2018年12月27日、たまたま品川図書館に行った時に、クマのプーさんのDVDが棚に並んでいた。プーさんとクリストファー・ロビンが小川をのぞき込んでいるかわいい絵が表紙に、裏表紙にはおなじみのピグレットやティガが描かれている。かずちゃんも、もう2歳半であるし、プーさんならば映像も目に優しそうである。
「見る?」と聞いたら「見る!」と嬉しそうなお返事で、さっそく借りた。中山家にはテレビがないので、今までかずちゃんが見たことのある映像番組は、小児科医の待合室でのアンパンマンやトイ・ストーリー、一起さんのスマホで見る週一度の笑点だけだった。
帰宅してDVDプレーヤにかけると流れてきたのは英語のナレーション、そして、クリストファー・ロビンの部屋にあるクマのぬいぐるみの映像。その後は、かわいらしいテーマソングがかかって、プーさんや他の仲間たちが出てきてお話が始まった。家で見る初めてのプーさんに、かずちゃんは釘付けになった。そして私は流れてくる英語の台詞に、ちょっと集中力を傾けた。ナレーターの英語はなんとなくわかるが、キイキイ声のピグレットやはしゃぐティガー、陰気なイーヨーのセリフは全くと言っていいほど聞き取れない。「子供向け番組の英語ってこんなに難しかったっけ?」私は焦った。そんなわけで、母子ともにプーさんのDVDにはまることになった。
最初のお話は、プーさんがはちみつを取ろうと風船を使ってハチの巣に近づいたり、ウサギの家を訪れてはちみつを食べ過ぎてドアから出られなくなる話。次は、みんなが住む100エーカーの森を大嵐が襲い、洪水に巻き込まれたプーさんとピグレットを助けようと救出隊を組織する話。最後は、跳ねるの大好きティガーとカンガルー赤ちゃんが樹のてっぺんまでぴょんぴょんと登ってしまい降りられなくなる話。
ストーリーはいたって簡単なので英語がわからなくても問題ない。全部通して見ると90分ほどかかるが、それだと目に負担がかかりすぎると思い、一日一話ね、とお約束。
次の日から、かずちゃんは起きるなり「プーさん見る!」と連呼するようになり、何日も繰り返し見てストーリーを覚えると、
「プーさん、木に登ってるよ」「ピグレット泳いでるよ」「ティガーが来るよ」
とニコニコして教えてくれるようになった。
うちのDVDプレーヤはポータブルなので画面が小さい。棚の上においてあり、かずちゃんの横に座って一緒に見ると40才を過ぎた眼にはほとんどといっていいほど字幕が見えない。その状態だと、何回見ても「私本当に留学経験あるのかい?!」と思うほど英語の台詞はわからなかった。
中でもお手上げ状態だったのは、はちみつを食べ過ぎてウサギの家の入り口から出られなくなったプーさんを見て、フクロウとモグラが交わす会話であった。フクロウはモグラにプーさんを掘り出すのにいくらかかるかと聞いているのだが、なぜだか会話がかみ合わない。字幕では
フクロウ
「おおざっぱな額は?」
もぐら「おおざっぱな仕事はしないよ!」
フクロウ「いかほど払えばいいのだ?」
もぐら「イカだって? 現金だけだ!」
と訳されているのだが、なぜ上記の訳となるのかさっぱりである。
Play!
しかし毎朝毎朝何十回と繰り返し見ていくうちに、
プーさんが来ると気付き「またか!勘弁!」と慌てふためくウサギが、プーさんの顔を見たとたん愛想よろしく「Hello, Pooh! What a pleasant surprise!」(やあプー! びっくりしたなあ。嬉しいサプライズだ)という場面や、
木から降りられなくなったティガーとプーさんが「Tiggers don't jump! only bouce!」「Then you can bounce down.」「Bounce down?! Tiggers only bounce up!」(「俺はジャンプしないんだ! 跳ねるだけなんだ!」「じゃあ、跳ねて降りたらいいよ。」「跳ねて降りる?! 俺は跳ね上がることしかしないんだよお」)とやり取りする場面を見て面白いと思えるようになってきた。
クマのプーさんの著者であるA.A.ミルンは、1882年にロンドンで生まれ、史上最年少の11歳でウェストミンスター・スクールに入学し、その後ケンブリッジ大学のトリニティカレッジで数学を専攻した。学生時代から積極的に校内誌に寄稿し、卒業後はパンチ誌(当時最も社会的影響力のあった大衆雑誌)への投稿が評判となり、数年後にはその雑誌編集に携わるようになる。
しかし1914年に第一次世界大戦が勃発。ミルンは、通信将校として激戦地となるソンムの戦いに従軍する。両軍合わせて100万人以上の負傷者が出る戦いとなったが、幸運にもミルンは生還した。そして1920年には息子のクリストファー・ロビンが誕生し、長期休暇を家族で過ごすために、ロンドン南西部に農家風別荘(コッチフォード・ファーム)を購入。この周辺には、小川やブナの大木があるアシュダウンの森が広がり、ここがウィニー・ザ・プーの舞台の百エーカーの森となった。また、幼いクリストファー・ロビンは、ロンドン動物園にいるカナダ生まれの黒クマに会いに行くのが大好きだった。
時は遡って1914年8月24日、カナダのマニトバ州ウィニペグの若き獣医師ハリー・コールボーンは、第一次世界大戦の連合軍に合流すべくイギリスに向かう途上にあった。途中下車したホワイトリバー駅のプラットフォームで、ハリーは1人の猟師が黒いコグマを抱いているのに遭遇し、そのかわいらしさから20ドルを払って譲りうけた。そのコグマはハリーやその他多くの兵士に可愛がられながら、イギリスのソールズベリー平原にある軍事訓練地まで共に旅をすることとなった。
ハリーの故郷ウィニペグにちなんで「ウィニー」と名づけられたコグマは、すぐにカナダ歩兵第二師団のマスコットとなった。兵士達からミルクをねだり、野営地のいたるところでかわいらしいいたずらを繰り返し、夜はハリーのテントに来て眠った。厳しい軍事訓練が続く環境下で、ウィニーの存在は兵士たちに笑いと癒しをもたらした。
しかし12月になるとハリーが所属する師団は、ドイツ軍と連合軍が対峙しているフランスに向かうことになった。さすがに、ドーバー海峡を越えて最前線にウィニーを連れていくことは不可能だった。断腸の思いではあったがハリーはウィニーをロンドン動物園に預けていくことを決意する。1914年12月9日、ウィニーはハリーの運転する車で、訓練地からロンドン動物園まで移動し、他の動物たちとの生活を始めることになった。
数か月の間ハリーや兵士たちと共に暮らしてきたウィニーは、すぐに動物園での人気者となった。ウィニーは飼育係のみならず、来園者が檻の中に入ってきても驚かず、喜んでお手をしたり撫でられたりした。特に来園者に人気となったのは、ウィニー・ザ・カクテルと呼ばれるミルクと蜂蜜を混ぜた飲み物を大きなマグカップでウィニーに飲ませることだった。そして、クリストファー・ロビンも、数多くのウィニーファンの1人だったのである。
ミルンは、息子が親しげにウィニー(といっても背丈はクリストファー・ロビンとほぼ同じであったが)と触れ合うのを見て、クマのプーさんというキャラクターを思いつき、プーさんとその仲間たちが繰り広げる物語が創作されることとなった。
1915年夏、フランスの戦線からロンドンに帰還したハリーは、頻繁にウィニーに会いに行った。ハリーは最初はウィニーを祖国カナダに連れ帰るつもりでいたが、ロンドン動物園の大変な人気者になっていることを想い、1919年12月1日に正式にウィニーを動物園に寄贈した。その後もウィニーは多くのロンドン市民に愛されて生活し、1934年に老衰で死亡。一方ハリーは、ウィニペグに帰国した後も獣医として働き続け、1947年9月24日に60歳で亡くなった。
実在した心優しき獣医と1匹の黒クマ。天国で再開した2人は、また一緒のテントで寝ているのだろうか。
さて、かずちゃんが英語でプーさんを見るならば、英語の本などにも興味を示してくれるだろうか。図書館から借りてきた「大きく大きくなーれ」という紙芝居には英語が併記されていたので、「これ読んで!」と言ってきた時に、ここぞとばかりに英語で読んでみた。すると、かずちゃんは眉をひそめて不可解な顔をし、「ダメ! 違う! ダメ〜〜!」と私の持つ紙芝居に食ってかかったのである。突然普段と違う言葉でしゃべるママのことが許せなかったらしい。「ごめん、ごめん、じゃあ日本語でね。」と言って、日本語バージョンを読むとにっこり。
考えてみれば、赤ちゃんは生まれてから全く未知の言葉に触れること数年を経てようやく、「〇〇食べる! ▽▽取って! これ、違う!」と自分の考えが表現できるようになる。そこへ、一番自分のいいたいことを理解してくれるママがわけわからん言葉で話しだしたら、それは怒るだろうな、、、と改めて思った。プーさんのDVDはアニメの動きがあり、話されている言葉がわからずとも内容がわかるから好きなのだ。
こんなこともあった。うちから保育園の通う途中に、ジャーマンシェパードの陶器の置物がある。
German Sheperdのかわいい置物
いつもかずちゃんが「犬がいるよ! 犬がいるよ!」というので、私は思いっきり巻き舌にして「かずちゃん、あれはGerman Sheperdっていうのよ。」と英語の発音で言ってみた。するとそれが面白かったのか、ニコニコしながらママを真似して「German Sheperd」というではないか! 「ジャーマンシェパード」ではなく、German Sheperdである。小さい子は、外国語の発音をあっという間に覚えるというが、本当なんだろうなと実感した。聞いた発音を真似てすぐに習得するというこの能力は、ひらがなを覚えてその発音が頭の中に確立される年齢になると、残念ながら失われてしまうようだ。
プーさんの物語は、ミルンによるストーリーもさることながら、E.H.シェパードによる愛らしい挿絵が子供たちの心をとらえて離さない。
1879年12月10日ロンドンで生まれたシェパードは、幼少の頃から絵を描くのが好きで、また両親も彼の才能を信じ絵に夢中だった息子に深い理解を示した。彼は奨学金を得てロンドンの王立芸術院に進み、在学中から多くの賞を得るようになった。また投稿した挿絵がパンチ誌に採用されて脚光を浴び、シェパードは、ミルンが執筆中だったプーさんの物語の挿絵画家として紹介されたのであった。
ミルンは、シェパードの子供や物の動きを捕らえることに非常に卓越した作風に心惹かれた。そして、個人的にシェパードを自宅に招き、プーさん、ピグレット、カンガルー、イーヨーのモデルとなったぬいぐるみを写生するよう促した。またシェパードは妻や子供もつれて、ミルンの別荘であるコッチフォード・ファームを訪れるようにもなり、プーさんの舞台となるアシュダウンの森をくまなく歩いた。その時に描かれた絵は、詳細な100エーカーの森の地図となった。
また当時として画期的だったのは、作家であるミルンと挿絵を担当したシェパードが、本のページレイアウトを協力して行ったことである。物語の場面にあった挿絵をシェパードが数点描き、2人でページ内での配置を考える。スペースが足りない時など、必要に応じてシェパードが挿絵の大きさを変更して再度描く。時間をかけて丁寧に挿絵が組み込まれた、プーさんシリーズ第1作「くまのぷーさん」は1926年に刊行され、イギリス及び米国においても大成功を収めた。
私も図書館でプーさんの原作を借りて見た時に、どのページにも必ず挿絵があることに気づいた。余白も含めた形でぴったりサイズの絵が描かれていたり、時には見開き2ページに8つも挿絵があったりと、非常に凝ったレイアウトである。かずちゃんも挿絵には心惹かれると見えて、厚さ7センチ近い本を「プーさん、ピグレットがいるよ。」と言いながらよくめくっていた。現在出版されている児童書にも、ここまで凝った挿絵のレイアウトはないのではないだろうか。
はちみつを食べ過ぎて穴から出られなくなったプーさんをみんなで引っ張り出すところを描いた挿絵。余白にも木の枝や蜂が描かれている。
見開き2ページに、プーさん、ピグレット、フクロウ、ウサギなどなどが並ぶ
ミルンは大成功を収めた合計4作品のプーさんシリーズ(くまのぷーさん、プー横丁にたった家、ぼくたちがとてもちいさかったころ、ぼくたちは六歳)を発表した後は、児童文学とは決別する。その原因としては、本来の戯曲作家としての創作に取り組むため、プー作品が成功した故の息子クリストファー・ロビンとの不和などがあったといわれる。対照的に、シェパードは1976年96歳でなくなる数年前まで、増版・改版が続くプーさんシリーズのために挿絵を描き続けた。
2019年4月、プーさん物語生誕80周年を記念して渋谷のBunkamuraで、プーさんの原画展が開催された。
「プーさんが見られるよ。かずちゃん、プーさん見たいよね。」
と言って家族で出かけたのだが、最近のかずちゃんはとてもお察しがよく、会場に入って即座に白黒の原画展は自分(子供)向けのものではないということを感じ取った。おまけに、展覧会はとても盛況で1つの原画を見るために人だかりの山ができている。プーさんのおうちを模したパネルの前でニコニコ写真を撮った以外は、
プーさんが住んでいたMr. Sandersの家の扉の前で
「ママ! 見ちゃダメ! これ見ちゃダメ! おしまい!」を連発し、とてもじゃないがゆっくりと見ることはできない。それでも数十年前のシェパードの原画を生で見られたことに喜びを感じ、帰宅したのであった。
かずちゃんが読む読まないとは関係なしに、私は図書館から英語の絵本を何冊か借りてきて読んでみた。そして改めて、英語を勉強しなければならない、と痛感した。というのは、絵本の中にはこれでもかというほどわからない表現が存在していたからである。
ハンス・デ・ビア作、The little polar bearより。
シロクマのラルスが溺れかかっている! 足がどうなった?
写真の文中真ん中あたりの、Lars caught his feet. はどういう意味だろうか。catch=捕らえるという意味から、ラルスは(自分の)足を捕まえた、と考えたいところである。ところが挿絵と前後の文脈から考えると、どう見ても「ラルスは足をひっかけた」なのである。
ジェームズ・ドーハーティ作、Andy and the lionより。
Swinging his booksとは、、?
Andy walked along, swinging books.は、どう訳したものだろうか。出かけて行ったのはわかるが、本をどうしたんだろう、、と思ってしまう。しかし、絵を見れば一目瞭然である。
確かに、Swinging his booksである。
ルドウィッヒ・ベーメルマンス作、寄宿舎で暮らす12人の女の子の生活を描いたMadelineより。
女の子たち、お食事中
they broke the bread.という表現を見ると「パンを壊す?」と思ってしまうが、挿絵を見ればなんてことはない。フランスパンをちぎっているのである。
それにしても挿絵の力はすごい。文だけならば、悩んでしまう表現も挿絵があれば一発で理解できる。小さい子は、たくさん絵本を読むことで言葉の意味と概念を、どんどん吸収するのだと思う。
しかし当然ながら挿絵があっても、わからない表現もある。
マーシャ・ブラウン作、Stone soupの一番最後の文がそうであった。
ストーリーは、お腹を空かせた3人の兵士がある村にたどり着くところから始まる。村人たちは兵士たちが来る前に食べ物を全て隠してしまい、分けてあげられる食料は何もないと断わる。そこで3人は「仕方がない。それならば石スープを作ろう。」と言って大釜に大きな石を入れて煮込みだす。村人たちは何事かと物珍しさに集まってくる。3人の兵士は石スープを煮込みながら、「これは将軍と食したスープだ。少し野菜を入れるととても味がよくなるんだが。」と呟く。すると興味をそそられた村人の1人が隠した野菜を持ってきて差し出す。スープからはいい匂いが漂い始める。そのうち3人は、「いい具合だ。ここで肉が入れば最高の出来になるのだが。」と自信たっぷりに言う。別の村人は、隠した肉を持ってきて「入れてくれ」と差し出す。最後には、野菜も肉もたっぷり入ったスープが出来上がり、3人と村人たちはお腹いっぱいになってめでたしめでたし。
そして、最後のページには、意気揚々とした表情で村を立ち去る3人が描かれ、
It's all in knowing how.
と結ばれているのだが、この文の意味がどうにもこうにも分からない。どなたか名訳があれば教えてください。
さて、プーさんの原作にもちょっと挑戦してみた。プーさんの原作は、絵本というよりは児童書であり、文章も絵本よりはずっと長い。わかるだろうかとびくびくしながら原作を開いたのだが、意外とわかった、読みやすかった。というのは、私は毎朝かずちゃんと一緒に50回以上プーさんのDVDを見ているし、石井桃子訳、阿川佐和子の新訳も完読しており、 プーさんの物語を読むのが初めてではなかったのである。
もちろん1文1文を取れば意味がわからないものも多々あるのだが、全体のストーリー展開が楽しめればよしという形で読み進めていった。Winnie-the-Pooh(クマのプーさん)及びその続編であるHouse at the Pooh Corner(プー横丁に立った家)には、10話ずつお話が収録されており、それぞれのお話は子供が寝る前に読んであげるのにちょうどいい長さである。どの見開きにも、場面にあったプーやピグレット、イーヨー、フクロウのかわいい挿絵が描かれており、彼らがはしゃぎまわる様子が頭の中に浮かんでくる。
また、胸に響いた箇所が、時々お話の一番最後に描かれているミルンと息子クリストファーロビンとの会話であった。
お話を聞き終えたクリストファーロビンが、
「僕もちゃんとイーヨーにプレゼントしたの?」
「もちろんだよ」
と読み聞かせをした父親は答える。
二人のやり取りが、寝る前に絵本を読む自分と娘の姿に重なって、心が温かくなる。
私は時間の合間を縫ってちょくちょく英語の絵本を読んでいた。するといつしか、かずちゃんも近づいてきて
「ママー。何読んでいるの?」
「英語の絵本よ。」
「絵だけ読んで。」
というので、1ページずつめくりながら簡単に和訳した文をつけて読むようになった。かずちゃんは、美しい田園地帯の丘の上に建てられたおうちが都市開発の波に晒されてさみしい想いをし、しかし最後はまた田舎に移築され、、というバージニア・リー・バートンのLittle House(ちいさいおうち)が特にお気に入りで、和訳した文の間に「かわいそうだね、ちいさいおうち。Little Houseよ。」と英語を交えると「Little House」と真似をする。普段しゃべるのとは違う言葉が存在する、それは普段の絵本の文字とも違う、ということを感じてくれればいいなと思う。
さてそんな読み聞かせをしていたころ、知人のおじさんから「バイリンガルの人は認知症になりにくいらしいよ」という話を聞いた。幼児英語教育が過熱し、かつ高齢化に伴う認知症が社会問題化している現代日本において、話題になりそうな研究である。グーグルで検索してみると、カナダにあるヨーク大学の心理学教授エレン・ビアリストック(Prof. Ellen Bialystok)の研究グループがこの分野で著名であることが分かった。
ビアリストックらは、モノリンガルとバイリンガルの脳機能の違いに着目して数十年研究を重ねている。それによるとバイリンガルの人はモノリンガルに比べて、集中力を高めたり複数のことを素早く切り替えて行うために必要な、実行機能と呼ばれる脳機能が優れているという。この実行機能を担う神経基盤は前頭前野にあるが、この部位は老化に伴って一番早く衰えてしまう。二言語を扱うことによって前頭前野が常日頃から活性化されているバイリンガルの人は、実行機能が長期間正常に機能し、モノリンガルの人に比べて認知症発症が遅いと言われている。
多くの比較研究では、バイリンガルかモノリンガルを決めるために、LSBQ(Language and Social Background Quenstionnaire)という言語能力、言語環境に関する質問調査を行う。LSBQの質問には、第二言語がどのくらいできるかという主観的評価(0〜100)があり、これが20以上の場合、潜在的バイリンガルとみなして、さらに家庭、学校、地域社会における第二言語の使用頻度と使用状況、習得開始時期等について質問を受ける。そして最後に実際に第二言語を使ったテストを受け、それらの総合結果から、モノリンガルかバイリンガルかを区分する。
ビアリストックらは、バイリンガルの子供の実行機能についても数多くの実証実験を行っている。実行機能を測定するための、フランカー課題(周りの刺激を遮断し、中央部だけに意識を集中する)、ストップ-シグナル課題(選択課題を行う中で、音が聞こえた時は選択を素早くやめる)といった心理テストでは、一貫してバイリンガルの子供がよりハイスコアを取る傾向がある。
その一方でバイリンガルには言語学的な弱点もある。バイリンガルは同年齢のモノリンガルに比べて母語の語彙能力が低い傾向があり、絵を見てその名前を早く言う、1分以内に「動物の名前」「Aから始まる言葉」等をできるだけ多く言うといったテストが苦手である。
しかしそういった弱点があったとしても、グローバル化が進む昨今、子供がバイリンガルになったらいいなあと日本の親御さんは誰しもが思うに違いない。「日本語」と「英語」が流暢にしゃべれるバイリンガルは、頭がよさそうで憧れのイメージがある。ところが、アメリカにおける「バイリンガル」の現状は必ずしもそうではなさそうだ。
アメリカ社会において多くのバイリンガルの子供たちは、家庭言語と学校における教育言語が異なる。アメリカでの教育言語はほぼ英語なので、すなわちバイリンガルとは家庭言語がスペイン語のヒスパニック系、または中国語の中華系の子供をさす場合が多い。特に、ヒスパニック系のバイリンガル家庭は低所得者が多く、子供の学業成績も振るわずという現状がある。「バイリンガル」といっても様々である。
家庭言語と教育言語が異なる場合、子供の勉学に多大な困難をもたらすであろうことは想像に難くない。そこでアメリカの一部の学校で実践され始めているのが、二言語教育である。この教育法では、就学初期段階では授業の説明を家庭言語と英語で行い(例えば算数の授業の説明を、スペイン語と英語で行う)、学年が上がるに連れて徐々に英語の比率を高くしていく。バイリンガルの子供は就学後すぐは学習に困難を示す場合が多いが、この二言語教育を受けた子供は、高学年になると家庭言語と英語両方の能力を保持しつつ数学等の能力も平均を上回る傾向があることが示されている。2010年のアメリカ国勢調査によると全国民の12%が家庭言語はスペイン語であると回答しており、ヒスパニック系の影響力は無視できないものがある。英語以外の言語を母語として持つ子供たちに対して、どのような言語教育を行っていくかは多民族国家としての重大な課題である。
さて日本における教育言語はほぼ100%日本語であるが、こうした環境下で母語が非日本語の人たちは、中国や韓国、アジア各国から働きに来ている人たちではないだろうか。現在これらの大半の人々は期間限定で日本に滞在しているが、今後数十年の間には国際結婚等を経て永住権を持ち子供とともに日本に住む人々も増えてくるであろう。将来的に、彼らが母国のアイデンティティを失わずに日本社会にも溶け込んで生活していくためには、母語と日本語での二言語教育が模索・実践されていく必要があるのかもしれない。
日本におけるグローバル化の波を受けて小学校教育課程にも変化が起こりつつある。それは、2020年度から全面実施される小3,4の外国語学習、小5,6からの科目としての英語必修化である。既に一部の学校ではこれらがカリキュラムに組み込まれて開始されているが、英語教育が行える十分な人材がないまま見切り発車していることは否めない。その背景の1つには、グローバル人材の早期育成を望む日本経済界からの強い要請があったといわれている。
不十分な人材と教材しかない状態でも早期英語教育に踏み切るべきだったのか、それとも十分な準備を整えてから(そのためには十数年の時間が必要かもしれない)行うべきだったのかの是非を決めることは、非常に困難である。しかし確実に言えることは、昨今の日本社会のグローバル化は、驚くような勢いで進んでいるということである。
プーと吹くと3方向に広がるおもちゃでパパと遊ぶ
日本に住んでいて身近にグローバル化が感じられるのは、英語圏の人々よりかは、むしろ非英語圏の人々の増加によってではないだろうか。最近近所の商店街を歩いていても頻繁に外国人労働者に出会うようになった。店員さんは胸に名札をつけているので日本人でないことはすぐにわかる。商品やお金の受け渡しをする時に、
「お国はどちらですか?」
と聞くと、
「ベトナムです。」
「ネパールです。」
「ウイグルです。」
「ミャンマーです。」
と様々な答え。特にミャンマーさんがいるお店には行くことが多かったので、ミャンマー語で「こんにちは」って何て言うのだろうと気になった。ミャンマー語入門の本を見てみると「ミンガラーバ」が「幸あれ!」という意味でこんにちは。ありがとうは「チェーズーバーベー」であった。
ミャンマーさんが働いているお店に行ったときに「ミンガラーバ」「チェーズーバーベー」と言ってみた。すると忙しそうに手を動かしながらもにっこり笑ってくれた。また気さくな間柄での「さようなら」は「タッター」ということも教えてもらった。これはかずちゃんも覚えられたとみえて、私と一緒に「タッター」と手を振る。自分が留学していた時に「コンニチハー!」と声をかけてもらいとても嬉しかったことを思い出す。
さて6月16日に3歳を迎えたかずちゃんは、毎日のように言語能力が伸びているのであるが、日本語と別の言語の存在も明確に認識して興味を持つようになった。
「赤いブーブーは?」と聞くので
「Red carよ。」と教えてあげると
「Red car、、」と繰り返して
「白いブーブーは?」と聞く。
「White carよ。」
「White car、、。じゃあ、ごみ収集車は?」
「う〜ん、英語でなんていうのかママわからないなあ。今度インターネットで調べてくるね。(Google翻訳によるとGarbage truck)」
といったやり取りをしながら保育園に向かったりする。
さて、もう一度プーさんに戻ろう。
「クマのプーさん」が石井桃子によって日本語に訳され出版されたのは1940年、太平洋戦争のただ中であった。「敵国語の物語だったのに、不思議なことに検閲を通り出版された。」と後に石井桃子は回想している。物不足だったため出版数はわずかだったが、子供たちは本を開いてプーさんの世界を空想した。1929年生まれのある森山京(もりやまみやこ)は、空襲警報が頻繁に鳴り響く生活の中、プー横丁にたった家を読んで「こんなに楽しい世界があるのか」と感嘆し、空腹を我慢しながらプーさんが好きなはちみつのおいしさを想像したという。彼女は後に童話作家として活躍するが、作品には多くの動物が賑やかに登場し、幼少期に読んだプーさんが創作の原点にあるに違いないと感じられる。
1924年に、日本女子大英語学部に入学した石井桃子は、卒業年度を迎えた頃から菊池寛が起こした文藝春秋社で英語小説の要約や編集の手伝いというアルバイトを始めた。当時文壇の重鎮だった菊池寛は、犬養毅(つよし)の息子である猛(たける)とも面識があった。犬養毅は本が増えすぎた自邸の書庫を整理してくれる人がいないかと探しており、猛が菊池寛に相談して紹介されたのが当時22歳の石井桃子だった。犬養邸には息子の猛夫妻とその子供たちが一緒に住んでおり、石井桃子は書庫の整理をする傍ら、彼らの良き遊び相手ともなっていく。犬養邸に出入りするようになって3年後の1932年、5.15事件が起こり、犬養毅は自邸にて陸軍将校らに銃殺された。この後、日本は軍国主義としての歩みを強めていき、石井桃子が勤める文藝春秋社内においてもその色合いは徐々に濃くなっていった。
5.15事件の翌年の犬養猛夫妻のクリスマスパーティーに石井桃子は招待される。その時ツリーの下には、犬養夫妻と親交がありオックスフォード大学への留学から帰ってきた西園寺公一からの「A house at Pooh corner」の原著がプレゼントとして置いてあった。石井桃子は子供たちにせがまれてその本を訳しながら読み聞かせをしたが、その時の子供たちの笑って楽しむ様子はもちろん、彼女自身もプーの物語に魔法のように惹き込まれたという。
その後石井桃子は会社を辞めて、病床にあった母や親しい友人の世話をする傍ら、「A house at Pooh corner」及び「Winnie-the-Pooh]の翻訳に取り組み始めた。そして、当時岩波書店に勤務していた吉野源三郎との縁もあり、1940年に「クマのプーさん」が、1942年に「プー横丁にたった家」は出版され、これらは石井桃子が初めて翻訳を手掛けた作品となった。こう見るとプーさんの日本語版出版は、日本が軍国主義へと歩み始めた暗い時代において、奇跡的な出来事だったと思えてならない。
戦後石井桃子は、翻訳家として多くの児童書を手掛けていくと同時に、1958年には荻窪の自宅に子供図書館を開き、多くの子供たちに読み聞かせをした。彼女はその時に出版前の訳した本を読んで、子供たちが本を理解できているか楽しんでいるかを観察して、何度も何度も翻訳に推敲を重ねたという。いい翻訳かどうかは、子供たちの様子に一番反映されると信じてのことだった。
また石井桃子は自分が手掛けた翻訳について常に、より良い訳があるのではと考えることを怠らなかった。特にプー作品については、増版・改版を機に10回も改訳を行っている。さらに石井桃子が90歳を目前にして取り組んだのは、ミルンが書いた自伝「It's too late now」であった。1882年生まれのミルンが、特に自分の幼少期の体験・記憶に焦点を当てて書かれたこの自伝は当時の時代的背景を多分に含んでおり、わかりやすく翻訳するのが非常に困難な作品であった。そのため石井桃子は、イギリス人の先生にレッスンをつけてくれるよう依頼し、日々詳細なノートをつけて、足掛け6年をかけて550ページとなる邦訳版を完成させた。
児童文学者かつ翻訳家としてのあくなき探求心と努力。石井桃子の仕事からは、外国語を学ぶということに終わりはないんだということが偲ばれる。
かずちゃんも数年後には小学校に入学して、授業という枠組みの中で英語を勉強するようになるだろう。思春期になれば「なぜ英語を勉強しなければならないのか」という疑問を親にぶつけるようになるかもしれない。「海外旅行に行って英語で色んな人とお話ができる」「就職に役立つ」等、色んな返答があると思う。しかし、それらに加えて、言語にはそれ自体に尽きない奥深さと面白さがあるということを知ってほしい。
最近大好きな「飛ぶごっこ」。キキリボンをつけて、傘ほうきにまたがり、相棒はプーさん。
おまけ
絵本Stone soupには、邦訳版(世界一おいしいスープ)があることを知った。It's all in knowing how. は、「いえいえ、ちょっと頭を使ったまで」と意訳されていた。絵本の英語って、難しい、、。
GWに行った伊勢神宮にて
参考文献
クマのプーさん A.A.ミルン著、石井桃子訳、岩波書店
プー横丁にたった家 A.A.ミルン著、石井桃子訳、岩波書店
ウィニー・ザ・プー A.A.ミルン著、阿川 佐和子訳、新潮モダン・クラシックス
プーの細道にたった家 A.A.ミルン著、阿川 佐和子訳、新潮モダン・クラシックス
クリストファー・ロビンのうた A.A.ミルン著、E.H.シェパード絵、小田島雄志訳、小田島若子訳、河出書房新社
クマのプーさんとぼく A.A.ミルン著、E.H.シェパード絵、小田島雄志訳、小田島若子翻訳、河出書房新社
プーさんの森にかえる デイヴィッド ベネディクタス著、こだまともこ訳、小学館
クマのプー 世界一のクマのお話 A.A.ミルン原案、ポール・ブライト著、ブライアン・シブリー著、ケイト・ソーンダズ著、ジーン・ウィリス著、森絵都訳、KADOKAWA
プーさんとであった日: 世界でいちばんゆうめいなクマのほんとうにあったお話 リンジー・マティック著、山口文生訳 評論社
ウィニー 「プーさん」になったクマ サリー・M.ウォーカー著、さくまゆみこ訳、汐文社
世界で一番有名なクマ ウィニーの物語 ヴァル シュシケヴィッチ著、小林博子訳、文芸社
グッバイ・クリストファー・ロビン:『クマのプーさん』の知られざる真実 アン・スウェイト著、 山内玲子訳、田中美保子訳
クマのプーさん 創作スケッチ: 世界一有名なクマ 誕生のひみつ ジェイムズ・キャンベル著、小田島恒志訳、小田島則子訳
プーと私 石井桃子 河出書房新社
ノンちゃん雲に乗る 石井桃子 福音館創作童話
伝記を読もう 石井桃子 子どもたちに本を読む喜びを 竹内美紀著 あかね書房
ひみつの王国: 評伝 石井桃子 尾崎真理子 新潮文庫
子どもの英語にどう向き合うか 鳥飼久美子 NHK出版
Bilinguals have more complex EEG brain signals in occipital regions than monolinguals.
Grundy JG, Anderson JAE, Bialystok E, Neuroimage. 2017 Oct 1;159:280-288.
Receptive vocabulary differences in monolingual and bilingual adults.
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Receptive vocabulary differences in monolingual and bilingual children.
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森のゆうびんや もりやまみやこ フレーベル館
こうさぎのジャムつくり もりやまみやこ フレーベル館
おしゃべりねこ大かつやく もりやまみやこ 小峰書店
友だちごっこもわるくない もりやまみやこ 小峰書店
子どもたちへ、今こそ伝える戦争 子どもの本の作家たち19人の真実 講談社
名誉ある戦争、A.A.ミルン著、吉村圭訳、鹿児島女子短期大学紀要第54号(2018)p.139-151