かずちゃんを連れて歩いていると、犬を連れて散歩している人に多く行きかう。かずちゃんが興奮して指をさす度に
「かずちゃん、ほら、犬だよ!」
とささやいていたが、ただ「犬だよ!」というのも芸がないと思い、飼い主に
「何の種類の犬ですか?」
と尋ねてみることにした。
どの飼い主も愛犬のことを尋ねられるのは嬉しいらしく、笑顔で答えてくれた。
「トイプードルです!」
「シュナウザーです。」
「キャバリアっていうんですよ。」
「イタリアングレーハウンドです。」
「シー・ズーですよ。」
その日見た犬が何だったかネットや図鑑で調べてみる。するとだんだんと犬の名前や姿かたちが覚えられるようになり、町を歩いていても、かずちゃんに
「ほら、リトリバーだよ。」
「マルチーズだよ。」
とささやくことができるようになってきた。
近くの武蔵小山商店街には、ペットショップがある。
ショーウインドーの中にいる子犬は、生後2〜3か月のおもちゃみたいな小さい体で、じゃれあったり、寝てたり、おもちゃで遊んでいたりと、とてもかわいらしい。値段は私の給料3,4か月に匹敵して、とても高い。しかし買った後も、餌代やトリミング代、病気になれば保険無しでの治療代、とお金がかかるんだろうなあと想像する。
とかずちゃんは、自分より小さい子犬たちを面白そうに観察している。一緒に見ていると、犬も多種多様だなあということを改めて認識する。毛がふわふらで一番人気のトイプードル、愛嬌のあるフレンチブルドック、日本犬である豆柴はかわいい尻尾をくるりと巻き上げている。純血種同士を掛け合わせたミックスも多い。
図書館から借りた犬図鑑の中で、際立って素晴らしかったのは「世界一美しい犬の図鑑」である。原題は「Spirit of Dog」であり、豊富かつ興味深い説明文に加えて、動物写真家アストリッド・ハリソンによる犬の写真が芸術作品かと思うほど素晴らしい。
邦題に「世界一美しい」と冠したのも頷ける、、と思いながらページをめくっていると、かずちゃんが高速ハイハイでやってきて、私と図鑑の間にちゃっかり座り、パッパッとページをめくる練習を始める、、。
なので、私は夜、かずちゃんを寝かしつけた後、再度図鑑を開いてみる。
一口に犬と言っても本当に多様である。
走るために生まれてきたかのような体躯を持つハウンド系の犬。優れた穴掘り能力を持つテリアやダックスフント。ほぼ完全防水の被毛を持ち極寒の風雪をものともしないハスキー犬。成体でも片手で抱けるような超小型犬。
これだけ多様性がありながら、全ての犬はオオカミを共通祖先として持つ。
オオカミが人とかかわって暮らすようになり、犬への家畜化が始まったのは約10万年前と言われる。共に暮らすようになって、オオカミは餌と安全なねぐらを手に入れ、人は狩猟や夜間の見張りの時に大きな恩恵を受けることができるようになった。
そして時代は遡って古代文明が世界各地に出現する頃には、特徴ある犬種が見られるようになった。
最古の犬種の1つとして知られる西アジア原産のサルーキ。この犬の起源は、紀元前のメソポタミア文明や古代エジプト文明まで遡ることができる。この時代の遺物にサルーキと非常によく似た犬が装飾されており、またエジプト王の墓からはサルーキと考えられる犬のミイラが発見されている。すぐれた視覚ハウンド(目で見て獲物を追う狩猟犬)であるサルーキは、最速70キロ/時で走ると言われ、王族の狩りに用いられる傍ら、非常に大事にされて重要な地位も得ていたと言われる。犬を不浄のものとみなすイスラム圏でも、サルーキは特別な生き物とみなされている。
仏教の伝来によって生み出された犬種もいる。中国原産のシー・ズー、ペキニーズ、チベット原産のラサ・アプソである。
仏教発祥の地であるインドでは、その特徴ある容姿と強さから、ライオンは聖なる動物とされてきた。ところが伝播先の東アジアにはライオンがいない。そのため、時の権力者や仏教僧たちは、できる限りライオンと似た犬の作出に努力を傾注し交配を行ったのである。その努力は功をなし、シー・ズー、ペキニーズ、ラサ・アプソは、ライオンのたてがみの様な被毛を持つに至った。神の守護神とみなされ、宮廷や僧房では非常に大切に扱われた。
紀元前のイングランドで、マスティフは既に優秀な軍用犬であった。古代ローマの将軍ユリウス・カエサル(紀元前100年 - 紀元前44年)もガリア戦争の際に、イングランド側の軍人に付き添って猛々しい戦いをするマスティフに感動したとされる。しかし、イングランドはローマ側の手に落ち、その後マスティフはローマの円形闘技場で闘犬として戦わされることになった。闘犬には、人や家畜を害獣から守る優れた犬を見出すという目的があり、闘犬としての能力が多分にあったマスティフは、他国の権力者に贈られるという栄誉にあずかることも多々あった。
また、マスティフは、1492年マルコポーロによって「武器」として北米に運ばれている。当時、原始的な銃と共に犬は、アメリカンインディアンを駆逐するための道具だったのだ。また20世紀に入ると、マスティフは、ドーベルマンやジャーマンシェパードと共に軍用犬として利用されるようになる。斥候や伝令、さらには爆弾を背負って敵国の戦車に向かうといった用途にまで使われ、20世紀に軍用犬として命を落とした犬は、何十万頭にもなると言われる。このように、常に人の手によって血なまぐさい戦いの場に引き合わされてきたのは、マスティフの持つ類まれなる力と、冷静沈着な性質そして威厳ゆえだったのかもしれない。
闘犬としてのマスティフの血を引き継ぎ、16世紀前後に生まれたのがブルドッグである。名前の通り、ブル(雄牛)と闘うブル・ベイティングのために作出された犬で、往時は、今よりも足が長く俊敏であった。そして強靭な顎で、牛の弱点である鼻に食らいつき、牛が弱るまで離さなかったという。
しかし動物愛護の観点から闘犬が禁止となった1835年以降、ブルドックの需要は激減する。そんな中フランスで、攻撃性と闘争心を欠くように交配が重ねられ、作出されたのがフレンチ・ブルドックである。ブルドックに比べると体格も小型で、柔和で愛らしい顔つきを持つフレンチ・ブルドックは、とても牛に食い掛るような犬には見えない。
ビーグルは、元来はウサギ等の臭跡をたどって巣穴に入り込む嗅覚ハウンドであった。大きく垂れた耳が特徴的であるが、
これは、地面に触れると匂いを巻き上げ臭跡を察知しやすくする役目があると言われている。狩猟に使われていた時代には、ポケットビーグルという、馬の鞍にぶら下げたカバンにすっぽり入るほどの小型タイプが存在し、狩人に同行していた。
現在、狩猟犬としての利用はまれであるが、ビーグルは類まれなる嗅覚で麻薬探知や犯罪人の臭跡探知に活躍している。
アメリカ人の漫画家、チャールズ・シュルツ(1922-2000)が生んだスヌーピーは、ビーグル犬がモデルである。
1950年に初めて紙面に登場したスヌーピーは、その愛らしさとひょうきんな性格から全米で人気者になり、テレビアニメ化されミュージカルも演じられるようになった。スヌーピーが人気になった1960年代は、NASAによって有人宇宙飛行への試みが始まった時代でもあった。
1967年、アポロ1号はアメリカ初の有人宇宙飛行を目指すが、予行演習の際に火災が発生し、宇宙飛行士3人を含む形で司令船が焼失してしまう。この事故後、NASAのスタッフに安全性向上の意識を高めるために起用されたマスコットがスヌーピーであり、1968年に、シルバー・スヌーピー・アワードという、宇宙飛行の安全性に寄与した人への賞が創設。受賞者には、シュルツがデザインした宇宙飛行士の姿をしたスヌーピーが描かれた銀の襟章が贈られることになった。
1969年5月18日、アポロ10号は月面着陸を行うための全ての工程のリハーサルというミッションを帯びて、宇宙に向かった。この時の司令船の名前はチャーリー・ブラウン、着陸船の名前はスヌーピーであった。
5月22日、月周回軌道に入ったチャーリー・ブラウンとスヌーピーは、ドッキング切り離しを行い、着陸船スヌーピーは月面に向かって下降していった。月面15.6キロの地点まで接近し、月の潜在重力の測定や11号の着陸予定地点の観察を行い、その後再度月周回軌道まで上昇し、チャーリー・ブラウンと再ドッキングした。
そして5月26日無事に地球周回軌道に戻り、サモア諸島沖に着水。3名の乗組員は、空母プリンストンに回収され、母国アメリカへ帰国した。このアポロ10号のミッション成功は、アポロ11号の人類初月面着陸につながる重要な布石となる。
アポロ計画は1975年のアポロ・ソユーズテストで終了となるが、その後もNASAは宇宙開発における国際的リーダーの役割を果たし続けている。スヌーピー、それはアポロ計画の成功とNASAの安全性向上に多大な貢献を果たしたビーグル犬なのである。
元来は、巣穴をほって小動物を狙う狩猟犬であり、19世紀のカリフォルニアでは家屋のネズミ駆除にも活躍したテリア。
カワウソ狩りのために作出され、足には水かきがあるオッター・ハウンド。
シベリアンハスキーやアラスカン・マラミュート等のそり引き犬と同じルーツを持つといわれるポメラニアン。
スイス・イタリア国境にあるグラン・サン・ベルナール峠の僧房が生まれ故郷で、積雪時には多くの遭難者を助けたセント・バーナード。
個々の犬種に秘められた歴史は、知れば知るほど興味深い。
ある日散歩しているときに、大型犬を見かけた。かずちゃんが興奮して指をさす。飼い主の人に尋ねてみると、
「ラブラドゥードルって言います。ラブラドールとプードルのミックスなんです。」
とのお返事。
確かに、体つきや骨格はラブラドールだが、被毛はふさふさくるりんのプードルである。ラブラドールの信頼性や安心感と、プードルのやんちゃさ両方を兼ね備えていて、なんとも愛らしいと思いながら家に帰った。
かずちゃんが寝静まった後、調べてみた。
ラブラドゥードルは、犬の毛に対してアレルギーを持つ視覚障碍者から依頼を受けて、オーストラリアのブリーダーが作出した犬である。毛のアレルギーがほとんどないプードルと、盲導犬として優秀な素質を持つラブラドールを交配させたところ、両犬種の特徴を引き継いだ子犬が生まれた。この中からアレルギーを引き起こさない子犬が選ばれ、盲導犬としての訓練を受けて、依頼者に贈られたという。
そんなラブラドゥードルであるが、盲導犬というのはいつから存在していたのだろうか。
盲人が犬に引かれて歩くという姿は、古くは古代ローマの遺物や13世紀の中国の絵画に描かれている。近代になり、組織だった盲導犬の育成が始まったのは、1916年のドイツであった。元々は軍用犬の訓練をしていたハインリッヒ・スターリンが、失明軍人のために犬を訓練できないかと考えて、オルデンブルグに盲導犬訓練学校を設立したのである。
日本には1939年に初めて、ドイツ語で訓練を受けたジャーマン・シェパード3匹が輸入され、日本語や日本の交通事情に合わせて再訓練され、失明軍人に寄贈された。
現在、日本(人口1億2千万)で活躍している盲導犬は1000匹を越えその数は毎年微増しているが、人口3億5千万のアメリカでは10000匹、人口6千万のイギリスでは4000匹の盲導犬がいることを鑑みると、日本の状況はまだ十分とは言えない。
まれに、街中で盲導犬を連れて歩いている人を見かける。忠実に、主を導いているラブラドール・レトリバーや、ゴールデン・レトリバーの姿には、胸がじんとくる。
盲聾唖でありながらその障害を克服したヘレン・ケラー(1880〜1968)も、アメリカで初めて訓練されたジャーマン・シェパードの盲導犬を贈られている。またヘレンには、この盲導犬以外にも大事にした犬がいた。それは日本の秋田犬である。
彼女は、障碍者福祉のために世界中を講演して回り、日本には三度訪れているが、昭和二十三年、二度目の来日の時に忠犬ハチ公の実話を聞き渋谷駅を訪問。ハチ公像に触れながらいたく感銘を受けたヘレンは、秋田犬を譲ってもらえないかと頼んだ。その依頼を受けて秋田署の巡査が善意でカミカゼという名前の子犬を贈ったが、渡米後6か月たたないうちにジステンパーにかかり亡くなってしまう。その後、カミカゼの兄にあたるケンザンという犬が再度贈られ、ヘレンは終生可愛がった。
また渋谷駅から歩いて十分ほどのところに、ヘレンが幼い頃から尊敬していた江戸期の全盲の国学者、塙保己一(はなわ ほきいち)(1746-1821)の史料館がある。
武州児玉郡に生まれた保己一は、7歳の時に失明したが非常に物覚えがよく、13歳の時に学問を夢見て江戸へ出る。最初は盲人として按摩や鍼などの修行をしたが、雨富検校(?-1784)に才能を認められ、人が音読するものを記憶する形で、漢学・神道、法律、医学、和歌等を学んだ。37歳の時に、盲人として最高の役職である検校となり、群書類従および続群書類従の編纂に従事した。これは、古代から江戸時代初期までに作られた史書や文学作品3000種以上が治められた膨大な叢書であり、現代でも国文学を研究する上で大変重要な資料となっている。保己一は、万巻の書物を記憶したと言われ、その業績は驚愕に値するものであった
電話の発明で有名なグラハム・ベル(1847-1922)は、母と妻が聾であったこともあり、ライフワークとして聾者教育に取り組んだことでも知られている。このため彼は、個人的にヘレン・ケラーを知っており、家庭教師としてアン・サリバンを紹介した。サリバンは、この時期にベルのもとに留学していた伊沢修二(1851-1917)から塙保己一のことを聞き、ヘレンに保己一のように努力して頑張るよう伝えたと言われている。
塙保己一史料館では、語り部によるお話し会や保己一が蒐集した江戸時代の版木を刷るといった催しを行っており、かずちゃんを連れて何度か遊びに行ったことがある。建物の二階の部屋は、昭和十二年にヘレンケラーが実際に講演を行った部屋でもあり、床の間には保己一が描かれた掛け軸が掛けられている。
将来なんらかの困難が訪れた時、かずちゃんはこの二人の偉人のように、不屈の精神と努力を持って乗り越えてくれるだろうか。
武蔵小山のペットショップでは、それぞれの子犬のブリーダーの名前がわかるように表記されている。ブリーダーのところで生まれた子犬たちは、詳細な健康診断を受けて、先天性疾患や身体的欠陥がない子犬だけが店頭に並ぶのだという。
それでは、検査に受からず貰い手も見つからなかった子犬たちはどうなるのだろうか。また、一時は飼われたとしても捨てられた犬はどうなるのだろうか。
色んなケースがあると考えられるが、良い飼い主に巡り合うペットもいれば、保健所に送られて殺処分されるペットたちもいるのである。
ペットショップに行くと、ふと殺処分の問題が頭をよぎって、痛ましい気持ちになる。
殺処分を行うケースは多岐にわたる。
狂犬病の可能性がある犬、鳥インフルエンザが発生した施設で飼育されていた家禽類などに加えて、負傷して走ることができなくなった馬も殺処分される。
また「かわいそうな象」で描かれた戦時中の上野動物園での話も、爆弾落下時に猛獣が町に逃げ出す危険性を考慮しての軍部からの殺処分命令であった。
統計が残っている昭和49年(1974年)の犬猫の殺処分数は130万頭にも及んだが、これは人を殺傷したり狂犬病に罹患している恐れのある野犬等の駆除といった公衆衛生的側面が多分にあった。しかし、ペットブームが到来した80年代以降は、飼い主から手放された犬猫が保健所送りにされるというケースが相対的に増えていく。
そして殺処分の実態は、ある事件がきっかけで大きな社会問題となった。
ペットショップに出すための子犬子猫をできるだけ安く得るために、繁殖犬・繁殖猫を、狭く非衛生的なケージに閉じ込めて水や食料もほとんど与えず育て、交尾だけはさせて体がボロボロになるまで出産させ、用済みとなった後は保健所送りにするという、劣悪非道な悪徳ブリーダーの存在が発覚したのである。
ペットブームの陰に潜む凄惨な事実が明るみに出たことは、人々の意識に大きな影響を与えた。8万人を超える人の署名が集まり、2013年動物愛護法が、動物取扱業者が遵守すべき事項と違反した際の罰則の強化、飼い主による終生飼養の徹底、保健所が動物の引き取りを拒否できる権利等が盛り込まれた形で改正された。
それ以降、行政と民間団体が協力して、保健所の飼い主のいない犬猫の里親探しやと譲渡会が盛んに行われるようになり、殺処分数は急激に減少している。またマイクロチップ付き首輪の普及によって迷子になる犬が減少していることや、ある地域に住む猫たちを地元の人たちで世話するという地域猫活動による貢献も大きい。猫は、1年に2回ほど発情期があり、1回に産む子供は4〜8頭、その子猫も約6か月で生殖可能となるため、自然のままにさせておくと恐るべきスピードで数が増えてしまう。その結果保健所に送られてしまう、という不幸な猫の数を減らすために、地域猫活動では、不妊・去勢手術もできる限り行っている。
実は、私が住んでいる品川区の荏原地域にも、人と猫が一緒に暮らせる街づくりを目指して地域猫活動をしているグループがある。
ちょうど去年の今頃、かずちゃんが6か月ぐらいの時期に、1通の手紙がポストに入った。「猫と共生する街づくりを目指す会」からのもので、活動趣旨が丁寧に説明してあり、私が住んでいるアパートの敷地内にはよく猫が群れているので、確保するための罠を仕掛けたいのだが可能でしょうか?という内容だった。
猫が群れているのは、敷地内の裏庭みたいなスペースのことであり、罠を仕掛けるのは問題ないですよと返事すると、早速餌付きの檻が仕掛けられ、すぐに猫は捕まった。以来、その活動の代表者であるおばちゃんとは顔見知りになった。よく公園で野良猫に餌をやったり、糞の片づけをしたりしているのをお見かけする。
おばちゃん曰く、猫の去勢手術は本来は3万円ぐらいするのだが、団体の活動趣旨に賛同してくれている獣医師さんのところに連れて行くと半額の15000円ぐらいで行ってくれる。そのうち数千円は品川区から助成金が出るので、1匹10000円ぐらいでできる、とのこと。しかし、何匹もの猫に去勢手術を行うとなると、決して安いわけではない。また餌代もかかるだろう。募金をお願いするポスターが町内に張られているのを見るが、限られた予算で地道に猫の世話をしている様子には、本当に頭が下がる。
しかし、地域猫活動は一般人から賛同を得られるときもあれば、嫌猫家の人たちと軋轢を起こしてしまう場合もある。というのは、許容可能な猫の行動というものは、人によって異なるからである。
私は妊婦だった時に、近くの神社の池で毎年自然繁殖しているカルガモの親子の姿を見るのを楽しみにしていた。ところが、生まれたての6羽の赤ちゃんカモは、猫に襲われたのだろう、最後には2羽になってしまった。弱肉強食という自然の摂理と言えばその通りだが、カモを守る会の人たちやカモの成長を楽しみにしていた地元民にとっては、猫は許しがたい存在だったに違いない。
実は、我が家にも猫による被害がある。アパートの敷地内の花壇に球根を植え春に咲くのを楽しみにしているのだが、そこが猫にとって格好のトイレになってしまったのである。アスファルト舗装が多い都心では、猫もトイレを探すのが大変なんだろな、と思って大目に見ていたが、かずちゃんが歩き始めて花壇の周りで遊ぶ可能性が出てくると話は別である。
植物の成長には興味を持ってほしい、しかし猫のウンチには触らないでほしいという親心は、1歳のかずちゃんにはなかなか分かってもらえない。とりあえず、冬の間は寒いのでお外の花壇の周りには行かない状態であるが、、。
イギリス、ドイツ、スイスなどの諸国に比べて動物愛護に関する全てが100年遅れているといわれる日本。1日も早く殺処分が0になり、ペットと人が共生できる社会になることを祈りたい。
雪が降る地域では、昔、場所によっては現在も、犬ぞりが重要な役割を果たしている。1912年、世界初の南極点到達が成し遂げられた時も、犬ぞりがその成功のカギを握っていた。
南極大陸の存在は、既に15世紀には航海者の間で信じられていたが、実際に大陸を視認し、上陸して地理的知見を得られるようになったがは1800年代後半である。そして1910年夏、世界初南極点到達をかけて、ノルウェーのロアール・アムンセン、そしてイギリスのロバート・ファルコン・スコット率いる隊がヨーロッパを出発した。
南極は日本の40倍の大きさを持つ大陸であり、中央部に向かって窪んだクジラ湾近傍が、南極点への最短ルートとなる。半年に及ぶ大西洋南下及び南氷洋の航海を経て、1910年12月に両隊は南極に到達し、アムンセンはクジラ湾の西、スコット隊は東側にベースキャンプを設営した。アムンセン隊のルートは、南極点まで1150キロだがほとんどが未踏、一方スコット隊のルートは南極点まで1500キロと長いがほとんどが先駆者によって踏破され地形的な情報も得られているものであった。
アムンセンとスコットは、ベースキャンプ設営後、相手の隊員たちを船上に招き丁重にもてなした。こうしてお互いの南極点到達と無事生還を祈念すると同時に、静かに戦いの幕は上がったのである。
1911年前半は、ルート工作、補給所の設置、装備の点検等に費やされた。
アムンセン隊の移動手段は犬ぞりである。彼は、西方航路(ヨーロッパからカナダ北部の北極海沿岸を通ってベーリング海に出るルート)を踏破した時に犬ぞりの有用性を身をもって実感した経験から、南極においてもそれを採用した。訓練されたアラスカンマラミュートやシベリアンハスキー100頭を連れて、南極に上陸したのである。一方、スコット隊が主力移動手段として採用したのは、最新型の雪上車と馬そりであった。
1911年10月19日、南極に太陽が沈まない夏が訪れ始める頃、アムンセン隊は犬52頭が率いるそり4台で南極点に出立した。犬ぞりが曳く荷物の大半は食料と燃料である。そのため、行程が進むに従って荷物の総重量は軽くなる。巨大な氷河を越えて南緯85度36分に到達した後、アムンセンはこの後の行程は18頭の犬で行くことにし、残りは殺してそり引き犬に餌として与え、かつ自分たちの食料としても食した。
そして1911年12月14日、アムンセンは世界で初めて南極点に到達、そこにはノルウェーの国旗が翻った。しかしベースキャンプに無事に帰還できるという保証はない。もし帰路において隊員全員が命を落とした時のために、アムンセンは、南極点到達を達成したことを記したノルウェー国王宛の手紙を、スコットに託する形でデポした。
帰路白夜の中、犬ぞりは1日50キロ近くも進み、年が明けて1912年1月25日アムンセン隊は全員が無事にベースキャンプに帰還した。最初52頭いた犬は11頭になっており、犬たちの命と引き換えに得ることができた南極点到達だったともいえる。
一方、1911年10月24日にベースキャンプから南極点に出立したスコット隊は、雪上車の故障や馬ぞりの不具合等に見舞われ、ルートの大半を人力でそりを押すという事態に陥っていた。それは著しい体力の消耗を引き起こし、行程は大幅に遅れ、南極点に到達したのはアムンセンに遅れること5週間後の、1912年1月17日であった。
帰路も不運がスコット隊を襲う。3月21日、補給所まで20キロの地点で季節外れのブリザードに襲われ、スコット隊は身動きが取れなくなった。テントの中には食料は2日分しかなかったが、ブリザードは10日間も吹きあれ、隊員は全員命を落としたのである。
ベースキャンプに待機していたイギリス隊員たちによって、捜索が行われ発見されたスコットの遺体からは、イギリス女王と家族への手紙、そしてアムンセンが南極点にデポした手紙が発見され、アムンセンが世界初の南極点到達を達成したことを証明する決定打となった。両隊の結末は非常に対照的であり、その勝敗の要因の1つとして犬ぞりがあったことは間違いない。
アムンセンは、母国ノルウェーを始め各国で英雄となり、多くの講演会に招聘された。
しかしイギリスでは、アムンセンは不人気である。世界の半分を支配したイギリスにとっては、南極点到達の栄冠をノルウェーに奪われ、さぞかし忸怩たる思いだったのだろう。しかしある時、彼は講演者としてイギリスに招かれる。そこはさすがジェントルマンの国イギリス、司会者は笑みを絶やさずに、
「Well, we first would like to applause Sir Amundsen's sledge dogs!」
「まず、アムンゼン氏のそり引き犬達に拍手を!」
と言ったという。この逸話の真偽のほどは定かではないが、いかにもイギリスらしいブラックユーモアではないだろうか。
1911年、アムンセン隊はそり引き犬と共に人類初の南極点に到達した。それから57年後の1969年、アポロ11号のニール・アームストロングとマイケル・コリンズは、シルバー・スヌーピー・アワードの貢献もあって、人類初の月面着陸に成功した。人類は、犬と共に未知の場所へ挑んできた。近い将来、人類と犬は新たにどこを目指すのだろうか。
ちなみに、最近のかずちゃんは毎日が探検である。向かう先は、保育園の階段や、スーパーのミカン売り場や、公園の滑り台であるが、初めてその場所へ歩いていくかずちゃんの目は、南極や宇宙を目指した冒険家に勝るとも劣らず、輝いているように思える。
また、私は最近、かずちゃんに読む絵本や、洋服や、おもちゃに書いてある犬の絵が何の犬種かということがとても気になってしまう日々を送っている。
2018年戌年が皆様にとって幸せ多き年でありますように!
参考文献
世界で一番美しい犬の図鑑 タムシン・ピッケラル 岩井木綿子訳 アストリッド・ハリソン写真 エクスナレッジ
子犬工場 いのちが商品にされる場所 大岳美帆 WAVE出版
図説 世界史を変えた50の動物 エリック・シャリーン 訳 甲斐理恵子 原書房
Special thanks to
飼い犬のことを教えてくれた人たち