2020年の12月に新しい仕事が始まり、信濃町に通勤するようになって1年が過ぎた。
信濃町は山手線の内側にありながら、全くオフィス街という感じがしない。駅前には
慶応大学病院が立ち、その北側には創価学会の建物が林立し、南側には明治神宮外苑
がある。今まで通勤してきたことのある場所とは異なり、
オフィスビルやランチどころが少ないからだろうか、何にもないというのが
第一印象だった。
しかし近傍を歩いてみると、公園や保育所があり、安い八百屋があり、長谷川平蔵を祭るお寺があり、
春になると駅構内の防犯カメラの上にツバメが巣を作ったりということがわかってきた。信濃町という地名も、江戸期に永井尚政信濃守の屋敷があったことに由来するという。いつしか信濃町に愛着が湧いてきたのである。
信濃町駅から少し南下し、権田原交差点を越えると大きなユリノキ並木が始まる。このユリノキ並木を10分ほど歩くと青山一丁目の交差点となり、ここからすぐの区立図書館にかずちゃんの絵本を借りるためによく通っている。この信濃町から青山一丁目までの道路は、都道319号線、通称外苑東通り。左側には皇室が住む赤坂御用邸、右側には明治神宮外苑がある。
外苑東通りは両側6車線で道路の全幅は20メートル近いのだが、その幅を忘れてしまうほどユリノキは大きい。道路幅と比較してみると、その樹高は25メートル近くはあるかもしれない。
そんなユリノキの大樹は、静かに枝葉を広げ、歩く人に木陰を与える。雨上がりの時など、まるで森の中でフィトンチッドを浴びているかのような気分にさせてくれるこのユリノキのことを、心密かに私は敬慕するようになった。
このユリノキ並木は、権田原交差点から左折して、安珍坂を登り赤坂迎賓館の正門までの道にも続いている。つまり赤坂御用地にずっと沿う形でユリノキは植栽されているのである。ユリノキと高い石垣と何人もの警備員で守られている皇室の住まいである赤坂御用地は、庶民にはなかなか縁のない場所であるが、御用地の中の赤坂迎賓館が数年前から一般公開されるようになったことを、私はふと思い出した。
ちょうどこの頃かずちゃんはプリキュアが大好きで、何度も何度もプリキュアのDVDを見て、パパを相手によく戦い「大きくなったらプリキュアになりたいなあ」という夢を事あるごとに語ってくれた。
それならば。
「かずちゃん、プリキュアはプリンセスでしょう。お姫様でしょう。なら、四ツ谷にある本物のお城を見に行こうよ!」
ということで家族3人で赤坂迎賓館の見学に行くことに。
時は、台風一過で抜けるような青空が広がった2021年9月の日曜日。四ツ谷駅を降りてすぐに始まるユリノキ並木を通り、迎賓館正面前へ。
背丈の二倍以上はある門、そしてその奥に威風堂々と立つ迎賓館本館。まるで突如ヨーロッパの国に迷い込んだようで、ここが都心部であることを忘れてしまう。しかし門衛の人はやはり日本人。
「見学の方ですか? 西口のほうへお回りください。」
と案内される。この正門は諸外国の首相や大統領といった国賓が訪れる時に使用され、庶民の入り口は脇にある西口なのである。
赤坂迎賓館が一般公開されるようになったのは2016年。しかし現在も国賓を迎える建物として使用されるため、一般見学者のセキュリティチェックは厳しい。西口を入って少し奥に進んだところで、空港と同様に手荷物はすべて金属探知機を通してチェック。さらに人もセキュリティゲートを抜けて安全確認。そして見学料1500円を払って、ようやく迎賓館のある御用邸の中へと入ることができる。
そこにはスダジイや黒松の巨樹があり、かずちゃんはどんぐりや松ぼっくりを大事に拾う。その後いよいよ迎賓館本館の中へ。
見学者は、大きな車寄せのある正面玄関ではなく西側の小さな扉から入るのだが、それでも入った瞬間から廊下の奥まで続く深紅の絨毯、真っ白い壁、見上げるような天井には、大人でも胸が高鳴る。ふと見上げると廊下の壁の上部には、天皇家ゆかりの桐の花の意匠。
そこから正面玄関を経て二階へ上り、明治時代にフランスから直輸入されたというシャンデリアのある羽衣の間へ。その次は、二十七色の糸を使って桜模様を手織りした絨毯が敷かれた朝日の間。日本の野鳥の七宝焼の絵が壁に掲げられた花鳥の間。西洋風のモチーフに混ざって侍の鎧の意匠が壁に彫られている彩鸞の間等を見学する。それぞれの広間は、首脳会談、条約調印、懇談、食事、演奏会等、異なる用途に用いられる。
興味深かったのは西洋一辺倒の意匠ではなく、桐の花、日本の野鳥、鎧といった意匠も随所に見られたことである。和洋折衷なのである。迎賓館が建てられた明治時代は、西洋文化を大量に取り入れると同時に、天皇を中心とした統一国家を目指した時代であった。つまり明治政府は、バランスの取れた和と洋の混交そして熟成を模索した。和洋折衷という言葉は幕末の朱子学者、齋藤拙堂によって造られたという。
それにしても、細部に至る絢爛豪華さからは、国家の威信をかけて建設に挑んだ明治の人たちの気概が伝わってくる。厳かな雰囲気が伝わるのか、それとも各所に監視兼スタッフの人たちが立っているからなのか、かずちゃんも普段のようには走り回らず、大人しく見学している。
「かずちゃん、ここに住むのとうちに住むのとどっちがいい?」
「ここ! う~ん、やっぱりうち!」
「そうだよね~、こんな広い家、使い勝手よくないよね。」
と会話しながら思う。お城に住む本物のプリンセスはなかなか大変に違いない。
残念ながら本館内の写真撮影は厳禁で、あらゆる角を曲がるたびに魚眼レンズを搭載した監視カメラが立っており、カメラを取り出すことすら許されない雰囲気であった。
小一時間かけてすべてを見終わり、外に出てほっと一息。そして今度は大きな噴水がある主庭へとお散歩。
この主庭には、本館と共に国宝となっている噴水がある。漆黒の動物たちに囲まれて水を噴き上げる姿は美しくもあり、威圧感もある。
それにしてもこの広大な庭に、見学者はわずか3、4グループで贅沢すぎる大きさであった。一般公開される前は、ここを歩くのは皇室、国賓の人たちのみで、庶民の生活とは隔絶された特別な空間が存在したのである。
主庭から建物西側を廻って今度は迎賓館の正面に出る。ここには見学者用のテラス席があり、アフターヌーンティーを注文することもできる。この正面玄関前の広場では国賓を迎える時に、国旗掲揚や音楽隊・騎馬隊の整列が行われる場所で、精巧に敷き詰められた白亜の石畳が美しい。
この広場からは、前庭を通って正門へと向かう。この前庭も主庭に劣らぬ広さがあり、中央を貫く道の両側には二基の噴水が涼を添える。
「それにしてもなんて贅沢な空間だろう、、。」
ため息と共にその思いを新たにし、私たちは迎賓館を後にしたのであった。
赤坂迎賓館を設計したのは、明治を代表する建築家である片山東熊。欧州やアメリカを長らく遍歴し、上野の表慶館や京都国立博物館等、数多くの西洋建築を手がけた彼が、晩年に最も心血を注いだのがこの迎賓館であった。
赤坂迎賓館は、もともとは東宮(皇太子、後の大正天皇)御所として造営された。片山は、明治32年(1899年)から10年の歳月を費やし、当時最新式であった鉄骨補強工法を採用し、シャンデリアや大理石等の華美な装飾に加えて、自動温度調節機能付きの冷暖房装備等も外国から買い付けて迎賓館を造営した。総工事費は当初予算の2倍である500万円以上(現在では1000億円以上)に膨れ上がった。
赤坂御用地は明治5年(1872年)、天皇に献上されるまでは徳川御三家である紀州藩の壮大な屋敷であったから、既に庶民にとって恐れ多い場所であった。しかし明治42年(1909年)に東宮御所(迎賓館)が竣工した時には、この空前絶後の巨大宮殿の出現に民衆はさぞ肝をつぶしたに違いない。
そんな東宮御所(迎賓館)を贅沢と感じたのは庶民だけではない。時の明治天皇がそうであった。
明治天皇は、孝明天皇の崩御を受け16才で践祚し、その直後に大政奉還(慶応3年、1867年)を受ける。明治初期は戊辰戦争(慶応4年、1868年)や西南戦争(明治10年、1877年)の内戦に苦慮しつつも、学制公布(明治5年、1872年)や憲法制定(明治22年、1889年)を通して国家の基盤を築き、殖産興業・富国強兵を押し進め、明治中~後期においては日清(明治27年、1894年)・日露戦争(明治37年、1904年)を勝利へと導いた。そんな怒涛の時代を通して近代国家への道程を指揮し続けた明治天皇は、質素倹約を旨とし、日露戦争中は仮皇居御所の居室には明かりとして蝋燭のみだったというエピソードが残る。迎賓館建設中(明治32-42年、1899-1909年)に勃発した日露戦争(明治37-38年、1904-1905年)は勝利したものの、賠償金が取れず国家財政は厳しい状況にあった。そんな財政状況も憂慮されての「贅沢である」とのお言葉だったのかもしれない。
結局、東宮御所に皇太子(後の大正天皇)夫妻が住むことはないまま、明治45年(1912年)に明治天皇はご崩御。その後東宮御所の建物は、当時皇太子だった昭和天皇や平成天皇の住まいとなり、第二次世界大戦後は、弾劾裁判所、国会図書館、東京オリンピック(昭和39年、1064年)組織委員会等に用いられた。その後、迎賓施設の必要性を受けて、昭和43年(1968年)から大規模な改修工事が行われ、迎賓館として生まれ変わり現在に至る。
東宮御所(迎賓館)竣工の翌明治43年(1910年)、迎賓館正門の両脇(安珍坂を下って権田原まで、そして赤坂見附までの下り坂)の通り沿いにユリノキの幼木が植えられた。
ユリノキの原産地は北米である。北米東海岸に2000キロにわたった聳えるアパラチア山脈で、ユリノキは広大な極相林を形成する。現在ユリノキの原生林が残るところは限られているが、1930年代までは直径1.5メートルを越える巨樹も珍しくなかったという。
ユリノキは、インディアンの時代にはカヌーを作るのに使われ、白人渡来後は家屋や馬車を作るための材として用いられた。またユリノキの花には大量の蜜があり、北米の養蜂家にとっては蜜源として非常に重要である。さらにユリノキの葉や幹には抗菌作用やがん抑制作用を持つ生理活性物質が含まれており、南北戦争時にはその抽出物が消毒液の代わりとして用いられた。
明治開国以降、日本は外国産の有用樹種や園芸植物を数多く取り入れたが、ユリノキもその中の1つである。日本における初めてのユリノキは、明治20~30年代に内藤新宿試験場(現、新宿御苑)に植えられ、栽培研究が行われた。ユリノキの原産地である北米東海岸の気候は、日本の太平洋側とよく似ており、ユリノキは東京で良好な生育を見せた。また初夏には、Tulip Treeの英語名が表すように、チューリップの様な大きな花が林冠にあふれるように咲き、秋には見事な黄葉を見せる。さらに枝分かれせず垂直な幹を保持したまま育つユリノキの樹形には威風堂々とした風格がある。明治31年(1898年)に新宿御苑の園長となった福羽逸人は、そんなユリノキを迎賓館の並木道の街路樹として推薦した。
実はユリノキという和名は、大正天皇が付けた。前述したように東宮御所(迎賓館)に住むことは叶わなかった大正天皇であるが、自身はフランス語が堪能で西洋文化に深い憧れがあった。
大正天皇は新宿御苑に行幸されて日本初のユリノキが花をつけている姿を見る機会があったのだろう。ユリノキには半纏木(ハンテンボク)という和名も存在するが、大正天皇が付けたユリノキという和名のほうが花の特徴をよく捉えており、西洋らしい感じがする。
2021年現在も、赤坂御用地を一周するとユリノキの巨樹を目にすることができる。特に正門から赤坂見附へと向かう途中にある東門の辺りには、明治43年(1910年)に植えられたユリノキと確信できる巨樹が並ぶ。
この東門付近のユリノキとほぼ対称の位置にあるのが、外苑東通りの権田原~青山一丁目間のユリノキである。しかしここのユリノキ並木は明治43年の植栽ではなく、迎賓館正門両脇沿いのユリノキ並木に遅れること十数年、昭和初期に植栽された。
明治45年(1912年)、明治天皇御崩御。墓所は京都の伏見桃山陵となったが、東京の人々は東京のほうにも亡き天皇を偲ぶための場所を望んだ。その思いを受けて造られることになったのが明治神宮(内苑)である。
明治神宮(内苑)は、代々木の御料地に作られることが決まり、全国から贈られてきた約十万本の献木を植栽して造園された。その建設作業には、数多くの青年らが勤労奉仕を通して関わったという。また内苑が作られた後には、青山練兵場跡に外苑を造る計画が立ち上がった。内苑が鎮守の森として作られたのに対し、外苑は明治天皇の功績を描いた絵を展示する聖徳絵画館、そして国民のレクリエーションのための野球場や陸上競技場を備えた場所として大正15年(1926年)に竣工した。
また、外苑には青山通りから聖徳絵画館にかけて銀杏並木が植栽された。現在でも毎年11月になると輝くような黄金色となり行き交う人たちの心を楽しませてくれる。
外苑建設中の大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。この未曾有の災害では10万人近くが犠牲となり、特に本所方面(現、墨田区)では火災旋風が起こり木造家屋はことごとく灰燼に帰した。また東京市内を縦横に走っていた市電は、電力供給が断たれたことで全線不通となった。
赤坂御用地や外苑付近では、外濠や広大な緑地が防火帯となったのであろう、また聖徳絵画館は鉄筋コンクリート造りだったこともあり、被害は最小限に抑えられた。
関東大震災以後、東京は新たな都市計画を立てて復興の道を歩み始める。この過程の中で、昭和初期に外苑東通りにユリノキが植栽された。市電に乗りながら眺めるユリノキ並木はどんなだっただろうと想像してみる。
しかし関東大震災からの復興もままならないまま、世界恐慌(昭和4年、1929年)が起こりアメリカでは失業や倒産が激増。その影響は全世界に遷延していった。この余波を最小限に抑えるべくイギリスやフランスが取った政策がブロック経済であった。ブロック経済では本国と植民地間でのみ貿易を行い、他国の景気変動の影響を可能な限り排除する。日本もこれに追随すべく、満州事変(昭和6年、1931年)を経て満州国を樹立。国民は、満州経営に乗り出した軍部に不景気脱却の糸口を見出し、多大な期待を抱いたのである。
しかし依然として都市部以外の経済状態は厳しかった。特に農村部での窮乏は著しく女衒に身売りせざるを得ない娘も多く存在し、そんな疲弊した農村部から徴兵されてくる新兵を訓練する立場にあったのが、陸軍の青年将校らであった。
彼らの多くが属していた陸軍内の派閥である皇道派は、国情に対して何の打開策も打ち出せない政府首脳部を君側の奸と見なし、天皇を奉じた革命を目指した。そして起こったのが昭和11年(1936年)の226事件である。1500人もの兵らが武装して決起隊となり永田町一帯を占拠したこの事件では、首相岡田啓介や蔵相高橋是清など政界の重鎮達が次々に襲撃された。
高橋是清は、明治、大正、昭和にかけて7回も大蔵大臣に就任した財政家であり、日本は彼の財政対策によって何度も難局を乗り越えたと言われる。日露戦争時には欧州で日本国債を巧みに裁いて軍資金を集め、世界恐慌時には、国債の日銀引き受けを断行して銀行破綻を可能な限り回避させた。しかしその後は、無秩序な国債発行の継続は国家の財政破綻を引き起こすとして、満州事変後増大し続ける軍からの予算要求を頑なに拒み続けた。このことが226事件において決起隊に襲撃された原因だと言われる。当時高橋是清は81才。至近距離から6発の銃弾を浴び、その後は軍刀で切りつけられるという無残な最期であった。
永田町一帯を占拠した決起隊はこのクーデターの意義を信じ、天皇からのお言葉を待った。しかし天皇はこのクーデターを支持しなかった。決起隊が君側の奸として襲撃した政治家は、天皇にとって政治経済を回していくための右腕であった。さらに皇軍であるべき陸軍の一派が無秩序に暴動を起こしたことに対して天皇は怒りを示した。
天皇の指示を受けた軍中央は、決起隊に投降を呼びかけて暴動を鎮圧した。翌年、弁護士なし再審なしの暗黒裁判にて26事件の首謀者達は有罪死刑となり、その後新内閣の下で思想犯保護観察法が成立。さらに軍部は、陸軍・海軍大臣は現役将校のみに限るという軍部大臣現役武官制を復活させ、強大な政治的発言権を持つようになった。軍国主義の台頭である。
軍国主義の歩みを告げる不穏な空気は、ユリノキを揺らす風の中にも漂っていただろうか。
高橋是清始め軍拡には反対だった政治家らが一掃された影響は大きい。高橋是清の死去後は、軍事費を抑制しうる政治勢力が弱くなり、その割合は増大していく。昭和12年(1937年)に日中戦争、昭和16年(1941年)には太平洋戦争が開戦。軍部は、終戦直前にはそれこそ天文学的な戦時国債を発行し、敗戦後それらは紙くず同然になった。
東京の町は凄惨な空襲を受け、赤坂御用地を取り囲んでいた多くのユリノキも燃えて死んでしまった。しかし残ったユリノキは、東京が焼け野原になった昭和20年(1945年)も、芽吹き、花開き、黄葉した。膨大な悲しみと挫折と混迷と、子供らの声が渦巻く中で。
高橋是清邸があったところは、現在高橋是清翁記念公園として存在している。周りには大使館やオフィスビルが屹立しているが、この公園の一角だけは武蔵野の面影を残す庭園木と愛らしい遊具があり人々の憩いの場所となっている。
ユリノキが見た戦後の東京復興はどんな感じだったのだろうか。
明治末から昭和20年(1945年)にかけては関東大震災と第二次世界大戦という二度の大禍に遭ったのに対して、戦後の東京は新しきを生み出すというエネルギーを放ちながら変貌していくことになる。
昭和22年(1947年)、権田原と信濃町の間にある憲法記念館(明治期を通して天皇と外国の公使との会食が行われた日本初の迎賓館)が明治記念館と改称し、結婚式場として一般に公開。
昭和30年(1955年)、青山陸軍大学校の建物が改装され、移転してきた青山中学校の校舎へと転用。
この2つの建物の竣工は、戦後の様々な社会変革を象徴する出来事だったのではないだろうか。
昭和33年(1958年)、東京タワー完成。
昭和34年(1959年)、東京オリンピック開催が決まり、東京のインフラの整備が急ピッチで開始。
昭和39年(1964年)、赤坂御用地と高橋是清邸の間にある青山通りが22から40メートルに拡幅。
昭和39年(1964年)、高速都心環状線、高速新宿4号線の一部が開通。
これにより、赤坂御用地東門から見える外濠の上には三宅坂ジャンクションが延び、迎賓館正門のほぼ真下には高速新宿4号線が通るようになった。赤坂御用地内に高速を通すことに関しては反対意見も多くあったが、当時は赤坂迎賓館の建物が東京オリンピック委員会によって使われていたこともあり最短ルートが採用された。
昭和39年(1964年)、東京オリンピック開催。
昭和41年(1964年)、外苑東通りの拡幅工事開始。
昭和43年(1968年)青山通り、昭和44年(1969年)外苑東通りの都電が廃止となる。
昭和50年(1975年)代以降、青山一丁目周辺には、ホンダを始め大企業のビルが次々に設立。
平成12年(2000年)には、外苑東通りの下を都営大江戸線が開通。ユリノキにとっては、地上も地下も静寂とは無縁な環境になった。
平成28年(2016年)には、赤坂迎賓館が一般に公開。
令和3年(2021年)には、1年遅れての東京オリンピックが外苑の新国立競技場で開催。
明治から令和。百有余年に亘って、赤坂御用地のユリノキは成長し続けてきた。ユリノキは、時代のうねりを感じていただろうか。それとも、百年より遥かに長い時を成長するユリノキにとっては、人間社会の変遷などはほんのひと時に過ぎないのだろうか。
歩きながらユリノキ並木を見上げてみる。黄葉を全て落とした裸木は一見静寂に包まれているが、根幹には春の到来を待つ生気が脈々と流れている。
参考文献
ユリノキという木―魅せられた樹の博物誌 毛藤勤治 アボック社出版局
公園・神社の樹木 渡辺一夫 築地書館
復刻 大東京三十五区分詳図(昭和十六年) 赤坂区
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明治天皇とその時代『明治天皇紀附図』を読む 明治神宮 監修 米田雄介 編
日本の建築 明治大正昭和 2様式の礎 三省堂
Special Thanks to
迎賓館赤坂離宮前休憩所
緑と水の市民カレッジ
新宿御苑
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