35歳のバリ、ロンボク

私は大学院の時にフィールドワークのために長期滞在していたので、インドネシア語がしゃべれます。そのおかげで地元の色々な人々と交流することができました。それを頭の片隅においてお読みいただければ幸いです。

便名
D72653 Tokyo - Kuala Lumpur
QZ7618 Kuala Lumpur - Surabaya


9月16日


ジャワ島東の州都であるスラバヤ空港に到着したのは、9月16日のお昼だった。入国審査場を抜けて建物の外に出ると、なつかしい熱帯の真昼の太陽光線がそこにはあった。 今日は、スラバヤから東へ向かってバルラン国立公園へと向かう。
バスの隣に座ったインドネシアの男性は私のことを一見して笑顔で
「どこから来たの?」
と尋ねた。私は自己紹介をして、今日はバルラン国立公園まで行くこと、その後10日間かけてバリ島、ロンボク島を旅行する予定であることを述べた。彼の名前はパンチャと言い、スラバヤ在住在勤であるが今週末は実家のあるシトゥボンドの街に帰るという。
「バルラン国立公園のちょっと手前の街だよ。」
「えっ本当ですか? じゃあご一緒してもいいですか?」
「もちろん、喜んで。」
うれしい旅の道連れである。
インドネシアでは長距離のバスが出発する前に、水やジュース、ピーナッツや揚げ豆腐、揚げせんべいなどの売り子の人たちがバスの中に入ってきてここぞとばかりに商売に励む。パンチャさんは、手ごろなものを手際よく全て2個ずつ買い、私の膝の上に置いた。
「食べてみて。おいしいから。」
「えっ。お金は?」
「大丈夫。気にしないで。」
「本当? ありがとう、頂きます。」
私はパンチャさんに素直に感謝し、揚げ豆腐の袋を開けた。賑やかな売り子達が降りた後に、長距離バスは発車してスラバヤの街を走り始めた。

途中で大きな川を渡った。
「Tanggulって知ってる?」
とパンチャさんが聞く。私は首を振った。初めて聞くインドネシア語の単語である。身振り手振りと易しいインドネシア語を駆使してその言葉が「堤防」だとわかった。この川の堤防が日本の技術協力によって作られたものだという。それができる前は、洪水のたびに周辺の家屋は大変な被害を受けた。人々が住まいを変えざるを得ないこともしばしばだったという。

2時間ほど経ってようやくパスルアンの街に着き、ここで別のバスに乗り換えた。ひびが入ったフロントガラスにはテープで補修がしてあり、もちろん冷房は効いておらず、座席のシートからは綿がはみ出している。しかしこういうバスこそが本当のインドネシアであることを私は思い出した。売り子達が降りた後でバスは出発したが、何故かその乗降ドアは半開きのままである。風通しはいいが、なんか危なっかしい。そんな私の気持ちを見通してか、パンチャさんは笑いながら
「はいこれ。食べ終わったらそのドアから道路に捨てれば大丈夫だから。」
といってさき程売り子から買った茹でとうもろこしを1本くれた。

パスルアンからは高速を降りて一般道路になる。気付くと道行く車の量は大分減っており、二車線道路の両側には田んぼや水牛が見られるようになった。

パンチャさんと私は話題が浮かぶとおしゃべりに興じ、疲れたら眠り、時々お互いに携帯電話や本を見ながら時間を過ごした。何かの話がきっかけで年齢が同じ35歳であることが分った。プロボリンゴの街を過ぎると日が暮れ始め、暗くなったパシール・プティという海岸の町を通った。
「パシール・プティって意味わかる?」
「うん。白砂。」と私は答えた。
「すごくきれいな海岸なんだよ。小さい頃よく家族で遊びに来た。」
見たかったな、と思いながら私は夜の闇に包まれた窓の外に目をやった。

さらに1〜2時間ほど東に進むと道路の両側に明かりのついた家屋が見られるようになって来た。シトゥボンドの街である。
「もう少しで僕の降りるバス停だよ。」
とパンチャさんが言う。
「そうですか、、、。本当に今日はお世話になりました。一緒に過ごせてとても楽しかったです。お菓子もごちそうになってしまって、、。」
「僕も楽しかったよ。いい旅を続けてください。」
バスが止まった。彼は運転手に私がバルラン国立公園で降りることを入念に伝え、手を振りながらバスを降りて行った。

それから小一時間ほどまたバスに揺られ、やっとバルラン国立公園についた時は既に夜の8時30分をまわっていた。バスから降りて腰を伸ばした。あたりを見渡すと、ゲートのところで夜勤のおじさんたちがのんびりとタバコをふかしている。私は尋ねた。
「すみません、今日国立公園のゲストハウスに泊まる予約をしているものです、。スラバヤからのバスがとても時間がかかって、、。」
「君、日本からかい?」
「はい、そうです。」
「そうかあ、よく来たねえ、。」
おじさんの1人がそう言いながらゆっくりと腰を上げて内線をかけ、私に予約があることを確認してくれた。そして、バイクを指差して言った。
「ゲストハウスは、ここから15キロほど公園の中に入ったところなんですよ。送りますので後ろに乗ってください。」
「ありがとうございます。でもゲストハウスって何にも食べるものないですよね? 実は夕飯がまだでとてもおなかが空いているんです。」
私の切実な訴えを彼は理解してくれて、近くの屋台までバイクで送ってくれた。私はそこでナシ・アヤム(鶏肉定食)を食べて、再度迎えに来てくれた彼のバイクの後ろに乗って、ゲストハウスへと向かうことになった。
砂利道を心地よいスピードでバイクは進んで行く。この国立公園に勤めて27年になるというおじさんは、日給750円で、今まで一度も昇給がないと文句をいいつつも、野生動物の宝庫であるここで働くのは満更でもなさそうだった。様々な野鳥が見られること、数種の霊長類がいること、水牛やバッファローの群れがサバンナを横断することを誇らしげに語ってくれる。
「サバンナがあるんですか?」
「ここら辺一体がサバンナだよ。この国立公園があるジャワ島東部はとても雨が少ないからね。」
と説明されるが辺りは暗く、バイクの明かりで照らし出された前方には潅木のシルエットだけしか見えない。
30分ほど進むと、木立の中に忽然とゲストハウスが現れた。バイクのおじさんは私のことをそこの管理人に引き継ぎ、ガソリン代を請求して又ゲートまで帰って行った。案内された部屋はせまく四隅にはくもの巣が張っていたが、ベッドのシーツだけは新しく見えた。私はザックを降ろしてすぐにそこに横になった。

しばらくすると何か得体のしれない微小なものが肌の上を飛び交う感じがする。
「蚤? ダニ? 南京虫?!」
私はばっと起き上がり、Tシャツをはたき、そしてザックからシュラフカバーに包まって床上で寝ることにした。

9月17日

4時45分のアラームで目が覚めた。私は靴をはき、日の出前の薄闇の中、ゲストハウスの裏の展望台のある所へ登り始めた。驚いたことに、ふと気付くと、木々の上には一匹、いや三匹、いやいや十匹を越えるサル達がいたのである。
彼らはメガネをかけた闖入者(私)の様子をじっと窺っている。これではまるで立場が逆だ。
「サル山のサルを見てるみたい」ではなくて、
「サル山の中のサルみたい」なのである。
私はやや動揺しながらも静かにその場を通り抜けて、展望台のはしごを登った。



展望台の上から、、、、!!

朝日に照らし出されたその大地は広大なサバンナだった。
良く見ると無数の潅木の間を何か動物の群れが動いている。私は双眼鏡を取り出した。それは水牛かバッファローだった。日の出とともに彼らはどこに行くのだろう、50頭を優に超える群れがサバンナを横断している。遠方には、バルラン山がそびえ、逆方向には海が見えそれが水平線につながっている。広大という言葉の意味を目の前に見ながら、私は思わずため息をついた。

展望台を降りて、サル山のあたりに差し掛かると大半の親ザルたちは動きを止めて私に視線を向けたが、何匹かの子ザルはそのまま駆け回り鳴きあって、何かけんかをしている様子だ。なるべく彼らの邪魔をしないように足早にそこを駆け下り、私はバマ海岸までの遊歩道を歩いてみることにした。

樹高2〜3メートルの低木に混ざって所々に10メートルを越す樹があるが、乾季のためにほとんどの樹は葉を落としており、まるで日本の落葉樹林のような印象を受ける。しかし気温は半袖と短パンでちょうどよく、太陽の上昇とともに大気に熱が籠もりつつあった。約1時間歩いて海岸に出た。

白い砂に青い海、誰もいない静かな砂浜に1隻のボート。




ん、、?

と思いきや、ボートの周りに何かいる。目を凝らすとサルたちが中腰になって何かを取る作業を繰り返している。地元の人に聞いてみると、サルたちは砂を掘って貝を採っているのであり、それは人間も食べる貝だという。私はその仕草があまりに人間味溢れていたことに驚いた。

帰り道は遊歩道ではなく、四駆が通る道路の方を歩いて行くことにした。地平線まで続くサバンナの中に忽然とある鳥が現れ、私は思わず目を見張った。

孔雀である。

3羽が列になって歩いており、道路にさしかかった途端先頭の1羽が、ついで2羽、3羽目と鮮やかに空に羽ばたいた。特有の飾り羽が重そうに見えるが、それを上回る渾身の力を込めて翼をはためかせて3羽は空を横切って行く。
「孔雀ってインドネシアにいたのだろうか?」
と疑問に思いつつも、その幸運な光景は強烈に私の頭に刻み込まれた。
(バルラン国立公園にいたのはジャワマクジャクだった。インドクジャクがインド、中国、マレー半島に、コンゴクジャクはコンゴ盆地に分布する。)



バッファローの頭蓋骨

ゲストハウスに戻ると、そこには四駆が止まっており、大きな単眼鏡を持った白人の男性と、双眼鏡を首からかけた2人のインドネシアの男の子が到着していた。話しかけてみると、ペドロという白人の彼はわざわざスペインから地球を半周してバードウォッチングに訪れ、これから2人のガイドを連れて国立公園内を散策するのだという。
「よかったら一緒に来るかい?」
願ってもないお誘いである。私は何度も頷き、まだ20代と思われる若い2人のガイド君にも笑顔で挨拶した。
ペドロは、2日前はバリ島のバニュワンドという町のリゾートホタルに泊まり西部国立公園の探索を楽しみ、昨夜はジャワ島のイージンリゾートに泊まった。奥さんと一緒の旅行だが、彼女はバードウォッチングには興味がないので、今日午前中はプールサイドでのんびりしているという。なんか私とはだいぶスタイルの異なる旅行者のようだ。
「今日の夜はどこにステイするんだい?」
と聞かれ、
「えっと、、今日はバリ島に渡ってロビナ辺りで宿を探そうと思っていて、まだ決めてないの。」
とだけ、私は答えた。
つい先ほど歩いてきたバマ海岸までの道路を今度は4人で歩き出す。野鳥愛好家のペドロはもちろん、大学で鳥類学を専攻し今はバリ島の西部国立公園で専任ガイドとして働いているという2人はさらに博学であった。片方のガイド君は、研修で北海道に行き、タンチョウのフィールドワークを手伝ったことがあるという。3人はすぐに鳥を見つけて単眼鏡で確認し、2人が英語と学名を使ってペドロに説明する。そんな3人にかろうじて私も混ざって単眼鏡をのぞかせてもらう。紅の鳥、黄色の鳥、熱帯の動植物は不思議なことに多くが色鮮やかな原色である。

この後私は、国立公園の外にある渓流沿いでのバードウォッチングにも彼らとご一緒させてもらった。バルランのサバンナと違ってここは水があるため、20〜30メートルの樹高の森林が成立しており、見られる鳥種も大分異なる。その樹冠の葉の合間に、野生で見られるのはとても珍しいオウムを見つけたといって3人は小声で興奮しだした。
「見えるよ。」
と言われて、単眼鏡をのぞくが、最初は全て葉っぱにしか見えない。
「ほら、後ろ向きになって枝に止まってるんだけど。」
と言われて、ようやくその存在がわかった。
驚いた。そのオウムの色は、メリットのシャンプーの色を濃くした感じで、自然界にあるとは思えない非現実的な色なのだが、それが熱帯雨林の葉の色とは一分たりとも変わらないのである。進化と適応放散の最適例、それが単眼鏡の中にあった。



バードウォッチングをした小川

バードウォッチングは満足な終わりを告げ、4人は四駆に乗り込んだ。ペドロがイージンリゾートに戻る途中で、私はバリ島へのフェリーが発着するクパタン港で降ろしてもらうことになった。

私はこのツアーの支払いをどうすればいいか悩んでいた。高度の専門知識を持つ2人のガイドを連れ、かつホテルへの送迎付き、けっこうな料金がかかったに違いない。飛び入り参加とはいえ、いくらかペドロに払うべきだろう。
(英語)"Pedro, I would like to ask how much you paid for this tour?"
(訳)「ペドロ、このバードツアーにいくら払ったんですか?」
(英語)"Oh, don't worry!"
(訳)「そんなの、ぜんぜん気にしないでくれ!」

と一蹴されてしまう。そんな、、いいのかなと思いつつも、私はその好意に甘えることにした。

クパタン港到着。私は3人に何度も頭を下げてお礼し、お昼にナシ・ブンクス(バナナの葉に包んだご飯とおかず。昔の日本人が食べた笹にくるんだおにぎりとたくあんみたいな感じだろうか。)を買ってフェリーに乗り込んだ。



さあ、バリへ!

ジャワ島とバリ島を隔てる海峡は直線で10キロにも満たない。1時間もしないうちにフェリーはバリ島のギリマヌック港に到着した。この近くにある西部国立公園の散策をしようかと思ったが、ガイド料金がとても高かったのであきらめ、私は国道を東に向かって歩き始めた。公園の辺縁部を走るその道には、驚くほど多くの猿たちがいた。ニホンザルに比べ、小柄で尾が長く、全体が灰色っぽい。しかし、怪しいものに気付くとぴたっと動きを止め、仲間に知らせる様子などはいかにも霊長類らしい。

1時間ほど歩くと道路は国立公園から離れ、ある小さな町に入った。ちょうどお昼すぎで、二部制の午後の学校に通おうとする子どもたちが多くみられる。時々「ハロー!」と声をかけられ「サラマット・シアン!」(こんにちわ)と返事をすると、目を見開いて驚いた様子。その町を抜けたところでちょうどアンコタが来たので私はそれに乗り込んだ。

*アンコタとは。
インドネシア各地を走る乗り合いバス。運転手は地元の人なので遠くの町までは走らない。長距離をアンコタで移動する場合、A町からB町、B町からC町、C町からD町と別々のアンコタを乗り継ぐ必要がある。都市間バスに比べ遥かに安いが、乗車客の希望する場所全てで止まるのでとても遅い。



アンコタの扉は常に開いている

アンコタは地元の小学生、買い物帰りのおじさん、おばさん、サトウキビや薪の束を抱えた人など様々な人を乗降させながら進む。30分ほど経つとほとんどの人は降り、運転手と助手席に座っているおばちゃんと私の3人だけになった。不意に聞かれた。
「お客さんはどちらまで?」
「えっと、、今日中にロビナまで行こうかと思っているんですが、、、」
「ロビナ? アンコタを乗り継いでは絶対に無理だよ。」
「まだロビナまで70キロ近くあるわよねえ。」
「都市間バスももうロビナまでは出ていないだろうなあ、。」
運転手が近くのバスターミナルに止まって聞いたところ、やはりロビナ行きのバスは全て終わっているという。私は焦った。すると助手席のおばちゃんが
「よかったら今日はうちに泊まりなさいよ。大きな立派な家ではないけれども。明日の朝、またアンコタを探せばいいわ。」
ありがたいがお世話になっていいものだろうか、私はその言葉に悩んだ。しかし悩もうにも選択肢がない。
このおばちゃん、悪い人じゃない!
私はそう判断して、
「わかりました。本当にいいんですか。じゃあすみませんが今日一晩泊まらせてください。よろしくお願いします。」
頭を下げた。

アンコタはバニュワンドという町に入りおばちゃんことポトさんの家の前で止まってくれた。私は彼女に手招きされて、ヒンズーの小さな社がついた門をくぐり、床はタイル、玄関には簾とバティックがかけられているインドネシアらしい風通しのいい家の中に入った。ポトさんは家にいた妹さんに私のことを紹介し、手早くお茶とお菓子を出してくれ、一休みしたらこの町にある公衆浴場を見に行かないかと誘ってくれた。

彼女が運転するオートバイで向かったその場所には、温かい湧出水が出ておりそれが自由に使えるようになっていた。また近くには密な森林に覆われた湖沼があって、子どもたちが水浴びをしたり大人たちがバティックを洗ったりしている。インドネシアの田舎町の素顔が垣間見られて非常におもしろいのだが、なんせやぶ蚊が多い。私は手足をパンパンと叩きながらポトさんに頼んで家に帰ってもらった。

既に日が沈んでおり、家には妹さんのほかに、ご両親、10代の男の子、ガードマンをしているという40代の男性がいた。彼らは遠い親戚らしく、しばらくして6人での夕飯となった。献立はお母さんが焚いてくれたご飯、ラム肉を炒めたもの、近くの屋台で買ってきた焼き鳥である。
「ごめんなさいね。ちょっと野菜不足だわね。」
とポトさんが言う。確かに野菜と言えば、辛みを加えるためにつぶしてペースト状にした唐辛子だけである。不足というか皆無に近い。
「ううん。ぜんぜんだいじょうぶです。このラム肉美味しいですね。」
薄暗い台所の隅でありがたくそのご飯を頂く。

そのあとはリビングルームに移動して皆で輪になって歓談となった。ポトさんはなんと私と同じ35歳。今日はデンパサールで働く夫の家から実家のバニュワンドに帰ってきた。 結婚は2回目で、1回目の夫との第一子は幼くして死亡、第二子の親権も夫に取られてしまったという。同い年ながら全く異なる人生であることに驚く。しかしポトさんは悲壮感はなく、とても前向きで明るく振舞っている。

ふとしたことから、肩こりやマッサージの話になり、彼女は
「いいものがあるの。夫が勧めてくれたんだけど。」
といって中国式吸引筋肉痛解消具なるものを取り出してきた。おわん状のものを 痛みのあるところに押し当て、中の気圧を上げて肌面を吸引する。こうすると痛いのだが、老廃物の排出につながるらしい。私達は変わりばんこにそれをやって、吸引されて真っ赤になった肌を見て笑いあった。明日、私は夕方3時までにウブドに行く必要があることを伝えると、ポトさんは、それならアンコタに乗り継いでいっても十分時間があるわ、と太鼓判を押してくれた。

9月18日


朝6時、日の出と鶏の元気な鳴き声とともに起きた。ポトさんも私に合わせてすぐに起きて、国道沿いのアンコタ乗り場までオートバイを運転し、
「さあ一緒にいいアンコタを見つけましょう。」
と言って一緒にベンチに座った。
まだ朝が早いのでアンコタに乗車客がいない場合は、運転手にぼられることがある。次々とアンコタが通過して行くが、
「あれもダメ。」
「まだ早いわ。」
と彼女に言われ続け、いたずらに時間だけが過ぎて行き、私は焦燥感だけが募った。しかしようやく30分近く経って、ポトさんが手をあげて1台のアンコタを止めた。そして運転手に
「彼女、ウブドに行きたいの。上手く乗換えを教えてあげてね。」
といいながら、私に乗るように促した。
一晩とはいえ、なんと親切にしてもらったのだろう。私は何度も頭を下げた。アンコタがゆっくりと発車し、手を振るポトさんの姿が小さくなっていった。
アンコタは色んな人を乗せては、色んな人を降ろし、1時間近く走ってペンガストゥランという街に到着した。運転手は別のアンコタの運転手に私のことを引き継ぎ、さらに2時間ほど揺られて、バリ島の州都、デンパサールの街に到着した。交通量も多く、クラクションがけたたましくなる。アンコタから降りた瞬間に3人の男性が一斉に
「プギマナ?(どこに行きますか?)」
と私に尋ねた。長時間のバスの中の座りっぱなしで私は疲れていたが、少し頑張って値引き交渉してウブドへ行ってもらうことになった。

約1時間後に到着した、バリアート発祥の地ウブド。しかしここも私の心を休めてはくれなかった。1930年代の初期のヨーロピアンアーティストたちがバリの自然に感銘を受け、創作活動を行ったときは素敵な街だったのだろうと思う。しかし今はメインストリートの両側に途切れることなく、絵画、彫刻、手芸品を始めとするとみやげ物を売るお店が並び、それらの原色の渦の中に放り込まれて私は目まいがしそうになった。
とりあえず中心部からやや外れたところにある静かなお店に入ってナシゴレンのお昼を食べた。さらに町外れに向かって歩いて行くと、釣から帰ってきたと思われるグループがアイスボックスの中から巨大な魚を取り出しているところに遭遇した。



巨魚。何号のテグスを使うのだろう。

お客さんを連れてバリ北東部の近海で釣った魚だという。
「釣りに興味があるならここに連絡してくださいよ。」
と名刺をもらったが、釣りツアーの値段はなんと200ドル! 外国人観光客向けのツアーはとても手が出ない。
とあるリゾートホテルの庭から迷い込んだ田んぼの青々とした美しさに感動したり、ハネムーンにバリに来ているというフランス人のカップルと話したり、ヒンズー寺院を訪ねたりして時間を過ごした。



日本とは違ったお寺の境内。

そして予定通り15時にウブドインフォメーションセンターの前で、私はアグン山登山のガイドをお願いしているウクットさんに会った。彼は身長は私とほぼ同じ、肩幅広くがっしりとした体格で東アジア系の顔立ちを持つおじさんだった。お互いに挨拶をして会釈をする。これからアグン山の麓のムンチャンという町にある彼の自宅へ行き、今夜はそこで泊まって翌朝アグン山に向かう。

彼の車の助手席に座りながら、私は今日はバニュワンドからアンコタを乗り継いできたこと、デンパサールの混雑には驚いたことを言った。
ウクットさんはバリ島は昔から観光地だが、観光客数は未だに増えており、車も多くなり、デンパサールの渋滞は年々ひどくなっている。アグン山登山する人も増加している、と言った。
「今までに、日本人、イギリス人、スペイン人、フランス人、たくさんの人と登ったよ。」
という彼は、ガイドが専門ではなく、地元中学校の教師をしている。
「何を教えてらっしゃるんですか?」
「Bahasa Ingris. (英語です。)」
と聞いて私は驚きかつあきれた。というのはガイドを依頼するために、私は日本から何度も電話をかけることがあったのだが、一言も英語を話さないので、アグン山はインドネシア語しかできない地元ガイドとの山行になると覚悟していたのである。
「ウクットさん、なんで英語話さないんですか。」
「Kena malu malu.」(だって、恥ずかしいじゃないですか。)
と彼は照れ笑いする。インドネシアも日本も英語の先生のレベルはさほど変わらないと思われる。

ウクットさんはお客さんからの依頼があると学校を休んでアグン山のガイドをする。というのも教員の給料よりもガイド料のほうが遥かに割が良く、校長先生もその点を甘く見てくれるらしい。恐らく、ガイドをした後にウクットさんのおごりでおいしいものでも食べに行くのだろう。
ムンチャンは山麓の小さないい街で美しい渓流があり、そこでラフティングもできる。アグン山に登る人はムンチャンに泊まる人も多いという。

低緯度の熱帯では太陽が沈むのが速い。夕暮れの色が空に流れ始めたかと思うと、30分も経たないうちに空には星が光り始め、ムンチャンのウクットさんの家に到着した。ポトさんの家と同様に、門の横にはヒンズー教の小さな祭壇があり、中では小柄で笑顔のかわいらしい奥さんが夕飯の支度をしていた。
テーブルに座ると、ウクットさんは今までに一緒に登ったお客さんが書き残していったメッセージノートを見せてくれた。夕飯を食べながらその思い出話を聞いたりして、私達は和やかに話し続けた。ふと私はガイドの代金のことを思い出してたずねた。
「ウクットさん、すみません。、再確認ですけど、アグン山のガイド料金は電話でお尋ねしたとおり、、。」
「はい。120万ルピア(約12000円)です。」
「えええっ? 20万ルピアじゃないんですか?」
私は思わず聞き返した。
「120万ルピアですよ。」
彼は訝しげに私の顔を見た。

私が日本から電話で確認したとき、ウクットさんは確かに「20万ルピア」と言った。しかしインドネシアの人は、時々語頭をとても弱く発音することがある。つまり、私はインドネシア語の「百二十」の「百」に当たる部分を聞き逃したと言うのだろうか!! しかし20万ルピアが120万ルピアに跳ね上がるのはいくら何でも予算オーバーである。私とウクットさんはお互いを見据え、しばし構える姿勢を取った。そして値段交渉を始めたが埒が明かない。明朝は2時出発であるため、この揉め事は明日に持ち越しとして寝ることにした。

9月19日



夜空に満点の星が広がっている時に出発し、登山口となるパサールアグン寺院には30分ほどで到着した。寺院の門の前で、ウクットさんがインセントに火をつけてお祈りをささげ、その後ヘッドランプをつけて登山開始。私の方がペースが速かったため、お互いにつかず離れずの距離を保ちながら登る。
途中で別のグループに会うと、私は西欧人には英語で、インドネシア人のガイドの人にはインドネシア語でアグン山登山の値段のことを聞いた。その結果、参加人数によって40万〜120万ルピアと幅があること。ガイドの人は、ガイド代として1日20万ルピア、運転手は10万ルピアもらっていることがわかった。それらから判断すると、ウクットさんはさほどふっかけた値段を言っている訳でもないらしい。
「やっぱり私の聞き間違いかあ、、。しかしやられた、、。」
そんな思いを抱きながら、山頂に到着。東に位置するロンボク島、リンジャニ山から登ってくるご来光を拝む。山頂にはヒンズー教の神の仏像があり、ウクットさんはそこでもインセントを立ててお祈りしていた。また、驚いたことに、この荒々しい岩峰の頂きに登山者の食べ物を狙って猿が登ってきていた。
下り坂でウクットさんに120万ルピアの内訳を聞くと、
パサールアグン寺院への寄付が5万ルピア
ガイド代30万ルピア
ウブドームンチャンの送迎費20万ルピア
ムンチャンー寺院までの送迎費15万ルピア
家での宿泊費10万ルピア
登山後、目的の街までの送迎費40万ルピア
だと言う。
私は下山後に、バリ島東海岸のアメッド村までの送迎を頼んでいたが、公共バスを使えば5万ルピアがいいところだろう。私はそうしたい旨を伝え、アグン山のガイド料を80万ルピアに負けてもらった。
寺院まで降りて振り返ると、アグン山が堂々と裾野を広げて青空の中に聳え立っている。バリ島の人々にとって聖なる祈りを捧げる対象。


アグン山を振り返る。

一旦ムンチャンのウクットさんの家まで戻り、シャワーを浴びてお昼をご馳走になった後、公共バスに乗ってアムラプラという街へ。ここから別の公共バスに乗り換えてアメッドへ向かうのだが、そのバス乗り場がどこにあるのかよく分らない。私は道を聞くべく、HONDAのバイク修理店にいる兄ちゃんに声をかけた。
「すみません。アメッドに行きたいんですが、公共バス乗り場はどこにありますか?」
「アメッドに行きたいの? 君、旅行者だよね。一緒に行こう。僕達アメッドから来たんだ。」
2人の兄ちゃんはとてもにこやかに話しかけてくる。
「えっ、でもお金は?」
「お金なんていいよ。もう僕ら友達なんだから。今、バイク修理が終わるのを待っているからそれがすんだら一緒に行こう。僕はロマン。」
「こんにちわ。僕はエディー。」
私は2人と握手して
「あ、どうも。あゆです。よろしく。」
と言いながら、なんて人懐こいいい人たちなんだ、信じていいのかなあ、、まあいいだろう! と判断した。
それにしても驚いたのは、彼らの英語の流暢さである。2人は大学はおろか、高校も卒業していない。アメッドに来る観光客と会話して、その会話の中から吸収して覚えて言ったという。英語ができればいい仕事につける、様々な可能性が開けるかも知れないという思いが彼らの中には強くある。
語学は学歴じゃない、必要性だ。私は脱帽した。
バイクの修理が終わり、私はエディー君の後ろに乗ってアメッドへ向かった。20分ほど進み、小さな峠を越えると遠くには青く輝く海が見えた。
「おお、海だ。すごい!」
「あの奥がアメッドだよ。」
バイクは風を切りながら走る。

アメッドについて彼は知り合いが働いているアルンというホテルに私を案内してくれた。



こんなに素敵で1泊15万ルピア(約1500円)! 泊まることに決定〜!

私は荷物をおいた後、早速海岸に散歩にでかけた。黒砂の海岸には、地元の人が漁に使うヨットが何艘も並んでおり、海面はどこまでも純粋に青い。私はTシャツと短パンで海に入り、しばしばお遊びスイムを楽しんだ。水面下を覗くとカラフルな熱帯魚がすぐ足元にいることに驚かされた。

夜はエディー君に誘われてバンドの生演奏が聞けるというカフェへ。既にお店には、ロマン君始めその他アメッド村の20〜30代の男の子達、そして白人の観光客が大勢いる。アメッド村の彼らは皆、黒のタンクトップにシルバーのネックレスと、胸筋と上腕が目立つ服装で、いかにもビーチボーイズといった格好。そんな彼らの仕事はダイブマスターである。しかしそのレベルは様々で初級であれば仕事は少なく、シュノーケルの道具を貸し出すお店の店番になってしまうらしい。ここで、彼らは西欧人、日本人の女の子らに声をかけ、「あわよくば!」という状況を夢見る。

このカフェで西欧人のカップルに「日本人ですか?」と声をかけられた。話を聞くと2人は世界を旅行中でインドネシアに来る前に、2ヶ月間主に四国を旅してきた。砂アートの芸術家という2人は、高知桂浜で竜馬の砂像を作製し、それが9月9日の高知新聞に載ったと言う。だんなさんはもう6年も旅しており、途中で奥さんと出会い結婚。2人での旅は既に3年近くになる。私は気になって訪ねた。
「そんな何年も旅を続けるなんて、旅費はどうやって得てるんですか?」
「僕達は、砂アート以外にもアクセサリーを作ってそれを売ったりしている。みんな不思議がるけど、旅を続けるために必要なのは、本当にわずかなお金なんだよ。」
と、吟遊詩人みたいなことを2人は言う。
「ふーん、そっか。そうなんだ。いいねえ。」
と私は相槌を打ったが、
そんなこと、できるはずない。
途上国に2ヶ月ならともかく、日本にである。どんなに少なく見積もっても食費、宿泊費、交通費で20万円は必要だろう。アクセサリー販売だけでその金額、さらには次の国に行くための飛行機代を捻出できるとはとても思えない。
しかし、まあ、世界には不思議なことをしている人がいる。帰国したら、2人の作った竜馬像が載った新聞記事を探してみよう。
(帰国後に9月9日の高知新聞を取り寄せると、竜馬像の横に立つ2人の写真がカラーで載っていた。ポリシーとしてその土地を立つ前に作った像は壊してしまうのだという。残念!)

帰りもエディー君のバイクに乗せてもらう。
「楽しかった?」
「うん、面白かった。誘ってくれてどうもありがとう。」
「ちょっと海に寄って行く? 光るバクテリアが見られるんだ。」
私は直感で、エディー君、口説きモードの入ったな! と思ったが、光るバクテリアも見たかったので連れて行ってもらった。

波の音が暗闇の中に響く。そしてその波の合間に蛍光色のものが1,2秒光るのが見られる。ルシフェリン反応で蛍光色を発する海生バクテリアの一種だろう。
「座ったら?」
とエディー君は言ったが、そうでもして手でも握られたら大変だと思い、私はかたくなに立ち続けた。
「いつ、アメッドに戻ってくる?」
「そうねえ、まずお金がないと難しいよねえ。」
と軽く流すと、
「いつまでも待つよ。だから僕のこと忘れないで。I will wait for you here.」
と、まるで、映画でヒーローがヒロインに言いそうな台詞を彼は言う。私は、インドネシア語で
「エディー君、知り合って1日も経たない女の子にそんな言葉使ったらダメだよ。もっと大切な時が来るから。そのときのために取っておきなさい!」
と彼のことを諭した。

アルンホテルまで送ってもらい、1人になって考えた。
インドネシアに人たちは優しい。特に男性は女性旅行者にものすごくやさしい。それは国民的な気質もあるが、それだけではない。
経済格差が誘発する親切心と恋心。そう思うとちょっと悲しい。

そういえば、今日は朝アグン山に登ってきたのだった。私はベッドに横になると、ぼろきれのように熟睡した。

9月20日



この日は、港町であるパダンバイまで行き、そこからフェリーに乗ってロンボク島に移動する予定だった。エディー君は親切にも「パダンバイまで送るよ。」と昨日言ってくれたのだが、今朝会うと、風邪を引いてしまい体調が悪いと言う。
「本当にごめん。」
代わりにと言って、彼は、アメッドの海岸から切り立っている小さな裏山の散策に連れて行ってくれた。鶏の鳴き声、牛を引き連れているおじいさん、椰子の葉で作られた家々が並ぶ。観光客用のホテル、レストランが並ぶメインストリートとは一転して、ここは地元の村人が生活している場所だった。
しばらく登った所に小さな椰子作りの家があった。ここに祖母が住んでいると彼は言い、
「ばあちゃん、俺来たよ。いるかい?」
と声をかけた。家の中から声がして、彼のおばあちゃんが覚束ない足取りで出てきた。ぼろぼろに着古されたシャツにスカート、足は裸足、顔には濃いしわが刻まれている。2人が何か日常会話を交わす中、家の周りには数羽の鶏がコッコッと鳴きながら歩いている。
下山途中に私は尋ねた。
「おばあちゃんは何歳?」
「えっと、70、、いやもう80歳かな。」
「お子さんは何人?」
「9人。」
「すごいね。」
孫にいたっては一体何人になるのだろう。いかにもインドネシアらしい家族構成。数十年後、この国に高齢者社会、少子化と言った問題が起こるのだろうか。間違いなく起こるだろう。その時、現在の日本が講じている社会的な対策が何か有用な手本になりうるだろうか。

エディ君が止めてくれた軽トラの荷台に乗せてもらいアメッドを出発。途中海岸に並ぶ製塩の網台を見ながら進む。アムラプラで公共バスに乗り換え、約2時間後にバダンバイのフェリー乗り場に到着した。

乗船から出航までには大分時間があって、その間地元の物売りたちは船上で尾弁当や飲み物などを売る。その売り声をぼんやり聞いていた私の隣に、バイクのヘルメットを持った黒髪の東洋系の若い女性と、初老の白人男性が並んで座った。
「ロンボクに行くんですか?」
と訪ねると、
「ええ。私はロンボクの生まれなんです。彼はオーストラリア人です。」
と彼女は白い歯を見せて笑った。フェリーは汽笛を鳴らして、ゆっくりと岩壁を離れた。4時間近くの船旅の間に、色々話を聞いて私は二人のことを知ることができた。白人の彼は、70年代からオーストラリアのパース在住でバリ、ロンボクを何度も訪れ、今年の5月にロンボクのスンギギに一軒家を買った。2人は今そこに一緒に住んでいるが、まだ婚姻関係は結んでいない。今度彼女を1ヶ月パースに連れて行くために、デンパサールのオーストラリア領事館に書類を提出する必要があったのでバイクでバリ島に渡り、今日はその帰りだという。
私がロンボク等に行くのはリンジャニ山に登るためだと言うと、2人は目を見開いて、すごく素敵なところだと聞くけどまだ行ったことがないんだよ、と言った。

ロンボク生まれの彼女は、私と同年代だろうか。オーストラリアの彼氏は、もう引退しており既に孫がいそうな年齢である。しかし、2人は年齢差など気にする風もなく、お互いに寄り添って眠り、起きれば顔を近づけて笑いあった。彼女の奥さんはなくなったのか、もしくは離婚したのだろうか。私は勝手な想像をしながら、バリ、ロンボク等に存在する幾多もの国際恋愛に思いを馳せた。

日中の暑さが過ぎ去り、夕暮れの気配が感じられ始めた頃、フェリーはやっとロンボク島のレンバールについた。港に降り立ち、30万ルピアと声をかけられたタクシー代金を20万ルピアに値切って、私はリンジャニ山トレックセンター(略:RTC)のあるスンギギの町に向かった。

リンジャニ山はロンボク島北部に位置する3726メートルの信仰の山で、かつ観光地でもあり、私も明日から2泊3日の登山ツアーに参加する。スンギギのRTCに到着し、日本にいるときから何度もメールで連絡を取っているロニさんと初めて対面した。彼は笑顔で迎えてくれ、明日からのトレッキングには私と3人のオーストラリア人、インドネシア人のガイド、そしてポーター3人の合計8人のパーティーになること、また明朝は5時に宿に迎えに来てくれることを説明した。ツアーの代金は、200万ルピア(約2万円)で、本来ならインドネシアルピア、US、AUS、シンガポールドルの現金払いのみだが、私が日本円しかないことを伝えると、ロニさんは、後で自分が換金すればいいからと言って快く受け取ってくれた。

私はRTCを後にして、夕飯を食べるために近くの屋台に入り、シーフード野菜炒め定食を注文した。しばらくすると表通りを歩いていたお兄さんと少年が私を見て足を止め、笑顔で「日本人ですか?」と声をかけてきた。話をしてすぐに、お兄さんは、RTCとは別のツアー会社員、少年は木彫りのアクセサリーの売り子であることがわかった。しかし、残念ながら私は既にRTCのツアーに参加すること、アクセサリーはあまり身につけないことを告げた。

ロンリープラネット2007年度版には、リンジャニ山ツアー会社としてRTCしか記載されていなかったが、お兄さんの話によると、今は数社あり互いに客取り競争をしているという。表通りに立ち並ぶホテルやレストラン、ATMからも窺えるように、ロンボク島にもバリ同様に観光地化の波が押し寄せている。

シーフード野菜炒めはおいしかった。しかしこともあろうに、おかずの中にホッチキスの針が入っていたのである。私は誤飲しなかったことに胸をなでおろし、その後店員にインドネシア語で文句を連ね、夕飯代を値切って店を出てきた。ホテルに帰り、シャワーで汗を流して就寝。

9月21日

朝4時30分に起きて、フロントにいた男の子にコーヒーを注文した。それを運んできた彼は、
「日本人ですよね。」
と私に尋ね、
「アリガトー。コニチワー。」
と言った。
「上手だね。他には?」
「他は、、コレ。ソレ。アレ。ワタシハ。アナタハ。スゴイ。」
「上手上手。」
私はそう言ってコーヒーを一口飲んだ。彼は今17歳、ロンボク島の州都マタラムのクッキングスクールで勉強する傍ら、週に数回スンギギのホテルの調理場で働いている。スクールは1クラス約20人でほとんど男子。将来は調理長になりたいという。

日本では大手自動車会社や電気産業に正社員として勤めることが安定しているように、観光業が島の経済の半分を占めるバリ、ロンボクでは観光産業に勤めることが一番安定しているんだと思った。しかし、インドネシアの高級リゾートホテルは、地元の従業員の数か月分の給料に匹敵する金額を一晩で使うような客を主立って迎える。(多くのリゾートホテルの宿泊費は一晩2〜3万円。インドネシアの平均月収は1万円。)そのあまりに大きな経済格差に申し訳なさを感じずにはいられない。

5時10分過ぎにロニさんが迎えに来てくれ、私は車の中で今日から3日間後一緒するオーストラリアの3人と初めて顔を合わせた。60歳を迎えるというドンさん、娘のクリスティーさん、その夫のジョーシさん。そして私を含めた4名を今回ガイドしてくれるのがロンボク生まれのマリキ君。我ら5名を載せた車は、スンギギを出発し、朝市の準備に賑わうマタラムの街を通過し、リンジャニ山麓東部にあるスンバラン・ラワンの村に向かった。

徐々に日が昇り始めると、道路には小学校に向かう生徒達の姿が多く見られるようになった。イスラム教徒として男の子は濃緑色の帽子、女の子は髪を隠すスカーフを付けている姿がなんとも愛らしい。中には、腕白そうな男の子が楽しそうにスクーターを運転して走って行く。インドネシアは正式な免許が取得できるのは19歳からであるが、マリキ君曰く、村の中に限ってはその年齢から多少若くても咎められないらしい。なんともアバウトなルールである。

ジョーシさんはアイルランドの生まれで、オーストラリアを旅行中にクリスティーさんと出会い結婚。今は3人ともパースに在住し、ドンさんの60歳の誕生日をリンジャニ山頂で過ごす計画を立ててロンボク島に旅行に来たという。

約2時間半かかり、丘陵地帯に田畑が広がる標高900メートルのスンバラン・ラワンに到着した。ここで待っていたネティさん、ヘラさん、ジョエルさんの3人が、今回テント、シュラフ、マット、食料、水などの荷物を運んでくれるポーターだった。マリキ君は、彼らを紹介した後、
「村の人が作ってくれたパンケーキがあるから、それをどうぞ朝ごはんに食べてください。」
と勧め、自分は忙しそうに車に積んであった荷物を3人のポーターたちと分配し始めた。
私達は、パイナップル入りのパンケーキを食べながら、日本、オーストラリアの景気について話す。

ド)「日本は、地震、津波と本当に災難だったね。その後はどんな感じなんだい?」
私)「まだまだまだ、問題ありまくりですよ。原発問題は収束していないし、半年近く経つのにまだ避難所で暮らしている人がいるし。輸出で成り立っている国なのに、節電ではそれも打撃を受ける一方で。」
ジョ)「そうかあ。今、日本の非雇用率って何パーセントぐらいなんだい?」
私)「5パーセントぐらいかなあ。」
ジョ)「じゃあ、必死になれば仕事が見つからなくもないんだね。今のオーストラリアもそれぐらいだよ。イギリスが今経済危機で、非雇用率が10パーセントを越えているらしいよ。」
ド)「オーストラリアは、貿易でアジア圏と結びついているから、ヨーロッパの不況の影響を受けにくいのさ。」
ジョ)「そのうち、オーストラリアがイギリスの移民を引き受けるかも知れないよ。」
ジョーシさんが、オーストラリアは元々イギリスからの罪人の移民で作られた国だという歴史的経緯を逆手にとって冗談を言ったので、私達は大笑いした。

マリキ君は私達が和んでいる様子を見て安心したらしく、
「このメンバーはいいね。団結しているよ。そろそろ出発しようかと思うけど、大丈夫ですか。」
と声をかけてきた。ポーターの3人は、先に車で行ける所まで出発したが,私達はここから今日のテント場である標高2700メートルの地点まで歩くことにした。

快晴の中、雄大に裾野を広げて聳え立つリンジャニ山が目の前に見える。しかし、その裾野のあちこちからくすぶった煙が立ち込め、場所によってはタオルで口元を押さえて歩く必要があった。
「マリキ君、これブッシュファイヤーだよね。やっぱり乾季だとこうなるの?」
「一部は焼畑のためにやっているんだけど、そうではなくてタバコや焚き火の消し忘れで燃えているところもある。でも、今年は乾季が異常に厳しくて、自然発火している場所もあるんだよ。」




黒い煙が立ち込める。炎は立っていない。

休憩ポイントについて、話はタバコのことになった。マリキ君始め、インドネシアの大半の男性は、まるでそれがたしなみであるかのようにタバコを吸う。逆に女性の人はほとんど吸わない。値段も1箱、50円と安い。日本では最近値上がりして1箱400円前後になった。またここ近年、公共の場では分煙が進んでいる。方や、オーストラリアではタバコは1箱1500円! その値段引き上げによって喫煙人口は20パーセントも減少した。さらに非喫煙者であるバーテンダーが肺がんになったことを訴えて勝訴したという事件があり、それ以来バーにおいても全面禁煙になった。タバコ事情、国によって様々である。

さらに1時間ほど歩いて到着したひらけた場所には、多くの登山者がお昼を兼ねて休息していた。リンジャニ登山者の多さに驚くとともに、周辺にはその数に比するように、プラスチック、ペットボトル、生ゴミなどのゴミも多い。ネティさん、ヘラさん、ジョエルさんの3人は既に到着しており、やや離れたところで煮炊きを始めていた。マリキ君は彼らに手を振って合図した後、
「じゃあ、ここでお昼にします。今、彼らがヌードルを作ってくれているから。その前に飲み物を入れるけど、コーヒー、紅茶どちらがいい?」
と私達に聞いてまわった。ポーターの3人は荷物を運ぶだけでなくご飯も準備してくれる。こんな大名山行、生まれて初めての体験である。

野菜と卵が入ったヌードル、スライスしたきゅうり、トマトが添えられたお昼を食べながら、マリキ君を交えて5人は英語で色々と話した。リンジャニ登山に来る観光客は、主にフランス、ドイツ、オランダ、チェコ、カナダ人で、ここ数年登山者数は毎年増加している。それとともにゴミ問題も悪化しており、大学生やボランティアのメンバーを中心に年3回ゴミ拾い活動を行っているが、それだけではとても追いつかない。それはこの場所の様子を見ても窺える。

マリキ君がまだ少年だった1994年、リンジャニ山は大爆発し、このときに現在河口湖の内部に位置するバル山が出現した。その時にはスンバラン・ラワンの村にも多くの被害が出たという。
ドンさんが訪ねる。
「日本には火山があるのかい?」
「もっちろん! 火山だらけです。マウント・フジも火山ですよ。3776メートルだからリンジャニ山よりちょっと高いです。」
「そんなにマウント・フジは高いのか! 日本には2000メートル以上の山はいくつあるんだい?」
「2000メートル以上だったら余裕で100座はあります。」
私がそういうと、オーストラリアの3人は目を見開いた。日本の20倍の国土を持ちながら最高峰が2228メートルのコジオスコという国の感覚からすると、日本の急峻ぶりは信じられないらしい。
ドンさんは仕事をする傍ら山にも精力的に登っており、数年前にマレーシアのキナバル山、その前にはケニア山に登りに行った。
「アフリカは素晴らしかった。」
と彼は言う。でもエイズの羅漢率、女性の人権のなさは、想像を絶するほどひどく、アフリカの女性には生まれたくないと思ったという。
マリキ君はガイドになるために3ヶ月間のコースを受けた。ある程度の英会話能力が必要で、25キロの荷物を背負って様々なリンジャニ山のコースを歩く訓練、緊急時に対処できる訓練、観光客に色んなことを説明できる訓練を受けて、無事にガイドとして仕事を始められたという。この仕事を初めて既に4年目。時には、下山して翌朝また登りに来るというハードスケジュールのときもあるが、基本的にはとてもこの仕事を楽しんでいる。

ドンさん、ジョーシさん、クリスティーさんは食欲がなかったのか、お昼を全部食べずに残した。ポーターの3人は食器を受け取りに来て下げてくれたが、私は、彼らがそれをどうするのか気になった。そしてトイレに行くために、煮炊きする場所の近くを通りかかった時に、彼らがその残り物を隠れるように食べていたのを目撃してしまったのである。確かに、山中では残飯は捨てないほうがいいし、残り物を食べるという形を取れば結果的にはポーター3人の担ぐ荷物は減る。しかし、そう思ったときにふと3人と目があった。私が笑って右手を挙げると、彼らも笑顔で手をふり返した。

その次の休憩ポイントで休んでいると、お昼の片付けを済ませてその荷物を背負ったネティさん、ヘラさん、ジョエルさんの3人が到着した。太い竹の前と後ろにシュラフやマット、食料の入った袋などを結びつけ、それを飛脚のように担いでいる。私はヘラさんの持っているそれを担がせてもらった。




推定30〜35キロ。立ち上げるだけで精一杯。これを担いで登るなんてすごい!!

私はそれをおろしてインドネシア語で聞いた。
   「これで、1日、一体いくらもらえるの?」
「1日、10万ルピア(約1000円)だよ。」
私は愕然とした。30キロの荷物を背負って標高1800メートルを登る仕事。日本だったら優に日当15000円にはなるだろう。インドネシアと日本では物価が大きく異なるが(今回の旅行では日本の5分の1〜6分の1という印象を受けた。)、これだけ経済格差があると搾取しているという気持ちを禁じえない。
彼らは、雨季の時は市場で米袋を運ぶ仕事をするという。
「それも重そうだね。」
「重い。でも運ぶ距離が短いからまだ楽だよ。」
とヘラさんは言いながら、再度荷物を担いだ。
ここから始まった急坂を、私はジョーシさんの後ろについた。彼は、私が彼の母国のアイルランドに行ったことを話すと、嬉々として後ろを振り返り、
「アイルランドは訪ねるにはとてもいい所だよ。でも今はアイルランドの経済はどうしようもなく悪いから、住むのはとても大変なんだ、、。」
と話し始めた。
今、非雇用率は20パーセントにも登り、政府から出るなけなしの雇用保険では最低限の生活もできない。そのためアイルランド人は母国を捨てて、他国に移り住む。歴史的に、イギリス、アメリカ、ヨーロッパ各地に移住した経緯があるため、つても多くあるのだろう。
「僕もその1人になったよ。」
とジョーシさんは笑う。
アイルランドのご実家は父が農業、酪農を営んでおり、それを継ぐ予定なのは大学の農学部を卒業された妹。2人は、新しい手法と旧来の手法で意見が衝突する事もあるが、仲むつまじく土地を経営させている。アイルランドでも気候変動は顕著で、60年来といわれる寒波が2年連続で訪れた。実家も大変だったという。

彼は今、パースで大工として働いている。ドンさんは、長年してきたカーペットクリーナー(日本にはあまりない職業だが西欧では特化した職業として存在している。日本の畳職人みたいなものか。)の仕事をそろそろ引退しようかと考えている。
「ふう。それにしても、あゆは息が切れないね。」
ひっきりなしにしゃべっていたジョーシさんは、立ち止まって汗を拭きながらそういった。私は後ろからぴったりとくっついて歩き、いつしかプレッシャーをかけていたらしい。

さらに1時間程登って稜線に出ると少々風が強くなり、周りにはキク科の潅木のみが目立つようになった。ついに高山帯に入った。5分ほど送れてドンさん、クリスティーさん、マリキ君が到着し、さらに遅れて30キロの荷を背負った3人が到着した。今日のテント場は、ここから稜線伝いに10分ほど歩いたところだと言われて、私達は安心し、一息ついた後またゆっくりと歩き出した。

稜線伝いには、既に20ほどのテントが張ってあり、その中にインドネシアの学生と思われるグループがいた。メンバーの1人が麻袋を持っており、その中から
「コケコー」と声がする。私は眉をひそめた。
「そ、それって鶏ですか?」
「そうです。」
「山の中で、今夜料理するんですか?」
「そう、首を落としてね。」
インドネシアの市場ではよく、生きた鶏が売られている。それを買って家の庭で首を落とすのは一般的だが、山中にて生きた鶏を見るとは思わなかった。彼らの今夜のおかずはさぞかし新鮮だろう。

マリキ君と3人は、稜線に一角に場所をとり慣れた様子で寝るためのテントとトイレ用のテントを立てた。そして、大き目の石を3〜4つ並べて即席のかまどを作り、薪に火をつけてお湯を沸かし始めた。燃料はガス缶を使うときもあるが、テント場にて薪を集めることも多いという。ドンさんは今日一気に標高を稼いだせいか体調が悪くなり、胃腸薬を飲むと1人先にテントに入って横になった。

雲1つない青空に夜が訪れると頭上は満点の星空になった。
「サウザンドスターホテルの夕飯ができたよ。」
とマリキ君が言って準備してくれたのは、ナシゴレン、豆腐の炒め物、きゅうり、トマトの付けあわせである。

熱帯の国とはいえ、標高2800メートルはかなり冷え込む。皆で焚き火に当たりながら、マリキ君に明日の予定を確認した。明朝は2時30分に起きて、3726メートルの山頂を目指し、ここに降りてきて朝食。ポーターの3人は山頂には行かずにここで待機してくれる。その後、皆の体調を見て、火口湖に向かって降りる。ドンさんの体調がかなり心配だったが、明日晴れることを祈って9時ごろに就寝。

9月22日
予定通り2時30分に起きてテントの外に出ると、空にはまだたくさんの星が輝いており、それを遮る形でリンジャニ山の黒々とした山塊があった。
ドンさんも一晩休んで、大分調子がよくなり予定通り山頂へ向かうという。防寒具と水の入ったザックをそれぞれ背負い、午前3時に私達は出発した。最初の登りは、砂岩に潅木が散在する斜面だった。すぐにドンさん、クリスティーさんとは差が開きそうだったので、私はマリキ君から了解を得て1人自分のペースで登ってゆくことにした。

しばらく登ると周辺で光るものは自分のヘッドランプだけになった。振り返ると遥か下方に複数のヘッドランプの光が小さく動いているのが見える。少し心細くなるが、足を止めると急速に体温が奪われるので、私はそのまま外輪山の稜線まで上り詰めた。そこに到達すると一気に風が強くなり、潅木は消え、火山岩のみの足場になった。私は急いで防寒具を身に付け、強風、暗闇、低温の中、左手上方にあるリンジャニ山のピークに向かって歩き始めた。
20分ほどはほぼ平らな道だったが、肩の部分を越えると急に斜度は増加した。さらに、無数にある小さくて丸い火山岩によって一歩一歩がずるずると滑るようになり、なかなか距離が稼げない。時々岩陰に隠れて風を避けながら息を整え、再度足を持ち上げる。




東の空が赤くなり始めた。

ゆっくり一歩づつ進むうちに、空はさらに明るくなり、山頂とその上にいる登山者がはっきりと視認できるようになった。あと100メートルもない。徐々に展望が開け、6時10分、私はようやくリンジャニ山の頂上に立った。



山頂からの朝日。

心臓の鼓動が落ち着きを取り戻して行く中で、もう一歩ごとに滑り落ちる斜面を登らなくてもいいんだという安堵感と、登頂の達成感が胸の中に生じてきた。眼科には火口湖とバル山の全容が広がる。私はオランダから来たというグループの人に写真を撮ってもらった後、改めてその風景に見入った。

下り道は登りの何倍も楽だった。登りでは苦だった小さく丸い火山岩も、下りでは足を乗せると重力に従って滑ってくれる。20分ほど下り、ちょうど肩の辺りでドンさん、クリスティーさん、ジョーシさんとマリキ君に会う。
ジョ)「おーっ! もう山頂登ってきたんだ!」
私)「うん。行ってきたよ。山頂で朝日も見れたよ。」
ジョ)「あと、どれぐらいかかる?」
私)「うーん、1時間はかかるね、、。」
ここからがずるずるの正念場である。
マリキ君がザックを降ろして
「ごめん。これ遅くなったけど、食べて。」
とリンゴを手渡してくれた。
そのリンゴをかじりながら、真っ青な水面を抱く火口湖を眺めながら軽快に下る。8時過ぎにテント場に到着。するとちょうど昼食を準備していたヘラさん、ネティさん、ジョエルさんの3人が出迎えてくれた。
「やったね。」
ヘラさんが350ミリリットルのビール缶を差し出す。
「ありがとう。」
私はそれを受け取って一口飲んだ。




即席かまどでハムを炒めるヘラさん




登ってきたリンジャニ山のピークを見上げる。

彼らが丁寧に作ってくれたのは、野菜やハム、卵が入ったボリュームたっぷりのサンドイッチ。5時間の登山をしてきた身には、一口一口が咽に染み渡るほどおいしい。ビールとともにそれを堪能した私は、ぶっ倒れるようにテントの中で横になった。

目が覚めた時は既に10時過ぎだった。外からはオーストラリアの3人の声がする。ドンさんも無事に山頂に到達し、皆無事に降りてきたところだった。私は起きてテントから出たが、信じられないほど体が重い。先ほどのビールが体に回ったのだろうか。しかし平地で酔った感覚とは異なる。マリキ君から水をもらって飲むが一向によくならず、軽いめまいを感じながら下り始めることになった。

湖畔までのくだりがどういう道だったか、ほとんど記憶に残っていない。それよりとにかく咽と舌が乾いた。しかし止まってもらおうにも、自分がどもりそうな気がして怖くて声が出せないのである。恐る恐る「あー。」と発声してみるが、その音も幾重ものフィルターを通したかのように耳に響く。
こんな気味の悪い感覚は初めてだった。私はいつの間にか、幻覚性のある葉っぱでも食べたのではないかと心の底から心配した。しかし、徐々にその感覚は薄れ、午後3時過ぎに森の中にある湖畔に到着した。

地元の男性2人が釣り糸を垂れており、側の岩上には尾がピンク色の魚が何匹がおいてあった。



何の魚だろうか。

写真  彼らの横からそっと水中をのぞくと、その魚が泳いでいるのが見える。彼らの話によると、運がよければ5キロを越える魚が釣れることもある。

そこから少し登ってエメラルドグリーン色の温泉に行った。



いくつもの湧き出し口がある。

リンジャニ山が火山である事の証。温度もちょうど良く、みんなで足湯をして2日間の疲れを癒す。

今日のテント場は温泉から1時間程登った樹林帯の中にあった。温泉には立ち寄らずにここに直行したポーターの3人が既にテントを張って夕飯の準備をしてくれている。彼らは昨日と同じ即席のかまどでお湯を沸かして、スパゲッティをゆで始めた。また、彼らは自分達のためにご飯も炊いていて、なんと卵を一緒に入れてゆで卵を作っていたのである。賢い方法! 今度日本に帰ったらやってみよう。

夜は、皆で焚き火を囲みながら今年の年末に開港するというロンボク島国際空港の話になった。バリ島同様に、ロンボク島にも外国からの直行便が就航することで島民は観光客の増加を期待している。
「でも、それじゃリンジャニ山のゴミ問題はますます悪化するね、、。」
私が都会人ゆえの表面的な意見を呟くと、ドンさんが言った。
「でも観光によって確実に仕事ができる。人生でとてもむなしいことの1つは、仕事がないことだからね。マリキ君、インドネシアでは非雇用率はどれぐらいだい?」
「50パーセントぐらいかな、、。」
驚くべき値だった。2人に1人は仕事がない。生活している限り、人々は仕事と給料を切望している。しかしこのままでは国際空港のオープンとともにリンジャニ山はゴミの山となるだろう。問題はどこが主導権をとってゴミ対策を行うかである。
マリキ君は自分の生まれた町が空港の近くなので、将来的には観光客相手のお店を開きたいこと、また、村の言語、インドネシア語、以前働いていたバリ島の言語は、文法も単語も全く異なることを語ってくれた。彼は英語も完璧なので4ヶ国語を話すことができる。
「マリキ君も、あゆもすごいな。私は英語しかしゃべれなくて恥ずかしい限りだよ。」
とドンさんが頭をかいた。

今日はさすがに体が疲れた。シュラフにくるまり、一瞬で深い眠りに落ちた。

9月23日
朝5時頃の日の出前に眼が覚めた。テントから顔を出すと、外では既にネティさんとヘラさんがタバコを吸いながら、焚き火に当たって体を温めている。
「おはよう。けっこう寒いね。私も当たっていい?」
「どうぞ、どうぞ。」
2人は場所を作ってくれた。私は火に当たりながら聞いた。
「どうしたの。寝られないの?」
「寒いから、もう起きちゃった。」
2人は手をこすり合わせながら言った。
「シュラフ使ってても寒かった? 私はすごい快適だったよ。」
「いや、実は僕達、シュラフを持ってきてないんだよ。」
「えっ? なんで?」
聞くところによると、通常は1人のお客に対して1人のポーターがつくが、今回は人数が足りずに4人分の荷物を3人で担いだ。そのため、自分達のシュラフなどを軽量化のために削ったのだ。私は驚いて言葉を失った。昨夜も、そして初日の夜、標高2800メートルでシュラフなしで寝るのはどんなに寒かったことだろう。
やはり、後進国での海外登山は、植民地支配の図式の延長のような気がしてならない。しかしロンボク島の経済にとっては観光業は大変重要な位置を占める。
一介の旅行者としてはこの観光業の功罪についてなす術もないが、今回の旅ではインドネシア語のおかげで、地元の様々な側面が見えてきた。これからも海外を旅行するときには英語に加えてその国の母国語を勉強していこう。私はそう強く思った。
東の山際が静かに明るくなり始めた。
「じゃ、朝ごはん作るか。」
「パンケーキだ。」
2人はそういってボールに卵と小麦粉を入れて、私達の朝食を作り始めた。



出発前に皆で集合写真。左からヘラさん、マリキ君、クリスティーさん、ドンさん、ジョーシさん、私、ジョエルさん、ネティさん。

今日は湖畔から外輪山の稜線まで約500〜600メートルを登り、そこから スナルの下山口までは基本的に下りとなる。私は登りが誰よりも早く、30分ほどで稜線に到着。空は3日目の今日も快晴で、真正面にはリンジャニ山、下方には火口湖が見える。辺りには、西欧人のツアー客が多く、皆簡単の声をあげて写真を撮っている。ポーターの3人があの重い荷物を背負って登ってくるのが見えたので、私は荷物を降ろして一服する彼らの近くに歩いて行った。
「お疲れ様です。ここからは、やっと下りだね。」
彼らは笑って頷き、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。ふーっとその煙をはきながらネティさんは言った。
この仕事はきついけれども、妻や子供らのために頑張って続けないといけない。学用品や洋服もけっこう高い。でも市場での米運びの仕事よりは日給がいい。
「あゆは何の仕事をしているんだい?」
と聞かれ、私は今は政府機関で働いているが今月末で契約が終り、10月からの仕事はまだ決まっていないことを話した。
「でも日本には、たくさんの仕事があるんだろう?」
確かに非雇用率50%のインドネシアと、非雇用率5%の日本では大違いである。
「うん。まあ、何か適当な仕事は見つかると思う。」
私はそう言いながら思った。いい仕事につく、というのは東西を問わない永遠のテーマである。

ネティさんは自分のサンダル履きの足を見て、誇らしげに
「どうだ、象の足だろう。」
と言うので、私は思わず笑った。積年の間、砂と汗にまみれて重労働に耐えてきた素足は、皮が厚くなってひびが入り、その表現がぴったりだった。

登ってきた南東斜面はブッシュファイヤーで焼かれた樹林帯だったが、下りの北面は風向の変化により、降雨量が多い。辺りは濃緑、淡緑混ざる熱帯雨林となった。

彼らは、こんなに重い荷物を持ってかつサンダル履きでこけると言うことはないのだろうか。恐るべきバランス感覚である。しばしばそう思っていると、ヘラさんが足を滑らせて軽くしりもちをついた。照れ笑いしながら彼はすぐに立ち上がり、また肩に荷物を担いだ。後にも先にも彼らがこけたのはこの1回きりだった。そして、私は3人が超人ではなかったことに、一抹の安堵感を覚えた。

休憩場の広場には、大勢の登山客が屋根のある東屋の近くで休憩していた。それとほぼ同数のポーターの人たちが食事の準備のために煮炊きしており、その後ろはまるでそこがゴミ捨て場のように大量のプラスチック袋や生ゴミが捨てられていた。私は唖然とすると同時に、確信した。

数年後にリンジャニ山はゴミの山になる。

そしてその評判が観光客に悪影響を及ぼし始めて初めて、国、国立公園、地元の主導でゴミ対策がなされるだろう。その過程には恐らく20〜30年はかかるかも知れない。

ネティさん、ヘラさん、ジョエルさんも荷物を降ろして、後何分ぐらいで後ろの4人は到着するだろうかと話しながら昼食の準備を始めた。3日間のしめくくりとして彼らが作ってくれたのは、人参、玉ねぎ、ハム、卵の入ったミーゴレン(焼きそば)、それに豆腐の炒め物と、きれいに花形に切ったトマトがついた。
「温かいうちにどうぞ。」
そのお皿を受け取って、これで3人が毎回丁寧に作ってくれるご飯を食べるのも
最後か、、と私は少し寂しくなった。
ヘラさんとネティさんが言う。
「あゆがもしロンボク島に住めばすぐにたくさん友達ができるよ。ビジネスだってできるよ。」
「ありがとう。でも私、商才ないよ。難しそう。」
「大丈夫だよ。お店開いて、観光客にものを売れば。」
「ふふ。日本で仕事が見つからなかったら考えるよ。」

足をくじいたクリスティーさん達が到着したのはそれから10分ほど後だった。あと何時間で下山できるかを心配する3人に、マリキ君が通常なら2時間、でも今の調子だと2時間半はかかるかもしれないと説明した。彼らは下山への心配も会ったのだろうが、ミーゴレンを半分以上残した。それを見て私はまたか、、と思った。実はこの3日間彼らが完食した食事はない。食が細いというわけではなく、ジョーシさんとクリスティーさんは、登山時にスニッカーズなどのお菓子を1〜2本は食べている。食事は好みの問題もあって難しいが、お皿に残ったものをポーターが食べるという形はどうにか改善できないだろうか。

ポスト2について、ヘラさん、ネティさん、ジョエルさん、私の4人は、荷物をおいて腰を降ろした。オーストラリアの3人とマリキ君とはまた大分距離が開いたようだ。

5分ほど経つと、どこからか2匹の小猿が表れ、樹上で飛び跳ねながら追いかけっこを始めた。ネティさんがかじりかけのリンゴを投げてやると二匹は甲高い声で鳴きながらそれを取り合い、いつの間にかその傍らにはもう1匹のサルが表れていた。
「あゆ、何かあげてみな。おもしろいから。」
そういわれて、私は持っていたクッキーを投げた。すると、その3匹が先を争うようにしてクッキーを追いかけてゆく。
「よし、じゃああれをやるか。」
ネティさんは腰を上げて、小枝を拾った。そしてその先にリンゴの1かけらを結んで東屋の屋根につるした。その位置がまた絶妙で、サルたちがどの方向からアプローチしても届きそうで届かない距離なのである。サルたちは試行錯誤を繰り返す。ジャンプしてその指先がリンゴに触れるときもあれば、椅子の上から背伸びして届かずにひっくり返りそうになる時もある。その必死な努力姿は、純粋すぎて思わず笑わずにはいられない。ようやく、1匹が何かの拍子に成功し、その手に握られたリンゴを残りの2匹が追いかけて行った。

辺りはまた静まり返った。しばらくすると遅れていたドン、クリスティー、ジョーシ、そしてマリキ君の4人が到着したが、クリスティーさんが足を引きずっている。下りの途中で足首をひねったという。皆で分散して彼女の荷物を持ち、マリキ君が彼女の手をとって支えながら降りることになった。

ここからの下りで、私はインドネシアの大学生のグループに会った。
「何を勉強しているんですか?」
「英語です。」
「Oh, so you can speak English.(なら英語しゃべれますね。)」
「No, no, a little.(いえいえ、ちょっとだけです。)」
と恥ずかしそうに首を振る。その様子が日本の大学生と似ていておかしい。

国立公園の境界線を過ぎると、まばらに人家が見られるようになり植生は熱帯雨林から、バナナ、ココヤシ、パパイヤなど畑に植えられる木々に変わった。その風景を楽しみながらさらに1時間ほど歩き、皆無事に下山口に到着。そこには既にスンギギの街に帰るための車が待っていた。荷物を降ろして皆で握手をする。と同時に達成感が胸の中に滲んでくる。

ドンさんは、ポーターの3人とマリキ君にチップを渡した。私は自分と背格好がほぼ同じヘラさんにトレッキングシューズをあげることにした。実はこの代物、ゴアテックスではないため、雨が降るとひどいことになる。雨は外からいくらでも入るのに、一度入った水は全然外にでないのだ。私はそのことを説明し、でも乾季ならまだ十分に使えるよ! そういって彼に渡した。
最後に、お互いに握手を交わして、私達は車に乗った。3日間という長い時間をともに過ごした相手と別れるのは、純粋に寂しい。

エンジンがかかり、車がゆっくりと動き始めた。振り返ると後部座席の窓からは、ヘラさんがうれしそうにトレッキングシューズを試着しようとする姿が見えた。

ここからスンギギの街に向かって約2時間、ロンボク島の北海岸を見ながら反時計回りに車は進んだ。波が絶え間なく打ち寄せて、絶え間なく帰ってゆく。ここから6000キロほど北上するとちょうど日本あたりだろうか、。そんな思いに浸るのもつかの間、目につくのは、波の流れが澱むところに大量に溜まっているゴミである。この問題は、リンジャニ山だけではなく、島全土に及んでいるらしい。

途中のギギ三島付近を通過したときはちょうど夕暮れとなり、多くの若者がバイクや車を止めて、その夕陽を眺めている。いいねえ、ロマンチックで。と重いながら35歳のお姉さんはその風景を愛でる。夕日と朝日は世界中どこでも同じで、空間と思い出を一気に引き寄せる効果がある。

スンギギ中心部に入る前に、オーストラリア3人が宿泊しているホテルに車は止まった。ロータリーには、ヤシや蘭などの植物が植えられ、その奥のロビーには制服を着たホテルマンが待機している。私達は車から降りて最後の別れを惜しんだ。ドンさんが言う。
「いつか、マウント・フジに登りに行くよ。」
「本当ですか? 喜んで案内しますよ! 連絡くださいね。」
私は彼からメールアドレスの書いてある名刺をもらった。

彼らのホテルとは対照的に、今日私が泊まるのは1泊1000円のバックパッカーズである。その前で車を降り、私はマリキ君と握手した。
「明日もまた、登りに行くの?」
「ううん。明日は休み。」
「良かったね、それを聞いて安心したわ。」

私はその後、明日朝早くスンギギに向かうためのタクシーを予約するために、10分ほど歩いてブルーバードタクシーのエージェントに言った。
いくらか値段を尋ねると、
「100万ルピアもかからないですよ。」
カウンターのお兄さんは言った。私がロンボク島に到着した時は、フェリー乗り場で300万ルピアと言われたのを200万ルピアに値切ったが、それでも倍もの値段を払っていたのだ。やられた、、。

バリ、ロンボクに大量の観光客が訪れることは、確実に雇用を生み出すが、地元の物価高騰や、地元民の間での競争を増長する。南国特有ののんびりした地元の人の精神性が失われていく。それは、観光業に依存する国家が避けられない問題なのだろうか。
それでは日本の経済に問題はないのか。食料自給率が4割を切り、今は世界トップクラスの自動車と電化製品の輸出で貿易黒字を生み出しているが、5〜10年後には確実に韓国、中国に抜かされることは明らかである。その時、日本はどう食糧を確保するのだろうか。
グローバル化が進む中で、安定した良好な経済とはどういう形なのだろう。そう考えながら、私は夕飯を食べるために屋台に入った。唐辛子風味の焼き魚の味が胸に沁みた。

フェリーは定刻どおりに出ることもあれば、30分ほど遅れることも多々あるようだ。毎時0分発というのはあってないのも同然らしい。ようやく乗船開始となり、私はフェリーの屋上階まで行ってシュラフカバーに入りベンチに横になった。真上にはオリオン座が見える。
「日本だったら、今オリオン座って見えたかな。」
私はふとそう思った。

9月24日



朝6時半に太陽が昇った。淡い青空と水平線が交わるところに入道雲がたなびき、その間から太陽光線が差し込んでくる。会場には地元漁師の舟が何席も浮かび、その向こうにはバリ島が見える。

2時間ほど経ち、パダンバイの港が見えてからが長かった。小さい港のため、既に船が入港していると他の船は海上で待たなければならない。フェリーは時々思わせぶりに前進するがすぐに泊まり、また汽笛の音のようにボーっと海上に留まる。

空を飛ぶ鳥や、海面に気配を現す魚を見るのにも飽き、自分で港まで泳いだほうが速いんじゃないかと真剣に思い始めた頃、フェリーはやっと入港した。下船してターミナルを通過して外に出ると、屋台先でお茶を飲んでいるおじさんたちが笑顔で
「タクシー!」
「チャーター、タクシー?!」
と声をかけてくる。私も笑顔で
「ノーサンキュー!」
と手を振り返して道路を歩き始めた。パダンバイから5キロほど東に、プラ・ゴア・ラワーという有名な洞窟寺院がある。幹線道路に出るとすぐに乗り合いバスが止まってくれ、10分ほど走るとその洞窟寺院についた。

バスを降りたと単に飛び込んできたのは、海側から聞こえるガムランと呼ばれるインドネシアの打楽器の音色だった。砂浜には、白い衣装を身にまとった人々が30人ほど座っており、一番奥の波打ち際にはヒンズー教の祭壇が作られ、祭司が祈りを捧げている。私もその集まりの最後尾にそっと座って彼らと一体になった。ガムランは、銅鑼による森のような存在感のある打音と、鉄琴による子供が笑うような金属音が混在した不思議な音を絶え間なく奏でる。それに半分陶酔しながら、私は道路をはさんだ山側にある洞窟寺院に参拝に言った。

ここでも別のガムラン隊が音色を奏でており、蝙蝠の巣となっている洞窟の前には、何本もの色鮮やかな花と、8角形にヤシで編まれた飾りが手向けられ、人々が座して瞑想している。彼らの純白の衣服は熱帯の太陽に映えていっそう輝いて見える。私はガムラン隊の側に行った。そして、一曲を引き終えて一息ついた演者の人に話しかけた。
「ガムランすごいですね。インドネシアでは、みんな引けるんですか?」
「練習がいるけど、たくさんの人が弾けるよ。君はどこから来たの?」
「日本です。」
「バリは何回目?」
「今回が初めてです。」
「えっ、インドネシア語上手だね。」
5,6人の人が私に好奇の眼を向けてくる。彼らはアムラプラの街に住んでおり、今日は車に楽器を積んでこの儀式のために来たという。今日は艶やかなバティックの衣装に身を包んでいるが、集落に帰ればTシャツとGパンを着て、屋台の軒先でのんびりとしながら観光客に気さくに声をかける人たちに違いない、私はそう思った。

私はここから東に向かって、幹線道路を歩き始めた。南側に青い海、道路わきの様々な屋台、ヤシや竹の森を見ながら歩き、二車線の大型の橋を渡って海側に下って行くと、クサンバという集落についた。

この集落からは、ペニダ島に向けて不定期に舟がでる。海辺ではちょうど地元の人達が、海に浮かべた手漕ぎの漁船に荷物を載せようとしていた。波が来るたびに船は大きく揺れ、男達がロープを張って舟を安定させようとする。この舟は、人と荷物が一杯になり、風向きがよくなり、舟漕ぎの人夫がそろって初めて出帆する。インドネシアの人と海と船の在り方は、昔からそして今も、海辺の多くの集落でこのような形を取るのだろう。

そこから少し遠回りして、セムラプラの町、ゲルゲルという集落を通過し、プラ・クロテック海岸まで足を伸ばした。ここにはリゾートホテルも何もない。道の終点には、一軒の小さな屋台があり、その横には「石、売ります。」という看板がかかり、碁石ほどの大きさの装飾用のきれいな石が積まれていた。

海岸への階段を下りて右側、100メートル近く離れた所に奇妙な日よけ用の白いビニールシートが張られているのが目に入った。その場所は蜃気楼でぼやけていたので私は双眼鏡を取り出して眺めた。するとその日よけの下では、何人もの人々がしゃがみ込んで砂の中から石を掘り出していたのである。観光客のいない海岸は地元の人々の働き場所だった。

私は砂浜に佇み、しばらくして、石がぎっしり詰まった麻袋を肩に担いだ男の人が一歩ずつ歩いてきているのに気付いた。彼は私と目が会うと一瞬笑い重たそうに階段を登った。店の前の集積所に集めた石を空けたのだろう、彼は空の麻袋を持って再度蜃気楼の向こうの採石砂浜に戻って行った。

炎天下での単純繰り返し作業、明日も、明後日も、1ヵ月後も、1年後も。

幹線道路まで戻って、私はタクシーを呼び止めた。真夏の太陽の下4時間近く歩き続け、大分疲れていた。タクシーに乗り込み、私は運転手にたった今見た石集め労働者の人たちのことを口にした。
「すごい大変な仕事だと思ったんです。でも一体一日いくら位もらえるんでしょう。」
「たぶん、1日500円も行かないと思うよ。」
彼は続けて言った。
「この幹線道路ができたおかげで、今後ここら辺の地域はリゾート開発される予定なんだ。そうしたら彼らもいい仕事に就けるかもしれない。」
その様子が、私の脳裏にまるで映画のコマのように映った。
石集めの日よけのシートがビーチパラソルに変わり、一軒の屋台は観光客向けの土産物屋に変わり、労働者の人々はアメッドの男の子達のように行きすがりの外国人女性に声をかえる。

小一時間走って海岸の町、サヌールについた。 ここの海岸には、幹線道路に沿って外国人観光客向けのおしゃれなホテルやカフェが並ぶ一方で、砂浜には地元価格のとうもろこしや焼き魚の売り子が忙しそうに団扇を動かしている。インドネシアの地元の人たちと観光客とがちょうど半分ほどの割合で、一緒に海を楽しんでいた。砂浜には、香ばしく焼けたとうもろこしを1本買って、マーガリンと唐辛子ペーストを塗りながら、私はサヌールが好きになった。

日が傾いたと思うと一気に夕闇が迫り、暗くなった海からは潮騒の音のみが強く響いて来るようになった。

その砂浜を一人で南に向かって歩いて行くと、ビーチサイドカフェの1つから今朝洞窟寺院できいたのと同じガムランの音が聞こえてきた。40代の男性と、息子だろうか10歳ぐらいの男の子が、民族衣装をまとい呼吸を合わせて鉄琴を奏でている。

私はザックを降ろして砂浜に座り、軽く会釈してその音を聴き続けることを乞うた。2人は1曲が終わるとふっと方の力を抜き、互いに目で合図して次の曲を弾き始める。鉄琴の音は心地よく、気付くと私は1時間近く彼らの演奏を聴いていた。

その後、私は歩きながら今夜の宿について考えた。明朝6時のデンパサール−クアラルンプール便のチェックインは朝4時。どこかで宿泊しても朝3時にはタクシーを呼んで空港に向かわなければならない。私は少し腕組みした。

そうだ! 空港で寝ればいいんだ。シュラフカバーがあるし。

そうすれば宿泊代も浮く。24時間営業のデンパサール空港には、私と同じ考えの人が多少はいるだろう。

私はできるだけ遅くまでサヌールの町で時間を過ごした。ハーディーズというスーパーマーケットでココナッツクッキー、バナナクッキー、ジャスミンの香りのインセントなどを買い込み、メインストリートのおしゃれなカフェでマンゴージュースを飲みながら今回の旅を振り返る。そして11時過ぎに通りすがりのタクシーを呼び止めて空港へ向かった。

やはりいた、空港寝のバックパッカーズの人々。私もシュラフカバーの中に入って横になった。今回の旅においてこのシュラフカバーは、冷房の効きすぎた機内や、蚤ベッドから私を守ってくれ、登山中にも活躍し、最後の最後でも空港で寝るということを可能にしてくれた。熱帯の旅には欠かせないアイテムである。

9月25日
朝4時、無事にチェックインを済ませて、クアラルンプールへ。5時間近いトランジットを読書したり、ストレッチをしたりして過ごし、さらに7時間飛行機に乗って日本へ。夜10時の羽田は想像以上に肌寒く、季節は既に秋だった。35歳の身にはちょっとハードだったバリ、ロンボクの旅、無事に完結。

便名
QZ8395 Denpasar - Kuala Lumpur
D72652 Kuala Lumpur - Tokyo