虎の名のつく人


藤堂高虎、安土桃山ー江戸初期にかけて、豊臣秀長、徳川家康に仕えた 近江出身の名武将である。来年2010年が寅年であることにちなんで、 2009年9月25日、高虎の歴史小説「虎の城」を読み始めた。




一、安土城

1573年、高虎十八歳の時、近江国浅井長政の小谷城は、織田軍の攻撃により 今まさに陥落しようとしていた。近江国に生まれ育ち、父親の代から陣馬借り をして一介の侍として浅野家に仕えてきた高虎は、本丸が焼け落ち城主、姫君とも 命尽きていくのを目の当たりにする。
「敗北は死につながる。この下克上の世の中、生き延びるためには時代の波を 切り開いていく主君を見定めなければならない。」
その強烈な想いは、若き高虎の胸に返り血と伴に深く刻まれつつあった。

馬付である大木長右衛門とともに流浪の民となった高虎を 八十石で召し抱えたのは、信長から高島郡の領地を任された 磯野員昌、そしてその養子となった信長の甥、信澄であった。 高虎はここで信長の命に従い、 越前の一向宗門徒攻め、丹波の赤井悪右衛門率いる土豪攻めに加わる。強靱無敵 な織田軍の前に両者の城とも陥落し、畿内での信長の権力はさらに確固たるものに なった。高虎は、戦の功績により母衣衆十騎の一人に取り立てられたが、俸禄は そのままだという。そのことに異を唱えると、気性の激しい信澄は 激怒し、高虎を家臣から解任してしまう。再度流浪の民となった高虎は、 信長が琵琶湖南岸の安土山に巨城を築く計画があると 聞く。その城の総普請は、織田家家臣の丹羽長秀、石垣普請は、 羽柴秀吉の弟の秀長であるという。

兄秀吉の裏方として、築城、兵糧確保、軍資金集めなどの仕事を一手に引き受けて いた秀長のことを、人々は算盤侍と呼んだ。その秀長が、高虎を三百石という破格の 禄高で召し抱えたいと言う。高虎は秀長に仕えることを 決心し、秀吉の居城である長浜城下に屋敷を与えられる。 安土城の築城現場を見に行った 高虎は、その城の壮大さに圧倒された。大工頭は、熱田神宮の岡部又右衛門。 京、奈良、堺、近江の宮大工を呼び、石垣作りは近江八幡の馬淵衆、 坂本の穴太衆が請け負っている。 安土城は、五重七階の天守閣を持つ当時としては比するもののない巨城であった。

高虎に最初に与えられた仕事は、石垣作りの現場を宰領することであった。 この時高虎は二十一歳。馬淵、穴太の石工達は、若き新参者の高虎を最初認めよう としなかったが、現場で汗を流して仕事をする高虎の態度に 彼らの考えも軟化していく。こうして、高虎は、築城に関する知識、 人を指揮して仕事を遂行する術を身を持って学ぶことになる。 安土城は1576年に完成し、その城下町も豊かに形成されていった。

長浜城下にて高虎は、同国近江の生まれで四才年下、秀吉の近習である石田三成に 出会っている。後年、人並み外れた財務能力、管理能力で才覚を現し、 秀吉の筆頭家老として仕えるようになる三成は、前線に立って闘い 武功で身を立てていく高虎の生涯の宿敵となる。


友人と一緒に、2009年秋に公開された火天の城を見に行った。 火天の城
安土城普請を総棟梁である岡部又右衛門の目から描いた映画である。 美濃から京、大坂へ通じる交通の要衝であり琵琶湖を背景に持つ 安土の地に信長が築城を命じた五重七階の天守を持つ安土城。 映画の中では、その幻の城の姿が詳細な時代考証とCGによって 見事に再現されていた。木曽檜で作られた高さ十六間(約29m)、 二尺五寸(約75cm)角の親柱を綱で引っ張り礎石の上に立てる様子、 墨入れで材木に線を引き、大鋸でその材を切り、釘を使わずに柱と梁を 合わせる木組み工法、天守の最上部に当たる朱色の八角堂を持つ望楼、 そして狩野永徳が描いたと言われる花鳥風月の襖絵。

信長は、狩野永徳に安土城を描かせた金屏風を当時来日していたイエズス会の司祭、 アレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈り、それは後にローマ教皇庁に保管されたと 言われている。幻の城となった安土城の姿絵は、今もバチカンのどこかに眠っている かも知れないが、今だ発見されていない。



二、大屋郷


この時の織田勢にとって懸念すべき勢力は、大阪の石山本願寺、 越後の上杉氏、中国の毛利氏であった。信長から中国攻めを命じられた秀吉は、 まずその前哨戦として但馬の地を 奪い取る。そこは、古来から有名な朝来の生野銀山、 大屋郷の赤延銅山がある地であった。 秀長は軍資金を生み出すために、地震で廃坑同然になっている赤延銅山の 再興を高虎に命じた。

高虎は大屋郷に移り、そこの有力地主である栃尾源左衛門を頼って 生野銀山から鉱山師を呼んで見込みある鉱脈を探した。そして昔からの 狸堀りに変わって、主坑を掘ってそこから横穴を掘り進めるという近代的方法を 用いた。但馬の土侍である居合孫作、地元の人夫らの協力もあり、数年後には見事 明延から製錬した赤銅を得ることができるようになる。

しかし、これらの高虎の成功を憎んだ男がいた。氷ノ山北部、小谷の地にて秀長に 強い抵抗を続けている地侍、富安丹後であり、彼率いる一揆勢が明延銅山を 狙っているという。高虎と居合孫作は地図を開いた。彼らはどう攻めてくるか。 小谷から明延へは、天滝越え、加保坂、琴引越の三つがあるが、奇襲をかけるならば 天滝越えを選ぶであろう、そう考えた二人は天滝に兵を配した。 予想通り、天滝越えをしてきた一揆衆と、高虎率いる兵は真夜中に対面。突然の 襲撃に乱れた一揆衆を高虎は一気に攻め込み、日をおいて富安丹後が逃げ延びた 横行という集落を始め、小谷一揆衆を壊滅させたのだった。



闘いの舞台となった天滝は、氷ノ山の麓。


一方秀吉は、姫路城を拠点に播磨の三木城攻めに取り掛かっていた。 難攻不落と言われた三木城も、長期にわたる兵糧攻めが兵士の士気を落とし さらに但馬からの秀長の援軍の力も加わり、ついに陥落。 秀吉は、播磨、但馬合わせて六十四万石の土地を平定する。 秀長は但馬十三万石の国主となり、高虎は戦の恩賞として大屋郷三千石を拝領、 但馬国と故郷の近江藤堂村から家臣を募り、騎馬侍、徒士侍、鉄砲足軽、数弓、手替、 槍持、鎧持と六十人の陣容を整えるに至った。そして、二十五才の高虎は 栃尾源左衛門を仲人として但馬で生まれ育った一色家の久姫と結婚した。


ここで石高について考えてみたい。 三千石とは、どのぐらいの米の量なのだろうか。一石は180Lであり、 十斗(一斗=18L)、百升(一升=1.8L)、千合(一合=180ml)に当たる。 一人一日米を三合食すなら、一人年間1095合必要で、 三千石は2740人を養える量である。 当時は、まず村の庄屋で年貢米を治め、余剰分は通貨に換えて 魚、野菜、農業の道具などを手に入れるために使われた。また、年によって不作、 豊作に大きな差があり、秀吉が太閤検地を行う前には、それぞれの郷、国の石高は さほど正確ではなかった。 という不確定な推測ながら、三千石の領主になった高虎に六十人の陣容がついた、 という当時の基準に思いを馳せてみる。


11月の三連休に、私は兵庫県の養父市と京都の二条城を訪れた。 高虎が復興を手がけた明延銅山、富安丹後率いる一揆衆との闘いの 舞台となった天滝と、若き日の高虎の軌跡を 思う旅である。

明延銅山の歴史は古く、東大寺の大仏の鋳造にも明延の銅が使われたと 古文書にはある。私が訪れた時、坑道のガイドをしてくださった明延出身の 中尾さんは昭和六十二年明延が閉山するまで坑夫として働いていた。 彼の案内の元、探検坑道の中に入り江戸時代以前の狸堀りの跡、昭和に入り 近代的機械を用いて掘削した跡、またその時代に使われた機器、運搬車を 見て回る。



センターにある模型。全盛期には深さ300メートルまで掘った。 最深部では地熱により、真冬でも 汗をかかずにはいられない温度だったという。


坑道の一部は地下の一定した温度を利用した酒蔵や醤油蔵になっており、 名酒「播州一献」はここに貯蔵して熟成させるという。 明延銅山からは明治になり錫鉱が発見され、その生産量は日本一を 誇ったが、円高によって国際競争に敗れ、昭和六十二年あえなく閉山。中尾さんの 仲間もそれと同時に別の就職口を探して全国に散り散りになっていった。 夕張や美唄など炭坑や銅山の歴史には、胸が締め付けられる寂しさが 残る。私は近代の坑夫と、高虎の時代の坑夫の働く様子を頭の中で思い描いた。

次いで天滝に足を運んだ。氷ノ山に源を発し、兵庫県随一、 日本百名瀑の一つでもある天滝は、明延銅山のある 大屋郷から北西の位置に当たる。きれいに整備された駐車場から、糸滝、夫婦滝、 鼓ヶ滝など七つの滝を見ながら登っていくと、最後天滝にたどり着いた。



落差98メートルの天滝。なかなか圧巻。

ここが、高虎と富安丹後の一揆衆が闘った場所だ。 暗闇の中、薮をかき分けて進む徒士侍。足軽鉄砲隊の発砲。戦が始まり、男達の 怒声に混ざって刀や槍が重なり合う音、逃げ始める兵士達の叫び声。それらの 想像は、ゆっくりと目をつむると、連なる滝の音にかき消されていった。

但馬探訪中、私は但馬長寿の郷に一泊お世話になった。県立の老人介護施設であるが 一般客も手頃な値段で宿泊できる。奇しくも、ここのフロントで私は藤堂高虎に ゆかりのある人に出会った。
私が書いた宿泊者名簿を見て、
「お客さん、東京からわざわざ但馬へ来なさったんか。」
「ええ。藤堂高虎に興味があって、そのゆかりである大屋郷を訪ねに。」
との返事に、フロントのおじさんは目を開いて
「栃尾源左衛門って知ってます? 私その子孫ですねん。二十六代目。」
「えっ。」
私は思わず驚きの声を上げた。
栃尾源左衛門、高虎が大屋郷に移った時にまず頼りにした地元の有力侍である。 目の前の栃尾さんの話によると、栃尾家初代は室町時代に大内家に仕えていた 侍であり、応仁の乱に大内・細名の連合軍が細川に負けた後、大屋郷に移ってきたのが 始まり。高虎と関わりがあった四代目源左衛門は、明延銅山の再興を経済的に 支援し、高虎と一色家の久姫との結婚の仲介役を務めた。又、豊臣家に 恭順を示さない土豪衆らとの闘いに栃尾家の侍も多く参戦した。 さらに、高虎について諸国を闘ってまわった但馬出身の侍の子孫には、後高虎が 領主となった伊賀上野、伊勢津にて成功を治めた人々が多いという。 加保にある栃尾さんの家は、
「三百~四百年経ってぼろぼろなんで最近改修しまして。」
とのことだが、今も高虎が大屋郷にいた時代の記録や、栃尾家の 家系図が残っている。
実際に高虎と話した栃尾源左衛門の血が、目の前の 栃尾さんには流れている。私は終始、胸震わせながら栃尾さんの話に 聞き入っていた。


但馬国、播磨国平定後、次に秀吉が考えたのは、氷ノ山の西側、 因幡国の鳥取城攻略であった。城の周りに 包囲網を張り、籠城戦に持ち込むことを考えた秀長は、因幡国の米を買い占める ように高虎に命令する。籠城になれば、戦の勝敗は兵糧が確保できるかにかかって いる。高虎は早速近江の商人、組屋源四郎に生野銀山、明延銅山の 資金を使って秘密裏に米の買い付けをするよう依頼した。 当時の日本では、奥州出羽が飢饉に 襲われると、畿内から大量の米が廻船問屋の手によってその地方に売りに出された。 組屋はこの時もそのように振る舞い、新米が出回り米値が下がった頃を見計らって 買い付けに走ったのである。

翌年夏、姫路城の秀吉と但馬の秀長が合流して兵を進め、鳥取城を包囲。その時には 鳥取城の倉米は長期の籠城に耐えるだけの量はなかった。数ヶ月の後、城内では 餓死者も出る状態になり、城主吉川経家は降伏を申し出る。俗に、’鳥取の 渇え殺し’と呼ばれる闘いであった。



因幡国からの湊から米は次々と奥州に送られた。


秀吉が中国戦線を課せられていたのに対し、北陸攻略を任されていたのが 織田家の筆頭家老、柴田勝家であった。勝家が敵対するのは加賀の前田利家、 越中の佐々成政、そしてその背後には強大な越後の上杉家がいる。 その勝家の動向、功績を秀吉は常に焦燥感を持って見つめ、両者とも織田家の 家臣でありながら、時が経つに連れ二人は宿敵同士となっていく。

三、本能寺、大阪城、和歌山城


1582年、この時には信長の長年の宿敵であった越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄も 病死し、信長は日が昇る勢い、天下統一への道を驀進していた。
秀吉は、西国の前線基地である備中高松城を水攻めで落とすべく奮戦していたが 予想外に時間がかかっていた。西からは毛利輝元自らが総大将になって 援軍を進めつつあり、対する信長は精鋭の武将である明智光秀らに秀吉の 援軍に向かうよう命を下す。しかし光秀はその命に従わず、軍を取って返し 主君信長のいる本能寺を攻撃。燃えさかる炎の中で予想だにしなかった部下の 裏切りにより、信長は命尽きる。享年四十八才。信長の居城であった安土城は、 本能寺の変後の混乱の中で、土民の襲撃を受け炎上消失したと言われている。

その急報を陣中で受けた秀吉は、一か八かの賭けに出た。それは、 信長の死が知れ渡る前に毛利方と和平条約を結び、自分は京へ引き返し、 逆臣光秀を討つというものであった。毛利側の外交僧、安国寺恵瓊と黒田官兵衛に よる和平交渉は成功し、秀吉軍は高松城から撤退を始める。
そして 光秀の謀反から十日経った1582年6月13日、明智軍と秀吉軍は京都 山崎の地において淀川をはさんで全面対決し、秀吉は光秀の命を奪った。
さらに秀吉は1583年に長年のライバルであった柴田勝家を賤ヶ岳の 闘いで破り、信長の後継者としての地位を確立、天下統一への道を 歩み始めた。その象徴が、商業、交易の要所であった大阪の地に 築城を開始した巨城であった。

大阪城は、本丸に位置する五層八重の天守閣に、二の丸、三の丸、西ノ丸、山里 曲輪を持つ天下無双の巨城であった。城下には、武家屋敷、商人や職人の住む 町家を建て、城の北、西、東は水濠で守り台地続きの南方は敵の 襲撃に備えて空堀。埋み門、多聞櫓、井戸曲輪などの巧みな配置に、高虎は 城の縄張りを行った黒田官兵衛の天才ぶりを見る想いがした。自分も 城を造りたい、それも落ちぬ城を。大阪城の普請を見ながら、高虎は 強く心にそう思った。

同時期に、秀吉は和泉紀伊の雑賀衆を負かし、又秀長を総大将として 徳島の一ノ宮城、白地城を次々と落とし 勇将、長宗我部元親を降伏させた。秀長は、紀州二国を与えられ、この地を 治めるために紀ノ川の河口、岡山(現、和歌山市)に城を建てることを決めた。 この城の総普請の仕事を仕ったのが、高虎である。彼は、紀ノ川岸に聳える 吹上の峯に地取し、石垣普請には近江の穴太衆、作事には粉河大工衆を用い 和歌山城築城のために精魂込めて働き始めた。その城が完成したのは 1586年。大和郡山城主になった秀長に代わって、家老の桑山重晴が和歌山城主と なった。高虎は紀ノ川を数里遡った粉河五千四百石を拝領し、その地に城を築き、 大屋郷から父白雲斉と妻のお久を呼び寄せた。そして雑賀衆との 闘いで焦土と化した粉河の町の復興を手がけるとともに 秀長が大和郡山の地において行い始めた検地、刀狩りの仕事も補佐することになった。



大和国の北に郡山城、和歌山城は紀ノ川の河口に位置し、 上流に遡ると粉河城がある。



四国平定を成した秀吉は、朝廷より関白の位を賜り、姓も羽柴から豊臣に 改めた。一介の農民が関白の位まで登りつめた、秀吉歓喜の瞬間である。 しかし、そのその秀吉にも杞憂する存在があった。本能寺の変後に、甲斐と 信濃を平定し、三河、遠江、駿河と合わせて五カ国の太守となった徳川家康 である。彼は表面上は秀吉と平和条約を結びながらも、 東国での動きは不穏でならない。秀吉は、実の妹、あさ日を夫である尾張の佐治 日向守嘉助からわざわざ離縁させて正妻のいない家康へと嫁がせ、 さらに七十四才の母、大政所をあさ日の見舞いにと駿河に向かわせて、 再三家康に大阪城への上洛を請うた。 この頃から、秀吉の頭の中には天下支配への欲望が渦巻き、そのためには 家族を犠牲にすることも厭わなくなる。

1586年秋、家康はついに大阪城へと出向き、千畳敷の間で秀吉への忠誠を誓う 拝謁の儀を行った。この後家康は、秀吉が秀長に命じて作らせた、京都 聚楽亭の南、二条堀川に作られた屋敷(現、二条城)へ引き戻った。 この屋敷は、高虎が総普請を行っている。 壮麗かつ堅牢な屋敷の造りに家康はいたく感動し、 高虎を呼び寄せ礼を述べるとともに一献を交えている。これは高虎に とって、後年仕えることになる家康との初めて膝をつき合わせての 出合いであった。


11月三連休、小春日和の日に、二条城を訪れた。説明によると、徳川家康の命による 二条城の創建年代は1603年。その後、家光の時代には二の丸、本丸の増改築が 行われ、1750年には雷で五層の天守が炎上、1867年徳川幕府の最後を告げる 大政奉還が二条城大広間で行われ、その後は内閣府、陸軍省、宮内省と 所轄が代わり、1939年に京都市に下賜され、1994年にはユネスコの世界遺産に登録と 様々な経緯を経て二条城は今に至る。この日は、朝9時30分からの庭園巡りに参加。 小堀遠州の作と言われる 二の丸庭園、そして本丸庭園、清流園をガイドさんの説明を聞きながら回る。
「創建時からの古木は残っていますか?」
と訪ねると、残念ながら今ある 庭木はほとんどが宮内庁所管の時代に植えられた木とのこと。



二条城唐門の上部。江戸時代は葵の紋だったが、宮内庁所管の時に 菊の紋に変わったとのこと。


今の二条城の姿と、家康が拝謁の儀の後に高虎を呼んだ 二条屋敷では大きく様子が異なるだろう。二人が酒を酌み交わしたのは どの変だったのだろうか、そう思いながら私は城郭内を歩いた。



西国のさらに西、関門海峡を越えた九州。 1578年、秀吉は薩摩の島津攻略のため、総勢十五万の兵を西進させた。 関門海峡を越えた小倉の地で、豊臣軍は豊後、日向と東海岸を南下する 十二万の秀長軍、西海岸を南進する三万の秀吉軍に分かれ、二手から薩摩に 向かって兵を進めた。日向国に入った秀長軍は、宮部継潤が根白坂砦を 占拠。しかし島津義弘に夜襲をかけられ砦は陥落寸前になる。この時、急遽 宮部勢を助けに向かったのが、たった五百の兵を率いた高虎の陣容であった。 対する島津軍は一万五千。この圧倒的な兵数差を高虎は鉄砲足軽隊に よって巧みに攻め、また小早川隆景、黒田官兵衛の援軍の攻撃により 島津勢を撃退させる。勢いに乗った秀吉、秀長軍は薩摩まで兵を押し進め 島津義久を降伏させた。

この九州攻めの功績により高虎は一万石を加増され、旧領と合わせて 二万石の領主となり、それに見合った三百人の陣容を整えるようになった。 この時高虎は新しく家臣を選ぶ基準として、
一、苦労人であること
一、ただし心がねじ曲がっていないこと
一、腹が据わっていること
の三つを重視し、そして人の上に立つ自分には、
一、上に立つものとして自分の言動に責任を持つべし
一、家臣を差別することなく、評価は正当に下すべし
一、家臣の悩みや困り事に常に心を配るべし
の三箇条を課した。

四、文禄慶長の役、宇和島城


秀吉が秀長に無理な命を言い渡した。秀長の養子である丹羽長秀の三男、仙丸を 廃嫡し、自分の甥である辰千代を跡取りにせよ、と言うのである。仙丸は丹羽家と 羽柴家の結びつきを強めるために養子となった経緯があったが、丹羽亡き今 仙丸の政治的価値はなくなった。小さき頃から仙丸を可愛がり、郡山豊臣家の 世継ぎにと考えていた秀長は、秀吉の人を人とも思わない考えに怒した。
その意を伝えるために大阪城に使いとして走った高虎は、当時既に 豊臣家のまつりごとに強大な発言力を持っていた、筆頭奉行、石田三成に言われる。 今や、多くの大名と何十万の軍勢をかかえる豊臣家では、主君秀吉の命が絶対で ある。それは弟の秀長さまであろうと例外は許されない、と。

三成が目指していたのは、秀吉を頂点とする中央集権体勢である。 それに対し、秀長、千利休、家康らは、各地の大名達に地方分権を与え、その上に 中央政府が存在するべきだと考えていた。 この二派の対立は、後年ますます激しくなってゆく。

高虎は、三成の高慢な態度と理論に激しい怒りを覚えたがそれを堪えて大和郡山 へ帰城。そして、郡山豊臣家のためには秀吉の命通り、辰千代を跡継ぎとすべきこと を秀長に進言、そして仙丸を今だお久との間に子がない自分の養子として迎える ことを申し出たのだった。辰千代、仙丸は元服後それぞれ秀保、高吉と 名乗るようになる。

1588年、秀吉の愛妾淀殿が男児鶴松を出産し、初めての嫡男誕生に秀吉は狂喜 した。しかしそれと同時に、弟の秀長は長年戦国の世を生き抜いてきた疲れからか 病に犯されつつあった。その二年後、秀吉は小田原の北条攻めのために 諸将に出陣命令を下す。この時今だ病の身にあった秀長は大阪城の留守居役 と荷船による兵糧奉行を任じられ、高虎は、先鋒隊として東海道を進軍 しながらも主君の病状を案じずにはいられなかった。
武田信玄も上杉謙信も落とせなかった難攻不落の小田原城。しかしこの時は、 秀吉側について参戦した伊達政宗の北方からの攻撃、又長期にわたる籠城に 士気が衰え、城主北条氏直は降伏を決意した。ここに秀吉の天下統一は 果たされることになる。

しかしそれを祝う間もなく、 年開けて1589年秀長の病気は悪化の一途をたどった。高虎ら家臣達は 大和国中の社寺に加持祈祷を行わせたがその効果は一向に現れない。 秀長は、跡継ぎである秀保を正式に郡山豊臣家の城主となし、 その二週間後、五十二才で息を引き取った。 兄、秀吉の裏方として豊臣家興盛のために身を粉にして 働いてきた秀長の急逝であった。

今まで秀長は、地方の大名からの不平不満を聞き、それを秀吉に伝える 仲介役として働いていた。しかしその 秀長の死によってその均衡が崩れ、石田三成らを中心とする中央集権体勢派と 家康らを中心とする地方自治推進派の対立は決定的となる。 1591年、地方自治推進派であり茶の湯の世界を通して重きをなしていた 千利休が、大徳寺金毛閣に自身の木像を掲げたことを理由に秀吉に切腹を命じられた。 二派の対立が深刻化する中で、秀保を新主君とする郡山豊臣家の家老の 一人として、高虎は重圧を感じていた。

秀吉の愛児鶴松、わずか三才にて病死。 悲観に明け暮れた五十五才の秀吉は、今後実子が できる可能性はなきに等しいと思い、甥の秀次に関白の位職を譲り豊臣家の正当な 後継者とした。

しかし、これで秀吉の征服欲が失われた訳ではなかった。 それは、海を越えて明国に向けられた。 1592年、秀吉は小西行長の軍を先鋒隊とする総勢十五万の日本水軍を編成し、 朝鮮出兵の命を下した。日本軍は、半島南端の釜山城を鉄砲隊の攻撃により 落とし陸路北上、漢城、平壌とも手中に収めたが、朝鮮水軍の猛将、 李舜臣の前に制海権を奪取され舟奉行を務めていた高虎は、兵糧の輸送が 困難になった。そして翌1593年、日本軍は明国と講和を結ぶという形で 朝鮮半島から撤退する形となる。

この曖昧な終結を迎えた戦に関して、多大な被害を出した大名らは不満を持った。 しかし秀吉の明国出兵への興味は、ある慶事によって霧のように消失していた。 それは、側室淀殿が再び身ごもった嫡男、拾の誕生である。

この時秀吉は、京に伏見城の築城を始めていた。元々は隠居後の居城であったが、 拾の誕生により政権意欲を取り戻した秀吉は、伏見城を大阪城に優るとも劣らぬ 絢爛豪華な城として作り始めた。 秀吉は、既に関白職を甥の秀次に譲っていたものの、自分が一から 築き上げた豊臣家は実子である拾に継がせたいと考えた。そのための 画策が筆頭奉行三成の手を介して、関白秀次、その弟である郡山城主、 秀保にも及んでくる。

三成が高虎の元へ会合を開きたい旨の書状を送ってきた。疑心の念に 駆られながらも、高虎は鷲峰山にある金胎寺を指定し、双方無刀の状態で会した。 この時三成は三十六才、高虎は四十才。三成が提してきたのは、 弟の秀保から兄の秀次に関白の職を 降りるよう諫言させる、高虎にその力添えをしてほしい、という懐柔策 であった。
「郡山豊臣家と、関白秀次様までを操ろうとしている、、。」
高虎は、三成に否の意を示した。そしてその日から高虎子飼いの忍びである 中津川の鬼らに、伏見石田邸の見張りと大和郡山城のさらなる警護を 命じた。

豊臣家世継ぎの噂は、京、大坂、大和郡山の城下で人々の噂に上る ようになった。悪しき噂の吹聴により気鬱の病になりつつあった秀保 に、高虎は十津川温泉での湯治を進めた。高虎を筆頭に二百人の護衛、 さらに家臣の 服部作助を介して伊賀上野の忍びの者を道中に見張りとして使わして、 秀保の一行は大和から三日かかる十津川の地へ向かった。そして、その湯治 の間にことは起こった。ある夜警護の空きをついて、三成子飼いの 忍びであると言われる高野聖に、秀保は刺殺されたのである。 高虎は、主君が惨殺された事実に呆然とするしかなかった。

病死とされた秀保の葬儀が大和郡山城で行われ、跡継ぎのいなくなった 郡山豊臣家は秀吉の命によりお家取りつぶしの憂き目にあう。 高虎は主家と主君を守り抜くことができなかった後悔と自戒の念から 数週間高野山に籠もり、読経と芋掘りに励む生活を送った。 そんな高虎の元に秀吉からの使者が訪れ、山を下りて豊臣家に仕えよ。 伊予七万石の太守に命ずる、と言う。高虎は熟考した。主家を取りつぶした 秀吉と三成は憎い、しかし今はこの二人に仕えて虎視眈々と機が熟すのを 待つべきではないか、高虎は高野山を下りる決心をする。

同じ時、関白秀次は石田三成らの奉行衆に謀反の意ありとの 嫌疑をかけられ、高野山に逃げ落ちて自害。半月後、京の四条河原では、 秀次らの妻妾子女らの処刑が 行われ、さらに秀次の後見人であった将らは次々に切腹して命尽きた。 こうして秀吉は、世にも残虐な方法を用いて拾(元服後、秀頼)の 豊臣家跡継ぎとしての地位を確立させたのだった。

一方高虎は、瀬戸内海を渡り南予の大洲へと足を下ろした。これから高虎が支配 するのは、大洲を中心とする豊臣家の蔵入地六万石、宇和島を中心とする藤堂家領 七万石である。南予は、昔から土豪を中心とした一揆衆の勢力が強く治めるのが 難しい土地柄であった。高虎は、まず宇和島にあった西園寺氏所有の丸串城を総石垣、 総漆喰の近代的城郭へと改修し始め、税金を引き下げることで町を活性化させた。 一揆衆の反乱を抑えるために年貢の割合を三割に引き下げ、 不平分子の中核である西園寺家の旧臣を藤堂家の 家臣として取り立てた。さらに土地の総鎮守である阿蔵八幡宮に神領三十石を贈り 宗教勢力を慰撫した。この高虎の斬新な改革により、一揆は一度に収まった という。

1596年、明からの通史が日本に来国。諸国大名らもともに大阪城千畳敷 御殿にて彼らを迎える儀が行われた。 秀吉は以前通史を介して送った明国は日本に服属すると言う意の 講和条約を承諾した上での明史の来日と信じていた。しかし日本より 明が遙かに強大であることを踏まえていた通史らによって講和条約の内容は 大幅に差し換えられており、明史にとっては明に恭順を示した秀吉に 引見するための来日だったのである。そのことを知った秀吉は、明国との 交渉に関わっていた小西行長に対して激高し、勢い二度目の朝鮮出兵 の命を下すことになった。
高虎含め多くの大名が その戦の意義に疑問を抱いたが、誰も真っ向と向かって 秀吉に諫言できるものはいない。 老い行く秀吉が、権力の笠を振りかざして決断した愚行であった。

1597年6月、加藤嘉明、脇坂安治、藤堂高虎らの率いる水軍で 構成された豊臣軍は、再び韓国に渡った。半島南端に上陸した日本軍は、 防備を固めるために、順天、蔚山、泗川の地に倭城なる城郭を築いた。 島津義弘、小西行長、加藤清正らが指揮する日本軍はそこを拠点に 漢城を目指して北上したが、圧倒的兵数で南進してきた明朝鮮連合軍と ぶつかり合い戦況は一気に悪化してしまう。

そのさなか、大阪城では病状が急激に悪化した秀吉が、拾(元服後、秀頼)を 跡継ぎとする豊臣家の行く末を憂いていた。 秀吉は、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元を五大老、 石田三成、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以を五奉行として定め、 病床にて消え入るような声で秀頼のことをくれぐれも頼む、 と懇願したと言われている。 1598年8月太閤豊臣秀吉死去。享年六十四才。

同年10月、今だ朝鮮にて闘っていた諸将らにも秀吉の死が知らされ、 全軍は撤退を決定。ここに朝鮮の役は、日本の敗北で終わりを迎えた。 兵、舟ともに尊大な被害を被って日本に帰国した大名達は、出兵命令を 出した秀吉は死去しその後加増の沙汰も何も下さない 豊臣家に対して不満を抱いた。 高虎には、石田三成の動静、対する家康の動き、そしてわずか 六才の秀頼が跡継ぎとなった豊臣政権への疑問が去来していた。


五、関ヶ原、今治城、江戸城


家康は有力大名の意向を知るために彼らの元を訪れ密談を重ねた。さらに、 秀吉によって禁じられていたにも関わらず、伊達家、福島家などと 婚姻関係を結び、自分の見方を増やすことに勤めた。それに対し 三成も高野聖のものを使って、家康が秀頼の大阪入城に 付き添った時、前田利家の病状見舞いに大阪を訪れた時の二度にわたって 暗殺を企てた。しかし、二度とも高虎の一歩先を行く護衛に妨げられ家康は 落命していない。豊臣家家臣団の中で、徳川家康、藤堂高虎、加藤清正らを 中心とする武功派、秀頼の後見役である石田三成、毛利輝元らを 中心とする官僚派の水面下での対立は、地方の大名らの思惑も複雑に 絡んだ形で徐々に熾烈化していった。

1599年、加賀百万石の初祖であり三成派と家康派の間に入ってその 均衡を保っていた前田利家が息を引き取った。彼の死により、武功派諸将の三成への 憎悪は噴出する形となり、加藤清正、福島正則ら七武将は利家の死去の夜即 行動に及んだ。京、前田邸から自邸へ引き上げる三成を襲撃したのである。 三成は辛うじてその襲撃をかわしたが、追い詰められ苦肉の策として 宿敵である伏見の家康の元へ助けを請うて逃げ込んだ。 律儀者で知られる家康は、三成の身柄受け渡しを求める七武将と 交渉し、彼の後始末は自分に一任してほしいと頼む。こうして、三成は 一命はとりとめたが、五奉行の職を解任、 居城の近江佐和山城にて蟄居を命じられることとなった。

これと同時に、天下のまつりごとにおける実権を握った家康は、大阪城の西ノ丸 に入城しそこを執政場所と定め、その偉容を示すために西ノ丸 の大改修を高虎に託した。五層八階の本丸に対し、同格の五層の天守を新たに持つ西ノ丸の 改築普請が高虎子飼いの穴太衆、馬淵衆、粉河大工、甲良大工、そして大和法隆寺 の棟梁、中井正清の手によって大々的に開始された。

この年の10月には、宇和島の治国を取り仕切っていた高虎の父、白雲斉が八十四才 で死去。西ノ丸改修のために働きづめで帰城できなかった高虎に変わって白雲斉の 最期を看取ったのは妻のお久であった。またこの年の暮れ、高虎は大阪でお松と 名乗る遊女を身請けし側室として大阪中ノ島の藤堂家屋敷に迎えた。 お松は元、但馬国、長越前守高連の娘で、鳥取城主、宮部潤継の側室でもあったが 潤継亡き後宮部家を追われ遊女として生活を送る憂き身にあった。 若き日の高虎は米の買い占めを通じて鳥取城の攻略に関わっている。 哀れなお松の身の上に、同情の心を感じずにはいられなかったのだろう。 お松は高虎の嫡男、高次を生むことになる。

近江佐和山で蟄居の身にある三成は何の動きも見せない。 ただ高虎の元には中津川の鬼より、 三成が上杉家の執政、直江兼続と密書を取り交わしているという情報が入った。

1600年5月、上杉軍は会津若松にて挙兵し家康に対して謀反を起こした。 大阪にいた家康は本拠地、江戸を守るために八十余将の軍を率いて東征すること になる。家康が京を離れることを待っていた三成は、即大阪城に入城し、 家康の罪状十三カ条を掲げて西国の大名達に挙兵を促した。 島津義弘、小早川秀秋、長宗我部盛親、小西行長らは、総勢 九万三千の兵を引き連れ大阪城に結集した。軍は京まで進み、留守居であった 鳥居元忠の必死の攻防を破り伏見城を陥落、さらに大垣城まで 駒を進めた。それを家康軍が聞いたのは、下野国小山。 会津若松に陣を敷く上杉軍との戦が今始まろうという時である。 家康始め諸将らは軍議を開き、急遽西上し三成との全面対決に 挑むことになった。尾張清洲城に入った東軍、大垣城に本部をおく西軍が 決戦することになったのは美濃と近江の国境にある関ヶ原の地である。

西軍三成は、平野の西端にある笹尾山に本陣、松尾山までの稜線の麓に 島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継の陣を敷き、 対する東軍家康は桃配山に本陣、その前衛として福島正則、藤堂高虎、京極高知の 陣を敷いた。両軍にらみ合うこと一昼夜、開けて9月15日、辰の刻(午前8時) 、福島正則隊の発砲によって関ヶ原の幕は切って落とされた。藤堂京極隊は 正面の大谷吉継隊と闘うことになる。鉄砲隊による攻撃、騎馬隊同士の ぶつかり合い、徒士侍は声を荒げて敵陣に駆け込んで行く。闘いは、終わり を知らない白兵戦になった。二刻(4時間)経ても変わらぬ戦況に両軍の 大将はいらだち始めた。その状況を打破したのが、松尾山山頂にて東西両軍の 闘いを見ていた小早川秀秋による大谷隊への襲撃である。小早川は西軍に 付きながらも家康に恩義があり、東軍に呼応したのである。不意を突かれた 攻撃に大谷隊は一気に崩れ、それを機に東軍は宇喜多隊、小西隊を次いで攻撃、 一気に三成の本陣笹尾山まで攻め上った。三成の隊は、大筒にて応戦 しつつも徐々に孤立無援になり、兵は敗走し始める。三成の側近として 英知、武勇にかけては右に出る者のいなかった島左近も激戦の末討ち死。 そして、開戦から 八時間経った申の刻(午後4時)、関ヶ原の戦いは東軍の勝利と なった。

家康はそのまま大阪城まで西上し、留守居を司っていた毛利輝元を説得し 大阪城を開城させる。また関ヶ原から敗走していた三成は 近江国古橋村にて捕らえられ 京の町にて晒し者にされた。高虎は変わり果てた姿の三成と対面。同じ近江の 生まれで、下克上の世の中を夢を抱いて生き抜いてきた二人は、今明確に 勝敗が分かれた状態にあった。10月1日、石田三成は安国寺恵瓊、小西行長とともに 京都六条の河原にて処刑された。


私は二年前に関ヶ原を探訪したことを思い出した。関ヶ原歴史民俗資料館 で案内図をもらった後、夏草や兵どもが夢の跡を口ずさみながら、 天下分け目の舞台となった今は田んぼ広がる 平野を歩き出す。三成が本営を構えた笹尾山から関ヶ原を見渡し、山を下って 南下しながら西軍の諸将である島津、小西、宇喜多、大谷隊が陣を構えた位置を 歩いて当時の戦況に思いを馳せる。しかし、東軍が陣を張った盆地の平坦部は 今ほとんどが住宅地となっておりこの時見ることできたのは井伊直政の陣跡 だけであった。
「三成が、決戦当時は小早川の好意を得られず、四百年経った今観光客の 人気を得てるって言うのは皮肉だね。」とは、同行した友人のコメントである。



関ヶ原の恩賞として、高虎は東予十二万石を加増され、南予の領地と合わせて 二十万石を治国していくことになった。そのためには、有能な家臣を増やさなければ ならない、そう考えていた高虎の頭に一人の男の名が浮かんだ。元大和郡山での 秀長の家臣であり、主家取りつぶしの後浪人の身となっていた渡部勘兵衛である。 近江の生まれで算用にも明るく築城の知識もあった彼を、高虎は二万石という破格の 禄高で召し抱えた。

高虎が勘兵衛に託した一番最初の大きな仕事は、東予を 治めるための今治城の縄張であった。今治は芸予諸島を見渡してその対岸には 安芸国を望む瀬戸内海の要衝である。高虎は勘兵衛に、この地に築く城には海水を 引き込んで三重の濠を作り、堅牢かつ海運にも目が行き渡る城にせよと 助言し、その総普請を彼にとらせた。 そして高虎自身は家康の命に従い、上方にことあった時に最前線となる 大津の地に膳所城を築城し、又関ヶ原の時に陥落した京都の伏見城の改修を手がけた。

1603年、家康は朝廷から征夷大将軍の職を命じられ、ここに徳川幕府が 誕生。家康は板倉勝重に命じて京の政庁となる二条城 の天下普請を行い始めた。この二条城には、高虎の婿養子と なった小堀作助(後、小堀遠州)が家光の時代に二の丸庭園を 作庭することになる。 一方、東予の今治城は、四年の歳月を経て1604年に完成。 五層六階の天守、 二十三の櫓を持つに至った壮麗な水城の姿は、 瀬戸内海を行き来する舟上から望むことができ 築城の名手、藤堂高虎の名を天下に知らしめることになった。

同年、高虎は家康の伴をして初めて江戸の地へ向かった。当時の江戸は 京都から足で十二日間もかかる東の端であり、葦ススキが茂る広大な湿地帯で あった。当時の国名は、上野国(現群馬県)、下野国(現栃木県)のように、 京都からの距離に応じて呼ばれていたが、千葉県北部が下総国、千葉県 中部が上総国と称されていたのは、湿地帯である江戸の地を通過するよりも、 相模国から東へ舟で渡り上総国に先に入るのが常道だったためである。

家康は、太田道灌がこの地に建てた江戸城の大改修を高虎に命じた。 既に江戸の町は、隅田川河口の低湿地を開拓し、神田上水が作られ、 城下町としての下地が整い始めていた。その江戸の中心で 高虎は渦郭式の濠の縄張りを行い、 江戸城は、十三間の高石垣、五層の天守閣を持つ壮大な城へと 姿を変えていった。と同時に、高虎は 同じ外様大名である伊達政宗とともに、家康へ江戸屋敷を建てるための土地拝領を 願い出ている。これには、徳川政権への忠義を示す意図があった。



江戸城下変遷絵図集によると、藤堂家の上屋敷があったのは 神田和泉町1丁目の辺り。今は和泉公園がある。





和泉公園の隣には、金綱稲荷神社がある。藤堂家の人もお参りしただろうか。



家康は、征夷大将軍の職を嫡男の秀忠に譲り、自分は 大御所としてまつりごとを司るべく駿府城に入城した。 そこで家康が新しく登用した側近の者は、旧来の武功で名を馳せた武将達 ではなかった。天下統一を果たし、武から文への時代に移ったことを 省みて、家康は、僧である南光坊天海、金地院崇伝、儒者として名高い林羅山、 商人の後藤庄三郎という面々を揃えたのである。一方江戸城にて将軍の職にある 秀忠は、大久保忠隣、酒井忠世、土井利勝らを年寄衆として、 駿府江戸の二重政府が徳川家による幕藩体制を築き始めた。

一方高虎の本拠地、今治の街は来島海峡の制海権を握った ことでその城下町は大いに栄え始めていた。高虎はさらなる海運業の発展を 夢見て、今は徳川家の直轄地である堺の街を得ることを願い出るが、家康はこれを 認めなかった。瀬戸内海を掌握し、安芸の福島正則、肥後の加藤清正らと 力を合わせ、徳川家に反旗を翻すことを懸念したためである。代わりに高虎は 伊勢国、伊賀国合わせて二十万石の領地への転封を命じられた。

伊勢国は古来から伊勢神宮と良き湊を持つことで知られるが、関ヶ原の時に 西軍の攻撃を受けて以来、津城もその城下町も荒廃していた。高虎の頭には、 この津の町を復興させるための一つの案が浮かんだ。昔から伊勢国は木綿の名産地 として知られる。その木綿を黒潮に乗せて江戸まで運び大きな商いをすることは できないか。早速高虎は、津城に岩田川の水を引き入れた外堀と舟入所を持つよう 改修を行い、地元の伊勢商人による江戸への木綿輸出を大幅に支援した。 その結果、伊勢の木綿問屋は江戸で大成功を収め、後伊勢屋と称する大きな 呉服商屋となる。高虎は、死ぬまでこの伊勢津城主として家康に仕え、江戸時代を 通じて藤堂家は十一代まで栄えることになった。

一方伊賀国は東を布引山脈、南を室生山脈、西の大和国境には笠置山脈、そして 北は信楽山脈に囲まれた深山の中にあった。この特殊な環境の下で、古来から 忍びと呼ばれる者どもが生まれ、彼らは間諜、偵察として大名に仕えた。 家康が重用した忍びが伊賀の名門、服部家の服部半蔵である。高虎は伊賀の 有力長老の元へ使いにやり、誇り高き彼らを 慰撫する形で伊賀国の支配に臨んだ。



高虎が領主となった伊賀国と伊勢国。伊勢からは、海へとつながる。


六、大阪城陥落


徳川政権が着々とその地盤を固めていく中で、家康が危惧したものが大阪城の 豊臣家、そして豊臣恩顧の西方の諸将らであった。1609年、家康は 西国大名達の押さえとするために丹波の篠山城、亀山城の 改修を高虎に命じた。さらに、高虎は自領の伊賀上野城にも手を加え、 この城の西側に幅の広い水濠と高さ十七間の石垣を築いた。三つの城とも 豊臣家との決戦が起こったときのことを強く意識して行われた普請であった。

時同じくして、後陽成天皇に変わって後水尾天皇が即位する運びとなった。 家康は京都二条城で催す祝賀の儀に豊臣秀頼も顔を出すよう画策を 行い始めた。この時秀頼は十九才、豊臣家の二代目当主として徳川に反旗を翻す 武骨ある若者かどうか家康はそれを見極める必要があった。 家康からの命令とも取れる手紙を持した使者に対し生母淀殿は激高したが、 家臣らに諫められ、1611年3月、厳重な警護の元に秀頼は京へ上洛した。 二条城二の丸大広間の一の間に家康、対するニノ間に秀頼、三の間に 高虎含め両家の家臣達が一堂に会した。

この場で、秀頼は家康からの朱塗りの杯を受け、家康からの質問にそつなく答え、 そして退席の時には家臣一同が見守る緊迫した空気の中、家康に対して臣下の礼を とった。豊臣家の正当なる跡継ぎである誇りを傷つけられ、立腹して自制心を 失っていればとれない行為である。凡人の器量の持ち主ではない。 生かしておけば徳川幕府の存続に大きな影を 落とすであろう、家康は豊臣家を滅ぼすことを決心した。

戦には大義名分がいる。家康は豊臣家に対し開戦のきっかけとなる理由を考えて いた。そこへ妙案を投じたのが、金地院崇伝である。彼は、豊臣家が再建していた 京、方広寺の梵鐘名文中に徳川家に対する呪詛が込められていると解し、 家康はそれを理由に豊臣家に謀反の嫌疑をかけた。 家老の片桐且元は申し開きのために駿府城を訪れたが、逆に 謀反の意なきことを示すために、淀殿を人質として江戸に出す、秀頼を 大阪から他国へ移す、という理不尽な条件を 突きつけられてしまう。帰城した片桐且元は、徳川家に寝返った逆臣として 非難され、淀殿、大野治長らは、頭からそれらの条件を破棄。 豊臣家、徳川家は全面対決することとなった。

大阪冬の陣。藤堂家を先鋒隊とする家康軍総勢二十万は、京都に集結。 と同時に大阪城には、豊臣側につく西方の諸将が次々に入城、その数総勢十二万。 豊臣方は大阪城の弱点である南の空堀に真田砦を築き籠城戦の意を示した。 家康側は大阪城南の住吉に本陣を構え攻撃を開始。苦戦の末、茶臼山まで 駒を進めるが、大阪城を護る  砦、  砦からの猛攻を突破することができない。 そこで家康は、仕寄り道と呼ばれる大阪城の総構えに近づくための塹壕を掘ることを 高虎に命じた。この距離ならば 大火矢、大筒によって城郭内にまで砲撃を仕掛けることができる。 徹底抗戦の構えを見せていた淀殿、真田幸村、大野治長もこの砲撃には切迫した 危機感を感じ、二ヶ月の籠城の末、家康が提示した条件を豊臣側がのむ形で 一旦戦は終結を見た。その条件の一つが大阪城の濠を埋めることである。

濠の埋め立て、その任を与えられた高虎は連日現場にてその指揮に当たった。 塀や櫓をたたき壊し、濠の中に投げ入れる。若かりし頃、その偉容に鼓舞された 鉄壁の名城を潰す作業に今自分は携わっている、と高虎は思った。しかし、家康は 徳川政権の確立のために、人生の集大成として豊臣家を潰すつもりでいる。 大阪城の総構え、二の丸、三の丸の外堀は数週間のうちに埋め立てられていった。 家康はさらに秀頼に、城内の浪人衆を城外へ追い出すこと、伊勢もしくは大和 への国替えを承知すること、という要求を突きつけた。豊臣側にとっては 受諾できるものではない。その返答がないことを理由に、家康は再び豊臣家への 出陣命令を下した。濠を失った大阪城は無能に等しく籠城はできない。 よって豊臣対徳川のぶつかり合いは、阿倍野における野戦と なった。

家康は主力部隊を大和路と河内路の二つに分けて大阪、茶臼山の地へ向かった。 そして徳川軍は、総勢十二万五千の阿倍野まで押し進め、5月6日豊臣徳川の 決戦は行われた。 時が経つに連れ、兵数で上回る徳川軍が優勢になり、ついに攻め入った 兵らにより城内に火が放たれた。紅蓮の炎に包まれ行く山里曲輪の備え蔵に て淀殿、秀頼、大野治長らは自害、ここに豊臣家の息の根は途絶えた。

七、大徳寺


大阪城陥落後、多大な被害を出した藤堂家、井伊家は城中に埋蔵された金銀を 掘ることを許され、高虎はそれから得た金を使って藤堂高刑、藤堂吉藤ら、 若くして命を散らしていった重臣達の弔いを八尾の常光寺にて行った。 晩年に差し掛かった五十九才の高虎にとって大阪夏の陣は、有能な家臣達の命を 次々に奪うと同時に、長き戦乱の世に終焉を告げる戦でもあった。高虎は 伊勢津城への帰途、旧主君豊臣秀長の菩提寺である京、大徳寺大光院を訪れる。 秀長の墓所である五輪塔の前で手を合わせると、高虎の胸には今までのできことが 波のように去来してきた。

若き日における秀長との出合い。 日の昇る勢いで天下統一への道を驀進していた織田信長。 突如、明智光秀による本能寺の変が起こり、その首を挙げ信長の 後継者となった秀吉。実兄である秀吉との溝が深まりつつある中息絶えた主君秀長。 その後継者である秀保の横死、そして郡山豊臣家の滅亡。 天下の名城、大阪城を築いた秀吉も、嫡男秀頼のことを憂いながら死去。 関ヶ原の闘いにて天下を取った徳川家康と、謀反人となった石田三成。 そして、燃えさかる大阪城にて自害して果てた豊臣家一門。 勇猛の名を馳せた越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、越前の柴田勝家、 加賀の前田利家、肥後の加藤清正らも既にこの世にはいない。 幾人もの男達がこの戦国の世の中、栄枯盛衰の波にもまれて消えていった。
「常ならぬことが世の常。」
五輪塔は、境内の紅葉に囲まれて、そう高虎に語りかけていた。



大徳寺、大光院の門前にて。2009年11月22日

高虎が大屋郷三千石の領主だった頃から、ずっと仕え続けていた家臣として 大木長右衛門、居合孫作、服部竹助がいる。この三人は高虎からの加増の申し出を 頑なに断り続け、終生子習の身分として仕えることを選んだ侍達だった。 彼らのように出世して人の上に立つことを望まず、たった一人の主君の 成功を信じて仕えた忠義の臣も、戦国時代には多くいたに違いない。


大阪の陣から半年を経て、高虎は駿府城に家康を訪れた。大阪城を 落とすという激戦を経て一気に年を取ったように見えた家康は、高虎に孫の 和子の朝廷入内のことを話した。古来から日本の強大な権威である朝廷と婚姻関係を 結べば、徳川幕府は政権として確固たる安定を得る。家康は、その朝廷への 交渉と工作を高虎に依頼した。高虎は、晩年家康のこの依頼を誠意を持って 引き受けた。
そして1616年、戦乱の世を生き抜き天下の覇者となった徳川家康は、 七十五才にしてその生涯を閉じる。

今までの戦と異なり、朝廷、公家という権威が相手であったが 高虎は幾度も拝謁のために京都御所を訪れ、和子殿の入内が叶わなければ、 自分は武士として切腹する心づもりであることを伝えた。 高虎の決意とその背後の徳川家の威信によって、徳川和子は1620年に 後水尾天皇の元へ入内。 それは、御輿七十台が連なる絢爛豪華な嫁入りとなったが、高虎は その興行には姿を見せず、秀忠から命が下されていた 大阪城の石垣の改修現場で汗を流していた。


晩年の高虎は眼を痛め、ついには失明するに至った。その頃に高虎は 上野寛永寺に寒松院を建て、また京都南禅寺の門を寄進している。 そして1630年10月5日、高虎は七十五才にて命つき その亡骸は、菩提寺である寒松院に葬られた。 一介の槍担ぎから、最後は 三十二万石の伊勢津藩主にまで なった戦国時代を生き抜いた一人の武将、藤堂高虎。彼の命は息絶えても、 彼の作った城は残る。


高虎、虎、ふと、本物のトラが見たくなった。 そうだ、今度上野動物園に行こう。

12月12日、小春日和の温かい日に、私は友人と上野動物園を訪れた。 ここのトラは、インドネシアのスマトラトラである。熱帯の花や鳥 が原色で鮮やかなのと同様に、熱帯に住むスマトラトラの黄と黒の トラ模様は、寒帯に住むシベリア虎に較べてコントラストが 一番はっきりしていると言う。



熱帯雨林の中では、コントラストがはっきりしている方が 森の中に紛れ込めるのだ。


そのトラの黄金色の眼球と鋭い眼差しは、 子供のみならず大人の心も瞬時にして捕らえてしまう。 時の流れという感覚がトラにもあるのだろうか。 あるとすれば、そのトラの眼には来年はどう映って いるのだろう。

動物園では他にも色んな動物を見ることができた。 人気急上昇のレッサーパンダ、今も高知県に 生息の可能性があると言われるカワウソ、母親と子供3匹の ライオンの群れ、開長が2メートルにもなるコンドル、かわいい 歌のわりには夜行性で邪悪な感じのアイアイ、実際に遭遇したら 気絶するであろう北海道のヒグマ、そして体重2~3トンにも 達するカバ。

ケープペンギンとキングペンギンの餌やりもおもしろかった。 都内に住むゴイサギ、アオサギも毎日のようにこの餌やりに 訪れるらしく、飼育員の人が投げ入れるアジは野生ではあり得ない 4種間の争奪戦となる。その様子は必死でありながら、特にペンギンの 様子がコミカルでどこか笑わずにはいられない。

私達は動物園の後、寛永寺寒松院を訪れた。 既に暗く門は閉まっていたため、その前で少し手を合わせる。 江戸の藤堂家屋敷で息を引き取った高虎は、天海僧正によって ここに埋葬された。しかし、後にその遺骨は伊勢津城下の寒松院に 移されたという。

寒松院から10分ほど歩いて入ったお店で、私は友人に 藤堂高虎の小説を読んだことを話した。
「藤堂高虎って言うと、早くから家康側について豊臣家を裏切った武将という イメージがあるけど。」
と友人が言うので、
「通常はそう思われてるみたいですね。でも小説の後書きにも書いてあったけど、 色々歴史記録を検証してみると、高虎は裏切り者ではないそうです。」
と私は言って、熱心に高虎のことを話し始めた。
「特に高虎は、秀長に仕えていました。だから、秀長が朝鮮出兵などを始めた 晩年の秀吉と亀裂を深め、秀長亡き後郡山豊臣家が取りつぶしになった経緯を 考えると、高虎は全然裏切り行為をした人ではないと思うんですよ。」
と私は力説した。
「なるほど、、。歴史はどういう側面から見るかだね。同年代の歴史小説で 司馬遼太郎の「関ヶ原」は読んだ?」
と聞かれ、私は首を振った。
「関ヶ原」は、この闘いの敗者、石田三成が主人公の小説で、最後まで豊臣家の 忠義の臣であり続けた彼の姿が描かれている。この小説を読むと、石田三成とその 右腕だった島左近が、関ヶ原にて命を散らした英雄に思えるという。
「島左近!虎の城にもかっこよく書かれていました!」
と私は答えた。

司馬遼太郎をよく読む友人は、「竜馬が行く」「翔ぶが如く」 「坂の上の雲」は三部作で江戸末期から明治初期の複雑な時代の動きが 書かれていること、西南戦争は武家社会に終止符を打つための西郷隆盛と 大久保利通のできレースだったのではないかと思うこと、また時代変わって 平安末期、武家社会を打ち立てようとした 源頼朝は、義経の陰に隠れて正当に評価されていないと感じることなどを 話してくれた。私は質問した。
「鎌倉時代に武家社会が生まれて、江戸末期にはそれが消滅した時代 背景は何だったんですか?」
「鎌倉の場合は律令制に対する農民の不満、江戸の場合は西欧から新しく 入ってきた民主主義という考えが下地にあったからだとは思うけど、。 ま、詳しくは司馬遼太郎を読んでください。」
と友人はニッコリして答えた。



2010年が明けたら、鹿児島のいも焼酎虎の穴と、虎屋の和菓子で新年を祝おう。 そして、友人の勧めてくれた司馬遼太郎を読む年にしたい。


参考文献

火坂雅志著、虎の城
Wikipedia



Special Thanks to

関ヶ原歴史民俗資料館
明延銅山
但馬長寿の郷の栃尾さん
京都二条城
上野動物園