12月29日
一年ぶりの高知というのが信じられなかった。2011年は、日本各地の山へ登りに行き、空手や切り絵も習い始め、充実していたはずなのに、その時間はまるで薄墨でたなびく雲を描いたように流れて行った様な気がする。
35歳独身という境遇に一抹のすきま風と自由度を感じながら、私は雪渓寺に向かうためのバスに乗った。去年訪れた最後の三十三番札所は、市内中心部から桂浜へ向かう途中にある。
朝8時の境内に人はおらず、納経所から奥に声をかけると優しそうなおばさんが出てきた。
「すみません。東京からこちらに自転車を送った内田といいますが、、。」
「ああ、届いていますよ。」
彼女の返事に私は心からほっとした。と同時に今日から始まる500キロの旅に向けて気が引き締まる。
玄関先を借りて輪行をすませ、おばさんにお礼をして、今回は般若心経が書かれた冊子を持ってくるのを忘れたことにはたと気付いた。そのため般若心経の手帳を新しく購入し、8時25分私はゆっくりと出発した。
三十四番種間寺には、かわいらしい子育観音があり、妹の安産を願って私は手を合わせた。本堂、大師堂にて手帳を開き、般若心経を読む。
色即是空 空即是色 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
去年、何十回と唱えた言葉が、再沸騰するように思い返されてくる。
去年持ち歩いていた冊子には何のお経を何遍と書かれていたが、手帳にはそれが書かれていないので、いまいちしっくりと来ない。
納経をしてくれた若いお坊さんにたずねると
「普通は短いのは三遍、長いのは一遍ですね。十善戒とかご本尊の真言は三遍で、般若心経は一遍。でもそんなに難しく考えなくても大丈夫です。」
彼は笑顔で納経帳を私に手渡してくれた。
三十五番清滝寺は、土佐市の小高い丘陵の上にあった。途中から始まった歩き遍路の登り道はとても自転車には乗れず、私は息をはきながらそれを押して歩いた。
登りきった境内からは土佐の海が一望でき、また薬師如来の胎内めぐりもして、
山門の天井に久保南窓が描いたという龍の絵を見上げる。
登りは押してきたが、下りは乗ろう。そう思って自転車にまたがり急坂を下り始めてしばらくした時に、事件は起きた。5センチほどのくぼみがあり前輪がそこにはまった。
と同時に自転車とともに私は空中を一回転した。その後顔面を襲った痛みは、まるで鬼の手で頭を押さえられ地面にねじ込まれたような激しさだった。
メガネ割れた!
前歯折れた!
という心配が脳裏をよぎり、その一瞬のち鬼の手は緩められ、私の耳に空回りするタイヤの音が聞こえてきた。
フレームはすこし曲がったが、レンズは割れていない。また痛みはあったが前歯も折れてはいない。ほっとして鼻の下をこすると、その指先が鮮血で染まった。皮膚を切ったのである。
私は起き上がり、ゆっくりと自転車を押し進めて、路傍にあった車の再度ミラーに自分を顔を写した。
鼻血娘である。
とりあえずその姿のまま自転車をこぎ、街中の薬局に入って絆創膏を買った。トイレで消毒し、傷を覆うべくその絆創膏を3枚貼ったが、貼っても貼らなくても恐い顔には違いない。しかし、これも大きな交通事故に遭遇することに較べれば、不幸中の幸いかもしれない。
「大丈夫。同行二人で弘法さんは私を守ってくださっている。」
そう思いながら、晴天の下、私は三十六番青龍寺に向かって出発した。
土佐市の南部にある塚地峠は、昔宇佐の海で取れた鰹を運ぶための道だった。新鮮で取れたての鰹を食卓に供するために男達は先を争ってこの峠越えを下という。今はトンネルができたためお遍路さん以外はあまり通らないこの峠道を私は自転車を担いで登った。最高地点で玄米おにぎりを食べ、あたりの照葉樹林を見つめ、わからない樹が多い自分に苦笑する。まだまだ勉強不足である。
峠を降りてしばらく走ると、宇佐大橋が見えてきた。昔は青龍寺のある横浪三里の岬の先端と宇佐の間は渡し舟が旅人を運んだが、今は橋がその役目を果たす。
中国長安の青龍寺で恵果から真言密教の奥義を伝授された弘法大師空海が、帰国してこの地で自分が空に投げた独鈷杵をこの地でみつけた。それが日本の青龍寺の開基伝説である。
納経をしてくれたおばさんに梵字のことについてたずねる。
「このご本尊の名前の上に書かれているのって梵字ですよね?」
「ええ、青龍寺はお不動さんがご本尊ですから、この字は梵語で不動を意味するハーンという字です。」
「梵字って今もインドの人は読めるんですか?」
「そうですね、、もともとはインドのものですけど、今のインドで読める人はほとんどいないと思います。むしろ日本のお坊さんのほうが梵字の書き方や意味に詳しかったりしますよ。」
階段を降りきった境内の入り口にはお遍路さんの休憩所をかねる、数珠や赤色サンゴのアクセサリーを売るお店があった。そこの主人の話によると横浪三里の県道47号線はサイクリストがわざわざう練習にくるような激しいアップダウンの道で、先を急ぐなら再度宇佐大橋を渡って県道23号線を行ったほうがいいという。私は鼻下の絆創膏を手元でやや隠しながらお礼を言った。
今日はここからさらに50キロ南下して岩本寺まで自転車をこがなければいけない。
56号線を一時間ほど進み、ようやく須崎の街についた。そして久礼湾の美しい沿岸部を通過し、そこから標高293メートルの七子峠を越えた。体中が汗びっしょりになり、下りの途についた時は既に夕方、私は道をたずねるために「お遍路さん休憩所」と書いてあるファミリーマートに入った。
「すみません。岩本寺ってここから後どのくらいですか?」
店員は後7キロであることを教えてくれ、
「お遍路さんですか? 少々お待ちください。」
と言って笑顔でペットボトルのお茶を1本くれた。
「お荷物になるかもしれませんけど。」
「そんなことないです!!」
私は頭を下げて深謝して、お店の外で思わず一気飲みしてしまった。峠越えの後でこの時一番体が欲していたものである。
数キロ先の道の駅「窪川」ではインターネットが使えたので、それでメールをチェックした。わざわざ日常を離れて四国に巡礼に来ているのに、ホットメールの内容を確認しながら非日常的な出来事がおきていないことに安心する自分がいる。ここで半額になったサンドイッチと天むす、窪川の老舗松鶴堂の和菓子を購入する。
窪川の中心地にある岩本寺は、聖武天皇の勅命を受け行基が開基し、後空海が五社寺を作りそれぞれに不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩のご本尊を安置した。私は5時を過ぎて薄暗くなった境内で、それらの真言とお経を唱えた。今夜はこのお寺の宿坊にお世話になる。
案内された部屋に荷物を置いた後、私はゆっくりと入浴を楽しみ、天むすとりんごを夕飯に食べた。そして丁寧に絆創膏を張りなおした。
12月30日
朝のお勤めに出るために中に入った本堂は身震いするほど寒く、ストーブの前では白装束を着た40〜50代の男性が手をこすり合わせていた。私は会釈して言った。
「寒いですね。」
「とても冷えますよね。お若いのに、巡礼ですか?」
「はい。自転車で回っています。」
「そうですか。私は歩きです。札幌からきました。」
話を聞くと彼は札幌北高校の社会の先生で、教師らしい明確な口調で、北高の開校は明治35年、一番最初は女学校であり、同窓会で集まる初期の卒業生は皆格式高い家のおば様方だということを語ってくれた。
橙色の袈裟を来たお坊さんが本堂に入ってきて、私達は席に着いた。お坊さんはこれから唱えるお経が書かれた紙を配り、軽く挨拶した後、正面に向かってきびすを返した。そして静かに着座し、お鈴を一度鳴らして読経を始めた。木魚の音と途切れることないお経が連動して本堂に響く。その言葉を紙を見ながらたどたどしく追い、お経とはこう読むものだったかと思う。
ふと、幼少期の大阪の家での法事のことが思い出された。身奇麗にして、部屋を掃除し、普段は使わない高級な器と茶葉でお茶を入れてお坊さんを迎える祖母の様子から、それは大切なことだと分った。しかし、私や妹にとって正座は10分もしないうちに足が痛くなり、聞こえてくるお経はこの世のどんなものよりも不可解でつまらなく思える。そのうち妹とお互いをつつきあういたずらを始めると祖母にしかられ、お経が終わるまでの小一時間はまるでがまん大会であった。
35歳になった今は、十善戒など一部の意味を解して考えることができるようになり、木魚やお鈴の音が平穏、思索、回想をもたらすものとして心の奥に響く。全ての読経が終わったときには、不思議と寒さを感じなくなっていた。「言う」と「唱える」の違い、唱えることでその言葉に宿る何か、について考えが及ぶ。
お坊さんが立ち上がって私達のほうを向き、岩本寺の歴史について話し始めた。
高知、つまり土佐国は明治政府の中枢をなす政治家を多く輩出したため、厳しい廃仏毀釈の対象となった。もともと140近くあった寺は一時期4つにまとめられ、廃寺になった寺の多くは昭和40〜50年代に再興された。そのため高知県内の寺は、創建は古くても建物は新しい場所が多い。
「明治政府は日本は神の国であるという神道の考え方に基づいて廃仏毀釈を行いました。でもそれは少し間違った考え方だったと思います。」
とお坊さんはやわらかくまとめた。
今日は足摺岬最南端の金剛福寺までの90キロを走らなければはならい。私は日出とともに7時ごろ、人も車も見当たらない静かな窪川の街を出発した。ただいまの気温ー4度という道路標示を見ながら小さな峠を変えて、土佐佐賀の海の美しさに見とれながら、海岸線沿いに南へ、南へと向かう。
30キロほど走った大方あかつきの道の駅で、私はふらりと自転車を降り、地元の主婦の手作りのあんこ入りのおもちを買って食べた。年末にご実家のおもちの配達を手伝う川田さんが
「配るときは湯気が立っているぐらいなんだけど、だんだん固くなるからその前に切ってくださいってアドバイスするんだよ。」
と言っていたことを思い出す。私はそのおもちを飲み込み、再び自転車にまたがった。
約2時間走り、今日の行程の約半分となる中村の街に到着。ここの道の駅で地元産の牛乳を買い、郊外に抜けて国道321号線に入ってすぐのところにベーカリーがあった。お店に入ってパンの耳を分けてもらえるかどうか尋ねると、
「パンの耳はないんですが、昨日の惣菜パンがあります。それでよろしいですか?」
そのお店のおじさんは工房からトレイに載せたたくさんの惣菜パンを持ってきてビニール袋が一杯になるほど入れてくれた。年末に単独の自転車旅行。雰囲気からお遍路さんと分ったのかもしれない。
四万十川の土手沿いの国道を、延々と南下しながら去年のインドネシア旅行の文章を考える。バルラン国立公園探索、その後バリ島に渡り、バニュワンドで一泊した時のことを太陽の光を受けながら鮮明に思い出し、一文一文に落として行く。文章にすることで、記憶が脳裏を離れて、昇天することを許される感じ。
海の見える所で休憩しながらさりげなく口にしたパンが柚子風味のあんパンでその香りに思わず驚く。かんきつ類っていいものだなと思う。
土佐清水到着。湾に停泊している漁船、何軒もの釣道具屋、郵便局、そして地元の人皆が行くと思われるスーパーの間を通過して、足摺半島の東側の海沿いを行く。椿の肌色の幹、濃緑色の葉、紅の花のトンネルを進んで行くと、休憩所と看板の掲げてある小屋があった。
中には小さな黒板があり、12月30日(金)12:32 男性 39と書かれている。その下に、14:05 女性(35)と書き足し、テーブルの上においてあったみかんと飴玉をご馳走になった。
「自転車ですか?」
その声に後ろを振り返ると、そこにはおじさんが1人立っていた。
「はい、今日は窪川の岩本寺から走ってきました。大変でした、、。」
「頑張るなあ、、。」
彼は、この休憩所の裏にお遍路さん用の宿泊所を経営しており、遍路道保存協会が出している冊子を開きながら、どこどこに安い宿があると教えてくれた。
「ここは素泊まり2000円で、電話すると寄るご飯と朝ごはんを運んできてくれるんだ。でも看板がないから、番号を知っていなきゃいけないよ。宇和島あたりでの宿は決まっているのかい?」
「はい、明日は延光寺さんの近くの宿、その次の日は宇和島の友達の家にお邪魔するんです。」
と私は言った。そんな看板なしの宿もあるのかと驚く。
去年巡礼を始めたときに霊山寺で、四国全域にある通夜堂や安宿が記載されている紙をもらったが、旅の途中でなくしてしまった。またそれを送ってもらい、来年は弘法さんと一緒にそういう宿を泊まり歩いてみようか。
午後2時30分、岩本寺から90キロの行程を経て、足摺岬に到着。展望台に登ると、東から南、そして西にかけて太平洋が一面に広がり、北側には半島全体を包み込む照葉樹林の樹冠、そして金剛福寺の紅い屋根瓦が見える。
去年の徳島から始まり高知県を横断して四国最南端の地に達した。そのことに想いを巡らせて私は方位盤の上にしばし仰向けになった。そして海岸線の探索に出かけた。
一周して車道に戻ると万次郎の足湯という無料の温泉施設があった。ここで足を休めながら再度窓越しに白山洞門を眺める。
空と海と岩。
青と蒼と白。
美しさと対峙することで、人は自己を振り返り、その中に神を見出だす。
金剛福寺の本堂の前で、私は岩本寺のお勤めの時にもらった紙を広げ般若心経を
唱え始めた。横で手を合わせていた白装束のご夫婦も私に遅れて読経を始め、3人の声がまるで螺旋を描くように唱和して行く。
このお寺の境内には、白山洞門を御神体とする白山総鎮社もあり神仏習合の色合いが濃い。そのため比較的、廃仏毀釈を逃れることができたのではないか、と納経所のおばさんが言う。
大門のところには、平成の大改修のために、願い事を書いて1枚1000円で寄進できる瓦が積まれていた。
家内安全、健康第一、商売繁盛、学業成就。
皆の願いが書き積まれた瓦に向かって頭を下げる。
その後私は海岸沿いの県道から少し道を登ったところにある民宿高原に向かった。到着時間が早かったにも関わらず、おばあさんとその息子さんが出迎えてくれ、私は2階の見晴らしのいい部屋に案内された。
しばらくしておばあさんがみかんとお茶を運んできてくれ、私の布団を用意しながら自分の家族や足摺にまつわるおしゃべりを始めた。それは半分は私をもてなすためであり、もう半分は純粋な彼女の楽しみのようであった。
50歳になる息子には3人の子どもがおり、子育てから手が離れた後、足摺に帰ってきて民宿を手伝うようになった。今は魚釣りを兼ねてほぼ毎日ダイビングしに行く。毎回巡礼のときにはこの民宿に泊まる大学の先生がいる。近くの病院には、アトピーの権威の先生がおり、長期治療の患者さんがここに泊まることもある。
日が沈むと、部屋の中は急に肌寒くなり、私は
「すみません。暖房付けていいですか。」
と立ちあがった。
「それねえ、100円なのよ。」
「ええっ?」
「足摺は滅多に寒くならんから、暖房、ふつうは使わんのよ。お布団厚くすれば大丈夫。」
おばあさんは敷き終わった掛け布団をぽんぽんとたたいた。
熱めに焚いてもらったお風呂に浸かりながら、私は今日考えたインドネシアの旅の文章をメモ帳に落としていった。既に3か月前のできごとである。もう少し自分に速い筆力があればいいのだが、そうはいかず、いつも自分で課した宿題に追われている。
そういえば2012年の新年のあいさつを兼ねた龍神信仰のエッセイもまだ完成していない。ああ、どうしよう、とため息をついたときに、
「お客さん、大丈夫ですか。」
脱衣所のドアがノックされた。既に1時間近く経っている。
「はーい!大丈夫です。」
私はきりのいいところまで書きあげて、湯船を出た。
「おにぎり作ったからどうぞ食べてね。机の上やから。」
というおばあさんの言葉通り、部屋に戻ると、テーブルの上にはリンゴ、みかん、カステラ、おにぎり3つ、そして伊予遍路案内のパンフレットがおいてあった。身体もすっかり温まり暖房がないことも気にならない。
私は夕飯を食べた後、布団に半分入りながらそのパンフレットを見た。そして明日延光寺を過ぎれば高知は終わりで、菩提の道場である愛媛県に入るということに気付いた。
12月31日
7時に起きて昨日ベーカリーでもらったパンを朝食に食べ、リュックを背負って1階に行き、おばあさんに宿泊代を払った。
「御出発の前によかったら写真撮ってもいいですか。うちの旅館のブログいうん? に載せたくて、。」
「もちろんです。絆創膏つけてますけど。」
私は笑いながらカメラの中におさまった。
県道27号線を西に向かうとすぐに松尾と呼ばれる小さな漁村集落についた。ここは土佐鰹節発祥の地といわれ、幕末に回船業を営んで豪商となった吉福家住宅がある。私は自転車を降りて、その風格ある屋敷を見学した後、宇和島にいる友人、藤堂さんに電話をかけた。
「もしもし?」
「もしもし、内田です!」
「元気? 今どこなん?」
「今ね、足摺の近くで松尾っていう集落だよ。」
久しぶりに彼女の声を聞いて、自分が笑顔で話しているのがわかる。
藤堂さんとは、極地研で働いているときに友だちになった。大学を卒業後中国語の能力を生かして北京で働いた経験もある彼女は、極地研の仕事を辞めた後、生まれ故郷の宇和島に戻ることを選んだ。複数の仕事を経て、今は介護の仕事に従事している。
「今日は休みなの?」
「今、夜勤明け。」
「えっ、大変! お正月休みは?」
「今日と元旦だけ。2日の夜からまた夜勤だよー。」
お互いに極地研を離れてから既に4年の月日が流れたが、メールでのやり取りは続き、今回の巡礼で再開することが可能になった。彼女の実家は宇和島から盛運汽船のフェリーで30分ほど行った嘉島という島であり、お父さんは漁師である。私が宇和島に到着する元旦は、フェリーが運航していないので、わざわざうお父さんが漁船を出して迎えに来てくださることになった。
「お遍路は順調? 宇和島には何時につきそう?」
「あのね、今日泊まる延光寺から宇和島が70キロぐらいだから、朝早めに出て一生懸命こげば、たぶん11時、遅くともお昼前には着くと思う。」
「そっかー。まあお天気は良さそうだし、事故だけには気をつけて安全運転で来てね。」
「うん、どうもありがとう。頑張るね。」
そう言いながら、私は鼻の下の絆創膏を触った。既に流血沙汰の事故に遭ったとは言えない。
松尾の集落を抜けてしばらく進むと道の左側に竜宮神社の鳥居があった。その横に自転車を止め、照葉樹林の森を歩き山道を下っていくと、目の前に青海が開けた。
岬の突端には竜宮神社のお社があり、その先には岩場に渡った釣り釣り人の姿が見える。
また自転車に乗って半島を海沿いに進む。県道は徐々に北に進路をかえて、私は時々潮の香り漂う道路を、ジョン万次郎が生まれた中浜の集落まで走った。この小さな漁村集落の漁師の長男として生まれた中浜万次郎は、15歳の時に漁に出て遭難。鳥島という無人島で147日間の過酷な生活を経た後、アメリカの捕鯨船超に助けられアメリカにて西洋式航海術を学ぶ。10年ぶりに帰郷した後は幕臣に取り立てられ、ペリー来航から開国の時期にかけて多くの逸材に影響を与えるという波乱万丈の人生を送っている。
その生家は、この中浜の集落の人たちが大切に保存していた。
引き戸を開けて中に入ると、土間には煮炊きするかまどがあり、蓆をしいた板間の上には戸棚、かご、おひつなど当時の生活用品が並べられている。
「野良猫が入り込みますので、引き戸の開け閉めはきちんとしてくださいますよう、よろしくお願いします。」
という保存会からのお願いの横に、
「万次郎、戸締りしとけや。母より」
と書いていあるのが笑いを誘う。
中浜から土佐清水の町に戻り、足摺岬を一周してきたことを実感しながら今度は国道321号を西に向かった。途中のめじかの里の道の駅で地元産の分担とトマトのジュースを飲んで一休み。本当の遍路道はここから北上して山間へと進んでいくのだが、私は海沿いに進んで奇岩立ち並ぶ景勝地として知られる竜串へ。
足摺・宇和島国立公園南部に位置する竜串。この一帯は砂岩と泥岩の層が互いになっており、その層が波食、風食を受け形成された奇岩が立ち並ぶ名所である。海沿いの遊歩道は、本当に奇想天外だった。
海を覗き込むと、原色の熱帯魚が何種類も泳いでいる。
高知、足摺、南国の香り。いつの間にやら熱帯散歩。
そう思いながらまた自転車にまたがり海沿いに北上していく。
小さな漁村集落を通過したときに、横浜というバス停があることに気付いた。浜の横の集落。神奈川の横浜も、150年前はこのような姿だったのかも知れない、と思う。
大浦という集落の入り口に、別格月山神社へ1.5キロという案内板があった。まだ時間的には立ち寄っても大丈夫だろう、私は大浦へ向かうためにハンドルを左に切り、ある家の裏道から急傾斜の道に入った。自転車をおいて登って行くとそのうち半舗装路は終り、本当の山道となった。あまり人が歩かないその道は、百名山の主要ルートより遥かに荒れており物寂しい雰囲気だったが、笹薮を掻き分ける音とともに現れたのは一匹のキジだった。茶褐色の艶やかな長い尾。
1年の最後の日に見ることができたのは、なかなか縁起がいいかもしれない。
誰もいない大月神社をお参りした後、また来た道を戻り、大浦の集落に戻った。家の庭先では、おじいさんが竹を割ってさらに削って細くしている。
「こんにちわ。それは何を作っているんですか。」
「これはな、料理に、焼き物に使うんだよ。お正月でみんな来るからな。」
とうれしそうに手を動かす。今日は12月31日、2011年が終わり明日には新しい年が来る。
大浦を出発した時刻は午後1時半を回っており、今日の延光寺まではまだ30キロ以上ある。
初日80キロ
2日目90キロ
そして今日3日目、70キロの行程を進みつつある私の脚は既にかなりの疲労を蓄えつつあった。前方に町が見え始める気配がないまま、左側に延々と続く海。
来年のことをいうと鬼が笑うというが、予定通り1月4日までたどり着けるか、その前に宇和島に到着できるか、いやいや、今日無事に延光寺まで走り切れるか、と心配になりながらこいでいると、後ろから
「こんにちは!」
と声がかかった。
先ほど大月町の道の駅で見かけた黒のキャノンデールのサイクリストで、彼は少しスピードを落として私の右に並んで走った。巡礼ではなくツーリングで四国を回っているという。
「今日はどちらまで行かれるんですか?」
「今日は宇和島までです。だいたい一日200キロペースで走っているんですよ。」
「すごいですね! 私宇和島到着は明日ですよ。」
会話を楽しんでいると、後ろからトラックのクラクションが鳴り、横列走行はできなくなった。
「お互い気をつけて行きましょう。それじゃあ!」
重いギアに切り替えて彼がペダルをこぎだすと、黒のキャノンデールはあっという間に前方に遠ざかって行った。
驚いたのは、彼の身軽さである。サドルの後ろのポーチにパンク修理セットはあったようだが、リュックもウエストポーチも身に着けておらず、持ち物は財布と携帯ぐらいに見えた。
毎晩二食付きの宿に泊まり、速乾性のサイクリングウェアは洗ってほして、浴衣で就寝すれば、荷物はあそこまで軽量化できるのかもしれない。それにしても一日200キロとは、1600キロの巡礼路を8日で走破できるスピードである。私はだんだんと肩に食い込んでくる自分をザックの重さを恨めしく思った。
西日が傾き始める頃に到着した宿毛町の道の駅は、子どもの遊び場が併設され地元の家族連れの憩いの場となっていた。掲示板には宿毛町で開催される2つのマラソン大会のチラシが貼ってあり、
「宿毛町出身、間寛平 ゲストランナーとして」
その続きが面白い。1つは
「参加決定!!」
と書いてあり、もう1つは、
「参加交渉中!」
なのである。
忙しいんだろうな、そう思いながら、彼の生まれ故郷の西日を眺めた。美しかった。
そこからさらに10キロほど走って宿毛の町に入った。勤勉な日本人に感謝である。私は松山に到着した後、自転車を東京に送るためにヤマト配達所の営業時間を調べる必要があったのだが、宿毛の街角には偶然、大晦日の仕事で忙しいヤマトの配達員がいたのでそのことについて教えてもらい、さらに大晦日でも営業していたソフトバンクのショップで電池が残り少なくなっていた携帯を充電することができたのである。
海沿いの町中から約7キロ内陸に向かい、最後は昔からの山の中の遍路道を自転車を担いで登って延光寺に到着。駐車場に植えられているキンカンの橙色が温かく迎えてくれる。
このお寺には、どんな眼病にも効果のある水が湧き出ている。というのは一昔前の話で、今は小さなお社があり、その下の窪みに水が溜まり横には柄杓がおいてある。私は手を合わせてその前に屈み、柄杓で水を汲んでそれを両目のまぶたに少しずつ付けた。去年の秋口から始めた仕事はパソコンを多用するため10年ぶりに視力が下がった。指先で目をマッサージしながらこれ以上悪くならないようにと願う。
それにしても、この水は衛生的には実は非常に汚いのではないか。落ち葉やほこりが入ることもあるだろうし、頻繁に水を取り替えているわけでもないだろう。
しかし私は祈りながらこの水をまぶたに付けた。御利益という言葉はなんとも妙なものである。ガンジス河で沐浴するヒンズー教の人々を非衛生的だと笑うことはできないなあと思う。
山門のすぐわきには、竜宮城から梵鐘を持ち帰ったという赤亀が祀られている。
納経をしてもらいながら私はたずねた。
「あの赤亀があるということは、ここら辺には浦島太郎の伝説があるのですか?」
書き終わったばかりの墨文字の上に紙をはさんで納経帳をパタンと閉じたお坊さんは、眉をひそめた。
「いや、ここらへんには浦島太郎の伝説はないですね。」
(後で調べてみたが、浦島太郎の生まれた漁村は横浜近郊というのが定説らしい。しかしその近海に竜宮城があるとは限らない。浦島が助けた亀しかり、延光寺の赤亀しかり、亀には誰も知らないどこか遠い海の底に存在する竜宮城へ行き来する不思議な力が備わっている。)
今夜泊まる民宿しまやは延光寺から緩い坂道を100メートルほど下ったところにあった。2階の四畳半の角部屋は暖房をつけるとすぐに温かくなり、私はお風呂に入った後、お麩とわかめを入れたラーメンを作って夕飯に食べた。
なぜかすぐには眠ることができず、紅白歌合戦を見たり、はがきを書いたり、また紅白を見ているうちに、延光寺から除夜の鐘が響いてきた。そして12時過ぎ、私も除夜の鐘を突きに行った。ようこそ、2012年辰年。
1月1日
昨夜の星空とはうって変わり、元旦の朝は小雨が降っていた。荷物を持って1階に下りて行くと、この雨の中の出発をかわいそうに思ったのか、宿のおじさんは素泊まり料金を3000円にしてくれた。今日は11時までに宇和島到着を目標にわき目もふらず自転車をこがなければならない。
人通りの少ない冷たい宿毛の中心部をぬけてトンネルに入った。数百メートルにも満たない長さだったのも関わらずトンネルを抜けるとそこはからりと晴れ上がり気持ちのいい風が吹いていた。
四国の海岸線をずっと旅してわかってきたのが、町と町の間には必ず峠がある、ということである。逆に言えば、峠によって区切られた1つ1つの集落が長い時間をかけて今の町になった。
56号線をただひたすらに走り、宿毛市から愛媛県愛南町に入った。阿波は発心の道場、土佐は修行の道場、そして伊予は菩提の道場といわれる。
さらに10キロ近く走り、1番札所の霊山寺から最遠の寺、八十八ヶ所の折り返し地点ともなる観自在寺に到着。元旦の境内にはまばらに参拝客がおり、私は般若心経を唱えて宇和島まで無事につけることをお祈りし、本堂のお坊さんに菩提の意味について尋ねた。簡単に言うと「悟り」であり、穏やかな、ゆっくりという意味合いも含むという。
「愛媛は他の県に較べて道も穏やかでお遍路さんが回りやすい土地なんですよ。ゆっくり気をつけて行かれてください。」
私はその言葉に背中を押されて、再度宇和島目指して自転車をこぎ始めた。
「町の間には峠あり」という法則に従い、宇和島の約10キロ手前から松尾峠への厳しい登りが始まった。緩傾斜であるが、それが長引くと体中に汗が噴出してくる。トンネルの中の最高地点を越えて道はやっと下り坂になり、高速道路と並行する形で走るようになった。
宇和島の人口は約8万人。今まで通過してきた土佐市2万8千人、須崎市2万5千人、土佐清水市1万5千人、宿毛市2万人と較べると、高知市(34万人)以来の大都会である。立体交差のある片道二車線をやや緊張しながら通過して、私は11時少し前に宇和島の中心部と思われるエリアに入った。
藤堂さんに電話をかけ、待ち合わせ場所であるフェリーターミナルへの行き方をたずねる。
「高速の下をまーっすぐ来るとフェリー乗り場なんだけど、その向いにマクドナルドがあるの。それ目指してくればくればわかると思うよ。宇和島にマクドナルド一軒しかないから!」
言われたとおりに進んで行くと、都心にある店舗の5倍の床面積は持つと思われる平屋のマクドナルドが現れた。いかにも田舎らしい。道路を挟んで海側はフェリーターミナルで、なぜかおびただしい数の自転車が止めてある。私はもう一度電話をかけた。
「もしもし、藤堂さん? フェリーターミナルついたよー。今、駐輪場が見える場所にいるんだけど、、。」
「本当? 私も近くなのだが、、。あっ、わかったわかった!」
前方から歩いてくる毛糸の帽子をかぶった女性が手をあげ、それが藤堂さんだと私にもわかった。2人は4年ぶりの再会を喜び、お互いの元気そうな姿に安心した。
彼女のお父さんは漁船を運転して9時ごろには宇和島に到着し、
「たぶんね、今パチンコやっているんだよね。もうそろそろ来るんだけど。」
と言う。桟橋でしばらく待っていると、赤ら顔のおじさんが手にビニール袋を提げて笑顔でこちらに歩いてきた。
「あ、父ちゃん!」
と彼女が手を振る。
「おうおう、香奈子。すまんな遅れて。お友達やな。」
とお父さんが私に目を向ける。
「そう内田さん。極地研にいたときのお友達です。今日は延光寺から自転車で来たんだって。」
「初めまして。内田と申します。どうぞよろしくお願いします。」
と私は挨拶した。
「自転車で八十八まわっとんのか。すごいなあ。ようこんな所まで来てくれたなあ。」
「父ちゃん、これはパチンコで当たったん?」
と香奈子はビニール袋を指した。
「いや〜、たいしたもんは当たらなかった。あとちょっと飲み物と食べ物だ。まあ乗れや。ぼろ船やけど。」
とお父さんは私達を漁船に乗るように促し、
「嘉島は本当に何もないで。パチンコ屋も映画館も喫茶店もあらへん。あんなとこ人間の住むとこやあらへん。」
と冗談でいいながらエンジンを入れた。
3人が船室に乗った漁船が勢い良く動き出し、お父さんは私達のほうに
「ほら、お前達飲め。中に肉まんも入っているぞ。」
と言ってビニール袋を差し出した。中はエビスの350ml缶2本である。
「ありがとうございます!」
「いやいや。家に帰ってもごちそうが待ってっぞ。母ちゃんが腕ふるってっから。」
それを飲み始めてしばらくすると船は外洋に出て、波の動きに合わせて大きく揺れだした。
前方には香奈子の実家のある嘉島が小さく見え、南側には藤原純友の水軍の拠点となった日振島が横たわる。本来は元旦には船は海に出てはならず、外洋にはほとんど船が見られなかった。どんよりした曇り空を見て、
「こりゃあ、午後は時化るぞ。」
とお父さんが言った。
「わかるんですか?」
「ああ、波の上の方が白く泡立つようになってきた。後1時間遅かったら船が出せなくなっていたかもしれん。」
私は今日全力で宇和島まで自転車をこいできたことに感謝した。現に去年のお正月は悪天でフェリーが出ず、香奈子は帰省できなかったのである。
嘉島に住んでいる人は約100人。島の東側だけに道路があり、裏側は自然の岸壁となっている。その嘉島が近づいてきた。お父さんが言う。
「左側に大きな建物が見えるやろう。」
「はい、なんか大きいですね。3階建て、、ですか?」
「あれ、学校なんよ。でも今は宇和島に移転してしまって使われてないんや。何年前だったか? 香奈子。」
「たしか2−3年前だよ。私が極地研やめて宇和島に帰ってきたときは、まだ使われてたもん。」
「なんか新しく見えるけど、あれはいつ作られたの?」
「15年ぐらい前かな。私があの学校に通っていた頃は全校生徒が17人だったんよ。どう考えてもあんな建物必要ないよね。」
私は開いた口がふさがらなかった。15年前といえば、まだバブルの余波が残っており、特に田舎ではお金を回すためだけに、無必要な公共事業が続けられた。
「そういうおかしな時代だったんだよね。」
「今、土地付で200万で売りおる。しっかし、買ってもどうにもならないけどなあ。」
とお父さんがハンドルを繰りながら笑った。
嘉島がいよいよ近くなり、船は一段階スピードを落として、正面の大きな幟が2本立つ船着場に接岸する準備を始めた。「春日神社」と書かれた幟の近くには、私達を待っていた藤堂さん家の人たちが立っている。香奈子のお母さんとお祖母さん、そしてかわいらしく跳ね回っている二人の女の子は姪の理沙ちゃんと愛子ちゃんだった。
彼女の実家は船着場の目の前にある立派な二階建ての家屋だった。香奈子はお正月飾りのある扉を開けてくれ、
「どうぞ。たいしたうちじゃありませんが。」
「いえいえすみません。お邪魔致します。」
私は会釈しながら玄関に入った。
お母さんにお菓子のお土産を渡して、私は香奈子と2階に上がった。荷物を降ろすと彼女は私にお風呂を勧めて、その間に洗濯機を回して汚れた洋服を洗ってくれた。
さっぱりして出てくるとお姉さんのりさちゃんが、香奈子と私の似顔絵を描いて喜んでいる。私はニコニコした笑顔、香奈子は斜め上を見ながらニヤッと笑った表情。
「私、こんな顔しないわよー。」
「えー、香奈子姉ちゃんするよー。」
りさちゃんの言うとおり、香奈子は時々そういう顔を作る。それは話をやわらかに受け止めたり、冗談にしたりする効果を持っていて香奈子の良きトレードマークだと私は思う。
彼女らが嬉々として階段を下りて行った後、私たちはおせち料理をお昼に食べながら近況を話した。お互い30歳半ばになり、結婚や子どもを産むのなら最後の年齢に近づいていること、お互いの勤め先のこと、年金制度が将来機能しなくなること。
「やっぱり今から貯金かな。でも震災が起きたら貯金も何もないよね。」
新年なれど、なかなか明るい話題にはならない。
その後、香奈子と、理沙ちゃん、私は、歩いて数分の嘉島小学校で凧あげをして遊ぶために外に出た。島の北端と南端を走る唯一の道路を歩いて行くと、人気がなくしっかりと雨戸が閉じられた木造家屋が多く並んでいるのが目に付いた。
「小学校が宇和島に移ってから、子ども持つ家族はみんな宇和島に引っ越しちゃって、今は空き家がすごく多いんよ。」
「ああ、そうなんだ、、。」
現に理沙ちゃんも2年前まで嘉島小学校の児童だったが、閉校とともに宇和島に越した。今、父親(香奈子のお兄さん)は嘉島でハマチの養殖を行い、週末宇和島に帰るという単身赴任生活である。
「大変だね。それに子どもがいなくなると急に島は寂しくなるね。」
「本当にそうだよ。残っている人は高齢者の人が多いし、私、老後は嘉島で過ごそうと思っているのに、このままじゃその時には無人島になっちゃうよ。」
香奈子は得意の表情をして話を茶化した。
どんなにこの島が好きでも、愛着があっても生活する糧がなくては住むことはできない。今、香奈子のお父さんは跡を継いでいる長男とともにハマチの養殖を行い、お母さんは島で介護の仕事を行っている。
5分ほど歩くと嘉島小学校につき、閉校したとはにわかに信じがたい広々としたきれいな校庭で3人でたこを飛ばして遊ぶ。風に乗ると上手いこと舞い上がり、かと思うとバランスを崩して地面に落ちてくる。はしゃぎながら楽しみつつも、そのたこの動きは、はかなくてどこか危うげである。
3人は校庭の裏手にある竜王神社を参拝した後、島の南端にある入り江に行って 石投げ(水切り)をして遊んだ。私はこの遊びがとてもヘタなのだが、さすが2人は島育ち、投げた石は2,3回は水の表面を跳ねて遠くへ飛んで行く。今は水が冷たいが夏になるとここで泳いで遊ぶという。
今度は島の北端に向かって歩き始めた。藤堂さんの家を過ぎ、親戚だというおうちの前を何軒か通り過ぎた。2人のおばあちゃんが
「香奈子ちゃん、帰ってきたん?」
と声をかけ、彼女も笑顔で話し返す。
嘉島唯一のスーパーであるAコープの角を曲がり、3人は観音寺への細い階段を登った。八十八ヶ所と同じ真言宗のお寺で、瓦も柱も立派である。
「島の人が皆で寄付して、最近立て替えたんだって。」
香奈子はお堂の障子を開けて中に入り、着座すると静かに手を合わせた。
境内からの階段を下りて、1〜2分歩くとフェリーの発着場があり、その先の島の北端には春日神社があった。境内には、熱帯性のイチジクが育ちその気根は岩にしっかりと張り付いている。この神社もここ近年島民の寄付によって改修工事を行い、お社の白木も初々しく手水場も真新しい。宮大工に発注して行う工事、決して安いものではないだろう。漁業、そしてわずかな農業によって生計を立てているこの島の人たちが苦労して捻出したであろう寄付金。昔からの彼らの深い信仰心が伝わってくる。
「都会にいるとなんか忘れちゃうけど、こういう神様を大切にする心って大切だと思うんだよね。」
と香奈子は言った。
家に帰って、愛子ちゃんも一緒に4人ですごろく、福笑いをして遊んだ。素朴で単純だが、小さい子達と一緒だと改めていい遊びだと思う。
夕飯は、お母さんが2階におせち料理と新鮮な刺身の盛り合わせとイシガキダイの煮つけを用意してくれた。
刺身は外側を少しあぶったマグロとハマチ、そしてカワハギだと言う。香奈子と私がお互いのコップにビールを注ぎあったいると、1階からお父さんがコップを持ってあがってきて
「おう。飲んでるか。よかったら入ってええか。」
2人の間に加わった。
カワハギのことはハゲといい、その肝をしょうゆに溶かしてそれをつけて食べる。
「味が濃くて、独特やから好きな人と嫌いな人がおるんやけどな。」
「私はあんまり好きなじゃないんだよね。」
と2人は言うが、私はなにせ初めてなのでとりあえず肝をつけて食べてみる。おいしい、しかし確かにこってりとしており、1〜2切れで十分かもしれない。
「このハマチはうちで養殖したんや。新鮮やで。」
とお父さんは誇らしげに言い、そのことについて語り始めた。ハマチの稚魚は土佐市、青龍寺の近くにある漁業協同組合から購入し、嘉島の沿岸に設置してある養殖場で育てる。以前は稚魚の一割ほどが死んでしまったため、それを見越した数を購入したが、数年前に開発されたワクチンのおかげで稚魚はほとんど死ななくなった。
「それは良かったですね。」
「それがよ、そうでもないんだよ。」
お父さんは苦笑しながらビールを飲んだ。養殖関係者が購入する稚魚の数が減ったため、業者は海から稚魚を獲る量を減らした。すると結果として天然物がよく育つようになり、養殖ハマチの値段は落ちてしまったという。
バブルの頃はハマチにも高値がつき、年収は約6000万円、稚魚代、えさ代、養殖場の管理費などを除いても1000万円近くが利益として残った。しかし、不景気になってからは値段は落ちれど実費は下がらず、今は毎年数百万の赤字である。しかし、かといってハマチの養殖を止めて何か他のものに切り替えるわけにもいかない。
「真珠の養殖が盛んだった頃は、宇和島も賑やかだったんだよ。」
「ああ、栄えとったなあ。でも今はさっぱりや。」
お父さんと香奈子は言う。それにしても、なんと収益の幅が大きい仕事だろうか。2人は不安定な水産養殖業に政府の保障が全くないことを皮切りに、地方格差や高齢者問題に関した政治批判を実感を込めて話し始めた。
田舎は住居環境もいいし、食べ物もおいしい。しかし都心部に較べて絶対的に所得は低い。その時問題になるのは子どもの教育費である。日本は他の国に較べても教育費がとても高いが、それを無償化して都心と地方の教育格差を是正しないと、都心への人口流入と地方の荒廃は止まらない。
「しっかしなあ、なんといっても、、。」
お父さんは手酌で日本酒を注ぎ、
「健康が一番だよ。いくら金があったって病気じゃあしょうがない。」
しみじみと言った。香奈子も私も30歳を過ぎて、その言葉の意味が実感できる年頃である。
夜は2階の寝室をお借りして、そこのベッドに横になった。4日分の筋肉痛で太ももが痛む。かつ風が強いのか、船着場の春日神社の幟が煽られて大きな音を立てる。嘉島に台風が来た時にはとても怖いだろうなと想像したりしたが、いつの間にか私は眠りに落ちていた。
1月2日
6時に起きて窓の外を見ると風は弱まっていたが、空は厚い灰色の雲に覆われていた。お母さんが作ってくださったご飯、お味噌汁、目玉焼きとソーセージの朝ごはんを食べて、私は皆にお正月を楽しく過ごさせていただいたことに深謝して香奈子と一緒の7時発のフェリーに乗るためにその乗り場に向かった。
小さな待合室には地元の子供たちが描いた絵が飾られ、椅子には手編みのカラフルな毛糸座布団が置かれている。既に15人ぐらいの人がフェリーに乗るために集まっており、温かそうな毛糸の帽子をしっかりと被ったおばちゃんたちから
「香奈子ちゃん、お正月やで帰ってきてたんか。」
と声をかけられ
「うん。1日だけだけどね。」
と返事をしている。
フェリーは時刻どおりに到着し、お客を乗せて日出前でやや明るくなり始めた海を走り始めた。
「昨日はなんかよく眠れなかったんよ。」
という香奈子は、椅子に座ってしばらくすると静かに眠り始め、私は少し安心した。彼女は今日の夜からまた夜勤で体調を崩さないかと心配になる。
今日は内子までの70キロを進めばよく、まだ時間があったので香奈子と私は市内の観光に行くことにした。
「ちょっと待ってね。お母さんの自転車がどこかにあるはずだから。」
彼女はフェリーターミナル横の駐輪場内を探し始めた。私はこの時、膨大な自転車数のなぞが解けた。最初見たときは、こんなに多くの人が島に渡っているのかと思ったが、そうではなく、ここにある自転車は島民が宇和島に来た時の移動に使うものなのである。自転車は空気がぬけていたため、フェリーターミナルの寺務所で空気入れを貸してもらい、いざ藤堂高虎が建てた宇和島城へ出発。
慶長年間に高虎が普請した時は、海に面した五角形の外郭を持つ城であり、1662年には宇和島伊達家二代目宗利が城郭の大修理を行い、以後幕末まで藩主の居城になった。現在はお堀はすべて埋められ、三の丸も消失してしまったが、城山には豊かな林が残り、加奈子と私は天守閣へ向けて苔むす石段を登った。
桜の木がたくさん植えられた本丸からは、宇和島港とその町並みを眺めることができ、天守閣の中に入って宇和島藩の歴史を改めて振り返る。
そのあとは、讒言によって斬首された伊達藩の家老、山家公頼を慰めるために建てられたという和霊神社に向かった。境内下には賑やかに屋台が並び、鳥居をくぐって階段を登って参拝する。きれいに髪を結った巫女さんが忙しそうに絵馬やおみくじを売り、お宮の後ろには火にふすために去年までの絵馬や破魔矢が積まれている。
「そういえば、内田さん、今年厄年じゃない?」
「あ、確か、そうだと思う。厄払い行ってないけど。」
「厄払いしないと、周りの人に厄が行っちゃうらしいよ。近しい人が怪我したりしちゃんうんだって。」
「本当? 困るなそれは。でも八十八か所回っているから、それで厄を落としたって思いたいなあ。」
参拝した後、2人は自転車に乗り町中をゆっくりと走り始めた。
「もうひとつ、宇和島で有名なデコボコ神社っていうのがあるんだけど、。」
「変わった名前だね。」
「うん。それが男女のでことぼこを意味していて、なんかそれに関するものが膨大に飾られてるらしいんよ。実は私は一回も行ったことないんだけど。」
「へー。なぜそんな神社が宇和島に、、。」
少し気になったが、今日は時間がなさそうだった。
私は、宇和島に「のつご」という妖怪がいるかどうか聞いてみた。この妖怪は、口減らしのために土に埋められた赤ちゃんの怨霊と言われ、暗い所で人の足を引っ張ったり、赤ん坊の声で鳴いたりするという。
(のつごに関しては水木しげる先生がとてもおもしろいエッセイを書いている。妖怪文藝〈巻之参〉魑魅魍魎列島 小学館文庫を参照のこと!)
「のつごっていう名前は聞いたことないけど、お盆の時とかは足が引っ張られるから海で泳いではいけないって言われているよ。」
と香奈子は答えた。
お盆に先祖の霊が帰ってくる。そしてその日は海の中が危なくなる。だから海では泳いではいけない。
「そうなんだ、、。やっぱりそういうことってあるんだね。」
フェリーターミナルに戻ると、
「じゃこ天食べる? 揚げたてが作ってもらえるから。」
香奈子はそう言ってお店から竹串にさしてあるじゃこ天を2つ買った。揚げたては驚くほどおいしかった。いつもスーパーで袋に入ったものを買うので、じゃこ天は揚げて作るということすら忘れかけていた。ベンチに座ってそれを食べながら、仕事のことなどを話す。私は派遣の仕事が3月で終りになり4月以降はまだ決まっていないこと。香奈子は宇和島で女性が働ける職場は介護分野などに限られること。お互いに、未来ある展望というよりかは、心配が尽きない未来だが、それならそれで受け入れるよりしょうがない。
「お金貯めて、2,3年に1回は東京に遊びに行きたいな。」
「本当? じゃあその時は声かけてね。楽しみにしてる!」
言いながら思う。香奈子と私は今度いつ会うのだろう。
じゃこ天の別れ
10時30分ごろフェリーターミナルを出発し、私は市内にある龍光院をお参りし、その後、56号線を北上して稲荷山龍光寺を目指した。三間平野の真ん中に位置するこの寺は、山号に表れているように、農耕の神を祭る寺として昔から人々の信仰が篤い。また龍光という名前は、短剣でくりぬかれた龍の目を祀ることにちなむ。
庄屋を襲おうとした時点では悪龍であるが、その目がいつしか崇められるようなったのがおもしろい。
7キロほど進んだところにあった四十二番仏木寺は、弘法大師が楠にかかった宝珠を見つけ、それを眉間にはめ込んだ大日如来木像を彫ったという開基伝説がある。
「真言密教では、マンダラの中心、宇宙の中心に大日如来がいるんだよ。」
と何度も口にする川田さんのことを思い出しながら、本堂、大師堂をお参り。300年以上の歴史を持つという藁葺きの鐘楼も風格があった。
仏木寺を後にすると、三間町と宇和町の間にある歯長峠への長い登りが始まった。お昼を過ぎて西に傾きかけた日差しのせいか、向かう山肌はまるで紅葉しているかのように橙がかって見える。峠の最高地点からは、展望台に行けるようになっており、その登り口には説明があった。歯長峠の名前は、源氏の末裔である力は百人力、歯の長さは一寸という大男が住んでいたという伝説にちなむ。また昔から三間と宇和を結ぶ唯一の道であり、交通の要所として大いに栄え、かつ戦国時代には攻防戦の場所として何度も激しい戦いの舞台となった。
振り返ると、宇和島の東にそびえる鬼ヶ城山が見える。
町と町の間には、必ず峠がある。
私はその風景を背にして、宇和の町へ峠を下った。
肱川に沿って5キロほど進み、明石寺に到着。駐車場には誘導員がいるほど込んでおり、私はその脇に自転車を止めて境内に登った。社務所には、絵馬を買ったり、おみくじをする人が並び、年が明けたことを改めて認識する。
読経を終えて納経所に行くとそこには、掛け軸に納経をしてもらい
「ありがたいことです。こうして八十八ヶ所を回れて。」
といいながら、その墨を丁寧にドライヤーで乾かしている年配の女性がいた。1つの掛け軸に八十八ヶ所全てを書くので1つ1つは小さいが、真ん中には弘法大師が描かれ、満願成就した暁には、表装して床の間に飾るという。
境内下にあったお茶屋で私は温かいショウガ入りの甘酒を飲み、また自転車に乗って肱川の河口にあたる大洲に向かった。
3年ほど前だろうか、私は東京そして松山の友人と一緒に大洲の街を訪れたことがある。昔ながらの街並みを残したおはなはん通り、臥龍山荘、歴史ある城下町に誇りを持った人々。記憶をたぐり寄せながら自転車をこぎ、鳥坂峠を越えて、午後3時過ぎ大洲の街に到着した。
記憶の引き出しが軽く開く気がし、かつ松山が近いと感じた。明日、明後日と2日間かけて久万高原経由で松山に向かわなければならないが、56号線沿いに行けば後100キロもないだろう。
私は長い階段を登って大洲神社を参拝し、そのあと大洲城に向かった。
鎌倉時代末期に創建され、江戸時代以降、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が居城とした大洲城。明治期には天守も取り壊されたが、平成の大普請と呼ばれる史学家と越前の宮大工らの工事によって、往時の姿が2004年に復元された。その成功は、明治期の古写真や天守雛形と呼ばれる木組み模型があったおかげといわれるが、総工事費13億円のうち半分は寄付だったという地元の人々の熱い想いが一番の推進力になったことは間違いない。
天守閣内の展示の1つに日本百名城のことが記されており、愛媛県には、今治、湯築、松山、大洲、宇和島の5城がある。お正月早々、そのうち2城を訪ねることができたことに感謝し、私は天守の最上階から、悠々とした肱川の流れを見つめた。
ここから約10キロ先の内子の町を目指し、今夜泊まる民宿シャロンに着いたときには、既に日が暮れかかっていた。宿泊客は私だけで、案内された2階の部屋は和風の落ち着いた部屋だったがテレビがなかった。私は普段テレビを見ないが、たった一人で物音のしない部屋にいるととても寂しい。ラーメンの夕飯を食べ終わり、散歩でもしようかと外に出ると、そこで偶然宿のご主人に会った。1階の駐車場周りの片づけをしに出てきたところで、急ぎではなかったようで、私達は夜風に当たりながらしゃべり始めた。
私は自転車で八十八ヶ所をまわり始めて2年目になり、今日見学した大洲城には大いに感銘を受けた。ご主人曰く、巡礼に来る人は意外に関東、東北方面の人が多く、ここ近年は外国からの巡礼客も増えている。日本語もほとんどしゃべれない人たちが頑張って旅行している。去年の夏は、龍馬脱藩の道を旅してこの宿に泊まったお客さんもいた。
「明日はどちらまでですか?」
「久万高原です。ここからけっこう登りますよね?」
「そうですね。下で雨が降れば久万高原では雪になると思います。でも日中なら道路が凍るってことはないと思うんで、気をつけて行かれてください。」
1時間近く経っており、私はご主人に、お話が聞けてとても楽しかったですとお礼を言った。そしてそのあと近くのスーパーに行って安くなっていたパンとヨーグルトとチーズを買い、暗闇の中に沈んだ内子の白壁の町並みを散歩して、就寝。
1月3日
まだ暗いうちに起床し、朝日によって空が明るんだ頃に出発した。昨日の明石寺から今日向かう44番大宝寺までは約90キロ。岩本寺から金剛福寺の次に長く、かつ800メートル近い標高差を登らなければならい。内子の中心部を離れて国道379号線に入ると、辺りは一気に寂しくなった。
分厚い曇り空からはいつしか小雪が舞うようになった。寺村という集落には小さな看板を掲げた製麺所があり、その中では1人の女性が丹念に作業をしていた。
スキー場のある小田という集落を通過すると、真弓峠への登りがいよいよ厳しくなり、その九十九折の道路を息を切らして登って行くと、古い神社の屋根下で休んでいる外人のお遍路さんに会った。
「Hello. Where are you from?(こんにちわ。どちらからですか?)」
と私は声をかけた。
「I am from Shimane. (島根から来ました。)」
「島根? Do you live in Japan?(日本に住んでいるのですか?)」
私は聞き返した。彼はイギリスのウェールズ出身だが、日本人の奥さんと共に京都に2年、その後石見銀山の近くに越して既に9年が経つと言った。
「Do you mind if I walk together with you? (よかったらご一緒してもいいですか?)」
「Of course, you are more than welcome.(もちろん、是非一緒に行きましょう。)」
旅は道連れ。私はジェイクという名のそのおじさんと一緒に、久万高原目指して歩き始めた。
彼がウェールズで過ごしたのは18歳までで、その後アメリカに渡り芸術関係の仕事に就いた。ところが色んな紆余曲折を経て、考える所あってインディアンのナバホ族の集落で羊飼いの手伝いをしながら生活することになった。電気ガス水道何もなく、最寄の町まで200キロ、自然の真ん中で心やさしい人々と過ごした7年間は、変えがたい経験だったという。そのナバホの集落には年に一度、その生活に共感する世界中の人々が集まる。そこで今の奥さんに出会い、結婚して日本に居を構えたという。
彼は古代日本史にとても造詣が深かった。日本人が単一民族だという誤った概念は古事記の時代にまで遡る、あれは大和朝廷の正当性を権威付けるために書かれた偽書だ、と言ったことに私は心底驚いてしまった。古来から日本に住んでいた出雲系の人々は新羅から、大和朝廷の人々は百済から渡ってきたといわれ、日本語の文法は百済で使われていた言語に酷似しているという。
そして明治政府によって再び歴史は書き換えられ、日本は天皇を頂点とした単一民族国家であるという神話が作り上げられた。戦後になって「単一民族ではない」という事実はある程度認識されるようになったが、それ以前の地域ごとの多用な風俗や文化は大幅に抹消されてしまった。
「It was more diverse and interesting before.(昔はもっと多様で、興味深かったはずなんですよ。)」
とジェイクさんは言う。戦後の歴史教育のみで育ち、古事記も日本書紀も名前は知れど読んだことさえない身としては、ジェイクさんを前にして恥ずかしいの一言に尽きる。
いつしか真弓峠を越えて、道はやや下り基調になった。私は彼の話をもっと聞きたいと思った。しかし今日の予定である大宝寺と岩屋寺を参拝するには、そろそろ自転車で進まないと行けない。
「ジェイクさん、Do you already have a place to stay tonight?(今日はどこに泊まるか、決まっていますか?)」
「Not yet. I will look for some place when I get to KumaKogen.(いや、まだです。久万高原に行って探そうと思っています。)」
「私今日は、民宿でんこというところに泊まります。良かったら同じ宿に泊まりませんか。そうしたらもっとお話を伺えるかと。」
「Good idea. I will think about that.(いいですね。考えて見ますよ。)」
私はほっとして、自分の連絡先と宿の電話番号を書いて彼に渡した。
小雪が舞う中、20分ほど道路を自転車で登って行くと、両側に民宿や郵便局、家屋が見え始め、久万高原町についたことがわかった。ここから約1キロ山間に向かったところにある大宝寺に私は向かった。杉とヒノキの巨木が並ぶ森の中にその寺はあり、うっすらと雪の積もった路傍に自転車を止めて、山門をくぐった。境内や手水場も静かに雪化粧しており、標高の高いところに来たことを実感する。雪と巨木に祈りが浸透するように、そう思いながら私は般若心経を唱えた。
来た道を戻って民宿でんこに荷物を置かせてもらい、私は次に岩屋寺に向けて県道12号線を走り始めた。その道は緩い上り下りを繰り返しながら、谷あいを縫うようにして進む。あるトンネルを抜けた所から除雪作業が途切れ、私はややアイスバーン気味の道をブレーキをかけながら静かに下って行った。
と突然前タイヤが横滑りし、一瞬にして私は自転車とともに道路の中央ですってんころりん。アイスの上であるため、転んだ後もまだ滑る。私はあわてて体勢を取り直し、注意しながら立ち上がって、自転車とともに歩道に避けた。心臓の鼓動が速い。前後から車が来ていなく本当に良かった、そう思いながらそこからは自転車を押して行くことにした。
3時過ぎに県道沿いにある岩屋寺の駐車場に到着。ここから杉木立の中の坂道と石段を登った山の中腹に、抱かれるようにして岩屋寺はあった。見上げるような岩の絶壁、その奥には弘法大師が修行した穴禅定という洞窟があり、私は家族連れの後についてその中に入った。伸ばした手の先はもうどこにあるかわからないような暗闇の中を足元に気をつけながら歩く。一番奥には、ろうそくの明かりに照らされた何対かの石仏があり、家族の中からおばあさんが一歩前に出て線香に火をつけた。そして数珠をつけた両手を合わせて
「般若心経。」
といい、他の家族の人たちもその声にあわせて読経をはじめた。おばあさんの満願を目指して、家族皆でお寺を回っているのだろうか。数人の声が重なったお経は暗い洞窟の中で力強く響く。
洞窟を出た左側にあるほぼ垂直に立てられたはしごを登った岩場も昔の修行場だった。大師堂の裏から始まる急峻な山道には不動明王の化身といわれる童子像が何体もたてられ、途中には2つに割れた巨岩の上に白山権現が祀られた逼割禅定があった。山の懐で修行をし、そこで神々が具現化される。法華仙人、弘法大師が修行を積んだこの札所では、山自体がご神体であるという理由がわかる気がした。
再度12号線を自転車に乗って、雪のあるところはそれを押して久万高原へと静かに進む。民宿でんこに着いたのは5時過ぎで、宿のおじさんは
「イギリス人の方、来られましたよ。」
とジェイクさんが既に到着したことを教えてくれた。
雪道を歩き続けた靴と靴下は脱水できるほどびしょぬれで足も氷のように冷たかった。私はまずお風呂に浸かり、そのあとジェイクさんの部屋を訪ねた。彼はパソコンに向かって何かを打ち込んでいるところだったが、
「You arrived! Welcome, come in.」
喜んで私を迎え入れてくれた。
缶ビールで乾杯し、コンビニのお総菜、私が作ったわかめと麩入りのラーメンを肴にして、彼は様々なことについて語ってくれた。
彼が今住んでいる石見銀山近傍の築70年の民家は数年前に50万円で買ったもので、近くには畑があり、そこで必要な野菜の殆どを育てている。現金収入のために外国人向けの日本観光ガイドの文章を書く傍ら、今夢中になっているのは神楽のお面作り。島根に来て神楽に出会い、その神秘性と美しさに見せられた彼は、老齢の面作りの先生に弟子入り。既にオリジナリティーを加えての製作にも励んでおり、Japan Timesの記事にも取り上げられたという。彼はパソコンに入っている自作のお面の写真や神楽の祭りの様子を何枚も見せてくれた。
「神楽は夜から始まって明け方まで続くんだ。みんなにお酒が淡々と振舞われて、すごいよ、あれは本当の祭りだ。(That's real Matsuri.)」
と彼は嬉々として語る。日本の伝統芸能である神楽、私は一度も見たことがない。
ジェイクさんは渡米してデジタルアートを学び、10年近く美術専門学校の教授だったという。今からはとても想像できない。
「教授の仕事は悪くなかったよ。いいお金を稼ぐことができたしね。ただ色々考えるところがあって、ナバホの人たちと一緒に生活することになったんだ。」
そのナバホの集落で行われる年に一度の集会で出会った日本人の奥さんは、京都の出身だった。しかし田舎暮らしを望んだジェイクさんとともに島根に移り住み、今は彼と一緒に農作業をしながら、脱原発やスローライフなどの社会活動を行っている。
ジェイクさんは、外国人ゆえに日本のメディアに翻弄されていない客観性を持つ。その観点から見た「日本」という国への批判話は、私にとって頭がえぐられる思いだった。
東日本大震災以後明らかになった何もできない日本政府。都合のいいように改定された放射能の安全基準。批判精神を持たずして強大な影響力は持つメディア。経済至上主義に翻弄されている日本人とその社会。
ジェイクさんの観点は最もだと思いつつも、日本人として日本を弁護したい気持ちが頭をもたげる。
「でも経済が重要になるのは、どこの国でも同じでしょう? Is Japan truely economy-driven?(日本はそんなに経済至上主義ですか?)」
「Very much.」
彼は力を込めて言った。
お金を回すためだけに行われる無駄な公共事業。耐用年数を遥かに下回る年数で壊され新築される住宅。高齢化と人口減少が進む中、推進されているリニアモーターカーや空港建設。聞いていて恥ずかしくなり、私は返す言葉もない。
「One of the possibilities (可能性としては)」
公共事業の形を変えることだ、とジェイクさんは言う。防波効果のないテトラポッドをやめ、自然の形を残した護岸工事と、街の景観を損なう電柱電線を道路下に埋設する工事を彼は提案した。
私は以前に親しかったイギリス人から全く同じアイデアを聞いたことがあった。確かにイギリスの町と海岸線は目に沁みるほど美しい。日本とイギリスでは地質条件や街作りの構造などが異なるが、地震頻発国でありながらスカイスクレイパーを建設する国で技術的に不可能ということはないだろう。
ジェイクさんは以前英会話を教えていたが、授業中に居眠りを始めた子どもがいて、日本の子ども達の多忙さを心からかわいそうに思ったという。小さい頃から勉強に追われ、競争の渦に放り込まれ、外で遊んだり本を読む時間もない。この背景には、日本社会がいまだにいい大学に入り大企業に就職すれば、安定した収入が得られ幸せな生活を送れるという神話に縛られているからであるが、これが事実だったのはおそらく高度経済成長期〜バブル期の一時期だけで、前者だけが不合理にかつ強固に現存している。大企業に勤めることは安定した収入をもたらしはするが、その勤務状態や人間関係、ストレスは幸せをもたらすだろうか。
「The myth will collapse in near future.(神話は近いうちに崩壊するよ。)」
私も強くそう思う。
ジェイクさんは再度インディアンとの生活に触れながら言った。
「I think people are by nature, generous, kind and can take care of other people. The city makes the people crazy. (人々は本来は、やさしくて寛容で気づかいができるものだと思う。都市生活は人間性を失わせるよ。) 」
それは間違いなく事実だろう。多くの都市生活者が今の生活からの脱却を願っていても、ジェイクさんのような180度回転するような変化を成し遂げる人は少ない。当時、彼をそこまで駆り立てた理由は何だったのだろう、と話を聞いていて思う。
自分の部屋に戻って、今の生活について考える。派遣労働者として働き、趣味はとても充実している。親愛なる人がお昼をご一緒してくれたり、釣りや映画に連れて行ってくれる。悪くない、と思う。
Ninachokipata kinanitosha.(今あるもので満足です。スワヒリ語)
1月4日
朝起きると窓の外は雪で、昨日見えていたアスファルトや、屋根は全て静かに雪化粧していた。昨夜から今朝にかけてずっと降り続いていたらしい。私はジェイクさんに挨拶をして残りの旅の無事をお互いに祈り、8時ごろ宿を出て、吹雪の中自転車を押して歩き始めた。
三坂峠に向かって緩やかな登りが始まり、足はびしょぬれで凍るように冷たいが、ザックを背負った背中には汗が噴出してくる。昨夜の会話がいまだ尾を引き、頭の中によみがえる。
現在の日本家屋には暖房壁がないため、エネルギーを無駄にしているとジェイクさんは指摘したが、その問題には、戦後起こった都市部への人口密集という問題が絡む。第二次世界大戦後日本は焼け野原となったが、朝鮮戦争をきっかけとする高度経済成長により急激な都市部への人口密集化が起こった。マイホームを夢見る人々の心理や核家族化と相まって、需要が供給を遥かに上回った状態は、土地の高騰化、かつ家屋の高層化と脆弱化を引き起こした。そして日本の都市部は、外国人の目から見ると、insulation(断熱壁)もなく、fragile(もろい、壊れ易い)なありの巣家屋の集積地帯となってしまった。日本は数十年後に人口が7000万人にまで減少する。そのとき、ありの巣家屋はさらに穴だらけになっているだろう。
しかし、と私は吹雪の中、一瞬目を閉じた。過去の歴史的経緯の考察や未来予測はある程度できても、それを現在のどういう行動に繋げればいいのかそれがよくわからない。
ようやく標高710メートルの最高地点を越えて、道は下り坂になった。しかし雪積もる道路上は、恐くて自転車に乗ることはできない。
さらに考えることが続く。
ジェイクさんが提案したテトラポッドと電柱の工事は、恐らく実現可能だろう。現行の技術よりお金がかかるならば、その分長期的に多くの人を雇用することができるのではないか。
それにしてもジェイクさんと私のイギリスの友人の意見が全く合致したのには驚いた。三つ子の魂百までで、イギリスで生まれ育った人にはイギリス人の感覚が備わるように、私にも日本人の感覚が備わっているだろう。人はその「感覚」から完全に離脱した客観性を持って物事を見ることは絶対にできない。
400メートル地点を過ぎて、ようやく道路から雪が消えていった。私は水溜りがアイスバーンになっていないかを丹念に確かめた後、おそるおそる自転車に乗った。しばらく三坂峠を下ると、左側に浄瑠璃寺への近道があり、私はかんきつ類畑の中を縫うその小道をさらに降りて行った。
薬師如来、別名浄瑠璃光如来がご本尊であるこの札所に着いて、私は心から安堵のため息をついた。何故か境内は小石ではなく、海岸のような白砂が敷き詰めてあり、背丈以上のソテツが植えられた庭は、遠い南方の国に来たような気持ちになった。
とは言っても気温はかなり低く、般若心経を呟く口から出る息は白い。寒さに震えながら納経所の戸を開けると、お坊さんと、地元の人だろうか、一緒に話し込んでいたおばさんの2人が私に視線を向けた。
「こんにちわ。寒いですね。」
私はそう言いながら暖房で曇ったメガネを取った。
「ええ、本当。今日はまた一段と冷えたんですよ。どちらから?」
「久万高原です。朝はふぶいていて大変でした。」
ザックを降ろした私の背中を見て、
「あらまあ、あなた背中!」
とおばさんは叫んだ。
「これ、汗で濡れているのかしら。こんなんじゃ風邪ひくわよ。タオルでも入れたらいいわ。」
私の背中は三坂峠ののぼりでいつの間にかレインウェアにも汗が滲んでいたらしい。世話好きのおばさんは、住職に
「タオルないかしら?」
とたずね、私は引き出しから取り出されたタオルを背中にあてがってもらった。
「すみません。本当にありがとうございます、、。」
背中にタオルの温かみを感じる。目の前で住職の持つ筆が滑らかに動いて納経してくださる。
自転車に乗ってしばらくすると、灰色の雲の間から小雪が舞い降りてきた。ハンドルを持つ手の指先が凍えるかと思うほど寒い。帽子を深く被っていても耳たぶが寒さで痛みを感じる。凍てつくような寒さの中、本堂の地下に数千体の仏像が祀られている八坂寺、福授地蔵のある西林寺をお参り。だだくさであることをわびながら(だだくさとは美濃弁で面倒くさがりや、いいかげん。父は名古屋の出身で、この言葉をよく使っていた。私は高校生になるまで、だだくさは一般語だと思っていた。)手袋をつけたまま手を合わせて目を閉じる。
松山の中心部に近づくにつれて田んぼや畑は少なくなり、3階建て以上の家屋がだんだんと増えて行く。伊予鉄道横河原線の遮断機を越え、そのすぐ先に49番浄土寺はあった。
ここの納経所の若きお坊さんはとても気さくな方で、私が
「書くの速いですね。」
と驚いた筆運びについて、笑顔で語り始めた。
「毎日書くものなんで、だんだん慣れて行きます。でも自分で意識しているつもりはないんですが、筆跡って変わって行くんですよ。檀家さんの家にお経を読みに行きますと、掛け軸の納経の筆跡から誰が書いたか、例えば先代の住職とか、がわかるんです。」
彼は、長年お世話になっている年配の檀家さんからは昔の松山の興味深いお話を聞くこともあります、と言った。
食料が豊かではなかった時代、浄土寺の裏山でよくイノシシやウサギを取った。戦時中は、松山の中心部も多くの建物が崩壊し、広島に原爆が落とされたときには海を挟んでそのキノコ雲が見えた。
「今年の震災の時には、多くのお寺自体が流されてしまい、檀家の方たちがどこに住むかもわからなくなってしまったので、被害を受けなかったお寺が檀家さんたちを多く受けれたそうです。こちらは西日本で距離が離れているのでほとんど何もできなかったのが申し訳ないのですが、応援で住職さんが出張にいったり、お金を送ったりしました。」
お寺のそういうネットワークが機能していたことを初めて知った。3月11日から既に9ヶ月近く、復興という状態にはまだ程遠く問題が山積している被災地が頭に浮かび、胸が痛む。
自転車に乗り、閑静な住宅街の中に佇む繁多寺をたずねた。山門の脇の貯水池には、シベリアから渡ってきた多くのカモがいて、ふと皇居の外堀を思い出す。
その後、街中を進んで今回の旅の最終札所、51番石手寺に到着した。道路を挟んだ角のファミリーマートの駐車場にはオレンジの実をつけた木が並び、
「お遍路さんへ、ご自由にお取りください。」と書かれた紙が控えめに掲げてある。そういえば初日の七子峠を越えたところにあったファミリーマートでも店員さんがお茶のペットボトルを下さった。
お遍路さんにやさしいファミマ。
私はそこからありがたく2つをとってザックにつめ、石手寺の仲見世通りを歩き始めた。
昔、浮穴郡荏原郷に衛門三郎という長者が住んでいた。ある日彼はぼろを纏った托鉢僧に何の施しも与えず乱暴に追い返してしまう。その後衛門家を襲った不幸によりその僧が弘法大師であったことに気付いた彼は、家や田畑を売り払って大師に会うために巡礼の旅に出た。ようやく焼山寺の杖杉庵で巡り合った時には三郎は息絶えてしまい、その時弘法大師は「衛門三郎」と書かれた石を彼の手に握らせた。そしてある時、手に石を握ったままの赤ちゃんが生まれ、安養寺にお参りに行くと、開かれた手の中の石には衛門三郎と書かれていた。以来、石手寺と称されるようなったこの札所は、現在も多くの人々の信仰を集めている。
今回の旅はここが最後の札所だと思いながら読経し、そのあとマントラ洞窟を見に行った。
真言密教には金剛界、胎蔵界という2つの考え方があり、その両者を会得できるというこの洞窟内は限りなく薄暗くて、何千対もの石仏が並んでいた。仏像であることはわかってもその表情ははっきりとは見えない。笑っているのか、怒っているのか、、、。最近私、いい行いしているだろうか。見えない表情を目の前に、色んな思いが自分の胸にわきあがって来る。
暗闇に目が慣れてから外に出ると、日のまぶしさで全てのものの輪郭が消失する気がした。しかしそれもつかの間で、やがて輪郭は戻り私の目には参拝客やお堂の柱などが飛び込んできた。
暗闇も光も、ともに物の形を失わせる。そしてそこに働くのは雑念から解き放たれた想像力ではないか、と思う。
その後足をのばした宝物殿の庭には、南方系の樹木が多く植えられ淡い紅色をした石版がいくつも建てられていた。何かと思ってよく見ると、それにはインド仏教寺院にあるような絵柄でブッダの生涯が刻まれているものだった。手塚治虫のストーリーを思い出しながら石版を眺めて一周し、そのあと護摩堂を参拝して、石手寺の山門に戻った。
時刻は2時30分。私は車道から少しそれた傍らで、最後のラーメンを作ることにした。お麩とわかめも全て入れて数分間煮込む。それを食べて少し体が温まった後、私は石手川に沿って走り始めた。後数キロで松山市駅近くのヤマトの営業所に着く。やっと終り、もう終り、そう思いながら走っていると、路傍にあったみかんの無人販売所に気付かずに通り過ぎてしまった。まだもう一軒ぐらいあるだろう、そう思ったがその先にはなく、私は街中に吸い込まれて行った。
ヤマトの配達所で、私は自転車の輪行を終え、晴れてザック1つの身になった。まだ時間があったので道後温泉に入りに行く。坊ちゃん、坂の上の雲、読みたい、読まなきゃ、そう思いながら私は指先でお湯の表面をなでた。
日が落ちた松山の街は、温泉に入った後でも身が引き締まるほど寒かった。唐饅頭なるものをお土産に買い、市電に乗って松山市駅へ。高速バスの発車時刻までの約1時間半を、私はデパートや商店街のアーケードなどを歩き、たくさんのかんきつ類が売られていることに四国らしさを感じながら過ごした。
そして時刻どおりバスに乗り込み、椅子に倒れこむと一気に眠りが襲ってきた。驚いたことにこのバスには外国人の小さな子供連れ家族が乗っていた。
小さい子がいてもバス旅行できるのか、、そう思ったのもつかの間、私は眠りにおちて行った。