都心に住む人々は日々の生活の中で、色んな動物を見ることは少ない。例えば、十二支の動物についてはどうだろうか。
子 ねずみ 野生のねずみはなかなか見ない。一度山小屋でヒメネズミを見たことがある。
丑 うし 北海道や八ヶ岳山麓にいけばよく出会うが、都心ではなかなか見ない。
寅 とら 動物園に行かないと見られない。
卯 うさぎ ペットとして飼っていれば見られる。野生のうさぎは稀である。
辰 たつ 不可能。似たものとして水族館のタツノオトシゴ?
巳 へび 今まで山に登って蛇を見たのは、5〜6回。
午 うま 競馬場、乗馬クラブ、動物園など。
未 ひつじ 北海道の放牧地にて見ることがある。
申 さる 動物園のサル山。北・南アルプス等の山麓では野生の猿をよく見る。
酉 にわとり 小学校でよく飼育している。養鶏場が近くにあれば見るかも。
戌 いぬ 身近にいる。散歩中の飼い犬、盲導犬など。ペットショップにも。
亥 いのしし 野山に時々出る。有名なのは六甲山。
こう考えると、馬は、犬についで比較的頻繁に見ることのできる動物ではないだろうか。
馬、人はその存在に癒される。長きに渡って農耕や戦いの場で使われてきたにも関わらず、馬のあの大きな黒い瞳には、深遠な優しさと温かみが溢れている。
超ストレス社会である現代において、人は癒しを必要としている。ならばその癒しとなる馬を、探して会いに行ってみよう。私は密かに「馬見隊」と称してその活動を開始することにした。
念願の馬を見る機会は、2013年11月16日にやってきた。場所は秋葉原から歩いて数分のところにある和泉公園。この日千代田区青少年会主催の児童や障害児のためのポニー乗馬会があった。
秋晴れの下、私はその雰囲気を味わいにふらりと和泉公園に出かけた。到着した時には既に会場は大変賑わっており、幼稚園〜小学校低学年の子供たちが両親と一緒に自分の順番を待ちわびている。公園の芝生の上に作られた馬場は、約30メートル四方の大きさで、抱っこされた子供を背中に乗せて、2匹のポニーがゆっくりと闊歩する。
またその横にはポニーの弾く馬車もあり、子供達は目を輝かせてガタンゴトンと揺られるのを楽しんでいる。
温和な陽だまりと、ポニーとのふれあいを楽しむ子供たち。これ以上の平和があるだろうか。
私はベンチに座って文庫本を開いたが、あまりにも心地よくすぐに転寝してしまった。
ポニーとは小型の馬であるが、その語源はフランス語の子馬(poulenet)に由来し、肩までの高さが14.2ハンズ(58インチ、147センチ)以下の馬と定義されている。
進化学的に見ると、馬の原種であるEquus ferusは高緯度地方において寒さに適応して小型化した。また紀元前から人は農耕、輸送を目的として耐久力のある馬の品種改良を行っており、そうして生まれてきた体高が低く、たてがみや体毛が長く寸胴で、自重の数倍のものを牽引する力のある小型の馬を、肩までの高さ147センチという定義に基づいて、ポニーと総称している。
日本には、道産子、木曽馬、御崎馬、対州馬、野間馬、トカラ馬、宮古馬、与那国馬という8種の在来馬がいるが、大きさ的には全てポニーである。サラブレッドやアラブ馬が日本に入ってきたのは明治時代であるから、それ以前は名立たる武将や将軍らは、皆ポニーに乗っていたのである。
想像してみる。ポニーに乗って無敵を誇った武田軍。
しかし戦国時代の日本人男性の平均身長は158センチであり、ポニーである在来馬に乗るのがちょうどよかったとも言われている。
ポニーの次はやはりサラブレッドを見に行きたい。
私が今勤務している大森からは、大井競馬場が徒歩20分の距離にある。私はHPを見て競馬が行われている日程を確認し、11月28日、競馬に関する知識はほぼ皆無の状態で、TCK(東京シティ競馬)の門をくぐった。
入ってすぐ右側にハイセイコーの馬の像。左側には、競馬初心者のための情報提供ブースがあった。
案内を請うと、偶然にも今日は19時から、2号スタンド5階にある部屋でレースを見ながら、長年競馬関係のアナウンサーや執筆活動を続けている長谷川氏の説明を聞いて、競馬のいろはを勉強できる講習会があるという。
「私、参加したいです。お願いします。」
「ありがとうございます。では参加カードをお渡ししますね。もう会場は開いていますのでよかったらどうぞ。」
ブースのお姉さんは、終始笑顔で対応してくれた。
私はこの後パドックに行って出走前の馬が闊歩しているのを眺めた。
まじかで見るとサラブレッドの大きさが改めてわかる。この間のポニーに較べてなんと大きいのだろう。背中の高さが、馬を引く調教師の身長と同等なので160〜170センチ以上はある。磨き上げられた漆黒の体と黒い瞳。風に揺れる鬣。均整の取れた長い首と走るための下肢。
かっこいい、、、の一言に尽きる。
馬が持つ天性の速さ。草食動物である馬は、肉食動物から逃れるために、その速さを獲得した。
19時からは初心者講習会に参加して、約15人の受講生の人達とともに講師である長谷川氏の約1時間の説明を受けた。そしてなんとか、競馬新聞のあの細かい文字の羅列の見方、見せ場である第4コーナー、「差せ〜!」という言葉の意味などが理解できるようになった。
今日のメインレースとなる10番レースが後15分で開始となった。
「皆さん、競馬新聞が読めるようになりましたね。二重丸がついている本命がやっぱり固いと思いますが、2000メートルのレースではほとんどが1、2着という対抗馬に賭けてみるって言うのもおもしろいかもしれません。よかったら馬券を買ってみてください。」
と長谷川さんが促す。
私は建物の外に出てパドックに向かい、出走前の馬達を見てしばし癒された。そしてまた2号スタンドに戻って締め切り2分前に、急いでマークシートを使って本命馬を複勝で100円分購入した。
ファンファーレが鳴りレース開始。18頭の馬は一斉に走り出し、第1、第2コーナーを回って直線コースへと入る。
この時は順位はほとんど乱れないが、第4コーナーの手前辺りから、バテ気味で落ちてくる馬、前方に伸びてくる馬などが出てきて混戦状態となる。その中、本命馬が外側から他の馬を次々に抜かし、予想通り一着でゴール! 他の人たちも本命馬の馬券を買っていた人が多く、部屋の中にはわっと歓声が上がった。
やった〜! 私も勝った! 倍率はたったの1.1倍だけど、、。
手に持っていた馬券を見ると、本命馬の名前ではなく、別の馬の名前が書いてある。あれ?
競馬新聞を見て愕然とした。私は、2枠3番の本命馬の代わりに1枠2番の馬券を買っていたのだ。
ああ〜、なんと初歩的な間違いを犯してしまったのか! 当っていたはずなのに〜!
悔しい! 100円だろうが、1.1倍だろうが、この失態は許しがたい!
はたと気付いた。今日の目的は馬を見ることである。勝つことではない。ダメである。賭け事をするとどうしても打算的になってしまう。
サラブレッドの、時速60キロになる風を切る優雅な走りを、今日2時間にわたって見ることができた。それだけで十分ではないか。ちなみに大井競馬場への入場券は100円。賭けなければ、この値段でサラブレッドの姿を堪能して、走りを見て、日常の茶飯事からつかの間離脱することができる。
ポニーもかわいい。サラブレッドもかっこいい。他に馬といえばどんな種類がいるのだろうか。私は動物園のHPを覗いてみた。
上野、東武、ズーラシア、、、。
とても感心した。どの動物園のHPも非常に充実しており、
園内にいる動物を、系統分類別、生息地別等にみることができ、場合によっては動画や鳴き声まで見ることができる。馬の親子の動画は、形容し難いほど愛らしい。
首都圏の動物園にいる馬達
上野動物園
・ハートマンヤマシマウマ
・ミゼットホース
・ロバ(ショウロ)
多摩動物公園
・グレイビーシマウマ
・モウコノウマ
横浜ズーラシア
・モウコノロバ
・ウマ
横浜市金沢動物園
・ポニー
東武動物公園
・シマウマ
・ポニー
動物園の馬のHPを見てうっとりしているときに、私はものすごい情報を発見した。なんと東武動物公園の隣の乗馬クラブで、ポニーではなくサラブレッドへの乗馬体験ができるらしい。さっそくネットで申し込み。
私は以前一度馬に乗ったことがあり、かつその時落馬した。それは大変恐ろしく痛みを伴う経験だったが、10年以上も経つと幸せなことに記憶はあいまいとなり、悪いことは薄れていく。あの時の馬はかっこよかった、、落馬するまではとても楽しかった、、。私は予約した12月7日が来るのを嬉々として待った。
当日、東武動物公園駅から発車するバンに乗って、乗馬クラブ・クレインに到着。このクラブは国内で最大規模を誇り、厩舎には150頭の馬、そして約2300名の会員を持つ。
今日私の担当となってくれたSさんという笑顔のお兄さんも、12年前にここで初めて馬に乗り、夢中になっていつしかここで働くようになった。
乗馬用のブーツ、上半身を支えるための上着(ライフジャケットのようなもの)を着て、ヘルメットをかぶり準備完了。
「今日乗る馬は、シアトルスタークという18歳の馬です。若いときは競馬でも走っていたんですよ。もう今は人間で言うとおじいちゃんですね。」
Sさんの後について、厩舎に向かいそのシアトルスタークとご対面。確かに年相応の雰囲気で、落ち着いて人生を振り返る余裕を持つ雰囲気がその黒い瞳から感じられる。
「触ってあげてください。今からよろしくって。」
促されて、私は馬の額に触れた。大きな目が瞬きする。こういうやさしい温厚な馬が、乗馬初心者を乗せてくれる。
Sさんはシアトルスタークを誘導ルートつきの馬場に運び、踏み台を使って私はその背に飛び乗った。おお、やはり想像していたように高い。でも高さにつられて前かがみになってしまうのではなく、逆に背筋を伸ばして前方を見てしっかりと座るよう言われる。
「そう、いい感じです。で、馬に歩いてもらうためには両足で馬のわき腹を蹴ります。」
言われた通りにやるが、動かない。
「もう一回。動くまで頑張って蹴ります。」
ポン、ポンと蹴ると、馬はカッポ、カッポと歩き出した。ずーっと蹴り続けていてもダメで、馬の足運びが悪くなったときに強くぽんと蹴るのがコツ。馬も生き物なのでこちらから上手いタイミングでメッセージを送ることが大事である。
自分より遥かに大きい動物の背中に自重を預けるのは、とても安心感があり、かつ適度な緊張感も併せ持つ。この感覚が、身体・精神面ともに良い作用をもたらすのだろう。日本ではまだ社会的認知度が低いが、欧米ではHippotherapyと呼ばれる乗馬療法が確立され、難治性の筋肉硬化症や自閉症、脳性麻痺、言語障害、精神障害等の治療に用いられている。
3、4周歩いた後、
「じゃあ今度は軽く駆け足にします。背が揺れますので僕の声にあわせて立つ・座る、立つ・座るを繰り返してください。」
さっきよりも速いテンポで馬のお腹を蹴ると、シアトルスタークはトコトコと駆け出した。お兄さんの掛け声に合わせて、立って座ってを繰り返す。
「馬の動きとぴったり合うようにするとお互いに力の衝突がなくて快適になります。これをマスターして自分で馬が扱えるようになると、暴れん坊将軍がやっているようなパカラン、パカランという走り方(ギャロップのこと)ができるようになります。こうなったら、乗馬は補助輪が外れたって感じですね。」
その乗り方、憧れる。しかしそれにはどれぐらいの練習量が必要なのだろうか。
「乗馬の上達は乗る回数に比例します。でも内田さん上手ですよ。初めてですぐに立つ、座るができる人はそうはいませんから。ここのメンバーは月4〜5回のレッスンを受ける人が多いんですが、内田さんなら1年も乗れば、すぐにギャロップができるようになりますよ。」
とお褒めの言葉。
あっという間に45分経ち、体験乗馬はここで終了。馬から下りて、シアトルスタークを厩舎に帰し、私たちはまた建物の中に戻った。
「ブーツやヘルメットを外しましょう。その後、乗馬クラブ・クレインについてご説明いたします。」
その後Sさんは、お茶を用意してくれ、熱心に乗馬クラブの会員にならないかと勧めてくれた。これが今日の彼の仕事の山場である。
興味がないことはなかったが、やはり乗馬は高かった。おおよその値段を述べると、初期入会金15万円。月謝8000円(馬の餌代となる)。45分のワンレッスンへの参加料2000円。
「う〜ん、、。山にもけっこう頻繁に登っているのでなかなか乗馬にコンスタントに参加するのは難しそうです〜。」
とお断りし、その後はSさんと雑談した。
馬術はオリンピックの競技種目であり、現役の日本代表選手は72歳の法華津寛(ほけつ ひろし)さん。
「72歳? で、現役なんですか?」
「そうです。馬術は体力の限界が問題にはならないんですよ。走るのは馬ですから。」
というSさんの説明は一理あるが、海外の馬術の選手が皆高齢な訳ではない。やはり法華津さんは特別なのだ。東京オリンピック(1964年)からロンドンオリンピック(2012年)までの世界最長のオリンピック出場記録(48年間)を持つ法華津さん。是非2020年も目指してほしい!
乗馬のスタイルにはイギリス式とウェスタン式がある。
「ウェスタン式はアメリカのカウボーイが元となっています。だから鞍も違うんですよ。」
乗馬用具のパンフレットの写真を見ると、両方とも皮製ながらイギリス式はシルクハットのように黒一色で、ウェスタン式は茶褐色で植物のつた模様が施されている。
楽しく乗馬体験を終えて、この後は東武動物公園をお散歩。そこには、ポニーや、マントヒヒや、ジェンツーペンギンの群れがいた。やはり動物は愛らしく癒しを与えてくれる存在である。大人になっても、動物への好奇心とふれあいが、幼き頃の純真無垢な気持ちを呼び起こしてくれる。
サラブレッドに関することだが、私には1つ疑問があった。本家イギリスでは、競馬は上流階級の人たちが楽しむためのものだったのに、日本に導入されて、いつから親父の賭け事の代名詞のようになってしまったのだろう。
今でも欧州の有名なレースではドレスコードがあって、正装していないと競馬場入場を断れることがある。そういえば、この間大井競馬場でもらった競馬新聞には、オルフェーブルの凱旋門レースの記事が載っていたが、写真に写っている人々は皆紳士淑女たる格好をしていた。
日本では、G1レースでもほとんどの親父はジャンパーにジーパンである。浅草や水道橋にある場外馬券売り場の、あの混沌とした汚さは、東京の中で異質であろう。上流貴族の社交の場として始まった明治時代の競馬は、いつから赤ペンとジャンパー親父の社交の場と化してしまったのだろうか。
会社帰りの図書館で「浮世絵 明治の競馬」という本に出会った。明治に花開いた洋式競馬の諸事情が、当時描かれた浮世絵とともに説明されている。
洋式競馬が日本に入ってきたのは、幕末であった。
1858年、井伊直弼は日米修好通商条約を結び、函館、横浜、長崎の3つの港が諸外国に向けて開港され、同時に外国人が住むための居留地が作られた。そこには本国と寸分変わらない文化・風習が持ち込まれ、その中にはイギリス国民が愛する競馬もあり、横浜の居留地には馬場が作られ定期的にレースが開催されるようになった。この居留地競馬が日本における洋式競馬の始まりである。
1862年、横浜近郊の生麦村で馬乗りを楽しんでいたイギリス3人が、薩摩藩主島津久光の大名行列とかちあい、馬上ゆえに上手く道を譲れなかったことが原因でその場で無残にも殺傷された。この生麦事件はイギリス側の賠償請求、下手人引渡し等に薩摩藩が応じなかったことが原因で1863年に薩英戦争にまで発展した。
イギリス艦隊の強靭さを痛感した幕府は、翌1864年に諸外国の緊張を緩めるために「横浜居留地覚書」を締結。これは、以前からイギリスが要望していた乗馬のできる遊歩道と競馬場の建設を盛り込んだもので、1866年に横浜港近傍の根岸に競馬場が建設された。
翌1867年、明治維新。近代国家たることを諸外国に示すべく、明治政府は国を挙げて西欧諸国から法律や学問、軍隊システムの導入を行い、そして文化面においては鹿鳴館の舞踏会と共に、洋式競馬の振興・奨励に空前の力が注がれることになる。
当時の根岸競馬は主にイギリス人がメンバーの横浜レースクラブがレースを企画・主催していたが、明治11年には日本レースクラブが誕生。この会には日本人の入会も認められ、記念すべき第1回目のレースには明治天皇からは金銀銅象嵌銅製花瓶一対、また宮内省、陸軍省、内務省、外務省からも賞品が供され、華やかに開催された。
明治3年(1870年)招魂社競馬(現、靖国神社)
明治12年(1879年)三田育種場競馬(現、港区芝)
明治12年(1879年) 戸山競馬(現、新宿区大久保)
明治17年(1884年) 上野不忍池競馬
と次々に競馬場が作られ、文明開化の象徴となった明治天皇が天覧するレースも行われ、競馬場は駐日外国人と政府要人等が交流し、後に不平等条約を改正し日英同盟締結に至る政治外交の場として重要な役割を果たすようになる。
ちなみに伊藤博文も西郷従道も馬主であり彼らの勝負服もあった。伊藤は白に赤の袖、西郷は紅白のストライプ柄である。
当時レースに出ていたのは、主に日本・中国の在来馬、居留外国人が乗馬用に使っていた馬、またそれらの雑種等であったが、日本の馬は他国の馬に較べて体格、走力等が劣っていた。日清(明治27-28年 1894-1895年)・日露(明治37-38年 1904-1905年)の二大戦を通じて政府はそれを痛感することになり、富国強兵の名の下に、明治37年(1904年)、臨時馬政調査委員会と馬政局が設置され、国策として馬匹改良30ヶ年計画が策定された
しかしそれには桁外れのお金がかかる。日本は明治32年(1899年)に初めてオーストラリア産のサラブレッド30頭を購入し種馬としての利用に成功するが、これは国家予算レベルの買い物であった。そこで馬匹改良の資金源として注目されたのが馬券の売買だったが、当時の明治政府は賭博を堅く禁止していた。
実は、居留地にあった根岸競馬は治外法権だったため、開設当時より馬券の売買が行われていた。明治32年、根岸競馬は居留地競馬場としての契約期限を迎える。国に返還されると同時に賭博も禁止されるはずであったが、明治35年(1902年)に調印された日英同盟かつ明治政府の親英政策が影響し、返還後も馬券による賭け事は公然と行われた。こうした背景があり、かつ、馬券の売買を伴う競馬産業の振興が馬匹改良のために重要であることを認識していた桂太郎内閣は、明治39年(1906年)、馬券の売買を黙許(非公認ではあるが許可)するに至る。
同年、池上競馬場を拠点にしていた東京競馬会は日本で初めて馬券を伴った競馬を開催。これには多くの観衆が集まり1日で96万円もの売り上げを上げた。当時の公務員の給料が50円だったことから換算すると、96万円は現在の38億円に当たる。日本全土が競馬と馬券の可能性に沸き立った。当時レースに使うことのできた馬数を考慮し競馬場の数は8ヵ所に規制すべきという加納久宣、安田伊左衛門らの声があったものの、水の流れには逆らえず、馬政局には200以上の競馬法人の申請が出され、国内には競馬場が次々に乱立していった。
ちなみに当時の競馬場入場料は、一等が3〜4円(12000-16000円)。二等が2円(8000円)。馬券は一枚5〜10円(20000-40000円)であった。( )内は、入場料OR馬券/当時の公務員の初任給50円の比率に、20万円(現代の初任給に相当)をかけた数値である。金銭的に見ても、やはり競馬を見に行くのは桁外れに高嶺の花だったのだ。
賭け事が様々な問題を引き起こすのは、いつの時代でも同じらしい。
相次いで作られた競馬場では経験を積んだ運営団体が不足していたこともあり、配当の不明瞭、不正、未払い、詐欺などの問題が頻発した。また、賭博禁止の中で競馬だけが例外であるのは何故か、金儲け先行の競馬は馬匹改良に結びついていない等の批判が、政府と軍部に相次ぎ、わずか2年で馬券販売は禁止となった。
その後も馬匹改良を目的として、補助金競馬、景品競馬という形で競馬は続けられるが黙許時代のような盛況さは見られなかった。また日本は、第一次世界大戦(大正3-7年 1914-1918年)でも軍馬の劣勢さを再度体験し、大正12年(1923年)に馬券の売買を公認とする旧競馬法が成立した。昭和11年には日本競馬会設立。しかし戦局が悪くなるとともに競馬開催は不可能となり、昭和20年に日本は終戦を迎えた。
富国強兵という名の下に馬匹改良を推し進めていた日本は、敗戦後その意義を失った。しかしGHQの監督の下国営競馬という形で細々と競馬は続けられ、それを引き継ぐ形で1954年(昭和29年)に日本中央競馬会(JRA)が設立された。
時代はもう戦後ではなかった。日本中央競馬会は、レジャーとしての競馬を普及させるためのキャッチフレーズを作った。
昭和29-39年(1954-1964年) 明るく楽しい中央競馬
昭和40-44年(1965-1969年) 楽しさは一家そろって中央競馬
昭和45-48年(1970-1973年) 新しい心の世界が発見できるフィーリングスポーツ
また競馬場入場料、馬券の金額と公務員の初任給は、この時代に下記のように推移している。
( )内は、馬券OR入場料/初任給の比率に、20万円(現代の初任給に相当)をかけた数値。
公務員初任給
昭和29年 8700円
昭和39年 19100円
昭和49年 72800円
馬券(日本中央競馬会設立よりずっと100円)
昭和29年 100円(2299円)
昭和39年 100円(1047円)
昭和49年 100円(274円)
入場券(日本中央競馬会設立より昭和51年までずっと100円)
昭和29年 100円(2299円)
昭和39年 100円(1047円)
昭和49年 100円(274円)
給料に比して入場料や馬券はぐんと安くなり、キャッチフレーズがターゲットとしたのは庶民だった。明治とは大きく時代が変わったのだ。こうして競馬は庶民の手が届くスポーツとなった。
昭和47年(1972年)に大井競馬場でデビューし、後中央競馬に移籍後も連勝を続け、空前の社会現象を伴う第1次競馬ブームを引き起こしたハイセイコー。1980年代に、第2次競馬ブームの火付け役となったオグリキャップと武豊。全盛期だった平成9年(1997年)のJRAの売り上げは4兆6億円と言われ、北海道の日高地方で産声を上げた新たな駿足馬に人々は夢を賭ける。
他に馬を見れる場所が、もう1つあることを私は思い出した。
国道1号線をずっと南下して多摩川を渡った左側に川崎競馬の練習場がある。以前、多摩川沿いにランニングしに行った時にその練習風景を見かけたことがあり、もう一度見に行きたくなった。
12月17日、私は朝6時45分に家を出て自転車で多摩川に向かった。
朝7時過ぎに着いた練習場では、朝露に濡れた芝生の馬場に、優に20頭を超えるサラブレッドが疾走して闊歩していた。
自転車を降りて柵の前に立つと、自分の立っている地面は馬場と同じ地面になった。馬が走るたびに、ドドッドドッという地鳴り音が響いてくる。競馬場のスタンドの高みから見るのとは異なる距離感。そして同じ空気を通して伝わってくる振動と深みと温かみ。
私は疾走してくるサラブレッド、闊歩してくるサラブレッドの写真を何枚も撮った。
しばらくすると、一人の騎手が私のところに近寄ってきて
「撮るなら、もっと近くで撮っていいよ。」
「わあ、本当ですか?」
馬の鼻息が感じられるほどの近さで一枚。
その直後、騎手のお兄さんが
「あれ、馬が逃げちゃっている。」
「え?」
その方向を振り向くと驚いたことに、手綱を振り払い、眼が血走り興奮したサラブレッドが自由と躍動感をみなぎらせて、馬場を走り抜けていく。そして、その後を調教師の人たちがあわてて追いかけていく。
「ええーっ! 大丈夫なんですか?!」
「時々あるんですよ。数年前国道まで出ちゃったのがニュースになって。」
とお兄さん。私は初めて知ったが、そういう珍事が2004年にあったらしい。
競走馬が国道1号を逃走 ニンジンにつられ“御用”
今日はそのサラブレッドは無事に練習場の出口のところで取り押さえられた。
7時30分。会社に向かうべく、私は練習場を後にして自転車をこいで六郷橋を渡った。東の空からは、薄雲の隙間から朝日が差し込んでくる。西側には、山頂から裾野に向かって白雪を羽織った富士山の秀麗な姿が見える。
今日も一日、頑張ろう。
ふと感じた。日々の生活は、馬に例えることができるのではないか。
疲れたときには癒しを必要とし、元気な時は勢いに任せて疾走するときがある。
その繰り返しで、いつしか経験と知恵と思慮が培われていく。
2014年午年は、癒しと駿足を兼ね備えた年になるよう、心から祈念いたします。
2014年元旦
参考文献
動物とふれあう仕事がしたい 花園誠編著 ジュニア新書
ピンチさんのハッピーホースマンシップ 馬と仲良くなれる本 ドロシー・ヘンダーソン・ピンチ著・イラスト 牧浦千晶訳
浮世絵 明治の競馬 日高嘉継 横田洋一 小学館
Special thank to
東京競馬場博物館
Wikipedia