「なんじゃ、あれは?!」
というのが、私がひこにゃんを始めて見た印象だった。いつだったか、彦根城に行った際に城内の一角で、真っ赤な兜をかぶった白猫がぴょんぴょんジャンプしたり手を振ったりしていて、それを取り囲むようにして、若い女性やママさんたちがキャーキャー言いながら携帯カメラのシャッターを切りまくっていたのである。
「重厚で厳格な彦根城とは、不釣り合い、、」
とその時は思った。しかししばらくしてゆるきゃらブームが到来し、ひこにゃんが国宝彦根城のキャラクターであることを知った。ひこにゃんの猫姿は、二代目彦根藩主、井伊直孝の世田谷豪徳寺での逸話が基になっている。
鷹狩りの帰りに、直孝が猫の手招きで世田谷のとある貧しい寺に立ち寄ったところ激しい雨となり、雨宿りをする傍ら寺の和尚と談話した。直孝は落雷から逃れたことを感謝し、この寺に立派な伽藍を整え井伊家の菩提寺とした。この寺院改修が行われたのは1633年のことであり、1659年直孝没後、その戒名である久昌院殿豪徳天英居士に因んで、寺は豪徳寺と呼ばれるようになったと言う。このことから、豪徳寺は招き猫発祥の地ともされる。
彦根は遠いが、世田谷だったらうちからバス1本で行ける!ということで、都内でも紅葉が目立つようになってきた2019年11月10日、かずちゃんを連れて参拝。
門をくぐると、広々とした境内の中には、紅葉の紅色に彩られた本堂、三重塔が見える。かずちゃんは嬉しそうに境内を走り回り、一番奥の墓地まで一直線。
入ってみて目を見張った。優に2メートルを越すと思われる墓石が立ち並び、その表面も地面も積年の苔で覆われ、静寂に覆われていたのである。ここが井伊家歴代藩主の墓所であった。井伊家の菩提寺は、彦根市の清凉寺、龍潭寺、浜松市の龍潭寺があるが、ここ豪徳寺には直孝公、直弼公初め、井伊家親族の菩提が弔われている。
境内のほうに戻り、三重塔の横にある門をくぐると
ここが直孝を招いたという猫を祀った招福殿であった。お堂の脇には、大・中・小のみならず特大、超特大、微小、超微小サイズの招き猫が奉納されており、なかなか圧巻。ご利益に与ろうと参拝客は手を合わせ、その愛らしさを写真におさめていく。
この近くに住む友人によると、東急世田谷線には招き猫が描かれた車両が走り、小田急豪徳寺駅からの通りには招き猫の像や絵が飾られたりして、招き猫による町おこしを頑張っているという。
社務所にいくとこの招き猫を買うためにお客さんが並んでおり、社務所の棚の中にはひこにゃんと招福猫のイラストがあった。ひこにゃんと招福猫のつながりを境内に見つけることができてママは満足。
そしてこの後、すぐお隣の世田谷城址公園をお散歩。今は閑静な住宅街の中にある公園となっているが、歴史的には1300年代後半に吉良治家が、鎌倉公方の足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領し、その後200年以上も依拠したという由緒ある城郭である。
文明12(1480)年、吉良政忠がこの世田谷城内に、叔母を弔うために弘徳院という寺院を立てた。これが、江戸期になって井伊直孝が猫に招かれて訪れた寺だったという。弘徳院は、その後直孝による改修を経て、豪徳寺と改名した。
吉良氏は、清和源氏足利氏の支族であり、井伊氏は藤原北家の後裔と言われる。両家とも、超名門である。浅薄な身ゆえ、今までは吉良氏といえば忠臣蔵、井伊氏といえば桜田門外の変という史実しか浮かばなかったのであるが、今回の豪徳寺訪問で、世田谷の地における名門二家のつながりを知ることができた。
さて、ひこにゃんである。ひこにゃんは、商標権フリーという形で数多くの企業からグッズが作成・販売され、2007年の彦根城築城400年祭は目標の来場者数55万人を大きく上回る76万人を得て無事に終了。彦根市の人口が11万であることを考えると、これはものすごい経済効果である。その後もひこにゃん人気は全国にすっかり定着し、今でもファンから1万枚を超える年賀状が届き、ひこにゃんに会いに彦根城を訪れる人は後を絶たない。
彦根城のようにキャラクターパワーにあやかりたいと思う市町村は少なくないはず。では他の有名なお城はどうなっているのだろうか。以下の表を見ていただきたい。
(表)日本百名城とキャラクター
北海道 | 根室半島チャシ跡群 | 16〜18世紀にアイヌによって造られた砦で「柵囲い」を意味する。海に面した平地に盛土と堀の跡があり、祭祀の場、見張り場としても使われた。 | チャシ女子 | 考古学研究家の伊藤初太郎が研究したアイヌの口碑伝説をもとに誕生。アイヌの文様が施されたチカラカラペを着ている。 |
北海道 | 五稜郭 | 1854年の日米和親条約によって開港が決まった箱館に建築される。戊辰戦争では旧幕府軍の本拠地となったが、その後新政府の攻撃を受けて降伏。土方歳三の遺体が埋葬されたと伝わる。 | GO太くん | 2006年にオープンした2代目五稜郭タワーのイメージキャラクター |
北海道 | 松前城 | 1855年異国船に対する海防強化のために築られ海岸砲台を33門備えた。明治となり老朽化のため解体されたが、豪商・栖原小右衛門らにより石垣が松前波止場の岸壁整備のために再利用された。 | ふくまくん | 松前城を管轄する松前警察署のキャラクター |
青森県 | 弘前城 | 初代弘前藩主津軽為信が手掛け二代目信枚が1611年に完成させた。別名、鷹岡城。 | たか丸くん | 弘前城築城400年を記念に2011年に誕生。兜は、津軽為信のものをイメージ。 |
青森県 | 根城 | 1333年、南朝方の武士である南部師行が陸奥国糠部郡に赴任し拠点とした城。 | なし | |
岩手県 | 盛岡城 | 南部七郡の領有を認められた南部信直が、1592年北上川と中津川の合流地点である不来方の地に築城を開始。 | なし | |
宮城県 | 多賀城 | 奈良時代の律令政府の令で724年、按察使大野東人が松島丘陵に建設した古代城柵 | たがもん | 多賀城市観光協会のキャラクター。外郭南門をイメージ。 |
宮城県 | 仙台城 | 1602年に初代仙台藩主伊達正宗が広瀬川の断崖、御裏林、竜ノ口渓谷を利用して作った山城。 | むすび丸 | 宮城県の観光キャラクター。伊達家の九曜紋が描かれた三日月兜をかぶる |
秋田県 | 久保田城 | 常陸国の義将佐竹義宣が、1602年に出羽国秋田郡に転封になったのを機に築城。 | 与次郎 | 築城の際に元の住処を失い、城内に住む代わりに義宣に飛脚として仕えたという与次郎狐の伝説がモチーフ。 |
山形県 | 山形城 | 1356年斯波兼頼が入部した際に作られ、後に最上氏57万石の城郭となる。 | なし | |
福島県 | 二本松城 | 1400年代に奥州探題に任官した畠山氏が築城。1643年丹羽光重が入城し初代藩主となる。 | 菊松くん、銃太郎くん | 戊辰戦争で戦った「二本松少年隊」に因む |
福島県 | 会津若松城 | 14世紀から蘆名氏が館を作り、1593年蒲生氏郷が天守を竣工。江戸期を通して会津松平家の居城であり、戊辰戦争では激戦地となる。 | お城ぼくん | 会津若松市出身の漫画家、笹川ひろしによって誕生した。 |
福島県 | 白河小峯城 | 1340年に結城親朝が築城し、戦国時代まで白河結城氏の居城。1629年より丹羽長重が城郭を大改築する。 | 小峰シロ | 城改修の際に人柱にされてしまったおとめという娘に因む。白河観光物産協会のキャラクター |
茨城県 | 水戸城(弘道館) | 1841年、第9代水戸藩主の徳川斉昭によって開かれた藩校。水戸学の敬天愛人の精神に基づき、儒教、諸学問、武芸、医学、薬学、天文学等が享受された。 | みとちゃん | 水戸市の公認キャラクター。偕楽園でのお昼寝が趣味。 |
栃木県 | 足利氏館(鑁阿寺) | 1196年、足利氏2代目足利義兼が居館内に大日如来を祀った真言宗の本堂。境内の周囲には土塁と堀がある。 | たかうじくん | 足利義兼が創建したとされる足利学校がデザインに使われている |
群馬県 | 箕輪城 | 1521年、長野業尚(または長野信業)が榛名山の丘陵に築城。戦によって武田家家臣、滝川一益、北条氏邦、井伊直政と城主が代わり、上野国支配の拠点となった。 | なし | |
群馬県 | 金山城 | 1469年太田市金山(235.8m)に岩松家純が築城。1590年豊臣秀吉の小田原征伐を受けて廃城。山城にも関わらず巨大な石垣や土塁が見られる。 | なし | 1584年、北条氏に対して71歳で籠城戦を指揮した妙印尼輝子がデザイン。 |
埼玉県 | 鉢形城 | 1473年、長尾景春によって荒川と深沢川の断崖上に築城された。上杉氏、北条氏の居城となり、小田原征伐では35000の兵に対し1ヵ月籠城の後に開城した。 | 乙姫ちゃん | 鉢形城のお堀にある竜宮伝説に因む。 |
埼玉県 | 川越城 | 1457年上杉持朝が、敵対する古河公方の防衛拠点として、家宰の太田道真、太田道灌父子に命じて築城。川越夜戦(1524年)を経て北条氏康が城主となり、江戸期は松平家の居城かつ川越藩の藩庁となる。 | なし | |
千葉県 | 佐倉城 | 戦国時代に千葉氏によって築城が開始。1610年に家康の命により土井利勝が入城し、佐倉藩の藩庁として機能。 | カムロちゃん | 江戸時代の書物である「古今佐倉真佐子」に、城内の杉戸に描かれたおかっぱ頭の女児が夜になると抜け出て遊ぶという伝説に因む。 |
東京都 | 江戸城 | 家康入城後、1603-1660年にかけての天下普請を通して大城郭としての威容を整える。1657年(明暦3年)の明暦の大火で天守が消失したが、町の復興を優先して再建されず。維新後は宮城となる。 | なし | |
東京都 | 八王子城 | 1571年に北条氏照が深沢山に築城した山城。小田原城の支城として、複数の曲輪や深堀などの防御機構を持ち、山麓には城下町があった。小田原征伐では、猛攻撃の末陥落した。 | うじてるくん | 八王子城址のマスコットキャラクター。他の八王子市のキャラクターとともにPR活動にいそしむ。 |
神奈川県 | 小田原城 | 1459年北条早雲が入城後、後北条氏の本城となる。小田原征伐の際は、3か月の籠城戦の末開城。江戸期には、大久保氏によって総石垣を備えた城郭へと改修。 | 北条一族14人 | |
山梨県 | 武田氏館(武田神社) | 1519年、石和から移った武田信虎が築城。以後、信玄・勝頼の時代を通して甲斐国守護武田氏の本拠となった。 | ひし丸 | |
山梨県 | 甲府城 | 小田原征伐(1590年)後、関八州を与えられた家康が築城を企図。江戸時代には六代将 家宣の家臣、柳沢吉保が城主となり栄える。 | 羽柴秀勝など | 甲府城研究室(埋蔵文化財センター)が作成した歴代城主のキャラクター |
長野県 | 松代城 | 川中島合戦では、北信の検診に対峙するための信玄の最前線の城となる。1622年に真田信之が入城し、以後明治維新まで真田氏の居城となる。 | なし | |
長野県 | 上田城 | 1583年真田昌幸によって築城。第一次(1583)第二次上田合戦(1600)では徳川軍を撃退。1622年に仙石忠政が入城し大改修を行った。 | 真田幸丸くん | 上田市の中心部にあるうえだ原町一番街商店会のキャラクター |
長野県 | 小諸城 | 武田信玄の東信州経営のために参謀の山本勘助が縄張りを張ったといわれる。1590年に入城した仙谷秀久により三重天守等が築かれた。城下町は北国街道の宿場町。 | 水道管助 | 小諸城の縄張りを張った山本勘助に因んで、小諸市上水道課のキャラクターとして誕生 |
長野県 | 松本城 | 1504-1520年、小笠原氏によって築城。戦国期は争奪戦の場となるが、1582年上杉景勝に擁立された小笠原洞雪斎が奪還。小田原征伐後に入城した石川数正が天守を整備した。 | アルプちゃん | 松本市のキャラクターで、太鼓門に石像がある |
長野県 | 高遠城 | 戦国時代には、高遠頼継、武田信玄・勝頼と城主が代わり、信濃争奪戦の基地となった。江戸期には高遠藩の藩庁となり、1691年以降は内藤氏が居城。 | イーナちゃん | 伊那市のキャラクターで、高遠城の桜がイメージ |
新潟県 | 新発田城 | 戦国以前より新発田氏の居城。上杉景勝に対して反乱を起こし新発田氏は滅亡するが、1597年溝口秀勝が入城し、近世城郭へと再建。 | しばたん | 溝口氏お抱えの竹細工師が造ったという金魚台輪がモチーフ |
新潟県 | 春日山城 | 越後の軍神、長尾景虎(後の謙信)の生まれた城。父・為景によって日本海を見下ろす春日山に築城され、以後、晴景、景虎、上杉景勝の居城となった。 | 上越忠義隊けんけんず | |
富山県 | 高岡城 | 1609年の大火後に、加賀藩主前田利長が築城。一国一城令により廃城となるが、その後も米蔵・塩蔵・火薬蔵等が置かれ軍事拠点としての機能を密かに担った。 | 利長(としなが)くん | |
石川県 | 七尾城 | 1428年頃に能登国守護の畠山満慶が七尾湾を望む城山に築城。全ての尾根上に砦を配した大規模な山城でその後約150年間能登国支配の拠点となる。 | じょーやまくん | |
石川県 | 金沢城 | 一向一揆の拠点(尾山御坊)として築かれたが、1580年佐久間盛政に攻め落とされ金沢城と改称。江戸以降は前田家の居城となり歴代藩主によって兼六園が造られた。 | ひゃくまんさん | 加賀百万石をモチーフとする石川県のPRキャラクター。金沢城にも登場する。 |
福井県 | 丸岡城 | 1576年柴田勝豊が築城し1624年に福井藩から独立する形で丸岡藩が誕生。本多重次が長篠の陣中から妻に送ったとされる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」が有名で、お仙は後の初代丸岡藩主本多成重となった。 | 城丸くん | |
福井県 | 一乗谷城 | 1471年越前国守護代であった朝倉敏景が築城。室町後期は越前の中心として栄えたが、1573年信長の侵攻により朝倉氏は滅び、後に一乗谷城も廃城となった。 | 朝倉ゆめまる | 一乗谷城に住む妖精で、城郭のすばらしさを知ってもらおうと奮闘。 |
岐阜県 | 岩村城 | 源頼朝の重臣加藤景廉の長男、遠山景朝が築き、鎌倉初期には既に存在していたと言われる。戦国期、信長の叔母であるおつやの方は幼き城主と民を守るために悲劇の運命に翻弄された。 | なし | |
岐阜県 | 岐阜城 | 道三流斎藤家の居城であったが、1567年織田信長が奪取し岐阜城と改名。信忠、信孝、後に秀信が城主となり美濃国の拠点となった。 | 城ロボ | フリーペーパー金華山のキャラクター |
静岡県 | 山中城 | 1558年頃、東海道の西の防衛拠点として北条氏康が築城。1590年の小田原征伐で陥落するが、現在も北条時代の遺構が大規模に残されている。 | なし | |
静岡県 | 駿府城 | 1590年に武田遺領を拝した家康が築城。後、大御所として隠居後に天下普請として三の丸の拡充や安部川の治水を行った。 | 竹千代くん | 幼少時代の家康がモチーフ |
静岡県 | 掛川城 | 室町中期に今川氏の重鎮朝比奈泰煕が築城。1569年三河の家康に攻められ開城。家康の関東移封後に入城した山内一豊は、天守閣や大手門の建造、治水工事に力を注いだ。 | 茶のみやきんじろう | 掛川市の公式キャラクターであり、掛川城案内もする。 |
愛知県 | 犬山城 | 1537年信長の叔父、織田信康によって木曽川沿いに築城。戦国期には、織田側、秀吉、家康側と城主が代わったが、1617年以降は成瀬氏の居城となる。 | わん丸くん | 犬山市のキャラクター。犬山城主になるのが夢。 |
愛知県 | 名古屋城 | 今川氏親が築城し、信長が生まれたと伝わるた那古野城跡に、1612年天下を掌握した家康が天下普請によって築城。尾張徳川家17代の居城となった。 | はち丸 | 尾張徳川家が合印として使用した「丸に八の字」印に由来するキャラクター |
愛知県 | 岡崎城 | 三河国守護代の西郷稠頼が築城したものを松平清康が奪取し、本城で竹千代(家康)が生まれる。家康の関東移封後は秀吉家臣の田中吉政が入り、矢作川への架橋、二十七曲り等城下町を整備した。 | オカザえもん | 岡崎市の非公認でありながら、岡崎公園でのゆるキャライベントを開催したりと幅広い活動を展開。 |
愛知県 | 長篠城 | 長篠菅沼氏の居城であったが武田氏に奪われ、信玄没後は家康が攻め落とした。長篠の戦では、籠城戦に耐えたのち、信長・家康連合軍の鉄砲隊で武田軍を撃退した。 | のんすけくん | 長篠城が建つ伊那街道及び豊川は昔、山湊馬浪と謳われた交易の要衝であった。その交易を担った木曽馬がモチーフ。 |
三重県 | 伊賀上野城 | 1585年秀吉の家臣筒井定次が伊賀に移り大阪城の支城として築城。1608年には家康に仕える藤堂高虎が入城し、豊臣家に対する西側の防御として巨大な石垣を構築した。 | た伊賀ーくん | |
三重県 | 松阪城 | 1584年伊勢国に入国した蒲生氏郷が築城。近江から豪商を呼び、楽市楽座を設け商都としての基礎を作った。1619年以降は紀州藩領となり城代が置かれた。 | ちゃちゃも | 牛とお茶をモチーフにした松坂市のキャラクター。松坂城散策も好き。 |
滋賀県 | 小谷城 | 1523年浅井亮政による築城とされる。久政、長政と浅井氏三代の居城であったが、姉川、刀根坂の戦いで信長に攻められ落城。長政の妻かつ信長の妹であるお市の方は、三女を連れて小谷城から生き延びた。 | 浅井三姉妹 | 茶々、初、江の浅井三姉妹は、長浜市の看板娘 |
滋賀県 | 彦根城 | 関ヶ原後に近江国を与えられた徳川四天王の1人井伊直政が築城を計画。1603-16222年にかけて天下普請が行われ、江戸期を通じ大老を輩出した井伊家の居城となった。 | ひこにゃん | 彦根城のキャラクター。もらった年賀状には全部返信するのがモットー。 |
滋賀県 | 安土城 | 1576年信長による築城。その名城ぶりがイエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録等に残るが、本能寺の変後、天守と本丸が消失し廃城となる。信長の菩提を弔うハ見寺がある。 | まめのぶくん | 安土城考古博物館のキャラクター |
滋賀県 | 観音寺城 | 近江守護、佐々木六角氏によって南北朝時代に築城された。15世紀には佐々木氏と京極氏の間で奪還争いが続いたが、1568年信長の攻撃によって六角義賢・義治父子は無血開城した。 | なし | |
京都府 | 二条城 | 家康の天下普請による築城。1603年に将軍就任の祝賀の儀が行われ、1626年には後水尾天皇の行幸を迎え、1867年には大政奉還の舞台となった。明治以降は、皇室の離宮となる。 | なし | |
大阪府 | 大阪城 | 秀吉が天下統一の拠点として築いた巨城。1615年大坂夏の陣で豊臣家の滅亡とともに落城し、秀忠の時代に天下普請によって新城郭が作られる。昭和3年大阪市長の關一によって天守が再建された。 | ゆめまるくん | |
大阪府 | 千早城 | 後醍醐天皇の重臣である楠木正成によって金剛山(1125m、城の最高標高は673m)によって築城された。数倍の兵力を持つ鎌倉幕府軍を撃退し、南北朝時代は楠木氏の居城となった。 | まさしげくん | |
兵庫県 | 竹田城 | 1443年但馬守護山名宗全が虎臥山の山頂に築き、家臣の太田垣光景が城主となる。室町期は赤松氏、戦国期は西の毛利氏、東の信長・秀吉軍との戦いの場となった。江戸初期に廃城となり今でも壮大な石垣が残る。 | たけじぃ | 雲に浮かぶ仙人のような姿が愛らしい |
兵庫県 | 篠山城 | 1609年家康が松平康重に命じ、西国大名に対する山陰道の抑えとして篠山盆地に築城。以後、松平家、青山家が城主となる。 | まるいの、まめりん | 篠山に住むいのししと、丹波黒豆がモチーフ |
兵庫県 | 明石城 | 1617年秀忠の命により小笠原忠真が山陽道の抑えとして築城。坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城から移築したとされる。1682年以降は、越前松平家の居城。 | なし | |
兵庫県 | 姫路城 | 1600年に入城した池田輝政によって近代城郭へと整備され以後明治維新まで6氏31代が城主となった。武者修行中の宮本武蔵が天守に住む化け物狐を退治した伝説が残る。 | しろひめまる | |
兵庫県 | 赤穂城 | 池田長政が築いた掻上城跡に、1645年赤穂に入封した浅野長直が築城。長直は海沿いという地の利を生かして製塩を奨励した。孫の長矩は刃傷事件後切腹し、赤穂城に集った家臣団は策を練って仇を討った。 | 陣たくん | 大石内蔵助が討ち入りに持っていたとされる陣太鼓がモチーフ |
奈良県 | 高取城 | 高取山(583m)に越智氏によって築かれた山城。戦国期に筒井順慶、本多利久によって近代城郭へと整備され、1640年以降は旗本から大名となった植村氏の居城。 | しろっきー | 高取城観光ボランティア会のキャラクター |
和歌山県 | 和歌山城 | 1585年紀州征伐に参陣した豊臣秀長が築城。1619年家康の十男頼宣が入城し、以後紀州徳川家の居城となる。西ノ丸庭園や再建天守を備えた壮麗な城郭となった。 | 吉宗くん | 紀州徳川家出身の8代目将軍がモチーフ |
鳥取県 | 鳥取城 | 1581年秀吉による兵糧攻めで凄惨な敗北を喫し、城主吉川経家は籠城兵の助命を条件に切腹。関が原以降は池田氏が近代城郭へと改修。城内にある経家の銅像建立には、曽孫である五代目三遊亭圓楽も参考にされた。 | かつ江さん | 鳥取の渇え殺しがモチーフ。しかし観光キャラクターとしてはふさわしくないとして公開停止となった。 |
島根県 | 松江城 | 1600年堀尾忠氏が松江藩に入封し、宍道湖の北にある亀田山に築城を開始。1634年京極忠高、1638年松平直政が城主となる。城北側の塩見縄手には、茶人として名高い松平不昧が造った明々庵がある。 | あっぱれくん、しじみ姫 | 築城400年歳のキャラクター |
島根県 | 月山富田城 | 平安末期の築城と伝わる。代々出雲国守護の居城であり、尼子晴久(1514-1561)の時代には山陰山陽8か国を支配する大名の本拠地となった。 | しまねっこ | 島根県の観光キャラクターしまねっこが、月山富田城に登場する |
島根県 | 津和野城 | 1295年石見の地頭吉見頼行によって霊亀山(367m)に築かれた。関が原後は坂崎直盛が入城し天守等を築城し、1617年以降は津和野藩亀井氏の居城。 | つわみん | つわみんが天空の城、津和野城を案内 |
岡山県 | 津山城 | 1441年美作の守護大名、山名教清が鶴山城を築き、後1603年に18万6千石で入封した森忠政が津山と改名し近代城郭を築城。13年かけて77棟もの建物が立つ巨城となった。1698年以降は越前松平家が城主となった。 | 津山太助 | 津山市の環境キャラクターで、津山藩主という設定 |
岡山県 | 備中松山城 | 1240年秋庭三郎重信が臥牛山大松山に築城し、戦国期の三村元親の時には小松山をも含む城塞となる。幕末には、佐幕派であった藩主板倉勝静を、陽明学者の山田方谷が説得し無血開城となった。 | さんじゅーろー | 生きた猫が現城主として過ごしている |
岡山県 | 鬼ノ城 | 663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷が、防衛のために築いた城郭の1つとされる。歴史書には記載がない。2.8キロにわたる土塁があり、発掘調査で溜井、烽火場、鍛冶遺構が確認されている。 | なし | |
岡山県 | 岡山城 | 1573年備前の武将宇喜多直家が築城を始め、息子秀家は壮麗な天守を築いた。関が原で西軍についた宇喜多家が改易となった後は、小早川秀家、池田氏が城主。1700年池田綱政は後楽園を造る。 | なし | |
広島県 | 福山城 | 1619年一国一城令に反した福島正則が改易された後、水野勝成が備後・備中に入封し例外的に元和偃武以降に築城された。1710年以降は阿部氏の居城。 | うずみちゃん | 阿部氏の時代に造られたという福山の郷土料理であるうずみごはんがモチーフ |
広島県 | 郡山城 | 1352年安芸国吉田荘地頭職であった毛利元春が既に居城していたと言われ、1523年元就が入城し城郭を拡張。1591年毛利輝元が広島に移るまでは、城下町島含め毛利氏の本拠であった。 | たかたん | 背中には、毛利家の3本の矢を背負っている |
広島県 | 広島城 | 1589年、本拠であった吉田郡山城に代わって、毛利輝元が太田川の三角州に近代城郭の築城を開始。島普請であり埋め立てや浚渫を伴う難工事であった。1619年以降は浅野氏の居城となる。 | こいこちゃん、他 | 広島城が鯉城の別名を持つことに因む |
山口県 | 岩国城 | 1601年岩国に赴任した吉川広家が築城したが、1615年には一国一城令で居館だけとなる。城下町と城郭をつなぐ錦帯橋は3代目領主広嘉による造営。 | ソラッピー | 城から8キロほど離れた岩国錦帯橋空港のキャラクター |
山口県 | 萩城 | 関が原後、長門・周防の二か国に減封となった毛利輝元が1603年海を臨む指月山に築城を開始。江戸期を通して毛利家の居城であり、松下村塾で学んだ幕末の志士たちにとって心の拠り所となった。 | 萩にゃん | 萩にゃんが萩城下町を案内。 |
徳島県 | 徳島城 | 1585年秀吉の四国征伐で軍功のあった蜂須賀家政が阿波に入国し築城。その完成を祝うために無礼講で踊ったのが阿波踊りの発祥ともいわれる。 | トクシィ | 阿波踊りが得意な徳島市観光キャラクター |
香川県 | 高松城 | 柿本人麻呂に玉藻よしと詠まれた瀬戸内海に面する海城。1588年讃岐国に入国した生駒親正が築城。1642年に入封した松平頼重は城下に日本初の上水道を敷設した。 | たまもん | かつて天守に存在した鯱をモチーフにした玉藻公園のキャラクター |
香川県 | 丸亀城 | 1597年高松城に入封した生駒親正が支城として築城。1641年に丸亀藩成立後は、山崎家治・京極高和によってさらなる改修が行われた。 | 京極くん | 丸亀城で、観光客を出迎えてくれる |
愛媛県 | 今治城 | 関が原後に伊予半国領主となった藤堂高虎が築城。三重の堀に海水を巡らして海上交通の要衝としての機能を持った。1635年以降は久松松平氏の居城となった。 | バリィさん | 今治市の観光キャラクター。今治城の一日城主を勤めたことも。 |
愛媛県 | 湯築城 | 南北朝時代から戦国期の250年にわたって、源氏方家臣で伊予国守護の河野家の居城であった。1585年四国征伐の際に小早川隆景によって落城した。 | なし | |
愛媛県 | 松山城 | 1602年、賤ヶ岳七本槍であり伊予国城主であった加藤義明が築城。1635年以降は久松松平家の居城。1784年に落雷で消失した天守は、1820年から35年の月日をかけて再建された。 | よしあきくん | |
愛媛県 | 大洲城 | 1331年伊予国守護として入った宇都宮豊房が築城。1585年小早川隆景によって伊予宇都宮家は滅びるが、後、藤堂高虎、脇坂安治によって近代城郭に生まれ変わった。 | なし | |
愛媛県 | 宇和島城 | 平安後期から戦国期までは伊予西園寺氏の居城。1595年入城した藤堂高虎によって、空角の経始(五角形の縄張り)を持つ海城へと変貌した。1614年以降は宇和島藩伊達家の居城。 | 伊達にゃんよ | 宇和島伊達400年祭りのキャラクター |
高知県 | 高知城 | 1601年山内一豊が浦戸湾を臨む大高坂山に築城。一豊は、関が原以後蟄居していた同郷近江出身の百々綱家の赦免を願い、総奉行に任じた。綱家は優れた石垣・築城技術を持っていたと伝わる。 | やまぴょん | 高知城歴史博物館のキャラクター。山内豊昌の「兎耳形兜」をかぶる。 |
福岡県 | 福岡城 | 1601年筑前一国を任された黒田如水・長政父子が築城を開始。黒田家ゆかりの備前国福岡に因み、福崎という地名を福岡と改名し、江戸期を通じて黒田家の居城となった。 | ふくおか官兵衛くん | 大河ドラマを機に観光キャラクターとして誕生 |
福岡県 | 大野城 | 663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷が防衛のために築いた古代山城。日本書紀、及び続日本書紀に築城、修復の記録がある。 | 大野ジョー | 大野城跡の石垣をリーゼントとして持つ |
佐賀県 | 名護屋城 | 1591年、天下統一を成した秀吉が朝鮮出兵の前線基地として築城を開始。文禄・慶長の役時には100を超える武将の陣所が並び、城下には10万人を越す人が住んだと伝わる。 | なし | |
佐賀県 | 吉野ヶ里(吉野ヶ里歴史公園) | 弥生時代に発達した大規模な環濠集落。当時は縄文海進のため有明海が近く採取もできたとされる。外壕内壕、木柵、祭殿、墳丘墓等が発掘調査で確認されている。 | ひみか、やよい | ひみかは、吉野ケ里遺跡がある東脊振村、三田川町、神埼町の頭文字。やよいは、弥生人より。 |
佐賀県 | 佐賀城 | 肥前国の武将龍造寺氏の居城であったが、跡を継いだ鍋島直茂・勝茂が1602年から大規模な改修を行う。4重5階の天守を備えた巨城となった。 | なし | |
長崎県 | 平戸城 | 中世から水軍として名高い松浦党の居城であったが、1613年幕府に恭順を示すために藩主自らが棄却。しかし1702年幕府から許可を得て、松浦重信が再建した。 | なし | |
長崎県 | 島原城 | 1616年島原に移封された松倉重政による築城。農民やキリシタンが大弾圧された1637年の島原の乱では、幕府討伐軍の本拠地となった。 | 島原守護神しまばらん | 島原市出身で妖怪ウォッチ作者の小西紀行がデザイン。 |
熊本県 | 熊本城 | 室町時代、肥後国守護の出田秀信による築城。1588年に入国した加藤清正によって近代城郭へと整備され、隈本を熊本と改名。1632年以降は細川家の居城となる。 | ひごまる | 熊本城築城400年歳のキャラクター |
熊本県 | 人吉城 | 鎌倉時代〜明治維新まで670年にわたって、肥後南部を支配した相良氏の居城。西南戦争の際には、西郷軍の拠点となった。 | なし | |
大分県 | 大分府内城 | 安土桃山時代に福原直高によって築城され、関が原後に入城した竹中重利によって天守や外堀が造られた。別府湾を望む海城である。 | なし | |
大分県 | 岡城 | 都落ちした義経を迎えるために緒方惟栄が天神山(325m)に築城したと伝わる。1594年に入城した中川秀成により近代城郭となった。滝廉太郎が荒城の月の曲の着想を得た場所とされる。 | なし | |
宮崎県 | 飫肥城 | 宇佐八幡宮の神官の出である土持氏の築城と伝わる。戦国期は薩摩の島津氏と日向の伊東氏との間で奪還争いが続いた。関が原以降は東軍についた伊東氏の居城。 | あゆみちゃん | 飫肥城下町の案内役 |
鹿児島県 | 鹿児島城 | 1601年島津忠恒による築城。天守もなく簡素な造りであったのは幕府への恭順を示すためだったといわれる。西南戦争時、背後に控える城山で、西郷隆盛は最期を迎えた。 | 西郷どん | 鹿児島市明治維新PRキャラクター |
沖縄県 | 今帰仁城 | 沖縄県北部を支配していた北山王国の居城。1416年には中山王国の尚巴志によって滅ぼされるが、その後も城には北山監守が置かれた。 | なし | |
沖縄県 | 中城城 | 琉球王国の按司・護佐丸(〜1458)が築城したとされる。1853年に来琉したペリーがその建築技術の高さを称賛した。第二次世界大戦の被害を免れた石垣が残る。 | 護佐丸 | 沖縄県中城村のキャラクター |
沖縄県 | 首里城 | 14世紀には琉球國(沖縄方言:ルーチュークク)の城として存在したとされる。明・清、マラッカ王国や日本との交易で栄えた琉球王朝の政治・文化の中心であった。 | 里之子くん | 首里城公園のキャラクター |
地元出身のイラストレーターである犬山秋彦氏が作り出した銀ちゃんが、戸越銀座のキャラクターとしてデビューしたのは2004年。ひこにゃんのデビューが2006年で、ゆるきゃらグランプリが2010年より開催されていることを鑑みると、ゆるきゃら黎明期に生まれと考えられる。
今は、戸越銀座商店街のHPをはじめ、チラシ、ポスター、ハロウィンや街バル等のイベントには必ず登場する人気キャラクターであるが、初めは、着ぐるみ姿で商店街を歩いていても怖がられたり、子供たちから蹴られたりと、なかなか前途多難だったらしい。
さて戸越とはどこにあるのだろうか。
品川駅からやや南下したところにある品川宿は、日本橋から7.9キロ離れた東海道の第一宿場であるが、戸越はほぼ同距離の中原街道沿いにある。
中原街道は、鎌倉時代には既に成立していたとされる武蔵と相模を結ぶ街道であり、東海道成立後も脇街道として大いににぎわったとされる。戸越までは江戸の色合いが濃いが、その先は丸子の渡しがあり、多摩川を渡れば川崎となる。その場所柄、江戸を越す町、江戸越しの町と呼ばれていたのが、戸越の地名の起こりといわれている。
大永6年(1526)に創建された戸越八幡神社が所蔵する「八幡宮出現由来記」(寛永(1624-1645)廿末年発刊)には、詠み人は不明であるが、以下の歌がある。
現在戸越神社がある辺りに、その昔、清水の池と成就庵と呼ばれる草庵があり人々の信仰を集めていた。大永年間に行永法師がこの庵に立ち寄った折、夢の中で誉田別命(応神天皇・八幡大神)の御神体の出現を見て祀った。その後も参拝者が絶えないことを詠んだ歌だという。
このことから江戸初期には、戸越という地名が存在していたらしい。
現在行政区上存在する戸越1〜6丁目(図1)は全て中原街道の東側にあるが、旧戸越村の地域は、中原街道の東西にまたがる形で広く存在していた。そのため現在も戸越神社の氏子地域は、戸越1〜4丁目に加えて、小山台、小山、荏原、平塚、豊町、西品川(図2)が含まれており、毎年9月の例大祭には、多くのお神輿が出て賑やかに戸越神社への巡幸が行われる。
江戸時代中期、戸越生まれの廻船問屋主であった山路治郎兵衛勝孝は、地元の振興につながる作物栽培を試みていた。薩摩藩邸から得た孟宗竹を試したところ、それが戸越の土地にあった。特に明治、大正期には戸越周辺の筍は名産となり、広大な竹林が広がっていたという。
そんなのどかな農作地帯は、1923年9月1日の関東大震災を境に急激に変化することになる。
相模湾を震源とするマグニチュード推定7.9の巨大地震は、当時の街区であった東京市(図3)に甚大な被害を引き起こした。死亡・行方不明者の数は10万人を超え、それを上回る人数が縁故を頼って東京市外に長期避難・移住をよぎなくされた。記録によると、震災前の東京市の人口は236万5300人だったが、震災2か月後には152万7277人と約70万人も減少している。
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荏原郡戸越にも多くの罹災者が移住してきた。昭和7年刊行の荏原町誌によると、大正10年荏原町(戸越、小山、中延、下蛇窪、上蛇窪の5村)の戸数は2812、人口は1万1248人だったが、昭和7年には戸数は3万2939、人工は13万0959人と12倍に膨れ上がっている。
元々中原街道沿いに位置していることもあり、人口の急増とともに商売を営む人がさらに増えてきた。今でも戸越銀座商店街の老舗店のいくつかは、その開業を関東大震災による移住に遡ることができる。
戸越銀座の名称は、関東大震災と関係がある。当時、銀座には煉瓦造りの建物が多く並び道路も煉瓦舗装であったが、震災でこれらは大きな被害を受けた。復旧の際に大量の瓦礫が出て、戸越の人々は町の大通りに煉瓦を敷き詰めることを思いついたのである。
水はけが悪いのは、戸越の独特な地形による。東西を貫通する通りは、西から東に向けて徐々に標高が低くなっていき、またその南側・北側は両面とも坂で、通りは谷底である。これは実際に戸越銀座商店街を歩いてみるとよくわかる。この地形は地質学的には、目黒川の支流が流れていた跡に当たる。それゆえ戸越は、雨が降るとすぐに水が溜まってしまう土地柄だったのである。
戸越の人々は、銀座との間を何度も往復し、大八車を使って煉瓦を運んだ。それを路面改善等に用いて、銀座のように発展することを願って戸越銀座と名をもらった。その名前を冠した戸越銀座駅が、昭和2年池上電気鉄道(現、東急池上線)によって開業。実は、銀座と名の付く駅は戸越銀座駅が日本初であり、昭和9年の東京地下鉄道(現、東京メトロ)銀座駅の開業より7年早いのである。
電車の開業とともに商店街も発展を遂げていくが、太平洋戦争が始まり商業は停滞する。また配給制度が始まると共に売るものがなくなり、廃業する店も増えていった。さらに終戦前年に、軍部から戸越の隣にある武蔵小山商店街の店主たちに満蒙開拓団となる計画が打診され、戸越を含む近隣の町から1000人近い家族が渡満した。彼らの多くはソ連軍の侵攻により、多くが自決・虐殺され、二度と母国の地を踏むことはなかった。
そして東京は、昭和20年3月から5月にかけて米軍から大規模な空襲を受けて灰燼と化す。昭和17年戸越生まれの知り合いのおじいちゃんの話によると、敗戦後の風景がぼんやりと記憶の中にあり、戸越から五反田周辺までは、建物と思えるものは何もなかったという。この時に戸越の煉瓦舗装も木端微塵となった。
戦後の商店街は薄汚れたバラックが立ち並び商売が行われていたが、徐々に復興が進み昭和30年代に戸越銀座商店街の路面は、モータリゼーションの波を受けてより耐久性のあるコンクリート舗装となった。関東大震災の復興に使われた煉瓦は、小さな記憶遺産として戸越銀座駅からすぐの花壇のわきに、説明版とともに静かに展示されている。
日本全体で復興が進む昭和30年代の戸越銀座は幸せだった。お客さんとの間には日々のお買い物を基盤とする強い結びつきがあり、商店街は様々な催しを行った。七夕祭り、ちびっこ祭り等どれもが盛況で、今も残る白黒の写真がそれを物語っている。
すぐお隣の武蔵小山商店街は、昭和31年に全長470メートルのアーケードを完成させた。当時は東洋一のアーケードと称され、前述の昭和17年生まれのおじいちゃん曰く、武蔵小山に遊びに行くときは子供心にちょっと緊張したという。戸越銀座は気軽な青空商店街、武蔵小山はおしゃれなアーケード商店街だったようだ。
ところが商店街に再度暗雲が立ち込める。それは地震でも空襲でもなく、生活スタイルの変化に伴う顧客の嗜好変化だった。
1973年、朝7時から夜11時まで開店するというセブンイレブンなる小売店が出現。また同時期にスーパーや郊外型大型店舗も増加の一途をたどり、モータリゼーション化もあり多くの客足はこれらの店舗に向くこととなった。
20代後半の女性の就業率は高学歴化・晩婚化によって、1975年に42.6%だったのが、2011年には77.2%まで上昇し、パートタイムではなくフルタイム勤務の人が増え、買い物時間帯は夜半または週末に偏るようになった。こういう社会変化に対応した新しい店舗に、価格や品ぞろえ、営業時間といった利便性の面で個人商店が太刀打ちできないのは明らかであり、商店街には閑古鳥が鳴くようになった。
商店街の理事会では、役員たちが知恵を絞って打開案を考え、協議し、試行錯誤を行っていた。そして、戸越銀座が再起する起爆剤となったのが、とごしぎんざブランド品の創出である。
商店街でしか買えない商品、商店街で買いたくなる商品を!ということで、各店主に掛け合い、とごしぎんざの純米酒、サブレ、ソース、黒ゴマ蒲鉾等が新しく商品化され、品川区の産業振興課の助成金を得て、日本経済新聞にプレスリリースが行われた。
新聞報道の力は偉大で、遠方からの来訪者も増加し商品は飛ぶように売れた。また、他の商店街からの視察や、他メディアからの取材依頼が舞い込むようになり、商店街事務局では問い合わせ先やHP等のプラットホームを整えた。またその後、シャッター店舗を来客者へのお休み処へ改装したり、ペットボトルをリサイクルするとお買い物ポイントがもらえるという事業も好評を得て、商店街には地元や遠方の人も多く来るようになった。
これら一連の成功談は、1999年以降にかけてであり、バブル経済(1986年12月〜1991年2月)が崩壊してから数年後に当たる。
私自身はバブル期にはまだ学生だったため、実感としては希薄であるが、確かにバブル当時は地元にある伝統的なものを軽視し、新しく大がかりで派手なものを希求するという社会風潮があった。しかしバブル崩壊後は人々の興味ベクトルに変化が起こり、近場にある古き良きものが見直されるようになった。一種のレトロブームと言えるかもしれない。ちょうどこの時期に、商店街理事会と各店主が創意工夫と誠意を込めて行った企画の数々は、消費者の心をしっかりとつかんだのである。
そんな折、前述した犬山秋彦氏が事務局に連絡をしてきて、商店街のキャラクター作りを提案。人よりも猫が悠々と闊歩している寂しい商店街から、猫の手も借りたい商店街へ!というコンセプトで銀ちゃんが生まれた。最初は、交通規制の看板やチラシに小さく描かれる程度であったが、徐々に知名度を上げて、デビューから数年後商店街の公認キャラクターとして認められた。
その後は、大感謝祭セールのポスター、街バルのチケット、カレンダー、イベント開催時の景品としてのタオルやぬいぐるみ等、戸越銀座商店街と関連のあるものにはほぼ全てに登場するようになった。商店街の東端、中央、西端には、手に開運ボールを持った銀ちゃん人形が置かれ、商店街を訪れる人たちを出迎えている。今や銀ちゃんは戸越銀座を語るに欠かせない重要なアイコンである
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そして、2004年から2016年にかけて、品川モデル事業として戸越銀座商店街の電線類地中化工事が行われた。晴れた日には抜けるような青空となる、東西に伸びる一本の商店街は、お散歩していて本当に気持ちがいい。
私が戸越銀座の近くに住み始めたのはたかだか6年前で、その頃には戸越銀座商店街はアド街で取り上げられるなど、既にとても有名だった。その商店街の再起に携わった多くの人々の苦労と情熱は、本を読んでしばし想像することしかできないが、家の近くの商店がとても元気で多くの人々に愛されているということをこの上なく幸せに思う。
シナモロールのシナモン
次に品川区内をお散歩していてよく見かけるキャラクターといえば、サンリオのキャラクター、シナモンではないだろうか。シナモンは、2017年にしながわ観光大使として就任した。「しな(シナ)」つながりである。
品川は、商店街も多くとても住みやすいところであるが、これが名物!といったものに欠けるといわれる。それ故、区を代表するキャラクターを選び出すのはなかなか難しかったのではないだろうか。銀ちゃんや他の商店街のキャラクターのどれかを採用するわけにはいかないし、品川水族館や大井競馬場があるからといって、いるかやお馬さんを採用しても偏りができてしまう。
そこで、意表をついてシナモンの登場となった。
さすが、サンリオを代表する人気キャラクター、すぐに子供たちをはじめ多くの人の心をつかみ、区主催のイベントに着ぐるみで登場したり、しながわグッズに描かれたりするようになった。驚いたのは、最近区内のマンホールの絵柄にもなっていることである。
さてサンリオに対するシナモンの利用料は、一体いくらだったのだろうか? もしくはサンリオ本社が品川区大崎にあるご縁から利用料フリーだったのだろうか、といったことがちょっと気になる今日この頃である。
ヤタタマ、シナカモン、ビーチュウ
この3人は、品川区で行われる東京オリンピック・パラリンピック競技であるビーチバレー、ホッケー、ブラインドサッカーの応援キャラクターである。
この3人は、区民公募によって2017年1月にデザインが決定し、同年9月9日の1000日前イベントでデビュー。その後、区で行われるプレオリンピック・パラリンピックイベントに登場するようになった。
私とかずちゃんも、これらのイベントへと足を運び、デモンストレーションを見たり、様々な競技体験をすることができた。見るとやるでは、全く異なる。ウィールチェアーバスケットは、スポーツ車いすの機動性が高くてびっくり。しかし、走ってジャンプするということができないので、よほどの腕力がない限りシュートが入らない。
ブラインドサッカーは、見えないという感覚がとても怖い。いくらボールからカラカラ音がなるとはいえ、プレイヤーの人はよく目隠しの状態で走り回るものだと感心する。
かずちゃんは、ほんもののホッケーのスティックを持って玉を転がしてみたり、車いす卓球ではピンポン玉が上手く返せず悪戦苦闘。
また体験はしなかったが、ウィルチェアーラグビーのデモンストレーションを見た。スポーツ用車いすに乗りながら、これでもかという位ガンガンとぶつかり合う。かずちゃんは「怖い」とママにしがみつき、私でも体が痛くなってくる感じである。プロ選手の車いすは既に傷だらけで、聞いてみると、「この車いすはチタン製だったり特殊なんで50〜100万ぐらいしますよ。でもすぐボロボロになるんで数年に一度は買い換えます。」とのこと。なんとも不思議なスポーツである。
シナカモン、ビーチュウ、ヤタタマの3人は、品川の観光にも一役買っている。2019年夏シナモンと一緒の絵柄のバッチが区内で配布された。このバッチを身に着けて、品川水族館や品川歴史観を訪れると限定グッズがもらえるのである。
各スポーツイベントへの参加やシナモンとのコラボなどなかなか忙しい3人であるが、実はかわいそうな弱点がある。
ある屋内イベントでの出来事であった。会場ホールでの飲食は禁止だったので、私は「お腹がすいた!」を連発するかずちゃんを連れて建物の2階に行き、廊下でパンを食べさせていた。すると控室と書かれた部屋から、ビーチュウ、シナカモン、ヤタタマが出てきた。かずちゃんは「シナカモン!」と喜んでかけていったが、3人は手を振りつつも、エレベーターホールから動かない。するとアテンドさんが一言。「この子たちは、階段が降りれないんですよ。」
そう聞いて、この3人はバルーン型ではないだろうかと思った。バルーン型とは、中にある風船を膨らませるタイプの新しい着ぐるみで、重量が軽いという利点がある。しかしその構造上、動きには制約があり3人は足を上げるという動作ができないらしい。
オリンピック・パラリンピック競技のキャラクターなのに、階段の昇降ができない。でも3人は、両手をパタパタさせたり、手を振ったり、膝の屈伸を繰り返したりして、かわいさをアピールしている。こんな動きづらい着ぐるみを着つつも、子供たちと元気に戯れ常にサービス精神を忘れない、中に入っているスーツアクターの人たちには本当に感謝である。
2020の東京オリンピック・パラリンピックでは、公式キャラクターであるソメイティ、ミライトワをはじめ、多くのキャラクターが活躍するだろう。この大イベントの成功を願いつつ、子年における皆様のご多幸を心からお祈り申し上げます。
参考文献
私がくまモンの上司です ゆるキャラを営業部長に抜擢した「皿を割れ」精神、蒲島郁夫、祥伝社
幸せな着ぐるみ工場 あたたかいキャラクターを生み続ける女子力の現場、かのうひろみ、日本経済新聞出版社
ゆるキャラグランプリ公式ランキングBOOK 2012-2013、みうらじゅん/監修、扶桑社
ゆるキャラ論 ゆるくない「ゆるキャラ」の実態、犬山秋彦・杉元政光、ボイジャー
全日本ゆるキャラ公式ガイドブック、みうらじゅん、扶桑社
キャラクター・パワー ゆるキャラから国家ブランディングまで 青木貞茂 NHK出版新書
街の灯りふたたび 戸越銀座商店街物語 亀井哲郎 品川区商店街連合会
研究紀要『災害復興研究』第 4 号 関東大震災における避難者の動向 ─「震災死亡者調査票」の分析を通して 北原糸子
戸越の地名、大石敏郎、戸越八幡神社
荏原町誌 井上謙治 昭和7年刊行
東京凸凹地形散歩 今尾恵介 平凡社新書