2009年12月19日から2010年1月9日にかけて、JICAボランティアとして働く F君を訪ねてパプアニューギニアの北海岸にあるマダンに行ってきました。 主都のポートモレスビーまで、成田から約7時間。そこは、髪の毛チリチリの 黒人さん達が歩く、気温33度、湿度90パーセントの世界。小学校で理科の先生 として働くF君のための、日本からのおみやげ(色鉛筆、画用紙、のり、 テープ、Tシャツ、折り紙などなど)が入った25キロの荷物を背負って、 私は一歩を踏み出しました。
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20日
1時間遅れの飛行機でマダンについた私を迎えに来てくれたのは、頭を丸刈りにして、
少しやせたF君と、ドライバーのダウさんだった。私と握手しながら
ニカッと笑ったダウさんの歯は真っ赤でびっくりしたが、それは常に
ビンロウジュの実をかんでいるためだった。ビンロウジュの実は神経伝達物質を
含み、多少常習性がある。ここパプアニューギニアの人は、タバコを吸うかの
ようにビンロウジュをかみ、味がなくなると吐き出す。
この日の夜、F君と同様にJICAボランティアをしているSさん、Iさんにお会いした。 マダンの街にあるJICA宿舎で夕飯を食べながら、国際援助について話す。 国際援助は、その国の自立を促すために行われるが、パプアニューギニアは 昔からパプアニューギニアのやり方で自給自足して来た。1年中、バナナ、 パパイヤ、ココナッツが取れるこの国では、人が飢えることはない。 そういう意味で、パプアニューギニアに限って言えば、日本の国際援助は必要 ないのではないか。その国の自立とは何なのか。そんな想いを、3人は話してくれた。
21日
サツマイモのことを、パプアニューギニアの言葉であるピジン語で、カウカウと言う。
それを蒸かしたものをパイ生地に包んで焼いたカウカウロールを、マダンの町の
ベーカリーで1キナ(40円)で買った。サツマイモは、パプアニューギアの人に
とって主要な食糧の1つであり、品種数も日本より遙かに多い。
この日の午後バスに乗って、マダンから約10キロほど離れたF君が働く バイタバッグ村に向かった。
F君の家は木造家屋で、部屋の棚の中には以前ここでJICAボランティアをしていた人たちの報告書などがあった。その中に折り紙の本を見つけて、私は思わずうれしくなった。F君は、この村には、バイタバッグ小学校の先生達の家族が20世帯ぐらい住んでいる、電気は通じているがとてもよく停電する、水は雨水でタンクにためてあるのを使う、それをバケツに組んで水浴びをする、燃料はガスではなくて薪だよ、と言って家屋から離れたキッチンに案内してくれた。
サゴ椰子の葉で吹いた屋根のキッチンはとても風通しがよく、 村の人たちが回りをよく通る。F君が、「日本から来た友達です。」 と私のことを紹介し、色んな人と握手を交わした。 私は、黒人の人が笑ったときに白い歯が見えるのがとても好きだ。
先生達は皆英語が堪能で、子供でも聞くのはわかる様子だった。 彼らは、普段はピジン語を使う。1800年代後半にパプアニューギニア のある部族が使っていた言語と英語が混ざって作られたピジン語は不思議な言葉だ。 Let’s go togetherを「ミー ユー ナ ゴー」、I haven’t got itを 「ミー ノー ガット」と言ったりする。
サムライさんは、F君と家屋をシェアして使っている小学校の先生で、 彼の名前は日本語の侍が由来という。父親が第二次世界大戦中に日本兵と 交流があり、そのサムライの心意気に胸打たれた。
1942〜44年にかけて、日本はパプアニューギニアを占領し、 連合軍に対して大敗した。膨大な数の日本兵、アメリカ・オーストラリア兵、 パプアニューギニア人達が死んだ。その悲しい歴史にもかかわらず、 パプアニューギニアの人達が親日なのは、近年の国際援助の存在がある。 マダンにあるマディロン総合病院や、ここバイタバッグ小学校は日本の援助に よって建てられたもので、それらはとても好意的に受け止められている。
22日
午前中、私は双眼鏡を持ってベランダにたたずんだ。しばらくして、
2種類の鳥がいることがわかった。名前がわからないので、私が黒白尾長鳥と
命名した鳥は、まるでフルートのように美しい鳴き声の持ち主。もう一種の
オレンジ黒フィンチは、すずめより少し小さくビンロウジュの木を巣にしている。
F君は、洗濯物をバケツの中で洗って絞って干し、その後マンゴーの木の薪割り
をしていた。その近くの屋根の端に止まりながら、センバ家のペットである
オウムのココトゥーが大声で鳴いている。
パプアニューギニアは、食料自給率が80パーセント近くに及ぶ。
40パーセントに満たない日本と較べて、なんて豊かなんだろうと思う。
バナナ、パパイヤ、ココナッツは一年中実り、さつまいも、タロイモ(里芋の近縁)
、ヤムイモ(長芋の近縁)は子供の頭ぐらい大きく育つ。村のお姉さんが、
「日本は豊かな国でいいわね。パプアニューギニアは、まだ遅れていて
貧しくて。」
と恥ずかしそうに言うので、
「違うよ。全然貧しい国ではないと思うよ。」
と私は言った。日本は確かに経済立国ではあるが、
食糧自給率はパプアニューギニアに較べて遙かに低く、
残りは輸入しなければならない。そのために、日本は経済力を
保持しなければならず、会社員は毎晩終電近くまで残業する人もいる。
帰宅するのが遅いため、子供に会えるのは週末だけという父親も多い。
「そんな国が豊かなのかな?」
私は、そうお姉さんに説明すると同時に、自分にも問いかけていた。
パプアニューギニアの人には経済的豊かさが光って見え、 日本人にはストレスのない時間的余裕のある社会が豊かさとして輝いて見える。 存在する物の素晴らしさは、それがない時に初めてわかる。
午後はF君とマダンの町に行き、灯台のあるところまで歩いた。 芝生に座って双眼鏡を手に取ると、海上にはトビウオらしき魚がしぶきをあげ、 その回りをアジサシの仲間が飛んでいる。私達が座ったところは、 巨大なイチジクの木によって直射日光が遮られていた。
絞め殺しイチジク仲間で、大きな木の上で発芽し気根を伸ばして成長するうちに、 いつの間にか元の木を絞め殺してしまう。この大きさになるには、 何百年かかるのだろう。
バイタバッグ村に帰り、空港に迎えに来てくれたダウさんの家によると、 「良く来たね。まあ上がりなさい。」 と歓待してくれ、まるで水をくれるかのように、ココナッツを割って 私達に渡してくれた。
夜バイタバッグ村では、鳥に変わって虫たちとやもりのチュチチと いう鳴き声に包まれる。しかし、ヤモリはよく家の中でふんをする。 ねずみもいて色んなものを囓るという悪さをする。私はある夜、 寝ているときに足の親指を囓られて、ひゃっと飛び起きてしまった。
23日
早朝からスコールになった。ドドド、ガガガ、ゴゴゴという音とともに大雨は、
トタン屋根をたたく。雨は午前中ずっと続き、午後にも弱まりながら降った。
どこにも出かけられないので、折り紙をしたり、本を読んだり、
気付くとそのまま寝たりしていた。
近所のローズちゃんという女の子が木から取ってくれたパパイヤ を3人で食べる。両手で持つほどの大きさのを2切れ。 太陽光線が直接、糖分になったような体が元気になる甘さ。
In the Valley of the Shadowという、第二次世界大戦中に日本兵に よって殺されたドイツ人そしてパプアニューギニア人の宣教師のことが 書いてある本をF君がかしてくれた。1942年ニューギニア島に上陸 した日本軍は、宣教師達は連合軍の勝利を神に祈っていると見なし、 彼らの教会と農園を徹底的に破壊した。 2人の宣教師はジャングルに追い詰められ、絶望的な状況の中で命尽きた。
私は本を閉じて、戦争中に日本軍がこの地域に残した傷と、 宣教師達の一寸の曇りもない信仰心のことを思った。 今、パプアニューギニア人の大部分は、献身的なキリスト教徒である。
24日
海に泳ぎに行った。バイタバッグ村から30分ほど歩いたところが
海岸で、そこにリゾートホテルがある。マスクをつけて飛び込むと、
きらきら光る青色と黄色の熱帯の魚たちが泳いでいた。
巨大なウニや群青色のヒトデもいる。オレンジ色のニモが
珊瑚の中に隠れていて、その珊瑚はゆらりふわりと触手を動かしていた。
そこから200メートル程離れたココナッツの生える小島まで泳いでいった。
辿り着いた砂浜では、島の男の子達が裸で遊び回っていた。
マンゴーの枝を割って薪を作っているおじさんに頼むと
快くココナッツをくれ、それを飲んで、内殻の中にある白い部分を食べた後、
又泳いで海岸に戻った。
ここのリゾートホテルで食べたフライドさつまいも、 卵サラダ、フィッシュサンドは、35キナ(1400円)だった。 村の人達には決して手の届かない値段に、少し気が咎める。 しかしパプアニューギニアでは、国民の80パーセントが無職で 税金を納めておらず、国家歳入の大きな部分を法人税が担っている。 リゾートホテルの法人税も、道路、学校、病院を作ることに使われている。 そう思うと、ちょっと高いランチを食べるのも、 きっといいことなのだ。リゾートホテルの別の側面が見えてくる。
この日の夜、マダンのS君からF君に電話があった。 「昨夜、JICA宿舎の近くにある本屋に銃を持った男が侵入して 騒ぎになった。けが人は出なかったけど、クリスマスが近いし マダンの町に来るときは気をつけて。」 という知らせだった。マダンでは、強盗殺人事件が多い。 3日前に訪れた灯台付近でも、数ヶ月ほど前に殺人事件があったという。
私は社会人になってから自分の乗っている電車が人身事故に あったことが2回ある。多いのか少ないのかは知らない。 真夜中に銃を持った侵入者騒ぎで目が覚めるのと、人身事故によって車中の 午睡が妨げられるのと、どちらが確率的に‘危ない’のだろうか、と思う。
翌朝は、美しいフルートの響きを持つ黒白尾長鳥の鳴き声で目覚めた。 幸せなことだと思った。
25日
バスで北西に1時間半ほど行った海岸沿いのブナブン村で
クリスマスパーティーがあるという。牧師さんのお話を聞いたり、
プレゼントを交換したりみんなで歌を歌ったりする。
「一緒に行きますか?」
とセンバ夫妻に誘われてバスに乗り込んだ。
到着するまで道路の両側はずっとココナッツ畑だった。
ブナブン村には大きな枝を広げた二本のマンゴーが心地よい日陰を作っていて、そこに村の子供たち、 大人たちが集まって座っている。
しばらくするとピジン語での牧師さんのお話が始まり、 皆でお祈りを口ずさみ、クリスマスの歌を合唱した。 休憩時間に私は折り紙を折って、村の子達と仲良くなった。
鶴、箱、白鳥、風船、バラ、いかだ、と折るたびに子供たちは、
興味津々に完成の瞬間を見守ってくれる。私はいくつか質問をした。
「教会へは毎週日曜日行きますか?」
(子供たち声をそろえて)「うん。」
「ココナッツは好き?」
「うん。」
「バナナは好き?」
「うん。」
「みんなはカヌーを使う?」
「うん。」
「カヌーは誰が作るの? お父さん?」
「うん。」
「カヌーを一つ作るのにどれぐらい時間がかかる?一ヶ月ぐらい?」
「うん。それぐらい。」
ここブナブン村は、海のすぐ横にある集落なので、 小さい子でもカヌーをこぐ。そしてココナッツやバナナの木に登る。
休憩の後、マダンクリスチャンセンターの偉い人から、 ここの教会にテーブルと教壇が贈られた。
そのお返しに 村の人たちは、森で取れるビンロウジュ、ココナッツ、 バナナ、サツマイモ、タロイモ、ヤムイモ、そして生きた豚をプレゼントする。
鮮度と誠意の証し。すし屋の水槽に調理直前まで魚が泳いでいるのと同じ。
夜、シウィさんの息子のメギラ君が、黒白尾長鳥はティントリーク、 黒オレンジフィンチは、シクシックという名の鳥だということを教えてくれた。
26日
バスに乗ってマダンの街に出た。日傘をさしていても
ふらつくぐらい暑く、左右の判断が鈍りそうだった。
文房具屋で2010年のダイアリーを見ると、 天気欄の晴れマークの太陽が怒った恐い顔をしている。
納得が行く。ここパプアニューギニアの太陽光線は あまりにも強烈で、人間にとっては恵みを通り越して脅威になる。 しかし、その太陽がココナッツ、パパイヤ、バナナを育み、 人にとっての恵みになる。2010年はこのダイアリーを 使ってパプアニューギニアの太陽のことを思い出そう。
お昼はマダンのレストランで食べた。冷房という 文明の利器の素晴らしさに、体中の細胞が一呼吸 ついて甦る心地がした。
この日の夜からF君の具合が急激に悪くなる。 刻一刻と彼の目の焦点が合わなくなるのが分かった。 熱っぽい、お腹が痛く、関節がきしむ、とマラリヤに 似た症状を訴えて、彼はふらふらとベッドに行った。
27日
この日F君は何も食べず何も飲まず、ただただ
眠り続けた。なす術もなく、私はハイエルダール著の
コンチキ号漂流記を読んだ。
ポリネシア人の南米起源説を
証明するために、木で作ったいかだでチリからツアモツ
諸島まで8000キロの航海に出た冒険記。ハイエルダールと5人
の仲間は、いかだの上でトビウオを捕り、嵐と闘い、
天体観測から現在位置を割り出し、約100日間の航海を経て
ツアモツ諸島にたどり着いた。
しかし、数年後にはいかだで逆ルートの航海を成し遂げる
学者も現れ、ポリネシア人の起源はいまだに明確には
分かっていない。ハワイ島、イースター島、ニュージーランドを
結んだポリネシア海域はとても広い。おそらく島ごとに異なる
移住の経緯があって、南米からも東南アジアからも人が渡って
きたのかもしれない。そして、何千年も経つと、
イースター島のモアイ像と南米ペルーの石像がとても
似ているのは何故か、という謎のみが残る。
28日
今日は、エンベさんに車を出してもらい、
F君がマダンの病院に行くのに同行した。
マダンの街に車で行くときには、ドライバー以外に1人か2人
乗っていた方がいい。街中で車を空にして駐車することは、
盗難の危険性が大きいからだ。この日はベンさんの息子の
ジェームスも一緒に乗ってくれ、F君と私が病院に行っている間、
車を見張っていてくれた。
血液採取の結果は、マラリヤではなく悪性の胃腸感染。
F君は、抗生物質と痛み止めをもらい、医師から
「失った塩分、ミネラルを補うためにココナッツを飲んでください。」
とアドバイスを受けた。
バイタバッグ村に来てから、4回ココナッツをもらう機会があった。 リゾートホテルの海岸から泳いで渡った小島で1回。 ダウさんのうちで2回。そして小学校の校庭で1回。 全て木から取り立てでおいしくて熱帯の暑さから私達を救ってくれた。 ココナッツのことを、ここでは‘神の実’と呼ぶ。
29日
この日は、シウィさんの長女のディディラ、キャサリン、
アンティが、私をバイタバッグ村の裏手にあるアムロン村に
連れて行ってくれた。この村は小高い山の上にあり、
大きな教会の横には、アムロン宣教師学校があった。
20代またはそれ以上の宣教師を志す男女がここで2年間神学を学ぶのだという。
私は3人と歩きながら、色んな植物の名前を聞いた。彼女らはとてもよく木々のことを知っていた。 「あれは、ブレッドフルーツ。実を食べるものと、種を煮て食べるものと2種類あるの。」
「これは薬用植物で、葉を煮た汁を傷につけるといいの。」
3人は、生まれ故郷であるハイランドのノンドゥクル村の 風習を教えてくれた。そこでは、男の人が年頃になると 三ヶ月一人で山にこもる。高床式の家を自分で作り、 食べるものも自分でとり、無事に完遂すると一人前の、 結婚して家族を養うことのできる男として認められる。 そして、彼の成人を祝う祭りで、初めて触れた女性を妻と してめとることができる。
家の庭先に生えていた紫色の小さな花を手のひらに取って、キャサリンが私に見せた。
「アヒルみたいに見えない? だからダックフラワーっていうの。」
又、ディディラが日本にも園芸植物としてよくあるクミスクチンの花を取り
見せてくれた。
「こうやってみると極楽鳥に見えるのよ。」
アムロン村から帰った午後、近所のローズちゃんが遊びに来た。 「お花つなぎをして遊ぼう。」 と言って、手にはアカネ科の赤い花を持っている。
彼女は、その花を一つ取って中のめしべを抜き取り密を吸った。
そして2つ目の花を1つ目の花に差し込んでつないだ。
「わかった?」
と、私の顔を見てニッコリ笑い、3つ目、4つ目の花をつないだ。
そして最後には、私の頭にかぶせる花輪を作ってくれた。
世界中の女の子は、花遊びをする。
この日の夜に、マダンリゾートホテルでダイバーの 仕事をしている弥生さんがF君のお見舞いに来た。 まだ療養中の身であるF君に変わって、弥生さんは私を31日のシュノーケル、 1日のシンシン踊りを見にいくツアーに連れて行ってくれることになった。
30日
バイタバッグ村から徒歩で3時間ほどの所にノブノブ山がある。
ここには、19世紀後半からドイツ、ルースラン教会の宣教師が
入って活動を始め、今も教会を中心に集落と小学校がある。
今日もディディラ達が付き添ってくれて、そのノブノブ山に登りに行った。
歩いて30分ほどで大雨が降ってきたが、私達はそのまま歩き続けた。
主要道を折れて未舗装の登り坂になると、雨は若干弱まった。
途中で出会ったおばさんは、バイタバッグ小学校の先生である
マカオさんの親戚で、私と握手した後、手に持っていた袋をくれた。
中を見るとバナナが10本以上入っている。
「山の上までの途中で食べてください。」
と彼女は静かに笑った。
山頂に向かって歩きながら、3人は、フルーツのなる木を
指差して教えてくれた。
「サゴヤシの木。」
「あそこにカカオの実がなっているよ。」
「グアバの木よ。」
カカオとグアバは、日本人にもなじみにある植物だ。
「日本には、ココナッツの木がある?」
「ココナッツはないなあ。でもリンゴの木はたくさんあるよ。」
と私は答えた。パプアニューギニアでは暑すぎて、リンゴの木は育たない。
でもリンゴの味に似たラウラウという果物の木がある。
私達は、2時間ほどかかるノブノブ山の頂上までゆっくり植物を見ながら歩いていった。
ようやく、山頂近くにあるノブノブ小学校についた。 シウィさんは、ノブノブ小学校で15年間働いていたため、 ディディラはここの卒業生だった。やっとついた小学校の 校庭や建物を、彼女は懐かしそうに案内してくれた。
山頂には、ドイツ人の宣教師達が住む家や教会があった。 ここは、In the Valley of the Shadowの本に書かれていた パプアニューギニア人の宣教師、ヨット・ベグベグ氏が 日本軍に拷問を受け殺されたところでもある。しかし、 日本軍が敗れ去った後、宣教師達はこの地を取り戻し、 畑を耕し、教育や布教を再開した。その献身的な活動は、 今でも続いている。
集落の人々は、森で取れたビンロウジュの実、パパイヤ、 パイナップル、タロイモ、サツマイモなどをトラックで 主要道わきにある小さな市場まで運び、 1日かけてのんびり売る。それが彼らの唯一の現金収入である。
寝ている間にノミにやられた。手足には赤い斑点が現れ、 時々神経を逆なでぐらいかゆくなる。どんなに果物が おいしくても海がきれいでも、虫や蚊が引き起こす体の トラブルがあると一気に意気消沈してしまう。
マダンの薬局で売られていたかゆみ止めは、 オーストラリアからの輸入品で35キナ(1400円)だったが、 それが9キナ(360円)に値下げされていたのは、使用期限が 2009年12月までだったからだ。帰国する1月9日までは大丈夫だろう、 そう思って購入した。
31日
今日は弥生さんのシュノーケルツアーに参加して、
他の日本人4人と一緒に無人島に連れて行ってもらった。
ボートから飛び降りた私達は、海水の色がきれいなことに
はしゃいだ。
気付くと、3時間近く海の中で遊んでいた。
20種はいると思われる熱帯魚、カラフルな色の珊瑚、
そしてちくちく刺すクラゲに時々あいながら。
私以外の4人連れは、お父さん、お母さん、娘さん、
娘さんの友達というメンバーだった。お父さんは、
約20年前まで、戦争遺族者を連れてパプアニューギニアの
戦跡を回る旅行会社のガイドとして働いていた。
今回は、家族を連れての来訪だった。海を越えて、
マダンの方角、その後ろの山塊を見つめながら、お父さんは言った。
「ポートモレスビーからマダンへの3000〜4000
メートルの峠越えで、何千人もの日本兵が飢えや
寒さやマラリヤで亡くなった場所があります。」
ハワイも、インドネシアもマレーシアも、沖縄も、 そしてここパプアニューギニアも、何万人もの 兵士の血が流された南国の海は、今、平和的な 熱帯魚たちが静かに観光客を迎える。
海岸で薪を集め、火を起こし、タロイモや調理用バナナ、 タピオカ芋、鶏肉と野菜をココナッツミルクで煮た物がこの日のお昼だった。
ココナッツミルクはマジックを及ぼす。イモもバナナも鶏肉も全て、甘くおいしく仕上げてしまう。
「これが地元の人たちが日常的に食べているごはんです。」
と弥生さんが説明すると、
「豊かな食生活ですね。」
とお母さんが言った。ふと、豊かさとは何だろう、と考える。
この日は、F君と12時まで起きていた。2010年になると同時に、 人々は家から出て花火を打ち、大声で歌い始めた。 今年のF君の目標は、マラリヤにかからない、病気にならない、 リズムのいい授業をする。私は司馬遼太郎を10冊は読むこと。
1日
2010年1月1日の朝は、ティントリークの美しい鳴き声で目が覚めた。
F君はシーツやシャツを洗濯し、
その後ろの木に止まってコーキーが鳴いていた。いつもと同じ朝だった。
歩いて30分ほどのグッドシェパード教会に、 牧師さんのお話を聞きに行った。ピジン語なので何を 言っているのかはわからない。でも、皆が真剣に話を 聞いている雰囲気に、自分も敬虔な気持ちになる。
牧師さんの話が終わった後、センバ夫人とお話した。 長年小学校の先生として働いている彼女は、パプアニューギニアでは 80%の人が無職という大きな社会問題があること、 今政府は鉱山開発に力を入れていてそれが順調にいけば雇用が 生まれる可能性があること、でもそれは同時に、 パプアニューギニア人の森と隣り合った生活を徐々に 壊していくことになること、などを話してくれた。
鉱山開発と、森の生活を続ける。それらは根本的に 両立し得ない、相反する事柄である。
日常生活においては、
経済的余裕と時間的余裕。
食欲と痩身願望。
日本という国家レベルにおいては
二酸化炭素排出量を減らすことと、景気の回復。
両者を完全に両立させることはできず、
その時代が生み出す価値観の方向に流されながら、
人は、社会は、葛藤しながら生きていく。
この日の午後は、シンシン踊りを見に行く予定だった。
しかし、1月1日全てのバスは休みになった。
マダンに行く術がなく困っていると、
1台のきちんとした車が来て止まった。
運転していたパプアニューギニア人のご夫婦は、
身なりもよく車内は冷房がかかっており、私は彼らに
マダンリゾートホテルまでヒッチハイクさせて
もらうことになった。車を運転しながら、だんなさんが私に聞いた。
「日本人かい?日本からここまでの航空代はいくらだったんだい?」
「往復で、2000キナ(10万円)ぐらいでした。」
「そんなに高いわけでもないんだね。それなら、私も日本に行けそうだ。」
との意外な返事に、何をしている人だろう、と私は思った。
彼の仕事は、鮫の尾びれを取って、それでスープを作るのが
好きな中国に売ること、であった。フカヒレの輸出業を
営んでいたのだ。無事にマダンリゾートホテルまで
送ってもらい、私はフカヒレ夫婦にお礼を言った。
シンシン踊りのハヤ村に向かうバスの中で、 弥生さんはパプアニューギニアの人口について説明してくれた。 10年に一度の人口統計の前回結果は670万人で、 女性1人が生涯に生む子供の平均数は8.2だった。 次の人工統計時には、700〜800万人に膨れあがって いるのではないかという。少子化高齢化が問題に なっている日本とは、対極にある。
ハヤ村は、山間を登りつめた所にあり、小学校と教会、 集落があった。家の裏の小屋の中に、ヒクイドリが飼われていた。 ダチョウ、エミューについで世界で3番目に大きな鳥で、村の人が食べるという。
シンシンを一緒に踊るために、赤い実をつぶしたものを 村の男の子が私達の額につけた。この間、ディディラが ‘顔をペイントするのに使う。’と教えてくれた実だ。
そして、カラフルな常緑の葉で着飾った村人達が、 シンシンを踊り始めた。
木筒には虫類の皮を張った素朴な太鼓が奏でるリズム。 極楽鳥の羽から作られたオレンジ色の髪飾り。 村の人は、観光客のためにも踊り、結婚や葬式、何か特別なことがあるときにも踊る。
マダンリゾートホテルに帰る途中、灯台に寄った。 もうこの時は暗くなっており、2010年1月1日は、 終わりかけていた。
2日
マダンリゾートホテルのプールは、海水を引き入れた
プールでとても体が浮きやすい。
ここで午前中ずっと泳いだ。クロール700メートル、
平泳ぎ1000メートル、再度クロール500メートル。
浮遊感が気持ちいい。
F君がバイタバッグ村から迎えに来てくれ、 弥生さんも午前の仕事が一息ついたので3人でお昼。 プールサイドのレストランは、中華料理のメニューを出しながら、 お正月で市場がまだ開いていないため、豚と海老は切れているという。
酢魚と海老なしチャーハンを3人で食べながら、私が
「極楽鳥が見たいなあ。でもハイランドにしか生息してないんですよね?」
と尋ねると、弥生さんは言った。
「ハヤ村に行けば、森の中でほとんど毎日見られるよ。
前泊して早朝に村の人に連れて行ってもらえば?」
私は、目を輝かせてそれをお願いした。
F君とバイタバッグ村に帰った午後、 ローズちゃんがパパイヤの木に登って ちょうど食べ頃のを1つ取ってくれた。太陽の光を浴びて、 パパイヤは毎日色付く。ローズちゃんは、どの木のどの パパイヤが食べ頃かをよく知っていて、かつパパイヤの 木登りをなんなくやってのける。
3日
F君が村の人に誘われて、教会へのミサに行っている間、
私は家でマルコ・ポーロの東方見聞録を読んでいた。
ベネチアで生まれ育ったマルコ・ポーロは、
フビライ・ハーンに12年仕えて、その間に
世界中を旅して回った。
その範囲は、中国、シベリア、中央アジア、東南アジア、
インド、中東に及ぶ。13世紀に書かれたこの文献の中に、
‘北インドの人々は常にかむビンロウジュのため、口の中が真っ赤だ’
という記述がある。そんなに昔からこの風習があるのかと驚いた。
パプアニューギニアの人もビンロウジュをかむ。いつもかむ。
老若男女誰でもかむ。そして真っ赤な残りを口から吐き出す。
そのため、マダンの道路にはいたる所に血が滴ったような
赤い跡がある。初めて見た時は血痕だと思い、マダンの町は
こんなに銃撃戦が多い物騒な所なのかと思った。しかし、
それも大雨が降ると、全部きれいに流される。
午後になり、教会から帰ってきたF君と夕飯を作り始める。 彼がマンゴーの木を薪割りをして、火をつけて、 私が下手ながら団扇であおぐ。
火は1つなので、そこでご飯を炊き、 お湯を沸かし、おかずを作ると、夕飯ができあがるのには 2時間ぐらいかかる。日本のように歩いて5分の所に コンビニがあるのは、便利かつ堕落であり、マンゴーの 薪割りから始まるここでのごはんは、不便、修練、そして 文字通りのスローフードである。
4日
弥生さんの運転で、今度はシンシン踊りではなく
極楽鳥を見に、再度ハヤ村に向かった。私を泊めてくれた
村のお母さんは、5人の子持ちで英語がよくしゃべれ、
私達はすぐにうち解けた。この村には電気が通じて
いないため夜は灯油ランプを使う。サツマイモ、タロイモ、
バナナ、葉もの、パパイヤなどは畑から取れるが、米、砂糖、
塩、灯油などは買わなければならない。お母さんが
ビンロウジュの実を市場で売って得るお金は、
1日10〜20キナ(400円〜800円)である。
お母さんはココナッツミルクで炊いたご飯、鶏肉、 ツナ缶、葉もの、調理用バナナを一緒に煮込んだスープ、 ゆでたタロイモの夕飯を作ってくれた。
壁に貼っていあるイエス・キリストのポスターに向かって、 皆で食前のお祈り。薪で丁寧に炊きあげたご飯はとてもおいしかった。
5日
早朝6時、村のお兄さんと少年に付き添ってもらって、
森に向かって歩き始めた。村の人たちの畑の中に立つ
枯れ木の一番上の枝に、白頭鷲が止まっている。
下の枝には、黒で目の回りが赤いムクドリが群れている。
鳥の階級が止まる枝の高さに現れている。
森の中に入ると、甲高く響く鳥の鳴き声がした。お兄さんが言う。
「この声が、極楽鳥だよ。」
お兄さんは裸眼で、私は双眼鏡を持って、50〜60メートルの
樹冠を見上げながら森の中を歩いて回る。瞬間、鮮やかなオレンジ色の
尾羽が、木々の間を左から右に横切った。それが極楽鳥だった。
私は、パプアニューギニアに来る前に、 上野動物園のバードハウスでパプアニューギニア政府から プレゼントされた極楽鳥を見たことがあった。こんな美しい鳥が パプアニューギニアの森にはいる。それが信じられなかった。
お兄さんは、見やすい位置に止まっている極楽鳥を 何度も指し示してくれた。その度に双眼鏡の中に、 オレンジ色の姿を捕らえることができた。オスメス二匹いる様子や、 美しく羽を広げてダンスしている様子。世界でも最も美しい鳥の 1つである極楽鳥は、世界に42種いて、そのうち38種がパプア ニューギニアに生息する。今日が晴れて幸運だった。
午後はお母さんと子供達と折り紙をした。ピョンピョンガエルは、 万国共通子供は喜ぶ。他に、鳥、箱、豚を折ってあげる。 お母さんは、お返しにココナッツの葉の工作を教えてくれた。 星、物入れ、ボール、長方形のボール、かんむり。
今日の夜もお母さんの家にお世話になった。食前のお祈りをして、 昨日と同様に、炊きたてのごはん、バナナ、葉もの、チキンを ココナッツミルクで煮たスープを皆で食べた。
話は、パプアニューギニアの言葉のことになった。 この島には部族毎に800以上もの言語があり、それらは方言レベルの 違いではなく文法や単語も全く異なると言われている。 時には直線距離で10キロも離れていない村で全く違う言葉が 話されている。それは何故か。パプアニューギニア全域にわたる 広大な熱帯雨林は、そこに住む人々の移動性を大きく妨げ、 彼らは近傍の森と畑から食料を得て、自らの集落内で暮らすようになった。 そして何万年も経つうちに部族毎の言語が形成されたというのが、 文化人類学的、言語学的説明である。
お母さんの説明は違った。
「バベルの塔よ。」
と彼女は言った。昔、神の姿を見ようとして、人々は天に
到達するための塔を建て始めた。その人間の傲慢さを戒めるために、
神は人類に異なる言葉を与えた。人々は意思疎通が取れなくなり、
塔はそのまま崩れてしまった。聖書に書かれた、異なる言語の起源説。
「それが起こったのが、きっとパプアニューギニアなのよ。」
薄暗い部屋の中に、お母さんの声がひんやりと響く。
6日
弥生さんのダイブショップで働いているギブハン君と一緒に、
ハヤ村からマダンに向かう車に乗った。途中の市場で降りた
村のおばさんは、15キロはありそうなビンロウジュの
実の入った袋を持っていた。
ダイブショップで待っていると、F君と、 ソロモン諸島でJICAボランティアをしているAさんが来た。 Aさんは、5日〜8日の日程でパプアニューギニアを訪問中で、 今日は3人で島へシュノーケリングに行く。着いた島は、 31日のシュノーケルの時と同じ島だった。2回目だと、 珊瑚の様子や湾の形になじみがあって、余裕を持って 泳げる。黄色、黒、青、オレンジ、紫の魚たち。 ふと気付く。私はエンゼルフィッシュとカクレクマノミしか、 熱帯魚の名前をしらない。日本に帰ったら、熱帯魚図鑑を開いてみよう。
Aさんは、ソロモン諸島で野菜栽培を教えている。 仕事柄、済んでいるのが山間の村なので、久しぶりに 海で泳げてうれしい、とAさんは言った。
島からボートでマダンに戻り、3人で市場に行った。 今日の夕飯のためにさつまいも、玉葱、トマト、 人参を買った。Aさんは、ビルムと呼ばれるパプアニューギニアの 網かばんを買い、私は南国の美しい布を2枚買った。
バイタバッグ村に帰って、3人で夕飯を作り始めた。 ソロモン諸島で滞在しているため、Aさんは火をくべたり、 ココナッツを削るのが上手だ。いつも通り、2時間近く経って、 市場で買った野菜をココナッツミルクで煮た野菜スープとごはんができた。
ベンさんが来て夕飯を食べている私達の和に加わった。
彼は、Aさんが野菜栽培を教えていることを聞いて、
自分の畑のことを話した。学校の裏にある彼の畑では、
バナナ、ヤムイモ、タロイモ、とうもろこし、
と色んなものを育てている。毎回違う作物をそだてる、
マメ科の落花生を育てるのが地力を保つコツである。
自分の畑は、丘陵の麓に位置しているので雨の後、いい
土壌が運ばれてくる。
「自分の畑は自分が一番知っているよ。」
と彼は誇らしげに言った。
7日
今日は、ダウさんの生まれた村がある島に
3人でカヌーで渡って遊ぶ予定だった。島で食べる
ためのすいかをもって、ダウさんの家を訪れると
彼は不在で、代わりに子供達がカヌーに乗るための
海辺まで連れて行ってくれるという。私達は、
彼らとともに炎天下の中を歩き出した。30分ほどで
ついた海辺の村にはたくさんの子供達と親がいて、
F君は彼らと握手しながらあいさつし、島に行きたい
旨を告げた。ところが今カヌーがないという。
ボートがあるかどうかを聞くと、ガソリンがないという。
子供達とF君はガソリンを探しに村内を歩き、あるらしいと
聞いて行ってみると、もうその人はどこかにでかけた後だという。
隣村でカヌーが借りられるかもと言うことで行ってみると、
今日は貸りられないという。
Aさんと私は、お腹を空かせながら2時間半以上待った。 そして、結局今日はダウさんの島にいって帰ってこれる 時間ではなくなってしまった。子供達と私達は、 近くのリゾートホテルまで歩いていった。ここで近くの 小島に行くための手こぎボートがレンタルできることがわかり、 私達3人はそれに乗った。ボートの先に乗っていると大海に こぎ出すようで、にわかにハイエルダールの気分。 でも私達の航海は8000キロではなく、目の前の小島までの 数百メートルだ。私達は到着したその島ですいかを食べて、 しばらく島の回りを泳いだ。
バイタバッグ村に着いたときは夕方で、 朝も昼もまともに食べていなかった私は、しゃべる気力を完全に 消失するほどお腹が空いていた。しかし、ここでご飯を作るのは、 薪をくべることから始まり2時間かかる。 辺りがすっかり暗くなる頃、ココナッツライス、野菜とツナ缶の 炒めものができあがった。薪で炊き、そして空腹という味付けが なされたごはんは、何よりもおいしい。
夜、折り紙で作ったくす玉を渡しに、3人でシウィさんの家を訪れた。
40個の花のパーツを組み合わせたそれをみて子供達は
「パイナップルみたい!」
と喜んでくれ、本を広げて折り紙をやり始めた。
子供たちが折り紙に夢中になっている傍ら、シウィ夫人が、
インドとパプアニューギニアでは同じビンロウジュでも
かみ方が違うという事を教えてくれた。ここでは、ビンロウジュの実と
一緒に細長い実と石灰を口にいれてかむ。インドでは、
ビンロウジュの実に色んなスパイスを混ぜてかむ。
「インド人のかみかたは、全く理解できないわ。なんでスパイスなんか混ぜるのかしら。」
とシウィ夫人は肩をすくめて言う。
私から見れば、インドでもパプアニューギニア でもビンロウジュをかむ風習は、歯は真っ赤に染まって しまうし、いたるところに吐き出すので道は汚くなるし、 不衛生この上なく、見た目も気持ち悪く思える。 しかし日本人は、腐った大豆である納豆を嬉々として食べることで知られる。 どちらがより気持ち悪いのか。それは誰にも決められない。
真夜中に体中を掻きむしっている自分に 気付いて目が覚める。指先で触れるとかさぶたが取れた 跡から体液が滲んでいて、かなり悪い兆候だった。 こういう箇所にはハエがたかり、化膿し始めると皮膚は 腐った肉のようになっていく。帰国まで後2日。長袖を着て 体を蚊、ハエから守らなければ。
8日
今日はAさんがソロモン諸島に帰る日だった。
エンベさんの車に、F君、私、ジェームス、セイン君
も乗り込み、
マダンの町のマシンガンビーチに行った。
日本兵が、上陸しようとした連合軍に対して必死で闘った場所。 60年前の銃は海水で錆びてぼろぼろで、でも歴史の一端をこの海岸に刻んでいる。
その後マダン空港で、残り半年のソロモン諸島での任期の無事を祈り、Aさんを見送った。
バイタバッグ村に帰った午後、ローズちゃんがにこにこしながらやってきて、
「畑に野菜を取りに行こう」
と言う。私は、小さな彼女の後ろにくっついて歩いていった。
彼女は、道すがら木に生えているキノコを採り、畑ではトウモロコシ
を1つ取り、モロヘイヤ、トマトを取り、角張った豆は
背が高いので私に収穫するように頼んだ。そして、サトウキビの茎を
取って私にくれた。
ローズちゃんのやるように、私も歯でさとうきびの皮を剥ぎ取ると、
「上手よ。」
と誉められた。そして、その収穫した野菜で彼女と一緒に夕飯を作る。
パプアニューギニアでの最後のスローフードの夕飯も、とてもおいしかった。
夜、センバ夫人と長女のジョイスが、木の皮で作った
クリーム色の美しいビルムを、シウィ夫人が緑色の毛糸で
編んだビルムを、そしてディディラがクリーム色の貝で作られたネックレスをくれた。
「これでパプアニューギニアを思い出してね。」
胸が熱くなった。
9日
早朝、エンベさんの車で空港に向かった。何回も通った
バイタバッグ村からマダンまでの道の両側の風景を眺める。
ココナッツ畑、村のお母さん達が野菜を売る市場、
小川を渡る橋があり、町に近づくと水産会社の工場がある。
私とF君以外の、エンベさん、ジェームス、セイン君は、
相変わらずビンロウジュの実を噛んでいる。明日もきっと、この通りだ。
チェックイン後、F君がおみやげにと言って宝貝のネックレスを くれた。私はそれを受け取って3週間お世話になったお礼を述べ、 後1年3ヶ月の任期を終えたらまた日本で会うことを約束した。
マダンからポートモレスビー、ポートモレスビーから成田へ。 空の上で、3週間の出来事がゆっくりと反芻される。今回の旅で、 取り立ての果物、野菜、そして炊きたてのごはんがとても おいしいことを改めて知った。また、ごはんを作るのは本当は とても時間がかかることなのだ、と体感した。このことを心に 留めておくために、日本に帰ったら何か野菜を育てよう、 そして、コンビニフードには甘んじないようにしよう、 私は窓の外の風景を見ながらそう思った。
09JAN PX149 MADANG-PORT MORESBY 0830-0930
09JAN PX054 PORT MORESBY-NARITA 1415-1955
パプアニューギニアに関して読んだ本
In the Valley of the Shadow、W. Fugmann、Lutheran Missionary Classics
私は魔境に生きた、島田覚夫、光人社
森の暮らしの記憶、マーロン・クエリナド、自由国民社
素晴らしい世界の自然、ニューギニア、松岡達英、大日本図書
熱帯探検図鑑2、ニューギニア、鈴木良武、松岡達英、偕成社
ブタとサツマイモ、梅崎昌裕、小峰書店
クストー隊の世界探検、パプア・ニューギニア、地上の楽園を発見、同朋舎出版
ニューギニア高地人、本多勝一、講談社文庫
水木しげるの最奥のパプアニューギニア探検、荒俣宏の裏・世界遺産1、角川文庫
地獄の日本兵、ニューギニア戦線の真相、飯田進、新潮新書