初秋の高山を薄紫色に彩る竜胆の花。古くは万葉集に詠まれ、日本人の意識と深く結びついている花である。また古くから生薬としても使われ、その根がとても苦いことから中国語では「竜の肝」と呼ばれ、その音読みがリンドウという名前となった。
竜胆を含む漢方薬に、竜胆渕肝湯(りゅうたんしやかんとう)がある。
9種類の生薬が下記の配合で混ぜられたもので、尿道炎、膀胱炎、帯下、子宮内膜炎などの疼痛に効果がある。
・尿道炎(主に男性尿道の炎症、性行為によるクラミジア等の微生物の感染による)
・膀胱炎(細菌による膀胱の炎症、女性に多くみられる)
・帯下(女性のおりもの)
・子宮内膜炎(細菌感染による子宮内膜の炎症)
当帰4.0(トウキ:セリ科シシウド属の乾燥した根)
地黄5.0(ジオウ:ゴマノハグサ科アカヤジオウ属の乾燥した根)
木通3.0(モクツウ:アケビまたはミツバアケビのつる性の茎)
黄苓3.0(オウゴン:シソ科タツナミソウ属コガネバナの乾燥した根)
沢浪3.0(タクシヤ:オモダカ科サジオモダカ属の塊根。湖沼、田んぼで繁殖)
車前子3.0(シヤゼンシ:オオバコ科オオバコ属の成熟種子)
竜胆1.0(リュウタン:リンドウ科リンドウ属の乾燥した根)
山楯子1.0(サンシシ:アカネ科クチナシ属の成熟果実)
甘草1.0(カンゾウ:マメ科カンゾウ属の乾燥した根)
上記の配合によると、竜胆の割合はわずか24分の1である。意外に少ない。
他にも竜胆を含む漢方薬としては、歯の痛み、抜歯後の痛みに効く立効散(りっこうさん)がある。配合は、下記の通り。
細辛2.0(サイシン:ウマノスズクサ科のケイリンサイシンまたはウスバサイシンの根や根茎を乾燥したもの)
升麻2.0(ショウマ:キンポウゲ科サラシナショウマ属の乾燥した根)
防風2.0(ボウフウ:セリ科ボウフウ属の乾燥した根および根茎)
甘草1.5(カンゾウ:マメ科カンゾウ属の乾燥した根)
竜胆1.0(リュウタン:リンドウ科リンドウ属の乾燥した根)
竜胆の比率は、8.5分の1である。
さらに、腰痛症、坐骨神経痛、筋肉痛、神経痛、関節痛に効く疎経活血湯(そけいかっけつとう)という漢方薬もあるが、これにはなんと17種類の生薬が配合されている。
勺薬2.5(シャクヤク:ボタン科ボタン属の乾燥した根)
地黄2.0(ジオウ:ゴマノハグサ科アカヤジオウ属の乾燥した根)
川茸2.0(センキュウ:セリ科センキュウの根を湯通ししたもの)
蒼乖2.0(ソウジュツ:キク科ホソバオケラの根茎)
当帰2.0(トウキ:セリ科シシウド属の乾燥した根)
桃仁2.0(トウニン:バラ科モモ・ノモモの成熟種子)
秩苓2.0(ブクリョウ:サルノコシカケ科、松類の根に寄生する菌類の乾燥した菌核)
牛膝1.5(ゴシツ:ヒユ科イノコズチの乾燥した根)
陳皮1.5(チンピ:ミカン科ウンシュウミカン・マンダリンオレンジの成熟した果皮を乾燥したもの)
防已1.5(ボウイ:ツヅラフジ科オオツヅラフジの乾燥した茎と根茎)
防風1.5(ボウフウ:セリ科ボウフウ属の乾燥した根および根茎)
竜胆1.5(リュウタン:リンドウ科リンドウ属の乾燥した根)
威霊仙1.5(イレイセン:キンポウゲ科センニンソウ属サキシマボタンヅルの乾燥した根)
禿活1.5(キョウカツ:中国に育つセリ科多年草の乾燥した根、根茎)
甘草1.0(カンゾウ:マメ科カンゾウ属の乾燥した根)
白董1.0(ビャクシ:セリ科シシウド属ヨロイグサの乾燥した根)
生姜1.5(ショウキョウ:ショウガ科ショウガの乾燥した根)
竜胆の比率は、わずかに19分の1.
竜胆を含む漢方薬3つを調べてみて、こんなに複雑な配合比を持つものなのかと改めて驚いた。これらはどう発展していつ頃確立したのだろうか。
人々は遥か昔から、色んな植物を口に含み、また塗布したりして、経験的に植物の持つ薬効を知っていた。古代中国には、何百回にもわたり自身の体を用いて植物の薬効を確かめた神農(しんのう)という神が存在したという。
その神農の名を冠した「神農本草経」(しんのうほんぞうきょう)と呼ばれる中国最古の本草学辞典が2〜3世紀頃にまとめられた。
この「神農本草経」には、365種の生薬が上薬、中薬、下薬に分類され、それらの薬効と使い方が詳細に記されている。
上薬、中薬、下薬とは、薬の格付けである。
上薬は、命を養うをつかさどる。毒なし。多く服し、久しく服するも人を傷めず
中薬は、性(健康)を養うをつかさどる。毒なし、毒あり。その宜しきを勘酌す
下薬は、病を治すをつかさどる。毒多し。久しく服すべからず
非常に興味深いのは、下薬の記述ではなかろうか。
下薬は、病気を治す、しかし、毒(副作用)多しなのである。
2〜3世紀の時代から、強力な薬効と副作用は紙一重であるということが、経験的に知られていたのである。
また上薬の1つである竜胆の記述は、
「味は苦、寒。山谷に生ず。骨間の寒熱、驚痛(痙単性疾患)、邪気を治す。絶傷(筋肉の障害)を続ぐ、五臓を定め、轟毒(寄生虫疾患)を殺し、久しく服せば、久服益智を益し、忘れず、身を軽くし、老に耐ゆ。」
とある。
上薬、中薬、下薬それぞれに含まれる有名な生薬は、
上薬:
朝鮮人参(チョウセンニンジン:ウコギ科オクネニンジンの根、乾燥方法により紅参、白参、糖参など)
杓杞(クコ:ナス科クコの果実、根皮、葉)
独活(ドッカツ:セリ科シシウドの乾燥根)
杜仲(トチュウ:トチュウ科トチュウの乾燥樹皮)
竜胆(リュウタン:リンドウ科リンドウ属の乾燥した根)
泰楸(シンショウ:フユザンショウの実)
肉桂(ニッケイ:クスノキ科クスノキの乾燥樹皮)
石蜜(イシミツ:蜂蜜)
大炎(タイソウ:クロウメモドキ科ナツメの果実
胡麻(ゴマ:ゴマ科ゴマの成熟種子
冬瓜子(トウガン:冬瓜の成熟種子を乾燥したもの)
熊脂(ユウシ:ツキノワグマの脂肪)
髪々(ハツハツ:人の髪の毛)
中薬:
当帰(トウキ:セリ科シシウド属の乾燥根)
防風(ボウフウ:セリ科ボウフウ属の乾燥した根および根茎)
黄連(オウレン:キンポウゲ科オウレンの乾燥した根茎)
桔梗(キキョウ:キキョウ科キキョウの乾燥した根)
蜀薬(シャクヤク:ボタン科ボタン属の乾燥した根)
山楯子(サンシシ:アカネ科クチナシ属の成熟果実)
酸漿(サンショウ:酸漿の全草を乾燥させたもの)
仮蘇(カソ:シソ科バジルに近縁の植物の生葉)
梅実(バイジツ:梅の未熟果実を煉製にしたもの)
下薬:
大黄(ダイオウ:タデ科タデ属の一部の植物種の根茎)
蜀彬(ショクショウ:ミカン科カホクザンショウの果実の果皮)
天雄(テンユウ:キンポウゲ科トリカブト属の根で、子根の付かない単体)
烏頭(ウズ:キンポウゲ科トリカブト属の根で、根塊の親の部分)
附子(ブシ:キンポウゲ科トリカブト属の根で、根塊の子根)
牡丹(ボタン:ボタン科ボタン属の樹皮)
連翔(モクセイ科レンギョウ属の成熟果実を蒸して乾燥したもの)
杏核(キョウニン:バラ科サクラ属アンズの種子)
桃核(トウカク:バラ科モモ属モモの種子)
などがある。
上薬に含まれる朝鮮人参、杜仲、胡麻、肉桂、石蜜などは現在でも健康食品として名高い。
中薬には、漢方薬の主要成分である当帰、防風などがある。
下薬に含まれる天雄、烏頭、附子は全てトリカブトの種類であり、薬はまた毒にもなるというのが納得できる。
複数の生薬を混ぜ合わせることで、薬効が強くなったり、複数の病状に同時に効いたり、薬の毒性が軽減されたりという利点があった。しかし混ぜ合わせることで逆に、効き目が弱まったり、予期せぬ毒性が生まれたりすることもあった。これらの調合に関する経験的知識は、長い時間をかけて集積され、陰陽五行という考え方を伴う形で、高度に体系化されていく。
※ 陰陽五行 全てのものは、陰と陽、さらに木、火、土、金、水という五つの要素に分けることができ、それらがバランスをとって成り立っている、という考え方。
後漢時代(AD2〜3世紀)に、張仲景(ちょうちゅうけい)という医学者は、傷寒という病によって家族を失った。傷寒とは、高熱悪寒を伴う病気で、現代の感冒、インフルエンザ、マラリヤの類と考えられており、張仲景はその経験から傷寒論という漢方医学の本をまとめ上げた。
傷寒論では、病気の進行過程を「病と体の戦い」と捉える。まだ体が優勢で発熱や咳で病と盛んに戦っている初期と、病が優勢になり症状は一見穏やかだが体は衰弱しきっている末期では、飲むべき漢方薬が異なる。
太陽病と呼ばれる初期では、発汗を促す葛根湯が適しており、厥陰病と呼ばれる末期では、体内の深部まで入った病と戦うために、胃腸に対して効き目のある冷え切った体を温める作用を持つ漢方薬が適している。
また、同じく張仲景がまとめた金置要略(きんきようりゃく)には、傷寒以外の、内科、外科、婦人病、慢性病などに対する診断、養生法、処方、食物禁忌等が説明されている。
これらの医学書が西暦前にまとめられていたとは驚きではないだろうか。
中国漢方は、古くは奈良・飛鳥時代には日本に渡来していたが、仏教とともに伝来した背景かあり、その医術を施すのは、僧医に限られていた。しかし、室町後期になると宗教的支配を逃れ、また江戸期には鎖国となり中国との交流が遮断された環境で、漢方は日本独自の発展を遂げていくことになる。
漢方では、問診や顔色、舌候(ぜっこう)(舌を見ること)が診断上重要であるが、日本にはあって中国にはない診断方法に、腹候(ふくこう)がある。お腹の張り、音などから診断を下す方法は、簡便で民間医にまで漢方を浸透させるきっかけとなった。
また、日本で創方された漢方の処方も多くある。
1804年、6種の薬草を混合した全身麻酔で世界初の乳がん治療に成功した花岡青洲(1760-1835年)は
十味敗毒湯(ジュウミハイドクトウ)(皮膚の痒みや炎症を抑える。またそういう体質を改善する)
紫雲膏(シウンコウ)(しもやけ、汗疹、痔の痛みなどに用いられる軟膏)
中黄膏(チュウオウコウ)(火傷、しもやけ、水虫等に用いる軟膏)
通仙散(ツウセンサン)(華岡青洲が乳がん手術をする際に用いた全身麻酔薬)
などを作り出した。
また、
九味梹榔湯(クミビンロウトウ)(かっけ等の水毒症状)
女神散(ニョシンサン)(産前産後の神経症・自律神経失調症、更年期障害等)
は、江戸時代の漢方の大家、浅田宗伯による創方である。
さらに漢方の中でも種々の流派が生まれ、それぞれが切磋琢磨していった。
ところが、明治時代になり漢方は逆境の時代に入って行く。明治9年、脱亜入欧をかかげた新政府は、漢方を否定し、外科的手法に秀でていた蘭方(オランダ医学)を採用、新たな医師免許交付を蘭学を治めた者のみに限定した。必然的に漢方は、時代遅れの医学として捨て去られることとなった。
それ以降、日本における医学は、オランダ医学、ドイツ医学、イギリス医学と変化し発展を遂げていくが、昭和40〜50年代に大きな変化が起こる。それは、この時期に起こったサリドマイド薬害、スモン薬害によって化学医薬品への信用が失墜し、古来からの漢方が再度脚光を浴び始めたのである。
また、昭和51年には漢方エキス剤が保険適応となり、漢方は携帯可能で手軽に服用できる庶民に手の届く薬となった。現在日本では8割以上の医師が漢方を処方したことがあるといわれ、化学医薬品で治らなかった病気が漢方で完治したという話も多数ある。現代の日本において、両者を相補的に上手く用いるという形が、模索されつつある。
さて、竜胆は、実際にどのくらい苦いのだろうか。上記3種の漢方薬を試しに飲んでみるのはどうかと思ったが、考え直した。というのも、どんな薬にも副作用があるのである。
例えば、
竜胆渕肝湯の添付文書を見ると、副作用として
・食欲不振
・胃部不快感
・悪心
・嘔吐
・下痢
さらには、
・間質性肺炎(肺胞と毛細血管を支持している組織である同質が線維化して起こる疾患)
・偽アルドステロン症(副腎皮質ホルモンであるアルドステロンがあたかも過剰に分泌されているような症状、高ナトリウム血症、低カリウム血症、高血圧などを示す疾患)
・ミオパチー(筋肉の疾患の総称)
・肝機能障害、黄疸(肝臓機能の低下。赤血球の代謝分解物質であるビリルビンの異常な体内蓄積)
などがおこる可能性が記されている。
いくら確率が低くても、この添付文書の内容をないがしろにしてはいけない。
「効かない薬もいい薬。」という言葉がある。その意味は、
・強力な薬理作用がない代わりに、副作用も小さく、安全性が高い。
・逆に抗がん剤などの強力な作用を及ぼす薬は、副作用も時には致死的になる。
つまり、副作用のない薬はないのである。
どんな薬にも副作用がある。そして、その副作用が重症で、大多数の人に被害をもたらし社会的問題となったときに、薬害と呼ばれる。
西ドイツのグリュネンタール社によって開発されたサリドマイドは、1957年10月1日、妊婦のつわりに対する特効薬として、西ドイツ、英国、オーストラリア、カナダ、オランダ、イタリアを始めとするヨーロッパ諸国で大々的に販売された。
「妊婦にも授乳している方にも絶対安全。お母さん、赤ちゃんに副作用なく安心してお飲みいただけます。」
これが、当時薬のパッケージに謳われた宣伝文句だったが、事実は真逆で、サリドマイドは薬害史上最悪の被害を多くの母子にもたらすことになった。
アザラシのように極端に手足が短くなる短肢症と呼ばれるまれな奇形がある。1958年以降、ヨーロッパ各国でこの短肢症の赤ちゃんが相次いで生まれるようになった。
1930年から1958年において西ドイツで生まれた21万2000人の赤ちゃんのうち、短肢症はたった1例。これに対し、1960年と1961年にはその発症率が40倍にも膨れ上がった。これは、妊娠中に母親が経口摂取したサリドマイドが原因だったが、そうであることはすぐには解明されず、サリドマイドは薬局で手軽に買える一般医薬品として多くの妊婦に服用され続けた。
1961年11月18日、小児科医かつ遺伝学研究者のレンツ博士は、臨床経験から短肢症の原因がサリドマイドである危険性を発表した。また、サリドマイド非承認国のフランス、スペイン、東ドイツ、アメリカなどでは短肢症の発症例はほぼ皆無であった。レンツ博士は20日にはグリュネンタール社と、24日には政府・グリュネンタール社との3社会談を行い、翌25〜27日の3日間でサリドマイドは西ドイツの薬局から回収された。
Lenz, W. et al.: Arch. Environ. Hlth., 5:100, 1962
しかしサリドマイドには、妊娠初期に服用することで胎児が高確率で奇形になる危険性がある。そのため、短肢症の赤ちゃんは、サリドマイド回収後も数年間は生まれ続けることになった。
被害者数は最大の西ドイツ3049例を始め、世界全体では4000例近くが報告されているが、これに加えて30%近くの死産があったと言われている。
待ちに待った我が子の誕生。しかし、手足が欠損したその姿に多くの母親は驚愕した。
1963年、ベルギーでは、サリドマイド児を生んだ母親が我が子を毒殺するという痛ましい事件がおきた。しかしその母親は裁判で無罪となり、子殺しの罪を問われることはなかった。
また第二次世界大戦中、負傷兵を対象に盛んに行われた義手・義足の研究が、サリドマイド事件を契機に再度注目を浴びたといわれている。
サリドマイドは、母親にはほとんど何の影響もないが、胎児には強烈な作用を及ぼす。
胎児は子宮内で猛烈に細胞分裂を繰り返し、新しい血管が伸びて、手足が形成されていく。サリドマイドには、血管が新しく作られる過程(血管新生という)を妨げる作用がある。この作用が、極端に手足の短い奇形児の発生につながるのである。
しかし、1950年代は薬の安全性を確認するための標準的な試験は動物実験であり、それでは人間の胎児への影響は詳しくはわからなかったという。ならば、何故サリドマイドを「絶対に安全」と謳いつつ、妊婦を対象に販売したのであろうか。この点が、サリドマイド被害者らが国と製薬会社を相手に起訴した裁判での争点となった。裁判の過程でグリュネンタール社の、不十分なデータの動物実験、利益優先の強硬な販売網拡大路線等、不備な点が明らかになり、1970年損害賠償として、グリュネンタール社からドイツマルク100ミリオン、ドイツ政府からドイツマルク320ミリオンという巨額なお金が被害者団体に支払われた。
日本でもサリドマイドは、1958年1月から大日本製薬によって販売された。そして短肢症の赤ちゃん数は309人と、西ドイツ3049人についで世界で2番目の被害国となった。その原因は、1961年11月のレンツ警告を受けた後も「サリドマイドが原因とは確定していない。」「未確定の報告に基づいて薬品を回収するのは混乱を巻き起こす」として、サリドマイドの販売停止を1962年5月まで、さらにその回収は同年9月18日まで先送りしたことにある。被害者団体は、国と製薬会社を相手取り1963年6月に起訴し、11年という歳月を経て1974年10月に和解調印に至った。
しかし薬害の被害は、サリドマイドだけにとどまらなかった。ほぼ同時期に、日本では別の薬害事件が起こりつつあったのである。
一般に市販されている胃腸薬を飲んでいて、ある日突然手足が動かなくなり、失明にいたる。それが1950年代後半〜60年代に起こったスモン薬害であった。
スモン薬害の原因となったキノホルムという薬は、1899年スイスのチバ社によって開発された。日本でも、既に戦前から外用消毒薬およびアメーバ赤痢の内服薬として使用されていた薬である。
ところが1930年代にヨーロッパで、キノホルムが途上国を旅行中にかかる悪性の下痢に有効であるとして承認されたのを受けて、日本でも戦後、通常の下痢症状に対する内服薬として、さらには一般的胃腸薬として新たに承認された。つまり、今までは単に外用消毒薬だったもの(例えばオキシドールやヨードチンキ)を、飲んでもいい薬として承認したのである。
内服用キノホルムの販売開始後、1950年頃から、軽度下痢、目まい、手足のしびれ等を訴え、後に四肢不全(手足が動かなくなる)や全盲に至る謎の病気が現れるようになる。この病気は、英語名、subacute myelo-optico neuropathy(亜急性脊髄視神経症)の頭文字を取ってSMON(スモン)と命名されたが、その原因は全くもって不明であった。この原因不明の病気は人々に多大な恐怖を与え、わずかな腹痛でも病院に行き、医師の診察を受けるという社会的状況を生み出した。このときに人々に処方されたのが、こともあろうにスモンの原因であるキノホルムだったのである。
スモンに関しては研究者が様々な説を発表した。異なる地域の患者から同じウイルスが検出されたことに基づくスモンウイルス説は大きな注目を浴びると同時に、スモン患者への耐え難い差別を生み出した。被害者の中にはその精神的・肉体的苦痛から逃れるために自殺を考えた人もいたが、四肢の自由が利かないために自殺をすることさえできなかったという。
1970年、新潟大学の椿教授らがキノホルム原因説を発表し、それを受けて国は同年9月8日、キノホルムの製造および使用を禁止した。以降、スモン発症例は激減した。
1971年以降、スモン被害者たちは国と製薬会社を相手取り、全国8つの地方裁判所で民事裁判を起こした。ところが、スモンの原因が確実にキノホルムであるという立証は簡単ではなく、裁判は10年近くにわたって続くことになる。
被告側(製薬会社と国)の答弁としては、
・異なる地域のスモン患者から同じウイルスが検出されたことに基づくスモンウイルス説
・キノホルムを服用していないにも関わらずスモン様症状を呈する患者の存在
・他国においては日本のような大規模なスモンの発症がないこと
などが繰り返し述べられた。
しかし、
・キノホルム投与量とスモン発症率が比例関係にあったこと
・スモン患者に頻繁にみられる緑色舌苔物、緑色尿からキノホルムが分離されたこと
・日本におけるキノホルムの投与は、外国に比べて多量・長期の場合が多かったこと
・国内外におけるキノホルムがスモンの原因であることを示唆する症例報告、さらにキノホルム使用禁止後に、発症例がほぼ皆無となったこと
等から、1977年3月以降各地方裁判所で、キノホルムが原因であると判断、原告の全面勝訴となった。
車椅子に乗った四肢不全、失明といった重度の障害を負った被害者団体は、念願の勝訴をようやく得たのである。国と製薬会社は、重症度に応じた和解一時金 (420〜4700万円)、健康管理手当(月額4万2700円)、介護費用(4万8130〜15万4400円)を支払うことになった。
スモン薬害が起こった1950〜60年代、日本は戦後の荒廃から抜け出て高度経済成長の入り口にあった。医薬品業界の総売上も毎年伸びつつあり、病院ではいかに効率よく在庫してある薬剤を使いきり、廃棄分を減らすかということが、利潤と直結していた。大量生産、大量使用、大量廃棄によって形成されつつあった好景気の波は、医療分野においても例外ではなかったのである。
もともとキノホルムに恐ろしい副作用があったことに加えて、薬の大量生産と過剰投与が製薬会社と病院それぞれに利益をもたらすという病んだ構造が、世界でもまれに見る10000人以上ものスモン被害者を日本において生んだといわれている。
例えば、外科手術における医療ミスで10000人以上もの人に障害が起こることがあるだろうか。大勢の患者に処方される薬、そこに薬害特有の恐ろしさがある。
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世界的に多大な被害を及ぼし、販売停止・回収措置がなされたサリドマイドとキノホルム。ところが、近年こられの薬が再度注目を浴び、再承認されていることを知っているだろうか。
前述の繰り返しになるが、サリドマイドには血管の成長を抑制する作用があり、これが赤ちゃんに短肢症という奇形をもたらす。しかしこの同じ作用が、多発性骨髄腫の特効薬となることが解明され、アメリカでは2006年、日本でも2008年にサリドマイドが再承認された。さらに、サリドマイドは、重度のハンセン病の皮膚炎症、種々のがん、AIDSの治療薬ともなりうることが臨床実験で明らかになりつつある。
また、キノホルムはアルツハイマー型認知症の進行を遅延させる可能性があると言われ、ビタミンBと併用することでスモン症状は回避されうるとして、実用化に向けて研究が進んでいる。
薬の効き目と副作用は紙一重ということを如実に語るエピソードではないだろうか。
甚大な被害を及ぼしたこの2つの薬害事件がきっかけとなり、薬の副作用や危険性を動物および人体に対しても厳格に調査する体制が整い、さらに1979年、副作用被害救済制度が創設された。
この制度は、正しく薬を服用していたにも関わらず、重度の疾患、入院を必要とするような病気、もしくはサリドマイドのように子供に先天的な障害が起こった場合に、治療費や生活費等を補償する制度である。
この制度は、万が一の時のためのバックアップという意味を持つが、ここ10〜15年の間
支給件数が増加の一途をたどっている。
1998年 支給件数306件
2011年 支給件数959件
1998年 給付金額合計 10億円
2011年 給付金額合計 20億円
この増加の背景には、日本で承認されている薬剤数、そして高齢者の増加が関係しているという。
日本では毎年、100近い薬が新たに承認され、2015年現在、日本で使用が認められている薬剤数は、14000にも及ぶ。それぞれの薬には、禁忌(その薬を絶対に飲んでいけない状態。例えばサリドマイドなら妊婦や授乳婦が禁忌となる)や、併用禁止薬(一緒に飲んではいけない薬)が細かく定められており、またこれらの情報は新たな副作用情報に基づいて改訂される。
いくら優秀な医師でも、病院や調剤薬局に精密なチェックシステムがあっても、ヒューマンエラーは起こる。全ての薬を、何時如何なる時も、間違わずに処方するというのは不可能だろう。
また高齢者は、体の様々なところに不調があり多くの薬を服用する場合が多い。
内科では高血圧と脂質異常症の薬、心療内科では不眠の薬、整形外科ではリウマチの鎮痛剤、眼科では緑内障の薬をもらうといった人も決して少なくはないだろう。
薬剤数が増えれば増えるほど、薬の飲み合わせによる、予期せぬ副作用が起こる確率は格段に高くなる。
それに加えて、毎年500億円近くの薬が飲まずに捨てられ、残薬問題となっている
2000年介護保険制度が始まったことにより、多くの高齢者が家にいながら、医療従事者の治療を定期的に受けることが可能になった。と同時に、実際に高齢者の自宅を定期訪問することで、多くの患者が正しく薬を飲めていないことが発覚した。
残薬の問題は複雑である。まず初めに現行の出来高払い制では、処方した薬の代金は国から支払われるため、病院側はいくら薬を処方しても経済的には逼迫しない。むしろ薬の処方は病院の利益につながっている。そのため患者は、本人が望む望まないに関わらず、薬漬けにされてしまう傾向にある。
また、そのように処方された大量の薬を目の前にして、全部飲みきるのがいいかどうか、懐疑的になる患者は少なくないだろう。さらに、患者自身による飲み忘れ、介護者なしでは薬が飲めない高齢者の増加も、大きな要因の1つと考えられている。
残薬問題の背景には、昔に比べて薬の値段が相対的に安くなったことも理由の1つではないかと思い、日本でロングセラーとなっている薬の値段の変遷を、当時の給料と比する形で調べてみた。
販売から130年を超える大田胃酸。その発売は1879年(明治12年)で、その時の1服用分は、0.0083円であった。明治中期の学校の先生の月給が20円だったので、月給で大田胃酸2400服用分が買えた。現在は大田胃酸の1服用分は10円。現代の公務員給料が20万円と考えると、月給で大田胃酸20000服用分買えることになる。
相対的に比較すると、明治発売当初の大田胃酸の値段は、現代の8.3倍だった。
では次に、漢方製薬ツムラが、明治時代から販売している婦人薬、中将湯を見てみる。
記録によると、明治35年の中将湯の1日分の値段は7銭5厘。当時の学校の先生の月給が20円として、月給で266日分が購入できた。現在は、中将湯は1日分1袋180円。現在の公務員初任給20万円とすると、月給で1111日分が購入できる。
明治時代の中将湯の値段は、現代の4.2倍であった。
江戸時代、大正、昭和初期の小説、映画等では、親や子供のための薬を購入するために、家宝である刀や大切な所蔵本、着物を売ったりというシーンがよく出てくる。実際に、薬は高級品だったのだ。
苦労して稼いだ、もしくは金策に奔走して得たお金でやっと買った薬なら、捨てるなどということはせず、大切に飲みきるだろう。
もし、自身が野山に出て生薬を集め、調合した漢方薬ならなおさらではないだろうか。
薬研(ヤゲン)という道具がある。樹皮や根を細かく砕いて煎じるための道具であり、
鉢(薬研台)と手すりのついた円盤のセットからなっている。薬研台の鉢底は、薬の原料を効率よく砕きやすくするためにV字型となっている。
薬研という地名は、日本にいくつか存在する。
青森県むつ市 薬研温泉
青森県下北半島 薬研渓流
山形県鶴岡市 薬研沢
東京都 薬研掘
広島市中区 薬研掘(歓楽街)
東京や広島にある薬研掘という地名は昔、ここに掘られた城郭の掘がV字型であったことに因む。また鶴岡市にある薬研沢や下北半島にある薬研渓流は、急流で深く削られていることで知られる。またむつ市の薬研温泉は、湯口の形が薬研の鉢に似ているという。
日本各地の地名に残っているということは、薬研という道具が庶民の生活と密接に関わっていたことを物語っている。
以前、品川区星薬科大学の公開講座で、薬研体験をすることができた。
持ってびっくり、この薬研、やたら重いのである。2〜3キロはあるだろうか。確かに乾燥根を潰すのだから、重量は必要である。ところが、この薬研をごろごろと挽いても、そう簡単に乾燥根は砕けない。薬研の刃と薬堀台のV字型の堀を刷り合わせるように、一挽、一挽、力を入れてやらなければならない。煎じるという状態にするまでには、とんでもない時間と根気がかかる。
日本を天下統一に導いた徳川家康は75歳という長寿であったが、幕府お抱え医師も顔負けの医学・薬学の知識を持っており、自らさまざまな漢方薬を試していたという。彼は、薬研をごりごりやりながら、天下統一の策を練っていたのではないだろうか。そういう歴史的背景を持つ、生薬、漢方薬を実生活の中に取り入れてみたい、と思った。
漢方の基本理念は、未病(病気を未然に防ぐ)である。そのために上薬を飲む。それならば漢方薬局では、健康体の人が訪ねても、その状態を維持するために飲むべき薬を勧めてくれるのではないだろうか。
というわけで、とりあえず健康体の私は、ぽちぽちと漢方薬局を訪問して色々とお話を聞いてみることにした。
漢方薬局A
「どこも体調が悪いところがない! 素晴らしいです! 運動とか、食事にも気を付けていらっしゃるなら、薬は飲まずにその生活スタイルを続けられたらいいと思います。」
漢方薬局B
「漢方の専門医だったら、その方の証(しょう)を細かく見てから、薬を処方されると思います。私がお客様を見た感じだと、細身で、顔色が白すぎる訳でもなく、、。」
漢方薬局C
「女性の方ですと、腰が曲がりたくないとか、ホルモン量を減らしたくないという目的で漢方薬を飲む方がいらっしゃいます。でもそれはやっぱり病気がきっかけという方が多いですね。」
漢方薬局D
「上薬は副作用が少ないといっても、やはり飲むと肝臓、腎臓が普段より頑張ることになるんですよね。なので、あえて薬は飲まずに、今まで通りの食生活や運動を続けられるのがいいと思います!」
漢方薬局E
「上薬は、痛み等の自覚症状はないけれど内在する病を防ぐものとして飲むものです。上薬として私が勧めるものとしてはこういう薬もあります。」
と言って、漢方医が見せてくれたのは、なんと1袋25万円もする薬!!
「でもこれは高いので、特殊な時にしか勧めません。」
といって漢方医はその薬をさっと百味箪笥にしまった。確かにそれはそうだろう。いくら健康が貴いといっても、費やせる財源には限界がある。
漢方薬局F
「書いてある本によっても違うんですが、漢方薬局で一般に売られているのが中薬。食事や養生が上薬、そして、作用の強い医療用医薬品が下薬という風に考えます。」
漢方薬局G
「少しでもいいので、普段の食生活に漢方を取り入れるといいかと思います。肉桂、菊花はお茶、クコは炒め物、朝鮮人参はお鍋に入れて良いですし、、」
漢方薬局H
「仰るとおり、未病の状態で飲み始めるのが漢方の考え方です。女性の場合ですと、初潮の時から飲む始めるべきと考えるお薬もあります。塩、砂糖、味噌とか調味料は、白い精製された物ではなくて、自然のものを採るべきですよ。」
漢方薬局でも、色んな意見の人がいることがわかった。しかし、日常の運動と食事が健康維持に重要な位置を占めることは間違いないことがわかた。やっぱり「医食同源」である!
というわけでまずは現状把握。改めて自身の食生活を、細かく記録をつけて振り返って見ることにした。
食生活とは、生活そのものである.朝はしっかり食べているか、平日の昼は外食か弁当か、
間食はするか、夜は何を食べるかということが、一目瞭然で恥ずかしい限りなのだが、
ごくごく普通のある1週間の私の食生活は以下となった。
月曜日
朝 玄米 とろろ昆布 恩面入り味噌汁 鰯の煮付け
昼 玄米 鮭&白菜&アスパラガスのミルク煮 とろろ昆布
夕方 肉まん
夜 玄米 鰯の煮付け 鮭&白菜&アスパラガスのミルク煮
火曜日
朝 玄米 白菜味噌汁 みず菜とトマトのサラダ メカブととろろ昆布の和え物
昼 手作り弁当 玄米 みず菜とトマトのサラダ メカブととろろ昆布の和え物
仕事中 ミルク入りコーヒー 緑茶5杯ぐらい
夜 玄米 パプリカ&ブロッコリー&豚挽き肉のトマト煮、大根おろし
水曜日
朝 玄米 白菜味噌汁 メカブ納豆 みず菜とトマトのサラダ
昼 玄米 パプリカ&ブロッコリー&豚挽き肉のトマト煮 みず菜とトマトのサラダ
仕事中 緑茶5杯ぐらい
夕方間食(空手の前) 飴 ヨーグルト サンドイッチ
夜 おでんの具&大根&白菜の味噌煮 玄米 アジの干物 白豆の甘煮
木曜日
朝 玄米 ネギ豆腐味噌汁 メカブ納豆 おでんの具&大根&白菜の味噌煮 グレープフルーツ
昼 玄米 おでんの具&大根&白菜の味噌煮 白豆の甘煮
仕事中 緑茶5杯ぐらい ラスク2個 豆乳
夜 玄米 鮭&白菜&アスパラガスのミルク煮 白豆の甘煮
金曜日
朝 玄米 温麺入り味噌汁 白豆の甘煮 卵 とろろ昆布
昼 玄米 白豆の甘煮 とろろ昆布
夜 玄米 鰯の煮付け 鮭&白菜&アスパラガスのミルク煮
土曜日(日光の山に登りに行く、夜はテント泊)
朝 手作り昆布パン、ハムパン
昼 チーズ、昆布パン、ハムパン
夜 お鍋(豚肉、白菜、ネギ、エノキ、シイタケ)
日曜日(この日も山登り 夜は帰りの電車の中)
朝 ラーメン ココア
昼 昆布パン、ハムパン、チーズ
行動食 マシュマロ、チョコレート、エナジーバー チーズ
夜 サンドイッチ ししゃも 春雨サラダ ナッツ おせんべい
良い点
・基本玄米、野菜も多く、お昼は手作り弁当。
反省点
・夜に作ったおかずが、翌日の朝と昼に再登場。このパターンの繰り返しになっている。
・夜、空手の練習や山の例会があると、その前に軽食、後に飲み会という形になるので、1日4食になってしまう。
夜遅く食べるのは、胃腸にかかる負担も大きく、脂肪が蓄積しやすいのに、、。
上記の反省点は、常日頃からうっすらと頭の中で懸念していることではあった。しかし、記録することでそれが明瞭になった。毎日かつ長期間、食日記をつけたら、さらに色々な反省点、傾向、改善点が見えてくるに違いない。
さて、食養生について考える時に多くの日本人の頭に浮かぶのが、貝原益軒(1630−1714)著「養生訓(1713年刊行)」ではないだろうか。
27歳で福岡藩医となった益軒は、京都へ遊学する機会を得て、医学はもとより本草学、朱子学等も治めた。また、朝鮮通信史の対応や黒田家譜の編纂なども担当した博識であった。その益軒が晩年に、今までの自分の医学の集大成として纏め上げたのが、養生訓である。
養生訓は全8巻からなり、
1、2巻 総論
3、4巻、飲食
5巻 人間の体の働き、日常の生活
6巻 病気になった時の心得
7巻 薬の用い方
8巻 老人、幼児の養生、針灸の用い方
と多岐にわたる分野が網羅された医学書大全である。さらに養生訓は、庶民にもわかりやすい言葉で記載されていた。
その3、4巻 飲食には、日々の食生活に関する注意書きが事細かに述べられている。
例えば、
・腹が減った時や喉が乾いた時、飢渇にまかせて一度に飲食してはならぬ
・酒はほろよいがいい。興にのって戒めを忘れてはいけない
・食は制限しすぎると思うぐらいがちょうどいい
・酒は食事が消化されてから寝るようにする。深夜に食べてはいけない
・めずらしいものやおいしいものに出会っても、8、9分でやめるが良い。腹いっぱい食べると後で災いが起こる。
という、現代人にも耳に痛い格言がずらり。食べ過ぎ・飲み過ぎが体に害を及ぼすというのは、江戸時代から言われている事実なのである。
益軒は、実証派の医学者として知られ、当時流布していた健康法を自分で試し、効果のあるものを取捨選択し、体系化して養生訓をまとめた。益軒は85歳という当時としては例外的な長寿を全うしているが、晩年になっても、目や歯を含め大変健康だったという。
それでは、益軒が強く戒めている「食べ過ぎ・飲み過ぎ」は具体的にどのような健康被害を及ぼすのだろうか。
様々な病気が考えられるが、その1つがここ近年増加の一途をたどっている糖尿病ではないだろうか。
糖尿病には、先天的要素が原因となる1型糖尿病と、後天的(生活習慣等)要素が原因となる2型糖尿病がある。日本では、糖尿病と診断される人の9割以上が2型であり、この主たる原因は、炭水化物、糖分の取りすぎである。
炭水化物や糖分は消化過程でブドウ糖にまで分解されて、血流に乗って体内を駆け巡る。すると、すい臓からインスリンというホルモンが分泌され、ブドウ糖は分解されて細胞に取り込まれ、そこで初めてエネルギーとして使われる。ところが、炭水化物や糖分の取りすぎにより、慢性的に血中ブドウ糖濃度が高いと、すい臓の機能に障害が起こり、ブドウ糖が正常に分解されない。その結果、尿にまで糖が排出されるというのが、字の如く糖尿病の病態である。
血中ブドウ糖濃度が高いと糖毒性による弊害が、体の様々な部位に起こる。
40年前に3万人だった糖尿病患者は、現在700万人に激増しており、いまや境界型の人も含めると、日本国民の8人に1人が糖尿病と言われている。また、糖尿病によって併発する確率の高い、
糖尿病網膜症
糖尿病性腎症
糖尿病性神経障害
も近年患者数が確実に増加傾向にある。
糖尿病網膜症は、後天的に失明する原因疾患の第1位であり、現在毎年3000人がこの疾患によって失明している。
糖尿病性腎症による透析患者数は、2013年末で11万5118人であり、これは全透析患者の約3割を占める。
また、糖尿病性神経障害は患者数は、糖尿病合併症の中で最も早く症状が現れ、その患者数も最多といわれている。
戦前の日本では、感染症が死亡原因のトップを占めていた。ところがこれらの疾患は、公衆衛生の改善によって影を潜め、逆に生活習慣病が激増してきている。
肺がんはタバコ、糖尿病は炭水化物や糖分の過多摂取、肝臓障害はアルコールといったように、何がどの病気のリスクファクターかということも医学的に明確になりつつある。
逆に考えれば、これらの生活習慣病は個々人が留意することによって、大幅に予防可能なのである。
ところが、どんなにこれらのことに気をつけていても避けられないのは、認知症といった脳の機能低下を伴う病気ではないだろうか。なぜならば、多くの生活習慣病やメタボリックシンドロームは、過飲食やアルコール、タバコ等がリスクファクターであるのに対し、認知症の最大リスクファクターは加齢なのである。これは、万人に等しく訪れ、どう四苦八苦しても避けることはできない。
認知症について考えさせられる出来事があった。
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近所の公園を散歩していた時に、1人暮らしの老齢のおばあちゃんと出会った。彼女はしばらくすると、
「あのね、この間、奇妙なことがあったのよ、、。」
と、私に話し始めた。
「市役所を名乗る4人の人がうちに来て、なんか成年後見人制度かしら、、の話を始めたの。それでね、預金通帳を預からせてくださいっていうの。もうびっくりして、ここのアパートの家賃も払わなきゃいけないし、そんな通帳なんか渡せませんっていったら、すぐに引きあげていったんだけど、。これって詐欺だったのかしら、、。」
私もその話を聞いて驚いた。市役所を名乗る巧妙な詐欺の可能性大ではなかろうか!しかも4人がかり!
私は、おばあちゃんに気を付けるよう念を押して、後日市役所に電話して上記のことを情報提供した。
この後、紆余曲折あるのだが、最終的に事実が判明する。結論から言うと、4人の人は本当に市役所の人たちで、詐欺グループではなかったのである。
主人にも一人息子にも兄弟にも先立たれたおばあちゃんは、約1年前、自分の身を案じて市役所に成年後見人制度の問い合わせをした。彼女は足腰が弱くなかなか遠出できない。そのため、市役所はおばあちゃんの家を訪ねる形で、成年後見制度の説明をすることを請け負った。
しかし、認知症を患っていたおばあちゃんは、市役所の人が訪ねてくれた時には、自分が問い合わせをしたことをすっかり忘れていたのである。当然話はかみ合わない。おれおれ詐欺に対する警戒心だけはあったため、おばあちゃんにとって区役所の人の話は「詐欺かもしれない!」となった。
私が聞いた話は、認知症のおばあちゃんによる被害妄想だったのだ。
家が近いので私は時々おばあちゃんの家の前を通る。事件の顛末がわかった後、再会したことが2回あった。1回目は、おばあちゃんは私に不審顔を向けた。2回目は、しばらくしてはっとしたように、私に手を振ってくれた。どうも、おばあちゃんの認知症には、オンとオフがあるらしい。
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しかし、上記のケースは、認知症としては軽症だろう。短期記憶の喪失はあるが、食事など自分の身の回りのことや、人との会話は成立するからである。
重症化すると、食事をとることを始め、自分が何をしているのか、回りで何が起きているのかがわからなくなり、徘徊や、他者への暴力・暴言、失禁等の症状が現れる。そして、介護や経済面で家族や親戚に多大な負担がかかるようになる。
このような状態で長期間生存することは、今の日本では決してまれではなく、自分も含めて誰でもなる可能性がある。
それでは、実際日本にはどのくらい認知症患者がいるのだろうか。
厚生省が3年に一度、医療施設を利用する患者の傷病状態を明らかにするための「患者調査」を行っている。それによると、2013年、高齢者に頻発する疾患の患者数は以下の通り。
高血圧 899万人
糖尿病 166万人
脊椎障害 133万人
関節症 133万人
白内障 96万人
脳梗塞 92万人
緑内障 72万人
狭心症 56万人
アルツハイマー、認知症 51万人
不整脈、伝道障害 45万人
骨粗しょう症 44万人
2013年、認知症の患者数は、51万人である。高血圧や糖尿病に比べると遥かに低い数値と思われるかも知れない。
ところが、この統計は、その疾患が原因で医療施設を利用(受診)した人数であることに注意してほしい。
物が見えづらい、腰が痛いといった自覚症状のある疾患ならば、本人自らが病院にいく。また、自覚症状がなくても定期健康診断の結果によってその危険性が明示される高血圧、肝機能障害等も、病院にいって医師のアドバイスや薬をもらうことが多いだろう。しかし、認知症は自覚症状がなく、定期的な健康診断の調査項目にもない疾患なのである。
つまり、認知症は回りの家族や介護者が本人を促して連れて行かない限り、病院で医師に診察してもらうことはない疾患なのである。よく報道等で使われる認知症400〜500万人という数値から計算すると(51万人/500万人)実際の受診率はわずか10%である。
また、認知症はその進行がゆっくしていることから、発症してから死亡するまで(その間、他の疾患を発症しなかった場合)の時間が約10年と、他の疾患に比べて非常に長い。
現在、日本の平均寿命は男性80.5歳、女性86.8歳と共に世界最高齢の長寿国となった。しかし、自分ひとりで身の回りのことができる(介護を必要としない)健康年齢は、男性は70.4歳、女性73.6歳と、平均寿命より遥かに下だ。この、平均年齢と健康年齢の差(介護が必要とされる年数)も、世界トップクラスとなっている。
この介護にまつわる悲劇や苦労の話は尽きない。最近は、老人が老人を介護するという老老介護の段階がさらにすすみ、認知症の人を介護する人も認知症という認認介護が増えているという。また、司法書士の友人によると、実母の介護を苦に自殺した娘が天井からぶら下がっているのに気づかず、数日間過ごしていた老婆が保護されたという家屋の査定に仕事で行ったことがあるという。
私は、自分が認知症になった時、以下のことが可能かどうか知りたいと思った。
@自分が認知症になり、愛する人やお世話になった人を忘れ、時には回りの人に暴力を振るったり、暴言を吐いたり、失禁するような状態になったら、もしくはなる前に、私としての尊厳を保つために、命を絶ってくださいという、法的効力を持ったリビングウィル(生前意志書)を残すことができるかどうか。
A自分が認知症等で意思疎通不可能となった後に、大掛かりな医学処置や手術を必要とする状態になった場合、それらの処置・手術を全て拒否しますという、法的効力を持ったリビングウィル(生前意志書)を残すことができるかどうか。
※生前意志書とは、自分がまだ判断能力のある時に書き残す遺言書である。その内容は、延命治療の希望の有無など、本人がまだ生きている場合にも有効性を発揮することがあり、その点が遺書とは異なる。
@は、尊厳死・安楽死に関して、Aは延命治療に関連する問題である。
※尊厳死・安楽死は微妙に定義が異なり、また外国での定義ともニュアンスが異なる。そのため、以下では、尊厳死・安楽死について英語のユーサナシア(Euthanasia, 古代ギリシア語で「良き死」の意味)を一貫して用いる。
公証役場にこれらの点について問い合わせの手紙を送ってみたところ、返答があった。
その返答によると、
@は、日本ではユーサナシアに関する法律がなく合法化もされていないため、不可能である。
Aのリビングウィルを残した場合、患者の病態が「不治(直る見込みがなく)かつ末期」であり、大掛かりな医学処置や手術が延命治療に相当するものであれば、延命治療の拒否が可能である。
現在「延命治療を希望しない」と公正証書を残した場合、95パーセント前後のケースで本人の意思が尊重され、延命治療は行われないという。では、どういう状態が「不治で末期」なのだろうか。
下記に「尊厳死宣言公証証書」の雛形を載せたので参照されたい。
尊厳死宣言公証証書、雛形
文中に明記されているように、
「不治の状態に陥り既に死期が迫っていると担当医を含む2名以上の医師により診断された場合」
が「不治で末期」の基準である。患者の年齢・体力、病気の状態等、様々な要因に基づき、ケースバイケースで判断されるのである。
日本尊厳死協会に問い合わせたところによると、認知症を始めとする精神疾患は、通常「不治で末期」とは捉えられない。つまり日本では認知症になった状態だけでは、延命治療を含む医学的処置を中止することはできない(つまりAも不可能)のである。
しかし、リビングウィルを残すことに価値がないわけではない。リビングウィルには、遺産相続、財産分与等の項目も含まれるからである。
2015年9月、私と一起さんの結婚パーティーのためにオーストラリアのホストペアレンツが来日してくれた。14年ぶりの再会で、パーティー当日以外にも何度も会い、色んなことを語り合った。その中で、たまたまオーストラリアでのリビングウィルのことが話題に登った。
オーストラリアでは、リビングウィルを書き残すことはごく一般的で、多くの人は結婚、出産を機に、または少なくとも50代後半までには、準備する。またそのための費用は一般的な相場があり、並外れて高いものでもないという。
ちなみに、ホストペアレンツは初めての子供を授かった時に、弁護士に頼んでリビングウィルを書いた。それは今から約40年前であるが、費用は約3万円だったという。
「リビングウィルを書くのは理にかなっているよ。もし、私が死んで妻が認知症になったらどうする? そうなった時の病気の治療の決断は子供にまかせるとか、遺産は娘と息子に均等に分け与えるとか、そういったことを書き残しておけば、遺産相続などの問題を可能な限り引き起こさずにすむよ。」
「It is good to write a living will. What happens if I die and my wife gets dementia? So we write down that medical decisions should be up to our children, the money we have should be evenly distributed to our children, stuff like that. It can eliminate all the troubles after our passing.」
と、オーストラリアなまりで語られると、さもありなん、と思えてくる。
アメリカもリビングウィルが社会に広く浸透している国の一つである。この国では、延命技術の発達と共に、まだ健康で意思疎通が可能な段階で意志書を残すというリビングウィルの概念が生まれてきたのが、1960年代後半であった。概念の普及とともに、行政や各医療機関からの啓発活動、手続きの簡易化・明確化、法整備などが行われ、リビングウィルは急速に一般社会に浸透した。
しかし初期に普及した第1世代のリビングウィルの雛形は、本人がなる可能性のある医学的状態を十分に明記できない欠点が指摘され、その点が改善された第2世代の雛形が広く使われるようになった。ところが、その雛形も細かい医療措置を記入する項目はあるが、本人の生死に対する価値観が十分に表現されていないという欠点が言われるようになった。現在広く普及している第3世代の雛形は、家族や委託人が本人の延命措置等に関する価値観を十分に理解したうえで記載できる形であり、それが社会的に施行される形へと変化している。
アメリカにおけるリビングウィルの雛形の変遷や、オーストラリア人のリビングウィルに対する考え方を見ると、日本と米豪ではリビングウィルの普及度合いに雲泥の差があることは明らかであろう。
日本では「誰かが死んだ時のことを話すなんて縁起でもない」といった宗教的支配が多分に強いが、その結果リビングウィルを残すことが社会的に浸透せず、本人や家族が望まない医学的処置が行われ、遺産相続関連等の問題が頻発しているのであれば、それこそ本末転倒ではないだろうか。自分が元気なうちに、リビングウィルを書き残しておくということは、とても重要なのではないだろうか。
まだ自分は40歳になっていないが、リビングウィルの主要項目を試しに書き出してみた。
・いざという時の、介護・看病についての希望
介護が全く負担にならないということは有り得ないと思いますが、それによってあなたがつぶれるようなことがあってはなりません。私の晩年よりも、あなたの今のほうが絶対に価値があります。私がそういう想いでいたことを念頭に、医学的処置や施設への入居の適切な判断をお願いいたします。
・尊厳死 可能な限り希望します。
・延命治療 一切希望しません。
・脳死 脳死の状態で提供できる臓器があれば、役に立てて下さい!
・ホスピスケア 50万円で可能な範囲で希望します。
・病名告知 告知してください。
・献体についての考え方 喜んで献体します。
・葬儀 家族葬でお願いします。喜界島に埋めてください。
・法事 必要ないです。
・遺品整理 山道具は山岳会に。
話は戻るが、@自分が認知症になり、愛する人やお世話になった人を忘れ、時には回りの人に暴力を振るったり、暴言を吐いたり、失禁するような状態になったら、もしくはなる前に、私としての尊厳を保つために、命を絶ってくださいというリビングウィルについては、ユーサナシア(尊厳死・安楽死)法制化の問題と関係していく。
近代におけるユーサナシア法制化の議論は、1800年代半ばにモルヒネとクロロホルムが、鎮痛薬として医療現場で広く使われるようになったことが発端といわれている。それは、これらの薬を多量に投与することで鎮痛を超えて、患者を死に至らしめ痛みから解放するということが可能になったためである。
今現在、ユーサナシアが合法化されているのは、オランダ、ベルギー、コロンビア、アメリカオレゴン州などであるが、その他の国や地域でも、その是非は様々に議論されてきた。
ユーサナシアに対する賛成派は、
・すべての人は自己決定権を持つ、すなわち個々人の運命を決定できる
・苦痛を感じ続けるより、死ぬほうが良いと考えられる場合もある
・ユーサナシアが合法化されている国や地域では、特に社会的な問題が起こっていない
等を掲げ、
逆に反対派は、
・与えられた生に対する冒涜である
・合法化によって、危険な社会状況を引き起こす可能性がある
こと等を危惧する。
反対派が言う「危険な社会状況を引き起こす可能性」とはどのようなことなのか、少し掘り下げてみたい。
優生学という学問をご存知だろうか。
英語ではEugenicsといい、ギリシャ語の「良き種族」という言葉が語源である。
1859年にチャールズ・ダーウィン(1809-1882)によって刊行された種の起源の中で、自然選択・適者生存という概念が説かれた。それは、ある環境に最も適応したものが一番多く子孫を残し、進化が起こっていくというものである。
この考え方を、ダーウィンの従兄であるフランシス・ゴルトン(1822-1911)が人間社会に応用したものが、優生学という考え方である。優生学は、その語源どおり、優れた人々を増やし、劣性者や非適応者の数を減らして、より良き社会を目指すための科学であった。
しかし、ダーウィンの説いた自然選択には人間の意図が働かないのに対して、優生学では「優れた
人々」「劣性者・非適応者」を決めるのは、時に科学者をも含む権力者である、という点が大きく異なっていた。
20世紀初頭、優生学は社会的に熱狂的に迎えられた。 1907年にイギリス優生学教育協会、1921年にはアメリカ優生学協会が設立され、また、スコットランド出身のアメリカの鉄鋼王、アンドリュー・カーネギー(1835-1919)、アメリカの石油王ジョン・ロックフェラー(1839-1937)等も、優生学の研究に多額の資金を寄付した。
優生学には、民族の純血度の保持という考え方もあり、優生学が導入された諸国において、最上位に位置づけられたのは、自国の民族であった。それに加えて、
天賦の才能を持つ人々 > 自国の純血者 > IQの低い人 > 犯罪者・社会逸脱者 > 身体・精神障害者
という優劣が、様々な科学的根拠と共に、正当化され、見識ある人々によって信じられた。
そして優生学は、「優れた人々」を増やし、「劣性者・非適応者」を減少させるための方法を議論するようになっていく。まず始めに行われたのは、優れた人同士の結婚や多産奨励政策だった。それとは逆に、劣勢者・非適応者には結婚禁止令、性的能力を除去する手術(強制断種)なども実施された。
1933年、ドイツにてアドルフ・ヒットラー率いるナチス政権が樹立。ナチスが強力に推し進めたのが、優生学を根拠とした、ドイツ人の純血保持政策であった。その政策は、作戦本部のあったティーアガルテン通りの名にちなみ、T4作戦と呼ばれた。
その具体策は、結婚禁止令や強制断種ではなく、ナチス政権が社会的に劣等者・非適応者とみなした
人々の大量殺戮であった。別名、国家主導のユーサナシア(尊厳死・安楽死)計画とも言われる。というのは、優生学(良き種族)の考えに基づいたユーサナシア(良き死)は、より良き社会に向けて必要不可欠だったからだ。
1939年〜1941年にかけて行われたT4作戦で、まず初めに対象となったのは重度の身体障害児だった。ナチス政権下全土に通達が行き、身体障害を持つ幼児は特別な治療を施すという目的で、一定の養護施設に集められた。これらの施設には、秘密裏に新たに殺人室が作られており、そこで、彼らは毒物投与、餓死、毒ガスといった手法によって次々に殺されていった。T4作戦に配属された医師らは、親元に送るためのそれらしき理由が明記された、偽の死亡診断書を作る仕事に追われたという。
さらに、ユーサナシアの対象は、成人の精神・身体障害者、犯罪者、反社会的人間という風に拡大されていく。
実際に何が行われているかが明らかになるに連れ、ドイツ国内では反対運動が起こった。ヒットラーに直に声明文を書いた聖職者もいた。しかし、彼らは後にナチスによって、反逆者としてユーサナシアの対象となる。
T4作戦の名の元、ユーサナシアの対象となり殺された人々は20万人とも言われる。そして、この数を遥かに上回る600万人のユダヤ人がホロコーストという計画の中で大量殺戮された。
「優秀なドイツ民族の充血を維持するために、ユダヤ人を社会から抹消する」というホロコーストの
考え方を正当化するのに利用されたのも優生学であった。
優生学は、ナチス政権下において、T4作戦、ホロコーストの理念として使われた経緯から、
第二次世界大戦後は、一気に下火になった。
しかし、ナチス政権が滅びた後も、形を変えてのユーサナシア政策は、世界各国でとられた。優劣に基づき劣勢者を排除してより良き社会を目指すという優生学の考え方は、以前根強かったのである。
アメリカは世界に先駆けてユーサナシア政策を行った国であるが、精神障害者、身体障害者、少数民族、犯罪者等の女性を対象として主な対象として強制断種が行われた。対象が女性であった理由は、子供を産むことができる母体機能を潰してしまうほうが、精子を放出する機能を持つ男性を対象にするより遥かに効率が良いからだ。さらにアメリカ本国での政策に加えて、当時連邦国であったプエルトリコで行われた政策は世界に類を見ない大規模なものであった。
1940年代、プエルトリコは貧困層の人口増加に伴う未曾有の不況に悩まされていた。アメリカ本国からの投資を促すための様々な経済対策が採られたが、どれも功をなさなかった。そして40〜50年代にはプエルトリコの貧困層のアメリカへの移住が増大し、本国では失業率増加や治安悪化を懸念し、長期的視野に立ってプエルトリコにおけるユーサナシア政策が断行された。
その具体的方法は、貧困層の主に女性に対して強制断種を行うことであった。プエルトリコでは、一定数以上の子供を持つ女性に対しては、産院にて分娩後に本人の同意なしに避妊手術を施したり、また避妊手術に同意しない場合は分娩を受け付けないといった強制的な方法がとられた。
また生活保護の付与や増加と引き換えに、避妊手術が行われた。教育も十分に受けておらず、日々の糧を得るのに精一杯の彼らは、例えば1週間分の生活保護の金額は避妊手術と引き換えにしても手に入れたいものだったのである。
プエルトリコでは、国家を挙げてのユーサナシア政策が功をなし、1965年の時点で妊娠可能年齢の34%以上の女性が避妊手術を受けていたといわれる。
貧困層の人口爆発を抱える国がユーサナシア政策を行ったのは、プエルトリコだけはない。毎年1000〜1500万人の人口が増加しているインドでは、2002〜2003年にかけて460万人もの女性に断種手術を行っていたことが明らかになった。こうして貧困層の女性の出生率が下がれば、貧困層の人口減少につながるというのが政府の意図であったが、日々の糧を得ることも困難な彼女らは、手術後は妊娠する心配がないとして売春宿での働き手として流れる現実がある。
優生学という概念が明治中期に導入された日本においても、ユーサナシア政策の歴史は非常に長かった。優生保護法・母体保護法という名の下に、遺伝的疾患保持者、身体・精神障害者、ハンセン病患者に対して行われた強制断種は、1940年から1994年までに16000件に及んだとされる。
上記のナチスでの歴史的事実、およびその後の各国でのユーサナシア政策が、ユーサナシア法制化は危険な社会状況を生み出す恐れがあると危惧される所以である。法制化という時点で、ユーサナシアが社会的背景と完全に無関係になることはありえない。
もし今の日本において、高齢者増加による医療財政破綻を背景として、ユーサナシアが合法化されたらどうなるだろうか。問題の元となっている、高齢者や疾患を持つ人々に対して、ユーサナシアするべきという無言かつ一定以上の圧力を持った世論が常識となる(なってしまう)可能性は、十二分にある。
例えば、オレゴン州では、がん患者に対して、医師によるユーサナシアには保険が効くが、抗がん剤には保険が効かないという。つまり、経済的に裕福な人しか抗がん剤治療を受けることができず、それ以外の人には、抗がん剤なしでの耐え難い闘病もしくは無言の死が用意されている法律ともいえる。もし、自分がオレゴン州で生まれ育ち、そこで死を迎えたいと考えており、癌の末期になったとき、自分はどちらを選択するだろうか。
また、医療予算が非常に潤沢な国家があるとする。そこでは、介護が必要になったらすぐに無料で
老人ホームに入居することができる。スタッフも社会的に十二分な給料を得ており、皆真摯に介護に従事してくれる。被介護者への嘲笑、虐待、いじめなどは皆無である。そのような国家に生まれたら、自分は認知症になっても生きていたいと思うだろうか。
また、この十数年で飛躍的に技術確立した出生前診断は、優生学のリバイバルと批評されることがある。それは「障害を持つ胎児の命を堕胎によって絶つ」というのは、強制断種やT4作戦の根源的理念と共通するものがあるからだ。
生、死、医療という概念は、時代や場所や条件によって、以外に変動するものなのか
もしれない。
話がぶっ飛ぶようで恐縮だが、日本では一昔前まで「オナニーをすると馬鹿になる」と、都市伝説のようにまことしやかに信じられていた。これには、科学的根拠はない。しかし戦後まで、オナニー否定論は常識であった。
東京大学の社会学者の赤川学氏は、オナニーに関する言説の形成と変容という研究テーマの中で、新聞雑誌書籍等に掲載された性に関する文章を時代ごとに分析している。
氏によると、1910〜1930年代にかけてのオナニー強否定論1940〜60年にかけてのオナニー弱否定論、そして1970年代後半以降のオナニー肯定論の3つに区分されるという。
日本においてオナニー(自慰)を否定する考えは、仏教に端を発していると考えられ、江戸時代の健康指南書である養生訓においても、自慰は精液を減損させるとして強く否定されている。
宗教的概念が人々の生活規範を強く規定していた時代には、当然ながらオナニーは忌み嫌われる、否定されるべき行為であった。オナニー強否定論(1910〜1930)当時の雑誌、書籍には
「その害は精液減損のみならず神経系統に及ぶ」
「子宮病、月経困難の原因」
「不妊症、不感症、夫婦愛破綻。精神異常を来たす」
といった内容があった。
こうまで強く否定されると、その行為を躊躇せざるを得ない。しかし、これらの時代の人々が、性的欲求をうまく抑制できたのかというと、そんなことはない。江戸時代には、吉原、そして数多もの公認・非公認の遊郭が存在したし、戦前は親に売られた貧しい娘が売春宿で働くというのは、否定しがたい事実であった。言い換えると、オナニー強否定論のはけ口が、社会的に存在していたのである。
ところが、戦後西欧から導入された人権思想・平等思想は、売春廃止論に結びつき、オナニー否定論はその否定度合いを弱めるようになる。
「買春よりオナニーのほうがまだ良い」
という考えのもとに、オナニー弱否定論が現れ始める。この時代の雑誌、書籍には
「青年男女の自然的発露」
「皆やっているから無害」
といった論調が見られる。さらに、
「処女には有害、未亡人には無害」
といった不思議な論説も見られる。奇しくも、オナニーへの概念が転換する時期とほぼ同じ昭和33年に、売春禁止法が制定されている。
そして1970年代以降は、自慰自体はむしろ科学的・医学的側面から検証されるようになった。このオナニー肯定論の時代には
「知的な女性ほどする」
「自分の体を知る第一歩」
「自慰は将来の性行動学習として大切」
等の、大正〜昭和初期には考えられなかった論調が見受けられるようになる。
オナニーに対する概念、驚くべき変貌振りではないだろうか。そしてその変貌には、社会的変化が密接に関わっているのが興味深い。
また、献血(売血)に対する概念も大きく変わったものの1つである。
日本では1960年代まで、献血という名目で行われていたのは、実際には売血であった。名前の通り「血を売った」のである。
現在は献血事業は全国において日本赤十字社が一括して管理・実施しており、それらはすべて献血者の無償の善意で行われる。
日本赤十字社が無償の献血を訴えて血液銀行を設立した1952年は、ちょうど戦後の復興期にあたり、自動車の普及に伴い交通事故が増加しており、輸血を伴う手術の需要が莫大に増えた。また当時は、日本赤十字社とは異なり、有償で血液を買い取る民間商業血液銀行という業種も存在したため、生計を立てるために売血をする人々が現れ始めた。その多くは安定した職についていない日雇い労働者であった。
当時の売血の報酬は、日雇いの現場作業の日給とほぼ同等であり、しかも売血は汗水流して働く必要がない。
日雇いの現場仕事はある日とない日がある。当時、山谷などのドヤ街には、その日の仕事にありつけなかった労働者を、暴力団のメンバーが売血のための採血所に送るということが行われ、暴力団は採血所からマージンを得ていたという。また、不適な人からの採血を阻止するための採血基準が定められていたが、売血の現場では守られていないも同然であり、過度の売血をする人の血は血漿成分が多くその色から「黄色い血」と俗称された。また血液感染するC型肝炎は、黄色い血の輸血によって、非常に高い確率で感染した。病院の外科の現場では、輸血を伴う手術をして死亡が免れるならC型肝炎感染はしょうがない、という考えが常識だったという。
この売血の現状を憂う人は多くいたが、供給を遥かに上回る需要、また暴力団との関係性等が、それを打開することを許さなかった。
1961年、エドウィン・オールドファザー・ライシャワー(1910-1990)氏が、駐日アメリカ大使と
して就任。父の仕事の関係で日本で生まれ育ち、アメリカに帰国後はハーバード燕京研究所にて東アジア研究・日本文学を専攻し、同大学の博士論文では、入唐求法巡礼行記(9世紀の日本人僧侶、円仁の旅行記)についてまとめた。戦中アメリカ陸軍通信隊の依頼で日本語の翻訳と暗号解読に従事し、戦後は外交諮問委員会の極東小委員会員やハーバード大学の極東学会の副会長、会長を務めた。また1955年には、日本人女性松方ハルと再婚した。
そのような経歴を持つライシャワー氏は「日本生まれのアメリカ大使」と親しみをこめて呼ばれ、安保条約締結後、日米関係が難しかった時代に、右翼左翼を問わずに様々な政治家、皇族、市民等、幅広い層と積極的に対話を試み、両国の架け橋となって活躍した。
ところが、1964年(昭和39年)3月アメリカ大使館前にて、ライシャワー氏が統合失調症の青年に大腿部を刺殺されるという事件が起こる。彼は急遽輸血を受けて一命を取り留め、その治療に対して
「これで私の中にもようやく日本人の血が流れました」
と語り、当時の人々の心を感動させた。ところが、その輸血が原因でC型肝炎にかかってしまうのである。彼の生命に別状はなかったが、このライシャワー事件をきっかけに売血排斥運動が大きく動き出すことになった。
「肝炎に感染する血を輸血に使っているのは日本の恥である。」
「血は無償で提供されるべきである。」
こういった意見が公の場で唱えられ、無償の献血制度が急速に確立することとなった。
今現在、献血センターに行って、日雇い労働者の比率が高いと感じることなどは有り得ない。
それどころか、多くの献血センターは、広々として清潔で、無料の飲み物・お菓子以外に様々なサービスが受けられるところが多々ある。
マッサージチェア、アロマハンドマッサージ、手相占い、地元スクールの学生による按摩・ボディマッサージ、パーソナルカラー診断、抹茶席と多彩の極みである。秋葉原の献血センターでは客層を鑑みて、メイド姿の女の子が止血バンドを巻いてくれると聞いたことがある。暗澹たる売血から、燦然たる献血へと、時代は大きく移り変わったのである。
上記の2例を見て思うのは、現在、社会的に「もっともらしく」言われていることは、数年、数十年後にはがらりと変わるのではないか、ということである。認知症に関してもその可能性はないだろうか。
そこで無理を承知で、今から一時代後の、認知症やその介護に関する概念を予測してみる。
2050年に、本屋に並べてある雑誌の中に「35年前の医療・介護の現場を振り返る」という一記事を見つけるということを想像してみてほしい。
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週刊近代 2050年4月1日号
「35年前の医療・介護の現場を振り返る」
35年前は「家族、地域、医療関係者が協力し合って認知症の人を支える」という言説があった。
そこに、認知症患者本人の意思が反映されていなかったのは、今から考えると信じがたいことではないだろうか。
多くの人が潜在的に「認知症になってまで生きていたくない」と懸念していたにも関わらず、「なったら最後」という人まかせ的な社会状況だった背景には、リビングウィルを残すという社会的制度が整っていなかったことがあると思う。
当時の認知症および介護に関する社会状況を振り返ってみる。
2015年は、人口1億269万人のうち、65歳以上の高齢者は3395万人でその割合は26.8%であった。4人に1人以上が高齢者だったのである。そして認知症の患者数は約400〜500万人と言われた。
高齢者が入所して介護を受けながら生活できるいわゆる老人ホームには、特別養護老人ホーム(以下、特養)、グループホーム、ケアハウス、介護付高齢者向け住宅と多くの種類があったが、介護保険が適応されるため入居費用が安くて済む特養の施設数は約9500で、収容可能人数は約50万人であった。ところが、その入居待ち希望者はほぼ同数の50万人。特養は多くの人が死期を迎えるまで生活する施設であったが、その平均的な入居期間が2〜3年だったのに関わらず、平均的な入居待ち期間が2〜10年であり、特養への入居待ちは慢性化していた。
徘徊等を伴うため24時間の介護が必要にも関わらず、施設入居が不可能な場合は、介護の負担は家族の肩にのしかかった。自宅で介護をしてもらいながら、入居を長年待ち続け、結局自宅で死去する高齢者が数多くいた。また、介護者が体力的・精神的・経済的苦痛に悩み、病気になったり、自殺に追い込まれたりというケースも決して少なくはなかった。
日本尊厳死協会を始め、本人の意思疎通が取れるうちにリビングウィルを残すという活動は既に行われていたが、医療面、行政面とは直接リンクしておらず、終末期において当人の意志が生かされるかどうかは、ケースバイケースであった。にも関わらず2035年には、総人口1億1212万人のうち、高齢者人口が3741万人(33.4%)に及ぶことが予測され、社会的不安の一因となっていた。
こういった社会現状の変革のきっかけとなったのは、平成を代表する女優Kさんの死だった。幼少のデビュー時から注目され、ドラマや映画で演技に磨きをかけ、40代になり円熟した女優としての活躍をきたされていた矢先に、彼女に乳がんが発覚した。
まだ初期で腫瘍の大きさが2センチ未満だったため、乳房温存療法(乳房の一部のみを切除)で命に別状はないと、関係者は誰しもが安堵した。ところが、その期待とは裏腹に、Kさんは手術をかたくなに拒んだのである。
若いがゆえに、その進行は早かった。彼女は抗がん剤治療、放射線治療等も受けず、乳がんの診断から1年後に彼女はわずか42才の命を閉じた。その後、Kさんが自分の思いを綴った文書が、遺族から公表された。
私の母も乳がんにかかりました。発覚した時には転移し始めていたので、乳房と付近のリンパ腺を全て切除する大きな手術を受けました。その手術は医学的には成功しましたが、乳房を失った精神的苦痛から母は認知症になり、それから死に至るまで、認知症から治ることはありませんでした。母の胸の傷を思い出すたびに、本当に必要な手術だったのだろうかと思います。
私には、闘病する勇気がないのかも知れません。しかし、母のような辛い思いをする可能性のある手術を受けることをどうしても考えられないのです。
平成を象徴する女優は、遺族のみの桜葬によって葬られた。その後、日本国内では大きな世論の変動があった。あえて手術を選ばずに、静かに迎えられた彼女の死は、平穏死と称され、人々は手術等の大掛かりな医学的処置の必要性を問うようになった。個々人が、根本的な医療との関係性を見つめ始めたのである。
さらに急速にリビングウィルの普及が進み、「不治で末期」という病態の定義も当人の価値観を鑑みて判断されるようになった。
オーストリア生まれの哲学者イヴァン・イリイチ(1926-2002)は、医療が原因で体に不具合が生まれる医原病を、臨床的医原病、社会的医原病、文化的医原病の3つの概念に分けて論じている。
臨床的医原病は、薬の副作用や術中感染等のことで、医療によって直接的に生じる被害であり、医療裁判などの原因にもなる。しかし、イリイチによるとこれは狭義の医原病に過ぎないという。
2番目の社会的医原病とは、自然の営みであるお産や老化現象なども医療の枠組みに過度に組み入れられていく現象である。これは、先進国にて特に顕著であり、医療が経済的側面と強く結びついていることとも関連している。
最後の文化的医原病とは、過剰医療が社会的に当たり前となった結果個々人が主体性を失い、自分の身体や健康を医療に全面的に委ねることに疑問さえ抱かない状態である。
35年前の日本では、人々は、社会的・文化的医原病にかかっていたのではないだろうか。
イリイチの死から優に半世紀近く経ち、ようやく日本の医療は、個人が生死のあり方を熟考し選択できる社会的素地を得たのかもしれない。
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2050年、私は74歳になっている。まだまだ健康的で毎週末山に行っているかもしれないし、年相応の病気と不具合のある体を抱えて生きているかもしれない。ひょっとしたら、既にこの世にはいないかもしれない。どの場合であっても、リビングウィルは、きちんとしたものをしたためて置こうと思う。
北米インディアンの間に伝わる、「今日は死ぬのにもってこいの日」という詩がある。
平穏死というものがあるならば、こういうことではないだろうか。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
全てのものが私と呼吸をあわせている。
すべての声が私の中で合唱している。
すべての美が私の目の中で休もうとしてやってきた。
あらゆる悪い考えは私から立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地はわたしを静かにとりまいている。
わたしの畑はもう耕されることはない。
わたしの家は笑い声に満ちている。
子どもたちはうちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
、、、そういえば、最初は竜胆の苦さが気になったのである。しかし副作用の観点から、竜胆渕肝湯(りゅうたんしゃかんとう)を飲むことは避けたく思い、私は竜胆の塊根そのものを得る方法を考えていた。そして思いついたのが、竜胆の鉢植えの栽培である。
適度に成長したところで掘り返して、根を乾燥させ、なんとかして粉砕すればいいのでは!
さっそく竜胆の鉢植えを買い、丁寧に植え替え。しかし、水遣りが悪かったのか、植え替えた後、竜胆はあっという間に枯れてしまい、塊根は入手できなかったのである。
残念に思いながら、再度漢方薬局に足を運び、尋ねてみた。
「あの、、漢方薬のリュウタン(竜胆)って、本当に苦いんですか?」
「はい、けっこう苦いですよ。でもタンポポの根とか、もっと激苦のもありますけどね。」
とのこと。
やはり、苦いらしい。味わえなかったのは残念であるが、いつか竜胆渕肝湯を飲むような病気になった時のために、竜胆の苦さ検証の機会は取っておくことにしよう。
さて、恩恵と裏表である薬の危険性について、改めて思いをはせながら、自分の家の中にある医薬品関連を調査してみた。ここ数年風邪もひいておらず、そんなに薬なんてないだろうとおもっていたが、、、。
以外や以外、10個を超えてしまった。やはり、毎日ではないにしろ、医薬品等のお世話にはなっているのだ、、。そういえば、ここ数年内科的な病気にはなっていないが、歯科医にはお世話になっているし、一度自転車の怪我で整形外科にも行った。ふとした時に、体温を測ることもある。切ろうと思っても切れないのが、薬、病気との縁らしい。
でも、繰り返しになるが、どんな薬にも副作用があるということを忘れないようにしたい!
しかしながら、唯一例外的に、副作用のない延命長寿幸福薬がある。それは落語である! (To be continued)
参考文献
竜の肝
神農本草経解説森由雄編著 源草社
漢方第三の医学。 健康への招待 田畑隆一郎 源草社
くすり奇談 春山行夫 平凡社
何のための薬ですか
薬なしで生きる 岡田正彦 技術評論社
薬害はなぜなくならないか 浜文郎 日本評論者
医食同源
健康の天才たち 山崎光夫 新潮社
養生訓病気にならない98の習慣 周東寛 日経プレミアシリーズ
薬で読み解く江戸の事件史 山崎光夫
食養生 おいしく食べて病を断つ 境野米子
戦下のレシピ 斎藤美奈子 岩波アクティブ新書
認知症
終活難民 星野哲 平凡社
枯れるように死にたいー「老衰死」ができないわけ 田中奈保美 新潮社
生前に書く死去の御挨拶状 津城寛文 春秋社
WikipediaEnglish Living Will
WikipediaEnglish Euthanasia
WikipediaEnglish Engenics
WikipediaEnglish T4 action
WikipediaEnglish Sterilization
美しき身辺整理 “先片付けのススメ” 竹田真砂子 新潮文庫
神の棄てた裸体 石井光太 新潮文庫
変貌する概念
患者よ、がんと闘うな 近藤誠
生きて死ぬ私 茂木健一郎 筑摩文庫
今日は死ぬのにもってこいの日 ナンシー・ウッド 金関寿夫 (翻訳)
WikipediaEnglish Ivan Illich
言説の歴史社会学における権力問題 赤川学
Special thanks to J-stage (科学技術振興機構の論文検索サイト)