関するデータが十分ではなく、ひょっとすると一時帰国して、またすぐマニラに戻るかもしれないと言う。
「でもいくらこちらの生活費が安くても、もうお金がないし、どうしようか考え中です。」
「そうなんだ、、。日本に帰って東京に来ることがあったら、遠慮せずうちに泊まってね。」
いつしかジープニーは家の近くの終点についた。

「すみません、ちょっと部屋が散らかっているので、、。」
と市川さんが片付けるのを待つ間、私は廊下で自分のザックの中身を全部取り出して調べた。万が一カメラがないだろうか、と期待したがそれはなかった。それにしてもどこで盗まれたのかまるで検討がつかない。ある意味、見事な腕前だったと感心する。

「内田さん、お待たせしました。どうぞー。」
「ありがとう。お邪魔いたします。」
部屋に入って、私たちは床に座った。自然と目の前のタンスの扉に張ってある付箋に目が行く。それには、市川さんの研究に関する色んなアイデアが書いてある。
「介護の人がつぶれないように! +能力給の考え方」
と書かれた付箋があり、私はそれが何なのか尋ねた。
「それはですね、日本の介護分野において、以前私が考えていたテーマなんです。介護に携わる人たちの労働条件を少しでもよくしようっていう、、。」
「大変だって聞くよね、重労働なのに、賃金は安くて。」
「はい、それで、固定給をあげるのは難しいかもしれないけど、仕事をしている人の態度、親切さみたいなものを評価して、能力給をあげられないかという考え方があるんです。」
「態度、親切さ?」
「そうなんです。お風呂に入れたり、ベッドをきれいにしたりっていうルーチンワークだけをこなす人と、いつも何か声をかけてあげたり、笑顔で相談しやすい雰囲気を持っているという人は違う。後者の人には、能力給をあげるっていう方法です。」
「それは、介護される側がなんらかの形で評価するの?」
「そうですね。」
私が通った予備校にも似たような評価システムがあった。予備校生が講師の授業のわかりさすさを評価して、その結果が悪ければ、講師は解雇もされうるという厳しいものであった。

しかし介護の現場においてそれは公平な評価方法となるだろうか。精神病を患っている老齢者は、真っ当な評価はできないだろう。またどういう病状の人を多く担当しているかによっても評価には差が出るだろう。さらに、態度・親切さといった人間味溢れる要素を、無機的に数値還元してしまうと意味がなくなるのではないか。
「確かにそういう難しさはあります。でもあえて能力給というシステムを取り入れることで、介護に従事する人の労働条件がよくなればと思うんですよね。」
それを導入することで、働く人たちの労働環境が向上するこを節に願う。

マニラに到着した日と同様に、市川さんは炊飯器でお湯を沸かしてくれ、私はそれでシャワーを浴びた。



9月30日 朝6時の飛行機で日本へ。

2時50分起床、3時に市川さんと家を出た。丑三つ時かと思いきや、結構たくさんの人が家の前でくつろいでいたり歩いていたりする。マレーシアのボルネオ島でも、日中は暑いため人々はけっこう夜中に活動的であったことを、私は思い出した。
ジープニーが通る道に行く途中に、24時間オープンのベーカリーがあり、そこで菓子パンをいくつか買った。お店の近くにいた小学生低学年と思われる男の子たちが
「ちょうだい」
と言ってくるが、皆にあげるには数が足りない、申し訳ないが無視して断る。
そういえば、プラーグ山やビーガンの町では、ホームレスの子供たちを見なかった。やっぱり都会には多いのだ。

通りに出ると流しのタクシーはすぐに捕まった。市川さんが運転手にメーターを使うように言うと、おじさんはメーターをパタッと倒してくれた。ここで市川さんとはお別れである。私はお世話になったことを感謝して、ドアが閉まった後もしばらく手を振り続けた。

空港には30分もかからずに到着し、搭乗手続き、荷物検査、出国を経て、その後お土産屋をゆっくり見て回った。あるクラフトのお店にあったカピスという貝殻を使ったクリスマスの飾りに、私は心から惹きつけられた。カピス貝が手の甲ほどの大きさに丸く削られ、その上に別のカピスで彫られた天使や鈴や柊の葉が付けられている。カピスはフィリピン近海で取れる二枚貝で、帆立貝によく似た乳白色の光沢が、深い温かみを感じさせる。私はその飾りを購入した。

日本に帰れば、10月になり、11月が過ぎてすぐにクリスマスになるだろう。



カピスの飾り。この旅行記をかき終えたが12月上旬。本当にすぐにクリスマスになってしまいました、、。



帰国してこの旅の記録を書きつつ思う。少々強がりになるが、カメラをなくして良かったことが1つある。 それは、記憶を呼び起こして水彩画を何枚か描いてみたこと。まるで小学生のような絵ではあるが、久しぶりに絵筆を手に取った感覚は、純粋に楽しかった。

眼を閉じる。今回の旅行で見た様々な風景を瞼の裏に浮かべてみる。カメラで撮った失われた景色も、しばらくすると、現像にかけたフィルムのようにゆっくりと瞼の上に浮かび上がってくる。