2015年、未年。しかし、羊という動物はどうも苦手である。あの、横に線が入った目に、私はある種の恐怖感を感じてしまう。
この横に線が入った黒い部分を「瞳孔」という。瞳孔は、入射する光の量を調整する機能を持ち、人間の目の場合、大きくても小さいくも丸い。ところが、瞳孔の形は動物種によって異なる。羊の目のように、横長になる細くなる瞳孔を「水平型スリット瞳孔」と呼ぶ。
羊、馬、牛、鹿、カバなどの草食動物がこの水平型スリット瞳孔を持つ。逆に、ネコ、キツネ、ワニといった肉食動物には垂直型スリット瞳孔が多いといわれる。
この「水平型」と「垂直型」の瞳孔には、進化学的な意義があると考えられている。
「垂直型」→ 肉食動物に多い。垂直型の瞳孔は、日中草陰で待ち構える肉食動物の姿を獲物から見つけにくくする、と言われる。
「水平型」→ 草食動物に多い。水平型の瞳孔は、捕食者をいち早く発見するための視野拡大に寄与している、といわれている。
しかし草食動物の視野拡大には、水平型瞳孔よりも、顔面における眼球の位置(顔前方か横側か)のほうが寄与率が高そうである。
そして何よりも、やっぱり水平型の瞳孔は、無機質で冷淡な感じがして、怖いのである。
そこで、どうやって羊にアプローチすべきかと悩んでいた時に、ふと思いついたのが、「羊」→「ウール」→「編み物」であった。私は長いこと、マフラーとか帽子とか手袋とかセーターとか編めてしまう人は、なんて女性らしいんだろう、と羨望していた。
いい機会である。始めてみよう。セーターは難易度が高いだろうが、頑張れば小物ぐらいは編めるようになるかもしれない! というわけで、2014年9月11日、仕事帰りに早速手芸洋品店へ。
1号から13号までの太さの異なる編み棒や、色んな種類の毛糸がおいてある。コットン、アクリル、アルパカ、ウールと並んでいるが、やはり、ウール100パーセントの毛糸が見るからに温かみがある。
ベビーウールという色んな色が混ざっているかわいらしい毛糸玉を1つ。それに合う5号の編み棒。
「わーい。これで私も編み物ガールだ。」
嬉々としながらうちへ帰った。
図書館で借りてきた初心者向けの編み物の本を広げて、一段目の編み目を作る。
そしてそこから、裏も表も同じになるガーター編みをせっせと始める。何になるだろう、よくわからない。でも何かにはなるだろう。とりあえず練習がてらやってみる。そのうちにコツが分かり始め、だんだんとスピードもアップしてくる。
最初は「本当に減っているの?」と思えた毛糸玉も徐々に小さくなり、それに従い編み目の段数も増えていく。私は適当な毛糸の長さが残っている段階で、上部を輪留めにした。そして両端をくぐり、上にはポンポンをつけて、なんとお帽子の完成~~!!
編み物を楽しみ始めたちょうどその頃、友人と一緒にマザー牧場に行ってきた。千葉県民でありながら行くのは生まれて初めてだった。
品川駅で内房線に乗換える。小一時間して千葉を越えるとのどかな田畑が広がるようになり、君津駅に到着。ここからシャトルバスで山の登山口へ向かうような、九十九折の道路を約30分進み、マザー牧場に到着した。
ここでは牛の乳絞り、子豚のレース、うさぎ・モルモットふれあいの場、あひるの大行進と、様々なも催しものがあり、子供はもちろん大人もけっこう楽しめることができる。その中でも、一番見ごたえがあったのは、羊のショーであった。
アグロドームという大きな円形状の木造建築の舞台で、そのショーは始まった。司会役として登場したのは、羊大国ニュージーランド生まれのビリノーさん。ぎこちない日本語交じりの英語で、
「ミナサマ、ようこそ! コレカラ、色んな羊出てきます! 一番は、Here We go、メリノー!」
と超ハイテンションモード。
メリノー、そういえば手芸洋品店にはそういう名前の毛糸があった。初めて知ったが、羊の品種名だったのである。舞台袖から登場して来たのは、目の位置もわからないほど「もこもこ」の羊毛に包まれている羊。そのメリノー種がビリノーさんの脇を通り、壇上の階段を登り、一番上に立った。これでもかと思うけど大量の羊毛に「もこもこもこ」と包まれており、羊界の王者という風格がある。
その他にも次から次に異なる品種の羊達が壇上に上がってくる。顔だけが黒い品種。立派な角が顔の両側で丸まっている品種。毛の色が特に白っぽい、もしくは茶色い品種。原産地はオーストラリア、ニュージーランドが多いが、イングランド(ドーセットホーン)、オランダ(テキセル)、スペイン(メリノ)、ウズベキスタン(カラクル)、スコットランド(ボーダーレス)、ロシア(チェビオット)と様々で、その数なんと19匹。
ビリノーさんが、ジョークを交えながらそれぞれの品種を説明をしてくれ、その後パンと手を叩いた。
「ソレデハ、今から毛をかっちゃいます! 羊の毛刈りネ!」
舞台にはいつしか毛刈り台が用意され、ビリノーさんが一番近くにいた羊を片手で引っ張った。そして仰向けの状態で台の上にコロンと載せられると、羊は「まな板の上の鯉」のような状態になり、ビリノーさんが取り出した毛狩り用のバリカンのなすがままになった。
ウィーン、ウィーンという音とともに、3~4分だっただろうか、あっという間に毛狩りは終了。ビリノーさんが握っていた右前足を離すと、マルコメ坊主ならぬ、マルコメ羊はちょっと寒そうにしながら立ち上がり、舞台をててててと、歩いていく。
そしてその後は、ショーを見ていたお客も舞台に上がって、羊達とのふれあい時間。この時、19品種の羊達に混ざって、舞台に現れたのが、まだ羊毛もそんなに長くなっていない子羊達。この時、私は、自然光よりも遥かに照度が低い舞台の上では、小羊達の瞳孔は、水平型のスリット瞳孔ではなく、丸くなっていることに気付いた。あ、これだと怖くない!
なんだ~、羊ってかわいいじゃん! さわり心地も、さすがウール、ふわふわしていて気持ちいい。これが毛糸になって、編み物になって、世界中の人々に温かさを与えているのかと思うと、羊ってとても偉大な生き物ではないか!
舞台袖には、刈り取った羊毛の残りが落ちていたので、私はそれをこっそりとポケットに入れた。そして、マザー牧場特製のチーズケーキとヨーグルトをお土産に買って、始めたばかりの編み物にさらなる意気込みを感じて、帰宅したのであった。
2作目は、4本の編み棒を使って輪編みをして、何かを作ってみることにした。ところが、最初の編み目数をちゃんと数えなかったこと(後でカウントしてみたら、7号の編み棒で218目もあった)、かつメリヤス編みは丸まるということを知らなかったために、思いもよらない巨大な、かつ端がくるりんと丸まったものができてしまった。
端が丸まるのをなんとかしたい。私は、同じ編み目数でメリヤス、1目ゴム編みのものを作り、それをはぎ合わせることにしてみた。するとなんとか、端のくるりんは直ったものが出来上がった。しかし巨大である。いろいろ試行錯誤して、、
3重のネックウォーマーとして使うことにしてみた。
実際にやってみると身に染みるが、編むという作業、実に時間がかかる。
ところで「編む」という技術はいつ頃生まれて発展してきたものなのだろうか。
世界最古の編み物は、紀元1~10世紀にエジプトから発見された原始的な鈎針編みの綿織りの靴下だという。
しかも、さらに、「編む」という作業の前には、糸を作らなければならない。羊毛、綿などから糸を「紡ぐ」というのも「編む」同様に太古の昔から存在していた。
私はマザー牧場でこっそり拾ってきた羊毛の刈り落としを、改めて眺めた。
ユーチューブで「紡ぐ 毛糸」などのキーワードを使って検索すると、色々な動画が出てきた。どうやら機械を使わない昔ながらのやり方は、スピンドルと呼ばれる駒のような道具を使って行うらしい。
そのやり方とは→
繊維を撚って糸にしたものをスピンドルの先に結び、駒のように回転を加えると、さらに繊維が引っ張り出され、撚りがかかって糸になる。というもの。
しかし、、
私が今もっている羊毛の刈り落としからは、端緒となる糸を引っ張り出すことさえできない。あるホームページには、ブラシでほぐすことが必要と書いてある。仮にそれをやって羊毛の下準備をしたとしよう。それでも、片手でスピンドルをまわしつつ、もう片方の手で量を調整しながら繊維を引っ張り出すなんて、よほどの駒まわしの名人でもなければできなさそうだ、、。
スピンドルを使って「紡ぐ」、これは、かなり熟練してコツをつかまないとできないのでは?
そう思ってインターネットをブラウズしていたところ、「糸紡ぎカフェ」なるものが世田谷の用賀にあることを発見!
普段の忙しい時間を離れて、糸紡ぎをしながらコーヒーやお酒を楽しめるという場所で、毎週日曜日には初心者のためのワークショップも行われている。
早速私は、そのワークショップに申し込み、2014年10月19日、わくわくしながら糸紡ぎカフェに足を運んでみた。
店内には、カウンターと小さなテーブルがあり、壁には「長い柄がついたコマのようなもの」がいくつもかかっている。私は、それらの「コマ」を見ながらカウンターの椅子に座った。この日ワークショップに集まったのは、布、編み物、綿などに興味を持っている人達6人。
「皆様、今日は糸紡ぎカフェのワークショップにお越しいただきありがとうございます。」
お店のオーナーが挨拶する。オーナーは、和綿の美しさに魅了され、この糸紡ぎカフェを3年前にオープンした。和綿とは、日本に古来から自生している綿で、以前は各地で盛んに栽培され、20近い品種があった。しかし綿の大部分を輸入に頼るようになった現在では、その栽培は和綿の保護を目的とするNPOが細々と行うのみで、このカフェはその貴重な和綿を分けてもらっている。
「これが収穫したばかりの綿です。」
オーナーが窓際の棚においてある籠を取った。
「どうぞ手にとってみてください。」
綿は、ピンポン玉をくしゅっと小さくしたような大きさでふわふわとやわらかく、中には数粒の種が入っている。
「今日はこれを皆さんに紡いでもらうのですが、まず種を取る必要があります。」
そのために使うのが、木製・手動式のパスタ引き伸ばし機のような機械。2本の棒にはさみこむ形で綿を入れて取っ手を回すと、種は棒の間をくぐることはできないので、反対側からは綿だけが出てくるという仕組み。
こうして種を取った綿を10~15個まとめてブラシで均し、くるくるっと綿飴のような形に丸めて、紡ぐための準備完了。
するとオーナーは、壁にかけてあった「長い柄がついたコマのようなもの」を手に取り、
「このスピンドルという道具を使います。」
と言った。
この後の作業についてだが、「見る(聞く)とやるでは大違い」ということを述べたい。まず、綿飴状の綿から繊維を少し引っ張り出し、撚りをかけながら30センチほどの長さの糸を紡ぐ。この時、撚りがかかっている部分が巻き戻らないように、常に右の指先で糸の先を固定する必要がある。紡いだ糸の先をスピンドルの柄に巻きつけて右手でスピンドルをまわす。この回転により撚りがかかり糸ができるのだが、この速さは手で行うよりもずっと速く効率的である。
、、と簡単に述べたが、実際にスピンドルを巻いて糸を紡ぐことができた時は、私は自分の眼が信じられない程驚き、かつ感動した。糸ってこういう風に作るものなのか!「撚る」ってすごいではないか!
でも何故、撚るだけで繊維同士はくっついてくれるのだろう。そもそも「繊維」とは何なのだろうか。
繊維-動物の毛、皮革や植物などから得られる自然に伸びた、または人工的に伸ばされたしなやかで凝集性のあるひも状の素材。(Wikipedia)
この、凝集性というところがポイントである! 滑るようにつるつるした素材なら撚っても上手く一本にはならないだろう。
スピンドルを回すと、手紡ぎの糸が少しずつできていく。しかし今日小一時間かけて紡いだ糸の長さは、せいぜい5メートル。こう考えると、手紡ぎの糸を使って布地を編むというのは、なんと手のかかる作業であろうか!
人々は、そうして作られた身に着けるものを、長年心から大事にするであろう。日本の手織りの着物は、世代を超えて着るものであることに心から納得がいく。
外はいつしか夕暮れの時間帯となり、店内にはジャズの音楽が流れ始めた。糸紡ぎに使うスピンドルは、持ち帰ることもできるし、次回のためにカフェにおいておくこともできる。壁に飾ってあったいくつものスピンドルは常連客のものらしい。私はしばし、スピンドルを回しながら、産業革命に伴う機械化は人類に多大な恩恵を及ぼしたが、同時に既存のもののありがたみを薄れさせてしまったのではないだろうか、と想いを馳せた。
紡ぐということに関連して次に頭に浮かんだのは、野麦峠であった。
明治時代に、日本経済を大きく支えた養蚕業。蚕を育てて、生糸を紡ぎ、絹織物を作る。原料から製品まで全て国内で行うことができた養蚕業は、近代国家の仲間入りを目指す明治政府にとって大きな外貨獲得の手段だった。
諏訪湖という潤沢な水資源を持った長野県の諏訪・岡谷地方には明治時代に、243もの製糸工場が存在し、そこでは約5000人の工女が働いていた。飛騨の貧しい農村から出稼ぎにきていた女工さんたちは、乗鞍岳の南、御嶽山の北に位置する野麦峠(1672メートル)を冬に越えた。
この旅路が以下に過酷で厳しいものだったかは、山本茂実著「ああ、野麦峠」に詳しい。昭和40年代、著者は歴史的史実を調べると伴に、当時飛騨の農村にご健在だった女工体験者に当時の経験を聞き取りしている。彼女らの言葉からは、現代の若者が体験し得ない辛さや想いが切々と伝わってくる。
その野麦峠を自分の足で越えてみたい。それで女工さんたちの苦労がわかるなどとは思わないが、峠の上で明治日本を縁の下から支えた女工さんたちに手を合わせることぐらいは、できるのではないだろうか。
移動手段:自転車
1日目:松本~野麦峠~高山 約100キロ
2日目:高山~天生峠~白川郷~五箇山~城端=輪行=富山 約100キロ
という私の計画に興味を持って参加くれたのは、山友達のA子さんと富山のTさん。
10月下旬の土曜日の朝、快晴の空のもとひやりとした空気を切りながら、私たちは松本を出発した。新島々駅を超えると、道は徐々に勾配を増し、北アルプスの紅葉が青空に映えるようになった。
通常は右折して上高地に向かう梓湖の分岐を左に曲がると、そこから先は野麦峠。
昔、野麦峠は、飛騨(高山)と信州(松本)を結ぶ交易路として重要な位置を占めていたが、現在は乗鞍岳の北部に安房トンネルが開通し、御嶽山の南に国道361号線があるため、野麦街道を通る人は少ない。
今はきれいな片道1車線のアスファルト舗装だが、「ああ、野麦峠」の明治30年代は、街道とはいえども山道がやや拡張されたような状態だったに違いない。しかも女工さんたちも、諏訪・岡谷の製糸工場が稼働を終えた12月後半に峠を越え、正月を郷里で過ごし、3月の稼働再開に合わせて厳冬期の2月後半に再び野麦峠を越えたのである。
寄合渡の集落を超えると道幅はせまくなり、同時に両側からは秋まっさかりを迎えた広葉樹の枝葉が覆いかぶさるようになった。
しばらくして私たちが抜かしたのは、紅葉を楽しみながら徒歩で野麦峠に向かっている30人近い年配のグループだった。この野麦街道は峠下から山頂まで旧道が残っており、往時に思いをはせながら自分の足で歩く観光客が訪れる。
その入り口には「ああ、野麦峠」の一部を抜粋した碑があった。
”吹雪がひときわ厳しくタイマツを襲って、幾つかを吹き消して通り過ぎた。もう誰も一言も発するものはなかった。吹雪はタイマツとともに工女たちの歌声をも吹き消してしまったのである。”
これはまさに冬山のラッセル状態である。かといってゴアテックスのレインウェアや軽量化されたダウンジャケットがあるわけではない。若い人は12,13歳だったという女工さんたちの峠越えの苦労を思うと、胸が締め付けられる。
ここから先は峠へ向かっての本格的な登りが始まり、私の胸は感情的にではなく、物理的に締め付けられることになった。
標高があがるにつれて、艶やかな秋色に染まった北アルプスの裾野が遠望できるようになる。
そして、やっとのこと峠に到着! 北側には乗鞍岳遠望。
ここには、男性が1人の少女をおんぶした、悲しい実話にまつわる銅像がある。政井みねというその少女は、14~22歳まで、飛騨の河合村から野麦峠を越えて、諏訪の製糸工場で働いていた。当時の女工の平均年収は30円だったが、みねは大変手先が器用で年収100円を得る百円工女であり、工場では模範的役割を果たし、帰郷したときにも大いに尊敬される存在だった。ところが重い病にかかって働けなくなり、郷里から迎えに来た兄に背負われて河合村に帰る途中、この野麦峠で静かに息を引き取った。死ぬ直前、ここでみねが言った言葉が
「ああ、飛騨が見える。」
だったといわれている。
当時お米1俵(60キロ)が約4円だったことから、100円で買うことのできたお米は1500キロ。現在お米1俵を18000円として換算すると、年収100円は年収45万円に相当する。今では年収45万なら生活保護をもらった方がよほど良いが、昔はこの現金収入は農村部では一家の大黒柱ともなる財源だった。
この後私たちは、野麦峠の館(資料館)へと足を向けた。入館してすぐ右側にあるショーケースの中には、何枚かの白黒写真があり、ボランティアガイドのおじさんが説明してくれる。
野麦峠で亡くなった政井みねさんとその家族の写真。
若い女性がきれいな着物をまとって1人で写っている写真。
「この1人で写っている女性は、みねさんと同時代の女工さんです。当時、明治30年代は、写真を撮るっていうのはお金に余裕がないとできないことだったんです。女工さんの生活は大変でしたが、頑張ればお小遣いを貯めて、松本の写真館で撮った自分の写真を郷里の恋人に送ることもできたんです。」
この写真は、郷里にいた彼女の恋人が「君の写真がほしい。」という一文を含む恋文を書き、その返事に添えて送られたものだという。彼女は恋文を、彼氏は写真を大事にして、後に2人は結婚。その恋文と写真は、一緒に家の仏壇の引き出しの中にしまわれることとなった。2人が亡くなった後、家屋整理を行った際にそれらが見つかり、郷土史研究家の手に委託されて、手紙と写真の内容が理解されるに至った。
「当時の女工さんたちの生活をうかがい知る大切な資料となっています。「ああ、野麦峠」の映画の中では、政井みねさんの死や製糸工場での苦労が強調されて描かれていますが、女工さんたちは自分で貯めたお金で写真を撮ってそれを恋人に贈ることもできた。そういう側面もあったんですね。辛いことばかりではなく、楽しいこともあったという認識をもってもらえればうれしいです。」
ガイドのおじさんは、そう結んだ。
確かに、野麦峠の小説や映画の中で描かれている諏訪・岡谷の製糸工場の就労環境はとても厳しいものに思える。しかし、小説の著者、山本茂実が飛騨高山出身の女工経験者に聞き取りを行ったところ、「郷里の農村より諏訪・岡谷での生活が良かった。」という意見も決して少なくはなかった。
「白米が食べられることがうれしかった。」
「農作業は製糸工場で働くより辛かった。」
「同年代の仲間がたくさんいてにぎやかだった。」
という意見からは、当時の山深い農村での生活がいかに厳しかったかが伺え、また飛騨・高山のみならず、信州、美濃、群馬、甲斐地方から最盛期には3000人近くが集まったという少女たちの共同生活の様子が想像される。
資料館には、明治、大正、昭和初期に使われていた蚕飼いや機織機の道具、農作業道具、また野麦峠を越えるときの女工さんの旅姿が展示されてあった。足袋に草鞋、厚めの半纏とほっかむり。その衣装を着ている人形は身長が130センチ内外で、女工さんはまだ年端もいかない少女であったことを再認識させられる。
資料館の外に出て向かったのは、お助け茶屋。ここは昔から峠越えをする人達一服する場所で、多くの女工さんたちもここで足を休めた。
今は昔の建物の形を残しつつ、食事処兼お土産屋として営業している。私たちはここで昼食を食べ、今日の目的地である高山まで残り40キロの道のりを自転車で出発した。
基本的には下りであるが、名もなきピークや美女峠などがあり、なかなかあなどれない。高山の街中に着いたときには、既に夕方でハンドルを握る手先が冷たくなってくる寸前だった。
松本~高山間は約100キロで、当時、女工さんたちは4~5日かけてこの距離を歩いた。しかし、高山の中心部から働きに出た女工さんはむしろ少なく、多くは高山からさらに離れた農村部の出身で、野麦峠でなくなった政井みねさんもここから 30キロ離れた河合村が郷里であった。そんな彼女らは高山での一夜を、親戚知人の家で寒さに震えながら、かつ明日あさってにはたどり着く故郷に胸弾ませながら過ごしたのだろうか。
3人は町を探索して、飛騨高山まちの博物館を見学し、夜は炭火焼の飛騨牛で乾杯。ここ近年、高山は町をあげて国際的な観光地開発に取り組んでおり、良心的な宿泊施設も増えている。素泊まり3500円のB&Bの暖かいベッドで夜はぐっすりだった。
10月26日日曜、本日も快晴。今日は高山から41号線、472号線を走り、360号線に入って政井みねさんの故郷の河合村を通過し、1289メートルの天生峠を超えて、白川郷、五箇山を見学して、富山県城端まで行く予定。
早朝に出発したときは、吐く息も白く指先も冷たかったが、徐々に体が温まり、8時頃に河合村に到着。みねさんが埋葬された専勝寺には今も時々参拝者が訪れるが、それ以外には訪問者はほとんどいない。川に沿って段上に耕された農地で、米や野菜が作られている静かな谷あいの寒村だった。もう少しでここも厳しい雪に覆われるだろう。
この後は天生峠越えが始まったが、実は標高差が850メートルもあり、昨日の野麦峠並み。しかも水平距離は短いので勾配は急である。
ヒルクライム大好きなTさんは、登りが始まるとガシガシ行ってしまい、取り残されたA子さんと私は紅葉を楽しみながらゆっくりと進む。やっとの思いで到着した天生峠は、天生湿原への出発地点で駐車場には30台近い車がとまっていた。
駐車場の奥には地元の農産物売り場があり、そこでなめこ汁を作っていたおじさんと歓談。昨日野麦峠を越えて、今日は河井村を通ってきたことを話す。
「野麦と天生を越えてきたんですか! 私は河井村の出身なんですけど、自分が小さい時は、みねさんのお兄さんはまだご健在でしたよ。近所で時々見かけた覚えがあります。」
そう聞いて、私は尋ねた。
「お兄さんは、野麦峠の映画を見られたんでしょうか?」
「いや、見ていないと思います。亡くなられた後に映画化されたんじゃないかな、、。」
事実の体験者が健在のうちは、映画化が難しかったのかもしれない。
「ああ、野麦峠」の映画は大成功で、1979年邦画の興行収入第2位となった。また岐阜県においては、6週間上映という空前に例のないロングランとなった。
小説、映画に描かれたことで、野麦峠は広く知られるようになり、多くの人にとって、描かれた世界=事実として認識されるようになった。それは「真実」とは異なるかも知れないが、そもそも描かれなければ広く世間に知られることもなかっただろう。小説や映画には強大な波及力があるが、それと同時に「真実」からかけ離れてしまう介在性がある。
爽快に天生峠を下って到着した白川郷は1995年の世界遺産登録を受けてすっかり一大観光地。大勢の観光客に混ざって、茅葺屋根の葺き替え作業や合掌造りの家屋を見学。
白川郷は、古くから養蚕が盛んな地域でもあった。通気性を持つ切妻屋根は、ここで蚕を育てていたことを示している。飛騨地方で作られた生糸は、城端に運ばれ、そこで絹織物に織られていた。
この後3人は、五箇山トンネルを越えて無事に城端に到着し、輪行して富山へ。この自転車旅行に参加してくれたA子さんとTさんに感謝!
帰東して次に頭に浮かんだのは、日本の近代製糸産業の端緒となり、2014年に世界遺産に登録された富岡製糸場であった。
富岡製糸場とは、明治5年にフランス人ポールブリュナの技術指導の下、建設された日本初の近代化製糸工場である。蒸気エンジン駆動の製糸機械が導入され、従来の座繰り方式に比べて飛躍的に生産性が向上し、その技術は日本各地に普及していくこととなる。
「ん? 建設が明治5年ということは、野麦峠が明治30年代の話だから、それより約30年前のことなのか、、。」
そう思いながら私は、11月8日高崎線に乗車。終点の高崎駅で上信電鉄に乗り換えて到着した上州富岡駅は、改築されたばかりの真新しいレンガ造りの駅舎だった。
ここから徒歩15分の富岡製糸場までの道には、新装開店のお土産さんがたくさん並び、どこもなかなか賑わっている。さらに進むと、真正面に大きなレンガ造りの建物とが見えてきた。これが富岡製糸場の東繭倉庫で、3階建て、左右の全長は100メートル近くあり、目を見張る外観である。初めてここを訪れた当時の女工さんたちは、この西欧風の建物に目を見張ったに違いない。
ここが施設の入り口で、今日は小雨にも関わらず見学者がずらり。世界遺産登録の影響は絶大である。
富岡製糸場は、繰糸場、東繭倉庫、西繭倉庫がコの字型に並び、それらを取り囲むように、ブリュナ館、寄宿舎、診療所、検査人館などがある。これら1つ1つについて説明を受けながら見学できるガイドツアーがあり参加してみることにした。
「皆様、今日はよくいらっしゃいました。この富岡製糸場は、明治時代にフランス人のポールブリュナ技師を雇って建設した当時世界トップクラスの製糸工場です。レンガ造りで一見西欧風ですが、実は色んな所に日本要素が取り入れられた和魂洋才の建物なんです。」
という言葉から、そのツアーは始まった。
まずは、全長104.4メートルの東繭倉庫。フランスのフランドル積みで作られたレンガ壁は、厚みがあり、独特の模様が生じるのが特徴。実はこのレンガ、地元の韮塚直次郎が埼玉県深谷市の土壌を用いて試行錯誤を重ねて焼き上げた純国産レンガ。かつ屋根は瓦葺で、日本家屋の形をとっている。
次に、製糸場の心臓部である繰糸場に向かう前に、当時の製糸業(絹産業)の世界的な動向について説明があった。
18世紀後半にイギリスで起こった産業革命によって、ヨーロッパ全域で手工業の機械化が起こった。絹産業については、養蚕が盛んだったフランス、イタリアが中心地となったが、1860年頃に発生した微粒子病により、養蚕は壊滅的な打撃を受ける。その結果、ヨーロッパ諸国は、古くから養蚕がおこなわれており、機械化導入が可能な地域として東アジア諸国に目を向けた。この時、日本はちょうど明治維新を経て、殖産興業、富国強兵の名のもとに、西欧技術の吸収、習得に意欲満々。双方の思いはぴたりと合致し、ポールブリュナを招聘して、当時世界一の繰糸機を導入して、富岡製糸場の建設へとことは進んだ。
という当時の時代背景に納得して、いよいよ全長140.4メートル、幅12.3メートル(道路4車線分)、高さ12.1メートル(3階建てのビルに相応)の繰糸場の中へ。
中は、その大きさどおり、奥行きがあり幅も天井にも広がりがある。また、東西に面したガラス窓からは、日が差し込み、とても明るい空間を作り出している。
今、この繰糸場に設置してあるのは昭和62年まで稼動していたニッサン自動繰糸機だが、当時は真鍮製の光輝く300人繰りの繰糸機が置かれていた。
「明治時代にここにあった真鍮製の繰糸機は、ポールブリュナがフランスに特注して作らせたものです。ブリュナさんは、日本の古くからの生糸の作り方である座繰りや、日本人の体型を知っていました。そのため、座る位置を低くしたり、揚返し(最初に紡いだ生糸はまだ濡れているので、乾かすためにもう一度紡ぐこと)は装置をつけたりして、日本の風土にあう形にして導入したのです。」
ここにも、画一的に西欧の機械を導入したわけではなく、和魂洋才の精神が生かされていた。
女工さんたちの勤務時間はは朝7時から1日7時間半、ないしは8時間勤務。日曜日は休みで、夏と冬には10日ずつの長期休暇。
「富岡製糸場は、日本における近代製糸業の普及において模範となる必要がありました。そのため労働時間や休暇のありかたもフランスの基準を採用しました。」
との説明。その他にも、賄い付きの寄宿舎泊まり、病気・けがは製糸場内で無料診療という厚遇ぶり。
1872(明治5)年2月12日に富岡製糸場は、上記就労条件を掲げて各都道府県に女工募集の通達を出す。さぞかし応募が後を絶たなかっただろうと思いきや、最初は皆無だったのである。
それは技師のポールブリュナは、人間の生き血(ワイン)を飲むという噂が立ち、人々に恐れられたからであった。
そこで製糸工場長であった尾高惇忠は、愛娘のゆうに、女工第一号として応募するように促した。その後女工数は徐々に増えるが、その多くは武家や士族の家に生まれた勇気ある乙女たちだったという。そして富岡製糸場は、当初の予定より約3ヶ月遅れて、明治5年10月4日に稼動を始めることとなった。
「皆さん、富岡製糸場が作られた明治5年は、何が起こった年かわかりますか? 実は横浜にガス灯が灯され、横浜~新橋間に鉄道が開通した年なんです。つまり、この富岡の地には近代的な照明器具がありませんでした。なので、繰糸場には採光用のガラス窓をつけて、日がさす時間が労働時間となりました。この物理的な制約も、1日8時間労働となった原因だと言われています。」
まだ照明器具が普及していなかったことが、女工さんたちの労働時間に関して幸運をもたらすことになったのだ。
逆に、野麦峠の明治30年代には、日本国内に電灯が普及し始めていた。そのため、生産目標にあわせて1日12時間といった過酷な労働時間を強いることも可能だったのである。
この次は、ポールブリュナが妻とともに住んだブリュナ館へと向かった。西、東繭倉庫と同じく木骨レンガ造りで、かわいらしいベランダをもつ素敵な一軒家である。フランスのドローム県で生まれたポールブリュナは、生糸の輸出入を手がけていたエシュト・リリアンタール商会横浜支店で働くために、1866年来日。生糸商人としての経歴を買われて、建設予定の日本初官営製糸工場の技術指導者として、1871年明治政府と5年間の雇用契約を結んだ。
その給与は、年棒9000円。明治時代に、日本の近代化を目指して雇われたお雇い外国人の中では、横須賀製鉄所のレオンス・ヴェルニーの10000円につぐ高給であった。ちなみに当時の太政大臣の年棒は、9600円、一般的な職工は71円、一等女工は30円であった。つまりポールブリュナと一等女工の給与差は300倍! 現代に例えると、年収200万円と年収4億円の人が同一の工場で働いている感じだったのである。
和魂洋才の精神が最大限に発揮された富岡製糸場。そこで女工さんたちの手によって紡がれた生糸は、横浜港から海外に輸出され、貴重な外貨獲得の手段となった。その財源で、明治政府は軍備を増強し日露戦争に勝利し、鹿鳴館ではシルクのドレスをまとった貴婦人たちが西洋のダンスを踊った。その後も日本の生糸産業は、世界的な需要にこたえる形で発展し、1909年生糸生産量は清を上回り、世界最高となった。
しかしその華々しい表舞台の裏には、製糸工場に出稼ぎに行った数多くの女工さんたちの苦労があった。
富岡製糸場と野麦峠。30年の時代差はあれど、紡ぐということを考える時に、明治日本の女工さんたちによる丹念な手作業に思いをはせずにはいられない。
さて、私の手作業はというと、実はせっせと手袋編みに挑戦していた。
手首の部分は、2目ゴム編み。その後は親指までメリヤスを繰り返し、別糸をつけて、指の付け根まで。そのあと指1本1本を編んでいくのだが、どうも拾い目というのがちゃんとできていないらしく、付け根の部分に不可解な穴が開いてしまう。初回だとなかなか完璧には編めないのだろうか、、。仕方ない、と思いながら、毎晩せっせと編み棒を動かす。
そして、何日かかっただろうか。一応真冬が到来する前に、手袋完成!でもなんか軍手風、、。
さて、編み物を始めた誰しも憧れるのが、鎖のような模様が編みこまれたセーターや帽子ではないだろうか。
この鎖模様が編みこまれたセーターは、アランセーターもしくはフィッシャーマンズセーターと呼ばれ、その故郷は、アイルランドの西方ゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島だという。
西側から、一番大きなイニシモア島、中央のイニシマン島、イニシア島と並ぶ。
イニシマン島に電気が通ったのは1978年であり、本島とは隔絶された土地柄であった。
アラン諸島では、長い間自給自足のための漁業と農業が営まれてきた。そしてこの北限の島で、屈強な漁民の男達が着たのが、青色に染めたアランセーターであった。自然の羊毛は油分を多く含み、その毛糸で編んだセーターはそのまま撥水製、防水性に優れた着衣となり、荒波の寒さから彼らを守った。
一方で、純粋に羊毛のみで編まれた白いセーターは、アラン諸島の人々にとって正装だった。カトリック教徒にとって重要な儀式である聖餐式、堅信礼の儀式に着る正装だという。
アイルランドの中でも、特に経済発展という要素から切り離されていたアラン諸島。そこで代々、母から娘へと細々と受け継がれてきた編み物は、パドレイク・オショコンというアイルランドのジャーナリストによって、世界的に有名なブランドとなり、大きな市場を形成するようになった。
アイルランドのコークに生まれ、ロンドン大学でジャーナリズムの学位を得たパドレイク・オショコンは、1957年に初めてアラン諸島を訪れ、その土地の編み物に魅了された。しかし、若き働き手の島外への流出などによって、アラン諸島では編み手の数は年々減少していた。パドレイク・オショコンはその復興を目指して、大々的なマーケティングを展開する。島で編み物コンテストを主催し、海外輸出業者へ紹介し、各家庭で異なっていた編み方の統一を始めた。
西欧近代国家が都市化、経済発展の恩恵を受けつつも、それらの繁雑さ、せわしなさにやや疲弊し始めていた1960~70年代に、アランセーターは「経済発展から隔絶された島で代々受け継がれてきた編み物」というイメージを伴って、アラン諸島から旅立った。そしてそれは最初アメリカ、カナダ、その後日本に紹介され、瞬く間に世界市場で大きな名声を得るようになった。
増産に答えるために、編み手が作るものは単純な模様のみに限られるようになった。そのために、家族親類のために真心を込めて編むものだったセーターは、その理念からずれていくようになった。アランセーターが忙しい近代社会に翻弄された都市部の人々に受け入れられていく一方で、アラン諸島では、伝統的なセーターの編み方、在り方が変化して行くようになった。
その変化のきっかけを作った
パドレイク・オショコンに対する後世の評価は、分かれる。衰退しつつあったアラン諸島の編み物に復興の機会を与えたというプラスの評価。そして世界市場に参入したことがアランセーターの伝統を消失させたというマイナスの評価。しかし、彼がアランセーターを愛してやまない一人だったことは、間違いない。アイルランドの国立博物館には、彼が一生涯愛用し続けたアランセーターが今も保管されている。
北ヨーロッパには、アランセーターの他にも、伝統的な編み目や模様を織り込んだ編み物が各地にある。なかでも、ラトビアのミトン文化は興味深い。
ラトビアの少女は、将来の自分の結婚を夢見てミトン編みを習い始める。というのは、プロポーズしてくれた男性に手編みのミトンを渡すことが「Yes」と返事となるからだ。また結婚式に参列してくれた人全員にミトンを贈るのが昔からの風習で、上手な編み手は良き花嫁として賞賛された。ラトビアは、
九州と四国をあわせた程の大きさであるが、編み物の模様でどの地域のミトンかがわかるという。
地球を4分の1周して、南米へ。標高3000~5000メートルのアンデス山脈には、ビクーニャという野生のラクダが生息しており、アンデスの民は紀元前からその繊維を目的として品種改良されたアルパカを飼育していた。アルパカの毛はからないで放っておくと、2年で地面についてしまうほど成長が早く、断熱性に富み、古くからこの毛を使って作られた様々な洋服はアンデスの人々の必需品であった。
ひし形で中央に頭部を通す穴が開いているポンチョはアンデス地方原産で、紀元前800~100年に栄えたパラカ文明の時代に既に着用されていたという。また、最近はよく日本でも見かける耳が隠れる毛織物の帽子もアンデス原産で、チューリョという。
このアルパカの毛を紡ぐのに「スピンドル」が使われている。このシンプルな道具の歴史は旧石器時代にまで遡ることができるが、今でもペルーの市場などでは物を売りがてらスピンドルを使って毛糸を紡いでいる人が見られる。
最後になるが、改めて、羊と羊毛について触れてみたい。
学名 ウシ科ヒツジ属ヒツジ Bovidae Ovis aries
ユーラシア大陸には、中央アジアにアルガリ、中近東・地中海にムフロン、インドにウリアルと呼ばれる野生ヒツジが生息しており、毛や肉を目的とした家畜化は紀元前7000~6000年ごろの古代メソポタミア時代に始まった。ヒツジには、非常に強く群れを作る習性があり、これが家畜化において有利な点だったといわれる。
羊毛は、外側の太くてゴツゴツしたケンプと、内側の短くてやわらかいウールに分別できるが、野生種や初期の品種では、ケンプの割合が高かった。品種改良によって、紀元前4000年ごろにはウールタイプのヒツジが分化したといわれ、それは地中海を渡り、古代ギリシャやローマにも伝えられた。
また、野生種の羊毛の色は、大半が茶、褐色だったが、色の白いウールタイプが現れ、後に染色も施されるようになった。
キリスト教では、
「迷える子羊」
「良き羊飼い」
「神への生贄」
といったようにヒツジに様々な象徴性が付与されるが、これは紀元前からいかに人々の生活と深いかかわりを持っていたかの証明であろう。
大量の羊毛を産するメリノ種は、14世紀のスペインで確立した。この国の繊維産業の主軸を担い、その品種は近代まで門外不出だったが、内戦に乗じて流出し、後に羊毛品種として世界一の地位を獲得した。
羊:学名 Ovis aries
家畜化された群集性の強い従順な羊からは想像しがたいが、人間が畏怖するような野生の羊も、わずか150年前には存在していた。20世紀後半、北米フォートスティール近傍のロッキー山脈、タチュク・ピークには、渦を巻いた角の全長が1.3メートルにも及び、人を寄せ付けない岩稜帯を飛ぶように歩いた伝説的なオオツノヒツジの雄がいた。何十頭もの群れを従え、採餌場や塩場、危険な崖などを含めて、生息域の地理を全て知りつくし、その角を求めて銃を携えるハンターと長期にわたる戦いを繰り広げていた。
この実在したヒツジのことは、1889年に北米を調査旅行したアーネスト・トンプソン・シートンによって、「クラッグ - クートネー山のヒツジ(Krag, the Kootenay Ram)」に描かれている。
シートンの北米旅行から約100年前の1796年には、13頭のメリノ種がオーストラリア大陸に初めて移入された。広大な乾燥した大地は、牧羊を最大限に可能とし、2009年に37.8万トンの羊毛を生産し、世界一の産出国となった。
その大部分は、機械で編まれて製品化されているだろう。しかし手編みの編み物を楽しむ人がいなくなることは決してない。
アランセーターのケーブル模様には、代々続く、永続という意味が込められている。そういえば、紡ぐ、編むという言葉にもそれらの行為以外に、日々の継続という抽象的なニュアンスがこめられることがある。
コツコツとした、かつ手作りという楽しみが秘められた糸紡ぎや編み物。同じように、人々も毎日を紡ぎながら生きていく。
参考文献
あゝ野麦峠 山本茂実 朝日新聞社
シンプルがかわいい北欧の生活雑貨手作りノート 林ことみ
エストニアで習ったレース 林ことみ
ラトビアの手編みミトン 中田早苗
シェットランドのたからものニット
スコットランドの伝統手袋
ハリスツイードとアランセーター 長谷川喜美著 阿部雄介写真 東京 万来舎
世界のかわいい編み物 誠文堂新光社
遥かなる走路 佐藤純彌監督
ふわふわ、やわらかいね。毛糸のこもの 河出書房新社
棒針あみ 監修/今泉史子 日本ヴォーグ社
おしゃれ時間の手編み 主婦と生活者-ものづくりの伝説が生きる島- 長谷川喜美著 阿部雄介写真 東京 万来舎